歴史

2018年4月 4日 (水)

侵略の歴史

前々回のシベリア出兵100年記事で、大陸侵略の始まりのような書き方をした。朝鮮人は、これが信用できないことを日本の歴史文献から知ることができる。

【古事記】(読み下し文『古事記』岩波文庫。かっこは、塾頭)

その大后息長帯日賣命(神功皇后)は、当時神を帰(よ)せたまひき。故、天皇(仲哀天皇)筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曽國を撃たむとしたまひし時、天皇御琴控かしむて、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。

ここに大后神を帰(よ)せたまひて、言教へ覚(さと)し詔りたまひしく、「西の方に國有り。金銀を本(はじめ)として、目の炎耀(かがや)く種種の珍しき寶、多にその國にあり。吾今その國を歸せたまはむ。」とのりたまひき。

ここに天皇答へて白したまひしく、「高き地に登りて西の方を見れば、國土は見えず、ただ大海のみあり。」とのたまひて、詐(いつわり)をなす神と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまはず、黙して坐しき。

こうして神の予言に従わなかった天皇はたたりを得て頓死し、神功皇后が軍を整え神託に沿った舟で渡海に成功する。

新羅の國に押し騰りて、國半(なかば)に到りき。ここにその國王、畏惶(かしこ)み奏言しけらく「今より以後は、天皇の命の随(まま)に、御馬甘(みまかい=御料馬を飼育する庶民)として年毎に船を雙(な)」めて、船腹を乾さず棹舵乾さず、天地の共興(むた)、退(や)むこと無く仕え奉らむ」とまをしき。

そして、新羅を御馬甘、百済を屯家(みやけ=出先の役所)と定めると書いている。かなり露骨な侵略をはかり、朝貢国にしたという記録である。

さらに、中世末期には豊臣秀吉が2度にわたり半島を蹂躙した。日本における天下取りは成功したが、協力した大名に報償として与える領土に不足した。秀吉は朝鮮から中国まで版図に入れ、天皇を中国へお遷しするというとてつもない構想を立てた。

本人の死亡で沙汰やみになり、秀吉の野心ははかなく消え去ったものの、戦功の証に殺した朝鮮人の耳や鼻を切りとってこさせたというひどいことをしている。

京都には耳塚という供養施設が残っているが、これで謝罪したことにはならない。しかし、塾頭は江戸時代をはじめ、それ以外は概して友好的だったと理解している。

 

 

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2018年4月 2日 (月)

シベリア出兵100年

明治150年もいいが、今年はあまり知られていない「シベリア出兵100年」にあたる。1918年(大正6年)4月5日、日英の陸戦隊は、日本人殺傷事件を好機ととらえ、ウラジオストックに上陸を開始した。これは、ヨーロッパの戦乱の余波を受け、この年の1月1日に英・日・米・仏などがウラジオストックへの共同出兵を協議したことに始まる。

前年にロシア革命が起き、共産軍が武装蜂起でソビエト政権を樹立していた。1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」というのがシベリア出兵の名目である。

ロシア革命に対する干渉戦争であるが、社会主義を封じるという目的より、帝国主義的な野心と経済的利害が優先し、混乱に乗じて軍事行動を起こすという時代になったのだ。日露戦争に勝った日本は、ロシア帝国から得た利権などを反故にしたくなかった。

こういった、外国の混乱に乗じた干渉出兵や、軍事援助などは、現在も中東やアフリカ各地などで続いている現象だ。この事件の研究を進める中で、多くの教訓を得ることができるはずだ。

日本は8月になってアメリカとの共同出兵宣言にこぎつけ、兵力を1万2000人として他国を上回る規模にして指揮権も握った。しかし独断で増兵をすすめ、ついには7万2000人を越えるまでエスカレートさせた。

