歴史

2018年10月12日 (金)

昭和の人

(『新訂・海舟座談』岩波文庫)抜粋

ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし十年にして人心が一変するよ。水野から阿部、それから井伊ネ、その跡を推して見せると直にわかるテ。しかし、水野、阿部と人をさして言うから、間違うのだ。勢いの移り変わりだから。水野の時は、外国のために準備すると言って、八釜しいことであった。阿部の時には、水戸が勤王攘夷とか言うて、騒々しかった。西郷らが王政復古をしたそのつど、あとから見ると、先の事が馬鹿らしく見える程に、勢いが変わってしまう。

来年は平成最後の年になる。それでは昭和最後の年、平成最初の年には何が起こったか。

国民に初めて消費税が課せられ、ベルリンの壁が崩壊して冷戦が遠のく。さらに昭和天皇と同じ年に亡くなられた方をあげてみよう。10人以上業績や顔浮かべばあなたは昭和の人だ。

1/7昭和天皇(87)、2/9手塚治虫(60
3/20五島昇(72)、 4/10色川武大(60
4/11島岡吉郎(77)、4/14西堀栄三郎(86
4/27松下幸之助(94)、5/2春日一幸(79
6/24美空ひばり(52 6/25尾上松緑(76
7/29辰巳柳太郎(84)、8/18古関裕而(80
9/27
谷川徹三(94)、12/9開高健(58
12/12田河水泡(90

20世紀年表』小学館、より

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年10月 5日 (金)

教育勅語の幼稚園児並解釈

今日は、朝日・毎日の2紙が教育勅語を題材にしている。

森友学園の幼稚園で、教育勅語を園児に唱和させているのを聞いて感動した首相夫人が、首相の意をたいするような形で学園の名誉職についたことから同勅語の知名度は上がった。

そこへ教育勅語には、「現代風にアレンジすれば道徳の授業などに使える分野が十分にある。普遍性をもつ部分が見て取れる――」などと柴山昌彦・新文部科学相が就任会見で所論をのべたため、安倍新内閣の体質に危惧感を抱いたのが両紙社説の趣旨である。

これまでも、下村博文元文部大臣・稲田朋美元防衛相が持論としており、首相側近であった柴山氏なら言いそうなことだ。そこに日本会議が「明治の精神」の中核に据えようとしている謀略が見て取れる。

「教育勅語」のフレーズ検索で当塾へのアクセスも増えている。そこで勅語の文体そのものと読み方を掲載しているので参考にしていただきたい。

いつも私ごとで気が引けるが、8年間教育勅語づめの学習経験があり、その後は「戦後レジーム」をそのまま体験している世代だ。安倍首相などとは年季が違う。新聞などの指摘、教育勅語の「一旦緩急あれは義勇公に奉し」の部分だけでなく全体に目を向けてほしい。

教育勅語復活派は、出だしが「朕思うに」ではじまるので明治天皇直接のお言葉のように扱いたいのだろうが、内実は大分違う。明治時代は、中世の南北朝いずれが正しい皇統かが議論となり、天皇の意見を聞いたところ、明治天皇の先祖ではない南朝という答えがあったとされる。

したがって「皇祖皇宗国を肇ること宏遠に徳を樹つること深厚なり」という万世一系論を天皇が信じていたはずがない。「徳」は、後で出てくる「忠・孝」同様、中国・儒教ことに徳川幕府が教養の中心に置いた朱子学のものである。日本古来のものとする証拠が全くない。

当時自由民権思潮が盛んになり、福沢諭吉のような穏便な言論にさえ危機感を抱いた有司は、上からの国論操作を定着させる切り札がほしかった。

そこで当時「勅語メーカー」とか「影の総舵手」いわれた、井上毅らの手により、急ごしらえの案文を練り上げたものである。発布は、第1回帝国議会開会の一か月前、明治23年10月30日であった。

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月22日 (土)

身についた歴史を

テリトリーに「歴史」などの項目を立て「なにか偉そうな」持論を書いている。それでいいのか、最近の時代の激変にやや自信喪失気味になりかけている。IT技術の方はとっくにバンザイしてしまった。

若かりし頃は、唯物史観、発展段階史観、労働価値学説などの全盛時代であった。その物差しを今でも使ってしないかということが心配になってくる。使っても別に悪くはないが、「帝国主義」「植民地支配」「金融資本主義」などという用語で物を考えがちであることは否めない。

