戦争とは

2017年11月 8日 (水)

「軍法会議」を知ろう

  アメリカ大統領トランプは今日中国に渡った。首脳会談で何が話されるか注目される。しかし、その内容の肝心な部分は公表されないだろう。その留守中、アメリカ国内の不安定さは依然として続いている。

アメリカ南部テキサス州で5日、男が教会で銃を乱射し、1歳半の幼児を含む26人が死亡した事件で、容疑者の男はアメリカ空軍に在籍していた時に妻子への暴行容疑で除隊処分を受けましたが、空軍は犯罪情報を司法当局に伝達していなかったことがわかりました。伝達されていた場合、男は銃を購入することができず、空軍は経緯について調査を始める意向を示しました。(中略)

ケリー容疑者はアメリカ空軍に在籍していた2012年に妻子に暴力を振るったとして軍法会議で有罪となり除隊処分を受けましたが、その後の調べで、空軍はケリー容疑者の犯罪情報を司法当局に伝達していなかったことがわかりました。(NHK11/7)

この中に「軍法会議」という言葉が出てくる。日本にはない制度で知識のない人もすくなくないと思う。さきの総選挙が改憲も争点の一つと言われながら、具体的な案文がないまま自民党を圧勝させてしまった。

安倍首相は憲法9条をそのままにして、自衛隊を書き込む加憲論を突然持ち出した。集団的自衛権を拡大解釈し、ほとんどの憲法学者が違憲と見なす安保法案を強行可決した安倍内閣が、自衛隊を9条に明記することで合法を装うとするずるい手だ。

その前からあった自民党の改憲案は、戦争放棄はするが自衛のための「防衛軍」を持つと明記している。「自衛隊」と「防衛軍」、事実上たいした違いでもないと見えるだろう。装備の面や、最近盛んに行われる米国軍などとの共同訓練や装備の点で、外国からもそう見られても仕方ない。

だがはっきり違う点もある。「軍」と「隊」の違い、英語にすれば同じという人もいるが、消防隊を軍隊という人はいない。早く言えば人殺しを職業とするのが軍隊だ。そのため一般国民と違う法制度を設けた方がいい、その代表例が前述した「軍法会議」である。

軍法会議は裁判であるが、軍内部専用で普通の裁判所とは違う。裁判官も軍人で法律専門家ではなく、判決も一般から見るとおかしなことが多い。旧日本軍人も、一般社会を「娑婆」といつて別世界扱いしてきた。【参考】「ゴーストップ事件

軍法会議の問題点について、ウイキペディア(11/8)にはこう書いてある。

軍という狭い組織の中で行われるため、どうしても「身内同士かばい合い」や「組織防衛」が起こりがちで、外部からの不信を招きやすい(ソンミ村虐殺事件、えひめ丸事故)。果ては占領中の沖縄で1945年、軍法会議の有罪評決をワシントンの本省が破棄し無罪とした事例があった事も確認された。

下士官兵などは厳格に裁かれることが多い一方、将校、特に高級将校に対する判決は寛大であることが多く、軍内部で上層部への反感が生まれること多い(富永恭次など)。

政治的な理由などにより、法や量刑相場にそぐわない恣意的な判決が出ることがある(チャールズ・ジェンキンス)。このような問題点があるため、現在のドイツ連邦共和国のように「軍刑法」のみ定め、「軍法会議」自体は廃止している国もある。

たとえば、戦闘中に怖いからといって逃げ出す兵は、撃ち殺してもいいということがある。仲間を殺しても無罪になるのだ。敵に加わるかも知れないという理由である。民間人でも、敵陣にいれば、便衣兵かも知れない。殺さなければ逆に殺されると判断すれば、殺しても責められることはない。