連合諸国は20年1月に撤兵を声明、日本は継続する口実を失ったが駐兵を続けた。このため、地元や革命組織の激しい抵抗を受けて、1920年2月、いわゆる尼港事件を招き、民間人を含めて730人の死者をだして惨めな撤兵・撤退に追い込まれた。

日清・日露戦争が日本防衛のため、という口実が成り立ったとしても、シベリア出兵は満州事変に先行する侵略行為そのものである。しかも失敗例であった。

 

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2018年3月25日 (日)

縄文まつり

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 今日は、当地の堀之内貝塚公園で「縄文まつり」が開催されています。同貝塚は、東京に近く規模が大きいこともあって、東京・大森貝塚と同様、明治時代から学者の注目を浴びたところです。発掘土器は「堀之内式土器」として標準化されています。

イベントの中心は、子供の縄文生活体験にあり、日本人の遠い先祖に思いをはせるいい機会だと思います。そこから各時代をたどり、日本史の本当の姿を身につけることができれば、大きな収穫になることでしょう。

安倍政権が目論む「明治150年」イベントが、尊皇攘夷にはじまり、戊辰戦争を経て有司専制、教育勅語、廃仏毀釈、富国強兵へと進んだ一時代で、イコール日本人のルーツではなかったことも、しっかりと勉強しましょう。
               <塾頭>

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2018年2月28日 (水)

マキアヴェリ

世界の政治、日本の政治が大きな転機にさしかかっている――、こんな風潮に、なんとなく「マキアヴェリ」の名が頭を去来していた。そんなおり、25日に池田廉訳『君主論・新版』が中央公論新社から発売された。早速ゲット。

マキアヴェリとかルターは、西洋史でもルネッサンスの重要人物として習うので、名前だけは知っている。そもそも、神権論争とか王制・貴族の複雑な絡みがわからないので、この時代は苦手だ。『君主論』も始めて目を通す。

だが、直訳本は、至る所に注が施されているが、やはり難解だ。そこで巻末の「解説」から先に読むことにした。

ありました。筆者は別名・ラスプーチンの佐藤優氏。以下やや長い引用をご勘弁。(誤植修正、行変え変更等は塾頭)

さて、現下の国際社会では、米国のトランプ大統領、中国の習近平国家主席、ロシアのプーチン大統領、トルコのエルドアン大統領、イランのハメネイ最高指導者のような独裁型の指導者が存在感を増している。

とりあえず、独裁に対する善悪、好悪を括弧の中に入れて、独裁者が国際社会で影響力を持つ内在的論理を明かさなくてはならない。それは国際社会が危機に直面していることと密接に関係している。

そもそも意志決定に時間がかかる議会制民主主義は危機対応と相性の良くない制度だ。日本を含む先進諸国の民主主義は民主的選挙によって形成された議会を重視する。そのためにコンセンサスを得るために時間とエネルギーがかかる。

特に武力行使を伴う問題について、議会でコンセンサスを得ることが不可能な場合がある。しかし、武力行使を含む危機対策は迅速に行わなければならない。「決められない政治」という状況下で、民主主義国においても行政権の優位によって危機を切り抜けようとする動きが起きる。このことを国民も容認する。

現在の危機は構造的かつ長期的なので、このような状況で国家と国民の生き残りのためという形で徐々に独裁が忍びよってくる。その場合、独裁者は自分こそが民意を体現した真の民主主義者であると強調するだろう。

民主主義には独裁と相性の良いところがある。国民の意思が100人の国会議員によって代表されているとする。議員数を99人に減らしても、特に大きな変化はない。それでは98人に減らしたらどうだろうか。民意によって代表が選出されるならばこれでも構わないはずだ。この操作を繰り返していくと、最後は一人が民意を代表できるということになる。

民主主義原理から独裁を導くことは可能なのだ。朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)も独裁型の民主主義国家ということになる。

