歴史

2017年10月 6日 (金)

古典で見る地震記録

[ストックホルム 5日 ロイター] - スウェーデン・アカデミーは5日、2017年のノーベル文学賞を長崎県生まれの英国人小説家カズオ・イシグロ氏(62)に授与すると発表した。受賞理由で「世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵」を明らかにしたと評価した。

今朝の朝刊ではあまり大きく取り上げていませんが、素晴らしいことだと思います。まだ対象となった本を読んでいません。そのうち日本の古典も、戦争、大規模自然災害がもたらす脅威そして無常観など、世界につながる感覚が、見いだされるのではないでしょうか。

先月メキシコで大地震が起きたばかりですが、太平記、方丈記などには自然災害の記録が克明に記されています。それが、後世への貴重な教訓となり、日本の文化にしみこんできました。

方丈記から元歴地震の記事を引用してみましょう。(『新訂方丈記』岩波文庫より。注記は塾頭)

又同じころかとよ。(注・太平記に類似する記事があり、元歴2/1185年7月9日午の刻とわかる)おびたゝしく大地震(なる)振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。

土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどわす。都のほとりには、在々所々堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ或は倒れぬ。

盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われきく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。

そのなごり(注・余震)しばしは絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿過ぎにしかば、ようよう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ(注・おき)、二三日に一度など、おおかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。

四大種(注・地、水、火、風)のなかに水火風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔斉衡のころとか(注・斉衡三/856年)、大地震振りて、東大寺の仏の恩頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれども、なおこの度にはしからずとぞ。

すなわちは、人みなあじきことなき(注・情けない。はかない。どうにもならない)事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言い出づる人だになし。(後略)

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2017年9月22日 (金)

GHQと占領

Th3_3現今は英文字略号の氾濫で、どこの何やらさっぱりわからないことが多い。戦時は敵性語として姿を消していた。戦後いち早く民間で通用したのが、見事な手さばきで交通整理をするMP(ミリタリー・ポリス)とGHQだ。

GHQは、連合国最高司令官総司令部の略で、マッカーサーが1945年8月26日に空路厚木飛行場へ到着、最高司令官として着任した。そして72年前の今日22日、米政府は、ソ連の共同占領の要求を拒否し、事実上の米国軍単独占領の方針を規定している。

つまり、国連軍といっても米軍を指しているといってもいいのだ。そして27日には天皇がはじめてマッカーサーを訪問、面会している。マッカーサーは天皇をどの日本人よりも民主的だ、と評価した。

後世になって、占領を暗黒時代のように言い、憲法はGHQが一方的に押しつけたとする政治家が出てくるとは思わなかった。

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2017年9月 9日 (土)

身体検査

閣僚や党の要職を選任する際、「身体検査が甘かった」などという表現がすっかり定着した。そもそもは、戦前・戦中の言葉だ。

その意味するところは、軍人に適するかどうかを20歳男子の義務として課せられた「徴兵検査」の一環である。

痔や性病があるかないかを、局部露出で軍医が視覚検査をする。俗にM検と称した。学校で身体検査といえば体格や体機能測定のことであるが、持ち物検査をいうこともあった。

『広辞苑』なよると、「検査」は「基準に照らしてしらべあらためること」とある。基準は権力者の一方的判断で、あいまいなところが「こわい」点である。

正しくは「素行調査」というべきだろう。江戸城表御殿では、長唄の稽古に熱心という目付の評価により要職の役替えを棒に振ったというケースがあったようだ。

長唄といえば、色っぽい女師匠がつきもの、時代を越えても出世するのは楽じゃない。今時の目付は「週間文春」。ご用心ご用心。

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2017年8月25日 (金)

歴史に「もしも」はない

これはよく聞く禁句というか警句である。ただ本来の意味はよくわからない。

東南アジアにおいて、日本はそこの人々に対して”侵略”したわけではなく、白人に支配されている状況から解放しようとした。その意味では、白人支配からの解放戦争でもあった。

これは右翼論陣が信奉する渡部昇一上智大名誉教授が、自著『かくて昭和史は甦る』に書いており、未だにそれを権威ある史実と信じている政治家が自民党のなかにも多い。戦中を知る塾頭は、軍部・権力機構の建前はそうであっても、「どこか違うのではないかな」という感触は持っていた。

その感触は、政府が公言する「大東亜共栄圏」を疑う「もしも」である。そして渡部氏は、もし日本が戦争をしなければ、そのまま植民地が継続したという「もしも」である。歴史研究や記述には「もしも」という仮説を立て、それが正しいかどうか証拠づける作業はどうしても必要になる。

