;歴史・東日本共同体

2019年6月 4日 (火)

日韓関係のウソ摘発

 安倍外交は、日米の大手マスコミからは、トランプ大統領のはちゃめちゃぶりと合わせ、追従・おべっか外交と揶揄され実質中身が何もないという、低い評価を受けている。

 安倍首相の訪問国・地域の数の多さは破格だ。第2次政権以降79に上るが、それがどう国民生活に結びつくのか、取り上げるほどの効果は見えてこない。

 にも関わらず、「よくやっている」という評価に結びついているようだ。それが、内閣支持率を着実に伸ばしつづけ、野党の出る幕をなくしている。

 一番近い国、韓国との関係など、1ミリも動いていないし、改善の兆しも見えてこない。その他の国との友好促進に励むのは、「お仲間」を増やしたい一心からなのかと邪推したくもなる。

 室町幕府以前の最古の外交資料集には、『善隣国宝記』という題がついている。朝鮮・中国との関係記録が主な内容だが、隣国との関係を国宝に比すという位置づけをしている。

 今の外交方針が間違っているとは言わないが、日韓関係の歴史認識が史実を軽視または歪曲した主張が幅を利かし、そのうちそれが「歴史」として定説化するするおそれがでてきた。

NEWSポストセブン」を見て知ったのだが、『韓国「反日フェイク」の病理学』の著書がある韓国人ノンフィクションライターの崔碩栄氏は、そうしたイメージとは正反対の「証言」が残されているということを示した。

 韓国で2001年に出版された『私の経験した解放と分断』(趙文紀・著 韓国精神文化研究院、図書出版先人)には、次のようなやり取りが収録されている。

(インタビュアー)この話からお願いします、1942年度でしたか? 徴用で行かれたんですよね?

──徴用ではないです。ほとんどの記録が徴用でしょっぴかれたかのように書かれているものが多いですけど、徴用ではなく、徴用という話がなぜ出たかというと、行くときには軍需工場に行ったんです。募集があって行ったんですよ。会社から(募集が)あって、この国の就業紹介所で。ソウルで募集がありました。応募したら合格しました。(倍率は)12対1だったか、ものすごく厳しかったよ。

実は、私は資格という面で見たら、そこに応募する資格もなかったんですよ。年齢もそうだし、学歴もそうだし、上手く誤魔化して、その募集官という人の前で芝居をして何とか入れてもらったんですが、そこに行って、現地で行った翌年に戦争が激しくなって、軍需工場だから、そこの全従業員を、日本の人だろうが韓国人だろうが、そこはその時、韓国人が何千人もいました。

みんなが現員徴用(一般募集により配置され働いていた人の身分だけを徴用者に転換する制度)だといって、それで現地で働いている、その状態のまま徴用ということになってしまったんです。徴用でしょっぴかれたのではなく、従業員たちは、日本が定めた法によって、まあ、身分が一日にして徴用者に変わってしまったということです。記録上、それで徴用でしょっぴかれたみたいになっているんだよ

 別の例では、住友炭鉱で働きだして五年経ったころ、日本が戦争に負けた。「戦争が早く終わったんで、本当は悔しかった。住友が大事にしてくれたから」という証言もある。 

 これらの老人の証言によると、徴用が始まる前に学力や年齢などを偽ってまで労働者の募集に応募し、高い競争率を乗り越えて日本へ行き、仕事をしてきたのだという。また、同誌には次のような引用もある。

日韓両国の教育とメディアが伝える朝鮮人労働者の姿は飢えと重労働に苦しむ奴隷そのものだ。しかし、朝鮮人労働者の中には大金を貯めて帰国した人もいたし、無一文で渡日し工場労働者を経て会社を設立し社長の座まで上り詰めた成功者も、日本での生活に満足して日本に残った人もいた。ただ、残念なことにこのような話は過去の記録と、ほとんど知られていない個人史の記録でしか出会うことができない。

このような偏った記憶は、常に「被害性」を強調しながら歴史を語る韓国側にも責任があるが、朝鮮人労働者を常に「弱者」そして「同情の対象」としてしか語らない日本のメディア、研究者たちにも一部の責任はあると思う。

