戦争責任

2008年8月 9日 (土)

庶民の戦争責任9

 ややためらいながら始めたこのシリーズも、一気呵成にやらないと中断しそうで、ついに9回を重ねました。終戦記念日や旧盆休みを前に、そろそろここらでケリをつけたいので、また最初の頃のように「です・ます」調に戻します。

 「思想」という言葉を知ったのはやはり中学に入ってからです。勉強ができて文学が好きで物静かな男などに「彼は思想をもっている」と言う場合は、決まって悪い意味でした。なにしろ特高(特別高等警察)を「思想警察」といったり、「思想犯」があげられたりするわけですから、アンタッチャブルに越したことないよ、という含みがあります。

 母達の井戸端会議にも、そういう「はれ物にさわるような」話題があったようです。警察に1日、2日留置され、嫌疑が晴れても「応召されたら危ない戦地に行かされ、帰ってこれない」なんていう話です。「あいつは思想がない」などというのが、さげすみの意味を持つようになったのは、戦後しばらくたってからです。

 特高ができたのは、親たちが生まれた頃までさかのぼります。社会主義者・幸徳秋水らが明治天皇暗殺に関係ありという嫌疑で暗黒裁判にかけられ、死刑にされた1911年からスパイ養成なども任務に加えて活動をはじめました。

 悪名高い治安維持法は1925年成立で、「国体ヲ変革シ、及ビ私有財産制度ヲ否認セントスル」結社および運動の禁止・処罰に根拠を与えました。「国体ヲ変革シ」というのは、あの人気の高い明治天皇を殺し、怨敵だったロシアにつながるソ連のような国にする、ということで、庶民にとってはコワい話だったのです。

 さらに私有財産制度否認、これは共産主義者そのもののことで、「思想」→「反戦」→「天皇の軍隊否定」→「天皇制否定」→「テロ」→「共産主義者」という連想が庶民にはたらき、手のとどかないところ、手をつっこんではいけないところというという意識が働いていたと思います。

 さて、結論を言いましょう。庶民の戦争責任をいうなら祖父母の時代までさかのぼらなければならなりません。だけど「こうしたから」「こうしなかったから」という理由で、さきの戦争責任を特定の世代に問うことはできません。

 日本の過去の政治の仕組みから見て、庶民が政治、ことに戦争といった高度な統治行為に責任を果たせるような場面はなかったし、そのための情報も与えられていなかったということではないでしょうか。繰り返しになりますが、現在の常識・価値判断で過去の評価をすることはできない、また、それで責任の所在を拡散させてはいけないということです。

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2008年8月 8日 (金)

庶民の戦争責任8

 前回紹介した保阪正康氏の「日本の<文化革命>は、なぜ起きたか?」という著述の中にある、五・一五事件犯人の助命嘆願や国際連盟脱退に拍手を送った「国民」にも責任がある、という結論に戦中を知る者として異を唱えた。

 ちょうどその頃生を受けた私は、純粋培養された軍国主義者になっていたはずである。もちろん人並みの軍国少年であったし、10歳を過ぎた頃には20歳以上の人生を想像したこともなかった。それは、恐怖でありあきらめでもあったが、使命とか、男子の本懐などという教えられた建前を、自ずからの本心としたことは一度もなかった。

 そうすると、日露戦争後に生まれ大正デモクラシーの中で青春を謳歌したわれわれの親クラスが、保阪氏のいう「される方も悪い」というマインドコントロール受けたことになる。もしそうなら子供がその影響を受けないわけがない。私たちは親から聞いた「赤い靴」、「雨降りお月さん」、「歌を忘れたカナリア」などの童謡で育った。

 五・一五事件があったその年の大ヒット曲は「影を慕いて」、その前の年が「酒は涙かため息か」で、決して元気の出てくる歌ではない。その後、庶民に受けた流行歌を調べていただきたい。政府は、歌にまで厳格な文化統制をおこない、もっぱら軍隊向けの「軍歌」と民間向けの「戦時歌謡」に分けて検閲した。

