歴史

2009年11月29日 (日)

荷風の予言

 荷風の予言といっても大正前半の頃のことである。欧米で5年弱を過ごして帰朝、その体験に照らしながら、更めて日本の姿、より正確に言うなら東京の原風景を荷風独特の眼で観察した「日和下駄」と題する随筆があり、その中にこの先の社会の変化を予測する記事がある。

 100年近くたった今、荷風の想像に絶する世間であり世相であるかも知れないし、あるいは、まさに想像のとおりであったかも知れない。しかし、荷風の考えたのはせいぜい数年程度のことで、そんな先まで予言したとは思っていないだろう。

 「蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む」というと、もっぱら戦後、晩年の荷風を想像しがちだが、この頃は30代で、枯淡の境地にはまだ遠い。荷風の散歩は、自ら習癖というだけに、自然と人に対する観察は鋭く、蒔絵を見るように読者を引き込む。

 その予言めいた話は「寺」と題された文中にある。ただこれから書くことは寺に直接関係がなく、戦後も彼が好んで題材にした彼の言う「貧民窟」の先行きを占った部分だ。

 場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し来ったそのままなる日蔭の生活がある。怠惰にして無責任なる愚民の疲労せる物哀れな忍従の生活がある。近来一部の政治家と新聞記者とは各自党派の勢力を張らんがために、これらの裏長屋まで人権問題の福音を強いようと急(あせ)り立っている。

 さればやがて数年の後には法華の団扇太鼓や百万遍の声全く歇(や)み路地裏の水道共用栓の周囲からは人権問題と労働問題の喧(かしま)しい演説が聞かれるに違いない。しかし幸か不幸かいまだ全く文明化せられざる今日においてはかかる裏長屋の路地内には時として巫女が梓弓の歌も聞かれる。清元も聞かれる。盂蘭盆の灯籠やはかない迎火の烟(けむり)も見られる。

 彼らが江戸の専制時代からの遺伝し来ったかくのごときはかない裏淋しい諦めの精神修養が漸次新時代の教育その他のために消滅し、いたずらに覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私はその時こそ真に下層社会の悲惨な生活が開始せられるのだ。そして政治家と新聞記者とが十分に私欲を満たす時が来るのだと信じている。

 いつの世にか弱いものの利を得た時代があろう。弱い者がみずからその弱いことを忘れ軽々しく浮薄なる時代の声に誘惑されようとするのは、まことによその見る目も痛ましい限りと言わねばならぬ。

 荷風の貴族趣味、差別主義はいかに時代が違うとはいえ、田舎者で貧民に類せられる筆者が荷風と同じ立場に立つことはない。しかし荷風の予言が全く的はずれかというと、どうも「下層社会の悲惨な生活」や「見る目も痛ましい限り」という表現と、勝者にされた「政治家」や「新聞記者」が引っかかってしまうのだ。予見の半分は当たっている。

 しかも日本にとどまらず、アメリカに中国に、ロシア、欧州、ムスリムに至るまで世界に蔓延しているようにさえ思える。「日和下駄」では、工業化、河川改修などによる自然破壊や景観破壊、そして日本古来文明の消滅などへの慨嘆が至る所に出てくる。

 明治維新と日本敗戦が大きな画期にされているが、日露戦争・ロシア革命・第一次大戦・ヴェルサイユ体制は、現今を占う大きな画期になっていると思う。それから1世紀、次の「文明化」の画期にいたるまでまだ当分の時間がかかりそうだ。荷風は、この文末をこう締めくくっている。

 思わず畑違いへ例の口癖とは言いながら愚痴が廻りすぎた。世の中はどうでも勝手に棕櫚箒(しゆろぼうき)。私は自分勝手にただ一人日和下駄を曳きずりながら黙って裏町を歩いていればよかったのだ。議論はよそう。皆様が御退屈だから。

 (引用部分は『日本の文学・永井荷風(一)』中央公論社、より)

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2009年11月25日 (水)