私が見つけた資料と確認した記録を見る限り、私の先祖たちはそんなに弱い人たちではなかった。彼らは自分の権利と利益を守るため抗議する時は徹底的に抗議をし、上司や監督と揉める時も怯むことはなかった。殴られたら殴り返すくらいの根性もあった。何より経済的な利益に敏感で、少しでも賃金と待遇がいい職場を探して転職や引越しをし、時には脱走も辞さなかった。日韓の教育とメディアが表現する朝鮮人の姿、つまり給料も貰えず、飢えや暴行に苦しみながらも黙っているような臆病で、無気力な人ではなかったのだ。

 こういった証言が韓国内で出ていることに、塾頭はやや安心した。塾頭の体験した小学生時代の常識と合うのである。

 もう一つ、「韓国側に、朝鮮人労働者を常に『弱者』そして『同情の対象』としてしか語らない日本のメディア、研究者たちにも一部の責任」という指摘がされたことである。

 戦争を知らない世代のための証言者が減る一方である。同時に、日韓関係に関する正しい歴史認識が、消滅の危機に瀕していることを韓国側から喝破してもらった。

 同感であるとともに敬意を表したい。日本のメディア・学会が無関心であることに憤りを感ずると共に、戦後の歴史学をリードした進歩的文化人や学者の主張が、真実を無視したプロパガンダに走った責任が、いまだに清算されていないことに目を向けなければならない。

 塾頭は阪神工業地帯に住んでいたが、近所にほとんど朝鮮人が住んでいる長屋があった。農作業をする老人、大手工場勤務の夫、川にで棒でたたく朝鮮式の洗濯をする主婦、そして学友には、強制されたはずの姓氏改名ではなく、金君・李君・朴君達とも机を並べた。

 そんな家族のいる朝鮮人たちが、強引に拉致されて来たはずがない。学校では、すべて天皇陛下の赤子、差別は絶対に許されなかった。いじめ?、喧嘩もあったが強いのは朝鮮人の方。習字はいつも張り出される達筆の子もいた。

 また戦後、韓国太田の小学校校長だった日本人の子が、引き上げてきて同級生になったが、向こうの様子を聞くと、内地と特に変わったことはないと言っていた。

 徴用工も従軍慰安婦もそうだが、特定個人の証言だけが独り歩きし、あたかもそれが全体で、歴史であるかのような扱われ方が定着するのは、歴史への冒涜になる。今、手を付けないととり返しの付かないことになる。

 

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2019年4月 9日 (火)

朝鮮独立の機会

 4回前の4月5日付で「日韓関係の歴史市認識」を書いた。その中で外務大臣陸奥宗光が、日清戦争勝利の後、朝鮮の他国依存や容喙を排し、健全で統一された独立国となることを期待していることが、わが国にとって最大の目標であることを、彼が残した記録『蹇蹇録』を引用して説明した。

 これと似たようなことが、日本敗戦後の朝鮮半島をどうするかについて、当時のアメリカ・国務長官バーンズの考えが記録に残っている。(アーネスト・メイ・遠藤栄一訳『歴史の教訓 アメリカ外交はどう作られたか』岩波現代文庫、所載)やや長いが次に引用する。

 バーンズ長官は、スターリンがアジアよりヨーロッパに興味を持ち、しかもアジア問題を英仏両国を除外し米ソ二国間だけで討議できると考えていた。そのため彼は、一九四五年十二月にモスクワ外相会議を開き、その冒頭で、極東に関する取り決めを提案した。

 バーンズは、もしこの提案がうまく合意されれば、それは、他の地域でのもっと困難な問題に関する合意を作りだすきっかけになると考えた。

 そこで彼は、ソ連側に対して、中国で進められているアメリカの[国共]調停工作を支持し、日本におけるマッカーサーの権限を承認するよう求めた。しかもその見返りとしてバーンズは、マッカーサーに勧告を行う委員会を設置し、それにソ連も代表を送るよう提案し、その米ソ合同の委員会の手によって、全朝鮮臨時政府を発足させ、五年以内に朝鮮の完全独立を図る計画を立てるよう提案したのである。

 ソ連は、このバーンズの条件を、字句に若干の変更を加えるでけで受諾した。バーンズは、主にこのソ連側の受諾を理由に、モスクワ会議が成功したと思いながら帰国した。(改行は塾頭による)

