歴史

2020年7月25日 (土)

不測の事態に警戒を

 夜の街の実態を把握するため、警察や保健所が現場に出向き、指導に従わずまた違反のある店は店名を公表するという。以前からそんな措置は、あって当然と思っていた。

 話は全く異なるが、1895年(明治28年)3月24日、日清戦争の講和交渉をおこなうために日本の山口県(現、下関市)を訪れていた清国の直隷総督・北洋大臣であった交渉全権大臣李鴻章が、同地において日本人青年によって狙撃され、重傷を負った暗殺未遂事件がある。

 李鴻章遭難の飛報広島行在所に達するや深く 聖聴を驚かし奉り、 皇上は直ちに医を派し下ノ関に来らしめ、特に清国使臣の傷痍を治療することを命じ給い、また皇后宮よりも 御製の繃帯を下賜せらるると同時に看護婦を派遣し給う等、すこぶる鄭重なる御待遇を与えられたり。(陸奥宗光『新訂蹇蹇録』岩波新書)

 この翌年には、韓国の閔妃暗殺事件が起きた。世上安定を欠く時期、とかくこのような国際的不祥事が起きやすい。当局はこういったことにもも意を用いてほしい。

 今上皇后陛下は、外交問題のプロでもあられた。今の皇室典範ではそういった皇室外交がどこまでできるのか、できないのか。

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2020年7月11日 (土)

元寇後は経済優先

 感心なのが、北条氏だ。元寇三年につづいても、軍事公債は募らなかったよ。総理が自分で走り回りはすまいじゃアないか。九州の探題に防がせて綽々として余裕があったよ。(中略)北条氏が仏法に帰依したと言っても、ただ禅に凝ったのではないよ。やはり経済のためだあネ。宋が亡びて元の起る時だからネ、宋の明僧を呼んで、五山を開いたよ。それで電光影裏、春風を裁るの無学[祖元]まで、渡って来たよ。そこで宋のやつが続々渡って来る。参詣人も絶えない。信仰に事よせて来るものもある。銭は大そう渡って来たよ。どこを掘っても、宋元通宝のよけいに出るのを御覧ナ。信仰と言ってもそのためサ。(『新訂・海舟座談』ワイド版岩波文庫)

 当時の日本は鎌倉幕府の北条氏による執権政治の時代で、徳川時代のような安定した封建制度の定着する前である。元寇を2度にわたって追い返せたのも「神風」といわれる気象条件や朝鮮の応援体制に欠陥があったからだとも言われる。

 北条氏は、3度めの侵攻に備える国内体制を確固たるものにしなければならないが、それには国内経済活性化が優先課題だということを認識していたとし、勝海舟の「清談」として残された中にある明治28年分として収録されている。

 今の日中関係。宋の高僧役を習近平の来日で果たすことなど、ありえない。双方とも中世の方が進んでいたようだ。

 

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2020年6月24日 (水)

姓氏と血脈

 大化の改新で名を挙げた藤原鎌足以降、藤原氏の権勢は目を見張るばかりだった。飛鳥、奈良、平安時代を通して政府首脳部を占め、地方の出先でも縁戚者が腕を振るった。

 ものの本で、近江(滋賀県)や遠江(静岡県)を担当した藤原氏の血脈が、それぞれ近藤氏・遠藤氏を名乗っていたというのを見たことがある。

 ちなみに日本で数が多い二字めが「藤」となる姓を、旧国名と照らし合わせてみた。

安藤(安芸、安房) 伊藤(伊賀、伊予、伊豆) 遠藤(遠江) 近藤(近江)  加藤(加賀) 江藤(江州=近江)  佐藤(佐渡)  武藤(武蔵)

