歴史

2009年11月 4日 (水)

満州国指導要綱(案)

 1931年(昭和6)9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾らが満州の武力占領計画実行のため奉天近郊柳条湖附近の満鉄路線を爆破した。関東軍司令官の本庄繁は中国側の行為だとして総攻撃を命令、中国侵略の第一歩となった。

 11月10日には、特務機関を使って天津に蟄居していた清朝の廃帝・溥儀を満州国皇帝とするため大連に拉致連行、翌年3月1日に満州国独立宣言を行った。その過程を調査した国際連盟のリットン報告書の採択に日本が反対し、8年3月27日に国際連盟を脱退した経緯はよく知られている。

 関東軍創設以来、現地での謀略、独断専行、下克上という関東軍の体質は変わらず、これを制御できなかった政治や天皇制の欠陥がそのまま、太平洋戦争突入・敗戦という国民の不幸につながった。そういった経緯の研究は進んでおり、歴史修正主義が入り込む余地はすくない。

 満州国が日本の傀儡政権であることは常識になっているが、日本というより、関東軍の傀儡政権として考えられていたことが下記資料でうかがえる。現在、似たようなことが世界で行われていないか、気になるところである。

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関東軍参謀長橋本虎之助「満州国指導要領(案)(1932年6月)

 満州国は旧軍閥の覆滅に伴ひ独立国家として現出せるも其の将来帝国との相互関係に就いては人々見る所を異にし、為に対策往々齟齬を生ずることなしとせず依って茲に根本方針を確立竝施設の円滑を期せむとす

  方 針

 満州国は我国策に順応すべき独立国家として支持発展せしむ

  要 領

 一、満州国に対する帝国国策の遂行は特に文治機関を設けて之を行はしむることなく専ら関東軍をして之に任ぜしめ其の実行は新国家が独立国たるの対面保持上努めて満州国の名に於てし日系官吏特に総務長官を通じて之が実現を期す

 之が為満州国承認前に在りては我在満政治機関協力の下に軍中心を以て満州国に指導交渉に任じ承認後に在りては在来の我行政官庁を改廃し駐満政治指導機関は軍司令部内に設け以て軍司令官をして満州国政府の指導に任ぜしめ別に外交手続に関しては軍司令官をして駐満全権を兼ねしめ其許に領事等を付属し渉外事務を管掌せしむ

 満州国日系高級人事の決定権は依然軍司令官に於て之を保留す

 二、満州国には帝国軍隊を常置し将来我方との防禦同盟に依り合法的に国防の大部を担任す其の時期迄は治安維持援助の形式に於て実質上帝国自ら国防を掌る

 満州国軍隊は国内の治安維持に任ずるを本則とし漸を逐うて必要の最小限に裁兵す
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以下略。(関東軍参謀長橋本虎之助「満州国指導要領(案)」小林龍夫・島田俊彦・稲葉政夫編『現代資料11 続・満州事変』みすず書房。劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、所載)

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2009年10月27日 (火)

緒方洪庵と種痘

Ogata  新型インフルエンザワクチンで医療関係者から接種がはじまった。われわれ高齢者の順位は一番最後だ。妊婦や子どもが優先されるのは当然で、別に異議をとなえることはない。近所の医者の口調では、明言はしないものの「まあいらないんじゃないでしょうか」という感じだった。

  開闢以来、天然痘は死を免れても生涯醜いあばたを皮膚に残す最も恐ろしい伝染病だった。イギリスのジェンナーが発見した牛痘種痘法のが日本に入ったのは、160年前の嘉永2年(1849)6月、冷凍設備のない当時生きた苗を欧州から取り寄せることができず、届いたのは患者の「かさぶた」だった。

 それは早速佐賀藩の御側医・楢林宗建の生後10か月のわが子ほか3名の子どもに植え付けられ、宗建の子だけ赤い腫れが見られ接種は成功した。そこからリレー式に何人かの子ども経て緒方洪庵(写真)のもとに届いた。

 洪庵はあらかじめ準備して置いた1軒の貸家を大阪除痘館(現・大阪市中央区道修町)と名付け11月7日に神式による分苗の儀式を行い、社中の医師への普及を開始した。しかし、ジェンナーの発見当時と同様、世間から異端視され、幕府から公認を受けたのは安政5年(1858)、9年もたってからであった、

 大阪除痘館の規定に次のような一文がある。

「是唯仁術を旨とするのみ、世上の為に新法を弘むることなれば、向来幾何(いくばく)の謝金を得ることありとも、銘々己が利とせず、更に仁術を行ふの料にせん事を第一の規定とする」

 洪庵は大阪で蘭学塾「適塾」を開き、大村益次郎、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、高松凌雲など各地から身分を問わず集まった向学の士を育てている。幕末の民間の教育者として私は吉田松陰より高く買っている。(百瀬明治『「適塾」の研究』、Wikipedia、ほかより)

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2009年10月 1日 (木)

国慶節

 今日10月1日は中国の建国記念日で、北京天安門広場で厳戒のもと軍事パレードがおこなわれる。今年は60年の節目の年でようやく還暦というところだ。北朝鮮は1年早く、去年がそうだった。中国は日本が降伏したあと、蒋介石の国民党政府との内戦を勝ち抜くため遅れをとっている。

 台湾は10月10日の双十節だ。孫文による辛亥革命で、清王朝を倒し近代国家が誕生したことを祝う。再来年で100年になる。韓国は、日本の終戦記念日と同じ日、8月15日を光復節とする。もうひとつ10月3日に開天節というのがあって紀元前2333年前の檀君神話に基ずく。

 壇君が支配したという伝説の古朝鮮は、中朝国境あたりを舞台にする伝説で、韓国にとってもあやふやなものだ。そのあやふやさにひけをとらないのが、2669年前の2月11日とするわが紀元節である。このお国柄の違いは各国の歴史認識を知る上で非常に参考になる。

 中国で「歴史」といえば、辛亥革命以降、中国共産党支配までの苦難と共産党の輝かしい革命の成果をうたい上げることである。それまでの清朝は漢民族にとって異民族であり、列強に国を切り売りした国辱史、つまり自虐史観になってしまう。中華5000年の世界一長い歴史は、日本の現代史がそうであるように、教育の重点項目ではない。

 朝鮮最後の李王朝も末期はひどいものだった。北朝鮮は檀君神話から金日成神話に飛躍して、もっぱら首領さま礼賛だ。毛沢東時代の中国にも似たようなところがあった。韓国は光復節というから、日韓併合前までは東洋礼節の国として光っていたということになる。

 中国と、北朝鮮は建国記念日を軍のパレードで飾る。いずれも、建国は銃口(軍事)から生まれたという発想があることと共に、国民の団結を鼓舞する道具になっている。北朝鮮は今年憲法を変えて軍の最高指揮者が国の全権を握ることななった。なんだか帝国憲法の統帥権以上になってきたようだ。

 中国は、人民解放軍で共産党の指導のもとにあり、他国のように国軍ではない。これも中国の憲法をみればわかるように、人民が主人公の国でありながら、人民と軍は党に指導される立場にあるのだ。アメリカのオバマは「チェンジ」をいったが、中国、北朝鮮ともに60年の節目でそろそろチェンジを考えなくてはならない時期に来ている。

 

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2009年9月30日 (水)

続・遺跡発掘

 まず、いささか長い引用となるが、以下は拙著『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』の冒頭書き出し部分である。

 宮城県上高森遺跡は、約七十万年前の石器が発見されたところとして有名になった。ところが、それは藤村新一東北旧石器文化研究所副理事長があらかじめ埋めておいた石器であることが発覚し、2000年十一月五日の毎日新聞に一面トップで報道された。その後同所副理事長が関与した遺跡は四十二カ所にのぼることがわかり、同県座散乱木(ざざらぎ)遺跡以来二十年間にわたる前期旧石器発見はすべて空中分解してしまった。

 これで国内で発見される石器は、確実性のある三、四万年前の旧石器という線からスタートの切り直しということになった。

 事件報道の十日前、私は同研究所の理事長である鎌田俊明氏のセミナーに参加をした。鎌田氏は、僧職で二カ所の幼稚園を経営する一方、NPO団体である同研究所を創設し、考古学の専門知識を生かして精力的な活動をされている篤志家である。

 同氏は東北地方の前期旧石器発見の概略を説明する中で、藤村氏のあいつぐ新発見に「神の手」という表現を用いていた。ということは、すでに「ある、いぶかしさ」が内部でささやかれていながら、アマチュアである新聞記者に指摘されるまで、身内を疑うことができなかったということである。

 それならば、他の学者のチェックがあってしかるべきだが、03年五月に発表された日本考古学会の最終報告によると「旧石器は旧石器、縄文は縄文という時代割り、東北は東北、関東は関東という地域割りの細分化された専門領域の谷間に落ちている研究者の現状を反映」しているのだという。

 これほどだとは思わなかったが、考古学に限らず、他の学会や官僚の世界に巣くう積年の病弊の現れで、もって他山の石とすべきであろう。

 なぜ引用したかというと、今日(9/30)、島根県出雲市多伎(たき)町の砂原遺跡で、約12万年前の前・中期旧石器を発見したという各紙の報道があったからである。

 これは、上記の03年におこなわれた後期旧石器時代以前の遺跡を全面的に否定してから、初めての《最古の石器》発見発表である。ただし、捏造事件発覚以前に発見されていた金取(かねどり)遺跡(岩手県遠野市、約9万年前)が、再調査の結果間違いなさそうだ、という判断をその後に得ているということはある(岩手日報)。

 毎日新聞が、捏造事件スクープの時は1面トップだったが、今回は24面の第2社会面4段抜きで、「慎重な意見も」というサブタイトルをつけるなど、慎重さが目立つ。これは捏造事件で受けた考古学会のショックがあまりにも大きく、マスコミにはくどいほどカッコ付きであることを強調するからであろう。

 しかし、事件を受けて発表前のフォローアップは万全を期しているはずだし、学会もマスコミも「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」になってはいないか。このことは、縄文時代以前に日本に人が住んでいた確たる証拠になる。

 その石器を作った人がネアンデルタール人か、新人(ホモサピエンス)か、あるいはそれらの混血なのか、さらにまた日本人の先祖としてつながるのか、それともいったん途絶えたあと、4万年ほど前大挙して渡ってきた新人なのか、大いに興味を引く問題である。やはり学者は元気のいい方がいい。

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2009年9月24日 (木)

宇垣一成

 前回「国語力」というテーマで、現在の政治家が発信する「国語力」について記事を書いた。そのあと、武田泰淳の『政治家の文章』という旧著(1960年、岩波新書)があることに気づいた。以下がその冒頭にある、当時陸軍次官宇垣一成の大正13年元旦の日記である。

 「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰は繋りて吾一人にある。親愛する七千万同朋の栄辱興亡は預かりて吾一身にある。余は此の森厳なる責任感と崇高なる真面目とを以て勇往する。余は進取、積極、放胆、活溌、偉大の精神意気を以て驀進する。世態人情の趨向は余に此の決意を一層鞏固ならしめたり。」

 政治家として活躍するのはこの後だが、「文人」ならぬ軍人の文章としてはなかなか格調が高い。彼の日記は、昭和史の前半でよく引用されるが、武田がこの章の題にしたような、「政党政派を超越したる偉人」の文章、という評価にはとても従えない。

 それより、日本が大陸侵略の野心を隠さなくなったこの時期の軍人に、「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰」という万世一系、皇国史観が根付いていたことである。「記念碑の流浪」で書いた、昭和8年の「狂気のような皇民化教育のはじまり」は、10年前、すでに軍指導者の信念として芽生えていたのだ。

 宇垣は明治23年、陸軍士官学校の第1期卒業生である。前年に帝国憲法が発布され、その年に教育勅語が生まれて、天皇は「神聖にして侵すべからざる」統帥者の地位に君臨した。さらに日露戦争を経た明治末期には、天皇暗殺を嫌疑とする大逆事件、南北朝正閏問題論争が起きたりする。

 いずれも、天皇絶対化への布石として作用する。南北朝正閏問題というのは、後醍醐天皇の時代(1336)から半世紀以上にわたり天皇家が南北の2系統に分裂していた史実を教科書がどう扱うか、またどちらを正統とするかについて、マスコミや国会まで巻き込んだ論争である。

 結局、徳川光圀が編纂させた『大日本史』、つまり勤王・水戸学の解釈で、南朝を正統とする天皇の決裁を得た。そこで当時南朝に与した楠木正成、徳川家が先祖と称する新田義貞などが賞賛すべき勤王の忠臣としてもてはやされ、北朝についた足利尊氏は賊臣の巨魁としてさげすまされることになった。

 私たちもそういう教育を受けたわけである。天皇絶対視が明治憲法発布、日露戦争・第1次大戦、満州事変後の3段階に分けて考えられるような気がするのだが、まだそれを論証するような材料は持ち合わせていない。
 

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2009年8月 3日 (月)

共産党宣言

 不毛な政治家や労働組合のおかげで仕事につけない若者が増えています。そういった人たちの共感を呼ぶのか、最近、小林多喜二の小説『蟹工船』が書店の売れ筋になったそうです。終戦後プロレタリア文学が解禁になった頃読んだ記憶がありますが、それが今日うけていることなど、想像もしてみませんでした。

 また、共産党入党希望者がふえていると聞いています。そういった人たちは、こういったことを勉強しているかもしれません。

 古来の民族的産業は破壊され、なお日々に破壊されている。それらの民族的産業は、その導入がすべての文明国にとって死活問題であるところの新産業によって駆逐される。この新産業というのは、もはや国産原料でなく、遠隔地からの原料に加工し、またその製品も国内だけではなく、同時に世界中いたるところで消費されるものである。
 
 昔の、国産品によって充たされた需要のかわりに、遠い外国の製品によらねば充たされない需要が生じている。昔の地方的・一国的の自足自給と鎖国のかわりに、諸民族相互間の全面的交易と、全面的依存とが生じている。

 そして精神的生産も物質的生産と同様である。個々の民族の精神的産物は、世界の共有財産となる。民族的偏見と狭量とは次第に不可能となり、多くの民族文学や地方文学から、一つの世界文学が形成される。

 今のこと?。いえ、1848年、日本で言えば弘化4年ペリーが浦賀に来て開港を迫る5年前、気の遠くなるほど昔の話です。これは、カール・マルクスの『共産党宣言』(塩田庄兵衛訳・角川文庫)からとった一節です。

 なんとも似た話ではないですか。そこからブルジョアジーが勢いを得て生産と労働者を思いのまま支配し、「これまでの中産階級の下層、すなわち小製造業者、小商人および小金利生活者、手工業者および農民、すべてこれらの諸階層はプロレタリアートに転落する」というのがマルクスの予言でした。

 こんなに長い間、命脈を持ち続けているマルクス・エンゲルスの思想ってすごいですね。残念ながら共産国がなくなっても、そう簡単に古典化してしまいそうにもありません。それをどう生かしていくのか、これからの若い人の力次第です。

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2009年7月11日 (土)

張鼓峰事件

 今日7月11日は71年前(昭和13年)、張鼓峰事件の発端となった日である。日中戦争のさなかのできごとで、現在ほ、とんど認識されていないと言ってもいいだろう。しかし、その後の戦争処理や太平洋戦争勃発、敗戦に教訓が生かせなかった意味は大きい。

 張鼓峰は、中国(当時満州国)、北朝鮮(当時日本)、ロシア(当時ソ連)の沿海州が接するあたりにあり、国境が一部不明確なところがあった。そこへ約40名のソ連兵が進出し、衝突がはじまったのである。

 参謀本部は、1個師団に限りこれに一撃を加え、局地戦でソ連軍を威嚇する作戦をたてた。この方針は、宇垣外相・湯浅内大臣、そして天皇の反対でいったんは中止された。ところが朝鮮の現地師団長・尾高亀蔵中将は、対ソ一撃を望んでおり、近隣の別の場所にソ連兵が進出したという理由で31日未明、独断で攻撃を開始した。

 あきらかに命令違反である。しかし天皇は、これ以上積極攻撃をしないようにという注意にとどめ、処罰はしなかった。しかしソ連は反撃してきた。8月に入って戦車・重砲など機械化部隊に支援された2個師団を加え、日本はたちまち苦戦におちいった。

 その後の外交交渉で11日に停戦協定が成立したが、戦死526人、負傷941人、死傷率21%という損害を受けた。しかし相手側の損害も大きく、陸軍は限定戦争で効果をあげたとし、この事件の反省はなかった。

 一方、ソ連はこの事件に教訓を得てさらに軍備を増強させ、のちのノモンハン事件で関東軍を完敗させている。なお、日本軍の悲惨な結末を招いたインパール作戦で、インド奥地からの撤退作戦に従わなかった佐藤孝徳師団長は、この時の歩兵第75連隊長であった。

 この事件は、革命後初のソ連軍との大規模軍事衝突であったということ、関東軍がこの時点でも統帥者天皇の命を軽んじ、また天皇にもこれを是正する力がなかったこと、科学的判断より精神論を重視したことなど、のちの日本の運命を象徴的に示した事件であった。

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2009年7月 2日 (木)

ヒトラーの宣伝と戦争

 戦争はなぜ起こるのだろう、日本が戦争にまき込まれることはあるのか、それを防ぐにはどうしたらいいか。当塾のかかえる究極の課題である。かつて、マルクス主義の国は戦争を起こさないという信仰があった。しかしそれは、革命の輸出のような形でいとも簡単に破られた。

 また、民主主義が完全に行われれば戦争が消滅するようなことも言われた。冷戦が終結し、自由・民主主義の守護神を自認するアメリカの支配が続いた中で、根拠薄弱なイラク戦争が引き起こされ、アフガン・パキスタンでの戦闘はまだ続いている。

 残念ながら民主主義で戦争をふせぐことはできない。それを端的に示してくれたのがヒトラーである。彼はワイマール憲法のもと、ナチス党国会議員の大量当選を果たし、国民投票で「総統」に独占的権限を与えることに成功したのだ。

 その手法は、彼の戦争観、宣伝術として『わが闘争』第6章戦時宣伝に彼独特の露骨さをもって示されている。このシリーズは遂に8編まで続けてしまったが、これらを取り上げたのは、小泉・安倍首相の時代に特に顕著になったわが国の右傾化が、意識はされていないもののナチス・ドイツ時代に一脈共通する点があることである。これを以て本シリーズの結論としたい。

 ヒトラーと「B層」で取り上げたことと重複するが、宣伝についてこのように述べている。

 宣伝はすべて大衆的であるべきであり、その知的水準は、宣伝が目ざすべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋な知的高度はますます低くしなければならない。

(中略)宣伝の学術的な余計なものが少なければ少ないほど、そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。しかしこれが、宣伝の正しいか誤りであるかの最良の証左であり、若干の学者や美学青年を満足させたどうかではない。

 宣伝の技術はまさしく、それが大衆の感情的観念界をつかんで、心理的に正しい形式で大衆の注意をひき、さらにその心の中に入り込むことにある。これを、われわれの知ったかぶりが理解できないというのは、ただかれらの愚鈍さとうぬぼれの証拠である。

 日本の戦時宣伝では、表層的に日中戦争では、「膺懲」など中国人を蔑視するような言葉が使われたが太平洋戦争では「鬼畜米英」となる。ヒトラーは、ドイツやオーストリアで行われた相手を嘲笑するようなマンガ宣伝を排し、後者を支持する。

 イギリス人やアメリカ人の戦時宣伝は心理的に正しかった。かれらは自国の民族にドイツ人を野蛮人、匈奴だと思わせることによって、個々の兵士に前もって宣伝が、恐怖に対する準備をし、幻滅を起こさせないように努力していた。

 このことは、国家的に行われなくても、人殺しの恐怖心をなくし、相手の命をを虫けらのように扱う訓練が、今でも新兵教育として経常的におこなわれているという。

 さらに第一次大戦の戦争責任についてこうのべる。これは田母神論文など日本の歴史修正主義と全く軌を一にする。ヒトラーは意識しながらの主張だが、日本には無知のまま押し出そうとする指導者がいることである。

 宣伝は、それが相手に好都合であるかぎり、大衆に理論的正しさを教えるために、真理を客観的に探求すべきではなく、絶えず自己に役立つものでなければならない。

 戦争の責任について、ただドイツだけがこの破局に責任があるのではない、と論ずることは、この観点からすれば根本的に誤りであった。かえって実際には、ほんとうの経過はそうでなかったにしても、事実そうであったように、この責任をすべて敵に負わすことが正しかったであろう。

このシリーズのバックナンバーはカテゴリ「歴史」をさかのぼってごらんください。09年6月15日「ヒトラーと歴史教育」が第1回です。

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2009年7月 1日 (水)

ヒトラーと逃亡兵

 昨日、ヒトラーと「B層」という記事を正午過ぎに投稿した直後「ココログ」がアクセス不能となり、本日になっても全機能が回復するに至っていない。午前中は予告のメンテを実施しており、アクセスを試みられた方にはほぼ1日ご迷惑をおかけした。この記事とセットで見ていただけばありがたい。

 昨日の記事は、自民党の東国原宮崎県知事の閣僚起用などの動きを意識して書いたものだが、同党内の末期的混乱ぶりから、このまま麻生解散に出れば必ず「逃亡兵」(脱党・無所属出馬)が出るものと予想し、この題を急遽シリーズに加えることにした。

 実は、本題は小泉郵政選挙の際、前身の「反戦老年委員会」で取り上げ、民営化反対議員に刺客を向ける逃亡兵処分のやりかたと対比したものだが、今回の「逃亡兵」は相当おもむきを異にする。解散と同時に脱党宣言をすれば、注目を浴び自民党公認より当選の可能性は高まるだろう。

 ことに、小泉チルドレンなどで落選の色濃い候補者は、落ちてもともと、自民党は刺客の刺客を立てる余裕もなく、もし当選すればいずれ復党もあるだろうし、民主に高く売る手も残せる。政党交付金がこなくても、わたしならそうする。以下は例により『わが闘争』からの引用である。

 逃亡兵に、逃亡というものがまさしく自分が逃れようとしているものを、自分といっしょに運んでいるものだということを知らせることなのだ。前線では人は死ぬかも知れない、だが逃亡兵は死なねばならないのだと。

 逃亡しようとするものには、こういう峻厳な脅迫を試みることによってのみ、個人に対してだけでなく、また全体に対しても警告的な影響をねらうことができるのだと。(中略)あぶなっかしくなってきた徴募新兵は禁固や懲役ぐらいの脅迫ではだめで、ただ仮借なく死刑を適用することによってのみ、支えることができたのだ。

 小泉元総裁は逃亡兵に死刑執行人の刺客を送り込んだ。しかし、麻生総裁にはすでに軍の規律を守る統率力がない。それどころか、前線司令官である党役員の首をすげかえる下心もありそうだという報道もされている。

 この場合、第一次大戦の結果と同じで、ドイツ軍内部の統制が乱れ、ワイマール共和国革命に参画する兵士が続出する教訓に当てはまりそうだ。

 

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2009年6月30日 (火)

ヒトラーと「B層」

 「B層」という言葉は、小泉元首相が構造改革の名のもとに辣腕を振るった時期、ブレーンをつとめた竹中平蔵氏ご推薦の広告代理店が、宣伝戦略のターゲットとして使ったことで有名になった。その層は、IQの低い層として説明されており、まさに当時の「小泉劇場」を成功に導いた裏方であるかのように揶揄されていた。

 この「B層」の考え方は、90年近くも前にヒトラーがよりくわしく端的に指摘していたのだ。広告代理店ではなくヒトラーが権力を獲得し、運用した方針なのである。これが日本の政府、自民党が考えるメディア対策がこれとどれだけ違うか。やや長い引用となるが『わが闘争』の第10章から見ておきたい。

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(前略)新聞の読者はその際、一般に三つのグループに分類されうる。
 つまり、第一は読んだものを全部信じる人々、
 第二はもはや全く信じない人々、
 第三は読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳をもつ人々、である。
 
 第一のグループは数字の上からは、けた外れの最大グループである。かれらは国民の大衆からなっており、したがって国民の中では精神的にもっとも単純な部分を表している。しかしかれらを職業でもって示すことはできず、せいぜい一般的な知能程度で示すことができるだけである。自分で考えるだけの素質もなければ、そのような教育も受けない人々は、みなこのグループに入る。

 そしてかれらの一部は無能から、一部は無知から白地に黒く印刷されて提供されたものを全部信じるのである。(中略)

 第二のグループは数ではまったく決定的に少なくなる。かれらの一部は、最初は第一のグループに入っていたが、長い間の苦い幻滅を経験した後いまや反対側に移って、ただ印刷されて目に映るものならばなんでも、全然信じなくなってしまった分子から構成されている。