それに対して、他者に危害を加えない限り、他人が行う愚かな行為を認めるという「愚行為」を中核に据えた自由主義は独裁と相容れない。「愚行権」というと聞こえがよくないならば、各人の幸福追求権と言い換えてもいい。

幸福追求権の主体は国家でなく個人だ。(中略)私は、現下日本の状況では、自由主義原理を強調することが重要と考えている。それは「決められない政治の克服」、「リーダーシップの強化」などに異論を唱える人がいないために、政治の独裁化の危険があるからだ。

自由社会を守るためには「愚行権」の尊重がこれから一層重要になると私は考える。その意味で、日本の指導者によって「君主論」でマキアヴェリが説いたノウハウが悪用されないように監視することが重要と考えている。

この引用の最初にある各国首領に安倍首相は入っていない。それは、解説者と出版社の「忖度」であることは誰が見てもわかる。ただし、「君主論」の中で禁じ手としている追従者(お友達)の重用があるようでは、独裁者の資格に欠ける。(゚▽゚*)

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2018年2月26日 (月)

2.26&温暖化

 今日は2.26。82年前、東京の朝は雪だった。今朝も寒く、いつ降り出してもおかしくない雲行き。「13年2月のサイエンティフック・アメリカン誌によると、気温が上昇すると、人間の文章校正と複雑な意志決定の能力が低下することが複数の実験からわかった」とニューズウイークに書いてあった。

それならば今のうち、と思ってPCに向かったが、続けて「人間は環境への順応性が極めて高い」から今世紀末の82年後に平均気温か3°C上がるとされる地球温暖化にも耐えられそう、とある。 

ブログのテーマを何にするかは「複雑な意志決定能力」に当たりそうだ。気温が上昇する前に、2.26が、無謀な太平洋戦争突入に影響している、という結論だけ書いておくことにした。

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2018年1月25日 (木)

単眼史観

  テレビを見ていたら、地方のある旧家からお宝が発見された。掛け軸で「青天白日男子……」と書いてあり「原敬」の署名がある。原敬なら、大正中期の総理大臣で、東京駅頭でテロの犠牲になった程度のことは誰でも知っているだろう。

 「青天白日」といえば塾頭が思い出すのは中国の国旗である。その旗は、のらくろ漫画で、弱い蒋介石軍が肩に担いだ形で描かれる。戦中は敵兵を意味する旗印だった。日本はその旗の国に負けたのである。

ところが時を経ずしてこの旗の敵は、中国共産軍に変わった。赤旗に5つの星を配した現在の国旗だ。蒋介石対毛沢東の内戦が起き、蒋介石は負けて台湾に逃げ込んだ。従って青天白日旗は、国旗としてはなくなったのだ。

原敬は、そんな後のことは知らない。この旗は、孫文が清朝を倒し5000年にわたる王朝時代が終わりを告げ、「中華民国」が生まれた象徴として採用された。日本に次いで東洋にも近代国家誕生するという期待が、揮毫の最初に現れたのかも知れない。

この4文字だけて彼の意図や固定観念としてしまうわけにはいかないし、それが危険であることは後の歴史が示している。時代背景や人の行動・影響をその時点で深く考察して後の世の評価としなければならない。

それを怠り、時代の傾向の中で「誰々はこうだ」と決めつける手法を、本塾は「単眼史観」という。現・近代史の中でこういった単眼史観が巾を利かせ、いかに害を為しているかを本塾はたびたび指摘してきた。

 このところ増えてきたのは、明治150年イベントで維新の志士を中心に国粋主義をもり立てようとする動きや、靖国神社への、合祀をめぐる動きだ。西郷隆盛や戊辰戦争戦死者などは「朝敵」として祀られていないという批判に対処しようというもののようだ。

 そもそも、150年をなにかの区切りだと考えた人は、単眼史観ですらない。明治維新はいつからいつまでを指すかについて、いろいろな考えがあって定説はない。たしかに1868年の9月8日に慶応を明治と改元した。

