歴史

2018年7月31日 (火)

七年一変の説

(『新訂・海舟座談』岩波文庫より)

ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし十年にして人心が一変するよ。水野から阿部、それから井伊ネ、その跡を推して見せると直にわかるテ。しかし、水野、阿部と人をさして言うから、間違うのだ。勢いの移り変わりだから。水野の時は、外国のために準備すると言って、八釜しいことであった。阿部の時には、水戸が勤王攘夷とか言うて、騒々しかった。西郷らが王政復古をしたそのつど、あとから見ると、先の事が馬鹿らしく見える程に、勢いが変わってしまう。

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2018年7月15日 (日)

元号、政治利用は中止を

西日本大水害など内外多端の折柄、内閣府がすすめる「明治150年」キャンペーンは影が薄くなった。維新を表現する4文字熟語「文明開化」「富国強兵」「有司専制」「廃仏毀釈」「薩長土肥」などが安倍首相の心底にあるとすると、ぞ~っとしないでもない。

ただし、幕府側にあって維新に貢献した人は安倍氏が考える劇中の志士などよりはるかに多い。そういった正確な現代史を普及するための企画であれば反対する理由ばないが、「戦後レジームの脱却」を言うような人にそれができるはずはない。

災害の年にそれをやれば、歴史の上でも批判の的になる。元号を政治に利用するのは、この際やめた方がいい。

 

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2018年6月28日 (木)

これからは「少年時代」

 中世の社会・文化史を切り口に時代を説き起こしたことで有名な歴史学者・網野善彦氏は、『「日本」とは何か』講談社学術文庫、の冒頭でこう述べている。

一九四五年八月六日
 人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったといわざるをえない。

その日付は日本の広島に原爆が投じられた日を指している。以来、核兵器の廃絶を目指す国際環境づくりが議論され、さらに高度成長の中でもたらされる自然破壊や公害の克服に、という自然と人間の関わりかたに取り組む動機となったとしている。

そして、「“進歩史観”によって無視され、切り落されてきた世界にまで広く目を配り、人類社会の歴史像の歪みを、その『壮年時代』にふさわしく正さなくてはなるまい」としめくくる。

この本の初刊は18年前の2000年である。「壮年時代がまだ続く」という、網野氏の見立てであったように見える。氏による「青年時代」の定義はないが、産業革命や国民国家成立以降という見方もできるだろう。

ところが昨今、早くも壮年時代にかげりが見始めているのではないか、という漠然とした不安が出はじめている。一時は、壮年時代をリードしてきたように見えた日本やアメリカである。

トランプ大統領や安倍首相の言動からは、壮年の慎重さや謙虚さを見ることが難しくなった。どうかすると未熟な気まぐれ発言や幼児性発想で支持を維持しているようなところがある。

公害摘発などで壮年時代の旗手を担ったマスメディアも、活字・放送離れが急速に進みスマホに取って代わられようとしている。それが壮年時代継続につながらず、網野氏の期待に反して衰退を加速しているのではないか。

日本では少子高齢化が叫ばれ、欧米では移民難民問題で揺れ動いている。だから、人類未経験の老年期へ――ということにはならない。壮年が老化しただけのことである。

それならば、次はどういった時代か。本塾が敢えてこの問題に取り組むとすると、ずばり、少年・少女時代であるとしておく。

囲碁、将棋の世界では、10台がプロ高段者に挑戦し諸タイトルを奪う勢いだ。スポーツでもそれが顕著になってきた。

戦国で先の見通しもない少年時代を、今川家の人質として苦難の道を歩んだ徳川家康は、その体験を活かし近代につなぐ江戸時代の礎を築いた。官軍に最後まで抵抗したのも、会津白虎隊の少年である。

麻生財務大臣は10代~30代の選挙民について「一番新聞を読まない世代だ、新聞を読まない人は全部自民党(支持)だ」「新聞取るのに協力なんかしない方がいい。新聞販売店の人には悪いけど、つくづくそう思った」などと、新潟知事選の勝利を受けて発言したそうだ。