 かれらは新聞という新聞を憎み、およそ読まないか、あるいは、その内容がかれらの意見からすれば、全く嘘と、事実でないことだけで構成されているにすぎないのだから、例外なしに、そうした内容に憤慨するかである。なにしろ真実に対してもつねに疑ってかかるだろうから、これらの人々はきわめて取り扱いがむずかしい。(中略)

 最後に第三のグループはけたはずれて最少のグループである。かれらは生まれつきの素質と、教育によって自分で考えることを教えられ、あらゆることにつていかれ自身の判断を形成することに努力し、また読んだものはすべてきわめて根本的にもう一度自己の吟味にかけて、その先の結論を引き出すような、精神的にじつに洗練された頭脳をもった人々からなり立つ。

 かれらはいつでも、自分の頭をたえず働かせながらでなければ新聞を読まないだろう。だから、編集者の立場は容易でない。ジャーナリストがこのような読者を愛するのには努力が必要なのである。(後略)
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 その上で、こう結論づける(太字:管理人)。

 大衆の投票用紙があらゆることに判決を下す今日では、決定的な価値はまったく最大多数グループにある。そしてこれこそ第一のグループ、つまり愚鈍な人々、あるいは軽信者の群衆なのである。

 そのうえでヒトラーは、

 これらの人々がより低劣な、より無知な、あるいはまったく悪意のある教育者の手に落ちるのを妨げることは、もっとも重要な国家、および国民の利益である。国家はしたがって彼らの教育を監視し、あらゆる不正を阻止する義務をもつ。

 といい、国家による言論監視、情報操作の必要性を強調するのである。

 

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2009年6月28日 (日)

三角縁神獣鏡

 古代、「大和朝廷」というものがあった。東北から九州まで普及した前方後円墳というおしゃもじ型の古墳は、「大和王朝系列」のシンボル・マークだ。墓の形だけなら単なる流行といえるかも知れないが、祭祀に使う器台や石棺の構造など、こまかい点も似ているので、統一マニュアルがあったに違いない。

 日本は、多分1800年近くこの大和朝廷が続いている。ただ、男子直系万世一系などはウソだ。続いたのは、祭祀→マツリゴト→政治のマニュアルをバトンタッチすることだけであった。それも前方後円墳のように廃止するものもあれば、当然あとから加わるものもある。

 バトンの中で重要なものに三種の神器(剣・鏡・玉)がある。これも力ずくで持ちだし(源平合戦)行方不明になったりして、確実に伝世しているとは言いがたい。今月はじめに「古墳・卑弥呼など」と題する記事を書いたが、今回はその続きで「三角縁神獣鏡」をとりある。

 この鏡も、最初の大型前方後円墳である「箸墓」が、魏志倭人伝にある卑弥呼の墓ではないかということが話題になるのと同じで、魏志倭人伝にある卑弥呼が魏の国から送られた銅鏡100面かどうかで関心を集めている。

 この鏡の特徴は、鏡の縁どりが三角の山型で裏側のデザインに神仙と霊獣が描かれており、中に漢字で卑弥呼が使いを派遣した頃の魏の年号や、制作者の名前が入っているものが含まれていることである。そこで、魏から贈られたものとする意見が、戦後考古学の大宗ともいえる小林行雄京大教授などにより定説化していた。

2009_06280002  ところが、この鏡が続々と発掘され、あとで日本でまねして作ったことがはっきりしている120面あまりを含めて500面以上にもなってしまった。その上、中国や朝鮮からはこのデザインが1面も発見されないことと、鏡作りそのものの技術が日本になかったわけではないので、全部日本製ではないか、という意見がこのところ有力になっていた。

 しかし、魏の年号が入ったものを独創で作るわけがなく、お手本は必ず何枚かあったはずだ。それはやはり卑弥呼がもらったものに違いないと思っていた。そこに、中国の三国時代に作られたことがはっきりしている鏡と国産の鏡の鉛の同位体、つまり銅鏡のDNA検査のような比較調査で三角縁神獣鏡のサンプルの何面かは中国鏡に一致するという結果が出てきた。

 三角縁神獣鏡は、全国の古墳から発見されるが、大和朝廷から分与されたものであろうとされている。そして、大量に発見されるのは畿内で、それまで鏡の本場だった九州から大和に移っている。古墳時代の開幕を4世紀頃とみて、卑弥呼の時代と三角縁神獣鏡分与に空白期間があるとしていた異論も、箸墓の設営時期が半世紀も繰り上がったことにより矛盾が解消してきた。

 どうやら、倭国の大乱を邪馬台国の女王・卑弥呼の擁立で解消させたというのは、天皇家の先祖のことらしく、箸墓の主である可能性に近づいてきたとみている。(写真:小林幸雄『日本考古学概説』、初版は昭和26年)

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2009年6月27日 (土)

ヒトラーとユダヤ人

  なんとなく踏み込んでしまったヒトラー・シリーズであるが、これまで「ヒトラーと歴史教育」「ヒトラーと民主主義」「ヒトラーと優生学」「ヒトラーの戦争礼賛」の4編(カテゴリ=歴史)になってしまった。その内容は主にヒトラーの自著『わが闘争』に準拠しているが、ここまでは、彼が志願してドイツ軍兵士になる前のこととして記述している。

 軍に身を投ずる動機について、前回の続きになるが彼自身、生まれながらの「好戦嗜好」をまず上げておかなくてはならない。

 一体、なぜ百年前に生まれていなかったのだろう。解放戦争(対ナポレオン戦争)のころであったら、男は「商売」しなくとも実際に何かしら価値があったのではないか。
 そこでわたしのあまりにも遅く始まったこの世の旅――わたしにはそう思えた――について、しばしば立腹を感じ、そしてわたしに近づいている「安寧と秩序」の時代を運命の不当な下劣さと見なしていた。私は若い頃からすでに、まさしく「平和主義者」ではなく、この方向へどんなに教育しようと試みてもムダだった。

 その精神分析に立ち入ることはできないが、彼はその頃無名画家として糊口をしのいでおり、なかば失業の状態が長く続いていたと思われる。それが、赤木智則氏の『希望は戦争』につながってしまうのは、筋違いとはいえ振り払うことができないものがある。またそこに起きた戦争に対し、日露戦争への支持をまっ先に掲げている。

 日露戦争は、すでにわたしが大きくなっていたし、また注意深く見たのである。わたしはそこではほとんど種々の国家的理由から一方にくみし、当時われわれの意見を決定するさいには、ただちに日本人の側に立ったのである。ロシア人の敗北はまた、オーストラリアのスラブ主義の敗北と考えていたからだ。

 このように、スラブ人=ロシアという彼の人種差別、排外主義が露骨にでているが、彼が生まれ育ったオーストラリア内部の人種間確執をそのまま反映したものである。しかしここでは、ユダヤという言葉は一切出てこない。ユダヤは排除すべき相手だとしても、まだ戦うべき相手として強く意識されているわけではなかった。

 彼にとって敗戦は最大の屈辱だった。しかも除隊して戻ったミユンヘンを支配するのは、王政をくつがえし、バイエルン共和国を作ったユダヤ人社会民主主義者クールト・アイスナーであり、フランスとの休戦条約に署名し、ベルサイユ条約の受諾をうながしたM・エルツベルガーもまたユダヤ人であった。

 さらに意識していたかどうかはわからないが、戦勝国として講和を取り仕切ったアメリカ大統領・ウイルソンまでユダヤ人である。ドイツ国民が高額な賠償金を背負って塗炭の苦しみを味わうことになっるこの時期、ヒトラーは得意の弁舌をもってユダヤ人を糾弾する政党政治家に転身するのである。

 

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2009年6月23日 (火)

ヒトラーの戦争礼賛

 そして賢明なドイツ外交が一九〇四年の日本の役割(日露戦争を指す)を引き受けていたと考えてみよう。そうすればその結果がどれほどドイツのためになったか計り知れないのである。
 決して「世界戦争」にまでいたらなかったに違いない。

 一九〇四年の血は、一九一四年から一九一八年にかけて流した血(第一次大戦をいう)を十倍も節約したのだ。
 そうすればドイツは、今日世界でいかなる地位を占めていただろう。

 上記は第一次大戦5年後の1923年、暴動を起こした政治犯としてランツベルク要塞拘置所で執筆したとされるヒトラーの『わが闘争』にある一文(注記は管理人)である。戦勝国でさえ大戦のもたらした悲惨な結果を反省し、永久平和を模索している時期に、志願して兵士に加わった母国が無惨な敗戦の憂き目を見ながら、なお主戦派としての立場を変えることはなかった。

  その日露戦争に海軍軍人として参戦した水野博徳大佐が、第一次大戦後のドイツを視察した。そこで、人骨や散乱した武器がそのまま残る激戦地・ペルダンの要塞や廃墟のようなベルリンを目にし、「鉄槌を以て頭をうち砕かれ、利刀を以て胸を突刺された」ような衝撃を受けた。水野は自伝でこのようにいう。

 ――何が両軍の兵士をしてこのようにしたのか。彼らとて容易に生命を捨てたかったわけではあるまい。ただ、国家の要請の下に、妻子、眷属を捨て、己のいのちまでなげうったのだ<国家は多数国民の為には、少数国民の利益を犠牲とする権力を持って居る。

 彼らが死の戦場にかり出されたのも、多数国民の幸福を擁護せんが為であった。然るにこれ等の国家は多数国民の貧困を救う為に、少数国民の富を犠牲に供することを敢えて為さない。之は国家として正しい行為であろうか>(木村久邇典『帝国軍人の反戦』による)

 水野もまた、国家は最高の道徳なりというドイツ哲学を無条件に信奉していた一人であった。それがヒトラーと正反対に戦争への疑問を強く抱くようになったのだ。しかし日独双方とも、第一次大戦後の民族自決、国際連盟、国際労働法、軍縮、不戦同盟といった世界の潮流に背を向け、第二次大戦に突入して、そのまた十倍ではとてもきかない血をみたび流しすことになった。ヒトラー理論はもともと破綻すべき運命にあったのだ。

 ヒトラーは、ドイツの人口増大に対して、国内開発と出産制限では問題解決にならないとし、

 かくして増加する民族数に労働とパンを確保するには、ただ二つの道しか残っていなかった。
 三、人々は過剰な幾百万人を毎年移住させるための新しい土地を手に入れ、そして自給の原則で更に今後も養っていくか、あるいは、
 四、外国の需要のための商工業を起こし、その売上高によって生活をまかなっていくかであった。

と、二者択一をせまり「両者の中で、より健全な道は、前者であったろう」と結論づける。さらに「過剰人口の移民のために新しい土地や領土を求めることは、現在のみならず、特に将来を注視するならば無限に多くの利益がある」として、ドイツ東方への侵略政策を隠さない。

 日本にヒトラーはいなかったが、日露戦争当時、現在の半分にも達しない人口が昭和のはじめにかけて10年で1千万人も増えるなど「狭い国土に養いきれない人口」という認識は共通していた。そして第一次大戦後、満州での覇権獲得から蒙古、さらに北支へと大陸侵略に露骨さ増幅させた関東軍とそれを支える国内勢力が存在した。

 

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2009年6月20日 (土)

ヒトラーと優生学

 臓器移植法改正案が18日に衆院本会議で採決された。海賊対処法案や国民年金法改正案もすでに周囲を通過、参院で否決されたものを19日の衆院3分2再可決で法が成立した。いずれの法案もマスコミ報道で「議論が不十分のまま」とか「国民の議論が尽くされていない中で」といった形容詞がつくのがこの頃の常態になっている。

 今回はヒトラーが『わが闘争』の中で人命や遺伝を論じている中から、一部を文末に紹介する。臓器移植法を考える際、かつて議論された優生学的見地や自然淘汰などをどう考えるか、とも関連させながら考えるべきだと思うが、「優生」がヒトラー、さらには人種差別、ジェノサイドと結びつけられ、優生学そのものがすっかり悪者にされて議論から遠ざけられた印象が避けられない。

 優生学とは、人類の遺伝的要素を改善することを目的として悪質な遺伝形質を淘汰し優良なものを保存することを研究する学問で、ヒトラーが生まれる前、1883にイギリスで始まった。日本でも学問として戦後まで続いていたものの、1948年に成立した「優生保護法」が、96年に「母体保護法」と名前そのものをかえてしてしまう。変更の中味自体は妥当性があるが、学問の基本となる自由な発想や、純粋な研究まで封印してしまう傾向があるのはどうかと思う。

 以下、ヒトラーがオーストリアからミュンヘンに移住した1912年以降の自伝の中に書き込んだものである。しかしこの頃はまだ、優生学とユダヤ人の大量虐殺を直接結びつけるような考えが表にでてこない。

 (前略)人間は生殖を制限するが、しかし一度生まれたすべてのものをどんな代価をはらっても維持しようとし、ひきつけんばかりにいっしょうけんめいになる。神の意志を訂正することが、かれには人間的であると同時に賢明であるように思える。

 そうしてもう一度ある点で自然を凌駕し、自然のたらないところを証明したと喜んでいる。もちろん実際には数を制限したが、これに対し個々の価値は低下されたのだということを、神の愛すべき小猿はもちろん好んで見ようともしなければ、聞こうともしないのである。

 というのはひとたび生殖自体が制限され、出生数が減少するやいなや、最も強いものや最も健康なものだけしか生きることを許されない自然的な生存競争の代りに、最も弱いものや、それどころか最も病弱なものも、どんな代価を支払っても「助け」ようとする当然の欲望、また自然と自然の意思を軽侮することが長ければ長いほどますます悲惨なものとならざるをえない子孫のために胚を残しておこうとする当然の欲望が、生ずるのである。

(前回までのヒトラーのシリーズは、カテゴリ「歴史」で見てください)

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2009年6月17日 (水)

ヒトラーと民主主義

 第2次世界大戦を引き起こし、大量虐殺であまりにも悪名高いヒトラー。歴史に「もしも」はないが、彼の存在がなければ日本も大戦にまきこまれることがなかってかも知れない。彼は偏執狂なのかあるいは変人なのであろうか?。

 また、どうしてドイツ国民は彼を指導者にしてしまったのであろうか。彼については知っているようで知られていない面が多いように思う。前回の「ヒトラーと歴史教育」に続き、彼の生い立ちや思想遍歴を見てゆく。

 彼の生まれ育ったところは、オーストリア帝国である。当時の帝国内には9言語を話す16の主要な民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた(Wikipedia)。その中で彼はドイツ民族グループにいたわけだが、長ずるにしたがって、自らの位置をたしかめる意味から民族問題を深く考えるようになったのであろう。

 「議会制民主主義」や「政党政治」などは、現在なお日本ではキャッチフレーズとして健在だが、ヨーロッパでは第一次大戦前、すでに日本も憲法で手本にしていた立憲君主制度の中で確立していたのだ。ヴィーンで職探しをしていた若きヒトラーがそれらをどう見ていたか。まず、マルクシズムについては『わが闘争』でこう書いている。

 マルクシズムというユダヤ教的学説は、自然の貴族主義的原理を拒否し、力と強さという永遠の優先権のかわりに、大衆の数とかれらの空虚な重さとをもってくる。マルクシズムはそのように人間における個人の価値を否定し、民族と人種の意義に異論をとなえ、それとともに人間性からその存立と文化の前提を奪いとってしまう。マルクシズムは宇宙の原理として人間が考えうるすへての秩序を終局に導く。

 マルクシズムとユダヤを並列に置いた発想は論理性に欠けた粗雑なものだが、個よりインターナショナルな連帯性に固執する点を共通項として見たのだろう。その前に、欧州人が伝統的に持つユダヤ人に対する嫌悪感も隠そうとはしていない。そうして、民主主義や議会についてはこう見ている。

 民主主義のこの発明は、最近になって真の恥辱にまで発展した特性、すなわちわれわれのいわゆる「指導者たち」の大部分の卑怯な特性に、最もぴったりと応ずるのだ。いくつかの重要なことをすべて実際に決定するばあいに、いわゆる大多数というスカートの影にかくれることができるのは、なんと幸福なことだろう。(中略)

 実際、一つだけ決して忘れてはならないことがある。すなわち多数は、このばあい、決して一人の人間の代理ができない、ということである。多数はいつも愚鈍の代表であるばかりでなく、卑怯の代表でもある。百人のバカものからは一人の賢人も生まれないが、同様に百人の卑怯ものからは、一つの豪胆な決断もでてこない。

 ここまで見てくると、日本の現在の万年野党とか、総理大臣を言っているのではないかと錯覚しかねない。おまけに、民主主義は無駄な時間を費やし手続きが厄介で、決してカッコよくない。たしかにヒトラーは真相の一面をついているのだ。

 それでも、それでもなお民主主義がいい理由は何なんだろうか。今こそじっくりと考えてみたいことだ。 

(前回までのヒトラーのシリーズは、カテゴリ「歴史」で見てください)

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2009年6月15日 (月)

ヒトラーと歴史教育

 この題は、当ブログの前身「反戦老年委員会」が05年8月に取り上げたものである。当時、小泉政権のファッショ化や、急速な右傾化が警戒されはじめた頃で、続けて掲載した「ヒトラーの宣伝術」とともに、ご好評をいただいた記憶がある。それを見直して一部を補強し、ヒトラー・シリーズとしてみたい。なお、引用に用いたヒトラーの自著『わが闘争』は、平野一郎・高柳茂訳(黎明書房)によるものである。

 ヒトラーに関する研究・解説書は、内外を問わず多数あるようである。しかし『わが闘争』こそ、同書の訳者が序言で言うように、「極端な国家主義、なかんずくプロイセン=ドイツ的軍国主義という大前提に支えられた、単純でしかもしばしば飛躍はあるが、大衆説得をもつ論理」を見抜く、格好の資料であることは間違いない。

 彼は、歴史が大好きであった。『わが闘争』に、彼が後年立ち至った業績にとって、2つのすぐれた事実が特に重要であると言っている。すなわち、
 第一に、わたしが国家主義者になったこと。
 第二に、わたしは歴史を、国家主義的意味で理解し、解釈することを学んだこと。
のふたつで、歴史については、中等学校の15歳の頃「わたしはこの教師のおかげで歴史が大好きな学科になった」と回顧している。その歴史について彼はこう言う。

 わたしが幸いにも歴史についてひとりの教師を得たことは、その後のわたしの全生涯に対して決定的な影響を与えた。(中略)この教師は現代から過去を解明し、また過去から現代に対する因果関係をひきだすことを知っていたので、幸福もそれだけ大きかった。
 
 さらにまたかれは、他の教師以上に当時われわれを夢中にさせていた時事問題のすべてについて説明してくれた。われわれの小さい国家主義的熱狂が、かれにはわれわれを教育する手段となった。つまりかれは、一度ならず国家主義的名誉感に訴え、それだけで他の手段を用いるよりはるかに早く、われわれ悪童どもを手なずけることができたのだった。 

 しかし、学校での成績は、図画と体操、歴史を除いてはよくなく、無断欠席などもあって途中退学を余儀なくしている。また、24歳になってミュンヘンにやってきた頃、図書館に通い詰めて読書に熱中していたことが知られているが、その内容についての評価は至って低い(大澤武男『ヒトラーとユダヤ人』)。

 それは、「マルクシズムとユダヤ人との関係をいっそう徹底的に吟味するようにした」という彼自身の発言が物語っている。もちろんヒトラーの独学がきわめて偏見と独断に満ちていたことは明らかで、その読書方法も自分の思考や考え方に合うものを選択し、そうでないものは無視していたようである。

 反面、かれは、前述の歴史教師と同様、大衆を把握し組織する抜きんじた才能の持ち主であったことは多くの研究者が共通して認めるところである。

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2009年6月 1日 (月)

古墳・卑弥呼など

 箸墓古墳の前方部周辺で発見された土器から得られた炭素年代測定で、箸墓造営年代を240年から260年の間とする歴史博物館の研究が発表された。そのことはあとで書くことにして、まず、塾頭の「古墳好き」を告白しておきたい。

 「反戦老年委員会」という題でブログを始めたのが05年4月、それ以来テキストの「古墳」を文字検索をしたら今日までで14回、ブログの性格から見てやはり多いといっていいだろう。思い立って旅行する時は必ずその土地の古墳をコースに入れる。

 今年も連休に群馬県を訪れた際、関東第一クラスの規模を誇る(全長210m)太田市天神山古墳ほか2カ所を見てきた。その場所にたどり着くまで周りの景色を観察し、山、川、農地など古代人の生活環境と古墳を造営する古豪が存在した条件などを想像する。

 そして、このあたり、と思った場所に突然こんもりとした自然林の中に古墳が現れ、その形や石室などの位置などを確認できると、その時代に身をおいたような気がして何となくぞくぞくしてくる。上記の3古墳は1カ所が円墳、残りは前方後円墳であるが、いずれも道案内板などはなく人に尋ねながら行った。中には地元の人さえ知らないというものもあった。

 天神山古墳は、最近まで続けていた「異説・天智天皇」シリーズで朝鮮出兵の将軍となった上毛野君稚子の先祖の墓に違いない。この地はかつて関東で最も豊かで栄えた地域なのだ。新田氏、足利氏、すこし怪しいが徳川氏までこの地の出身を唱えている。

 箸墓もそのようにして訪れ、背景となる三輪山、前方に拓ける纏向遺跡など、すっかり魅入ってしまった一帯だ。箸墓はかつて4世紀といわれてきたものが3世紀後半、さらに中葉まで造築時期が繰り上がってきた。

 これは、なにも今回の年代測定ではじめて出た見解ではない。すぐ近くの小型前方後円墳・ほけの山古墳の木製品の年輪による年代測定や、纏向に存在する箸墓に先行する類似の墳丘などで、卑弥呼死亡の時期に重なってくることは広く信じられるようになっていた。

 今回の発表では、日本考古学会がこれで確定したわけではないということで、報道には慎重な姿勢で望んでほしいと念を押したようだが、どうも余計なお世話のように思える。卑弥呼、邪馬台国論争で、宿命的ともいえる九州説との論争があり、炭素測定法に誤差が多いことなど、すこしかじった人なら常識である。

 炭素測定法はDNA鑑定に似ている。不純物によるブレがあるので、サンプルの取り方には細心の注意が必要となり、また対象とする時代によって統計的な不揃いが指摘されることもある。しかし、これらの欠点は研究を重ねる毎に補正をかさね、日進月歩で正確さを増している。

 これにひき換え、文献による反証は、新資料が発見されるわけでもなく分が悪い。例えば魏志倭人伝で卑弥呼の墓を円墳としているから、箸墓の形と違うという。しかし、前方後円墳などということばは近代になって便宜上つけたもので、昔からあった言葉ではない。

 箸墓などの形は、弥生時代に大型の墓を作るとき周りの土を掘って溝を作りその外側から墓へ通れる道を1カ所残した形が、丸い墓なら鍵穴型とかばち型になる。それが祖型として残ったという説明がつくので、丸い墓といってもあながち不自然ではなかったのである。

 考古学会は、かつて旧石器遺跡捏造事件という大不祥事に見舞われたことがある。それ以来、新聞報道に神経質になりがちなのかも知れない。しかし、政治報道や犯罪報道ではあるまいし、なにも自粛する必要はない。誤報は困るが、こういったことには読者の興味をそそり知識をひろめる意味で大いにハッスルしてほしい。そうすれば、群馬のような無関心ぶりもなくなるだろう。 

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2009年5月16日 (土)

異説・天智天皇13

 このシリーズが13回も続くと思っていなかった。それでも省略してしまった事件・事績はまだ多く残っている。あえてそれに触れなかったのは、「反戦塾」という立場から「白村江事変」を中心に分析して見たかったからである。

 前回ようやく天智即位までこぎつけたのに、これをもって最終回とする。そのわけは、天智の仕事はいくつかの仕上げを残すものの即位とともに終わったと同然になるからだ。天皇在籍年数はわずか4年で、斉明死後、皇太子の身分のまま称制といわれた期間の6年より短い。

 その6年間の政権運営の心労が、決して長寿とはいえない46歳で生涯を終える原因になったのではなかろうか。彼の政策判断の師であり精神的に天智を支えたのは、蘇我入鹿暗殺の共謀者で大化改進に道筋をつけた中臣鎌足である。斉明時代には『書記』から鎌足の記述が消えているが、8年10月条に次の記述がある。

 天皇、内大臣の家に行幸し、みずから病を問いたまう。しかるに、きわめて憂うべき病状である。そこで詔があった。「天道が仁者を助けないということがあろうか、必ずよい徴候があるはずだ。なにかすべきことがあれば聞かせてほしい」。それに答えて「臣、もとより無能です。その上何を望みましょうか。ただ葬儀は質素にしてください。生きていても軍国(おおやけ)に務を果たせませんでした。死んでまでご迷惑をかけられません」。

 死の1日前、東宮大皇弟(大海人皇子)を名代に「藤原」の姓と大織冠を授け、死後再び家におもむきねんごろに弔った。まったく異例の措置だが、白村江事変と戦後の処理を、天智、大海人(後の天武天皇)と共に、「軍国の務」と言った鎌足の3人で取り仕切っていたことをうかがわせる。