この、軍独特の制度を手放すことは、志気に関わるといって死守する。そして、軍の横暴さを助長させるもとにもなる。

沖縄の米軍基地では、基地外で米兵が犯罪を起こしても基地に逃げ込めば日本の警察に捜査権が及ばない、というようなことが度々あった。今でも米軍ヘリコプターが民間地に不時着し、火災を起こしても日本側は原因究明することができない。取り調べることも罰することもできないのだ。

これは、安保条約地位協定がそうさせているのだが、一般人にはない権限が「軍」なるが故に付与されているのである。自衛隊ではそうはいかない。一般国民と同じ目線で仕事をしなければならないのだ。国民は、この点をしっかり認識しておかなければならない。

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2017年8月15日 (火)

終戦記念日と人間喪失

今日は終戦記念日。マスコミが最近強調しだしたことは、「戦争の悲惨さ、過酷さを伝える人がだんだん少なくなっている」という問題意識だ。このブログを始めて終戦記念日は12回目に当たるがあまり触れた記憶がない。

「反戦塾」と銘打ち、「だんだん少なくなっている」ひとりに違いないが、ただ、ちょっと違うな、と思うことがある。戦中を生きた者は、当時から戦争の悲惨さ、過酷さはよく知っている。だからといって日頃反戦平和を唱えたわけではない。

もっともそんなことをすれば、ただちに特高が来て監獄入りだが、それはごく例外で、大多数は現在同様、喜怒哀楽を共にしながら日々を過ごしていたのである。徴兵は明治のはじめからある国民男子の義務で、よりよい地位や兵種を望む者は志願兵を選んだ。

もちろん戦争になることに反対する人はいる。しかし大多数は政治や国際情勢に詳しいわけでなく、強硬主戦論を書くと売れる大新聞以外に言論統制をかいくぐる論調を目にすることはできなかった。

とはいえ、家族の戦死は痛ましく身近な戦争体験だ。それをなだめる装置が「現人神・天皇陛下もお参りする靖国神社」である。神ではない首相が記帳し、稲田さんがお参りしてもなんの役にもたたないのである。

民間人が空爆死しても靖国には祀られない。それも、男は兵役前から競って志願し、特攻兵への抵抗をなくすことに役立っている。

だけど、戦争末期になるとそんな戦争の仕掛けや醜い実体が露呈してきた。大本営発表つまり天皇の官僚はウソ八百、軍部が隣組に向けた配給物資をかすめたり学校や会社まで支配する。塾頭が就職した会社の戦中の社長は、佐官級の軍人から軍刀を床に突きながら軍属を提供するよう脅されたという話を聞いた。

軍部の横暴は敗戦時誰でも知っている常識だった。殺し合いをする戦争は相手が敵だけではない。人が人でなくなることを意味する。悲惨を悲惨と思わなくなり精神の平衡感覚も機能しなくなる。

人間関係と心の潤いが失われ、ザラザラした砂で満たされたような感覚になる。つまり戦場では、人があらゆる動植物以下の存在と化してしまう。「悲惨」は自然災害でも「悲惨」だ。人でなくなった自らの心境や、命令への絶対服従にあなたはどこまで耐えられますか。

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2017年8月 4日 (金)

愛国者の行く手

安倍首相やそのお友達は、本当に明治維新以降の「国体」復活を願い、森元首相ではないが「天皇中心の神の国」と信じているのか。その実、逆ではないかと思うことが多々ある。

天皇譲位に関する「お気持ち」を理解していないこともそうだが、歴代の天皇の「平和主義」に反した国粋主義が愛国心だと思っているようだ。

ティラーソン米国務長官が北朝鮮に対話を求める考えを示したことについて、菅義偉官房長官は2日午前の記者会見「北朝鮮への圧力を強化していく考え方を説明する文脈の中で言われた」としたうえで、「今は圧力を強化することが必要な時期だ」との認識を示した。(朝日新聞デジタル8月2日)