高齢化現象・元禄版

 元禄時代というと、忠臣蔵、、将軍綱吉、生類憐れみの例など江戸時代でも比較的なじみのある時代である。「昭和元禄」などといって、高度成長の代名詞のように使われたこともあった。『日本史辞典』(角川書店)を見ると次のように書いてある。

元禄時代 江戸幕府5代将軍徳川綱吉施政下の文治政治と呼ばれている時期。幕藩体制の基礎が固まり、農業生産・商品経済の発展・町人の台頭などで、学問・文化に清新な気風がみなぎった。

 1615年大坂夏の陣が終わって綱吉が将軍になった1680年まで65年、来年は日本の敗戦からちょうど65年目である。平和が続く中「高齢化社会」といわれる時代が到来した。だからといって江戸時代と現代の比較を試みる気はないが、当時としては意外に高齢化社会だったのではないかと思われる。

 まず、公務員(武士)の定年制である。これは一律ではないが中央(幕府)、地方(各藩)ともに原則70歳だったようだ。早期依願退職や天下りはなく、介護が必要になるギリギリまで隠居は許されなかった。吉良上野介が松の廊下で斬りつけられたのが60歳、バリバリの現役である。お役ご免、つまり懲戒解雇さえなければ70歳までやれたはずだ。

 これはあとで述べるとして、老人人口について統計とは言えないが、『鸚鵡籠中記』の中に「南部信濃守領分高年の者の覚え」という記録がある。それによると、領内で100歳以上307人、90歳以上751人で最高齢127歳とある。1970年が全国で310人だったのと比べると、話半分にしても相当ハイレベルの高齢化社会だ。
 
 天野長重という旗本がいた。禄高は3000石を越えていたから直参としてはかなり高い身分である。長重は70歳を前にした元禄2年(1689)、突如将軍綱吉の御座間に召された。「汝日ごろの勤、真実にして裏表なき旨高聞に達す、因って役を移し鑓奉行に補す」という栄誉ある辞令の伝達である。

 御前を退いて、推薦したと見られる老中大久保忠朝に謝辞を述べに行ったところ「戦場に功のあったものはお旗本で貴殿一人になった」と長年の精勤ぶりをほめられた。彼は15、6歳の頃島原の乱に参加したことがある。

 幕府開設以来、戦争らしいのはこれだけで武士本来の活躍の場はなかった。長重にしても、城下にいて敵が投げた石に偶然当たったという程度で、武勲というにはあまりにも「片腹いたし」――気恥ずかしい、という述懐をしている。

 長重は『思忠志集』という膨大な記録を残しているがその多くは子弟に向けた教訓である。特に多いのが健康維持で、武士の心がけの第一が「息災なる様にすべき」と説き、武芸は二の次にしている。そして健康法は食事、睡眠、性生活その他日常のすべてにわたっている。

 老年になってからの健康には、散歩や園芸の効用を説いて「草葉の上、樹木などの類にて色々気を点ずる工夫して、身をつかふべし」とか、「養生に小石をひた物(ひたすら)拾い、こヾみ身をつかふ能(よき)由」といい、とにかく最近の健康ブームが顔負けするほどの内容だ。

 長重には悪いが、「遅れず休まず仕事せず」が出世の要諦であるような感じさえする。事実祖父の時代は200石、その後戦功による加増がないなら着実に終身雇用を全うして役職の階段を着実にのぼって栄誉を受け世襲するしかない。イコール「忠」になるのだろう。

 官僚的処世術は今に始まったことではない。なんと、元禄以来続いた日本的伝統だったのである。長重が老年のため職を辞し、隠居を認められたのが1701年81歳、没年がその4年後85歳の時であった。5男2女に恵まれたが、跡目は孫の長吉が継いでいる。(この記事は氏家幹人『江戸藩邸物語』中公新書を参照にしました)

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2009年11月21日 (土)