 結局、天智が必死の仕事に取り組んだのは、入鹿暗殺の乙巳の変の1日と白村江のあとの6年であるといえる。しかし史家は、大化改新の政治改革に果たした役割や天智死後天武に至る壬申の乱の王権移動に目を向け、外交と戦争がテーマの白村江事変はあまり論じられない。もちろん皇国史観ではこの敗戦を大きく取りることがなかった。

 そういった中、有能ではあるが乙巳の変で入鹿を殺し、異母兄の古人皇子謀反の密告で攻め殺し、乙巳の変の功臣、蘇我石川麻呂も謀反容疑で自殺させ、孝徳の一粒種有間皇子を謀殺するなど冷酷果敢という天智像ができあがっていった。

 そして権力に固執して、長年苦楽をともにし、斉明死後は大皇弟として後継者に擬していた大海人を最後の段階で退け、わが子可愛さから大友皇子にゆだねようとして天智の死後壬申の乱が起きた、というのが通説になっている。

 つまり「権力闘争史観」である。しかし『書記』に書いてないことを深読みせず、前後の記事も含めてすなおに読むと、そのような解釈では色んな矛盾を見いだすことが多い。例えば、天智が指示して古人皇子を殺したとすると、その娘を自分の皇后にしたというのはどうも腑に落ちないなどのことである。

 そういった読み方をすると、天智は前述した「必死の仕事」をした時期以外は、日頃できるでけ目立つことはさけ、母斉明の意向に従い、鎌足の助言を受けてすごす内向的な「水仕掛けおたく」「マザコン王子」だということになってしまうのである。また、親子4人はいつも行動を共にしており、死の間際になって急に大海人と仲違いするとは考えられないのだ。

 最後に、大宰府のその後に触れて、このシリーズを終わりにしたい。大宰帥をつとめた阿倍比羅夫の官位は大錦上で主要大臣クラスである。以後もこの伝統は維持された。天智死亡の翌年(672)、天武が吉野から蜂起すると、天智の遺子大友を立てる蘇我赤兄らは大宰府に急使をたて、天皇の命令だとして派兵を要請した。この時の大宰帥は皇室の栗隈王である。その答えはこうであった。

 筑紫の国は外国から国を守ることにある。城を高く溝を深くし、海に向かって備えをするためで、内賊のためではない。今、勅命があるからといって軍を発すれば国が空になる。もし急なことが起き国を傾けるようなことが起きれば、私を百回殺しても役には立たないだろう。簡単に兵を動かすことはできない。

 遠いみかど、つまり朝廷の代理として国防に絶対の権限を持つという自負心と責任感があったのだ。これが、時代を経て唐、新羅との緊張が解けると、それに比例して大宰府は中央の官僚にとって赴任を敬遠するわずらわしい存在になってしまう。ついには、遣唐使の国家的な使命は終わったとして中止を決めた菅原道真が、皮肉なことに懲罰的な意味をこめて流されるという存在になってしまうのである。

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2009年5月14日 (木)

異説・天智天皇12

 白村江の敗北で、唐から日本侵攻の危機におびえ、極度の緊張状態にあったのは、前回述べた天智紀2年から3年(633~634)にかけてである。唐が派遣した使節を瀬戸際外交で追い返し、その間、筑紫大宰府の防塞化や大和王朝の統治基盤を回復できたことで、天智もやや自信を取り戻した。

 しかし、朝廷周辺にはかつてない難問が山積している。まず妹で孝徳帝の皇后だった間人皇太后の死である。彼女は天皇空位の中、欠かすことのできない宮中祭祀を、母斉明に代わって担ってきた。前に述べたことがあるが、孝徳のもとから母・妹と一緒に集団家出をした異状とも言える家族愛で結ばれた間柄である。おそらく近侍した人々であろう、330人を出家させて供養に当たらせた。

 喪中にもかかわらず、各地の城塞新築工事や百済難民救済対策も進めなくてはならない。2度目の唐使節がやってきたのはそのような中である。対馬に現れたのが4年7月20日であった。だが、前回とは違って、劉徳高という唐軍の局次官クラスが国を代表し、また前回の郭務そうがアシスタントのような形で同行していたため、対話には継続性があった。

 何よりも、日本側は前回のような極端な緊張が姿を消し、交渉を可能とする余裕が持てたことが大きい。早速、完成したばかりの大宰府に迎え馬をもって使節を招きいれただろう。入り口の門は、高さ13メートル、延長1.2キロにわたる土塀の両端にある。塀に沿って2重の堀があり、前の堀は幅60メートル、深さが4メートルもあった。

 その豪華な門を潜って大宰府迎賓館にたどり着くには、さらに左右の山の間を20分ほど歩かなければならない。朝廷の出先として、史上最も権威を持った施設は、外交官にそれなりの心象を与えただろう。ここで外交文書を受け取り、あとは『書記』に記すように淡々と事が進む。

 冬十月十一日、大いに宇治に閲(けみ)す。つまり難波から淀川をさかのぼり、わざわざ遠回りして宇治で大規模な閲兵行事をする。十一月十三日、劉徳高らに饗(あえ)賜う。十二月の十四日に、物を劉徳高らに賜う。この月に劉徳高らまかり帰りぬ。

 この後、使節を送るという名目で人を派遣したりまた送り返されたりで、日本は朝鮮に介入しないし唐は日本に侵攻しないという和平協定がなり立ったと見てていい。しかし、天智政権はその後も城郭の建設を続けたり、騎馬軍団を創設するなど防衛力整備に力を注いだ。

 前にも述べたが、天智はそういった新規事業に百済難民の中からそれぞれが持つ能力を生かして高度に利用した。また400人余りを近江で開拓時業にあたらせ、2000余人を東国に移住させた。あとのケースでは3年間の食料援助までつけている。

 このような福祉事業や城塞建設のほか、大水による租税の免除も重なり、財政逼迫は極限に達したものと思われる。斉明天皇と間人大后の陵墓は6年2月にようやく完成、合葬した。ただし労力を要する石室の造営は廃止され、古墳時代末期の天皇陵薄葬にはずみをつけた。

 それが終わると、都を近江に移す。財政難の折り、民衆の反対が強かったとされている。首都防衛のためという説があるが、敦賀方面から上陸された場合を考えると、どうして近江が防衛上有利なのか説明がつかない。また、唐の圧力は一時より大幅に緩和しており、この説は採らない。

 近江では百済人による開拓が進み新規の産業も興りつつある。さらに、朝鮮出兵前に実現した越から北海道方面まで伸びた版図、そして東海、関東の生産力の高まりに配慮し、これまでの九州・瀬戸内海を中心とした大和王朝体制から比重を東に移して、その交通の拠点である近江に注目したとするのは、あまりにも現代的な考えに過ぎるだろうか。

 そして7年正月、ようやく天智は即位する。父、舒明天皇の死からかぞえると、30年のあとに実現したことになる。

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2009年5月11日 (月)

異説・天智天皇11

 天智称制3年(664)7月27日、白村江で唐軍に大敗を喫してからあと1月で1年になる。唐の追撃にそなえて計画された水城を前衛とする新大宰府など、各地の要塞化はまだ完成していない。斉明死後、即位を果たしていない天智の政治基盤も盤石なものになっていない。そんな時、唐の大船が対馬沖に現れたのだ。

 まず、大山中の位を持つ出先の官吏に用件をたださせた。その結果、百済占領軍の鎮将・劉仁願の牒書と献物を持参しているという。代表は朝散大夫・郭務そう(りっしんべんに宗)、兵隊の位で言えば大佐か少将といったところか。

 そこで別館(対馬か筑紫かは不明)に郭を迎え入れ、僧・智弁が牒書だけを受け取って持ち帰った。その内容は一切公開されていない。大宰府の帥・阿倍比羅夫はそれをチェックする役割がある。自らの判断・意見と共に京へ超特急の早馬を走らせた。

 そのためか、郭らに対する返答は9月になった。今度は智弁のほかに津守吉祥と伊吉博徳が立合っている。あとの2人は斉明の死直前に帰国復命した遣唐使で、唐の天子・高宗と面識があることをすでに述べた。筑紫でそのまま、比羅夫の外交をサポートをしていたのかも知れない。

 回答の要旨は次のようなものである。「今客らがきたのを見るとどうも天子の使ではない。百済の鎮将の私的な使である。また書簡も執事の私信である。これをもって使人は国に入ることができない。書も朝廷に上げない。ただ概略だけは口頭で奏上しておこう。筑紫太宰はそう仰せられている」

 郭は納得しなかった。劉仁願将軍にうっかりそんな報告をしたらばっさり斬って捨てられる、そんなこわい気性の人だ。なおも別館でねばり続けた。『書記』では、彼らが来たという事実関係しか書いていない。このくだりは、主に室町時代後期に編集された『善隣国宝記』によるものである。

 さらに、『書記』を追うとこうなる。「冬十月一日、郭らを出発させる詔勅が宣告される。この日に中臣内臣(鎌足)名義で物賜う。四日、郭らを饗宴する。十二月十二日に、郭らまかり帰りぬ」。しかし、郭が帰国のきっかけを作ったのは、同月博徳らから公式の文書回答を受け取ったからだ。

 『善隣国宝記』によると、内容は九月の回答と変わらないが表函(ふみひつ)の表書きには「日本鎮西筑紫大将軍之牒」としてあった。日本にこんな役職・官名はない。これは劉大将軍に見合いの役どころというか、それを上回る威厳を示したつもりなのだろう。

 天智政権のこの時の対応は、想像であるが、唐の書簡の内容は朝鮮の処理方針についての説明であり、日本を攻撃する内容を含んでいないということと、防衛体制構築に時間がほしかったため、手続き上の理由で回答を保留し、時間稼ぎをすることだっただろう。

 唐の真意はまだはかりかねる。しかし、大宰府要塞化の目途も見えてきたので、まずは一刻も早くお引き取り願い、天智体制の確立を優先させたいという気持ちが、硬軟とり混ぜた処置として表れたのだろう。とにかく日本の外交としてまずはは立派なものだ。

 次の使節がやってきたのは、それから1年も経ていない翌4年9月だった。  

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2009年5月 7日 (木)

異説・天智天皇10

 天智称制2年、秋の風が身にしみるころ長津(博多港)は、身ひとつ逃れてきた敗残兵や手に持てるだけの荷物を持った百済の難民でごったがえした。兵達は出発の時と違って統率する指揮者がいないことも多い。出身も九州や畿内はもとより、日本海岸越ををのぞく関東・東北地方までほぼ全国にわたっていた。

 その数、控えめに見てもざっと数万人、船はのべ千艘を越えただろう。疲労と不安と焦燥にかられる群衆ををどう混乱なく受け入れるか。その至難の業を、手際よく仮の落ち着き先や食料の配給、傷病者の手当などをとり捌く初老の将軍がいた。前回名をあげた後将軍・阿倍引田臣比邏夫である。

 朝鮮派兵が始まる前まで、秋田、北海道方面に3年連続で船師を率い、蝦夷・粛慎平定に経験を積んだ。息子の宿奈麻呂も比羅夫の手足となって奔走していた。実はそんなことは『書記』になにも書いてない。手がかりは『日本続紀』に息子の死亡記事があり、その親として「後ノ岡本朝筑紫大宰ノ帥大錦上比羅夫」とあるからである。

 ここですこし解説を加えると、「後岡本朝」というのは、斉明天皇の時代をいう。しかし天皇死後天智は6年も即位していないし、首都も飛鳥・岡本宮から移していないのて斉明の延長という見方になっている。さらに「大錦上」という冠位は、天智称制3年2月に制定したもので、比羅夫が派兵開始以来ずっと筑紫で大和朝廷の出先として活躍していた可能性が高いのである。

 さて、肝心の天智は都で即位もせずにその頃なにをしていたか。前述のように冠位改定を含む大行政改革を行った。これは大化改新以来の刷新で、戦後の政権強化と疲弊した財政の建て直しが目的であろう。これには弟の大海人皇子も参画している。

 さらに、国防の充実強化が最優先課題である。対馬、壱岐、筑紫、長門などの防塞を新築または強化し、のろし場を整備した。また大宰府を大規模な堀と堤防(水城)でガードし左右の山には大野城、椽城を築いた。これは4年後の高安城(生駒山塊)、屋島城(讃岐)、金田城(対馬)につながる。もちろん、唐、新羅の攻撃にそなえるものである。

 このような中、3年7月27日に唐の使節団総勢254人が対馬沖に姿を現した。戦後初めて唐との接触になる。日本列島に極度の緊張が走った。

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2009年5月 2日 (土)

異説・天智天皇9

 百済攻撃の指揮を執ったのは、新・旧『唐書』の列伝に残る名将、蘇定方とその配下で歴戦の猛将、劉仁軌・劉仁願であるが、日本側は次の通りである。

第1次
前将軍 大花下安曇比邏夫連・小花下川辺百枝臣ら
後将軍 阿倍引田臣比邏夫・大山上・大山上物部連熊・大山上守君大石

第2次
前将軍 上毛君稚子・間人連大蓋
中将軍 三輪君根麻呂
後将軍 阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄

 これで見ると、前線を受け持ったのがいずれも地方に根拠を持つ大豪族で、筑紫を中心に海に強い安曇連と、関東内陸に地盤がある上毛(かみつけ)君である。それ以外は大和で朝廷に直属する官僚が主になっている。名門大豪族の阿倍臣だけが第1次、2次と両方に後将軍として顔を出す。これは、直前まで蝦夷平定の海軍を指揮していたこともあり、筑紫に本拠を置いて兵站輸送に専念していたものであろう。

 唐と違って途中で指揮者が交替しているのがなんとも解せない。蘇定方に相当する戦略担当者がいないのだ。日本の朝廷は前線から一歩退いて百済王と前将軍に指揮をまかせ、軍略の神といわれた百済復興の功臣・福信を殺してしまい、日本宮廷の居候生活しか体験のない国王を責任者とするのでは勝てるわけがない。

 結局、斉明の国際感覚欠如と戦争に対する甘さが大規模派兵につながり、天智に撤退を決断する勇気と能力がなかったため白村江の敗戦を招いた。それが、この戦争の全容である。
 

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2009年4月30日 (木)

異説・天智天皇8

 母・斉明崩御により、天智へ大権が移った。斉明がやり残した最低限度の課題は、一度亡びた百済に在日中の王子・豊璋を送り返して即位させ、百済復興に手を貸すことである。天智はそれが成功していると判断したのであろう、飛鳥に葬儀のため戻ったまま筑紫の大本営には戻らなかった。

 このあたり、『書記』に納得のいく経緯の説明がなく、歴史家を最も悩ます時期になっている。確実なことは、筑紫の前線司令部と兵站本部の天皇陣頭指揮体制を解いた、つまり誰かに権限委譲したことと、斉明が指令した大動員令は解除されずにそのまま継続していたという二つである。

 無線がない時代である。前線が朝鮮に渡ってしまった以上、作戦司令部は朝鮮におくしかない。一説に天智の弟・大海人を筑紫に残しておいたなどというのがあるが、それをうかがわせるような史料は全くない。私は、その権限を豊璋が受け継いだと見ている。

 それが、天智天皇即位前紀(斉明7年)九月条にある「皇太子、長津宮(福岡)におわします。織冠を以て、百済の王子豊璋に授けたまう。また多臣蒋敷の妹を妻す。すなわち大山下狭井連檳榔・小山下秦造田米来津を遣して、軍五千余りを率て、本郷に衛り送らしむ。是に、豊璋が国に入る時に、福信迎え来、おがみて国朝の政をあげて、皆ことごとにゆだねたてまつる」というくだりだ。

 つまり、日本の最高位の職階を与え、天皇家出身の家柄の女性と結婚させて、百済における全権を付与したのだ。豊璋は来日以来31年、日本の皇族にすっかりとけ込んでいた存在で、日本の将兵を指揮したとしてもそんなに違和感がなかった。

 しかし破綻はすぐやってきた。日本の軍事顧問との衝突や福信の軍政と新宮廷の権限争いなどだ。その様相を見て新羅も攻勢を強めてきた。日本はここで一挙に百済の安定を図ろうとしたのか、天智天皇称制2年の3月、2万7千人の大軍を渡海させた。

 今回は、今までと違って百済救援ではなく、目的を「新羅を打つ」としている。それは、唐と対敵する可能性を否定できず、明らかに天智の意向を反映したものとはいえない。この食い違いに決定的な打撃を加える事件が百済に起きた。

 こともあろうに、百済復興の功臣・福信を豊璋が殺してしまったのだ。謀反の疑いがあるといって卑劣な方法で逮捕、掌に穴を空け革ひもで捕縛し、佞臣のすすめで切り捨てさらに酢づけにして首をさらしものにした。この残虐ぶりは、明らかに福信の人気をねたんだ仕打ちだ。

 これが、福信を恐れていた新羅軍を一挙に勢いづかせることになった。新羅は州柔(つぬ)城奪取に向かい、豊璋は日本軍と合流して白村江(はくすきのえ=錦江河口付近という)に待つという布陣で戦いがはじまった。

 唐も高麗での戦いが進展せず、百済からの牽制がどうしても必要だ。白村江に軍船170艘を連ねて対峙した。これが8月末のことである。最初に日本軍がしかけ、あえなく敗退した。そして翌日、日本の諸将と豊璋が語り合い、「双方で先を争うように責め立てれば相手は退くだろう」と、のんきな作戦をたてた。

 『書記』に「気象をみずして」とあるので、潮目も考えずにということだろう、東軍は左右からこれを挟み撃ちにし、船首をめぐらすことさえ自由にならず、飛び込んでおぼれるものが多かった。これは中国側の文献にも多く記録されている。

 旧唐書、劉仁軌伝では、「倭兵と四戦して勝つ。その船四百艘、炎煙は天にみなぎり、海水は皆赤色となる」とある。中国特有の誇張で、倭船千艘と書いた書もあるが、いいところ両軍で400艘、1000人足らずだろう。そんな大軍が一カ所に展開できるはずがない。

 しかし、中国は太古から火攻め水攻め、大軍の展開に日・百とは比較にならない経験、蓄積がある。そのような知識が宮廷の一部や軍の幹部になかったことが悲劇を招き、一瞬で帰趨が決まった。豊璋は、数人を連れて、いちはやく船で高麗に遁走し、日本軍も百済の要人をともなって、なだれをうつように日本に向かった。

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2009年4月25日 (土)

異説・天智天皇7

 斉明天皇の6年(660)暮に飛鳥の都を後にした女帝は、あとわずか8か月で寿命が尽き、再びこの地に立つことがないとは考なかっただろう。神功皇后が外征の先頭に立ったという伝承はあるが、あとにもさきにも女帝自ら都をあとに軍を統率したことはない。

 博多湾から川を遡り、両岸の山が迫る要害の地、後の太宰府をこえて海から3、40キロ離れた朝倉宮に着いたのが5月、その2か月後に女帝は崩御した。60歳だった。皇太子・中大兄は母の死とほぼ同時に素服称制、つまり喪服のまま軍政にたずさわった。

 前回まで国際情勢を述べてきたが、やや複雑なので簡単に復習しておこう。朝鮮3国のうちここ20年近く百済と高麗が結託して新羅を圧迫していた。新羅は唐の歓心を買いながら救援をもとめ、唐も隋の時代から果たせなかった高麗との紛争解決に決着を着けたかった。

 そのため、唐は渡海して新羅と百済を挟みうちにし、わずか3日ほどで百済王室を滅ぼして王以下百僚を捕虜にした。逃げおおせた将軍・鬼室福信が残党を集めて反撃、奇跡的な勝利を得て王宮を復活、日本に人質として滞在していた王子・豊璋を擁立することと、軍事援助を求めてきた。

 これが去年のできごとである。日本にとって朝鮮3国の興亡は人ごとではないのである。政治の記録を担当する官僚、建築設計、仏教、織物・冶金等の産業など多くは韓人(からひと)という渡来人に支えられいてる。

 これを如何にうまく分割統制していくかが政治の要諦なのだ。これまでも朝鮮で起きたバランスの変化は直ちに政変に結びついた。百済の滅亡は国益に大いに関係する。しかし、唐が加わった今回の政変に直接干渉することはさすがにひかえられた。

 そこに起きた、鬼室福信による百済復活劇である。斉明女帝による対新羅主戦派に対し、入唐の経験がある孝徳側近とその薫陶を受けている中大兄らは、毎朝城門前で規律のとれた訓練を繰り返している唐軍の姿や、何千年も前から戦国の世を経験している中国と衝突すれば勝ち目のないことを知っている。

 当然、そのあたりを慎重に配慮していたはずだ。まず8月に百済救援のめ、五穀と兵(人数不明)を百済に送った。さらに9月、豊璋に最高位の位を授け、護衛の兵5000余をつけて福信のもとに送り届けた。そうしておいて10月7日に天皇の遺体を奉じて海路帰京の途につく。

 その途中、ある所に寄港、次のような歌を詠む。

 君が目の 恋しきからに 泊(は)てて居て
   かくや恋ひむも 君が目を欲(ほ)り

 解説するほどの文才はないが、「どうかもう一度目をあけてください。優しい目をみせて下さい」という心情が伝わってくる。夏場を過ごしてこれ以上遺体を保持できなくなり、ここで火葬に付したのではないかと想像される。それから約1か月余り飛鳥で喪に服した。

 筆者は、改革派でありながら母と意見が違っても逆らわなかった中大兄の「マザコンぶり」をここに見る。彼が16歳の時、父舒明の弔辞を健気に読み上げてからこのかた、細心の注意を以て中大兄守る果敢な決断をしてきた。異母兄・古人大兄の殺害や孝徳の子有間皇子の謀殺もこれに当たると思う。

 しかし、百済王朝の復活は改革派といえども反対の理由はない。また斉明崩御の直前、唐から帰国を許された遣唐使が復命しており、その中に唐は朝鮮3国の現状変更が目的ではなく、捕虜とした百済王室も保釈したことから、唐の経営方針に反しない限り百済復活を認めるだろうという情報をつかんでいた可能性もある。

 その後1年半ほどは「新羅討伐」という文言が『書記』から消えていた。また、この間に唐の捕虜と称される106人が福信から贈られているが、この中に後に「音声博士」という厚遇を受けて、『書記』の一部執筆を受け持ったとされる続守言(森博達・説)が含まれているという。この小康状態が破られたのが662年、天智称制2年の春である。

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2009年4月21日 (火)

異説・天智天皇6

 斉明天皇の6年9月、百済は正式な使者をたてて、百済滅亡の経緯を天皇に奏上した。7月に新羅が強力な軍事力をバックに隣国のよしみを捨てて唐人と結託して百済を転覆させた。国王や重臣は捕虜となりほぼ残るものはいない、と言う趣旨である。

 これで見ると一方的に百済が犠牲者の立場にいるようだが、中国や朝鮮の文献を見ると抗争の根は深く、女帝が皇極として即位した頃から20年近くも続いている。すなわちこの間、百済が高麗と結託し、新羅をたびたび侵略していたのだ。

 そのため、新羅は唐に救済を求め、また唐も隋の時代から失敗を繰り返していた高麗攻略に転機を求めていた。それには百済・高麗同盟にくさびを打ち込み、南北に兵力を分散させたいと願っていた。日本は三国鼎立の状態で安定的に交流できるのが一番いい。日本国内でもぞぞれの文化や移住者を受け入れており、国内に抗争の要因を持ち込まれるのが一番困る。

 したがって、開明派が主流であった孝徳時代は、シリーズ3で述べているように保守・主戦派の巨勢徳陀古臣の積極策などは採用されず、積極介入を避けるのが賢明な方策だとしていた。それが一転、朝鮮出兵にかじが切られたのは次の事情である。

 百済でかろうじて唐の手から逃れていた鬼室福信という将軍が残党を募り、最初はほとんど素手で抵抗組織を立ち上げた。それで新羅の武器を奪い百済に精鋭軍を再建、王城を確保した。国民の人望は一挙に福信に集まり、唐もあえてこれを排除しなかった。

 その報告は、10月唐の捕虜100余人を引き連れた福信の使節によりもたらされた。そして、日本に質として滞在する王子・豊璋を帰国させ国王に擁立するとともに、軍事援助も求めてきた。これにすぐ反応したのが斉明女帝である。

 こんな要旨の詔勅をだした。「軍事援助を求められ、危機を救い、絶えたものを復活させることは昔から常道とされている。今国が亡び窮状を告げるところもなく、臥薪嘗胆して遠くわが国を頼ってきた。その志は無にできない。わが将軍に命じ、多くの道から進軍し新羅に向けて集まり雲の如く会い雷の如く動けばそのあだを返し、苦しみをやわらげよう。すぐ王子に礼をもって出発させよ」。