ところがどっこい。27日に文科省が公表した全国学力テストを基にした調査分析をがでてきた。

そこでは、日ごろから本や新聞に親しむことや、規則正しい生活を促していいる家庭の子供は親の収入や学歴が高くなくても子供の自制心や意欲の強さと学力の間に緩やかな関係性があることも浮かんだとある。

これから政治家や官僚を目指す若者が、このような人で占められれば、麻生大臣の期待は空中楼閣に終わる。

これからの時代は、現在の少年の時代になる!。

 

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2018年6月20日 (水)

“幻の駅”復活

  京成線の上野-日暮里駅間にある“幻の駅”として人気漫画にも取り上げられた旧博物館動物園駅が19日、1997年3月の営業終了以来、21年ぶりに報道関係者に公開された。

日暮里を過ぎると上野の山をトンネルで入り、そのまま地下鉄になる。寂しい駅だが塾頭も一、二度利用したことがある。国立博物館近くで上野動物園入口も終点・京成上野駅より近い。

ホームの長さが4両分しかなく、6両編成以上になってしまった現在、それに合わせて駅を掘り進めるほどの利用価値がないという判断だったのだろう。

ホームには、近くにある東京芸術大の学生が描いたとされるペンギンの絵などもある。京成電鉄は東京芸大と協力して旧駅の改修や清掃を進め、秋にも一部を一般公開する方針だ。

地上の駅舎もしゃれた造りで、開業が1933 年、2004年に廃駅となった。廃駅は取り壊すのが普通だが、地下を含め今年4月に鉄道施設として初の「都選定歴史的建造物」に指定される。

 こういった幻の地下駅は、東京メトロ(「営団地下鉄」)銀座線の旧・新橋、上野、万世橋などに別用途で現存する。銀座線と丸の内線は、架線からではなく第三軌条から電気をとる前世紀の技術による電車だ。

 路上を走る都電も、荒川線しか残っていない。鉄道フアンを対称にこういった歴史遺跡的施設をめぐるバスツアーを企画しても成り立つのではないか。

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2018年5月18日 (金)

赤レンガ保存へ方向転換

 

 今日は久々に地方版(毎日新聞)からである。赤レンガ建物の写真や経緯については「陸軍遺跡崩壊」を見ていただきたい。

市川市、県有地取得し赤レンガ保存の意向

(前略)大久保前市長が県と協議の結果、県有地の取得を断念した経緯がある。

 赤レンガは旧陸軍の駐屯地だった国府台に唯一残る当時の建物。戦後、駐屯地の一部は県血清研究所)(2002年閉鎖)に変わり、赤レンガは倉庫に使用された。県の依頼で千葉大大学院の研究室が12年にまとめた調査報告では、「明治30年代(その後の研究でもっと古い可能性が出てきた=塾頭注)のレンガ造りの技術を示す貴重な建造物」と評価し、「国の登録有形文化財とし、行政や市民が利用するのがふさわしい」と提言している。(中略)

 大久保前市長は赤レンガ以外の土地は民間売却する案で県と協議していたが、研究棟の解体費などに10億円以上かかる見通しとなり断念した。(中略)村越市長は「公共施設(整備)の全体の計画の中で活用を考えたい」と述べ、解体費などの負担については明言を避けた。(後略)

 赤レンガ建物は陸軍士官学校の前身とされる「陸軍教導團」以来のものとされ、維新のモットーとなった「富国強兵」で、士族以外の農・商からも徴兵されることになった。そこで不足するのは職業軍人養成である。

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 この一帯に戦後放置されたままになってた軍関係者の墓碑を集め、改葬したものが近くの竺園寺にある(写真上)。大部分は風化して墓碑の判読は困難だが、所属を「(陸軍)教導團」、没年を「明治一九年」「廿年」、出身地を「石見(鳥取県)」「鹿児島県」としたものがかろうじて読める。

 ここから、日清・日露そして大陸で活躍した下士官などが多く出征しただろう。同時に陸軍病院が併設されていた。太平洋戦争では、この地から東京空襲にやってきた米軍機を砲兵隊がねらって撃ったが一発もそこまで届かなかったという話も聞く。