 したがって、戦時歌謡も歌詞が軍国調であふれているのに、メロディーの方は哀調を帯びたものがもっぱら好まれた。ことに終戦が近づく頃には、悲痛・悲鳴に近いような曲さえある。これは、「ヨ・ナ抜き」(邦楽の6音階)なら純国産でよろしい、という検閲方針が裏目にでたという説もあるが、庶民の非戦メンタルがよく現れているのではないか。

 マインドコントロールや「一億一心」の度合いを測る道具はない。ただ言えることは、当時の新聞・雑誌のルポ記事や「国民の声」などを、そのまま信用してはいけない、ということだ。 五・一五事件や満州事変がその後の日本の進路を決める岐路となったことは認めるが、それは私の親の代の国民世論(庶民感情)でスイッチしたものでは決してない。

 軍人が凶悪な犯罪を犯しても見逃されるとか、軍法会議でおしるし程度の軽い刑ですむというのは、ここに始まったわけではない。遠くは閔妃暗殺で中佐以下の全員無罪(明治29年)、関東大震災のどさくさで社会主義者大杉栄夫妻と子供を殺した甘粕大尉の懲役10年(3年で出所)、張作霖爆殺の河本大佐は退役(昭和4年)だけ。

 しかも最後の事件は、「満州某重大事件」と報道されただけで国民には真相すら知らされていなかった。さすが若い昭和天皇が、田中義一首相の「厳重処分」の内奏をほごにしたことを追求した。田中は退陣に追い込まれたが、もうこの時期には軍首脳の意向に天皇も首相も逆らえなかったのだ。

 軍部が民間人を「地方人」と呼んでいたように、一般国民も軍部を力の及ばない別世界になっていたのだ。これは帝国憲法の統帥権にも関係するが、国民世論があって、選挙があって、内閣が変わって国政が動くという現在の判断基準で考えてはならない。「庶民の戦争責任」を言う人はその辺をどう考えているのだろうか。

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2008年8月 7日 (木)

庶民の戦争責任7

 前回は「国民の自省」をいう、評論家・保阪正康氏の論拠について、資料の表面をなぞっただけの勝手読み分析だと批判した。同氏の著書に『昭和史七つの謎』(講談社文庫)というのがある。その第一話が「日本の<文化革命>は、なぜ起きたか?」である。

 項立ては、「五・一五事件の減刑嘆願運動」・「国際連盟脱退と日本人の思考」・「国際連盟脱退と日本人の思考」・「中国の<文化大革命>との類似点」と続き、最後を「なぜ日本人は変調したか」でしめている。保阪氏の著述すべてについて知識はないが「国民の責任」論はここを出発点としているのではないかと思う。

 五・一五事件は、ご承知のように陸海軍将兵が犬養首相を襲い「問答無用」とばかり射殺したテロ事件である。氏は関与した陸軍の軍法会議の模様を、『日の出』という雑誌の昭和八年十一月号付録「五・一五事件の人々と獄中の手記」を次のように引用する。

 「公判前までは(減刑嘆願運動は)愛国団体以外にほとんど見るべきものが無かつたが、公判半頃より陸軍の論告求刑を境として、つひに大衆運動と化した。そして判決の九月十九日までに三十五万七千余通の嘆願書と、奇しくも被告人の人数と同数の十一本の指が公判廷へ運び込まれたのである」

 さらに、若い士官候補生が純情無垢で「赤裸々に吐露する態度を見る時、ただわけもなく涙ぐませるものがあった」という記者の感想をつけ加えている。この裁判の判決が禁固四年という予想外に軽いものだったことから、後の2.26事件を誘発するひとつのきっかけだったという分析は、ほぼ通説になっている。

 しかしテロ行為を国民が容認・支持しているということには結びつかない。指を送りつけたというのは、暴力団が脅迫に使う行為だ。庶民に指をつめるなどという風習はない。この事件の黒幕で組織者は、一人一殺を唱えた井上日召傘下の極右である。前述の資料をあげただけでその点についての分析はない。さらに、同氏は昭和8年3月、国際連盟脱退を宣言して帰国する松岡洋右代表について、次の一例を加えた。

