歴史

2019年6月25日 (火)

「万世一系」の誤解

 女性天皇反対のため、保守系議員は天皇制についてよく「万世一系」ということを口にする。これには、明治維新当時の国粋主義復活へ持っていこうという魂胆があるからなのだろう。

 この語の初出は慶応3年で、「王政復古議」に「皇家は連綿として万世一系礼学征伐朝廷より出で候」と指摘した岩倉具視による。(中野正志『万世一系のまぼろし』朝日新書)

 尊皇攘夷の下地を作った皇国史観は、北畠親房の『神皇正統記』や国学の本居宣長、そして水戸学などに受け継がれるが、すべて歴史研究についてはベテランによるもので「一系」の「系」は、系列の「系」ではなく、系統の「系」ととらえ、中国のような王朝の交代はなかったという意味からきている。

 だから、朝廷により神代から素晴らしい政治が続いてきたとは言っていない。暴政もあったしノータッチの時代もあった。

 それが、岩倉や伊藤博文らが大日本帝国憲法を起草する段に至って次のように取り入れられた。これで見ると「万世一系」は議会とバランスを取る上での苦心の産物のように見える。

上論

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫滋養シタマヒシ所ノ臣民ナルコトヲ念ヒ(後略)

第一条 大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ

 現状の保守政治家は「万世一系」を取り違えているのだが、これを指摘、矯正しようという動きは、どこからも出ていないように思う。

 

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2019年6月 8日 (土)

江戸時代の児童福祉

 毎日のように報道される児童虐待、近親者の殺傷事件、それを後追いする政治と施策――。

 江戸時代はどうだったか。以下、西山松之助編『江戸ことば百話』東京美術、から拾った。

町内で捨て子があると、その旨を届け出た上、町内で大切に養育し、素性の確かな貰い手があれば、養育金までつけてやり、もらった方もその旨を届け出ている。こうした安心出来る方法を取っているため、子供が多くて生活に苦しむ者が捨て子をするのである。(『正宝事録』1725・享保10年)

 その一方で、こんな犯罪も。

奉公人同士が密通をしたため解雇となり裏長屋に住んだが、子供が生まれてその養育をしかねるありさまとなった。そこで計略を巡らし、わざと我が子を捨て子にし、その子を養ってもらっておいて、自分は引越しをし、名前も改めて他人を装い、その子を貰いに出る。そうして養育金三両をまんまとせしめた。(『金(こがねの)父母(かぞいろ)1777・安永6年)

 なんとも、のどかでほほえましくもある。ただし、今、それを復活させるわけにはいかない。無情なDNA検査が邪魔をする。

 

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2019年5月30日 (木)

「神の国」でない明治維新

 「天皇中心の神の国」と言ったのは森喜朗元首相である。明治維新からそうなったと信じる人は、自民党を中心に多く、その中心を森友学園の幼稚園で斉唱させたという教育勅語に置いている。

 とろが、その教育勅語の最後は、こう書かれている。

【教育勅語】

斯ノ(この)道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬(あやま)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス(もとらず)朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ咸(みな)其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ(こいねがう)

 つまり、この内容は、天皇にも遵守の義務があり国民と共同責任を負う、で結んでいる。起草したのは、天皇自身でなく、天皇側近の公卿と藩閥政治家で構成される官僚である。国会開設前なので、維新から明治中期まで通用していた常識で、天皇→神の発想はない。

 同様の例をあげよう。

【大日本帝国憲法】前文

国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗似承ケテ之ヲ子孫二傳フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章二循ヒ之ヲ行フコトヲタガワラサルヘシ

【大日本帝国憲法】告文

朕カ現在及将来二臣民ニ率先シ、此ノ憲章ヲ履行シテタガワラサムコトヲ誓フ

【軍人勅諭】

我国の御稜威振るわざることあらば汝等能く朕と其憂を共にせよ。

 以後、日清戦争開戦に激怒したとされることや、各天皇が平和愛好の立場にあり続けたことを見ると、現憲法の天皇のあり方は、ごく自然でであり、天皇を勝手に神とする不敬は許されない。

 

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2019年5月15日 (水)

なぜ世界遺産?

 昨日は、本塾のアくセス数が普段の倍を超えた。昨日書いたのは「閑地の花」という、それこそ閑ネタなので不審に思い、解析のページを開いた。

 原因は、2011年5月の「前方後円墳のなぞ」に対する検索によるものらしい。なるほど。百舌鳥・古市古墳群の世界遺産指定申請に関する報道の過熱ぶりが影響したと見える。8年前の記事、変なことは書いてないだろうな、と思ってページを繰って見たが、心配することはなかった。

 それより、今回の申請は、世界基準に無理に合わせようとして日本の古墳文化全体から見ると不自然で誤解を生む要素が多い。

 古墳マニヤの塾頭は、九州から東北・北限に至る各地の前方後円墳をいくつも見ているが、百舌鳥・古市だけはまだ行っていない。ついでがないことが大きいが、行っても自由に登れないことや、周辺の環境が造営当時と激変していることと、創成期の纏向古墳群や終末期の関東各地などの、歴史と文化の転換というロマンに乏しく、中間的存在として関心が薄いのが理由だ。