 後藤では、筑後、越後、羽後、丹後、肥後、備後とするものがあるが、二字めを当てはめるのは、ちょっと無理そう。

 ほかに工藤、斎藤、進藤、須藤などがある。いずれもそれぞれに諸説あるようだが、職業、または職業などの部民の代表と考える例が多いようだ。

 鎌倉時代に入り武家の世になると、血脈は、源から平へ、豊臣は天皇から賜った姓だが続かず、徳川は、源氏の血脈を示す家系図を得川氏が買い取って正当性を主張した。

 すると、藤原氏は消えたように見えるが、武家政治を支えるように政権の中枢は握ったまま生き延びている。

 そして明治時代に入っても、公家・近衛氏、九条氏として引き継がれ、開戦を決めた東条英機に引き継ぐまで、首相は近衛文麿が務めていた。

 首相に伊藤・佐藤・加藤という姓氏の首相は出たが、偶然であってここでいう血脈とは無関係だろう。

 

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2020年6月18日 (木)

首相は足軽の出身

 このところ、明治時代に郷愁を感じている保守政治家が沢山いるようだ。結構なことで大いに勉強してほしい。明治も後半にかけて「藩閥政治」といわれ、戊辰戦争に功績のあった薩長土肥出身者が手腕を競った。

 そういった名士の幕末前の身分を調べると次のようだ。

 伊藤博文(総理大臣)長州藩・足軽

 大隈重信(総理大臣)鍋島藩・鉄砲組頭

 山県有朋(総理大臣)長州藩・中間

 黒田清隆(総理大臣)薩摩藩・下級武士

 江藤新平(司法卿)佐賀藩・下級武士

 板垣退助(内務卿)土佐藩・馬回役

 以上すべて、今なら幹部役員のお抱え運転手のような役柄の馬回役より下の下級武士であった。昨今のトップクラス政治家の毛並みの良さとは、格段に違う。

 それだけに、下々大衆の生活と意見はしっかり身についていたものと思われる。出身が長州であってもそこは争えない。

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2020年6月14日 (日)

こんぴらさん

 香川県琴平町の金刀比羅宮が、神社本庁を離脱する手続きに入ったことが13日、分かった。「こんぴらさん」、夏の暑い日、汗だくで長い階段をあえぎあえぎ昇ったことを思い出す。

 神社本庁は、「庁」がついても官僚組織ではない。伊勢皇大神宮を本宗とする宗教法人で文科相の管轄下にあり、約8万社の神社包括団体であるる。

 神宮のお札(大麻)の初穂料のうち、半分が神社本庁の収入とされる。残りの半分は伊勢神宮の収入となる。神社本庁は傘下の神社に対し、一定数の神宮大麻の頒布を求めており、規定数に達しない場合も傘下の神社は札を返さないなど、週刊ダイヤモンドにも書かれている。   

 各地の神社は、地元町内会や地元議員との関係が深く、お祭りとかお神輿などを通じた地元民との接触で、自民党の底力にもなつている。

 安倍首相を取り巻く右派・改憲勢力の温床的存在である「日本会議国会議員懇談会」と並行して「神道政治連盟国会議員懇談会」があり、現在の会長は安倍晋三。第3次安倍内閣では、閣僚20人のうち公明党所属以外の19人が神道政治連盟議員懇談会の会員]である。

 こういった神社本庁の影の権力が横暴を極め、不評を買っているようだ。こんぴらさんにもそういったことがありそうで、現在有名な神社であっても、鎌倉宮・靖国神社・伏見稲荷大社・日光東照宮・気多大社・梨木神社・新熊野神社・富岡八幡宮など神社本庁との被包括関係を有せず、単立宗教法人として運営されている。

 もともと、日本はやおろず(800万)の神の国で、それぞれの独立性が強い。それを一つにまとめて皇大神宮を中心に置こうとしたのは明治になってからで、「国家神道」にしてしまった。

 西欧先進国が、キリストを中心に文明を築いているのに倣おうとしたのかも知れない。

 しかし、「教義」がないため「神風特攻隊」など、相当無理を重ねてきたことを、いまだ気が付かない人々が多い。

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2020年5月26日 (火)