 当時は、新聞各紙(十二紙)が「国際連盟諸国中には、東洋平和の随一の方途を認識しないものがある」との共同宣言を発表し、松岡の行動を讃えた。松岡が横浜に戻ってきたとき、埠頭には二千人余もの人びとが駆けつけ、歓声をあげた。松岡も喜色満面で手を振ってこれに応えている。

 この例は、マスコミの世論誘導と埠頭の二千人をあげているが、それをもって国民世論とするのは無理がある。大部分の国民は国際会議のかけひきなど関心外で、日常の生業に励んでいたはずだ。それから2.26事件、同氏はこれこそ日本の<文化大革命>と位置づけ、以後を国民は「錯覚と陶酔のなかに生きた時代」とする。

 そういった浮き上がった人間はたしかにいた。しかし、国民は(すくなくとも私の回りでは)もっと現実的で冷静で常識的な感覚を失わなっていなかった。同氏は、南京陥落を聞いた国民が虐殺・暴行のという蛮行の事実も知らず旗行列をし、「宮城前や陸軍省、参謀本部前に集まっては『万歳、万歳』と老若男女を問わず叫んでいた。まさに東京・三宅坂が天安門広場と化した」と記す。

 子供である私は、行列にこそ参加しなかったが何かのイベントで「万歳」を叫んだような記憶がある。それは、これで戦争が終わってあらゆる抑圧から解放される、子供なら食べたい菓子が自由に食べられる、という希望からである。決して皇軍が支那を征服したからではない。同氏は、国民の「精神文化を歪める奇妙な運動」を始めた張本人を、陸軍省と文部省の官僚たちとする。そして最後をこうしめくくる。

 思えば、五・一五事件の法廷が出発点であり、ついで国際連盟脱退に拍手を送ったのが誤りだったのである。日本に<文化大革命>は、二度と起こさせてはならないとの昭和前期の教訓を、私たちは忘れるわけにはいかない。感情をコントロールされるのは、されるほうもわるいということを肝に銘じておくべきであろう。

 もう一度強調しておこう。日本の庶民の行動はコントロールされても、感情はそう簡単にコントロールされるものではない。日本の敗戦、占領軍の支配、新憲法や東京裁判の受け入れ、それらが想像された混乱もなく平穏に受け入れられていったのは、庶民が新時代に適応できる冷静な判断力を持ち合わせていたからにほかならない。

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2008年8月 6日 (水)

庶民の戦争責任6

 前5回のシリーズで、基本的には庶民や一兵士に戦争責任、そして加害者意識というものが存在しないという立場で書いた。今回からやや視点・観点を変えるため「です・ます調」を「である調」に変えてみたい。庶民に戦争責任ありとする人は、どういった点をさしてそう判断するのか、またどうあれば責任をとったことになるのかはっきりしないので、はなはだ反論しにくい。

 さらに、私論をのべて見てもそれが100%正しい意見だとい言い切る自信はない。また、責任を認め加害者意識があるから、こうして「反戦塾」を通じて反戦を発信し続けているのではないか、と言われればそうであるとも、ないとも答えようがないのである。

 ただ、戦後生まれまたは戦争を体感したことのない人にどうしても知ってほしいこと、伝えたいことははまだまだ残っている。現今と全く異なる社会の仕組みと、変わらない人情・感覚があるということである。言いかえると、新聞・雑誌・教科書などに現れる表通りと、記録として残されにくい会話や苦情、嘆きの声などの裏通りがあるということである。

 作家で評論家の保阪正康という人がいる。1939年生まれだから、終戦時は5、6歳である。もちろん戦後初の東久邇内閣が「一億総懺悔」を唱えた時の国民のブーイングを感じるにはまだ幼すぎた。読売新聞の『検証・戦争責任Ⅰ』でまとめの講演で、太平洋戦争突入の目的、3年8か月もの継続、それに続いて国民の責任の3項目の問題点をあげ、次のように言う。