 先代の孝明天皇はその前々年の12月に没し翌年1月に摂政が置かれている。しかし5か条のご誓文が出たのは改元前である。つまり、維新の激動の中の一年で戦後○○年というのとまるで意味が違って時間軸にはなり得ない。

靖国神社に合祀するといっても、西郷隆盛の霊は固辞するだろう。犯罪者を祀るようなところでなく、「上野公園の方が居心地がいい」というに決まっている。

 右翼陣営は「東京裁判は戦勝国が一方的に裁いた不当な裁判」で犯罪者ではないというだろう。玉音放送は「朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」とポツダム宣言を受諾するという内容だ。ポツダム宣言には「戦争犯罪者の処罰」が明記されている。

 天皇が認めた史実さえ、目を覆って知らん顔で通そうという「単眼史観」がなくならないうちは日本がよくならない。

明治維新をいうなら、戊辰戦争に勝利し、明治時代に権勢を振るった薩長藩閥政治から抜け出さなければならない。そして150年を機に見直しをするなら、長州藩・吉田松陰の松下村塾ではなく、幕府側・緒方洪庵の適塾が文明に果たした役割に日を当ててみることだ。

勝海舟は幕臣として長崎で蘭学に親しみ、海防の知識を坂本龍馬などに授けた。そして初の軍艦・咸臨丸を操って荒れる太平洋を横断、幕府の訪米使節団を送り届けて米国人を驚かせた。

そのほか、官軍と最後まで戦った榎本武揚は、五稜郭明け渡し交渉で黒田清隆に貴重な海律全書(国際法全書)を「国のために失うわけにいかない」と手渡した。黒田は、後に逮捕された榎本釈放のため頭を丸め嘆願を繰り返した。榎本は、解放後政府の高官として目覚ましい活躍をしている。

江戸開城のため西郷隆盛のもとへ使い走りをした幕臣山岡鉄舟は、明治天皇の養育係として天皇とよく相撲をとって遊び、天皇の人格形成に大きな影響を与えたという。そんな例は挙げるときりがない。

あまり取り上げられることのない幕府や民衆の動きを、150年を機にクローズアップするのなら意味がある。

教育勅語だけが明治時代でないのだ。唱和だけなら森友幼稚園でもできる。もっと高級な複眼史観を養ってほしい。

 

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2017年12月23日 (土)

「陸軍」遺跡崩壊

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市川市国府台はかつて軍都であった。現在は写真の赤れんが造の武器庫の跡と、あとを引き継いで建て直された近代的な国立病院ぐらいで、その他はほとんど痕跡をとどめない。

 

現存する建物および周辺は、県の所有で今は全く利用されていない。建設された時期は明治初頭にさかのぼり、陸軍教導団時代のものとされる。れんがは明治はじめに盛行したフランス積み工法で、その後の発展段階と比較できる貴重なレガシーである。その価値は、まさに富岡の製糸工場跡に匹敵する。

 

武士に限られていた仕事を、明治維新によって国民皆兵の名のもと、農・工・商も加えることにした。そのため、下級士官の養成が急務となり、教導団がまず設けられることになったのだ。

 

後に士官学校が新設され廃止されるが、その出身者が日清・日露などの戦役で中心的役割を担ったことは、想像にかたくない。その後この一帯は、砲兵連隊などとともに広大な練兵場が設けられた。

 

病院は、教導団時代すでにできていたが、塾頭の知る限り、精神科のある唯一の陸軍病院で、今アメリカのイラク帰還兵などで問題になっている深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)患者や、思想犯的兵士の「入ったら出られない」代用監獄的存在としておそれられていた。

 

軍都だった唯一の史跡を残そういう市民運動が起きたが、本年1月、県や国の支援が受けられず、市川市長が赤レンガ保存のための「用地取得を断念した」と表明、運動の後退により放置か破壊が懸念される。