ヘボン来日150年

♪ヘボンさまでも草津の湯でも ドッコイショ 
恋の病はこりゃ治りゃせぬよ チョイナチョイナ
 
 ジェームズ・カーティス・ヘプバーン、日本人の耳に聞こえたのは<ヘボン>だ。ヘプバーンは意に介さず「平文」という日本語表記も発案した。医師、宣教師、日本語研究者、日本語辞書・日本語聖書作成者、教育者、ことにヘボン式ローマ字の名は知らないものがない。

 彼は1859年(安政6)4月にニューヨークを出帆、大西洋、インド洋、上海経由で10月18日神奈川に到着した。成仏寺を住居と定め早速一般日本人との接触を深めようとする。しかし、ペリーの浦賀来航から6年、その年には安政の大獄が起き、翌年は桜田門の変で井伊大老が暗殺されている。

 ヘボンの妻が背後から棒でなぐられ、生涯頭痛に悩まされるようになるなど、厳しい禁教政策と相まって日本人との接触もままならなかった。しかし、彼の人柄は次第に理解されるようになった。一貧民に施した目薬で不治の眼病をなおした。しかも礼金をとらないということから評判になり、やがて門前市をなす盛況になった。

 冒頭の替え歌は、それから明治にかけてのものであろう。少し前に緒方洪庵と種痘の事を書いたが、江戸時代の医者は偉い。ヘボンは布教という動機があったにしろ、それだけで市民にこのように受け入れられるとは限らない。やはり、万国共通の誠意がものをいったのだろう。

 平成の国境なき医師団、最貧国で、紛争国でヘボンに相通じるご苦労があると思う。どうか地元民にその誠意が通じ国際平和につなげてほしい。ヘボンはのちに青山学院の総理として迎えられたが、帰国後の晩年はさびしい生涯を送り96歳で没した。

  日本人になりきろうとしたこのアメリカ人の来日150年を記念する行事は、明治学院などでささやかに行われている。

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2009年11月11日 (水)

纏向のロマン

 奈良盆地の東縁、山の辺の道を天理から桜井に南下する。行灯山古墳(崇神稜)から渋谷向山古墳(景行稜)の後円部に沿った小道を抜けると、急に視界が開ける。まず目に飛び込むのが絵に描いたような端正な姿の三輪山。右手には、平坦部の池に姿を浮かべる最古の巨大古墳・箸墓。香具山など飛鳥をへだてる三山の先は、遠くかすむ二上山(大坂山)と難波を隔てる生駒の山並みだ。

 足下に広がる田園風景、何の変哲もないようだがここが今日11日、卑弥呼の宮殿跡発見か、と報道されている纏向遺跡のあるところだ。近く下った所に国道169号線があり箸墓の方に伸びている。その道を車が往来していなければ、古代と同じ展望だろう。

 そして宮殿跡かといわれる今回の発掘現場は、JRローカル単線のひなぴた巻向駅ホームの端がわずかにかかる位置だ。三内丸山や吉野ヶ里のような怪しげな復元建物など建てず、柱跡そのままで保存するようにしてもらえないか。

 日本人の心の古里といわれる飛鳥の風景も悪くないが、左右と南を山が囲む箱庭のような狭さを感じる扇状地より、ここの広々とした展望が利くこの辺りの方が好きだ。歴史の上でもここと飛鳥では3世紀ほどの差があり、謎が多いといってもすっかり歴史時代に入った聖徳太子の時代と、神話の時代に半分足がかかったような卑弥呼の時代では、空想の世界の広さでも断然纏向を中心とする山の辺一帯の方に軍配があがる。

 新聞などでは、もっぱら邪馬台国はここか、九州かを興味の中心にしている。まあこれは、決着がつかない方がファンの楽しみが続くのでいいのだが……。私は、ここに根拠を置いた大和王朝が今に続いていることの方に関心がある。

 とはいっても、神武即位も、2600年も、万世一系も全然信じていない。ただ、その系譜にあることを理由に世界最長の皇統システムを維持し続け、独特の文化基盤・アイデンティティを残したことについては、その価値を認めざるを得ないのではないか。つまり、世界文化遺産としての価値である。