昨今の東アジアにおける危機意識がまるでない。あの暴言王トランプでさえ顔負けする。

四方(よも)の海みなはらからと思ふ世に
など波風の立ち騒ぐらむ

これは、唱和天皇が日米開戦に傾いた御前会議の終わりに、明治天皇の御製を引用して自らの意志を示したものとして有名だが、明治天皇も日露戦争当時眠れぬ夜を過ごした日々を歌に託していたのである。

国のためうせにし人を思ふかな
くれゆく秋の空をながめて

はからずも夜をふかしけり
   くにのためいのちをすてし人をかぞへて

むかしよりためしまれなる戦いに
        おほくの人を失ひしかな

さまざまにもの思ひこしふたとせは
        あまたの年を経しここちす

お友達はずしで先陣を切った稲田朋美元防衛相は、幕末の国学者・橘曙覧の歌を「秀歌」として推薦した(『今昔秀歌百撰』)。

たのしみは蝦夷(えみし)よろこぶ世の中に
 皇国(みくに)忘れぬ人を見るとき

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2016年12月28日 (水)

安倍の珍妙なハワイ詣

 何のためにハワイへ行くのだろう。なにか子供じみていてほとんど底が割れているのに、マスコミをはじめ、大人げない論評は避けられている現実が解せない。

 「慰霊」?、本来慰霊とはあくまでも個人の心の中にあるものを発露する自然の行為である。あらかじめ米大統領に予告したり、外相・防衛相などにぎにぎしくお供に連れ、「首相として」などとおおげさにひけらかすものではない。

 日本の総理は、過去吉田、岸、野田などがこの国立墓地を訪れているが、こんな鳴物入りの慰霊は聞いたことがない。天皇・皇后の慰霊の旅とはあまりにも違う。

 「開戦75年にあたり改めて不戦の誓いを新たにする」?、ということは、これまでしてこなかった、つまり新憲法は頭から無視していたということになる。「任期中に改憲」したいという人が言っても、白々しいばかりだ。

 しかもその「不戦」は、日米間限定で他の国は含まれない。中国が「こっちへ来るのが先じゃないの?」というのはもっともだ。70年敵対したことのなく、アメリカのポチと言われる国が、もったいつけて「不戦」を誓い、「歴史的」などと言えば、世界中の人は最初は首をかしげ、そして笑っちゃうだろう。

 「和解」?、誰と誰が和解するのだろう。個人対個人なら和解するしないは個人の自由だ。国と国なら講和条約締結でとっくに済んでいる。済んでいないというのは、「あの戦争は正しかった」とか、「東京裁判は勝者の裁判であり戦犯処刑は不当」と考えるのならわかる。

 両国間の長年のトゲ、わだかまりを――、などという表現もある。そんなものは一向に感じないが何を言うのだろう。朝鮮・中国ならわかる気もするが、そうなったのは戦後相当たってからである。奇襲攻撃を受けたアメリカ人がそう思っているかは知らない。

 また、原爆犠牲者などの日本の遺族がその「トゲ」を抱いているだろうか。塾頭の親族に悲惨な死を遂げた戦死者もいるがトゲなど持っていない。前にも書いているが 原爆は日本が先に発明していたら早速使っただろう。

 広島の慰霊碑に「過ちは繰り返しませぬ」とあって、主語がないとよく言われるが、日本人でもアメリカ人でもなく「人類として」し解釈している。無差別の大量破壊兵器、宣戦布告なしの奇襲攻撃、いずれも国際法違反だ。

 戦争は、武士や騎士がたたかうものでなくなったのが近現代戦だ。総力戦という概念は第一次大戦から始まった。生産力を破壊し兵力の供給を閉ざし、そして恐怖心をあおって戦意喪失させるためには、非戦闘員の大量殺戮がどうしても必要だ。

 日本も国家総動員法や国民皆兵で、女性や子供まで竹槍で戦うよう訓練を受けた。「非戦闘員」という意識はない。従って敵に殺されたからといって、それを根に持つようなことはない。それが戦争である、こういった常識がこのところ薄れているように思う。