 宮内庁が「静安と尊厳を保つため」という理由で専門家の科学的調査を拒否し、今後も方針を変えないとしているが、仁徳陵の造営時期が想定より大きく後にずれ込んでいることが学会の定説となった。

 歴史書は、天皇名を除き「大山(だいせん)古墳」とすることが多くなり、教科書でも採用されている。ところが、今回は敢えて「仁徳陵」名で申請、「静安と尊厳を保つ」はずの政府方針が逆効果を生む可能性が出てきた。

 塾頭の悪い癖で、今回の申請自体その真意がわからず、政治的効果を狙っているように思えてならない。

 

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2019年5月 4日 (土)

平成元年には何が

 10連休もあと2日。令和フィーバーが続く中、さして書くこともないので、平成元年略年表を。

1・昭和天皇死去、皇太子昭仁が即位「平成」と改元 2・大喪の礼 3・竹下首相のパーティー券のリクルート社購入発覚 4・消費税実施(3%) 6・宇野内閣成立 中国天安門で民主化運動への弾圧事件 7・参院選で社会躍進、与野党逆転 8・第一次海部内閣成立 11・総評解散、連合と全労連結成 ベルリンの壁事実上撤廃 12・土地差本法成立 失脚したルーマニア大統領夫妻射殺

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2019年5月 1日 (水)

沖縄差別の歴史変造

 令和最初の日、沖縄の県紙2社の社説は、他マスコミ同様に歓迎ムードだった。ところが2日前のに琉球新報ではこうある。

 沖縄に関する限り昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。それらをあいまいにはできない。二度と同じ悲劇を繰り返してはならないからだ。昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた47年9月の「天皇メッセージ」も、沖縄の米統治に影響を与えた可能性がある。新憲法下での政治的行為だった。

 そうすると、先代、先々代の天皇の間に断層があることになるが、この書き方は、昭和史を歴史として扱う上で昭和天皇を誤解させる恐れがある。

 占領中のマッカーサー総司令官と昭和天皇は、直接の面会を通じて深い信頼関係があったことは、前回書いているが、昭和史としても通説化している。

 だが、引用中の「47年9月の天皇メッセージ」という表現が大きな誤解を与えるもとになっている。「メッセージ」は、「伝言」という軽い意味もあるが、アメリカの大統領教書のような重みのある伝達にも使われる。

 この場合のメッセージは、日常天皇の非公式発言や気持ちを察することのできる位置にいる寺崎宮内庁御用掛が、シーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解とされている(『寺崎英成御用掛日記』)。そのメモが、米国国立公文書館から公開されて、動かぬ証拠のように扱われるようになった。

 しかし、日米講和条約調印の4年前のことである。この年の5月6日、マッカーサーと昭和天皇が会見しており、ここで天皇は「もしアメリカが日本より撤退したら、誰が日本を保護するのか」と問うたとされる(前掲書)。

 ここからわかることは、昭和天皇が「メッセージ」で、沖縄を差別し復帰を遅らせたという解釈にはならないということだ。この年はすでに新憲法下にある。天皇の政治的発言はできないことになっていることは、双方承知しているはずで、本土と沖縄は同列に置かれていた。

 この年は6月に片山哲社会党首班内閣が成立し、7月に沖縄人民党が結成された。かりに、天皇発言がなかったとしても、本土にしても沖縄にしても革新勢力の進出で外国の干渉を受け、国内が混乱状態になることを内心恐れていたことは、十分にあり得る。

 それを、現在の辺野古基地に対する本土の差別意思などに関連させる思考があるとすれば、それこそ歴史の変造になる。

 諸資料から見て、昭和天皇は、全く逆の観点から差別なく国民の安寧を願っていたことがうかがえる。メディアも学者もこの変造を一刻も早く是正する任務がある。

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2019年4月19日 (金)

ええじゃないか

 天皇陛下伊勢神宮参拝で盛んにTVニュースの映像が流れる。それで思い出したのが、幕末の「ええじゃないか」大衆運動勃発である。皇大神宮のお札が空から降ってきたといううわさが発端である。

♪ええじゃないか ええじゃないか

臭いものに紙を張れ 破れたらまたはれ

ええじゃないか ええじゃないか

 こうはやし立てて、阿波踊りのように踊り狂う集団が、中部地方から全国各地にひろがっていく。そのまま、伊勢に向かう一団も出る。歌詞は世を狭くするタブーの否定で、歌詞は卑猥なものも含めてまちまち、神の世の再来で何をしても自由という願望が背景にある。京都では反幕の志士が活躍している頃だが、これとは関係がない。

 同時に「世直し一揆」という農民運動や、不満のはけ口として「打ちこわし」にも火がつく。このような大衆のエネルギーが大政奉還や討幕に大きく影響した。

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2019年4月 8日 (月)