 この地は、万葉集で名高い葛飾の真間や下総国分寺、里見・北条の古戦場などがそばにあり、戦前は軍都としてにぎわっていた。

 また、赤レンガのあたりは緑が多く、江戸川河畔でスカイツリーや富士山が望めるなど観光資源に恵まれている。村越新市長は「鎌倉のような」町作りを公約に掲げていたが、保存にあわせて「帝国陸軍記念館」を近くに設けるのもいい。陸軍病院は埼玉大学名誉教授・清水寛埼玉大学名誉教授編『日本帝国陸軍と精神障害兵士』という貴重な史料もある。

 県所有の研究所解体に金がかかる?。負担軽減のいいお手本がある。「瑞穂の国小学校用地」だ。ついでに、明治150年記念行事に補助金制度ができれば、それもゲット。

 ちょっとはしゃぎすかな\(^O^)

 

 

 

 

 

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2018年5月 5日 (土)

春秋戦国時代

だらだらと続いた連休も明日の日曜日でおわり。祝祭日の意味がうすれ、子供の意識に残りそうもない。しかし今日は「こどもの日」である。もとは端午の節句、3月3日桃の節句・雛祭りの女の子用に対する男の子の成長を祝う日だった。

ところが、「なぜ5月5日」となるとあいまいになる。日本の歴史が始まる前、中国の名高い詩人・屈原が汨羅(べきら)に入水自殺をした日で、中国でもこの日の禍を避けるためいろいろな行事・風習があるが、5は悪い月それに5が重なれば忌むべき日となる。

日本では雛祭りに華やかな内裏雛を飾る。5月の節句には鎧・兜などの武具を飾り、菖蒲湯用のアヤメの葉っぱをスーパーで売っていたりする。菖蒲は尚武に通ずる意味があるともいう。

屈原は、中国の戦国時代の人とされるが、その前の春秋時代を含め部族社会から覇権争いに明け暮れする複雑な歴史が展開し、なかなかわかりづらい。ただ、孔子、孟子、老子、墨子などの、いわゆる諸子百家が活躍し、諸国王に助言、提言したり直接公務に携わることもあった。

屈原の自殺は、愛する楚を思っての提言を、競争相手の讒言で王から遠ざけられ阻止された憤懣によるものであった。それが『楚辞』17巻として文献に残り、読み継がれている。

春秋戦国時代は、中国統一の揺籃時代である。その中で諸子百家が残している豊富な文献が、今の中国文化にどう影響しているのかしていないのか、塾頭にはわからない。むしろ、四書五経を教養の糧にした徳川時代の武士階層に残っていた可能性がある。以下、目加田誠『屈原』岩波新書より。

かつて春秋時代の荘王のごときは中でも著しい業績をあげた人だが、『春秋左氏伝』(宣公十二年)の中で、晋の欒武子はこの人を批評して、よく臣下をいましめ、人民を養い、武器を整備し、国民に勤勉の尊さを教えたことをほめているとともに、(中略)「およそ文字から言っても、武は戈(ほこ)を止めると書く」すなわち武とは、乱暴を抑え、武器を収め、国家の大業を保ち、勝利を確定し、人民を安じ、平和をいたし、衣食を足らすべきものだ。これが武の七徳である。今自分にはまだその一つもできていない。どうして子孫に誇ることができようか」といったという。

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2018年4月30日 (月)

日本最南端前方後円墳?

4月24日付け「陸奥ご自慢の前方後円墳」で日本最北端の前方後円墳を書いたが、これを見た人から最南端(福岡県田川郡赤村)、しかも日本最大の大山古墳に匹敵する巨大さの古墳らしき地形が話題になっていると知らされた。以下、18/3/20西日本新聞↓

201803200002_000_m1赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。

現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

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2018年4月24日 (火)

陸奥ご自慢の前方後円墳

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↑【雷神山古墳】宮城県名取市
4世紀末から5世紀前半。全長168m
 東北地方最大の前方後円墳とされているが、建造時期を考えれば畿内以北で最大級と現地は自慢。写真は後円部から前方部を望む。

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↑【角塚古墳】岩手県奥州市胆沢区
5世紀後半。全長43m
本州最北端の前方後円墳。8世紀になってから建造された多賀城の碑文に蝦夷国と書かれた境界よりはるか北に存在する大和形式の古墳。

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2018年4月 4日 (水)

