;歴史・東日本共同体

2019年2月20日 (水)

日本は紀元前から文字を?

弥生時代中期中ごろ(紀元前100年ごろ)の石製すずりの未製品などが、福岡・佐賀両県の三つの遺跡で出土していたことがわかった。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が19日、明らかにした。これまでの確認例を100年以上さかのぼり、国内最古という。製作時の工具も判明し、倭(わ)人が自らすずりを作り広範囲で文字を使っていた可能性が高まった。(朝日新聞デジタル、2/20

上の記事で気になるのが「広範囲で」の4文字だ。3つの出土遺跡の間隔は100キロと離れていない。すずりの消費地は、それらの中心に位置する昔の伊都国や奴国と見るべきだろう。弥生時代、東国に普及した銅鐸が、奴国でも鋳造されていたという遺跡が見つかっているが、広く使われていたとするためには、同時代に東国でも生産され、または使用された痕跡がなくてはならない。すずりの場合、原料や製造技術からみても生産地を集中しなければならない要素がない。

墨書がどうしても必要なのは外交文書である。古くは数などをひもで表すことを知っており、より複雑な意思伝達は口述に頼るしかなかっただろう。日本の外交記録は次で知られる。

◇『前漢書』(西暦紀元前後)

楽浪海中に倭人あり、分かたれて百余国となり、歳時を以て来たり献じ見ゆ。

◇『後漢書』(西暦五七年)

倭奴国、貢を奉じて朝貢す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝、賜うに印綬を以てす。

◇『後漢書』(西暦107年)

倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、願いて見えんことを請う。

 この先は、魏志倭人伝の女王(卑弥呼)遣使(238年)となるが、その前107年は、「倭国王・帥升」ではなく「倭国、王帥升」と読み、中国人の王さんが文書を持って使いをしたと見る(拙著『周辺国に向き合う日本人の歴史』)。

卑弥呼の時代になっても、「一大率」が置かれたと倭人伝が書くように、外交はもっぱら伊都国の専管事項であったようだ。交渉窓口が中国の出先・朝鮮の楽浪郡経由であるのと同様、倭国も伊都国にワンクッション置いて意思疎通の便をはかったに違いない。これは後世、対馬の宗家が日本・朝鮮の仲立ちをしていたことに似ており、意思伝達や約束事は公文書化しておくルールもあっただろう。

伊都国では、他国より前から墨硯は必需品で、自給する必要があったに違いない。他の地域から同様な発掘物が出れば、その時期によって日本の文化史が大きく進展するはずだ。

 

 

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2019年1月15日 (火)

創氏改名

日本で軍国主義が台頭し、中国侵略から太平洋戦争へと向かう戦時体制下にあって創氏改名、強制連行、そして慰安婦としての戦地への動員など植民地朝鮮の人びとが被った心理的・肉体的犠牲ははなはだしかった。

文京洙氏は『新・韓国現代史』岩波新書、にこう書いた後、

創氏改名は、表向きは、「強制するものではない」とされた。だが、氏の創設は「内鮮一体」として語られた天皇の「大御心」によるものであり、これを拒否するものは「非国民」であるとれて有形無形のさまざまな圧力が朝鮮人に加えられた。

とある。これには、同僚など日本人学者の書を引用したという被害者本人の証言が数件あるというだけで、「これが歴史である」と断ずる危険性は計り知れない。今回は創氏改名について考える。

そういった問題が起きたころ、塾頭は小学生で同じクラスに金君・李君・張君・朴君がいた。その彼らが姓名を変えたとか変えるかも知れないなどという話は一度も聞いたことがない。朝鮮人部落に住んでいたT君やM君も朝鮮人といわれていたが、そんな話が起きる前から同じ日本の姓で通しており誰も不思議に思わなかった。

その後戦時疎開で新潟県に移ったか近くに加茂市があり、もとは「京都」という人が多い。そこの出身で栢森さんという知人がおり、「栢」のいわれは古朝鮮の伽耶(かや)国から来ており代々貴族であったといっていた。

スポーツ界に多い錦織さん、金田さん、張本さんなど、姓氏改名にいやいや応じた人たちだったとは思えない。塾頭は、前掲書にあるそういった状況証拠を1件も知らないのだ。急がばまわれであってほしい。

 

 

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2018年4月29日 (日)

日・朝間の序列争い(遣唐使)

『善隣国宝記』読み下し文=集英社、()は塾頭注

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同(孝謙天皇天平勝宝)六年(754)

正月、遣唐使大伴宿禰古麻呂唐国より至る。奏して曰く。大唐天宝十二載癸卯(前年)、百官諸蕃朝賀す。天子(玄宗皇帝)、蓬莱宮含元殿に於て朝を受く。是の日、我れを以て西畔(班)第二、吐蕃(チベット)の下に次(ついで)し、新羅(朝鮮=統一新羅)使を以て東畔第一、大食国(東カリフ帝国=大イスラム国)の上に次す。

古麻呂論じて曰く、古より今に至るまで、新羅の日本国に朝貢すること久し。而るに今東畔の上に列し、我れ反りて其の下に在り。義得べからず、と。

時に将軍呉懐実、古麻呂の肯ぜざるの色を見知し、即ち新羅を引き、西畔第二、吐蕃の下に次し、日本使を以て、東畔第一、大食国の上に次ず、と。

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