民主主義も、日本の政党のほとんどが「民主」を党名に入れており、かつてのようにキラキラ名ではなくなった。

それならばどの角度から歴史を見るか。近現代の「史観」が現れる前から、日本では、中国古典にはじまり、『日本書紀』『万葉集』『平家物語』その他多くの文献・史料に接することができたしこれからも続く。

その流れの中で史観にとらわれず近世を考えていくのが正道で、祖父母の代、父母の代そして自身の体験や見聞は、そのままが歴史であり、後付けの「史観」で潤色すべきではなかろう。それにも文献・史料が大きな役割を果たす。

公文書の改ざん、秘匿、廃棄が歴史に対する大きな犯罪であることを知らなければならない。それができないようでは、世界に貢献したり国益を守ったりすることが不可能である。

史観は、ひとりひとりの中にあるということを痛感するのである。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年8月27日 (月)

明治150年の意義

 拙著に『浪士石油を掘る』と題した幕末・明治を自由奔放に駆け抜けた無名浪士の伝記がある。主人公は、幕府が組織する浪士組の一員だが稀代の暴れ者で、入出獄を繰り返した。

 明治になってから勝海舟や山岡鉄舟の後援で天皇資金を得、越後で石油の掘削に成功する。国産資源開発勃興に寄与したわけだが、薩長土肥(現、鹿児島・山口・高知・佐賀)など「維新」の志士と違ってほとんど知られていない。

執筆のため、当時の文献資料をいくつか調べたのだが、気が付いたのは「維新」という言葉に接することがほとんどないことだ。

一番多いのが「ご一新」「世直し」で、「回天」は幕府側でも使っていた。意外に多いのが「革命」である。「明治維新」がいつごろから定着したのか調べていないが、「維新」という中国古典からの引用に落ち着いたのは、相当後になってからだろう。

昭和になって5・15とか2・26など右翼と青年将校などが組んで起こしたクーデター計画があり、彼らは「昭和維新」を名乗ろうとした。したがって「維新」という言葉は好きでない。

大阪を中心に「維新」をつけた政党・政派が多いのは反中央を意識してのことだろうか。そのせいかローカル政党のようでさっぱり伸びない。

維新150年をクローズアップする企画が政府にあるが、歴史研究に陽をてること自体はいいことだ。しかし「維新」はその本質を誤らせるおそれがあるので取った方がいい。

「紀元二千六百年、祭りは終わった。さあ戦おう!」で、太平洋戦争直前のようにならないよう留意が必要だ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年8月20日 (月)

終戦の日か敗戦の日か

8月15日を終戦の日という。どうして「敗戦の日」と言わないのか、敗戦を認めたくない日本政府が、あいまいな表現を用いたまやかしである――という主張が主に左の方からされる。

これをとらえた中国メディアが、対日バッシングに使っているが、明らかに日本発の材料を使ったものだろう。

「終戦の日」は当時何の違和感もなく受け入れられており、その後もズーット使われている。日本人が「敗戦」を強く印象づけられたのは9月2日、不自由な体をおして重光外相が東京湾に浮かぶミズリー艦上に赴き、降伏文書に調印した姿を映像で見た日になる。

終戦の詔勅は、ポツダム宣言を受諾する旨を、米英ソ関係国に通達するよう政府に指令したという内容になっている。関係国がそれをどう受け取るかまだわからない段階であり、国民は当日以降電灯を黒い布で覆う灯火管制を続けるのかどうかの迷いもあった。

結局、国民がアメリカを信用できるかどうか、国民の判断に任された。現に、ソ連は8月28日から9月5日までの間に北方4島を占領、領土化した。ポツダム宣言受諾を知りながら、終戦の6日前に日ソ不可侵条約を一方的に破棄、参戦したことを含めて、火事場ドロボーのようなことをしたのだ。

つまり8月15日は、法的に「終戦」でいいのだ。その解釈をいじくりまわして卑屈になる必要は何もない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月31日 (火)

七年一変の説

(『新訂・海舟座談』岩波文庫より)

ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし十年にして人心が一変するよ。水野から阿部、それから井伊ネ、その跡を推して見せると直にわかるテ。しかし、水野、阿部と人をさして言うから、間違うのだ。勢いの移り変わりだから。水野の時は、外国のために準備すると言って、八釜しいことであった。阿部の時には、水戸が勤王攘夷とか言うて、騒々しかった。西郷らが王政復古をしたそのつど、あとから見ると、先の事が馬鹿らしく見える程に、勢いが変わってしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月15日 (日)

元号、政治利用は中止を

西日本大水害など内外多端の折柄、内閣府がすすめる「明治150年」キャンペーンは影が薄くなった。維新を表現する4文字熟語「文明開化」「富国強兵」「有司専制」「廃仏毀釈」「薩長土肥」などが安倍首相の心底にあるとすると、ぞ~っとしないでもない。

ただし、幕府側にあって維新に貢献した人は安倍氏が考える劇中の志士などよりはるかに多い。そういった正確な現代史を普及するための企画であれば反対する理由ばないが、「戦後レジームの脱却」を言うような人にそれができるはずはない。

災害の年にそれをやれば、歴史の上でも批判の的になる。元号を政治に利用するのは、この際やめた方がいい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月28日 (木)

これからは「少年時代」

 中世の社会・文化史を切り口に時代を説き起こしたことで有名な歴史学者・網野善彦氏は、『「日本」とは何か』講談社学術文庫、の冒頭でこう述べている。

一九四五年八月六日
 人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったといわざるをえない。

その日付は日本の広島に原爆が投じられた日を指している。以来、核兵器の廃絶を目指す国際環境づくりが議論され、さらに高度成長の中でもたらされる自然破壊や公害の克服に、という自然と人間の関わりかたに取り組む動機となったとしている。

そして、「“進歩史観”によって無視され、切り落されてきた世界にまで広く目を配り、人類社会の歴史像の歪みを、その『壮年時代』にふさわしく正さなくてはなるまい」としめくくる。

この本の初刊は18年前の2000年である。「壮年時代がまだ続く」という、網野氏の見立てであったように見える。氏による「青年時代」の定義はないが、産業革命や国民国家成立以降という見方もできるだろう。

ところが昨今、早くも壮年時代にかげりが見始めているのではないか、という漠然とした不安が出はじめている。一時は、壮年時代をリードしてきたように見えた日本やアメリカである。

トランプ大統領や安倍首相の言動からは、壮年の慎重さや謙虚さを見ることが難しくなった。どうかすると未熟な気まぐれ発言や幼児性発想で支持を維持しているようなところがある。

公害摘発などで壮年時代の旗手を担ったマスメディアも、活字・放送離れが急速に進みスマホに取って代わられようとしている。それが壮年時代継続につながらず、網野氏の期待に反して衰退を加速しているのではないか。

日本では少子高齢化が叫ばれ、欧米では移民難民問題で揺れ動いている。だから、人類未経験の老年期へ――ということにはならない。壮年が老化しただけのことである。

それならば、次はどういった時代か。本塾が敢えてこの問題に取り組むとすると、ずばり、少年・少女時代であるとしておく。

囲碁、将棋の世界では、10台がプロ高段者に挑戦し諸タイトルを奪う勢いだ。スポーツでもそれが顕著になってきた。

戦国で先の見通しもない少年時代を、今川家の人質として苦難の道を歩んだ徳川家康は、その体験を活かし近代につなぐ江戸時代の礎を築いた。官軍に最後まで抵抗したのも、会津白虎隊の少年である。

麻生財務大臣は10代~30代の選挙民について「一番新聞を読まない世代だ、新聞を読まない人は全部自民党(支持)だ」「新聞取るのに協力なんかしない方がいい。新聞販売店の人には悪いけど、つくづくそう思った」などと、新潟知事選の勝利を受けて発言したそうだ。

ところがどっこい。27日に文科省が公表した全国学力テストを基にした調査分析をがでてきた。

そこでは、日ごろから本や新聞に親しむことや、規則正しい生活を促していいる家庭の子供は親の収入や学歴が高くなくても子供の自制心や意欲の強さと学力の間に緩やかな関係性があることも浮かんだとある。

これから政治家や官僚を目指す若者が、このような人で占められれば、麻生大臣の期待は空中楼閣に終わる。

これからの時代は、現在の少年の時代になる!。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年6月20日 (水)

“幻の駅”復活

  京成線の上野-日暮里駅間にある“幻の駅”として人気漫画にも取り上げられた旧博物館動物園駅が19日、1997年3月の営業終了以来、21年ぶりに報道関係者に公開された。