侵略の歴史

前々回のシベリア出兵100年記事で、大陸侵略の始まりのような書き方をした。朝鮮人は、これが信用できないことを日本の歴史文献から知ることができる。

【古事記】(読み下し文『古事記』岩波文庫。かっこは、塾頭)

その大后息長帯日賣命(神功皇后)は、当時神を帰(よ)せたまひき。故、天皇(仲哀天皇)筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曽國を撃たむとしたまひし時、天皇御琴控かしむて、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。

ここに大后神を帰(よ)せたまひて、言教へ覚(さと)し詔りたまひしく、「西の方に國有り。金銀を本(はじめ)として、目の炎耀(かがや)く種種の珍しき寶、多にその國にあり。吾今その國を歸せたまはむ。」とのりたまひき。

ここに天皇答へて白したまひしく、「高き地に登りて西の方を見れば、國土は見えず、ただ大海のみあり。」とのたまひて、詐(いつわり)をなす神と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまはず、黙して坐しき。

こうして神の予言に従わなかった天皇はたたりを得て頓死し、神功皇后が軍を整え神託に沿った舟で渡海に成功する。

新羅の國に押し騰りて、國半(なかば)に到りき。ここにその國王、畏惶(かしこ)み奏言しけらく「今より以後は、天皇の命の随(まま)に、御馬甘(みまかい=御料馬を飼育する庶民)として年毎に船を雙(な)」めて、船腹を乾さず棹舵乾さず、天地の共興(むた)、退(や)むこと無く仕え奉らむ」とまをしき。

そして、新羅を御馬甘、百済を屯家(みやけ=出先の役所)と定めると書いている。かなり露骨な侵略をはかり、朝貢国にしたという記録である。

さらに、中世末期には豊臣秀吉が2度にわたり半島を蹂躙した。日本における天下取りは成功したが、協力した大名に報償として与える領土に不足した。秀吉は朝鮮から中国まで版図に入れ、天皇を中国へお遷しするというとてつもない構想を立てた。

本人の死亡で沙汰やみになり、秀吉の野心ははかなく消え去ったものの、戦功の証に殺した朝鮮人の耳や鼻を切りとってこさせたというひどいことをしている。

京都には耳塚という供養施設が残っているが、これで謝罪したことにはならない。しかし、塾頭は江戸時代をはじめ、それ以外は概して友好的だったと理解している。

 

 

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2018年4月 2日 (月)

シベリア出兵100年

明治150年もいいが、今年はあまり知られていない「シベリア出兵100年」にあたる。1918年(大正6年)4月5日、日英の陸戦隊は、日本人殺傷事件を好機ととらえ、ウラジオストックに上陸を開始した。これは、ヨーロッパの戦乱の余波を受け、この年の1月1日に英・日・米・仏などがウラジオストックへの共同出兵を協議したことに始まる。

前年にロシア革命が起き、共産軍が武装蜂起でソビエト政権を樹立していた。1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」というのがシベリア出兵の名目である。

ロシア革命に対する干渉戦争であるが、社会主義を封じるという目的より、帝国主義的な野心と経済的利害が優先し、混乱に乗じて軍事行動を起こすという時代になったのだ。日露戦争に勝った日本は、ロシア帝国から得た利権などを反故にしたくなかった。

こういった、外国の混乱に乗じた干渉出兵や、軍事援助などは、現在も中東やアフリカ各地などで続いている現象だ。この事件の研究を進める中で、多くの教訓を得ることができるはずだ。

日本は8月になってアメリカとの共同出兵宣言にこぎつけ、兵力を1万2000人として他国を上回る規模にして指揮権も握った。しかし独断で増兵をすすめ、ついには7万2000人を越えるまでエスカレートさせた。

連合諸国は20年1月に撤兵を声明、日本は継続する口実を失ったが駐兵を続けた。このため、地元や革命組織の激しい抵抗を受けて、1920年2月、いわゆる尼港事件を招き、民間人を含めて730人の死者をだして惨めな撤兵・撤退に追い込まれた。

日清・日露戦争が日本防衛のため、という口実が成り立ったとしても、シベリア出兵は満州事変に先行する侵略行為そのものである。しかも失敗例であった。

 

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