 私たち自身の問題というのは、政治指導者、軍事指導者とは別に、私たち国民の側の問題がやはりあるということです。それをきちんと整理しておくことが必要です。(中略)私は、日本に反戦という思想は育たなかったと思います。その育たなかったことがいいとか悪いとかの問題ではなく、現実に私たちの国が反戦を血肉化するというきっかけは持てなかった。それは、とりもなおさず私たち国民の側の問題です。反戦とは、ある特異な言葉を使って政治運動等を結びつけるという意味ではありません。つまり、戦争に反対するということのきちんとした歴史的な理解ですね、それを構築することができなかった。

 誤解を恐れずに言うのですが、日本の昭和二十年(一九四五年)の段階で、まあ一九年の終わりからでもいいですが、戦争は嫌いだという声は確かに多くありました。それを詳細に分析していくと、どうもこれは誤解を生みかねないので多くの方が不愉快に思うかも知れませんが、生理的な嫌悪感、反発だけじゃないか、むしろ生理的な戦争反対という感じじゃないか。さらにいうと、それは歴史的にはエゴイズムを含んでいるのではないか。もつと言うと、想像力に欠けるのではないか。つまり、戦争というメカニズムを理解するような国民的基盤を持っていなかったということです。このことをきちんと冷静に自省する必要があるというのが、国民に突きつけられている三番目の問題だと思います。

 まあ、ことわりごとを言いながら、志に反して命がけで戦った庶民、無念の思いで死んでいった戦死者・戦没者にこれほどひどい侮辱の言葉を投げかけられたものだ。要するに国民がある時期までは好戦的だったという一方的勝手読みがあり、「詳細に分析」というが資料の表面をなぞっただけで、なにもわかっていない。

 「読売新聞にも過ちがあった、戦争責任も感ずる。しかし読者としての国民にも責任があったのだ」という同新聞社の編集方針に導くための道化役発言であるとすれば、決して許せない。それは、一方的に「政治指導者」「軍事指導者」の責任追及を手加減しようとすることにつながっていくからだ。

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2008年7月31日 (木)

庶民の戦争責任5

 ここまで、一兵士や庶民には戦争責任がない、またそれを体験した人でなければ加害者意識もない、などと言ってきました。またそれを、科学的に実証しようと言うのではなく、あくまでも当時の1少年の実感を申し上げたつもりです。

 いただいたコメントの中に「先祖が負うべき責任は」というのがありましたが、父母の時代、祖父母のまでさかのぼり、それらの時代背景についてこれまでも何度か記事にしてきました(カテゴリ「戦争とは」の《歴史編》などに入れています)。

 「戦時においては中国人は敵、だから加害者・被害者の区別はない」というようなことを前回書きました。しかしこれはいささか詭弁であって、「侵略したのは日本、したがって被侵略国民は全部被害者」と言ってもいいわけです。

 殺戮の現場は中国です。その中国から日本は攻撃を受けたことがありません。軍隊が中国大陸にいて荒らし回ったのですから、一方的に責任は日本にあり、すでに戦争が始まっていたわれわれの時代はともかく、庶民といえども加害者でないと言いはきれません。

 それを当時の日本人はどう意識していたかです。両親の世代は物心がついた頃、すでに日本軍が中国国内に常駐していました。日露戦争の結果、ロシアから奪った中国領土内の利権(鉄道など)を守るなどという口実があったのです。

 そういった他国軍の駐留は欧州列強、みんなやっていましたから日本だけではありません。いわゆる植民地競争、帝国主義さかんな時代の名残です。しかし、第二次世界大戦が世界に悲惨な結果をもたらした結果を受けて、世界は軍事力優先、覇権競争を自制する方向に向かいました。

 ところが、日本だけは逆の方向へ行きました。中国に勝ったわけでもないのに、火事場泥棒のような対華21箇条要求などを押しつけました。私はこれが中国侵略の始まりだと解釈しています。その後、関東軍による張作霖暗殺など卑劣・陰険な内政干渉を繰り返し、自作自演の満鉄線爆破で満州事変に至った経緯は詳しく述べません。