 大君は神にしませば水鳥の
 すだく水沼を京師(みやこ)となしつ

 『万葉集』で大伴御行は天武天皇の時代をこのようにうたっている。ただし、埋め立て工事を神の仕業にするなど、どこか揶揄したような気分もあって、戦前の戦争に駆り立てるための天皇神格視・絶対化ではない。長い歴史の中で、一般にこのような天皇観を強制したのは戦前・戦中に限られる。

 また、最近はやりの週刊誌皇室論も相当いびつなものを感じる。ここは、古事記や日本書紀全文をすなおに読んで、エロチックでエッチな天皇や粗暴な天皇、臆病な天皇、嫉妬深い天皇など、古代天皇をいろいろな角度でロマンチックな想像も交えながら考えてみたらどうだろう。  

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2009年11月 4日 (水)

満州国指導要綱(案)

 1931年(昭和6)9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾らが満州の武力占領計画実行のため奉天近郊柳条湖附近の満鉄路線を爆破した。関東軍司令官の本庄繁は中国側の行為だとして総攻撃を命令、中国侵略の第一歩となった。

 11月10日には、特務機関を使って天津に蟄居していた清朝の廃帝・溥儀を満州国皇帝とするため大連に拉致連行、翌年3月1日に満州国独立宣言を行った。その過程を調査した国際連盟のリットン報告書の採択に日本が反対し、8年3月27日に国際連盟を脱退した経緯はよく知られている。

 関東軍創設以来、現地での謀略、独断専行、下克上という関東軍の体質は変わらず、これを制御できなかった政治や天皇制の欠陥がそのまま、太平洋戦争突入・敗戦という国民の不幸につながった。そういった経緯の研究は進んでおり、歴史修正主義が入り込む余地はすくない。

 満州国が日本の傀儡政権であることは常識になっているが、日本というより、関東軍の傀儡政権として考えられていたことが下記資料でうかがえる。現在、似たようなことが世界で行われていないか、気になるところである。

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関東軍参謀長橋本虎之助「満州国指導要領(案)(1932年6月)

 満州国は旧軍閥の覆滅に伴ひ独立国家として現出せるも其の将来帝国との相互関係に就いては人々見る所を異にし、為に対策往々齟齬を生ずることなしとせず依って茲に根本方針を確立竝施設の円滑を期せむとす

  方 針

 満州国は我国策に順応すべき独立国家として支持発展せしむ

  要 領

 一、満州国に対する帝国国策の遂行は特に文治機関を設けて之を行はしむることなく専ら関東軍をして之に任ぜしめ其の実行は新国家が独立国たるの対面保持上努めて満州国の名に於てし日系官吏特に総務長官を通じて之が実現を期す

 之が為満州国承認前に在りては我在満政治機関協力の下に軍中心を以て満州国に指導交渉に任じ承認後に在りては在来の我行政官庁を改廃し駐満政治指導機関は軍司令部内に設け以て軍司令官をして満州国政府の指導に任ぜしめ別に外交手続に関しては軍司令官をして駐満全権を兼ねしめ其許に領事等を付属し渉外事務を管掌せしむ

 満州国日系高級人事の決定権は依然軍司令官に於て之を保留す

 二、満州国には帝国軍隊を常置し将来我方との防禦同盟に依り合法的に国防の大部を担任す其の時期迄は治安維持援助の形式に於て実質上帝国自ら国防を掌る

 満州国軍隊は国内の治安維持に任ずるを本則とし漸を逐うて必要の最小限に裁兵す
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以下略。(関東軍参謀長橋本虎之助「満州国指導要領(案)」小林龍夫・島田俊彦・稲葉政夫編『現代資料11 続・満州事変』みすず書房。劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、所載)

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2009年10月27日 (火)

緒方洪庵と種痘

Ogata  新型インフルエンザワクチンで医療関係者から接種がはじまった。われわれ高齢者の順位は一番最後だ。妊婦や子どもが優先されるのは当然で、別に異議をとなえることはない。近所の医者の口調では、明言はしないものの「まあいらないんじゃないでしょうか」という感じだった。