中国革命を予言した男

 以下、大正十四年(1925)十二月に書かれた宇垣一成の日記にある。

「然り支那の四億の国民が理解の下に赤化する様の事は勿論あるまい。乍併四億民衆の内に力あるもの一万内外の赤化主義にかぶれ来たら夫れで支那全土の赤化は成立すると考へられることは露国の覆轍を見れば明瞭である。即ち露国の赤化は弐億余の民衆の自覚より起りたるにあらずして、数万内外の有力なる猶太系露人の先導によりて出来上りたのである。思ひを茲に致せば支那は赤化する心配なしとは頗る暴断である。而して数万有力者の共産化は一躍支那全土を赤化せしむるに至ることは露国の例に徴すれば有り得べきこと覚悟して居らねばならぬ。」(『政治家の文章』岩波新書)

 この年のはじめ、日本は革命後のソ連と国交を樹立し、422日に共産主義運動取締のため治安維持法を公布した。一方、陸軍大臣であった宇垣は、5月1日に陸軍4個師団を廃止、軍の近代化を図る、いわゆる「宇垣軍縮」を断行している。

 頭書の中国革命預言は「お見事」としか言いようがないが、大正から昭和にかけての歴史に度々登場する「宇垣 一成」の人物像はあまり知られていない。

 陸軍大臣として顔を出すのが大正13(1924)の清浦圭吾内閣、それから4代連続し1代飛んで浜口雄幸内閣の1931年まで続く。

 軍を侮辱したという衆院の質問、いわゆる「腹切り事件」が起きて広田弘毅内閣が総辞職した1937年の後継首班として宇垣に組閣の大命降下が下るが、陸軍が抵抗して陸軍大臣の指名を拒み不成立となる。

 この年、近衛文麿内閣のもとで盧溝橋事件が起き、日中戦争がはじまる。宇垣は外務大臣として入閣するが3か月あまりで交代する。

 宇垣は陸軍現役の大物だったが、岡山出身で伝統的に受け継がれた長州閥ではなかった。日記で見られるように漢籍に造詣が深いものの、徳富蘇峰や吉野作造のような文人でもなかった。

 昭和6年(1931)三月に起きた三月事件というのは、宇垣を手っ取り早く首相に据えるためには、軍事クーデターに頼るのがいいとする、参謀本部・ロシア班長の橋本欽五郎中佐らの計画である。民間右翼の大川周明などを抱き込み、宇垣が首謀者の位置にいたが、そのようなことをしなくても、政権奪取の芽が見えてきたとして、宇垣がストップをかけた。これは以後秘密とされ、表に出たのは戦後になってからである。参議院議員となって政界に復帰したものの在職中に死去した。

 昭和史の闇の部分を知っていた男だと思う。

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2020年5月 5日 (火)

林羅山の三男

 祝日が憲法記念日、みどりの日、こどもの日、と続いた。例年と違って手足をしばられ、何もできない記念日だ。

 立憲民主党の安住淳国対委員長は4日、安倍晋三首相が新型コロナウイルス感染拡大を受け、憲法への緊急事態条項創設を国会で議論するよう求めたことに対し、「コロナ問題と闘っている最中に制度論や憲法改正にすり替えるのはおかしい。そうした議論にはくみしない」と反発した。

 これに共産党も同調する。気持ちはわかるが、安倍首相の狙いをあぶりだすため、憲法記念日の存在を高度に活用するのが政治家のつとめである。そこから逃げようとしているかぎり、立民党の支持率低下に歯止めがかからないだろう。

 江戸徳川幕府の時代には憲法はない。それにかわるべきバックボーンをなしたのが、儒教を柱とする林羅山で有名な昌平黌の存在だった。

 林羅山は幕府の御用学者との批判もあるが、戦国時代を脱し250年にわたる独特の文化を保ち続けたのは、三男である林鵞峰の功績である。

 彼が亡くなったのは、綱吉に代替わりした年、1680年の5月5日、今日がその命日である。彼の博識ぶりは父におとるものでなく、弘文院学士号を与えられ、訴訟関係・幕府外交の機密にもあずかった。