 朝鮮は、強国による戦後処理計画の中で出てきた二度にわたる独立支援計画を、手中にすることができなかった。その原因を他国のせいにすることは簡単だ。しかし、朝鮮民族にとって不幸な環境があったことに加え、反省すべき点も多々あったということが理解されなくてはならない。

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2019年4月 5日 (金)

日韓関係の歴史認識

 「寄る岸辺もない」という昨今の日韓関係の中で、お互いに「歴史認識」をいう。その声は韓国の方が高いが、中味を比べると韓国の方が低レベルであることはいうまでもない。

 徴用工判決理由の骨は、ずーっとさかのぼって、日韓併合の「被害者意識」に行きつく。徴用工と日韓併合は関係ない。

 日本にも、人種差別の加害者意識不足をいいたてる人がいる。中には、豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮侵略や、吉田松陰(処刑前に撤回したが)、西郷隆盛らの征韓論などをあげ、日韓併合の野望にまで結びつけようとする。

 それは後付けの感情論であって、歴史ではなく歴史認識とするのも間違っている。日韓併合の口火となったのが、日清戦争の日本勝利のようにも言われるが、これも歴史に反する。当時の外務大臣・陸奥宗光の『蹇蹇録』で見ておこう。

 (前略・段落、塾頭)明治二十七年7月二十三日事変後の朝鮮は、あたかも敗屋破窓の人家が疾風大雨に遇うたる後、天気俄に快晴したるも家中なお狼藉混雑を極むるが如く、今後如何にその国の独立を確立し内政改革を挙行すべきか、朦昧無識の朝鮮政府は勿論何らの定見なく、我が政府がこれを誘掖(ゆうえき)扶植せんと欲するにも殆ど手を着くる所を知らざる形勢なり。

 しかれども我が政府は、かつて朝鮮の独立とその内政の改革とを以て日清交戦の原因なりとし、これを世界に表白したり。

 わが政府が第一着に施行すべき急務は先ず朝鮮政府をして内外に向かい確かに独立国たるの実を表彰せしめ、また我が国に対し、その内政改革の事業を逐次に挙行すべきことを明約せしめるとにあり。(後略)

 その後に、大鳥公使からどのような国を目指すのがいいか、内訓を求められたことに対し、4項目を閣議にかけ、その内容を伝えいてている。独立国として他国の容喙や圧力を受けないようにするなどをあげ、最後の項目に、将来、ベルギー、スイスのように各強国担保の中立国となすことも一策、とするものである。

 そこには、日本に併合する、などの案は一切ない。時の総理大臣は伊藤博文で、後の朝鮮統監となるが、日露戦争後初志貫徹と逆行するような混乱の中、ハルビン駅頭で安重根の銃弾を受けて伊藤は暗殺される。

 その翌年の1910年、陸軍出身の桂太郎内閣のもとで併合条約が調印された。歴史に若しもは禁物だが、伊藤が生きていればまた違った歴史もあっただろう。

 

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2019年2月20日 (水)

日本は紀元前から文字を?

弥生時代中期中ごろ(紀元前100年ごろ)の石製すずりの未製品などが、福岡・佐賀両県の三つの遺跡で出土していたことがわかった。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が19日、明らかにした。これまでの確認例を100年以上さかのぼり、国内最古という。製作時の工具も判明し、倭(わ)人が自らすずりを作り広範囲で文字を使っていた可能性が高まった。(朝日新聞デジタル、2/20

上の記事で気になるのが「広範囲で」の4文字だ。3つの出土遺跡の間隔は100キロと離れていない。すずりの消費地は、それらの中心に位置する昔の伊都国や奴国と見るべきだろう。弥生時代、東国に普及した銅鐸が、奴国でも鋳造されていたという遺跡が見つかっているが、広く使われていたとするためには、同時代に東国でも生産され、または使用された痕跡がなくてはならない。すずりの場合、原料や製造技術からみても生産地を集中しなければならない要素がない。

墨書がどうしても必要なのは外交文書である。古くは数などをひもで表すことを知っており、より複雑な意思伝達は口述に頼るしかなかっただろう。日本の外交記録は次で知られる。