 こういった外交上の機微や謀略事件の真相は一切国民に知らされませんでした。その反面、中国における抗日運動や日本人殺害などは伝えられ、「わからずやの中国人」といった蔑視だけが進んだような気がします。そして昭和に入ると治安維持法が猛威をふるい、国軍批判イコール体制(国体)批判、イコール日本国転覆をねらう共産党、といった社会になってしまったのでしょう。

 そうです。暴力装置である日本軍がよその国にいなければ、あるいは早期に引きあげていればこういうことにならなかったのです。その責任は誰が負うかということになると、天皇であり、軍、特に関東軍であり、歴代内閣など国の中枢にいた人間ということになるでしょう。これを庶民にまでひきおろすのは、やっぱりすこし無理があるような気がします。

『永遠平和のために』カント(1795年)

第三条項
 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。

 なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。常備軍が刺激となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。

 そのうえ、人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具としてほかのものの(国家の)手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう。

 だが、国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防衛することは、これと全く別の事柄である。(宇都宮芳明訳・岩波文庫)

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2008年7月29日 (火)

庶民の戦争責任4

 前の2回では、総力戦のもとでは国民が犠牲になることは当然、と考えられていたことと、まず勝つことが一番で、そのためには「なんでもあり」「殺さなければ殺される」ということを言いました。そして、「勝てば官軍」勝った方はあとでどんなことでも合理化・合法化できるのです。

 アメリカの原爆投下も東京大空襲も、戦争だからやられても「しょうがない」という感情を国民は持っていました。原爆という超能力兵器開発の可能性は、日本でも「マッチ箱ひとつで戦艦が沈む」という表現で知られており、日本が早くそれを発明して使えればいいなあ、と思っていたものです。

 その意味では、久間元防衛庁長官の「しょうがない発言」のどこがいけないのか、という気もします。そして、広島の原爆慰霊碑にある「過ちはくりかえしませぬから」という文言が議論になっているようですが、私は、最初から広島の惨禍を繰り返さないよう、日本人が世界に訴え続けるという意味に解釈しています。

 さて、東京裁判についてですが、教科書問題や靖国問題などをめぐってさきの戦争を合理化、正当化しようてする側から「東京裁判史観」などという新語を持ち出して、裁判の不当性を強調する議論が盛んになりました。

 最近は議論が下火になったように思いますが、この裁判は、世界の大きな流れの中で進められた歴史の一こまです。議論は大いに結構で、それにより裁判の実相が深まることはいいことです。しかし確定している史実を否定したり、結果を勝手に書き換えたりはできません。

 本稿の目的からはずれるので議論には立ち入りませんが、もう中学生・高校生になっていた私にはどう映っていたでしょうか。まず東条元首相逮捕の際の自殺未遂です。これは同級生の間でも猛烈なブーイングが起きました。

 「あれはお腹の皮をつまんでそこを撃ったんだ」などという子もいました。ピストル自殺は銃口をこめかみに当てて撃つぐらいは子供でも常識です。まして「死して虜囚の辱めを受けるなかれ」という『戦陣訓』を作った軍の最高責任者です。彼にとって決定的なイメージダウンになりました。

 裁判は淡々として進められ、概略の報道もありました。東条が開戦に至った正当性を、かたくなに主張し続けたとも聞きました。この点、ほかの被告が自己弁護したり、責任回避をする中で、際だっていたことはあとで知りました。

 私は今では東条崇拝者です。天皇の戦争責任追求を回避し、戦後の日本再興を願って他の一切の責任すべて一身に集中させることに全知全能を捧げたのです。それでなければ、あの不可解な自殺未遂のなぞも解けないし、また裁判でも開戦を正当化し、一切反省を示さないことで裁判官の心証を悪くさせることに集中したのでしょう。東条は稀代の擬悪者、これが私の独断です。

 判決の模様は、ラジオで聞きました「……Death by hanging(絞首刑)」という英語は今でも耳に残っています。国内では、堂々と裁判で渡り合った東条を見直したり、各被告に対する不公平を指摘する意見もあるなど、国民の関心は高かったものの、裁判や判決に対する表だった反対や抗議をしたという話は聞いたことがありません。