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2016年11月16日 (水)

かけつけ警護、やっと社説に

 昨日の閣議決定が終わってからやっと朝・毎・読の3大紙に社説が載った。読売だけが政府に賛成、日経・産経にはなく、東京は扱っているがいずれも批判的論調だ。当塾は、先月から前回まで4回(下記)取り上げその違憲性や、南スーダーンの実態や、戦争を知らない人の空論を指摘してきた。

安倍から逃げるなら、今
続・安倍から逃げるなら、今
安倍安保、空中分解寸前
安倍から逃げられない公明党

 今日の毎日新聞は、1面コラムの「余禄」でも取り上げているが、戦争に関する聖書ともいうべきクラウゼビッツの「戦争論」をひいて、戦場の不確実性を説いている。つまりナポレオン時代から戦場に出た人なら誰でも知っている常識なのだ。

 その常識すら無視する「一億平和ぼけ状況」が今、日本を覆っている。

13年前の映画「フォッグ・オブ・ウォー」はベトナム戦争当時の米国防長官マクナマラの足跡を当人の告白でたどる記録映像だった。「どんな賢明な指導者も戦争になれば『霧』の中に投げ込まれたように混乱する」はそこでの彼の言葉だ▲題名の「戦争の霧」はプロイセンの軍人クラウゼビッツが「戦争論」で戦場の不確実性を表すのに用いた表現だった。乏しい情報にもとづく軍事行動は霧の中にいるようなもので、次々に予想外の事態に見舞われるという▲戦闘一般がそうであるうえ、武装勢力やテロリストも入り乱れる現代の紛争である。先行きに「霧」のたちこめる紛争は絶えないが、部族間抗争によって国連報告書で「カオス(混沌(こんとん))」と評された南スーダン情勢である▲政府は南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に参加する自衛隊に安全保障関連法にもとづく「駆け付け警護」の任務を新たに与える計画を決めた。国連職員などが暴徒に襲われた場合に自衛隊が救援できるようになるが、実施は現地の部隊長の判断に委ねられる▲「カオス」の真意について日本政府は国連から「放置すればという意味で、現状ではない」との回答を得たという。また自衛隊の活動地の首都は安定しているとも説明する。だが戦闘を衝突と言い換え、いまだ内戦状態でないという認識で紛争の霧に対処できるのか(以下略)

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2016年10月30日 (日)

続・安倍から逃げるなら、今

 自衛隊の海外派遣に関連して、25、26日に連続して取り上げた。国連のPKO(平和維持機構)の一環として陸上自衛隊が派遣されているのは、南ソマリアだけで、それを新安保法適用第一号にしようというのが安倍のねらい。国会で議論されているがどこか弱い。

 その2回目は「安倍から逃げるなら、今」と言う題にしたが、そんな緊迫感はどこにもない。大部分の国民は、自衛隊が戦争に巻き込まれると思っていない。実は塾頭もそうだ。しかし、「可能性は?」ということになると、過去の戦争の発端を調べればわかるが、ゼロというよりは「まさか」の方が多いくらいだ。以下はその関連ニュース(10/29、毎日朝刊)である。

政府は25日、南スーダンのPKOへの部隊派遣を来年3月末まで5カ月延長することを閣議決定したが、現地情勢や部隊の訓練状況を見極めるため、新任務の付与は先送りした。

 「新任務」というのは、攻撃を受けている勢力から頼まれれば、武器を持ってその相手と交戦するということだ。それは「殺さなければ殺される」という現場である。そしてさらにこう続く。

 稲田氏(防衛相)は8日に南スーダンの首都ジュバを訪問し、23日には岩手県で交代部隊の訓練を視察した。柴山昌彦首相補佐官も31日からジュバに入る予定で、新任務付与の準備を進めている。柴山氏は28日、「安倍晋三首相から現地の状況をしっかり見てきてほしいと指示された。今回の訪問は一つの判断材料になる」と記者団に語った。