 日本史に通じ、父羅山とともに『日本王代一覧』、『本朝通鑑』(『本朝編年録』)、『寛永諸家系図伝』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。

 多方面な関心をいだいて博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配イデオロギー形成の端緒を開いたとも評される。

 寛永20年(1643年)の著書『日本国事跡考』のなかで松島、天橋立、嚴島をあげ、これを日本の「三處奇觀」と称して、日本文明の中に位置付けた。2006年(平成16年)、林鵞峰の誕生日にちなみ、721日を「日本三景の日」に制定している。

 徳川時代を概観するうえで、鵞峰は羅山をこえるものがあるようだが、塾頭には、これからの宿題にしておく。

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2020年5月 3日 (日)

コロナは歴史に残らない

 くる日もくる日もコロナで大騒ぎ。こんな騒ぎを過去の歴史に照らしてみて、どう書き残されるのだろうと思った。

 第一次大戦最後の年(1918)に日本を襲ったスペイン風邪は、それから3年にわたって猛威を振るった。当時、庶民、政府、経済は、これにどう立ち向かったのかを調べてみたいとも思った。

 家にある現近代歴史書、辞典、年表など、いずれの索引をあたっても「スペイン風邪」「インフルエンザ」等の文字はでてこない。つまり、歴史記述はひとこともないということだ。その点、さすがはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』だ。その甚大な被害が書かれている。

・流行1918(大正7)年8-19197

 患者 21168398

 死者 257363

 致死率 1.22%

・流行1919(大正8)年8-19207

 患者 2412097

 死者 127666

 致死率 5.29%

・流行1920(大正9)年8-19217

 患者 224178

 死者 3698

 致死率 1.65%

数字の扱う期間が、コロナは3分の1に満たないし、とりかたも違うので単純比較はできないが、コロナは5月3日現在、

 累計感染者数 14893

 死亡者数 492

となっていて、それに比べると何桁も低い水準にあることがわかる。

 社会現象は、重要な歴史構成要素だと思うが、伝染病はなぜ「歴史」にならないのか、「その筋に詳しい人」の解説がほしいところだ。

 

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2020年4月22日 (水)

日米同盟と自衛隊の関連

 安倍首相とほぼ同年配人が書いた本があった。自衛隊を論述する中で、その核心は日米同盟の存在で、占領時代GHQが指針を示した日本国憲法同様、双方に矛盾を来たさないよう運用すべきというという肯定論だ。

 19日の「敗戦こぼれ話」でも書いたが、「敗戦」というようなエポックメーキングな出来事があると、その前奏曲となるべきエピソードがあってもかき消され、真の姿が見えてこないことが多い。

 安倍首相は、学齢に達する前、祖父の岸信介首相の前で「あんぽ反対、あんぽ反対」とはしゃぎ、「あんぽ賛成と言いなさい」とたしなめられたという話がある。

 全学連の連日にわたる蛇行デモ、電車も郵便も止まるゼネスト、いわゆる60年安保闘争は、幼児の心にも深く刻まれただろう。この時、「あんぽ」はすでに存在し、岸は条約の有効期限を定めたり、経済条項を加えるなどの改訂を企図していただけで、195198日の講和条約締結とともに日米間で締結されていたものである。

 講和条約が締結されれば、対日米占領軍存在の法的根拠はなくなる。その準備態勢は、占領開始3年後にはすでに立てられていた。年表で示すと次のようなものになる。

1948-5-1(昭和23) 海上保安庁設置(英・ソ・中反対、米が強行)
・   0-7 米国安全保障会議、「アメリカの対日政策についての勧告」決定。占領政策を転換、冷戦体制へ日本を組み込む。
1950-6-25 朝鮮戦争勃発
    6-29 北(朝鮮)が半島南端まで攻め込み、日本に迫る勢い。小倉・八幡・門司市に警戒警報発令、灯火管制実施
    7-8 マッカーサーの指示で10日に警察予備隊令公布(75000)