  開闢以来、天然痘は死を免れても生涯醜いあばたを皮膚に残す最も恐ろしい伝染病だった。イギリスのジェンナーが発見した牛痘種痘法のが日本に入ったのは、160年前の嘉永2年(1849)6月、冷凍設備のない当時生きた苗を欧州から取り寄せることができず、届いたのは患者の「かさぶた」だった。

 それは早速佐賀藩の御側医・楢林宗建の生後10か月のわが子ほか3名の子どもに植え付けられ、宗建の子だけ赤い腫れが見られ接種は成功した。そこからリレー式に何人かの子ども経て緒方洪庵(写真)のもとに届いた。

 洪庵はあらかじめ準備して置いた1軒の貸家を大阪除痘館(現・大阪市中央区道修町)と名付け11月7日に神式による分苗の儀式を行い、社中の医師への普及を開始した。しかし、ジェンナーの発見当時と同様、世間から異端視され、幕府から公認を受けたのは安政5年(1858)、9年もたってからであった、

 大阪除痘館の規定に次のような一文がある。

「是唯仁術を旨とするのみ、世上の為に新法を弘むることなれば、向来幾何(いくばく)の謝金を得ることありとも、銘々己が利とせず、更に仁術を行ふの料にせん事を第一の規定とする」

 洪庵は大阪で蘭学塾「適塾」を開き、大村益次郎、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、高松凌雲など各地から身分を問わず集まった向学の士を育てている。幕末の民間の教育者として私は吉田松陰より高く買っている。(百瀬明治『「適塾」の研究』、Wikipedia、ほかより)

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2009年10月 1日 (木)

国慶節

 今日10月1日は中国の建国記念日で、北京天安門広場で厳戒のもと軍事パレードがおこなわれる。今年は60年の節目の年でようやく還暦というところだ。北朝鮮は1年早く、去年がそうだった。中国は日本が降伏したあと、蒋介石の国民党政府との内戦を勝ち抜くため遅れをとっている。

 台湾は10月10日の双十節だ。孫文による辛亥革命で、清王朝を倒し近代国家が誕生したことを祝う。再来年で100年になる。韓国は、日本の終戦記念日と同じ日、8月15日を光復節とする。もうひとつ10月3日に開天節というのがあって紀元前2333年前の檀君神話に基ずく。

 壇君が支配したという伝説の古朝鮮は、中朝国境あたりを舞台にする伝説で、韓国にとってもあやふやなものだ。そのあやふやさにひけをとらないのが、2669年前の2月11日とするわが紀元節である。このお国柄の違いは各国の歴史認識を知る上で非常に参考になる。

 中国で「歴史」といえば、辛亥革命以降、中国共産党支配までの苦難と共産党の輝かしい革命の成果をうたい上げることである。それまでの清朝は漢民族にとって異民族であり、列強に国を切り売りした国辱史、つまり自虐史観になってしまう。中華5000年の世界一長い歴史は、日本の現代史がそうであるように、教育の重点項目ではない。

 朝鮮最後の李王朝も末期はひどいものだった。北朝鮮は檀君神話から金日成神話に飛躍して、もっぱら首領さま礼賛だ。毛沢東時代の中国にも似たようなところがあった。韓国は光復節というから、日韓併合前までは東洋礼節の国として光っていたということになる。

 中国と、北朝鮮は建国記念日を軍のパレードで飾る。いずれも、建国は銃口(軍事)から生まれたという発想があることと共に、国民の団結を鼓舞する道具になっている。北朝鮮は今年憲法を変えて軍の最高指揮者が国の全権を握ることななった。なんだか帝国憲法の統帥権以上になってきたようだ。

 中国は、人民解放軍で共産党の指導のもとにあり、他国のように国軍ではない。これも中国の憲法をみればわかるように、人民が主人公の国でありながら、人民と軍は党に指導される立場にあるのだ。アメリカのオバマは「チェンジ」をいったが、中国、北朝鮮ともに60年の節目でそろそろチェンジを考えなくてはならない時期に来ている。

 