 女帝の堰を切ったような好戦的な宣言はどこから来たのだろう。暮れもせまっているのに出兵のため自ら難波宮に移り、出兵準備のため造船を指示し、兵糧の集積を命じた。『書記』はここでも、批判の童謡、わざうたや不吉な前兆のいくつかを紹介している。つまり世論は「反対」だったのだ。

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2009年4月20日 (月)

異説・天智天皇5

 斉明天皇6年夏5月、『書記』が「皇太子、初めて漏剋を造る」(前掲)と書いたことを前回紹介した。飛鳥の都に「チーン」といったか「カーン」となったかは定かでないが定刻になると鐘の音が響いた。そののどかさとは裏腹に「国こぞる百姓(おおみたから)、故なくして兵(つわもの=武器)を持ちて、道にかよう」という不穏な雰囲気を伝えている。

 これには、「長老が言った。これは百済の国が滅亡する前兆だ」という注釈をつけている。この頃すでに唐の百済侵攻は、決定していたが、実際に新羅連合軍の攻撃を受けて王室が唐に拉致されるのは2か月ほどあとだ。こういった百済滅亡の予言は、ほかの事象についても「或本に曰く」として紹介しており、天皇家以外の政権批判が多かったと見ていい。

 しかしこういった予言はどうも後付けらしい。百姓(一般庶民のことで農民とは限らない)が武器を持って往来していたというのは、事実だろう。それは、阿倍比羅夫による北伐に動員された兵士達であろう。そんなに大軍ではないが、同年まで連続3年にわたり連続派兵し、延べでは万を超えているだろう。この前後にも捕虜50名余を朝廷に献上している。

 ことにこの最後の回は、激しい戦闘もあったので、兵士には論功行賞で武器の下賜があったと見ていい。大相撲千秋楽の三役勝利者に給う、弓とか矢と同じである。だからこれは勲章であり、誇らしげに都の中を持って歩いたという社会現象なら大いにあり得る。

 さて、ここで紹介しておきたいのは、「伊吉連博徳書」という折から遣唐使に随行していた官僚の報告書紹介の記事である。これは、『書記』の中の引用文献の中で、漢文の誤りも訂正されずに原典を忠実に反映しているなどと、高い信頼性を得ている部分である。以下は、その概略である。

 ――斉明天皇の5年7月3日に遣唐使の正使・坂合部石布連と津守吉祥連が2隻の船で難波を出発した。筑紫の大津(福岡)、百済の南の島を経て大海に乗りだす。石布の船が逆風に遭い漂流して南の島に漂着、島人の船を盗み出した5人をのぞき、石布らは島人に殺されてしまう。

 吉祥連の船は、3日ほどで杭州湾南岸に着き、閏10月29日に洛陽に入った。翌30日に天子高宗と面会し議事録を残している。まず、天皇をはじめ閣僚の安否にはじまり、国内情勢の説明をする。そして同行した異様な風俗そのままの蝦夷(えみし)を紹介する。

 蝦夷の居住する地域や種類、住居の有様や食料、生活実態などを、極端に原始的であるかのように説明し高宗の関心を引いた。次ぎに冬至のセレモニーに各国の代表とともに天子と再会するが、日本の代表が一番風采が上がっていたと自賛する。蝦夷の演出で大国に見せかけたことに自信を得たのだろう。

 ところがここでハプニングが起こる。随員の中に讒言する者があって間諜と誤解された。伊吉連の弁解が通じて罪一等を減じられ、西安で幽閉される。その説明の中に「来年予定されている政治的な理由(百済出兵であろう)で帰国は許されない」とあった。

 翌年の8月、百済の平定が終わり9月12日に、帰国の許可が出て釈放される。11月1日に百済王など拉致されて京に連れてこられた50人余りも高宗から許される。他方遣唐使らは、同月19日に天子の慰労を受けて24日に洛陽を出発、帰国の途につく。――

 帰国すると、天皇は大和ではなく筑紫の朝倉の宮にいた。7年の5月23日、遣唐使らはここで復命することになる。斉明女帝死去の2か月前である。この間の朝鮮と国内情勢は次回にゆずる。

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2009年4月17日 (金)

異説・天智天皇4

 斉明天皇が即位してまず着手した事業は大土木工事と建築工事である。それらを列挙しよう。

1.飛鳥の小墾田(おはりだ)というところは推古天皇の時代、初めて中国(隋)の国使を騎兵隊の儀仗つきで晴れがましく迎え入れた由緒ある宮どころである。斉明は大規模な瓦葺き建築を目論んだが、それを支える太い木材が足りず途中で放棄した。結局即位時の板蓋宮が火事で焼け、川原宮を経て岡本に敷地を求め、数年かけてそこを根拠地にした。

2.田務嶺(飛鳥東方、現・多武峯最高点海抜603㍍)を巡るように垣をめぐらし、その上に楼観を建て両槻(ふたつき)と名付ける。次に記す運河とともに、唐の侵攻に備えた軍事施設だという説があるが、それならば、地形から見て後に天智が施工したように、生駒山系の高安あたりに防塞を築くのが自然だ。これは祭祀に用いる寺院であろう。

3.香具山の西から石上山(現在の天理市あたりをいうなら延長12㎞以上になる)まで運河を造り、舟200艘で飛鳥まで石を運ぶ。その石は「宮の東の山に石を累ねて垣とす」とある。2000年に発掘された水仕掛けの一部らしい亀形石造物が有名になったが、それを取り囲むように小型のコロシアム状の石積みがあって、それである可能性が強い。

 そのほかに吉野宮を作ったとしているが、『書記』はそれらを「時の人謗(そし)りて曰く」との表現で公然と非難している。すなわち、運河は「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」であり、掘削に3万余、石の運搬や垣の造成に7万余の労働力を無駄にし、建材の木を腐らせ、山裾は破壊されたといい、未完のまま放置されたことを暗示している。

 これらを斉明女帝の個人的な嗜好だとしてしまうのはちょっと酷な気がする。前代の孝徳も難波に豪華な宮殿を造営した。それは外国使節団に都の偉容を示すためであった。斉明はそれに劣らぬものを作りたかったのだろう。

 しかし、水運が開け交通の要衝で商業に適し、自然に人と物の集まる難波とは違う。かつて孝徳のもとに集まった開明派は、中大兄を含めその無謀さに気がついていた。また、中国はスケールがお大きく朝鮮外交とは全く次元の異なることも知っていた。

 斉明紀の中で大きなスペースが割かれるのは、阿倍比羅夫による秋田・北海道方面への3回にわたる遠征である。これも、斉明が望む労働力としての蝦夷の確保と、開明派である比羅夫が、折からの唐・高麗間の紛争に影響を持つ北方民族・粛慎(みしはせ)の北海道進出を聞き、その実態を調査をするという二面的な目的があった。

 前に中大兄は『書記』に情報量が多い、と書いたが青壮年に当たる斉明紀にはほとんど記述がない。斉明の存命中に書かれた実績は、孝徳の息子である有間皇子が謀反の嫌疑で中大兄の訊問を受けたということと、初めて漏剋(ろこく=水時計)を造り民間に時を知らせたという2件だけである。

 一見、引きこもり状態にも見えるのだが、中国伝来の科学技術・漏剋の開発という一面は、たしかに科学者・昭和天皇に受け継がれている。当時の皇位継承は、天皇の推薦、豪族の一致した支持、血脈の正しさの3つで決まり、皇太子即後継者ではなかった。

 その点、有力な有資格者ではあるが決定的なものではなく、よほど身の危険に迫られない限り出過ぎたことをしないようにしていたのかも知れない。これまでの数代はいずれも犠牲者を出している。まず、母斉明の意に添うことを第一にしていたのではなかろうか。しかし、真相は不明である。

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2009年4月14日 (火)

異説・天智天皇3

 斉明天皇が飛鳥で即位すると、『書記』には早速次の記事が表れる。

 夏五月の庚午の朔に、空中にして竜に乗れる者有り。貌(かお)、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて胆駒山に隠れぬ。午の時に及至りて、住吉の松嶺の上より、西に向かいて馳せ去ぬ。

 つまり、飛鳥に近く外国からの移住者が多い葛城あたりから、空飛ぶ怪人が奈良・大阪の県境の山を北上し、難波港の方に向かった、といううわさ話だ。ここで気をつけていただきたいのは、「笠を着た」怪人である。もう一つ、斉明が遠征先の福岡県東南部の朝倉宮で病死した時の話を紹介しよう。ここでも「笠を着た」怪人が現れるのだ。

 是の夕に朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み見る。衆皆嗟怪ぶ。

 見過ごされがちだが、皇極紀や斉明紀にはこういった奇談や童謡(わざうた)などを載せるケースが多い。自然現象や社会現象から先を占うという女帝の時代で、国記にもそれが反映したものという解釈もできる。だが決して無駄につけ加えられたものではなく、そこに何らかの意味を持たせようとしたものに違いない。

 この笠を着た人は、中国のスパイだ、という説がある。あり得ない話ではない。『書記』には、日本からひそかに派遣した役人が百済高官の自宅に潜入する話しがあり、既に駅馬(はいま=早馬)といった高速通信網も整備されていた。それなりの国際情報組織のようなものがあっても不思議ではない。

 こういったことから、斉明女帝の出現と死去はやはり中国との関係を抜きにして考えられない。前回、斉明を「中国嫌い」と評したが、孝徳ら革新派が「媚中派」というわけではなく学問僧などを通じた「知中派」と言った方が正しい。

 中国と朝鮮の間に微妙なバランスの変化を日本が感じ取ったのは、孝徳崩御の3年程前である。新羅の朝貢使が民族衣装の朝鮮服にかえて中国服を着て表れたのだ。これでは中国の出先のようで、日本として直ちに受け入れがたい。筑紫から追い返してしまった。

 この時、左大臣巨勢徳陀古臣が天皇に奏上している。「今、新羅を討っておかないとあとで後悔することになります。まず、難波から筑紫にかけて軍船を連ね相手を脅迫することです」といった。巨勢臣は、例の改新のクーデターの時、蘇我の精鋭親衛隊に乗り込み説得して逃亡させた軍人出身者で、保守派の巨頭になっていた。

 新羅が中国との連携を計ったのはさらに3年はどさかのぼる。しかし巨勢の案は姑息の手段として採用されず、種子島や東北などの領域拡大や内政の安定・充実など国力増進を最優先課題としていた。つまり、中国との差をよく認識しておりより優位に立ちたいということだったのだ。

 斉明天皇の2年、これまでの慣例に従って新羅に遣唐使の先導役を依頼したところ、体よく断られた。新羅が中国に接近したのは、隋の頃から国境を接し互いに攻防を繰り返し手を焼いていた高麗を遠交近攻で挟み撃ちにしようという魂胆があるからである。ここでまた斉明の心は傷ついた。

 百済と日本ははっきりいってじゃまされたくないけむたい存在になる。日中の緊密化は嬉しくないわけだ。斉明の嫌中はともかく、応神朝以来日本に根付いた産業、技術、仏教、文化は移住者に支えられており朝鮮三国のバランスの上で成り立っていることを無視できない。ことに、百済の質として滞在する王子たちは、宮中の一員のように扱われていた。

 また、それは日本の権力の根源をなしており支配層共通の認識であったと考えてもいい。これまで触れてこなかったが、中大兄は、中臣鎌足などとともに南渕請安の講義を受け、孝徳と大化改新を推し進めるなど改革派であるが、朝鮮の安定に関して母と対立するようなことはなかった。

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2009年4月13日 (月)

異説・天智天皇2

 西暦655年1月3日、斉明天皇が飛鳥板葺きの宮で即位した。この場所は10年前、皇極天皇の面前で蘇我入鹿を中大兄が斬りつけ暗殺したところである。式典に参加した中大兄は気が晴れなかった。皇極天皇は中大兄の母である。皇極は、入鹿暗殺でショックを受け、中大兄に譲位すると言ったが、中臣鎌足の入れ知恵で辞退し、結局皇極の実弟・孝徳に政権が移った。

 その孝徳は難波の地に都を移し、いわゆる「大化改新」を中国留学経験者やその影響を受けた側近の助けを得ながら断行した。そのあと皇位を継いだのは、母である皇極(前回触れたように、煩瑣を避けるため天皇号を固有名詞のかわりに使う)で、いわゆる重祚、2度目の天皇就任である。

 以前の孝徳への譲位は生前譲位で、重祚とともに史上はじめての珍事である。しかし、中大兄の憂鬱はそんなことではなかった。皇極と孝徳の間に生じた決定的な姉弟間の感情の溝のことである。この対立は政権内部を分裂させただけではなく、外交問題にまで影を落とした。

 ひとくちでいうと「中国嫌い」である。これは、皇極がその前の舒明天皇の皇后だった頃に始まっている。この当時、近隣外交や相互の往来は比較的活発に行われた。これは、推古天皇以来続いた蘇我本宗家の功績でもある。

 外交使節の接遇は、朝鮮三国と中国で手順は同じながら、出迎えの人数、担当する官位などに差があった。しかし舒明天皇の3年に来日した使節・高表仁は難波まで来て天皇に会わず帰国したらしい。その理由は、旧唐書に王子と「礼」のことで論争ななったようなことが書かれている。

 王子とは誰のことかわからないが、朝貢国として日本の意を得たい朝鮮三国、ことに長期間王子を人質として逗留させる百済と、中国の差を実感していない宮中の外交感覚のなさが露呈したのではないか。皇極は、天皇家の中の女性の役割として巫女としての権威を非常に重視していた。『書記』には「天皇順考古道、而為政也」つまり、いにしえの道を考えて政治をおこなったと書いてある。

 卑弥呼以来の伝統であるが、天文・占星などによる予言、雨乞いの祈祷など皇極にはそれなりの実績と自信があった。その職掌とプライドを無視してはばからなかったのが、中国帰りの学者・僧旻(みん)である。

 大流星が現れ、爆発音も聞こえたということが世間で評判になった時、僧旻は「あれは流星ではない、天の狐である、その吠える音が聞こえたのだ」と言った。女性天皇、または皇后としての権威が台無しにされたと思ったはずだ。

 僧旻は、孝徳の時代に白いキジが発見されたと言って、元号を「白雉」と変えさせた。こんな風習は過去日本にない。皇極が遂に怒りを爆発させたのは、それから数年後旻が死去した際、皇極や中大兄らに孝徳が弔問を指示したことだろう。

 この年、これまた前代未聞の皇族集団家出が演じられる。『書記』は、中大兄が孝徳に前のやまとの都に遷都するよう求めるが聞き入れられなかったので、中大兄が、母の皇極、妹で孝徳の皇后である間人(はしひと)、後に天武天皇となる弟、さらに官僚まで引き連れて難波を去ったと書く。

 孝徳の妻である間人まで連れ出したのは、皇后には任務があり単なる天皇の愛玩物ではない、という強いメッセージを込めたものだろう。事実上の平和的クーデターである。孝徳は悲嘆にくれ一時引退を覚悟したが、外交や叙勲などの業務は継続され、高官であった中臣鎌足なども家出に加担しなかったようである。しかし、孝徳の余命はその翌年10月に尽きてしまう。

 

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2009年4月10日 (金)

異説・天智天皇1

 「畏くも今上天皇陛下におかせられましては、天智天皇をことのほか崇敬あそばされる御おもむきと、もれうけたまわります。こん日の時勢に鑑み、国民として恐懼感激を新たにするものであります」。終戦前ならこんな言い回しをしなければならなかった。

 どうして7世紀の天智天皇がお好きなのか、成婚50周年とやらで皇室報道に精出す週刊誌に聞いて欲しかった。また、上記のような天皇を絶対視・神格視する言い回しがいつから始まったのかわからないが、すくなくとも7世紀当時は「天皇=てんのう」とは言わず「大王=おおきみ」であった。

 大王を神がかりにしたのは天智の弟・天武天皇のあたりからで、御用歌人、柿本人麻呂などの広報活動が利いている。「天智」というのは、後世に作られた漢風諡号(かんぷうしごう=中国式おくり名)、本名・開別(ひらかすわけ)、幼名通称・葛城皇子、即位前通称・中大兄である。大化改新といえば中大兄で、日本史の暗記項目だからこれが一番ポピュラーだ。しかし、本稿では天智(てんぢ)で代表させることにした。

 この天皇を取り上げようとするのは、白村江の合戦で日本開闢以来はじめて手痛い敗戦を喫し、中国(唐)、朝鮮(新羅)の追撃を恐れて本土決戦に備え、戦後処理に心を砕いた天皇だからである。いわば、昭和天皇と立場が似ている。

 題を「異説」としたのは、定説にはない憶測を入れた物語、いわば小説だからである。しかし、それはあくまでも『日本書紀』と、同書が明らかにしている参考文書だけを読んで組み立てたもので、津田史観やその亜流の学説のように「書いてあるからウソ、書いてないことが真実」という、およそ科学的ではない憶測には組みしない。その理由は「日・中協業」「日・中協業2」ですでに書いた。

 最初の回は、このブログ歴史シリーズの前例にならって白村江戦前後の簡単な年表を示すことから始める。( )は天智の推定満年齢。

・645年6月 母・皇極天皇の面前で蘇我入鹿を殺す。叔父・孝徳天皇即位、皇太子となる(19)。
・655年1月 孝徳天皇病没、母・斉明天皇重祚。(29)
・660年秋  新羅・唐が連合して百済侵攻、天皇は百済救援軍派遣を決め準備に入る。(34)
・661年1月 天皇、皇太子ら征西軍を指揮して、愛媛・道後温泉、博多港経由で朝倉宮に親征。
・661年7月 斉明天皇67歳で病没。征西軍は渡海。
・661年10月 服喪のため皇太子帰京。
・663年3月 27000人を新羅に向け増派。
・663年8月 白村江で唐軍と衝突。大敗して敗走・撤兵。(37)
・667年3月 近江・大津に遷都。即位する。(41)
・671年12月 大海人(弟・後の天武天皇)に譲位を申し出るが断られ、病没。(45)

 天智は、『日本書紀』の中では非常に情報量の多い人物である。記述は、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、天武の6代の天皇紀にわたっている。一般的には開明派であるとともに、積極果敢、武断派であるように見られているようだが、開明派はともかく、何度も即位の機会を見過ごし、40を過ぎて漸く天皇の地位につくなど、性格は優柔不断、どちらかというとオタクっぽい印象がするのである。

 そのあたりを、時代背景とともに朝鮮出兵と敗戦処理をめぐる天智の業績を次回以降に見ていきたい。
 

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2009年4月 9日 (木)

時計と収賄

松平定信『燈前漫筆』
 clock------------------------clock
近年時計世に流行して、諸侯方居間に二三十、少くして十ばかりもありといふ、いかなる心にて翫び給ふぞや、其心は知らず、おもふに只何の心あるにはあらず、時の流行といふに雷同して、多きをむさぼるの心ならむか、

此器の用は時を計るものなれば、一つにても足りぬべし、遅速の見合わせのためぞとからば、二ッまでは可なるべし、二三十乃至四五十に至ては何の用なる事を知らず、工人は産業の折りを得たりと思ひ、形をいろいろにかへて作り出すを、是もめづらしかれも面白しと、限りなく求めらるゝ故に、終に三四十にも及ぶなるべし、

又時めく役人などは、諸侯の方をはじめ手入れとやらんに、何をがなと賄賂を争ひ贈る時節なれば、其人の好む品、又は時にはやる物といえば、我おとらじと贈るほどに、終に其数あまたになるにも有べし、武用の器なとならば、何ほども余計ありたきものなり、

させる用なき品に、金銀の費多きは奢侈のひとつなるべし、かゝる事を聞ては、其余無用無益の費さぞ多からんなれば、領分の百姓貢諸役の取立きびしく、家中の諸士も宛行を減ぜられて、因窮ならんと思ひやられてうとましくぞ侍る、
 dollar------------------------dollar

 贈る人の思惑と贈られる人の思惑はまったく別。贈られる人は贈る人の意を介することなく飾っておくだけ。別に法に違反するわけではない。ただ、国民の税金が無駄に使われ、地方公務員の俸給もけずられ士気も低下する一方。

 古い因習と時計集めにうつつを抜かす政治家たちは、早くなんとかしてほしい、そういった庶民の熱望にこたえて老中に抜擢され、寛政の改革を断行したのが松平定信である。彼は陸奥白河藩主として天明の大飢饉でも領内に餓死者をださなかった。

 今なら福島県知事からの転身、ただ「元気もりもり」だけの人とは違う。

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2009年2月16日 (月)

日中関係史考11

 前回、満州国が誕生したところでちょっと茶飲み話にしたいと思います。私は当時満1歳を超えたばかりなので、満州に抱いた印象というのはもっと先のことになります。まず、「満州」というといくつかのメロディーが頭に浮かびます。

♪離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて~ 
♪わたしゃ16満州娘 春は3月雪解けに~

 それに、広軌の満州鉄道を走る日本最速の特急「あじあ号」の勇姿、そこには「満州最速」という発想はありません。同様に、日本最高の山は富士山ではなく台湾の新高山でした。日本は、人口密度が蘭印のジャワに次いで高いが、満州には放置された土地がいくらでもある、石炭は露天掘り。ロマン十分です。

 満州に行けば失業も飢えもない。現地人を指導して無限の開拓が可能になる。昭和恐慌から抜け出したばかりの日本人からみて、新天地が開けたように見えたでしょう。現に、普通のサラリーマンでも、現地人車夫が曳く人力車を自家用車のように使える生活だったといいます。

 そこには、中国を侵略したなどという意識は毛頭浮かびませんでした。よほどの識者をのぞいて一般市民もそうだったと思います。中国では内紛に明け暮れし、日本の好意を逆恨みしするわからずやの反日分子がいて、治安も生活も最悪という知識しか与えられていません。

 日本人が中国人を蔑視しはじめるのはやはり昭和のはじめ、田中義一内閣の頃からで、満州事変で決定的になったと思います。そして陸軍兵士の規律も落ちました。明治の頃は統率がとれ、略奪・暴行などには縁のない世界でも評判な兵隊達だったのです。

 それが満州事変後は、そうとは言えない事件がいくつか発生していたようです。関東軍の正義に反する謀略、下克上、腐敗が関連しているのかも知れません。私が物心ついた頃、軍人勅諭を茶化して「一つ、軍人は要領をもって旨とすべし」という一項が加えられていました。

 一方中国人にとってみると、満州をもぎ取られただけでなく、華北の堺を中心に日本がトラブル(関東軍の謀略によるものも多い)発生のたび軍隊を侵入させ、または北京上空を威嚇するようにわが物顔で飛行機を飛ばすなど、中国国民が、過去の欧米に対するものもまで含めて日本に反感をつのらせるようになった大きな理由だと思います。

 最後は満州の人。ある外国人が独立後始めて大連から特急に乗った。時刻は正確、床にタンを吐いた跡もなくチリひとつない清潔さ。駅に着いていままでのように窓に群がる物もらいの群れもない。さすがは、と思っているところにボーイがやってきた。

「満州茶はいかがですか」。もらって飲むと日本で味わった茶の香りだ。
「これは日本茶ではないか?」。
「ハハハッ。満州は日本ですから、ハッハハ」。 

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2009年2月14日 (土)

日中関係史考10

 1933年(昭和8)76年前の今日2月14日、国際連盟の19人委員会は、リットン報告書の採択と、満州国不承認を内容とする英・仏・独などの9カ国小委員会案を全会一致で可決した。

 小学館の『20世紀年表』の政治・経済欄は、その年の年初から3月末までのをすべて満州関連の事項で埋める。以下、その引用。

~~~~~~~~~~~~~~~~
1.1 日本軍、山海関で中国軍と衝突。
1.2 関東軍出動(山海関)事件。
1.27 関東軍司令官武藤信義、熱河作戦の発動準備を命令。
2.14 (上述・略)

2.23 熱河省に侵攻。
2.24 国際連盟総会、19人委員会の報告書を賛成42・反対1(日本)・棄権1(シャム)で採択。日本代表松岡洋右、「日本は日支紛争に関し国際連盟と協力せんとするその努力の限界に達した」と宣言、退場。

3.27 内田康哉外相、連盟総長ドラモンドに日本の国際連盟脱退を正式に通告。詔書発布。
~~~~~~~~~~~~~~~~~

 なおこの間、1月30日にヒトラーが独首相に就任した。第2次世界大戦の地下マグマが動き出したこの3か月である。

 追記 さきほどの読売ニュースによると、民主党小沢代表とクリントン米国務長官の会談が決まったようだ。当塾の主張が実現し有難いことだ。

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2009年2月10日 (火)

日中関係史考9

 昭和6年9月18日の満州事変勃発から、同7年3月1日満州国建国までの約半年、短い間ですが日本の大陸侵略を見る上で大切な期間です。本当は気が進まず飛ばしてしまいたいところです。まず、清最後の皇帝・溥儀(フギ)を天津の隠れ家から連れ出す工作から見ましょう。