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以上は2017/83/10の「千葉県知事選の争点に」の一部を再録したものでこのほど、ある程度予想はしていたものの、恐るべき展開になった。以下は「赤れんがを守る会」から伝えられた内容である。

今年初めの、市川市長が「旧血清研の跡地の取得を断念」したという報を受けて、管理者の千葉県では、「向こう3年間で処分準備に入る」ということになりました。実際、今年の見学会は、そのために中止を余儀なくされました。このままでは「赤レンガの崩壊の危機」は現実になりそうです。

という訳で、千葉県内外を問わず多くの方の署名をいただいて、千葉県と市川市とへ改めて「保存と活用」を求める要望を提出することにしました。

県知事は、元タレントの森田健作氏である。かれの言動から見てこの県有地をデベロッパーなどに譲渡するに違いない。西側の森林を一部伐採すれば、眼下に江戸川の流れ、東京の下町越しにスカイツリーがそびえ、遠く富士山も望見できる絶好の環境で、公園や学校に囲まれているが、一般人の入れない市内の秘境であった。


 デベロッパーは、目障りな赤れんがを壊し更地にして、分譲するか、マンション群にするか、ホテルを建設するなどのことを考え、投資の回収を図るだろう。

すでに記事にしているが、折りしもやり直し市長選を控えている。守る会では、立候補予定者数人にに本件に関する質問状を送っているが、いずれも市民の意見を尊重する旨の回答を寄せている。

 

民進党や共産党などの野党統一を指向する党の支持を受けるひとり以外は、自民党および保守系候補だ。現・大久保市長は、保守一本化をさかんに提唱しているなど、先行きはなお不透明だ。

 

守る会では、前述のように初回締め切りを1月末として署名運動を始めた。赤れんがを保存して、市内外に散在するかけがえのない史料などを展示公開する資料館にするとか、周辺の観光拠点となるため、演習地あとを利用して操業工場を建てたとされる「山崎パン」にレストランをかねた施設運用を民間委託するとか、アイディアはいくらでも出てくるはずだ。

 

「戦争遺跡」が気になるのなら、防衛省(近代陸軍)遺跡として働きかける価値さえあるのだ。署名は、守る会のホームページからもできるので、是非ご協力願いたい。

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2017年12月 1日 (金)

粛慎人漂着記録

北朝鮮木造船漂着ラッシュである。日本海沿岸に不審な舟がやってくるのは、古代から数多くある現象。有名なのは、粛慎(しゅくしん)人である。もともと中国人が東北地方の種族をさした名称だが、日本のこれまでの定説は、北海道あたりの異民族が海伝いに来たというものである。

この説は不自然な点が多い。蝦夷が住む陸地を避け、海流に逆らって南下したとするより、リマン海流から日本海流に流され、かつ強い季節風で北陸道沿岸に吹き寄せられたと見た方がいい。

日本書紀の岩波文庫、読み下し文から1502年前(欽明天皇5年)の出来事を引用する。

十二月(しわす)に、越国言(もう)さく、「佐渡嶋の北の御名部(みなべ)の碕岸(さき)に、粛慎人(みせはしのひと)有りて、一船舶(ひとふね)に乗りて淹留(とどま)る。春夏捕魚(すなどり)して食に充(あ)つ。彼の嶋の人、人に非ずと言(もう)す。亦鬼魅(おに)なりと言して、敢て近つかず。嶋の東の兎武邑(うむまさと)の人、椎子(しひ)を採拾(ひろ)ひて熟(こな)し喫(は)まむと為欲(おも)ふ。灰の裏(なか)に着(お)きて炮(い)りつ。

其の皮甲(かわ)、二の人に化成(な)りて、火の上に飛び騰がること一尺余許(ばかり)。時を経て相闘ふ。邑の人深く異(あや)しと以為(おも)ひて、庭に取置く。亦前の如く飛びて、相闘ふこと已(や)まず。