 この裁判には日本人から見て、戦争の勝者が敗者を裁くという面と、敗戦に至る戦争を指導した責任を問う両面があり、また同時に敵対国に対しての「けじめをつける」という意味があったと思います。

 それを「けじめはついていない、戦争は自衛の戦争、侵略戦争ではない」などといったらどうなるでしょう。中国国民政府の蒋介石総統は、日本からの賠償請求を放棄しました。また、共産党政府の周恩来首相は「日本の人民に戦争の責任はなく、むしろ被害者である」といって国交回復に応じました。連合国と講和条約を結び、国連に加盟できたのも、そういったけじめの積み重ねがあってのことです。

 小泉首相の靖国神社参拝強行は、たとえ真意がそこになかったにしろ国際社会、ことに中国から軍国日本の復活、と警戒されてもやむを得ない愚行だったと思います。それを支持しあおった「庶民」がいたとすればたしかに「戦争責任」ものですが、やはり「だれがそうさせたのか」は問われなければならないでしょう。

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2008年7月28日 (月)

庶民の戦争責任3

 前回、「南京事件」をと予告しましたが、特定の事件ではなく「中国では」という広い意味に変えてください。政府は「支那事変」といって、国際法上の戦争と区別していますが、国内では完全な戦争体制に入っていました。

 毎日のように出征兵士を送る行列があり、駅には武運長久の祈りをこめた千人針を求める留守宅の婦人の姿がありました。中国は明らかな「敵国」になってしまったのです。第一次世界大戦以降、戦争は、政府や軍隊と一般国民を区別しません。その国のすべてを総合した国力の差が勝敗を分けます。

 国民精神総動員、国民皆兵といった政府の宣伝も日増しに熱を帯びてきました。じゅうたん爆撃による都市人口密集地への攻撃、戦車隊などによる殲滅作戦など民間であろうとなかろうと「戦力」になりうるものはすべて抹殺の対象になります。

 陸軍歩兵の場合は悲惨です。目の前の人を殺すのが商売です。相手を殺さなければ自分が殺されます。だから、人をためらわず殺せるように訓練されます。中国の場合、「便衣隊」といって民間人に紛れ込んだ敵兵から攻撃を受けるというようなことが多々あったといいます。

 民間人と言っても敵国人です。攻撃を躊躇して友軍を窮地におとしいれるようなことはできません。南京ではこういった犠牲者もあったでしょう。だからといって南京を占領した日本軍を一切弁護する気はありません。戦争というのは妥協を許さない過酷なものだ、と言いたかっただけです。

 明らかな非戦闘員を虐殺したりレイプしたり略奪行為をすることは、軍律上も許されないことです。多くの日本兵は今の若者よりはるかに道徳観念で秀でていたと思います。陛下の兵士で大和魂のある侍の末裔です。弱い婦女子に暴力をふるうなど最も恥ずべきことだと信じていたはずです。

 明治・大正のころまで、日本軍は軍紀の乱れがないことで世界的に評価されていました。南京事件は、極限状態の中で指揮系統の無責任さや軍紀の乱れを露呈したものでしょう。ベトナムやイラクの米兵の行為を見ても似たようなことは繰りかえされるものだ、と思います。

 さて最初の宿題にもどつて、「兵士に加害者意識がなかったかのか」の問題です。開戦は天皇の大権です。選挙で戦争に反対する候補者に投票(女子には投票権がない)できても、議会にそれを止める能力がなく、内心開戦を避けたかった天皇でさえそれをおさえることができませんでした。

 戦争がはじまってしまえばもう反対できません。負けたら元も子もなくなります。勝った方がいいに決まっているからです。次に兵役は国民の義務ですから拒否する自由はありません。戦地に出て戦う以上相手は敵です。敵に対しては加害者も被害者もありません。対等です。

 南京事件で言われるようなことを目撃したり実行していれば、加害者という意識を持つことになるでしょう。そういったことで、心の傷としてしまっおいたことに重い口を開くという話は、最近よく聞きます。しかし、自責の念は、そこにいたことではありません。
 