 稲田氏だけでは、やはり心許ないのか。しかし誰が行っても同じ。安倍首相は解散総選挙で圧勝を予定し、自衛隊の名を防衛軍と変えて憲法上戦争のできる国にしようとしているのだ。9条第1項に「戦争放棄」があっても平気、「自衛のため」と言ってしまえばそれまでなので、アメリカなどと同じことが可能になると踏んでいる。さらに報道は続ける。

 野党は今国会で、南スーダンの治安悪化や、任務拡大に伴い自衛隊員のリスクが高まる可能性などについて政府を追及している。このため政府は、自衛隊が駆け付け警護を行うケースを、国連関係者らから緊急の要請があり、現地の治安当局やPKO歩兵部隊より速やかに対応できる場合などに限定する方針だ。

 野党の追及も、全く迫力ない。つまり、大多数の国民に訴えるものが無いのだ。「自衛隊員のリスク」に矮小化され、多くの市民が犠牲になる戦争になるとは思っていない。警察でも消防でも死と隣り合わせのリスクをともなう。リスクを避けてどうして国を守る大任が果せようか。そんな自衛隊であってほしくない。

 やはりニュース解説ではだめだ。かりにA軍とB軍が対立する内戦状態の国だったとしよう。自衛隊はそのいずれにも加担しない立場で、道路・橋などのインフラ整備や、住民の食糧援助の任務補遂行しているつもりだ。

 ところが、そのエリアがA軍の支配区域であればA軍はそのための負担が減り、またそれを活用することもできる。B軍から見れば自衛隊は敵を利する行為をしているわけで、立派な攻撃目標である。かけつけ警護で戦端が開かれれは、あとにひけない果てしない戦争の当事者になるのだ。

 政府が、かけつけ警護ができるケースに、ああいった場合、こういった場合などいろいろ複雑な条件をつけて限定しようとしている。公明党を納得させるためかも知れないが、現場で、PKO派遣5原則に適合し、新たな制限どおりかどうか、そんなことを斟酌しているうちにことが進んでしまい、下手をすると先手をうたれて、自衛隊員に犠牲者が出るかもしれない。

 逆に出先が政府の定めた制限を守らず、独断専行したとする。本来なら処罰されなくてはならないことだが、結果が良ければ不問に付されることが多い。また、処罰は士気に影響するというだけでなく、国民から支持されていることから、手柄にさえしてしまう。

 こんなことが、戦前満州や中国大陸で繰り返されたことは、歴史を調べればすぐわかる。さらに恐ろしいのは、諜報機関や軍部などが意図的に戦争を作り出す陰謀や仕掛けを作り出すことである。 

 民主主義国家であっても、このような事態は防げない。なぜならば多くは「特定秘密の保護に関する法律」などの軍事機密に隠れてしまう。アメリカのイラク戦争開始が「ニセ情報」による、とされているが、ブッシュ大統領が最初からそれを知っていたかどうかもうやむやだ。

 自衛隊員に犠牲者が出たとしよう。当然大ニュースとなり、国民世論は「相手のA国・軍に壊滅的な損害を与え、勝利するまで戦え」ということになる。イラク戦争は、第2次大戦よりはるかに長い15年を経ても、アメリカが勝ったと言えない混とんのさ中にある。今になって厭戦気分が起きてももう遅いのである。

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2016年9月 4日 (日)

靖国神社のないアメリカ

 イラクで従軍、戦死した息子を追憶する中で、父親・フェルナンドさんは政府の虚偽に満ちた戦争装置の仕掛けがわかり、自ら反戦運動の先頭に立つようになった。『赤旗』にあるレポート記事を要約し、日米の差を考える。