 それを担当したのは、戦後A級戦犯で絞首刑になった土肥原大佐と、関東大震災のどさくさで社会主義者・大杉栄を殺した当時の甘粕大尉です。これもあらかじめ皇帝の側近だった旧臣たちに手をまわし、準備してありました。

 日本政府は、当時中国を代表する蒋介石政権のもと、満州に親日的な地方政権を樹立する程度の考えで、諸外国の反発を受けるようなことを避ける方針でした。一方、関東軍は満州領有まで意図していたので、傀儡政権を独立させるというのは、次善の策だったといえます。

 土肥原はまず、天津の日本総領事館の目をあざむくことから始めました。11月8日、中国人街でニセの暴動を起こさせます。それをきっかけに邦人保護(いつもこの手です)といって軍を出動させます(ここは外国ですよ)。そのどさくさで、溥儀を乗用車のトランクに入れまた変装もさせ、海岸に待たせたランチに乗せて拉致しました。溥儀がどれだけ乗り気だったかはわかりません。こうしてまた政府は、既成事実を認めてしまうことになるのです。

 次は翌7年1月に起きた上海事変です。これは紛争というより立派な戦争です。以前、前身のブログ「反戦老年委員会」でとりあげたことがあるので、そのスタイルを利用します。
 
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 当時の新聞紙上いっぱいにおどる主な見出しと記事を見てみよう。これは上海で軍同士の衝突が起きて8日目の模様である。また、破線以下は別の地域で、満州の奥地、ハルビンを侵攻し、満州事変の軍事行動に終止符をうつニュースである。

●我軍を悩ました猛烈な市街戦・我軍の死傷七十三名・上海五日の総攻撃・夕刻警備境界線まで後退(以上4段抜き。見出しと小見出し)
●敵機飛来し我軍に爆弾投下・けふ根拠地爆撃に決す(同上)
●敵陣地爆撃の艦上機墜落・搭乗三将士惨死す(2段抜き。見出しと小見出し)

●邦人殴打さる(2段抜き見だし。以下はその記事)
 上海東方製氷社員岡田昂氏(三五)、熊本県出身結城健士氏(三七)は北京路を通行中支那人約二千名の群衆に包囲殴打され顔面、頭部等に瀕死の重傷を受けやつと馳せつけた英国軍隊により群衆を追つ払い折柄通りかヽつた邦人のトラックに救はれて篠原病院にかつぎ込まれたなほ同地方の民衆はいきりたち形勢不穏である

●邦人行方不明
●豊田紡保護の陸戦隊引揚
●十数名の敵を倒す・内藤一等水兵の殊勲(以上一段見出し)

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●多門師団司令部 堂々ハルビンに入る・各機関、歓迎に忙殺・我軍死傷八十余名(4段抜き。見出しと小見出し)
●各戸に翻る日章旗・邦人婦女子の歓喜
●爆撃また爆撃 輝かしい空の殊勲(以上3段抜き見出し)
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 上海事変の発端は、中国人群衆が、日本山妙法寺の僧侶と信者3名を襲い、うち1名を死亡させた事件です。これは時々テレビドラマなどで取り上げるので、ご存じの方も多いと思います。関東軍が騒ぎを起こす工作費として2万円を上海駐在武官に渡し、男装の麗人スパイ・川島芳子を使って中国人を買収したものです。

 関東軍の目的は、世界の目を上海に釘付けにし、満州の戦線拡大と全域支配に対する抗議をそらすことでした。人口密度が高い上海は、それでなくても治安が悪化しており、各国が陸戦隊を上陸させるなど緊張状態にありました。

 そして、最後は満州国皇帝即位式の模様を、アメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノーが描く『極東戦線』(梶谷善久・訳)からご紹介します。

 張りつめたような緊張感と、暗殺への病的な恐怖感の中で、ヘンリー溥儀はその朝早く起床し、真紅と黒の王衣をまとい、天命に従う準備を整えた。

 いま新京で溥儀は三回目の王座につき、天子として運命づけられた役割を果たそうとしている。また新たに神に代わる統治者になろうとしているのだ。

 着剣した銃をもつ日本部隊が、銃剣をつけていない満州国軍のうしろに立つ。それが皇帝を迎える歓迎陣である。皇帝の行進に対して民衆の拍手もなく、歓呼もない。

 玉座に張り巡らした黄色い絹のカーテンが三月の寒風にはためき、数分間ですべての儀式は終わった。溥儀は防弾装置つきのリンカーンで急いで市内へ戻った。彼の演技は終わり、幕となった。

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2009年2月 9日 (月)

日中関係史考8

柳条湖満鉄爆破
 最初に事件を報ずる東京朝日新聞の号外(昭和6/9/19/7:00)を見てください。

 18日午後十時半奉天郊外北大営の西北側に暴戻なる支那軍が満鉄線を撃破し我鉄道守備兵を襲撃したが我軍側は午後十一時直ちに奉天の全駐在軍に対して出動準備命令を下し十九日朝零時半日本軍は遂に北大営を全部占領した(以下略)。

 また鉄道爆破です。どうしても3年前の張作霖爆殺事件を思い出します。同じ奉天近郊ですが前回とどこが違うのでしょうか。まず今回は線路1本が曲がった程度で死傷者はもとよりほかに被害がなく、線路を取り替えてそのあとすぐ列車が定時に通り抜けています。

 また日本軍のしわざ、と疑われても仕方ありませんが、前回と違うのは個人プレーではなく、関東軍を中心に完璧を期して準備されていたので外から証明できるものがないことです。それに前回と違って国内の参謀本部にもあらかじめ根回しがきいていました。

 そして疑いを差し挟む間もないほど、電光石火の早さで吉林など各地の支那軍を攻撃、武装解除してしまったのです。また、在留民間人にはあらかじめ警戒するよう伝えられており、巻き込まれて犠牲になった人はいませんでした。

 国内にも、幣原外相など謀略を疑った人は少なくありません。それどころか、関東軍の戦線が拡大してしまったので、天皇の命令なしに朝鮮在留軍が越境応援に駆けつけたり、関東軍独断で錦州を爆撃したりする始末です。

 政府は2度にわたって「不拡大方針」の声明をしますが、これがやっとで、軍の独断専行を追認します。この原因は何でしょうか。このシリーズの前2回(6、7)にそのヒントをあげました。さらに、この年の3月に参謀本部の中佐・橋本欣五郎ら軍部中堅と右翼・大川周明らのクーデター未遂事件(3月事件)があり、爆破事件のあと、10月にも橋本らがさらに大がかりなクーデターを計画します。

 これは10月事件といいますが、後の2・26事件並の規模を予定し、これが反軍の口封じの役割を果たします。3月事件の首謀者がまた現れるなど、やりたい放題で真剣な責任追及がありません。この甘さが、そのまま後の日本の敗戦まで影響してゆきます。また関東軍の暴走も「結果よければすべてよし」という日和見がわざわいしていました。  

 さて、もう一度冒頭の号外の記事に戻ってください。「暴戻な支那軍」という言葉があります。これは関東軍から陸軍中央部に届いた電文の中にもあります。「暴戻」が具体的にこの事を指しているとは言えませんが、同じ年の5月に起きた万宝山事件と、6月末から7月に起きた中村大尉事件というのがあります。

 万宝山は、長春の近くで朝鮮人200人ほどが水田開発をしていました。この人達の中には、中朝国境に近い間島に昔から住んでいた朝鮮族もいます。ここで暴動が起き、朝鮮族の裁判権をめぐって日中で争ったことがありました。

 そして、今度は水田の水を引く水路の件で中国人と朝鮮人の間で紛争が起き、中国官憲は朝鮮人を検挙、日本は邦人(朝鮮人=日本人です)保護のため警官を派遣、銃火を交えるに至りました。この問題は朝鮮内部で中国華僑など100人を越す虐殺事件に発展し、日本がなおざりにしておけなかった問題だったのです。

 中村大尉事件とは、参謀本部がソ連国境に近い興安嶺方面に兵要地誌作成、つまりスパイとして予備曹長1名を伴い潜入し、現地軍に殺された事件です。日本側は中国側に真相究明を迫ったが中国側はなかなか事実を認めず、やっと責任者処罰を明らかにしたのが9月18日だったのです。

 これをもって、満州事変勃発の原因に位置づけ、日本軍の行為を正当づけようという考えが今でも限られた人々の間にあります。しかし、もうおわかりですね。9月18日は、満鉄爆破のその日です。関東軍は中国側の責任者処罰、賠償支払いなどで平和解決し、念願の軍事作戦が先送りにならないでほっとしたことでしょう。

 こうして、次は中国から満州を切り離すため関東軍の暗躍がまだ続きます。それは次回としますが、欧米やロシアの侵略から安全を確保する「利益線」が朝鮮だったのに、朝鮮が日本になったため朝鮮人も保護しなくてはならなくなった、だから「利益線」は満・蒙になり、新たに作った満州国の安全を日本軍が保障する条約を作ったため、華北まで「利益線」になるという経過をたどります。

 伊藤博文は、朝鮮併合に反対だったといいますが、もしここまで見越していたならば、文句なしに尊敬したくなります。そうしないいい方法がほかにあったかどうかわかりませんが、日本の歴史はずいぶん違ったものになっていたでしょう。

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2009年2月 4日 (水)

日中関係史考7

 前回のシリーズ6では、張作霖爆殺事件と柳条湖満鉄爆破事件の間の日本の国内事情として、田中上奏文など3件をあげておきました。この両事件にはさまれた数年間は、世界恐慌の深刻化、農村の疲弊と失業者、労働運動と治安維持法問題など、現在と非常に似ているところがあります。

 小林多喜二の『蟹工船』もこの間(昭和4年)に発表されたものでした。しかしそれだけでは、前記の両爆破事件をはじめ、続々と起きる関東軍の独走や、なぜ軍部が国を左右する力を持つようになったのかの説明になりません。そこでヒントを2件を追加し、以後それがどうエスカレートしていったか、経緯を見ていただきたいと思います。

 陣中要務令

 前々回、張作霖テロを敢行した関東軍が「独断専行」だったといいました。ところがなんと、その言葉そのものが軍人のあるべき姿を諭した教範『陣中要務令』にあるのです。その冒頭に掲げられた「綱領」の3番目がそれで、当用漢字、かなづかいなど直して次ぎに掲げます。

 三 命令の実施には独断を要する場合少なからず。けだし兵戦の事たるその変遷はかりがたく、命令の指示状況の変化に伴はざることあり。この如き場合においては、受令者自らその目的を達し得べき方法を採り、独断専行もって機会に投ぜざるべからず。然れども独断専行は、応変の道にして常経にあらざるなり。みだりに発令者の意図以外に逸脱すべからず。

 「上がそうなればいいと考えていそうなら、ためらわずやってしまいなさい。命令指示がなくても、まごまごして機会を失うようでは、陛下の軍人とはいえませんよ」という精神です。ここでは「独断専行」を奨励しているのです。

 「然れども」以下がありますが、具体的にどういう場合という注釈はなく、それこそ「直接天皇の御名御璽をいただいた」命令に位置するものですから、これに対する一切の疑義・批判はさしはさめなかったのです。
 
 これが、昭和13年の『作戦要務令』に受け継がれ、さらに戦後になっても、陸上自衛隊がこれを参考に『野外幕僚勤務・野外令』を作ったとされています。それならば、イラクに派遣されていた佐藤正久元隊長や、この間問題になった田母神元空幕長の発言も不思議ではない、ということになります。
  
 統帥権の独立
 
 統帥権とは、軍隊を統率し、指揮命令する権利です。旧帝国憲法は、それを次のように定めています。

 第十条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第十一条 天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム

 昭和5年にロンドンで軍縮会議が開かれました。日本からは、若槻礼次郎元首相、幣原喜重郎外相らが出席し、海軍の軍艦の数を制限する条約に調印しました。これに海軍当局は猛反対し、また野党政友会も鳩山一郎を先頭に政府を猛攻撃しました。

 この時持ち出されたのが「統帥権の独立」です。つまり、軍艦の数をどうするかなどは、そもそも天皇が決めることで、政府や全権大使が勝手に決めてはいけない、憲法に定められた天皇の権限を侵すことになる、というわけです。

 明治時代にはこんなことは起きませんでした。政府、議会の中枢に維新以来軍隊をリードしてきた元勲がいて抑えてきたからです。しかし今回は、海軍・軍令部の担当少佐が切腹したり軍令部長が天皇に辞表を提出するなど騒然となり、機会をうかがっていた右翼がこれに乗りました。

 浜口雄幸首相は、昭和5年11月14日岡山出張のため東京駅のフォームにきたところ、右翼団体構成員の銃撃にあって瀕死の重傷を負いました。そして9か月余の療養の後一命を落としました。こうして、その後相次ぐ政治テロの最初の犠牲者となったのです。 

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2009年1月31日 (土)

日中関係史考6

 前回の張作霖爆殺事件から、次は満州事変のきっかけになった柳条湖鉄道爆破事件にもっていこうと思いますが、このブログですでに取り上げた事項のいくつかを知っていただくと参考になると思い、3件を要約してとりあげてみました。もう「知っているよ」とおっしゃる方はどうぞ飛ばしてください。

田中上奏文

 怪文書とは、ある目的をもって偽造、捏造された文書のことをいう。最近は文書に限らず映像までこれに加わった。怪文書はあくまでも怪文書であり、「歴史」とは無関係である。9.11の爆破自作自演説なるものもあるらしいが、通常ならこれは歴史になり得ない。
 
 しかし、世界各国の多くの人がこれを真実と信じるようであれば、その現象の背景にあるものを探索する意味はある。「田中上奏文」も、これと似た位置に置かれている。日本では戦前すでにこれが偽作であるということで決着しており、東京裁判でも「にせもの」という判断が下されている。

 歴史書でも全然触れないか触れてもわずかでしかない。そこでまずその概略を説明しておこう。昭和2年4月田中義一内閣が成立し、6月に外務・陸海軍当局者で構成する東方会議を開催して、対中国強硬策を決めた。その内容を天皇に上奏するためと称する厖大な文書がそれある。これには宮内大臣宛の代奏要請書簡がついているが、元来その任務は内大臣の担当であり、これが偽書説の有力な理由となっている。

 文書の内容は、満蒙政策を中心に21項目2万6千字にわたるもので、もし本物なら異例のボリュームと内容になる。そして問題になったのは、「支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲すれば、必ず先ず支那を征服せざるべからず」という文言があり、その後の日本の行動がほぼその線に沿って進んだことである。

 このような露骨な征服野心丸出しの方針が、天皇を含めて昭和のはじめからあったとすれば、「追い込まれたためやむをえず戦争にまきこまれた」などという口実などスッ飛んでしまう。そして間もなく中国語、英語、ロシア語に訳されたものが出回りはじめ、各国の新聞にも掲載されだした。

 無論、日本の外務省はその存在を否定し、米国などでは偽作であることが次第に理解され始めたが、中国、ロシアではいまだに本物とする研究者があり、仮にそうでないにしても、日本のしかるべきところで作成された指針には違いないという解釈が根強く残っている。

 この文書の作成者や流出ルートなど、いろいろ研究されているが、これにもソ連の諜報機関関与説や中国人商人の暗躍など、怪文書にふさわしいいろいろな情報が交錯している。日本でも、その文脈から、日本人の手になる部分があることを否定しきれないと考えられている。

 張作霖爆殺後、期待?に反して後継者の張学良などが冷静で、反日騒動などの動きに出なかったことを陸軍の中枢が残念がった、という話があるぐらいなので、あるいは軍部の過激派が中国を挑発するために偽作したという線もなきにしもあらずである。陸軍出身の田中でさえ陸軍を抑えきれないという現象は、この時期に始まる。

 いずれにしても、日中両国の研究者にとってこの文書の持つ意味は大きく、今後、両国関係史を検討する中で単なる怪文書として捨てきれないものになると想像される。(参照文献『国境を越える歴史認識』ほか)

不戦条約

 昭和3年(1928)の流行語に「人民の名において」というのがあった。この年はスカートの丈が膝上になるとか、労働争議が続発するなど、大正デモクラシーの名残を残す一方、政府は治安維持法の強化をはかり共産党関係者1568人を検挙するなど、左翼の弾圧にも乗り出した。

 同じ年、パリ不戦条約が15カ国間で調印された。これが現行憲法9条1項の根源となっている。その中に「各国の人民の名において厳粛に宣言する」との表現があるが、当時、これは天皇主権をうたう我が国の憲法に違反する、という声が議会の中からでた。

 解釈次第ではどうにでもなることだが、そうはいかなかった。政府は、この部分に限り日本ヘの適用がないものと了解する、と勝手に宣言してその場をしのいだ。「人民」は、明治も最初の頃はpeopleの訳語として当然のように使われていたのだが、この頃から語感としてなんとなく体制と相容れないような位置に追いやられ、今では社会主義国だけが使う特殊用語だと思っている人も多い。

五・一五事件

 評論家・保阪正康氏の著書に『昭和史七つの謎』(講談社文庫)というのがある。その第一話が「日本の<文化革命>は、なぜ起きたか?」である。項立ては、「五・一五事件の減刑嘆願運動」・「国際連盟脱退と日本人の思考」・「国際連盟脱退と日本人の思考」・「中国の<文化大革命>との類似点」と続き、最後を「なぜ日本人は変調したか」でしめている。

 五・一五事件は、ご承知のように昭和7年(1932)、陸海軍将兵が犬養首相を襲い「問答無用」とばかり射殺したテロ事件である。氏は関与した陸軍の軍法会議の模様を、『日の出』という雑誌の昭和八年十一月号付録「五・一五事件の人々と獄中の手記」を次のように引用する。

  「公判前までは(減刑嘆願運動は)愛国団体以外にほとんど見るべきものが無かつたが、公判半頃より陸軍の論告求刑を境として、つひに大衆運動と化した。そして判決の九月十九日までに三十五万七千余通の嘆願書と、奇しくも被告人の人数と同数の十一本の指が公判廷へ運び込まれたのである」

  さらに、若い士官候補生が純情無垢で「赤裸々に吐露する態度を見る時、ただわけもなく涙ぐませるものがあった」という記者の感想をつけ加えている。この裁判の判決が禁固四年という予想外に軽いものだったことから、後の2.26事件を誘発するひとつのきっかけだったという分析は、ほぼ通説になっている。

 しかしテロ行為を国民が容認・支持しているということには結びつかない。指を送りつけたというのは、暴力団が脅迫に使う行為だ。庶民に指をつめるなどという風習はない。この事件を組織した黒幕は、一人一殺を唱えた井上日召傘下の極右である。同書は前述の資料をあげただけでその点についての分析はない。

  さらに、同氏は昭和8年3月、国際連盟脱退を宣言して帰国する松岡洋右代表について、次の一例を加えた。当時は、新聞各紙(十二紙)が「国際連盟諸国中には、東洋平和の随一の方途を認識しないものがある」との共同宣言を発表し、松岡の行動を讃えた。松岡が横浜に戻ってきたとき、埠頭には二千人余もの人びとが駆けつけ、歓声をあげた。松岡も喜色満面で手を振ってこれに応えている。

 この例は、マスコミの世論誘導と埠頭の二千人をあげているが、それをもって国民世論とするのは無理がある。大部分の国民は国際会議のかけひきなど関心外で、日常の生業に励んでいたはずだ。それから2.26事件、同氏はこれこそ日本の<文化大革命>と位置づけ、以後を国民は「錯覚と陶酔のなかに生きた時代」とする。

 同氏所論の最大の欠陥は、脚色されたマスメディアだけに頼り、発言を封じられたサイレント・マジョリティー、すなわち特高警察からふとした日常会話を咎められて、摘発・検挙された一般人の記録などに目を向けず、それらを「国民」から除外してしまったことである。

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2009年1月24日 (土)

日中関係史考5

張作霖謀殺事件
 戦時中から戦後にかけ、傍若無人、独断専行、なんでも人にかまわず思った通りやってしまう人を俗に「関東軍」といいました。田母神元空幕長はそうではないと思いますが……。関東軍の「関東」は、日本の関東ではなく、万里の長城、山海関の東ということで、日露戦争以後の利権守備隊がそのはじまりです。

 その関東軍が独走し、謀略に精出すようになったのは、大正末期からです。中国は、辛亥革命後も各地の軍閥による勢力争いが耐えず、まさに戦国時代の様相を呈していました。関東軍は、関東(満州)の安全のためにといって、北京を中心に各軍閥に軍人をもぐりこませ、軍事援助、買収、裏切りなど、思いのままに謀略を繰り広げていました。

 今回は張作霖謀殺事件を取り上げますが、これは関東軍独走の一典型として、犯行の中味と結末だけをを書いてみたいと思います。主に参考にしたのは、防衛・外務両省の資料を精査し、中立的立場から書かれたとされる島田俊彦『関東軍』(講談社学術文庫)です。

 昭和3年(1928)6月3日夜、奉天と北京を結ぶ京奉線の鉄橋に爆薬を仕掛け、通りかかった満州を地盤とする軍閥・張作霖が乗った列車が爆破されました。その謀略の首謀者は、関東軍高級参謀・河本大作大佐で、張は間もなく死亡します。

 河本は、約半年前から鉄道爆破の予行演習を繰り返し、世間の反応を見るなどのケーススタディーを繰り返していました。それらが中国人の仕業と解釈されることも多く、各軍閥を挑発して混乱を招けば、満州の安全を理由とする関東軍の出動が可能になると考えたのでしょう。後の満州事変誘発と変わりありません。

 計画は民間商人の手も借りて進めました。遊郭経営の中国人の配下にいるモルヒネ患者のならず者2名と、王某の3名に100円から150円を与えて買収、当日の早朝入浴と散髪をすませ、サッパリした衣服に着替えさせました。

 その後、王某は危険を察知して逃亡、残る2人は、列車爆破のため爆弾を投げるのが役目だと教えられました。さらに反張派の爆破命令を書いたにせ密書3通を懐に入れさせます。そして河本大佐に引き渡されたのです。

 自動車で爆破予定現場に着くと、中国人の2名は日本兵に直ちに刺殺されました。そして、死体にはかねて用意の爆弾を抱かせ、現場に放置されました。爆薬は100~150㎏が装填され2人が持つには重すぎます。それは約200m離れた所と導火線でつながれました。

 爆破は、実に見事に実行されました。この一連の謀略について疑惑を持たれた関東軍は、陸軍次官に当てた電報で犯行を否定し、疑惑をほのめかすような新聞・報道は厳に取り締まるよう要請しました。それで国内ではこれを「満州某重大事件」などと言いかえてごまかしましたが、かえって軍関与を匂わせる結果になっています。

 しかし悪いことはできません。当時の野党・民政党の議員や中国側の調査で続々とボロが出てきました。爆薬の量が便衣隊の仕業にしては多すぎただけでなく、入手経路も明らかになりました。また、途中で逃げた王某の証言や、殺された2人の顔を見ている風呂屋の主人がまちがいないと証言するなど、政府も放置できなくなりました。

 田中義一総理は、天皇に「軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰します」と伝えていたにもかかわらず、閣議でうやむやにしておいた方が得策だという結論になり、河本を退役処分にしただけでした。それを天皇に報告すると、天皇は「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」と強い言葉でたしなめました。

 それで、田中内閣は総辞職しますが、天皇の発言が理由で内閣が倒れたのは、あとにも先にもこれが始めてです。天皇はこの事を反省し、以後内閣の上奏したものは、反対であっても裁可するようにしたと戦後になって語っています。なお、余談ですが桜井よしこ氏などが、ロシア諜報機関のしわざだという史料が発見されたという主張をしていますが、専門家筋からは一笑に付されています。

 

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2009年1月21日 (水)

日中関係史考4

中国から見た日本
 前回までに、中国人(特に学生を中心に)を決定的に反日、排日に追いやったのは、第一次世界大戦のあと、中国にとつて屈辱的な「対華21カ条要求」を飲ませてからだといいました。それでは、過去の長い歴史の中で中国人が日本または日本人をどう見ていたか、両国の関係はどうだったかを、ここであらためて振り返って見ましょう。

 前の「朝鮮・韓国」シリーズでは記事の中でとりあげましたが、今回は前身のブログでもそうしたように、手抜きをして下記の浙江省大学の王勇氏の著書『中国史のなかの日本像』(社)農山漁村文化協会の目次を見るだけで想像していただきたいと思います。