最初に気がついたのが、1943年(昭和18年)5月31日の御前会議である。マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスを帝国領土と決定した。今のマレーシア、インドネシアにあたる。

帝国領土とされる地域は、当時からほとんどが産油地であり、アルミの原料となるボーキサイト、ゴムなど戦争継続に欠かせない資源が確保できると聞かされていた。シンガポールは「昭南島」と改名し、地図には日本と同じ赤色が塗ってあったのを覚えている。

植民地解放ではないが、今中国の海洋支配で問題なっている南シナ海の諸島。これらを日本海軍が軍事支配したのは1939年、太平洋戦争開始の前年である。そして当時日本領であった台湾高雄州に所属させた。援蒋ルート遮断のほか、南方の油田確保とその輸送路を支配する目的があったことは明らかである。

日本敗戦後、各地で激しい独立戦争があったことは知られている。渡部教授の「もしも」は史実の下で完全に崩壊しているのだ。右翼は東京裁判を不公正・不当のものという。これも「もし日本が戦争負けていなければ」のお話だ。

もうひとつ、日韓併合がなければ、ロシアが半島を併呑しただろうという「もしも」もある。ロシアの南下政策は維新前から顕著に見られ、朝鮮を日本と折半支配する提案をしたり、朝鮮王宮を抱き込んで露公使館執務させたことがあるなど、そう勘ぐられても仕方がない面がある。

しかし、それは「もしも」であって歴史ではない。歴史は、あくまでも日本の中国・満州侵攻に展開していったことだけが真実である。「もしも」を歴史に取り込むようなことがあれば、その瞬間、学問の地位を失って俗説か論評になる。

歴史認識には、厳密さが要求される。決して「もしも」を野放しにしてはならない。その点中国・韓国の歴史認識にも「もしも」が氾濫しており、史実がゆがめられている。関係改善はここから始めなくてはならない。

 

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2017年8月 9日 (水)

東京都のこれから

  早いもので、小池百合子が自民党候補を破り都知事に就いてから1年と9日が過ぎた。その後の話題はもっぱら築地市場の豊洲移転問題だ。それが下火になると都知事選、これも知事が目論んだ与党の「都民ファースト」が公明党と組んで自民に圧勝した。

 これらと比較にならないが、最近はあまり知らない自民党脱党議員の若狭某などで「日本ファースト」を立ち上げ、小池人気にあやかって国政新党を、という話が出ている。これはすでに先が見えている。

 大阪がベースだった維新とよくいって同じか、とてもそこまで行かないだろう。それより小池知事が出した、築地・豊洲双方活用方針。これは先が見えないが江戸時代は、日本橋の魚河岸があとで2か所に分かれ相争って発展したという故事がある。

 小池さん、国政などに色目を使わず「都民ファースト」がよさそうですよ。

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  錦絵などで有名な日本橋東詰の魚河岸は、江戸前の東京湾はもとより、遠州・上総など外洋に面した漁船まで、川面を埋めつくして蝟集した。遠海ものは塩漬け乾物とし、マグロ・カツオ・サケ・タラ、そして豊富な貝類も店頭に並んだ。

 一七世紀後半になると、特殊注文や増大する需要に応じきれないということで、やや下流に当たる楓川沿いの本材木町に新肴場に問屋を設けた。これも江戸の人気をさらった芝居小屋などとともに大いににぎわった。(『江戸ことば百話』東京美術、ほかより)

 

 

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2017年7月 6日 (木)

都だった福岡県朝倉市

朝倉が日本中の耳目を集めたのは有史以来2度目である。今回ここに集まったのは想像を絶する雨雲であるが、女帝・斉明天皇は、全国から百済遠征の兵士を集めるため、ここに臨時の都を置いた。

『日本書紀』の斉明天皇7年(661)条を、宇治谷孟の現代語訳(講談社学術文庫)で見ておこう(一部省略)。

七年春一月六日、天皇の船は西に向かって、航路についた。八日、船は大伯(おおく)の海(岡山県邑伯の海)についたとき、大田姫皇女が女子を生んだ。そこでこの子を大伯の皇女と名づけた。十四日、船は伊予の熟田津(愛媛県松山市付近)の石湯行宮(道後温泉)に泊った。

三月二十五日、船は本来の航路に戻った。娜大津(博多港)についた。磐瀬行宮(福岡市三宅か)におはいりになった。天皇は名を改めてここを長津(那河津)とされた。

夏四月、百済の福信が使いを遣わして表をたてまつり、百済の王子糺解(くげ)をお迎えしたいと乞うた。(略)またある本に、四月、天皇は朝倉宮に移り住まわれたとある。

五月九日、天皇は朝倉橘広庭宮にお移りになった。この時朝倉社の木を切り払って、この宮を作られたので、雷神が怒って御殿をこわした。また宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病んで死ぬものが多かった。