 フェルナンドさんは妻や家族から、「息子を侮辱している」と反感を抱かれ、遂に離婚・一家離散の憂き目にあっているという。戦死したのは20歳の海兵隊員、ヘススさんである。すでに結婚、残された1歳4カ月の息子は、フェルナンドさんにとっての初孫だ。

 フェルナンドさんは、息子の終焉の地をたしかめるためイラクを訪れた。そこで、薬の不足で病院で亡くなる子どもたち、破壊された学校や家々など、先が見えないイラク市民も目にすることになった。

 大量破壊兵器を隠し持っているというニセ情報を根拠に、独裁者フセインを追放するためという口実で始めた戦争だが、アメリカを憎んでいる市民はいても歓迎する市民の姿はない。フェルナンドさんは息子がここで一兵士として命を絶ったことを告げると、「兵士は憎まない。国や死の商人に得るものがあっても市民には、戦争から得るものは何もない」という反応が戻ってきた。

 ヘススさんは、出征前に息子に手渡したサルサソースの小瓶を偶然発見し、名前が書いてあったので彼が戦死した場所を知ることができた。そしてここで、彼が何故命を落としたかも知った。

 公式の通知には、ヘススさんは、前日の交戦中に頭を撃たれて死亡したと明記されていた。しかしそうではなく、米軍がばらまいたクラスター爆弾によるものだと、米メディアの現地特派員が知らせてくれた。

 米政府の死因のごまかしがフェルナンドさんに突きつけられ、軍・政府に不信感を募らせる大きなきっかけとなった。ヘススさんが高校在学中に受けた兵員募集官からの勧誘は、今は戦争がなく危険もない。除隊後は麻薬取締官の訓練が無償で受けられ、就職先は保障されている、というものだった。

 それでは、一家離散となった原因は何だろう。

 「国のために尊い命を捧げた英霊に尊崇の念を捧げる――」、これしかないだろう。遺族は、政府にだまされて犬死した――のではない、と感じるのが当然だ。フェルナンドさんの奥さんは、こう思う以外に心を慰める術を知らなかったに違いない。夫の証言の方が嘘に聞こえた。

 塾頭の叔父は乳幼児を含む3人の子をあとに、終戦の前年出征した。戦後半年以上たった頃戦死の公報があった。その死は誰からも確認されていない。フィリピン戦線でジャングルを逃げ惑う中、多分餓死したのだろう、という推測で、もちろん遺骨などない。

 近所のおばさんが来て言った。「遺骨はなくとも、靖国神社へ行きなさった。天皇陛下がおいでになって、ちゃんとお参りになる。あきらめんばねえ」。天皇陛下は昔から「国」の象徴であった。総理大臣や防衛相などでは、代役にならない。今の政治家は勘違いしているようだ。

 戦中から、配給物資横流しなど軍部横暴の噂は聞いていたが、塾頭が政府や軍部への信頼を決定的に損じたのは、東条英機元首相、陸相の拳銃自殺失敗である。

 「生きて虜囚のはずかしめを受けることなかれ」という戦陣訓を作り、多くの兵士を死に追いやった張本人が戦犯容疑者としてGHQに逮捕される寸前、不可解な自殺失敗を演ずる。そういったA級戦犯を合祀したことで天皇の参拝はなくなった。靖国神社が兵士を駆り立て、戦死者と遺族を納得させる仕掛けであることに国民が気付き始めたからである。

 アメリカには、靖国神社も敗戦の経験もない。当然、戦死者遺族に価値判断の差が出てくる。日本では、こういった離婚騒ぎの話を聞いたことがない。アメリカはよくも悪くも「自己責任」なのであろう。

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2016年8月 5日 (金)

大きなことは言えない

 明日は広島原爆の日、例年のようにメディアがにぎわうのは結構なことだ。これまでと違うのは、やはりオバマ大統領の広島訪問と、そのメッセージの影響だろう。今日の新聞で、「胎内被爆者」という立場の方が、被爆地ガイドとして活躍されているという記事を見た。