 それによると、決定的に日本が嫌われていたのは、明の時代に和冦が沿岸を荒らしまくっていた頃ぐらいで、基本的にはよいイメージを持たれ続けたようです。また日本人の方からは「元寇」ということになるのですが、これは「朝鮮・韓国」シリーズでも述べたように、中国・朝鮮も被害者だったことを考慮すべきでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
第一章 神仙の郷――幻想的な日本像
 日本の有史以前。徐福が目指した?君
 子不死の国、蓬莱の国などのイメージに
 ついて。
第二章 宝物の島――実像と虚像の間
 魏志倭人伝から黄金伝説まで。
第三章 器用な民――虚像から実像へ
 飛騨工の伝承や、輸入される日本扇、日
 本刀など精巧な工芸品への驚嘆、賛辞。
第四章 礼儀の邦――モノからヒトへ
 呉人の後裔という考えや中国ですたれた
(柏手による参拝など)遺風が守られてい
 るという考え。遣唐使の立ち居振る舞い
 のすぐれていることなど。
第五章 好学の士――華夷の壁をこえて
 唐代からあと、ことに仏僧を中心に、経
 典、書道、漢詩、絵画、彫刻などで日本
 の高いレベルが評価され、言語の障壁を
 乗り越えた相互の研鑽と交流が続いた。
第六章 白骨の山――日本像の豹変
 元寇で平和な関係が一転し、日本像が変
 わっていく。しかし、中国は日本への侵
 攻より敬遠、回避の道を選ぶ。
第七章 海彼の冦――海賊から妖怪へ
 元から明にかけての倭冦被害で、日本人
 の残虐性と狡獪性がクローズアップされ
 る。狡猾とされるのは、南北朝時代や室
 町時代の日本政権が約束を守れず、また
 公式船と見せかけておいて略奪行為をし
 たことなどがある。また豊臣秀吉は妖怪
 ・悪鬼の扱いをされていた。
第8章 西学の師――近代化の手本
 明治維新は中国近代化への先駆として注
 目された。
終章 幻想の破滅
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 辛亥革命で清朝は倒れたものの、孫文が目指したような近代的な政権ではなく、軍閥が力を競い合うような不安定な状態が続きます。その中で真剣に日中の間のことを心配し、憂慮した人々がいました。もともと親日家だった孫文は1924年(大正13)に来日し、神戸大学で帝国主義と化した日本に迫る悲痛の演説をします。

 「日本は世界文化に対して西方の覇道の番犬となるか、はたまた、東方王道の干城となるを欲するか」

 これについて、孫文に支援を惜しまなかった右翼の大物、頭山満の発言は、このシリーズの1「日露戦争のトラウマ」編に記載しました。もうひとり、辛亥革命の協力者であった熊本県出身の大陸浪人・宮崎滔天の死に対し、孫文は上海で追悼大会を開催しました。

 現在の中国でも、「宮崎は中国人民の真の友人、傑出した国際的友人であり、同時に中国人民の革命隊列の中で思想が堅く、不屈であった一人の外国人革命戦士であったといえる。彼は中国人民の革命事業に対し、また中日両国民の友情あふれる交流に対して貴重な貢献をなした」と、最大級の賛辞が寄せられています。(前述書)

 こういうと、右翼に「媚中派」が多かったのかと思う人がいるかも知れませんが、そうばかりではありません。反戦を訴える文学や軍事拡張に批判的な社会主義者の存在もありました。また明治の元勲は、概ね中国との摩擦を避けたいという考えでした。同時に「幣原外交」と呼ばれ、欧米の潮流に従った中国への内政不干渉を打ち出す外務大臣の存在もありました。

 しかし、大正デモクラシーと呼ばれた自由の風潮は、国粋主義のもと次第に軍靴の足音にかき消されるような時代がやっくるのです。

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2009年1月19日 (月)

日中関係史考3

第一次世界大戦
 第一次世界大戦というのは日本にとって、あるいは中国にとって何なのだろう、こういうことについて、普通はあまり深く考えるということをしません。私は、この戦争が日本の中国侵略への第一歩であり、世界から日本の野心について警戒をされ始めた最初だと感じています。

 というのは、ヨーロッパでの勝者も敗者もない悲惨な結末に、各国が弱肉強食の帝国主義戦争を反省するようになり、お互いにその方途をさぐる動きになっているにもかかわらず、日本はそれに乗り切れず逆の方向へ走り始めたからです。日露戦争のトラウマが残っていたとすれば、何と根強いことでしょう。

 始まったのが1914年、大正3年ですがなんとも不思議な戦争です。まず、日本の敵は、ドイツ・オーストラリア-ハンガリー・イタリアの三国ですが、戦ったのはドイツだけ。味方はイギリス・フランス・ロシアということになります。そして日・独双方の戦場となったのが中国です。

 ヨーロッパで起きたこの戦争は、遠く離れた日本にかかわりのないことで、大隈内閣はまず中立宣言をしました。中国も同様です。ところが、中国の青島を基地にして英国商船を脅かすドイツ軍艦を追い払って欲しいという英国の要請がありました。

 しめた!、と思ったのは、明治の元老・井上馨です。山東半島にあるドイツの膠州湾租借地をあわよくば横取りし、辛亥革命後孫文から実権を奪ってダーティーな独裁政治で安定を欠く袁世凱政権に満蒙支配のくさびを打ち込みたいと思ったのです。イギリスには同盟国の義理があるということで、政府は早速ドイツに宣戦布告をしました。

 中国もそれを察し、ドイツに宣戦布告して租借契約を即刻破棄して日本が進軍する口実をなくし、ドイツも問題をあとに引くことをおそれて返還に応ずることにしたのです。頼んだイギリスの方もびっくりしました。なにも、日本にそこまで頼んだ覚えはないといって、取り消してきたのです。

 ところが、イギリスとの情義と青島を取り返して中国に返す、の一本槍で、ほかは一切聞こえないことにします。そのまま秋から冬にかけ、青島やドイツの支配下にある南洋諸島の占領を終わらせてしまいました。これで、第一次世界大戦の戦勝国になれたわけです。

 国民もよく知らないアッという間のできごとでした。また、ヨーロッパでは戦乱が続いていたので貿易の競争相手がいなくなり、重工業の発展も緒について大戦ブームが起きて明治以来の債務国が一転、債権国になりました。

 戦勝国といえば、中国だって同じ立場です。その中国にドイツを追っ払ってやったのだから、といって日本政府は対華21ヵ条要求を北京政府につきつけました。それには、返すはずだった山東省のドイツ権益は日独両国で決めたことを中国側が受け入れる、日露戦争で日本がロシアから接収した旅順・大連などの租借権や鉄道の管理権は、さらに99年延長する、満州や内蒙古での日本人の資産獲得などに便宜を与える、政治、経済、軍事などに日本顧問を招くなどが含まれ、属国扱いに近い内容です。

 火事場泥棒とか、漁夫の利という声が聞こえます。これは外国からではなく国内から起きています。なにも自虐史観ではありません。最終的には山東省の返還や顧問の問題など、譲歩も見せていますが、国民の間からは大きな疑問は起きませんでした。しかし、中国では要求に屈した1915年5月9日を「国恥の日」とし、日貨排斥など反日意識を固定化させることになったのです。

 最後に、日本のこういった拡張政策がすでに世界列強の間でも時代遅れになっていることを、パリの講和会議に広報官として出席した松岡洋右が、日本に対する各国の記者たちがどう見ているかという報告をしており、その一部を紹介します。なお、この引用は以前にもした覚えがありますが、加藤陽子『戦争の日本近現代史』によるものです。

 所詮我に於いて之を弁疏せんとすることすら実は野暮なり。我言う所多くは special pleading にして、他人も強盗を働けることありとて、自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張せんとするは、畢竟窮余の弁なり。真に人をして首肯せしむるや疑問。

 また加藤は、松岡が政府の方針をヤボと言って批判したもので、special pleading 「特別訴答」という法律用語を持ち出して、自己に有利なことだけを一方的にいう議論ではとても理解されるものではなく、日本の国際的信用がレベルに達していないということを訴えたと解釈しています。 

 余談ですが、こういった国際感覚を持っていた松岡に対し、昭和天皇が第二次大戦で日独伊三国同盟を推進したことについて「松岡はヒトラーに買収されたのではないか」という極端な言葉で難詰したのは、まだ一縷の望みを松岡につないでいたのに裏切られた、という気持からなのでしょうか。

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2009年1月17日 (土)

日中関係史考2

 1905年(明治38)9月に日露戦争が終わってから9年後の1914年(大正3)8月、日本は次の戦争第1次世界大戦に突入します。この間、韓国は日本に併合され、中国も辛亥革命がおきて、両国とも古代から続いた王朝支配の政治は終わりをつげました。

 ここで注意していただきたいことがあります。現在、中国や韓国の指導者がよく「過去の歴史を鏡として」とか「歴史を教訓に」というコメントをしますが、この歴史というのは王朝が支配していた時代を含んでいません。韓国は国名を朝鮮から韓国に改めた直後に日本に併合され、中国は、辛亥革命で清国から中華民国になった頃を区切りとして、それ以後を今日に続く歴史のスタートと見ている点です。

 それは、学校教育で大正・昭和の歴史を省略してしまう日本とは逆です。日中関係も、そのあたりから見ていかなくてはなりません。日本は日露戦争の戦利品として、ロシアが中国から得ていた遼東半島南端の租借権と長春~旅順間の鉄道利権を接収しました。租借地は領土と同じだから軍隊の駐留は自由にでき、鉄道の方は沿線1㎞当たり15名以内の守備隊を置けるという特典つきです。

 中国としては、無理やりロシアに奪いとられた利権で、日本が肩代わりする理由は全くないわけですが、日本は力づくでそれを納得させました。清国代表で交渉に当たった袁世凱は、「ロシアが煙草を2本持ち去ったのを理由に、日本に一箱全部を持っていかれた」と嘆いたそうです。それから1945年の日本敗戦まで日本軍が中国大陸に居続けたのです。

 ロシアが獲得した旅順・大連などの租借期間は25年間で1923年に切れ、鉄道なども1940年までです。当面日本が管理するにしても、西欧列強の帝国主義的支配から東亜各国を独立・開放するという使命感のある日本ならば、遅くともそれまでに取り戻した主権は返すのが本筋だったわけです。

 そうにはならず、逆の方向に走り出したのが次ぎのテーマ第1次世界大戦と、その結果をふまえた「対華21か条要求」です。日清・日露戦争までは、開戦に「自衛」が色濃く反映していたのが、拡張・侵略路線に転換し始めたのはなぜか、当時も右翼主導の主戦論はありましたが、一般国民も日露戦争の犠牲があまりにも大きかったため、それに見合う報酬がなくてはならないと考えたのではないか、ということを前回書きました。

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2009年1月14日 (水)

日中関係史考1

日露戦争のトラウマ
 「朝鮮・韓国」シリーズを23回続け「日韓併合」で最終回としました。今度は「日中関係史考」です。これもこのブログの前身「反戦老年委員会」に書いた同じ題名のリニューアルになりますが、史論というよりできるだけくだけた内容にしたいと思います。

 日清・日露という明治時代の戦争は、朝鮮と戦争したわけではないものの、いずれも日本にとっての朝鮮問題がその発端でした。日本の安全とか利害に大きな影響をもたらすといういわゆる「利益戦」が、日露戦争を契機に「満・蒙」へ広がっていった経緯もすでに書きました。

 日本は、日露戦争で何がどう変わったのでしょうか。いろいろありますが「朝鮮・韓国」から中国にテーマをバトンタッチする上で、ひとつ挙げておかなければならないのは、それまであまり顕在化しなかった「愛国心」という言葉です。

 「愛国心」の定義はいろいろありますが、このところヒラリー・クリントン次期国務長官が連発して有名になったスマート・パワーではなくハード・パワー、つまり相手と協調点を探るやりかたでなく、国家を表に立てて妥協を排し、力で解決していくという方向をとるということにしましょう。

 それには何時の時代でも共通する現象が現れます。それは、危機や脅威をあおり、軍の行動や方針を批判したり協力をしなかった場合、「非国民」とか「売国奴」といった攻撃を受けて、ほとんど言論を封殺してしまうことです。

 日露戦争の講和条約が明らかになった直後、その条件が不満だとして日比谷焼き討ち事件などという過激な抗議活動が起きましたが、その裏には膨大な戦死者を出し血税を費やしたことに対するぬぐい去れないトラウマがひそんでいたと思います。

 日清戦争では、三国干渉で「臥薪嘗胆」で我慢したものの、結局報われることなく日露戦争まで行ってしまったのです。今度はなにがなんでも払った犠牲に見合うものを取り返さなければ後に引けない、こういった気持ちが5年たっても10年たっても、あるいはそれ以上後にも残ったといえましょう。

 以下は、いずれも右翼から発せられた言辞ですが一般国民の気持ちを代弁している面もあります。最初は大正2年(1913)に起きた、外務省政務局長阿部守太郎暗殺犯人の斬奸状の一部分、次ぎに大物右翼を代表格する玄洋社の頭山満が、1924年(大正13)来日した孫文に語ったとされる言葉を紹介しておきましょう。

 曾(かつ)て弐拾億の巨財と拾万の同朋が屍山血河悲惨極まる努力に因て漸く贏(か)ち得たる満蒙を棄てて顧みざる而耳(のみ)ならず……民論を無視し、帝国をして累卵の危きに置きて顧みる所なく……(島田俊彦著『関東軍』より)

 貴国四億の国民を以てして、外国の軽侮と侵害を甘んじて受くるが如きは、苟も国家を愛する志士豪傑の之を憤るのは当然である。嘗て満蒙地方が露国の侵略を受けし時の如き、幸にして我が日本が相当の実力ありたればこそ、多大の犠牲を払って、唇歯輔車(相互に助け合う)関係にある貴国保全の為め之を防止するを得たのである。依って同地方に於ける我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何等他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は、勿論還附すべきであるが、目下オイソレと還附の要求に応ずる如きは、我が国民の大多数が承知しないであろう。(藤本尚則『巨人頭山満翁』山水書房、松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読』岩波文庫、所載)

 なお、頭山満は孫文の支持者で、「西欧帝国主義列強がみんなやっていることだからわが国だけが非難されることはない」などという、破廉恥なことは言っていないことに注意してください。なお、この発言が出た時代背景などは追って触れることにしたいと思います。

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2009年1月 8日 (木)

朝鮮・韓国 23

 日韓併合をもってこのシリーズの最終回にしたいと思っています。太古からここまで見てきて、特に明治以降の日朝、日韓関係を追っているとためいきが出てしまいます。このような結末を招いた本当の原因は何でしょうか。実は誤解を恐れずにいうと「なるべくしてなってしまった」としかいいようがないのです。ここが、満州事変や日中戦争の侵略とはやや異なります。

 戦後の日本を風靡した唯物史観、発展史観による歴史の解釈は、皇国史観をたたきこまれた者から見ると大変科学的で魅力的な方法でした。しかし、どうも素人目から見て、その解釈に当てはまらないものについては、追求がなおざりになり、物足りない思いをすることがたびたびありました。

 結局日韓関係は、徳川300年の封建政治を経て大政奉還、西欧に習った立憲君主国という近代化を果たした日本と、古代から続く宮廷政治に固執する朝鮮・中国との感覚のずれ、次ぎに西欧列強による植民地拡大競争激化、特に日本は、ロシアから直接脅威を受けるいう自意識の強さにしばられていたということではないでしょうか。

 そして、最後は「戦争」です。「弱きを助け強気をくじく」などと「義侠心」で始まった日清戦争はお人好しでお節介だったかも知れません。しかしこの戦争が日露戦争を呼び、日露戦争はこのあとの日本がかかわったすべての戦争につながってゆく、つまり、「戦争が戦争を呼ぶ」という連鎖反応が東アジアに多くの不幸をもたらしたのではないでしょうか。

 ここに、韓国の有力な近代史の権威である姜萬吉氏の著書で小川晴久氏訳の『韓国近代史』を引用しておきます。その意図は、日韓両国の専門家の真摯な研究が進むことにより、お互いの立場や見方に違いがあっても、最近あるような「反日」とか「嫌韓流」などという心の狭い反発がなくなることを期待するからです。
 