(略)

秋七月二十四日、天皇は朝倉宮に崩御された。

八月一日、皇太子(中大兄)は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮につかれた。この朝倉山に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。

斉明天皇は、神功皇后の例にのっとり、朝鮮親征を企てたとするが、2万7千人に上る日本派遣軍は、百済・白村江(はくすきのえ)で、唐・新羅連合軍に敗れて逃げ帰った。(戦前教育では日本は有史以来一度も負けたことがないことになっていたが)

書記では朝倉の宮が災難続きだったように書かれている。最後の大笠を着た怪物は斉明即位の年にも現れており、ここには「貌似唐人」とはっきり書いてある。唐から派遣された諜報活動(拙著)なのかも知れない。

現在、朝倉に当時をうかがわせるものについて聞いたことがないが、太宰府とか水城・大野城が防衛線であった可能性はある。

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2017年5月21日 (日)

南からきた日本人の先祖

 2017_05210001 沖縄県立埋蔵文化財センターが19日に発表したところによると、石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から、旧石器時代の人骨を1000点超、少なくとも19人分が確認された。

 

 人骨の年代は2万7000~1万8000年前で全身そろった個体もあるという。『周辺国に向き合う日本人の歴史』という既著を持つ塾頭としては、日本人のルーツにも触れていることから見過ごせないニュースだ。

 

 日本人の先祖である縄文人は、陸続きだった間宮海峡、朝鮮海峡経由のアルタイ語系北方民族、琉球方面からの南方ポリネシア系民族ではないかと推定していた。

 

 その道の専門家ではないので確証とまではいえないが、「ジャブジャブ」とか「ソロソロ」といった重ね語はポリネシア系言語の特徴とされている。今回の発見遺骨は、はじめてDNA鑑定された。その結果、中国大陸南部や東南アジアなどが起源のパターンと判明した。

 

日本語は、中国語と文法が違うので、旧石器時代の縄文人が中国から来たとしても中原ではなく南端だろう。その後、山口県土井ヶ浜で発見された人骨が縄文人と違うタイプで中国・山東半島あたりの骨格と似ており、除福伝説の先駆をなす周の時代で弥生人の先祖とされている。

 

 石垣島で発見された人の子孫が島づたいに北上し、鹿児島あたりに上陸、南九州縄文人になったとすれば、最古の日本人遺骨となる。この縄文人は、喜界島の火山大爆発で全滅したといわれるが、ゼロになったとは思えない。後の薩摩隼人などに受け継がれたと想像したい。

 

 明治時代以降が日本人の住む日本であると信じている人は、これを機により永劫の昔に思いをはせた方がよさそうだ。

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2017年5月13日 (土)

『日本之禍機』4

 新聞の切り抜きを入れた箱がぱんぱんになったので、少し整理しようと中身をあたったところ、国会図書館所蔵の朝河貫一著『日本之禍機』をコピーしたものが出てきた。

 

 明治40年代初頭に書かれたものだが、日露戦争が終わって数年、そのさき日本や世界がどうかわるのか、誰にも分からない。帝国主義の植民地争奪競争が続く中、韓国李朝は自立性が疑われて崩壊寸前となり、同43年には、今の共謀罪によく擬せられる大逆事件検挙が始まる。

 

朝河は、世界の激動を予感し、次に来る危機を警告した。その部分を鉛筆でマークしてある。一読すると、安倍政権下の現状とそっくりなのだ。

 

もしかしてブログに掲載したものではないかと思って調べたらやはりあった。2008年1月10日付けで福田首相時代に書いている。ゴミ箱に捨てるのはちょっと惜しい。手抜きの最たるものであるが、そのまま再掲する。

『日本之禍機』で検索を入れると、「国会図書館……」「朝河貫一」に続いて当塾記事が日本之禍機2、3と続く。それならばこれは、これを4と言うことにしておこう。

 

 (前略)今や世人が日本国運の隆盛を謳歌せるに当たり、余竊におもへらく、日本は一の危機を通過して他の危機に迫りたりと。只今日は日本国民が殆ど前身全力を振ひ驚くべき伎倆を以て戦役の危機を通過して後日浅きが故に、既に早く別種の危機の眼前に来たりたることを未だ意識せざるも無理ならず。