人有りて占へて云はく。「是の邑(さと)の人、必ず鬼魅の為に迷惑(まど)はされむ」という。久にあらずして言うことの如く、其に抄掠(かす)めらる。是(ここ)に、粛慎人、瀬波河裏に移り就(ゆ)く。浦の神厳忌(いちはや)し。人敢て近つかず。渇ゑて其の水を飲みて、死ぬるもの半に且(なんなんと)す。骨(かばね)、巖岫(いわおのくさ)に積みたり。俗(ひとびと)、「粛慎隈(みせはしのくま)と呼(い)う」とまうす。

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2017年11月 3日 (金)

明治節&文化の日

文化の日に当たり、毎日新聞は「文化の日の改称運動 復古主義と重なる危うさ」と題した社説を掲げている。

昔の国民の休日は、四方拝、紀元節、天長節、明治節の四大節だけであった。休日といっても、学校では、四方拝の元日以外は朝に式典だけあって、それに出なくてはならなかった。だけど、日曜以外の休みはうれしかった。かつては紅白のまんじゅうが配られたというが、それは知らない。

今日が明治天皇誕生日に当たる明治節で、今上(昭和)天皇誕生日は4月29日の天長節だった。式典は、その意義をたたえる唱歌を歌って終わるので、子供の頃から「今日は何の日?」という“ふざけた”ことにはならなかった。

今、国民の休日は16ある。それぞれもっともらしい理屈はついているが、特別その日でなくてはならないということはない。連休を多くしたいから土日の前後に決めたというのもいくつかある。

それ以外に決まっている日が土日に当たれば、振替休日があり、今年は12もあることを知らなかった。これでは「今日は何の日?」になるのが当たり前。そこで毎日新聞の主張を見てみよう。

(前略)数年前から11月3日を「明治の日」に改称させるための政治活動が目立ち始めた。2011年に結成された明治の日推進協議会には、右派団体「日本会議」系の人びとが数多く名を連ねている。 

 見過ごせないのは、安倍晋三首相と思想・信条が近い政治家が積極的に運動を後押ししていることだ。 

 稲田朋美元防衛相は先週末に開かれた関連のシンポジウムに対し「私も明治の日創設の法律化に向け、同志の皆様と手を携えて全力を尽くします」とのメッセージを寄せた。 

 古屋圭司衆院議運委員長(自民)も主要な応援メンバーだ。昨年は代表して明治の日実現を求める60万筆余りの署名簿を受け取っている。 

 なぜ彼らはこれほどまで明治の日の制定にこだわるのか。 

 推進協議会は、祝日法が文化の日の意義として示している「自由・平和・文化」について「特定の一日とあえて結びつける必要があるのか」と疑問を投げかけている。 

 ただ、それ以上に活動を支えるのは現行憲法に対する拒絶感だ。すなわち憲法は占領軍による「押しつけ」だから、憲法と密接な文化の日も葬り去りたいのではないか。 

 憲法改正による戦後レジームからの脱却を訴えてきた安倍首相らの考え方と根っこは同じであろう。明治時代への漠としたノスタルジーや戦前回帰の感覚がそこに連なる。 

 衆院選で勝利した首相の最終目標が改憲であることは間違いない。しかも、来年は明治維新から150年の節目であるため、首相は「明治の精神」に学ぶ機運と改憲を絡めて盛り上げようとする可能性がある。(後略) 

言わんとしていることは、安倍嫌いの塾頭と同じだが、結論は違う。まず、名称は昔の明治節、紀元節、天長節(=昭和節)のままでいい。それぞれの時代について、「まっとうな」歴史認識を新たする日にすればいい。むしろ、そうすべきだ。

まず、紀元節だ。国家のない時代、国境もない時代について「建国記念の日」はナンセンス。日本語の「くに」の概念であれば、ローカルな話で、まだ「紀元節」の方があたっている。