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2009年9月30日 (水)

続・遺跡発掘

 まず、いささか長い引用となるが、以下は拙著『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』の冒頭書き出し部分である。

 宮城県上高森遺跡は、約七十万年前の石器が発見されたところとして有名になった。ところが、それは藤村新一東北旧石器文化研究所副理事長があらかじめ埋めておいた石器であることが発覚し、2000年十一月五日の毎日新聞に一面トップで報道された。その後同所副理事長が関与した遺跡は四十二カ所にのぼることがわかり、同県座散乱木(ざざらぎ)遺跡以来二十年間にわたる前期旧石器発見はすべて空中分解してしまった。

 これで国内で発見される石器は、確実性のある三、四万年前の旧石器という線からスタートの切り直しということになった。

 事件報道の十日前、私は同研究所の理事長である鎌田俊明氏のセミナーに参加をした。鎌田氏は、僧職で二カ所の幼稚園を経営する一方、NPO団体である同研究所を創設し、考古学の専門知識を生かして精力的な活動をされている篤志家である。

 同氏は東北地方の前期旧石器発見の概略を説明する中で、藤村氏のあいつぐ新発見に「神の手」という表現を用いていた。ということは、すでに「ある、いぶかしさ」が内部でささやかれていながら、アマチュアである新聞記者に指摘されるまで、身内を疑うことができなかったということである。

 それならば、他の学者のチェックがあってしかるべきだが、03年五月に発表された日本考古学会の最終報告によると「旧石器は旧石器、縄文は縄文という時代割り、東北は東北、関東は関東という地域割りの細分化された専門領域の谷間に落ちている研究者の現状を反映」しているのだという。

 これほどだとは思わなかったが、考古学に限らず、他の学会や官僚の世界に巣くう積年の病弊の現れで、もって他山の石とすべきであろう。

 なぜ引用したかというと、今日(9/30)、島根県出雲市多伎(たき)町の砂原遺跡で、約12万年前の前・中期旧石器を発見したという各紙の報道があったからである。

 これは、上記の03年におこなわれた後期旧石器時代以前の遺跡を全面的に否定してから、初めての《最古の石器》発見発表である。ただし、捏造事件発覚以前に発見されていた金取(かねどり)遺跡(岩手県遠野市、約9万年前)が、再調査の結果間違いなさそうだ、という判断をその後に得ているということはある(岩手日報)。

 毎日新聞が、捏造事件スクープの時は1面トップだったが、今回は24面の第2社会面4段抜きで、「慎重な意見も」というサブタイトルをつけるなど、慎重さが目立つ。これは捏造事件で受けた考古学会のショックがあまりにも大きく、マスコミにはくどいほどカッコ付きであることを強調するからであろう。

 しかし、事件を受けて発表前のフォローアップは万全を期しているはずだし、学会もマスコミも「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」になってはいないか。このことは、縄文時代以前に日本に人が住んでいた確たる証拠になる。

 その石器を作った人がネアンデルタール人か、新人(ホモサピエンス)か、あるいはそれらの混血なのか、さらにまた日本人の先祖としてつながるのか、それともいったん途絶えたあと、4万年ほど前大挙して渡ってきた新人なのか、大いに興味を引く問題である。やはり学者は元気のいい方がいい。

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2009年9月24日 (木)

宇垣一成

 前回「国語力」というテーマで、現在の政治家が発信する「国語力」について記事を書いた。そのあと、武田泰淳の『政治家の文章』という旧著(1960年、岩波新書)があることに気づいた。以下がその冒頭にある、当時陸軍次官宇垣一成の大正13年元旦の日記である。

 「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰は繋りて吾一人にある。親愛する七千万同朋の栄辱興亡は預かりて吾一身にある。余は此の森厳なる責任感と崇高なる真面目とを以て勇往する。余は進取、積極、放胆、活溌、偉大の精神意気を以て驀進する。世態人情の趨向は余に此の決意を一層鞏固ならしめたり。」