 なおこの著書で、訳者が解説を加えていますが、姜萬吉氏の研究姿勢は「歴史を美化することではなく、自国の知識人に向けて統一国家への展望ができるような近現代史を構築する」という立場であり、さらに日本人読者を意識せずに書かれたものであるということを明らかにしています。(以下引用文末まで)

~~~~~~~~~~~~~~
【第一章 国民国家樹立の失敗 序説】より

 清日戦争後約十年間維持されてきた朝鮮半島をめぐっての露・日間の勢力均衡は、英国と米国が日本を援助することによって壊れた。その結果は露日戦争、日本側の有利な条件での戦争終結、そして大韓帝国の日本による保護国化および植民地化としてあらわれた。

 専制君主国家としての大韓帝国が内部の国民革命によって崩れず、外勢の侵略で倒れた事実は、植民地化のその時までも国民国家を持つことができなかった歴史的限界性を示すと同時に、以後の歴史にも大きな負担を与えた。

【同上第五節 植民地への道】より

 「合邦」に対する国際的な反応も一般的に冷淡であった。英国と米国は英日同盟、タフト・桂密約、ポーツマス条約を通してすでに日本の韓国支配を承認していたので、当然「合邦」を支持した。英国政府は「日本が韓国においてその勢力を増加するのに対して英国政府は何等反対する理由がない」といいながら、ただ自国の経済的利益問題と関連して関税率の不変、開港場および沿岸貿易の継続を要求した。

 米国政府も「日本の韓国における行政が非常に善意に満ちており、韓国民の幸福のために力を尽くしている跡が歴然である」といい、ニューヨーク発行の『東洋評論』も「韓国に利益関係にある総ての外国は韓日合邦から生ずる変動に対してなんら不安な考えをいだく必要はない。日本政府は細心に外国の一切の利益を保護するだろう」と論評した。

 第三国としては一番利害関係の深かったロシアの新聞も「朝鮮の運命はすでに露日講和条約で決定され、日本は事実上朝鮮を併合し、今回ただ形式的にこれを発表しただけだ。併合が朝鮮と利害関係がある英国の同意を受けて断行され、ロシアもこれに反対する理由がない」といい、ドイツのある新聞は「朝鮮人がその愛国的精神によって内心では日本の情深い文明統治よりむしろ腐敗した旧政府を選ぶ意思があるのはきわめて自然な道理である」といいつつも、将来日本の支配による朝鮮の経済的発展は疑問の余地がない」といった。ただ清国の所信分は韓国の滅亡を憂慮して満州や蒙古が将来同様な運命になることを警戒した。

 大韓帝国の無能と腐敗、そしてそのような政府を倒し国民政府を樹立できない国民的・歴史的条件、日本の野蛮な侵略主義とこれに対する帝国主義列強の援助および承認が、この時機の我々の歴史が失敗することになった重要な原因であるということができよう。

【第二章 反民族運動の展開】より

 朝鮮王朝の専制君主体制が国民革命によって崩壊せず、外勢の侵略で倒れたことは、以後の我々の歴史の大きな負債となったことは勿論、見方によっては二〇世紀初期のわが歴史が植民地に転落することになった第一次的な原因は国民革命が実現できなかった点にあり、またその原因中の一つがブルジョア運動としての愛国啓蒙運動の非戦闘性・非革命性にあったともみることができるのである。

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2009年1月 6日 (火)

朝鮮・韓国 22

戦争が生み出すもの
 新年早々イスラエルとパレスチナ・ガザ地区の戦闘の報が続きます。国内の暗いニュースに押されがちですが、先の見えない不毛な戦争が続くことに心が痛みます。また、日本として、日本人としてなんら解決への手がかりをつかめないでいることに、もどかしさを感じます。

 右派勢力によるナショナリズム扇動プロパガンダ、武力威嚇と経済封鎖、貧困・生活苦、選挙対策としての強硬作戦、死の商人による武器密輸、背後を操る大国の論理などなど、武力衝突の火種は前回書いた日露戦争の頃から何も変わっていません。

 アメリカのオバマ・クリントン新外交がどう作用するのかによって、変化が得られるのでしょうか。いずれにしてもブッシュ時代とは変わった「歴史に学ぶ」「世界に学ぶ」アメリカでなければ、世界の指導者としての地位を維持し続けることは難しいでしょう。

 と、いうわけで、今回も標題のシリーズを続け、日韓併合に至るまでの総括を試みたいと思います。その前に、前回から急に「朝鮮」ではなく「韓国」という言葉が出てきたことの説明をしなければなりません。

 ロシアの公使館で政治活動をしていた朝鮮国王は、王宮に戻ると国号を突然大韓帝国に改めたのです(1997/10/16)。そして自らを光武皇帝陛下としました。従って1910年(明治43)8月22日の日韓併合までの13年弱の間が大韓帝国だったわけです。清の属邦ではなくなり日本やロシアと同等の地位を名乗るという気持ちはわかりますが、もはや遅きに失したようです。

 前回述べたように、日露戦争の発端は朝鮮問題そのものだったのです。したがって作戦の最初の目標が陸軍による京城の占領でした。ロシア軍が展開している満州で戦う上うとなると、朝鮮を足場にする以外にありません。

 「日韓議定書」や「日韓協定」など、韓国の主権を大幅に制限する条約を問答無用といった強圧をもって結ばせたのは、戦争遂行上の支障を一切取りのぞいておこうということでしょう。後ろから鉄砲をうたれるようなことがあれば、ロシアと戦うこと自体、無理というものです。戦争には「日常」など一切通用しません。

 日露戦争は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つて大勝し、陸軍も肉弾戦で多くの犠牲を払ったが旅順を占領、アジアの小国がロシアにうち勝った記念すべき戦争、と教えられてきました。ところが実際は、ロシアは機を見て反抗する余力を残している反面、日本は戦費も兵力も使い果たし、樺太の南半分は得たものの、賠償金も取れないという苦渋に満ちた講和だったのです。

 日清戦争後の失敗は、朝鮮王朝が清の代わりにロシアを頼りにするなど、旧弊をあらためず、日本を追いつめてしまったこと、日本側では閔妃暗殺で、朝鮮内部に「目的のためには手段を選ばない」という悪感情を定着させたことがあると思います。しかし、もはや日清戦争の失敗の二の舞を踏むことは絶対にできないという、追い込まれたところに来ています。

 日露戦争で一切のバックを失った朝鮮、いや大韓国王朝はそれから日本の意に逆らうことができなくなりました。しかし宮中に権力を集中して置きたいため、面従腹背の小細工が依然として止みません。そこにいわゆる「ハーグ密使事件」が起きたのです。

 1907年6月、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に、韓国皇帝が密使3人を送り、外交権を日本に委任することを決めた日韓協約などが無効であるというアピールをさせたのです。これらの両国間の条約は、日本の強圧のもとで結ばれたものだとしても、一連の経過の中で列強各国に認証されていたものです。

 韓国皇帝のゲリラ作戦は、ようやく安定しかけた極東の平和に混乱を与えるものとして、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどいずれも門前払いにしました。しかし驚いたのは日本です。韓国皇帝はついに退位して責任をとらされました。

 もう一つ、前にも書きましたが、明治を支えた大政治家・伊藤博文が、1909年10月にハルビン駅頭で韓国人安重根にピストルで射殺されたことです。比較的韓国に理解があるとされていた伊藤の死は、日本国民にとっても悲痛なできごとでした。日韓併合条約が調印されたのは、その翌年8月22日のことです。

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2009年1月 2日 (金)

朝鮮・韓国 21

日露戦争
 前回述べたように日清戦争は明らかに失敗でした。なぜならば朝鮮を清から開放したのはいいが、清の弱体化でロシアの満州進出を許し、朝鮮宮廷も日本の行政改革要求をかわすのにロシアの力を利用しました。日本の安全確保に必要な「利益線」はむしろ後退したと見ていいでしょう。

 国内で、ロシアとはいずれ戦争を避けられないという空気が強くなったことは、自然の勢いかも知れません。しかし、兵力といい装備といい世界屈指の強国で、常識的には対抗できる相手ではありません。伊藤博文をはじめ、井上馨、山県有朋、大山巌など維新政府を支えてきた元老などには、なんとか衝突を回避したいと考えていました。

 一方で、主戦論の先頭に立ったのは、右派政治家と結びついた右翼団体、一部の東大教授、若手・中堅の軍人と官僚などであり、日清戦争後に高まってきた「愛国心」を支えに、「膺懲(ようちょう)」などちいう言葉が吉野作造から飛びだすなど、太平洋戦争前の構図の原型を見るような気がします。

 日本をそこまで追いやった原因はやはり朝鮮の不安定さが第一です。この祖国の惨状を見て、一般の朝鮮人の中から自主的な改革と独立を目指す運動も起きましたが、宮廷勢力からたちまち弾圧されてしまいました。日露間の交渉が行き詰まった翌1904年はじめには、ロシア、アメリカ、イギリス、イタリアなどの軍隊が京城に入るなど騒然とした状態におちいります。

 日清戦争と同じように、戦争の経緯は箇条書きにしました。

明治37年年表より(『20世紀年表』小学館・準拠)。

2.6 日本政府、日露国交断絶を宣言。
2.8 陸軍先遣部隊仁川に上陸開始。連合艦隊、旅順港外の露艦隊を攻撃。
2.10 日本、ロシアに宣戦布告
2.23 日韓議定書調印。日本は韓国皇室の安全ならびに領土保全を図り、軍事上の便宜を獲得。
2.24 第1次旅順港封鎖失敗。3.27 第2次封鎖失敗
5.1 陸軍第1軍が鴨緑江を越え、九連城を占領。
5.3 第3次旅順港封鎖実施。
5.5 陸軍第2軍が遼東半島上陸。
5.26 第1軍、金州を占領。日本側の死者4287人。旅順包囲を開始。第2軍は南山を占領。
5.30 大連を占領。
6.20 満州軍総司令部を編成、総司令官に大山巌参謀総長、総参謀長に児玉源太郎参謀総長山県有朋を任命。
8.10 露艦隊旅順を出撃し黄海で連合艦隊と海戦。露艦隊敗退、戦力の半数を失い旅順に逃げ込む。
8.19 乃木希典率いる第3軍、第1回旅順総攻撃、24日までに1万5860人の死傷者を出して失敗。
8.22 第1次日韓協約調印。韓国は日本推薦の外交・財政顧問を雇用。外交は日本政府と事前協議。
8.28 遼陽で開戦以来最大の会戦。9.4 一進一退の死闘の末占領。日本軍の死傷者2万3533人。
9.29 徴兵令改正公布。陸軍後備兵役を5年から10年に、補充兵役を3年間延長して12年4カ月に。
10.10 日露の大軍が沙河で会戦。
10.20 日本軍、弾薬不足で砲撃中止し、両軍対峙。日本軍の死傷者2万497人。
10.26 第2回旅順総攻撃失敗、31日までに死傷者3830人。
11.26 第3軍、第3回旅順総攻撃を開始。
12.5 203高地を占領、日本軍の死傷者1万6935人。旅順港内の露艦隊に砲撃開始。

 明けて明治38年。
1.1 旅順の露司令官ステッセル将軍、降伏。
1.28 竹島を島根県に編入。
3.1 奉天に向けて総攻撃開始。
3.20 日本軍勝利、日本側死傷者7万28人。
5.27 日本海海戦で露バルチック艦隊を破る。
6.8 米、ローズベルト大統領、日露講和会議を呼びかけ。
9.5 日露講和条約調印。

 この戦争による死者・廃疾者は11万8千人、死傷者にするとその約倍にのぼります。民間人の死傷者は不明ですが、その十分一にも満たないでしょう。現在のイラクでは米軍の死者がこれまでに4200人、イラク民間人はその10倍を越えても不思議ではありません。昔と今は逆ですね。

 日露戦争のような兵員消耗戦は、だんだん過去のものになりつつあります。しかし、それだけに新たな戦争は民間人に犠牲を強いるものとなるでしょう。日露戦争は、前述のようにそれまでになかったナショナリズムの昂揚と、その対極にある反戦の言論が公然と叫ばれた非常に示唆に富む時代でした。

 そして帝国主義的な野望を隠さない列強が、東アジアでどう覇権を争い合ったのか、それが後の時代にどんな影響をもたらしたのか、またそこから何を学ぶかについて、特に韓国をふくめ真摯な検討が必要な時期に来ていると思います。

一と足ふみて夫思ひ ふたあし国を思へども

三足ふたたび夫おもふ 女心に咎ありや
                   (大塚楠緒子) 

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2008年12月25日 (木)

朝鮮・韓国 20

俄館播遷(アクワンパチョン)
 前回記事にした閔妃暗殺事件発生からほぼ4か月後、指南役だった妻を亡くした国王高宗は、息子や女官を連れて突然王宮を抜け出し、ロシア公使館に逃げ込みました。もちろんロシア側とあらかじめしめし合わせてあったことです。そしてロシア軍の保護のもと、親露政権を樹立して約1年にわたりここで政治をとりました。これを朝鮮語では「俄館播遷」といいます。

 国内にある他国の公使館で亡命政権が実権をにぎっている、これはもう「国家」ではありません。王様も王様ならロシアもロシアです。これで日本は手も足もでなくなりました。しかし、国王を非難するわけにもいきません。妻があのような形で惨殺されたのですから、明日はわが身、と思っても仕方がないでしょう。

 それに、閔妃暗殺で日本の悪者ぶりが、しっかり朝鮮国民にしみついてしまいました。各地で起きる反日暴動に手を焼く日本軍の弾圧で犠牲者の数もふえるばかりです。その間、朝鮮政権は日本の独占を妨げるようにロシアや欧米にどんどん利権をばらまきます。

 ことにロシアには、03年9月に日本が拒否するよう要請していた鴨緑江河口の竜岩浦租借契約を締結、砲台建設を許します。この時は、すでに次ぎに述べる北清事変に悪のりしたロシアが、旅順から満州全体に勢力圏をつくり一歩も引かない体制でしたから、日本が日清戦争以前にもまして危機的な脅威にさらされたと言っても過言ではないでしょう。

 北清事変とは、中国に対する西欧列強(英・仏・独・ロ)のあこぎな利権獲得競争の中で、貧困にあえぐ民衆が「義和団」という組織にのって大規模な暴動に発展したことがきっかけです。最初は自然発生的なものでしたが勢いを増すにつれ、清国政府がこれを応援、1900年6月に至り列強に宣戦布告して政府軍も居留地を襲う事態になりました。

 これに素早く対応したのが、地理的に間に合わない英国などから要請を受けた日本軍と、満州占領の機会を狙っていたロシア軍です。日本軍はよく組織され、規律もとれていて、たちまち天津、北京の秩序を回復しました。

 各国は清国と賠償交渉をするとともに、各国軍の引きあげなどを協議しました。その中でロシアだけが抜けて独自に清と交渉し、旅順や奉天を軍事基地化すると共に、満州から軍隊を段階的に引きあげる約束を守らず、居座り続けたのです。この状態は日露戦争が始まる前年(1903年)まで続きました。

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2008年12月24日 (水)

朝鮮・韓国 19

閔妃暗殺
 前回、日清戦争は失敗だったということを書きました。なぜならば、朝鮮を清の属国から救って自主独立の国とするどころか、歯車が全く逆の方に回転し始めたからです。その最たるものが「閔妃暗殺」です。私は、日本人としてどうしても朝鮮の方に頭が上がず、謝罪しなければならないと思うのがこの一件です。

 日本は日清開戦を前にして、1万の軍隊で京城を占領状態におきました。そして、志士とか浪人と呼ばれる民間人を使って隠とん中の大院君かつぎだし、閔政権を倒して親日政権を作らせました(1894.7.23)。さらに、内政改革の要求と戦争遂行を前提とした「日朝攻守同盟」を結ばせたのです。

 しかし改革は日本の思惑通りに進まず、再蜂起した東学党と内通しているという口実をもって大院君をしりぞけ、国王を表にだして親日政権をてこ入れしました。ところが、清に大勝はしたものの三国干渉に屈してしまった日本を見た閔妃がロシアに接近、国王を操って親日派を強引に追放しました。そこでまた大院君の登場です。日本は公使館が中心になって巻き返しをはかります。閔妃暗殺の陰謀にも進んで加担しました。

 こうして95年10月8日、閔妃暗殺事件が起きます。時の公使は三浦梧楼でした。外相経験のある大物公使・井上馨が、脅迫や懐柔、それに札びらまでみせびらかせての工作が失敗したあとを受けての就任です。角田房子著『閔妃暗殺』によると、三浦は陸軍予備中将で、自ら「外交や政治は素人」だといい、陸奥なども反対したが「剛気果断の人物」ということで任命されたようです。

 犯行の黒幕は、公使自身と公使館員、領事警察に民間人が加わわっています。実行犯は軍人、警官を含む民間人計40人ほどです。民間人は志士、浪人、壮士、暴徒などと呼ばれた日本人で、その狼藉、残虐ぶりから「ごろつき」とも呼ばれました。

 犯人たちは、顔を知らない閔妃を判別できないため宮女をかたっぱしから斬殺、死体を庭にに運び石油をかけて焼却しました。報告書には「誠にこれを筆にするに忍びない」行為まであったと書かれています。まさにごろつき以下の破廉恥行為です。この事件は多くの外国人に目撃されており、政府はあわてて公使以下を召還、逮捕の上裁判にかけることにしました。

 しかし、処刑されたのは参加していたという3人の朝鮮人だけで、ほかの日本人は全員無罪か免訴とされました。後、伊藤博文がハルピン駅頭で安重根に暗殺されますが、動機は「国母虐殺の恨」をはらすためだったと安が供述しています。

 日本の政権は、外国からの批判をかわすため、手続きを経て国家の犯罪ではないことにしました。また、それが曲がりなりにも通ったのは、列強各国それぞれの思惑があつたり、ロシアに対する警戒心があったのかも知れません。

 仮に、当時の国際標準をクリアーできたにしろ、朝鮮宮廷の行動が日清戦争の結果を台無しにするものであったにしろ、実権をにぎる王母を、官憲を含む外国人が首都の中心で暴力を振るって虐殺することが正しいことだ、などとはどうして言えるでしょうか。

 後の日韓併合を、法的な手続きを経て行った妥当なもの、などという右派の主張は、私はこの一事をもってすべて帖消しになると考えます。歴史に「もし」は許されませんが、このような行動を事前に防止することが不可能だったとは思えません。「痛恨事」とはこのことをいうのだと思います。

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2008年12月23日 (火)

朝鮮・韓国 18

 前回の続きとして日清戦争の経緯と結果を箇条書にします。

【開戦のきっかけ】
・1994年(明治27)2月 全羅道の農民蜂起を発端とする「東学党の乱」は朝鮮南部一帯に拡大する勢いとなる。「斥倭」つまり排日をスローガンにしていたのに、なぜか志士と称する日本人が潜入、あおっていた。これを開戦工作と見る謀略論はちょっと考え過ぎ。
・6月1日 朝鮮政府は清国に出兵を依頼。翌日日本政府も派兵決定。天津条約(「朝鮮・韓国 15」参照)に基づき双方が事前通告。両軍は京城・牙山間でにらみあいとなる。

【仕掛けたのは】
 日本である。両軍が朝鮮で対峙した頃、東学党の乱は沈静化し派兵の根拠を失った。日本は撤兵を拒み、朝鮮の改革を日清が協同して当たることを清に提案した。清はもとよりその必要を認めず、応ずる気はなかった。日本はさらに大軍を派遣し、引退していた大院君をかついで清軍の撤退を迫った。こうして一触即発の状況に持っていった。

【戦争の経緯と結果】
・1994年7月25日 豊島沖の海戦で戦闘開始。
・8月1日 宣戦布告
・9月 陸軍が平壌を占領、海軍は黄海海戦に勝ち制海権握る。
・11月 中朝国境の鴨緑江を渡った陸軍が遼東半島を制圧。翌年にかけて山東半島威海衛攻撃、北洋艦隊全滅させる。
・1995年3月 台湾、澎湖島に進攻。

・3月20日 下関で日清講和会議。
・4月17日 講和条約調印(清国が朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲、軍費賠償金2億両=約3億円の支払い、開市・開港の増加など)。
・4月23日 露・独・仏、日本の遼東半島領有に反対(5月5日日本政府これを受諾=三国干渉)。  

【戦争の評価】
プラス
・台湾ほかの割譲(第2次大戦後既得権を認められなかったので結果的にはマイナス)。

マイナス
・朝鮮を日清両国で改革するという日本側提案がほごになったので、行きがかり上、日本だけでこれを実施せざるを得なかった。
・敗北により弱体化した清国政権に、英仏独ロなど各列強は傷ついた獲物にたかるハイエナのように中国を浸食、朝鮮問題は開戦前より不安定化した。イギリス、ロシア、フランス、ドイツは財政難の清の弱みにつけこみ、日本への賠償金などを貸し付けることで鉄道敷設、租借権などの利権を獲得した。

・三国干渉を受け入れさせられたことにより日本が見くびられ、相対的にロシアの存在が強くなって朝鮮の背後をおびやかした。
・日本の世論「義侠心」は結果的に全くから振りに終わった。それが日本軍の快進撃を見て国民の間で「愛国心」に転化する傾向を見せ、陸奥宗光を心配させた(注参照)。三国干渉の結果、「利益線」確保はむしろ大きく後退、「臥薪嘗胆」の世論工作となった。
・朝鮮宮廷は日本の改革要求に抵抗し、ロシア接近でこれを妨害した。

 したがってこの戦争で、日本の強さはある程度世界に示せたが得るものほとんどなく、朝鮮政策はむしろ後退した。 
 
【注:陸奥宗光の心配】『蹇蹇録』から意訳

 平壌、黄海開戦以前には勝てるかどうか心配していた国民が、今はもう勝利疑いなしということになり、いつ旭日軍旗を持って北京城門に進入するのかを問題にしている。一般の気性は壮快になり、おごり高ぶり欲望をふくらませている。(略)もし、深慮遠謀の人人がいて妥当中庸の説を唱えれば、あたかも卑怯未練、いささかの愛国心もないという非難を浴びせ、だまらせてしまう。

 (略)その愛国心なるものが如何にも粗豪尨大であっても、これを事実に適用する上で注意を欠けば、往々かえって当局者に困難がふりかかる。スペンサーは露国民の愛国心を蛮俗の遺風と言った。これは酷評だろうが、いたずらに愛国心を持ち上げてこれに依存、前後を考えないと、往々にして国家の大計と相容れない結果を生む。

 この「愛国心」が後の日露戦争や大陸進出に影響していないとは言えません。最初の動機に意味があったにしても、戦争はいつしかその範囲を逸脱し、収拾を困難にします。勝ったにしても、戦争が国または国民の利益になったという例はすくないのではないでしょうか。

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2008年12月19日 (金)

朝鮮・韓国 17

日清戦争に至った背景
 このシリーズは、第1回の太古からはじめてここまでで17回になりました。ふりかえって見ると、最初は「である調」で、近代の徳川時代に入ると「です、ます調」に変えています。いま気がついたのですが、現代に近づくにつれ複雑な事情が加わり、読みにくくなることを避けようとしたのでしょうか。

 近代はいろいろな史料・文献も増え、人によって考えも違ってきます。評価に問題のある特定史料を使ったトンデモ史観や、あらかじめ敷かれたレールの上でしか解釈をしない硬直史観はとりたくない、というのはなかなかしんどいことで、イラクじゃないけど出口をさがすのになかなか時間がかかりそうです。

 今回はいよいよ明治27、8年、朝鮮を舞台にくり広げられた日清戦争に入ります。これは教科書をはじめいろいろな参考にすべき書物があるので、項目を上げて簡単にしたいと思います。まず、開戦に至った背景を日・朝それぞれ3つずつあげてみました。

【朝鮮側の背景】
1.進まない宮廷改革
 大院君と閔妃による骨肉の政権争奪戦はこのあとも続きます。また、宮廷をとりまく特権階級両班(ヤンバン)官人の利権あさり、貧官汚吏ぶり、豪奢な生活も一向に変わりません。

2.事大主義・外国依存体質
 巨大国清の冊封国になっていれば保護が受けられるという長年の習慣がしみついています。すでに見てきたようにクーデターなどが起きると毎回のように清に出兵を要請しました。それはクーデターを起こす方も同様で、強いとなると日本やロシアでさえ頼ろうとします。日本と日朝修好条規を結び、自主独立の国という契約をしたのに、それを守ろうという気はあまりありません。清王朝にもそういったところがありました。つまり、近代的な外交常識や世界の動向にうといということです。

3.指導力・組織力不足
 農民、庶民の暴動や宮廷政治の改革を目指す勢力も現れますが、それを実現させる試みはいつも妨害や妥協で失敗します。日清戦争の引き金も「東学党の乱」という農民蜂起と清への出兵要請でした。これに対抗するため、日本も出兵して衝突を起こしたわけです。 

【日本側の背景】
1.お節介
 日本が尊王攘夷から開国・近代化に転換した経験をふまえ、朝鮮も清の属国扱いから抜け出して早く文明開化を進めた方が日本にとってもいいという気持があります。そして、日本は列強の圧力を受けながら、国際公法を楯にいわれのない侮蔑や侵略をかわしている、と言いたかったのでしょう。しかし、相手がそれを望まないのなら是非もありません。

2.危機感から自信へ
 すでに述べてきたように、欧米列強による帝国主義的植民地競争は一向におとろえません。ことにイギリスとロシアはアフガニスタンなどで激しい争いになっています。東洋では、南下に熱心なロシアと中国での優位を失いたくないイギリスが朝鮮をめぐってにらみ合い、イギリスはいち早く巨文島を占領しました。

 宗主国を自認する清は、朝鮮のことはどうぞご自由にという無責任な態度で、日本政府をあわてさせます。しかし、日本をどうしても味方にしておきたいイギリスは、長年日本が念願としてきた日英条約を平等なものにすることを認めます。これが日清戦争開戦に自信を持った一因となったようです。

3.政争
 その前に、衆議院内閣弾劾上奏決議が可決されたり、衆議院の解散があったりて政局が流動的になり、伊藤内閣も危機的な状況のもとありました。日清戦争突入はこれを一気にかわす意味があったのです。

 そのあたりを、時の外務大臣・陸奥宗光の外交秘録『蹇蹇録』で見てみましょう。まず、次の3通りの意見を「個々人々の対話私語に止まる」と切り捨てました。

①朝鮮の改革を名分に日本の版図を拡張、または保護国として権力の下に屈服せしめる。
②朝鮮の改革を進めまがりなりにも独立国の体面をそなえさせ、清・露の緩衝地帯にする。
③ベルギー、スイスのような列国保障の中立国とする。
 
 そして、社会凡俗の与論は「弱きを扶け強きを抑ゆるの義侠論」であると判断し、これを利用して強引な開戦持ち込んだのです。しかし陸奥の真意は、「我が国朝野の議論が如何なる事情、源因に基づきたるが如きはこれを問うに及ばず、とにかくこの一致協同を見たるのすこぶる内外に対して都合好きを認めたり」と表現しています。

 かいつまんでいうと、開戦について「いろいろ議論はあるが、そんなことはどうでもいい。与論が『義侠論』にあるのだからそれでいこう。それが内外に対して一番都合がいい」という、かなり乱暴な言い回しで、あとのことは「国益第一で考えればいいんだ」ということです。

 「内外に対して」というのは、戦端を開く1カ月前に、難航を極めた日英通商航海条約改定の調印にこぎつけ 海外からの非難の緩和が見込めたことと、その前に対外硬派から出されていた衆議院内閣弾劾上奏決議および衆議院解散による政府への攻撃をかわす意味があったことを指しています。まさに朝鮮から清を切り離す「チャンス到来」だったわけです。

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2008年12月15日 (月)

朝鮮・韓国 16

山県有朋の利益線論
 山県有朋といえば、長州藩の出身で松下村塾から奇兵隊、明治時に入ると政府の中枢にいて各大臣から首相まで歴任した元老として有名です。中でも陸軍とのかかわりは深く、帝国陸軍の生みの親といっていい存在でした。

 前回記事にしたイギリスの巨文島占拠のあった後の1988年(明治21)、山県は内務大臣ながら伊藤博文首相に対して、ロシアのシベリア鉄道が開通すると英・ロの朝鮮を舞台にした戦争の可能性が高まることを上申し、軍事費増強を主張しました。そうして、このように締めくくっています。

 我国の政略は朝鮮をして全く支那の関係を離れ自主独立の一邦国となし、以て欧州の一強国、事に乗じて之を略有するの憂いなからしむるに在り。(軍事意見書)

 山県は、日清戦争で第1軍司令官をつとめ、中国本土まで進軍させた張本人ですが、この頃は、朝鮮侵略の意図がなかったようです。また、1890年(明治23)首相になった山県は、意見書「外交政略論」の中で、日本の独立自衛のためには、「主権線」と「利益線」を守ることが必要だと主張しました。

 「主権線」とは、我が国の領土・領海そのもので、「利益線」とは「主権線」と密接な関係のある隣接地域だといっています。そして、ズバリ「我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」と断定しました。この発想はどこから来たのでしょうか。

 加藤陽子氏の研究によると、伊藤博文の憲法起草準備に大きな影響を与えた、当時ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインではないかといいます(『戦争の日本近現代史』講談社現代新書)。山県は1988年に欧州派遣を命じられました。その際シュタイン氏に細部にわたり質問した事項に対する89年6月付の解答書が史料として残っており、上記の主張とよく符合するからです。

 山県は、それに自らの発想も加え、第1回帝国議会の施政方針演説に取り込みました。このシリーズ14でわずかに触れましたが、朝鮮でも外交、安全保障に欧州人の知恵を借りています。それは、清国の推薦で朝鮮の外交顧問となったドイツ人のパウル・ゲオルグ・フォン・メレンドルフです。