 且つ第二の危機は第一の危機と性質甚だ相異れり。戦争は壮烈にして一国の人心を鼓舞振作する力ありしも、今日の問題は頗る抽象的なり、甚だ複雑なり、一見する所平凡にして人を衝動するの力を欠く。之が解決に要する所は超然たる高明の先見と、未曾有の堅硬なる自制力とにありて、かの単純直接の戦闘及び犠牲のみの能く処理し得べき所にあらず。

 

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2017年4月 7日 (金)

戦争関係公文書廃棄

10日付本塾記事は、明治初頭に陸軍教導団(後の士官学校)時代から使っていたレンガ造建築物が市川市に残っていることを書いた。建築史上からも富岡製糸工場に匹敵する貴重な物件だが、現在は、県所有の遊休物件となっており、これを保存したり活かそうとする気が県に全くない。

 

知事選では、保守系で元タレントの現職、森田健作がダントツで当選し、唯一この問題を取り上げていた候補もほとんど争点化せず、3位で惨敗してしまった。都心と海岸で隣接する千葉・神奈川両県は戦前から陸海軍施設と縁が深いが、保守系首長時代が続き、系統的な歴史保存や発掘には消極的のように思える。

 

そういった中で、関連する公文書を千葉県が大量に廃棄していることが分かった。

 千葉県が作成・保存する公文書を収集する県文書館が昨年、戦没者名簿や遺族台帳など第二次世界大戦の関係文書約500冊を廃棄していたことが学術団体などの調べで分かった。県は「『不要』と言い切れないものもあった」と落ち度を認めている。

1952年度までに作成・取得した公文書を「歴史公文書」として文書館で保管するよう定める県の内規にも違反する運用だったという。

県文書館は2016年3月までの1年間に所蔵公文書1万177冊を廃棄した。歴史的文書や記録の保存・活用などについて研究する「日本アーカイブズ学会」などが県に確認したところ、この中には戦没者遺族台帳、復員者名簿、県内から旧満州(現中国東北部)への移民団名簿などが含まれていた。

同館によると、それまでは収集すべき文書の具体的な判断基準がないまま保存期間「長期」(永年保管)の文書を一括して収集・保存してきた。中には「歴史公文書とはいえないもの」(県文書館)もあり、県は14年に行政文書管理規則を改正。保存期間の上限を「30年」に改め、15年度からは30年超の文書について、元の所管課の意見を踏まえ、「歴史公文書」に該当しないと判断した資料の廃棄を進めた。要不要の判断も、ほとんどは中身の確認をせずに文書の表題が記載されたリストのみで行ったという。

ニュースサイトで読む: https://mainichi.jp/articles/20170407/ddm/041/010/104000c#csidx0597ebb7909413ca26070c8863ac39a                              
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毎日新聞 

 

このところ、公文書廃棄問題が、東京都築地市場移転問題、森友学園関連の、財務省を中心とする内閣とその出先などに蔓延、諸悪の根元となっている。そこへ「共謀罪法案」が重なればどういうことになるか。国民が本気で考えなくてはならない時期に来ている。

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2017年3月29日 (水)

なだれ被害は人災

鈴木牧之『北越雪譜』からの引用である。三月は「気をつけろ」と繰り返し警告し、里人はよく知っているので、被害者は少ないといっている。出版されたのが天保8年、今から180年も前になる。江戸中の貸本屋でこの本を置かないと客がつかないというほど評判の高かった本であった。(引用は野島出版刊同名書より、ルビ略)

 

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山より雪の崩頽を里言になだれといふ、(中略)字書に頽は暴風ともあればよく叶へるにや。さて雪頽は雪吹に双て雪国の難義とす。高山の雪は里よりも深く凍るも又里より甚し。我国東南の山々里にちかきも雪一丈四五尺なるは浅しとす。

 

 此雪こほりて岩のごとくなるもの、二月(旧暦、今なら3月・塾頭注)のころに至れば陽気地中より蒸て解んとする時地気と天気との為に破て響をなす。一片破て片々破る、そのひゞき大木を折がごとし。

 

これ雪頽んとするの萌也。山の地勢と日の照すとによりて、なだるゝ処となだれざる処あり。なだるゝはかならず二月にあり、里人はその時をしり、処をしり、萌しを知るゆゑに、撃死するもの稀也。

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【追記】

地元・栃木県那須町の高久勝町長は29日、定例記者会見で「(現場は)スキー場の境界から約400メートル離れた国有林内で、雪崩が発生しやすいため専門家でも入らないところ。素人から見ても、そこでのラッセル訓練はあまりにも無謀ではなかったのか」と指摘(毎日新聞3/30東京・朝刊より)

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