 例は違いますが、沖縄で非戦闘員に手榴弾を渡し自殺をうながしたとされた守備隊長は、生き延びたことに自責の念はあったでしょうが、当時なら守備のじゃまになるといって住民を銃殺することさえあり得た中で、最善の措置をとったともいえます。戦争とは、それほど非日常的なものだと考えてください。

 庶民の戦争責任については、そのまた先祖の責任という発想もあると思いますが、機会を見てあとでのべることにします。また、中国以外の東南アジアではアメリカと激戦を繰り返したフィリピンはやや複雑ですが、それ以外のベトナム、マレーシア、インドネシアなどは、敵はそれぞれを植民地としたフランス、イギリス、オランダの軍であり、現地人には中国人と違った接し方をしていました。戦中は現地人との友好風景を盛んに宣伝していたものです。

 植民地解放の戦争だったという意見がありますが、昭和18年5月の御前会議の方針から見て、どうやらあとづけの理屈らしく、自慢にはなりません。ただ、朝鮮人にしろ中国人にしろその他のアジア人にしろ、善良な一兵士や庶民に加害者意識を持て、とか戦争責任を負えというのは到底無理な話です。

 あなたは、イラク戦争の被害者に同盟国の国民として責任を持てとか、加害者意識を持てといわれて、どう答えますか。日本人は、元来残虐で征服欲が強く、道義心もありません。心を入れ替えて反省します、というのでしょうか。それこそ「自虐史観」で、逆の意味で歴史や真実をねじまげ、平和への追求をさまたげる「歴史修正主義」におちいる危険があります。

 次回は東京裁判に行ってみたいと思います。

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2008年7月26日 (土)

庶民の戦争責任2

 私は、満州事変とほぼ同時に生まれました。したがって戦中・戦後の時代を小学校から高校までの間に体験したことになります。従軍経験はないので戦地のことは語れません。しかし学校や家庭や地域で起きていたことや、当時の人々の気持なら話せます。

 まず従軍慰安婦で考えてみましょう。私の通った小学校には朝鮮人の級友がたくさんいました。「うちの父さんな、ようジョロカイに行きよんね」というようなことを話題にします。なにかよからぬ特殊な場所だとは思っていましたが、あとで考えると「ジョロカイ」は「女郎買い」だったようです。

 ご承知のように、当局の監視監督下にある売春施設は合法だったし、性的奴隷状態は建前としてありません。また、そこにいる女性もけっこう気位が高かったようです。こういった風俗が文学の題材になり社会を構成していたことは、朝鮮半島でも同様だったと思います。

 したがって、朝鮮で強引にあるいはだまして少女を連れだせば、これは立派な犯罪です。反面、朝鮮人はこの職業から閉め出す、という措置をとれば差別だと言われかねません。朝鮮人に対する差別は、学校でも「同じ天皇陛下の赤子(せきし)として」(実はこれが問題なのですが)してはならぬことと、厳しく指導されていました。

 問題は、①朝鮮で業者等による不法な募集があった可能性があること、②売春施設を戦地(外国)に設けたこと、③特に前線など異様な環境のもとで人権蹂躙があったこと、などではないでしょうか。②、③は進駐地での強姦事件などを防ぐという口実があったようですが、現地に今でいう厚生労働省の出先などないわけですから、設置・監視・監督・移動などすべて軍がその実務に当たらざるを得なくなり、軍の関与は当然といえましょう。

 戦争が激化した頃、当局の厳しい遊興の監視や客筋の応召などで遊郭が暇になり、そこにいた女性(日本人)が「こんなところで毎日ぼやぼやしていてもしょうがない。私たちだってお国のためになるのなら、志願して戦地の兵隊さんのお相手をしようかしら」といったような話をどこかで見たことがあります。これをウソだと思いますか?。

 私は、これまで従軍慰安婦問題にはできるだけ触れないようにしてきました。以上のような書き方をすると、激論に沸いている時なら、右だ左だ肯定派だ否定派だなどときめつけられ、誤解されかねないからです。次回は南京事件もとりあげてみるつもりですが、いずれも一方的な感情論が先行し、個人の内面的心情にまで踏み込んで議論することには反対です。