 政治家として活躍するのはこの後だが、「文人」ならぬ軍人の文章としてはなかなか格調が高い。彼の日記は、昭和史の前半でよく引用されるが、武田がこの章の題にしたような、「政党政派を超越したる偉人」の文章、という評価にはとても従えない。

 それより、日本が大陸侵略の野心を隠さなくなったこの時期の軍人に、「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰」という万世一系、皇国史観が根付いていたことである。「記念碑の流浪」で書いた、昭和8年の「狂気のような皇民化教育のはじまり」は、10年前、すでに軍指導者の信念として芽生えていたのだ。

 宇垣は明治23年、陸軍士官学校の第1期卒業生である。前年に帝国憲法が発布され、その年に教育勅語が生まれて、天皇は「神聖にして侵すべからざる」統帥者の地位に君臨した。さらに日露戦争を経た明治末期には、天皇暗殺を嫌疑とする大逆事件、南北朝正閏問題論争が起きたりする。

 いずれも、天皇絶対化への布石として作用する。南北朝正閏問題というのは、後醍醐天皇の時代(1336)から半世紀以上にわたり天皇家が南北の2系統に分裂していた史実を教科書がどう扱うか、またどちらを正統とするかについて、マスコミや国会まで巻き込んだ論争である。

 結局、徳川光圀が編纂させた『大日本史』、つまり勤王・水戸学の解釈で、南朝を正統とする天皇の決裁を得た。そこで当時南朝に与した楠木正成、徳川家が先祖と称する新田義貞などが賞賛すべき勤王の忠臣としてもてはやされ、北朝についた足利尊氏は賊臣の巨魁としてさげすまされることになった。

 私たちもそういう教育を受けたわけである。天皇絶対視が明治憲法発布、日露戦争・第1次大戦、満州事変後の3段階に分けて考えられるような気がするのだが、まだそれを論証するような材料は持ち合わせていない。
 

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2009年8月 3日 (月)

共産党宣言

 不毛な政治家や労働組合のおかげで仕事につけない若者が増えています。そういった人たちの共感を呼ぶのか、最近、小林多喜二の小説『蟹工船』が書店の売れ筋になったそうです。終戦後プロレタリア文学が解禁になった頃読んだ記憶がありますが、それが今日うけていることなど、想像もしてみませんでした。

 また、共産党入党希望者がふえていると聞いています。そういった人たちは、こういったことを勉強しているかもしれません。

 古来の民族的産業は破壊され、なお日々に破壊されている。それらの民族的産業は、その導入がすべての文明国にとって死活問題であるところの新産業によって駆逐される。この新産業というのは、もはや国産原料でなく、遠隔地からの原料に加工し、またその製品も国内だけではなく、同時に世界中いたるところで消費されるものである。
 
 昔の、国産品によって充たされた需要のかわりに、遠い外国の製品によらねば充たされない需要が生じている。昔の地方的・一国的の自足自給と鎖国のかわりに、諸民族相互間の全面的交易と、全面的依存とが生じている。

 そして精神的生産も物質的生産と同様である。個々の民族の精神的産物は、世界の共有財産となる。民族的偏見と狭量とは次第に不可能となり、多くの民族文学や地方文学から、一つの世界文学が形成される。

 今のこと?。いえ、1848年、日本で言えば弘化4年ペリーが浦賀に来て開港を迫る5年前、気の遠くなるほど昔の話です。これは、カール・マルクスの『共産党宣言』(塩田庄兵衛訳・角川文庫)からとった一節です。

 なんとも似た話ではないですか。そこからブルジョアジーが勢いを得て生産と労働者を思いのまま支配し、「これまでの中産階級の下層、すなわち小製造業者、小商人および小金利生活者、手工業者および農民、すべてこれらの諸階層はプロレタリアートに転落する」というのがマルクスの予言でした。

 こんなに長い間、命脈を持ち続けているマルクス・エンゲルスの思想ってすごいですね。残念ながら共産国がなくなっても、そう簡単に古典化してしまいそうにもありません。それをどう生かしていくのか、これからの若い人の力次第です。

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