そんな議論をこの日に大いに戦わすべきだ。それが、偏執右翼のまちがいを正すことになり、歴史研究を正道に乗せることになる。明治節も同じだ。江戸末期、尊王攘夷論が起きてから維新への過程、幕府賊軍説や薩長土肥の志士伝説、さらに四期ほどに分けられる明治時代の分析、それが大正・昭和にどう転化してきたかを、賛成・反対両派が大いに議論すればいい。

明治天皇への研究もタブー視や神格視せず、こういった機会に議論することが大切ではないか。「昭和節」についても同様だ。今の祝祭日制度は、全くその意義・根拠を失った。本旨から乖離した虚偽の制度といってもいい。

そういった「戦後レジュームの脱却」なら、昭和節を含め歴史認識を深化させることになるので賛成だ。

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2017年10月30日 (月)

カタルーニャと宗像大社

昨日と今日のニュースから。

カタルーニャと宗像大社、そこから連想の行った先は韓国・朝鮮である。「風が吹けば桶屋……」の類の話。それを語り始めたら、とてもブログでは収まらない。だからほんのさわりだけ。(^-^)

カタルーニャはスペインの1自治州だが、独立を要求する住民投票の結果をめぐって大騒ぎになっている。ヨーロッパでは同国バスク州、イタリア北部の2州、ベルギーの北半などでもそんな問題がくすぶっており、イギリスのスコットランド独立住民投票も、2回目が先送りされたままだ。

ヨーロッパの特殊事情と見なされがちだが、EUを構成する各国、アメリカをはじめ国連主要国は、基本的に独立に反対している。どの国でも、国家が分裂する事態は、軍を動員しても阻止したいというのが本音だからだ。

中東では、シリア・イラクの国境を越えてエリアを作ろうとしたISを、よってたかってつぶすことに一致し、ほぼ成功しつつある。そのあとは、国のない最大の民族といわれるクルド族国家建設を阻止するため、イラク政府などを背後から支援している。

独立運動は、ヨーロッパ・中東だけではない。アメリカがそもそも独立戦争でできた国であり、韓国・北朝鮮は、それぞれ日本を相手にした独立戦争に勝利した国という建前になっている。

韓国の場合、1919年の3・1独立運動がその始まりとしており、その前年、ウィルソン米大統領が、第一次世界大戦後の平和構築を目指す14か条の平和再建構想を発表、民族自決を尊重し、帝国主義的植民地支配競争をつつしむ方向性を示した。

しかし、英・仏などは既得権放棄に消極的ながら、戦争回避に向けて舵をきりはじめていたのである。韓国の独立運動も、ウィルソン構想に刺激を受けた在日学生などの運動がきっかけであった。

ところが、アメリカがそれを支持したわけではなく、上海にできた李承晩亡命政権を承認する国もなかった。ウィルソンは理想と現実をうまく使い分け、せっかくの平和をぶちこわすようなことはしなかったのだ。

ようやくテーマの韓国にたどり着いた。

もう一つは、宗像大社である。天皇・皇后は昨日、歴代ではじめて同社に参詣された。同社は、素戔嗚尊が祀った記録が日本書紀にある。伊勢神宮の由来より古く、縄文文化の痕跡を残す遺物がある。朝鮮半島と福岡県宗像地方を結ぶ最短コースとして、途中にある小島・沖の島が航海の安全を守る神体として存在し、そこへいろいろな奉納物が納められている。「海の正倉院」として評価され、今年、世界文化遺産に登録された。

大和朝廷が九州から東征したものかどうかは別として、記紀の内容は、先祖の素戔嗚尊と宗像神の関係や韓地(からくに)との往来など、あきらかに朝鮮の存在が意識されたものになっている。

天皇が、靖国神社への参詣を避け、宗像社を参詣するのは、「反日」だからではない。古代から連綿と続く日本の歴史や伝承の中から、韓地との関係を重視されているからである。

 

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