 

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2008年7月25日 (金)

庶民の戦争責任1

 以下は、老人党リアルグループ「護憲+」ブログに「夏が来て」と題して掲載され、トラックバックをいただいた記事の一部です。やや長くなりますが前置きとして引用させていただきます。

 私は戦争を知らない世代ですが、私が子どもの頃おとなはみんな戦争を経験していて、戦争中の苦労話をよく聞かされました。

その話はいつも「被害者」として大変な思いをしたことばかりで、自分たちが大陸や南方でそこに暮らす人々へ大変な思いをさせた「加害者」としての思い出を聞くことは(少なくとも私は)ありませんでした。やはり、足を踏まれた方はその痛みを忘れないけれど、踏んだ方は踏んだことさえ気がつかないということもあるでしょう。

それでも、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」に対する、「自虐史観」というコトバを使う人たちの、その事実がなかったか、あるいは小規模だったことにしようとする反応から、軍隊ではなく市民へのひどい行為は「いけないこと」あるいは「誇れないこと」であるという自覚を、この人たちでさえ持っていることがわかります。

東京大空襲や広島、長崎に原爆を落としたB29の搭乗員は、下界で起こった阿鼻叫喚をどれほど意識したでしょうか。「湾岸戦争」以来映像で紹介されているように、TVゲームのような感覚で「命」など存在しない「軍事目標」を単に「攻撃」しただけと思ったのかもしれません。

 言われているのは、戦争指導者でない一兵士のまたは庶民の戦争責任です。こう言った指摘は戦時体験のない護憲陣営の方からもよく出ます。そのだびに、なんともいえない戸惑いを感じるとともに、戦争の「本質」についてお互いの認識に、大きなへただたりというか、すれちがいがあるように思えてなりません。

 戦中の体験を持つ人も多種多様です。例えば石原慎太郎も中曽根康弘も戦時体験を持っていますが、私と考えとは180度違います。ところがごく稀にですが、共感できる発言を聞くことがあるのです。その点、安倍晋三の未熟な危うさ心許なさとは、異質な感じを受けます。

 したがって、上に示されたような疑問を、学者の綿密な資料分析の結果のような形で説明することはできません。ただ、「どうしてこんな戦争になってしまったんだろう」と長年考え続けてきた1個人の感想として、ブログに残しておく義務(大げさですね(^^))はあるのではないかと思います。

 もう一つ挙げておきましょう。7月24日付け毎日新聞(夕刊)で作家の魚住昭と学者の中島岳志が対談し、その中で中島がこう言っています。

 戦後、日本人は自分たちの責任を問わず、「だましたヤツが悪い」と東条英機らを批判した。だまされる側にも責任はあるのではないか。昨年のテレビ番組での納豆騒動も、構造は同じ。戦前から変わらない。

 東条と納豆騒ぎを同じにする、なんと不謹慎で軽薄な発言でしょう。生死をかけ、食うや食わずやでがんばってきた庶民がおっちょこちょいだったと言いたいのでしょうか。学者なら、もっと戦前・戦中・戦後の民衆史やその背景となった政治史を精査してほしいと思います。はっきり答えておきましょう。庶民や一兵士としての日本人のほとんどは、ごく稀な例外をのぞいて、自分に戦争責任があるとか加害者だったと感じたことなどないでしょうと。

 本論に入る前に、もうひとつの疑問を挙げておきます。庶民に仮に戦争責任があり、それを認めるということは、具体的にどういうことを指すのでしょうか。またどうあればいい、どうすべきだということになるのでしょうか。戦後最初の東久邇首相が一億総懺悔を言ったとき、国民から総スカンを食いました。その前まで歴史をまきもどせ、ということでしょうか。

 誰かさんと違って戦後レジームは、日本にとって考え得る最善の道だった、と私は考えます。それをねじ曲げようとする如何なる試みにも私は反対します。ここで、戦時体験のない人とのギャップ(段差)を埋める自信はりません。しかし、終戦記念日までの宿題としてできるだけこれに取り組んでみたいと思います。

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