日暮里を過ぎると上野の山をトンネルで入り、そのまま地下鉄になる。寂しい駅だが塾頭も一、二度利用したことがある。国立博物館近くで上野動物園入口も終点・京成上野駅より近い。

ホームの長さが4両分しかなく、6両編成以上になってしまった現在、それに合わせて駅を掘り進めるほどの利用価値がないという判断だったのだろう。

ホームには、近くにある東京芸術大の学生が描いたとされるペンギンの絵などもある。京成電鉄は東京芸大と協力して旧駅の改修や清掃を進め、秋にも一部を一般公開する方針だ。

地上の駅舎もしゃれた造りで、開業が1933 年、2004年に廃駅となった。廃駅は取り壊すのが普通だが、地下を含め今年4月に鉄道施設として初の「都選定歴史的建造物」に指定される。

 こういった幻の地下駅は、東京メトロ(「営団地下鉄」)銀座線の旧・新橋、上野、万世橋などに別用途で現存する。銀座線と丸の内線は、架線からではなく第三軌条から電気をとる前世紀の技術による電車だ。

 路上を走る都電も、荒川線しか残っていない。鉄道フアンを対称にこういった歴史遺跡的施設をめぐるバスツアーを企画しても成り立つのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月18日 (金)

赤レンガ保存へ方向転換

 

 今日は久々に地方版(毎日新聞)からである。赤レンガ建物の写真や経緯については「陸軍遺跡崩壊」を見ていただきたい。

市川市、県有地取得し赤レンガ保存の意向

(前略)大久保前市長が県と協議の結果、県有地の取得を断念した経緯がある。

 赤レンガは旧陸軍の駐屯地だった国府台に唯一残る当時の建物。戦後、駐屯地の一部は県血清研究所)(2002年閉鎖)に変わり、赤レンガは倉庫に使用された。県の依頼で千葉大大学院の研究室が12年にまとめた調査報告では、「明治30年代(その後の研究でもっと古い可能性が出てきた=塾頭注)のレンガ造りの技術を示す貴重な建造物」と評価し、「国の登録有形文化財とし、行政や市民が利用するのがふさわしい」と提言している。(中略)

 大久保前市長は赤レンガ以外の土地は民間売却する案で県と協議していたが、研究棟の解体費などに10億円以上かかる見通しとなり断念した。(中略)村越市長は「公共施設(整備)の全体の計画の中で活用を考えたい」と述べ、解体費などの負担については明言を避けた。(後略)

 赤レンガ建物は陸軍士官学校の前身とされる「陸軍教導團」以来のものとされ、維新のモットーとなった「富国強兵」で、士族以外の農・商からも徴兵されることになった。そこで不足するのは職業軍人養成である。

 2018_05180004_2

 この一帯に戦後放置されたままになってた軍関係者の墓碑を集め、改葬したものが近くの竺園寺にある(写真上)。大部分は風化して墓碑の判読は困難だが、所属を「(陸軍)教導團」、没年を「明治一九年」「廿年」、出身地を「石見(鳥取県)」「鹿児島県」としたものがかろうじて読める。

 ここから、日清・日露そして大陸で活躍した下士官などが多く出征しただろう。同時に陸軍病院が併設されていた。太平洋戦争では、この地から東京空襲にやってきた米軍機を砲兵隊がねらって撃ったが一発もそこまで届かなかったという話も聞く。

 この地は、万葉集で名高い葛飾の真間や下総国分寺、里見・北条の古戦場などがそばにあり、戦前は軍都としてにぎわっていた。

 また、赤レンガのあたりは緑が多く、江戸川河畔でスカイツリーや富士山が望めるなど観光資源に恵まれている。村越新市長は「鎌倉のような」町作りを公約に掲げていたが、保存にあわせて「帝国陸軍記念館」を近くに設けるのもいい。陸軍病院は埼玉大学名誉教授・清水寛埼玉大学名誉教授編『日本帝国陸軍と精神障害兵士』という貴重な史料もある。

 県所有の研究所解体に金がかかる?。負担軽減のいいお手本がある。「瑞穂の国小学校用地」だ。ついでに、明治150年記念行事に補助金制度ができれば、それもゲット。

 ちょっとはしゃぎすかな\(^O^)

 

 

 

 

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