◇『前漢書』(西暦紀元前後)

楽浪海中に倭人あり、分かたれて百余国となり、歳時を以て来たり献じ見ゆ。

◇『後漢書』(西暦五七年)

倭奴国、貢を奉じて朝貢す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝、賜うに印綬を以てす。

◇『後漢書』(西暦107年)

倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、願いて見えんことを請う。

 この先は、魏志倭人伝の女王(卑弥呼)遣使(238年)となるが、その前107年は、「倭国王・帥升」ではなく「倭国、王帥升」と読み、中国人の王さんが文書を持って使いをしたと見る(拙著『周辺国に向き合う日本人の歴史』)。

卑弥呼の時代になっても、「一大率」が置かれたと倭人伝が書くように、外交はもっぱら伊都国の専管事項であったようだ。交渉窓口が中国の出先・朝鮮の楽浪郡経由であるのと同様、倭国も伊都国にワンクッション置いて意思疎通の便をはかったに違いない。これは後世、対馬の宗家が日本・朝鮮の仲立ちをしていたことに似ており、意思伝達や約束事は公文書化しておくルールもあっただろう。

伊都国では、他国より前から墨硯は必需品で、自給する必要があったに違いない。他の地域から同様な発掘物が出れば、その時期によって日本の文化史が大きく進展するはずだ。

 

 

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2019年1月15日 (火)

創氏改名

日本で軍国主義が台頭し、中国侵略から太平洋戦争へと向かう戦時体制下にあって創氏改名、強制連行、そして慰安婦としての戦地への動員など植民地朝鮮の人びとが被った心理的・肉体的犠牲ははなはだしかった。

文京洙氏は『新・韓国現代史』岩波新書、にこう書いた後、

創氏改名は、表向きは、「強制するものではない」とされた。だが、氏の創設は「内鮮一体」として語られた天皇の「大御心」によるものであり、これを拒否するものは「非国民」であるとれて有形無形のさまざまな圧力が朝鮮人に加えられた。

とある。これには、同僚など日本人学者の書を引用したという被害者本人の証言が数件あるというだけで、「これが歴史である」と断ずる危険性は計り知れない。今回は創氏改名について考える。

そういった問題が起きたころ、塾頭は小学生で同じクラスに金君・李君・張君・朴君がいた。その彼らが姓名を変えたとか変えるかも知れないなどという話は一度も聞いたことがない。朝鮮人部落に住んでいたT君やM君も朝鮮人といわれていたが、そんな話が起きる前から同じ日本の姓で通しており誰も不思議に思わなかった。

その後戦時疎開で新潟県に移ったか近くに加茂市があり、もとは「京都」という人が多い。そこの出身で栢森さんという知人がおり、「栢」のいわれは古朝鮮の伽耶(かや)国から来ており代々貴族であったといっていた。

スポーツ界に多い錦織さん、金田さん、張本さんなど、姓氏改名にいやいや応じた人たちだったとは思えない。塾頭は、前掲書にあるそういった状況証拠を1件も知らないのだ。急がばまわれであってほしい。

 

 

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2018年4月29日 (日)

日・朝間の序列争い(遣唐使)

『善隣国宝記』読み下し文=集英社、()は塾頭注

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同(孝謙天皇天平勝宝)六年(754)

正月、遣唐使大伴宿禰古麻呂唐国より至る。奏して曰く。大唐天宝十二載癸卯(前年)、百官諸蕃朝賀す。天子(玄宗皇帝)、蓬莱宮含元殿に於て朝を受く。是の日、我れを以て西畔(班)第二、吐蕃(チベット)の下に次(ついで)し、新羅(朝鮮=統一新羅)使を以て東畔第一、大食国(東カリフ帝国=大イスラム国)の上に次す。

古麻呂論じて曰く、古より今に至るまで、新羅の日本国に朝貢すること久し。而るに今東畔の上に列し、我れ反りて其の下に在り。義得べからず、と。

時に将軍呉懐実、古麻呂の肯ぜざるの色を見知し、即ち新羅を引き、西畔第二、吐蕃の下に次し、日本使を以て、東畔第一、大食国の上に次ず、と。

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