1951-1-25 ダレス米講和特使来日、吉田首相と3次にわたり会談、日本の再軍備を要求。日本、新しく5万人の保安部隊計画を示す。米軍の日本駐留と日本の再軍備の方向性固まる。

 ここで見るように、この段階は冷戦というより、共産圏の民族解放運動や共産主義革命の伝播がどの国でおきても不思議でなかった。日本も同然で、米駐留軍は外部からの侵略を防御するが内部の武装革命などの内乱は日本の組織が対応すべき、という米側要請が警察予備隊のスタートとなる。

 しかし、当時の日本共産党は国際派・民族派などに分裂しており、全学連赤軍派などにも国民の支持はなく、うちからの脅威はそれほど感じなかった。それより、上述の朝鮮情勢から警戒警報など、戦中に引き戻されたようなせっぱづまった用語に一驚、米占領軍は当分存続してほしい、という気分の方が勝っていた。

 自衛戦力を持つにしても、徴兵制復活には反対、という署名運動を始めたぐらいだ。しかしマッカーサーは朝鮮情勢次第で日本占領の成果が失われるという見地から朝鮮に兵力をつぎ込み、北の勢力を中国国境まで押し返す。

1951-7-10 朝鮮戦争の最後は、中国の義勇軍を含む北が38度線までを確保、そこで停戦となって現在に至っている。
1951-9-8 対日講和条約調印(ソ連・チェコ・ポーランド・インド・ビルマ・中華民国は不参加)・日米安保条約調印

 日本は、1952年(昭和27年)1015日に警察予備隊を改編して保安隊と名を変え、さらに、

・1954年(昭和29年)69日、防衛庁設置法公布と共に陸・海・空の自衛隊という今の姿に発展、外国からは軍隊視されるようになる。

 このように、自衛隊のスタートは警察予備隊から始まっており、生まれたのは安保条約締結より前である。そういった経緯からすると、自衛隊と日米同盟が密接不可分のように見るのは、塾頭にある当時の知見からしても無理がある。

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2020年4月19日 (日)

敗戦こぼれ話

 戦中と戦後を分けて歴史を語ることは、当然視されている。終戦記念日があることもあって、原爆、ソ連参戦、玉音放送はよく知られているものの、ポツダム宣言受諾に至る政治的経緯についての説明はあまりない。

 開戦は、東条英機が近衛文麿に代わって総理となり、陸軍大臣と内務大臣を兼任する中で決断する。戦勝にわいたのは最初の半年だけで、太平洋の戦況は悪化の一途をたどるが東条は独裁体制を手放そうとはしなかった。

 その責任を問う有力政治家を中心に倒閣工作が始まった。東条は天皇の信任が厚かったこともあり宮中への手回しも必要であった。

 天皇の弟・高松宮宣仁親王は、海軍現役の立場で東条の指揮に反対し、近衛文麿など有力政治家は東条の指導力に限界を見た。

 近衛の手足となって倒閣勢力を糾合する黒子役を務めたのが、熊本藩主の後裔で、政治秘書をつとめた細川護貞である。東条が応じない場合は暗殺計画まで立てられた。

 その段階で日本史上初めてとなる「敗戦」という大きな潮流が動き出したのである。もし細川の存在がなかったら、現在見られるよう「終戦」の姿は見られなかったであろう。

 高松宮と近衛そして細川の肝胆相照らす関係について、そもそものはじめが、『高松宮日記第二巻』昭和十二年四月二十一日付に書いてある。

夜、細川護貞の結婚披露あり華族会館へゆく。お嫁さん近衛公の二女温子(よしこ)。始めは半ば恋愛だったので婚約したのが、少しお嫁さ[]オテ[]バすぎるので仲違ひしかけたのを、またそのため大急ぎと云ふわけか式をしてしまつた。全く花よめらしくない。うまく貞ちゃんがつゞけられ[]ばよいがと言ふ感じなり。(後略)

 歴史の大潮流も、こんな下世話ばなしの下地が支えていた。これがなければ別の展開になったかもしれない。

 

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