 大統領から「謝罪」の言葉がなかったことが残念だとされているようだ。塾頭は被爆者ではないが、当時の子どもとして戦争がどういうものかは知っている。「マッチ箱一つで都市が全滅する新兵器」つまり原爆が研究途上にあることも知っていた。

 本土決戦が迫った頃、日本が先にそれを発明し、アメリカ本土を攻撃すれば戦況が逆転するのにな、と子供心ながら願っていたことは以前にも書いた。大量虐殺は無惨・違法だからやらない、けれど戦争には負けた――などの選択をする国や民族などあり得ない。

 昔の戦争は、武士や騎士の仕事だった。それぞれには守るべき道徳があった。しかし第一次大戦以後は、総力戦になり国民に多くの犠牲者を出した方が負けになる。塾頭は声を大きくして言いたい。「それが現代の戦争なのだ!」。

 オバマ大統領が謝罪の意を表するのは正しい。しかし、それをした、しない――そんな言論の高まりは、次の戦争の種になっても、世界の恒久平和に何の役にも立たない。広島の慰霊碑「過ちは 繰返しませぬから」に主語がないといわれるが、このことを言っているのだ。

 これも以前書いたことなので繰り返しになるが、テーマが「大きなことは言えない」なので、別件についてもう一度触れたい。日本の海洋進出はアホウドリの羽毛採取などで民間主導だったが、第一次大戦後は次第に政府や軍部が活発に動くようになった。

 今、中国の進出・制覇で問題になっている南シナ海であるが、西沙諸島・南沙諸島などへの進出も同じ経過をたどっている。これらの諸島は、中華民国、ベトナムを植民地としていたフランスなどがそれぞれ領有権を主張しあっていた。

 日本海軍が、南シナ海諸島を全域を軍事支配したのは1939年、太平洋戦争の前年である。そして当時日本領であった台湾高雄州に所属させた。南方の油田確保とその輸送のため必要があると見たのであろう。

 滑走路やビルまで作らなかったけれど、中国の9段線に対して「大きなことは言えない」のである。これからも日本の経験をもとに、静かな説得を続けるしかない。

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2016年6月13日 (月)

戦争仕掛人③

 この回は、戦争仕掛人として最も警戒すべき対象が「民主主義」であり、ヒトラーをあげて、それをどう克服するかを考えたかったのですが、午後から都議会の知事追及の集中審議があるためそれをウオッチし、7年前に書いた「ヒトラーと民主主義」の一部を再録してこれに変えたいと思います。
――――
「議会制民主主義」や「政党政治」などは、現在なお日本ではキャッチフレーズとして健在だが、ヨーロッパでは第一次大戦前、すでに日本も憲法で手本にしていた立憲君主制度の中で確立していたのだ。ヴィーンで職探しをしていた若きヒトラーがそれらをどう見ていたか。まず、マルクシズムについては『わが闘争』でこう書いている。

 マルクシズムというユダヤ教的学説は、自然の貴族主義的原理を拒否し、力と強さという永遠の優先権のかわりに、大衆の数とかれらの空虚な重さとをもってくる。マルクシズムはそのように人間における個人の価値を否定し、民族と人種の意義に異論をとなえ、それとともに人間性からその存立と文化の前提を奪いとってしまう。マルクシズムは宇宙の原理として人間が考えうるすへての秩序を終局に導く。

 マルクシズムとユダヤを並列に置いた発想は論理性に欠けた粗雑なものだが、個よりインターナショナルな連帯性に固執する点を共通項として見たのだろう。その前に、欧州人が伝統的に持つユダヤ人に対する嫌悪感も隠そうとはしていない。そうして、民主主義や議会についてはこう見ている。