県議選に行きました

 当地の最初の統一地方選は、県会議員で始まった。全国的には各地まちまちでコメントのしようがなく、塾頭の投票行動を示しておくことにする。

 久しぶりに共産党の新人候補に投票した。結果は落選。この地区における党の議席はなくなった。投票の理由は、本塾がこれまで数回取り上げている、本邦最古の陸軍教導團(後の士官学校)の赤れんが造倉庫を、かつての軍都を象徴する記念物として保存するということを、唯一公約として公報に掲げていたからだ。

 去年、任期満了による市長選で立民党から出馬、当選した現市長は、保存の意向を示しているが、広大な敷地と他の建物とともに、現在県の所有となっており、「県との調整が必要」として具体案を示していない。県を説得する立場の県議が生まれればプラスになるとの思いがあった。

 立民からは、女性新人候補がトップ当選した。全体を見ても議席を増やしている党は立民だけであるが、中央同様自公の厚い壁には歯が立たない。

 タレント出身の県知事・森田健作は「金のかかることはしたくない」だけで動こうとはしない。このまま放置すれば旧陸軍の歴史を綴る記念物としてだけでなく、東京駅や富岡製糸工場跡に匹敵する建築物遺産が消えてしまう。

 保存運動は、国からか地方からか。やはり地方からだろう。

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2019年3月29日 (金)

ロシア気質

 その日のニュースに食いつきたくなるような題材があればそれを採用するが、ない場合は、本棚を見渡して、その中からタイトルを見ながら、今日につながるような内容がありそうな本を、パラパラとめくって見る。

 今回手にしたのは、司馬遼太郎『ロシアについて』文芸春秋、である。『坂の上の雲』という代表作のある著者が、舞台となる日露戦争の対戦国をどう理解するかについて調べたことが書いてある。

 1986年、ソ連崩壊5年前の本だが、北方領土問題で一向に焦点が合わない相手を知る上で、なかなか有益な内容がある。最初は興亡する遊牧民族、支配者の興亡、異民族侵攻、帝政ロシアによる統一、ソ連の興廃などの記載を整理してみようと思ったが、マーキング・ぺーパーで山盛りになり、とても手に負えそうにもない。

 そこで、手抜きをして肝心なところだけを抜粋・引用する安易な方法で逃げることにする。

8ページ・北方領土について

日本国政府がこれを非とする――私も非とします――以上、政府はこれについての解釈と要請を何年かに一度、事務レベルでもってソ連の政府機関に通知し続ける――ことでいいわけで、あくまでも事は外交上の法的課題に属します。これをもって国内世論という炉の中をかきまわす火掻き棒に仕立てる必要はなく、そういうことは、無用のことというより、ひょっとすると有害なことになるかもしれません。

29ページ・ロシア王朝を引退したウィッテ伯爵(18491915)の回想録

ロシアは全国民の三五パーセントも異民族をかかえている。ロシアの今日までの最善の政体は絶対君主制だと確信している。

 なにがロシア帝国ををつくったか。それはむろん無制限の独裁政治であった。無制限の独裁であったればこそ大ロシア帝国は存在したのだ。

 

と書いているのは、かつての――あるいはその後の――ロシア的本質を考える上で、深刻な問題をふくんでいると思います。

 ソ連になってからも、毎年、メーデーの日に、赤い広場で、おそろしいばかりの威力を持つ兵器が、兵たちとともに行進します。私はむかしから、あれは外国に対する示威よりも、連邦内の諸共和国に対し、

 ――モスクワはこんなに凄い兵器をもっているのだ。むほん気をおこすのはむだだぞ。

と言っているいるのだと思っていましたし、いまも思っています。そのすごい兵器群に対し、たった一つの命令ボタンを押す権力のみが、ソ連を束ねているのだと思っています。

 北朝鮮や中国の党独裁と違う政体を持つロシアだが、長い歴史の中ではぐくまれた気質はそう簡単に変わらないものらしい。

 

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2019年3月28日 (木)

内地雑居

 政府の思惑通り盛り上がらなかった去年の「明治改元」から150年。その後間もなく開始された幕藩体制から立憲議会制への転換、鎖国から文明開化への変身は、たしかに日本史上画期をなす出来事だった。攘夷が消えて外交が始まったことも大きい。

 ただ、曲がりなりにも「開国」といえるようになるのは、最恵国待遇を認め合う1899年の日英通商航海条約締結からである。

 今年が120年目に当たる。それまではアメリカなど4か国との条約同様、在日外国人の治外法権が認められるかわりに、国内旅行の制限、居留地以外の居住や不動産取得は認められなかった。

 この時、攘夷の流れを捨てきれない国粋主義派が、条約に反対する国民運動を起こそうとして唱えたのが「内地雑居」である。ほかにも、巨大資本をバックに日本の国産石油の採掘権を脅かすとか、神戸の沖仲仕に大量の外国人労働者がやってきて日本人の職を奪うなどの反対論も出た。

 現在世界中で起きている「トランプによるメキシコ国境の壁」「イギリスのEU脱退」問題などと、どことなく似ているが、日清戦争勝利がもたらした一流国の仲間入りという雰囲気の中で「内地雑居」の声はかき消された。

 この問題、日本は120年前に卒業済といいきれるかどうか、怪しいものだ。

 

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