 民主主義のこの発明は、最近になって真の恥辱にまで発展した特性、すなわちわれわれのいわゆる「指導者たち」の大部分の卑怯な特性に、最もぴったりと応ずるのだ。いくつかの重要なことをすべて実際に決定するばあいに、いわゆる大多数というスカートの影にかくれることができるのは、なんと幸福なことだろう。(中略)

 実際、一つだけ決して忘れてはならないことがある。すなわち多数は、このばあい、決して一人の人間の代理ができない、ということである。多数はいつも愚鈍の代表であるばかりでなく、卑怯の代表でもある。百人のバカものからは一人の賢人も生まれないが、同様に百人の卑怯ものからは、一つの豪胆な決断もでてこない。

 ここまで見てくると、日本の現在の万年野党とか、総理大臣を言っているのではないかと錯覚しかねない。おまけに、民主主義は無駄な時間を費やし手続きが厄介で、決してカッコよくない。たしかにヒトラーは真相の一面をついているのだ。

 それでも、それでもなお民主主義がいい理由は何なんだろうか。今こそじっくりと考えてみたいことだ。 

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2016年6月12日 (日)

戦争仕掛人②

 太平洋戦争突入直前、日本はなぜかドイツ・イタリアというファシズムの国と三国同盟を結んだ。戦後はファシズムこそ悲惨な戦争をもたらした元凶であるかのように言われた。前回はそのファシズムの定義を書いた。

 定義は「合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する。」でしめくくられている。なんのことはない。アメリカのトランプ現象、日本の安倍一強体制、中国の新覇権主義などと違わないではないか、ということになる。

 最後のとりでが「議会制民主主義」か、と思ったが、ファシズムを生んだ西欧史をひも解くと、議会も民主主義も古代ギリシャにその端を発している。その後ヨーロッパはキリスト教勢力に覆われるが、めまぐるしい宗教戦争にさらされ安定した国家が現れない。

 政体も、17世紀には帝国・王国・公国・共和国などさまざまで、議会があって王様を追放した、などの話もある。18世紀後半に入ると、フランスの哲学者ジャン=ジャック·ルソーは『社会契約論』で民主的投票で支配力を手にするのは多数意見を支持した者に限られ、反対した少数者は自由を失う、と喝破した。

 しかし、18世紀後半には、政体の如何を問わず「民主主義」の概念はヨーロッパに定着する。明治維新前夜に「西洋では入り札(投票)でものごとを決する」という日本人の観察がある。20世紀になって『現代議会主義の精神的状況』(樋口陽一訳)はこういう。

 民主主義的に組織化されたさまざまの国民あるいは社会的、経済的集団はは、抽象的にのみ、同じく「国民」とよばれる。具体的には、大衆は、社会学的および心理学的に異質である。民主主義は、軍国主義的でも、平和主義的でもありうるし、進歩的でも反動的でも、絶対主義的でも自由主義的でも、集権的でも分権的でもありうる。そうしてさらに、すべてはさまざまらの時期ごとにさまざまであり、だからといって民主主義であることをやめるわけではない。

 シュミットは、ナチスに迎合するようになるが、日本国憲法が参考にしたといわれるワイマール憲法のもとて、なぜヒトラーが権力を握ったか、そして壊滅の運命をたどったか、麻生さんではないが、深く研究をするべき材料だ。

 上述のように、シュミットは、「国民」と「大衆」を分けている。大衆は「安保法制化」に反対しているが「国民」は賛成している。日本国憲法には「国民」という言葉はあるが、「人民」または「大衆」という言葉はない。

 そのような詭弁がこれから使われないとは限らない。「自由」は多数決で奪うものではない。民主主義とは少数意見を尊重することから支持されている。ことに「基本的人権」は、3分の2の多数をもっても奪われてはならない。

 さきの戦争で自由を奪われ、多数の犠牲者を生んで獲得した憲法を活かすためには何が必要か。まず、参院選で安倍自民を大衆の手で敗退させることが第一である。

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