 ところが、メンドルフはロシアと朝鮮をロシアの保護下に置こうとすることを画策、同国と密約を交わしたことが国際的に暴露されました。これは、当然日・清をはじめその他の各国からも猛反発を受けます。朝鮮の宮廷ではメンドルフにこの責任すべてをかぶせ、解任・追放することでこの件の幕引きをはかったのです。

 こういった日本と朝鮮の違いが、後々の両国関係に不幸をもたらしたとはいえないでしょうか。朝鮮が独立を果たせなかった原因に、日本の資本による経済支配をあげることがありますが、次元が違う話でやはり直接結びつけるのは無理があるように思います。

 それにしても、「利益線」というのは、その次の時代の松岡洋右が「満蒙は我が国の生命線」という発言をして姿を変えました。さらに太平洋戦争直前には、大本営が満蒙から中国、東南アジア、インド、南洋諸島、オーストラリア、ニュージーランドにまで「利益線=生命線」を拡大させたことは、さすがの山県も想像できなかったことでしょう。

 日米同盟でかつて論じられた「極東の範囲」とか、アメリカの軍事戦略に関係する「不安定の弧」などという言葉も、この利益線の概念に相当するのかも知れません。ブッシュの戦略のように、地球をひと周りしてしてしまえば、もはや意味をなさなくなってしまいますね。イラクの新聞記者に靴を投げつけられるのも、むべなるかな――と思います。
  

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2008年12月12日 (金)

朝鮮・韓国 15

巨文島
 1885年(明治18)は、日本が朝鮮をどう考えるかについて、とても大切な年だったと思います。前の年には甲申の政変(日本では京城事件といった)で、親日改革派の金玉均が起こしたクーデターが失敗し、バックで軍事介入をしている日・清両国間の緊張が高まりました。

 前回、福沢諭吉の話をしましたが、学生をはじめとする知識階級や政財界には相当危機意識があったと思います。しかし、伊藤博文の積極外交が功を奏し、事件後約4か月後に日清両国ともに朝鮮から撤兵し、出兵の必要があればあらかじめ通告するという「天津条約」の締結に成功しました。

 朝鮮にすれば一見中立の立場で、独立国を主張する絶好の機会だったかも知れません。しかし、ドイツ人の顧問に外交を頼るなど、外交にうとく人任せはよりひどくなったようです。天津条約妥結の直前、こんなことも起きました。イギリスによる巨文島占領です。

 「巨文島問題」?、驚いたことには私の愛用している日本史年表には載っていません。また、どこにあるのかと思って、家にあるいくつかの地図をさがしてみました。「巨」の字があるからある程度大きくて、有名な島だからすぐ見つかると思っていたのです。ところが見あたりません。

 しかしありがたい世の中になったものです。ネットで検索する(Wikipedia)と地図でも歴史でもすぐにわかります。また、太平洋戦争後の連合国との平和条約には、その島の名前が載っています。

 第2条(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する

 済州島は、韓国最南端の大きな島で観光開発も進みおなじみの島です。鬱陵島は問題の竹島の韓国寄りにある島で、これもよく知られています。それでは地図で探しても発見しにくい小さな島がどうしてここに登場するのでしょう。

 それは、朝鮮海峡にあって、対馬と同様日本海への出入り口を往来する艦船が監視できる戦略上非常に重要な位置にあるからで、帰属を明確にしておく必要があったのではないでしょうか。1885年3月、イギリスの東洋艦隊が、突然この島を不法占領し要塞工事を行うとともに、清国政府に対し、朝鮮でロシアにどのような譲歩もするなと圧力をかけたのです。

 ロシアは1860年に清の隙をついて沿海州を領有、ウラジヴォストークを拠点にその艦隊を南下させて朝鮮の東海岸に出没していました。その翌年、文久元年に対馬にロ艦1隻がおしよせ、兵を上陸させて土地を不法占拠しました。しかも、これに抗議した島民1人を射殺し2人を拘束するなどして居座るかまえを見せたのです。巨文島より21年も前の事件ですが、日本人はこのことを忘れていません。

 イギリスは当時、ロシアのアフガニスタン南下で激しく争っていました。ロシアの南下は、いつになっても警戒される宿命を持っています。この時も日清間の力の空白をロシアで埋めようという、朝・ロの密約に気づいたイギリスの先制行動で、その後2年間も占領が続きました。

 こんなところで、ヨーロッパの抗争の火をつけられたら日本もたまりません。壱岐・対馬をはじめどんな禍が国土に及ぶか計り知れません。また、朝鮮が日・清以外の影響下に入るようでは、これまでの努力も水泡に帰すことにもなります。朝鮮が自主独立の国になることに、日本はまだ一縷の望みを捨て切れていませんでした。

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2008年12月 9日 (火)

朝鮮・韓国 14

 前回、日朝の国交が明治9年(1876)に「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」という条文を持つ条約で始まったことを書きました。日本が、ペリー来航時と同じ砲艦外交で強圧したこと、朝鮮の宮廷内権力闘争により王の実父から王妃の閔妃に実権が移って政策・人事の大転換があり、やや親日に向いたのです。

 ところが、そういった権力闘争や官吏の無能・腐敗、国内の騒乱、外国依存の悪弊は一向に改まりません。これを、すべて日本の経済進出による貧困化が原因などという荒っぽい分析をする向きがありますが、韓国の研究者の中にも、民族が乗り越えられなかった後進性を冷静に指摘している人が少なくないのです。

 まず、1882年の「壬午の軍変」です。動機は、日本の軍事指導を受ける部隊と、その他の国軍の差別待遇に怒った軍の反乱のようです。統制のとれたクーデターではないものの、やはり失権した大院君を担ぎ出すことにしました。

 反閔妃であるとともに反日です。宮廷は襲われ、閔妃は一時生死不明と言われながら地方で隠れていました。また日本の大使も間一髪のところで死をまぬがれ、日本逃亡に成功したものの、さんざんの体です。その間、閔妃は清に密使を送り軍事介入を要請しました。

 清は軍を派遣、なんと大院君を拉致して清に連れて行ったのです。そして暴動は鎮圧され閔妃は復権しました。そしてこれを「事大党」という一派が支えます。つまり大きなもの、すなわち清につかえる党です。日本国内はこの暴挙にわきかえりましたが、朝鮮には事態を深刻に受け止めた憂国の士もいました。

 金玉均といいます。この人は日本と縁が深く、日本の明治維新を手本に朝鮮の文明開化を進めようとしていました。日本では福沢諭吉をはじめ後藤象二郎や板垣退助など熱心な応援団がいました。そしてこの人もクーデターにのめり込みます。

 1884年の「甲申の政変」です。しかし、たったの三日天下の短命政権で失敗します。国王はそれに乗る気もあったようですが、大院君帰国を要求し清から独立しようとする金玉均の政策には閔妃が絶対反対です。またもや清国軍の力を借り、金玉均の追放に成功しました。金は日本へ命からがら逃げてきました。

 金も結局日本の経済的・軍事的支援を頼りにしていました。「改革党」を名乗りましたが、やはり日本という「大」の後ろ盾をあてにしたわけです。それに、エリート特有の自信過剰や慎重な準備を怠ったことも弱みになっていたでしょう。はっきり言えば日本の方も腰が引けていたのです。

 このあと、閔妃は清の協力が得られないとしてロシアに接近します。いずれも宮廷権力維持のためです。金玉均も今度は清の協力を得ようとして上海に渡ったところで暗殺されます。また朝鮮に送られた遺体は、閔妃一族の手で切り刻まれ、さらしものになりました。

 この頃です。福沢諭吉が主宰する「時事新報」の社説にいわゆる「脱亜論」が載りました。朝鮮・中国は文明に背を向け、狡猾であり残虐である、こういった人たちを友にしていると日本までその同類と見られる、こういった悪友たちとは手を切るべきだ、という趣旨のことです。

 これを、アジアを蔑視し西欧と同化しようとする「脱亜・入欧論」だとして諭吉の評判を落としたことがあります。誰が書いたものかは別として、金玉均に維新の志士を重ね合わせていた日本人が、「もうつきあいきれない」と投げだしたくなった気持ちだけはわかります。

 最近は「国際標準」という言葉を使いますが、明治時代には日本ほど国際的にそれが通用するかどうかを気にしていた国はないと思います。軍事力を外交のテコに使うことはあっても、当時の国際法を真剣に学び、すじを通そうとしたしたことも事実です。

 諭吉にとっては、日朝修好条規も文明開化も正義だったわけです。反面、金玉均と政治信条を異にする人から見れば売国奴になります。極端な比喩ですが、「中東を独裁者から解放し、民主主義を根付かせる」という「アメリカの正義」でイスラムの文化や風習が軽視され、イラクやアフガンなどイスラム教国民から総反発されているアメリカのブッシュ政権を思わずにはいられません。

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2008年12月 7日 (日)

朝鮮・韓国 13

日朝修好条規
 「日朝修好条規」は、日本と朝鮮が明治9年(1876)にはじめて結んだ国際条約です。前にも言ったとおり、朝鮮の鎖国政策は幕末の日本より徹底していました。天主教を弾圧・粛正し、アメリカ船を焼き討ち、フランス軍艦を追い払うなど過激さは日本の比ではありません。

 すでに開国した日本もその一味であり、「天皇」などという朝鮮王より統治者を上位に置く国は認められないとしていた朝鮮が、なぜ日本の要求に屈して開国に応じたのでしょうか。しかも、その内容は、日本がアメリカなどに認めたのと同じ不平等なものです。

 その最大の理由は、1873年11月に王朝の実権が大院君(国王の父)から、改革派の閔妃(ミンビ=国王の正妻)に移ったことです。それに相談をかけた清国が、列強との応対で手一杯なため、日本との国交に異論をとなえなかったことが加わります。

 日本は釜山からソウルの入り口にあたる江華島に軍艦を派遣、大砲をぶっ放すなどペルー顔負けの露骨な脅迫をしますが、かつての大院君ならこんな脅しには絶対屈しなかったでしょう。ここであまり詳しく説明する余裕はないのですが、大院君と閔妃の権力抗争は、以後日韓併合間際まで繰り返されます。

 大院君は実子の王・高宗が幼少だったため院政を敷いていたわけですが、高宗が21歳になり摂政の口実がなくなったわけです。大院君は、攘夷政策のほか急速な行政改革や宮廷の新築など有能ではあるが強引な政治をしていました。

 閔妃は、大院君が慎重に選んだ嫁ですが才媛のほまれ高く、政治感覚には図抜けたものがあったようです。大院君政治への不満を巧に利用し、夫の手に権力を移管して閨閥政治へ移行させたのは、閔妃の差配だとされています。そして大院君とは違う新たな政策、権力構造を模索することになったのです。

 日本はこの情報を手にして、今がチャンスと見たようです。また、生まれたばかりの閔妃の子を、王の後継者として清に認知させるため、日本を利用しようとしたふしもうかがわれるなど、開国が国益にどうかかわるのかは二の次だったような感じもします。

 日朝修好条規12か条の第一款は、「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」ではじまることは有名ですが、今まで宗主国を清におき、国民国家としての外交を受け付けなかった隣国に扉を開かせたという点が大きいのではないでしょうか。

 もちろん欧米各国のように、通商利権の獲得を目指しており、またその成果も否定できません。しかし欧米各国のやりかたをまねて開国の先鞭をつけたというだけで、まだ、これをもって国土侵略、経済略取の第一歩だとするのは早いような気がします。

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2008年12月 5日 (金)

朝鮮・韓国 12

近代国家の体裁
 明治6年10月、西郷隆盛らの「征韓論」は退けられました。そのあと佐賀の乱や西南戦争も起きるわけですが、国内では一揆や暴動があとを絶たず、維新が軌道に乗ったとは言いきれない状態です。西欧列強を見てきた政府首脳は、維新で生まれた国の姿は「国民国家」(封建制の身分制的枠組みを破り国民的同一性を基礎として成立した近代的中央集権国家。近代国家。民族国家)でなければならないということを痛感します。

 列強の仲間入りをするためには、まず姿を整えることから、よく言えば猛勉強、悪く言えば猿まねをはじめたわけです。士農工商の身分は撤廃しました。そしてこれまで兵役のない農民も、国民皆兵で徴兵制度のもと軍隊に取り込みました。

 もうひとつ、国民国家の姿として統治権の及ぶ範囲、つまり国境を明らかにしなければなりません。そのため政府は、琉球・台湾(明治7年10月)と樺太・千島(8年5月)問題を短期間で決着させました。そのあと、朝鮮開国のきっかけとなった江華島事件(8年9月)が起きます。

 朝鮮を相手に、国民国家としての体裁を持つ条約を、はじめて日本主導で結ぶわけですが、これは国境問題ではなく、やや性格が違うので次回に譲ります。その前に北方領土や琉球などの国際交渉を簡単に見ておきましょう。

【樺太】南樺太は、幕末の頃には奥蝦夷として漁民などが進出していた。そのころ北樺太に進出したロシア人が逐次南下して紛争を生じるようになり、日・ロ雑居状態が続いた。両国の国境交渉はあったものの進展せず、ロシア軍の投入が進んだ。これを見て、北海道開拓使の黒田清隆は、樺太全土を放棄しかわりに千島全島を確保して北海道防衛に全力をあげる案が現実的であると考えた。なお、日露戦争の結果、日本は樺太の南半分を回復させた。

【千島】国論はさまざまであったが、明治8年5月、政府は榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、樺太・千島交換条約を締結させた。当時の国力から見てこれで精一杯だろうが、樺太の漁民を見捨て、樺太に比べ経済的価値が格段に劣る千島を押しつけられるようにして領土と確定したのだ。したがって千島はどこから奪ったものでもない。

【琉球】琉球は古来独立国で、中国に朝貢し冊封を受けていた。徳川家康が大御所として実権を振るっていた1609年、島津藩に琉球を与えるとしたため、同藩は軍隊を差し向け属国として支配した。幕末に至ってもこの体制は変わらず、琉球は中国の冊封国であるとともにアメリカやフランスと和親条約を結んだりしていた。  

【台湾】明治4年11月、琉球の漁民66人が台湾に漂流し54人が殺されるという事件が起きた。政府は清国に責任を問うたが「犯行は化外の民の蛮族の行為で政教の及ばぬところ」という責任回避の態度だった。それをいいことに、「それならこちらで行ってこらしめてやりましょう」とばかり、7年2月に日本政府は台湾征討を決定し、6月には犯人達を降伏させた。

【清国】清国もそこまでされては、心穏やかではない。日本はすでにアメリカなどに根回しをして琉球が領土であることの了承を得ていたので、清国と事後処理の交渉に入った。その結果、「台湾は清国の領土」、「日本の行動は住民保護の義挙」という了解が成立し日本軍は撤退した。これにより日本は琉球が日本領であることを清国が認めたものと解釈した。なお、日清戦争の結果、台湾は日本領となる。

【沖縄県】7年10月に清国との協定が成立した後も、琉球藩王や高官・士族は清国との関係を維持する独立志向が強く、清国に援助を求めた。そのため、政府は12年4月に400人の兵と160人の警官を送り込み、強引に沖縄県設置を公布した。

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2008年12月 1日 (月)

朝鮮・韓国 11

 シリーズ10の最後で、西郷隆盛の「征韓論」といいましたが、最初は「道義に反する」といって反対していた隆盛らが積極的になります。その真意がどこにあったのか、いろいろな説があってまとめきれません。パスさせてください。経緯は次のように進みました。右大臣岩倉具視をはじめ大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など政権幹部一行が欧米視察に出発し、留守中のことです。

 留守を守る西郷や板垣退助、江藤新平など武断派が中心になって、朝鮮派兵を三条太政大臣のもと閣議決定にまで持っていくことに成功しました。しかしそこへ帰国した岩倉右大臣、木戸孝允、大久保利通参議らは「今の日本にそんな消耗は許されない、まず国力をつけなければ」という意見です。辞職をちらつかせるなど、猛烈な巻き返し運動を展開しました。

 結局明治6年10月に征韓論はひっくり返され、西郷は田舎にひっこむことになるのですが、全く奇怪なことに、海軍卿の勝海舟はまったく知らされていなかったようです。次の勝海舟の談話は、25年もあとのことですが、それだけに真相を突いている部分があるかも知れません。

 今の伊東[祐亨]ネ。この間も来たから、話して笑ってやったのだが、アレが、軍艦に兵粮まで積み、すっかり用意をして朝鮮征伐に行こうというのだ。もう五、六日で行くというようになった。すると三条[実美]から、「お前は知っているか、どうだか、こういう訳だ」というから、『ナニ、私が海軍卿だから、安心して任せていらッしゃい』というてやった。

 それから、内へ五、六人呼んで、『お前達は、朝鮮征伐をやらかそうというそうだが、それは男らしくて面白い、お遣んなさい。だが、その跡はどうするのだ』と聞いてやると、みンな弱ってしまった。「それではどうしましょう」というから、『それよりまずシナから台湾の方へ行って見ろ』と命じてやった。

「それが出来さえすればありがたいが、どうでしょう」と言うから、『ナニ、己が許すのだから、構うものか、行け』と言った。その頃は、まだあの辺りへ行くことは出来なかったのだからネ。それでみンなが喜んで、行って、初めて外国を見て、驚いてしまって、朝鮮征伐は止んだよ。それから帰って来たから、みンな賞めてやって、官を上げてやった。すると、勝はどうひッくりかえるか知れぬというのて、大層嫌われて、己は引込んだよ。(巖本善治編『海舟座談』ワイド版岩波文庫)

 あとでも触れますが、富国強兵の明治新政権は、西欧先進国の実情や国際間のルールを学び取ることが第1で、他国への侵略・奪取など国際法に反するような行為はすべきでないという気持ちがあったことだけは確かのようです。明治政府が最初から侵略国家を目指していたという性悪説には、にわかに賛成しかねるのです。

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2008年11月29日 (土)

ペルー来航の裏側

 日本が受けた最初の直接的な外圧であるペルーの来航、これをアメリカ側から見るとどうだったのでしょうか。シリーズ「朝鮮・韓国」とも関連するので、ここで見ておきましょう。最初に星条旗をつけた船が日本にやってきたのは1790年で、ペルーより63年も前になります。

 しかしその頃は、北からのロシアを追い払うことに手一杯のほか、長崎で公認されていたオランダ船以外に、イギリス船、フランス船なども頻繁に接近してくるようになります。幕府がアメリカを意識せざるを得なくなったのは、さらにそのあと、アメリカ商船・モリソン号がやってきた1837年(天保8)になってからです。

 モリソン号は民間の船ですが、浦賀に寄港しようとしたところ浦賀奉行の命により砲撃を受けました。次いで鹿児島湾に入ろうとしたが、ここでも砲撃を受け追い返されました。それは、鎖国政策と攘夷論に根ざした文政の打払令に基づく行為です。モリソン号がやってきたのは、交易もさることながら日本の漂流民(音吉ら7人、入国断念)を送り届ける意図があったのです。

 幕府は後になってオランダ領事からこれを聞き、大いに驚きます。これまでの強硬政策だけでは通用しなくなり、道義に反する行為で次ぎに何を強要されるかわからなかったからです。現にそのすぐ後の1840年、清はアヘン戦争でイギリスから侵略を受けています。

 アメリカでもこのモリソン号事件が報道され、大きな反響を呼びました。米国政府は、日本の排他主義を「人道的な善意の行動をさえ許さぬ態度」と激しく攻撃(アメリカ史)し、日本の開国を強く迫る動機となりました。

 モリソン号がやってきたのは、勝海舟14歳、西郷隆盛10歳、篤姫はまだ満1歳になっていない頃です。
ペルーが来航したのはそれから13年後になります。その頃、アメリカは、太平洋横断航路開拓を切望していました。

 目当ては中国における綿製品市場です。日本を寄港地にできれば、イギリスと十分競争できるとみていました。もう一つの大きな目的が捕鯨です。ランプの発明で植物油に代わる燃料として鯨油の需要が急速に伸びたのです。

 大西洋のクジラを捕りすぎ、広く豊かな太平洋に回った捕鯨船は500隻にものぼりました。アメリカの開拓魂は、「神の造り給いし最も大いなる生き物」を追って大洋を旅する勇壮ななりわい「捕鯨」を高く評価していました(『白鯨』)。

 日本の太平洋沿岸近くでも多くの捕鯨船が目撃されるようになります。日本に寄港できないばかりか遭難漂着しても満足な待遇は受けられず、犯罪者扱いされていると思われていたわけです。ペルーの開国要求は、このように必要に迫られていた面があります。

 ところが、開国後まもなく捕鯨業はみるみるうちに廃れました。アメリカで鯨油より安く光も強い鉱物油、すなわち石油が発見され、急速に取って代わったからです。すでに太平洋の鯨も数が減りつつあり、それがなければ絶滅していたかも知れませんね。欧米人の「反捕鯨キャンペーン」は、とても言えた義理ではないと思うのですが。

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2008年11月25日 (火)

朝鮮・韓国10

 昨夕、1968年に静岡県寸又峡温泉で起きた、在日朝鮮人金嬉老による人質監禁事件について、TV特集番組がありました。朝鮮人差別について改めて考えさせられる内容です。その頃から見て差別は改善されているでしょうか。

 私はネットの世界などでは、より悪化しているように思えます。これには、北朝鮮による拉致問題の影響もあると思います。北朝鮮の一般の人に対して、蔑視する気持ちを持たない人が一体何人いるでしょうか。それを持ったままでは、いつまでたっても何も解決しませんし、将来の平和も期待できません。このシリーズを始めた理由がそこにあるという気持ちを、より強くしたドキュメンタリーでした。

変化の兆しを明治維新に見る

 慶応元年(1865)というと、幕府が長州征伐をしかけ、国内各地では打ち壊し続発など、内政でも外交でも幕府の弱体ぶりが露呈する時期です。そんなとき、香港の新聞が、「日本はすでに蒸気軍艦を80余艘ももち、近く朝鮮を征伐しようとしている」という趣旨の情報をのせ、朝鮮にも伝えられました。

 前回、吉田松陰の話をのせましたが、朝鮮の対日疑惑は高まるばかりです。幕府は翌慶応2年5月、朝鮮に対してその流説を公式に否定し、かつ朝鮮の幸福のために使節を近日派遣すると通告しました。朝鮮では、幕府がなぜにわかに使節を派遣するのかその真意を疑い、使節接待の用意ができないとの口実で、幕府の特使来航を拒絶しました。

 当時、朝鮮は侵入してきたアメリカ船を焼き払うなど、攘夷・徹底抗戦のかまえでした。幕府が間に立って仲介、実績づくりをしようとしたのかもしれませんが、大政奉還を目前にしている幕府では、その効果もたかが知れています。朝鮮にとっても迷惑でしかなかったでしょう。

 幕府の使者派遣を朝鮮から断られたまま、慶応3年(1867)12月、王政復古の号令が発せられました。摂政・関白・将軍らの官は、総裁・議定・参与にとって変わりました。微妙な立場にいるのが対馬の大名・宗家です。中世以来日本と朝鮮の間で双方の利益や体面を調整することで、特殊な地位を保ってきた家柄です。

 宗家の役柄は、朝鮮王朝に臣従することで釜山近くに「倭館」をもうけ、許可された範囲の貿易や日本との事務連絡に当たるというものでした。新政府も政治体制変更を伝えたいが、ルートはここしかなく、対馬藩にその任務を課したのです。

 その時の日本の文書に「皇」とか「勅」の字があり、朝鮮側が「この字を使えるのは清の皇帝だけだ」といって受け取らなかった話は有名です。対馬藩の使節は1年近く文書を受け取るようねばったが、応じてもらえませんでした。日本を宗主国・清と同列におく気はさらさらないということです。

 日本にしてみれば、長年にわたって将軍交替の折に朝鮮通信使が来朝、幕府に挨拶したではないか、それが天皇に変わったからストップするというのは、無礼千万と考えたのです。いわばどっちもどっちなのですが、この文書問題がなくても「征韓」の意思が日本国内にあったことは、木戸孝允日記などで明らかになっています。

 文書問題で国交が硬直状態になったため、政府は改めて朝鮮政策を確立する必要を感じました。そこで、明治2年(1869)12月、対馬と朝鮮へ4名の調査員を派遣することにしました。その調査項目は、従来の交際様式、独立の程度、ロシアとの関係、港湾や軍備の状況、内治や経済の状況などがあり、もちろん征韓論の可否をさぐるためでもあります。

 その調査項目の中に「竹島・松島が朝鮮付属になった理由」という注目すべき1項があります。松島というのが、いま領有権問題でもめている竹島のことです。ある人は、「日本側資料で現・竹島が朝鮮領であることを認めているではないか」と言いますが、「以前は日本付属だった」という裏があればこその話で、どちらが有利とはいえない資料です。

  調査報告は、即刻攻略すべしという過激なものと、順序をふんで正常な国交を結ぶよう説得し、それでもだめなら国際公法の権利を行使して攻撃するという2通りのものとなりましたが、どっちにしても征韓論を否定するものではありませんでした。

 このあと、明治政府の政策に反対の立場をとった西郷隆盛などのいわゆる「征韓論」がでるわけですが、一つ付け加えておきたいのは、米英当局や両国の商人は、日本が朝鮮や台湾を支配することは別として、日本の軍事攻撃により朝鮮を開国させることには賛成で、さかんにけしかけていた傾向が見られることです。日本兵を使って死の商人の利益を確保しようというハゲタカぶりは、許せるものではありませんね。

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2008年11月24日 (月)

朝鮮・韓国 9

 徳川時代は日朝関係のもっとも安定していた時期といえます。徳川家に慶弔ごとがあれば「通信使」がにぎやかな行列を連ねて江戸にやってきたことは、歴史でも習いました。そして、日本の知識層を代表する儒学者が一行をたずね、先を争って儒学の先端知識を吸収しようとしたといいます。

 鎖国時代の対外窓口は、西欧の長崎とともに非常に貴重な知識供給ルートだったと思います。今でもそうですが朝鮮の教育熱や国家の入れ込みようは、日本をはるかに上回っていたのではないでしょうか。銅活字普及による諸文献の普及、各種学校の整備、その中には、漢語、蒙古語、女真語、日本語を教科とする司訳院もありました。

 ただ、あくまでも中国に目が向いた官製機構に重きが置かれたため、どうしても権威主義、保守主義の殻が厚くなり、近現代への飛躍に悲劇的な遅れをとったように思います。西欧の帝国主義の脅威と日本におとらない攘夷思想、宗主国・清への過信、王朝の外国依存体質、民衆運動の挫折など、日本の明治維新以降と見比べて見ましょう。

 これまでそうしてきたように、前身「反戦老年委員会」より、出典、資料をそのまま載録する事を許しください。まず、幕末の東亜情勢を年表にしました。

・1840 清国、アヘン戦争でイギリスに敗れ、南京条約締結。これに続いてアメリカ、フランス、ロシアも中国侵犯。
・1844 フランス船、琉球に来て通商を要求。以降毎年のように上記各国船がわが国に近づく。
・1854 幕府ペリーと和親条約締結。ロシアと和親条約、エトロフ、ウルップ島間を国境とする。
・1863 薩英戦争
・1864 英仏米蘭、下関砲撃
・1858 幕府、日米通商条約、蘭、露、英、仏各国と条約締結。
・1860 桜田門外の変。ロシア沿海州を領有、ウラジオストック港を築く。
・1861 ロシア軍艦対馬に上陸、一部を占拠。
・1866 朝鮮、大同江を遡行したアメリカ船を焼払い、江華島占領軍を撃退。
・1867 幕府、朝鮮に使節を送ろうとして失敗。
・1868 江戸開城。天皇、東京遷都。
・1876 日韓修好条約締結(江華条約)。

 日・中・朝鮮ともに、大変なことになっていたわけです。この中で、一日本人の指導者が中国・朝鮮をどう見ていたか、特異な例ですが吉田松陰の例を見ておきましょう。嘉永6年(1853)といえば、ペリーの黒船が浦賀にやってきた年です。小泉・安倍元首相が信奉する松陰が『獄是帳』でこういっています。

「魯・墨(ロシア・アメリカ)講和一定、決然として我より是を破り信を夷狄に失うべからざる。但し、章程を厳にし、信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮、満州、支那を切り随え、交易にて魯・墨に失う所は又土地に鮮満にて償うべし」

 なんとも強国にはしっぽを振って、貯えた力で弱者に襲いかかろうという豺狼そこのけの露骨な盗賊精神です。もっとも安政6年(1859)刑死する直前になって、「西欧列強に対抗するためには朝鮮、満州、支那およびジャバ、ボルネオ、オーストラリアを訪ね、航海通市以外にない」と力づくの表現は訂正しています。

 松蔭の過激発言が、朝鮮に直接伝わったとは思えませんが、同国から見れば、この頃すでに日本は警戒すべき国のひとつになっていたでしょう。あるいはその後、松蔭が当初予言したとおりになったではないか、という人もいるかも知れません。次回は、幕府が実際にはどういう対朝鮮政策をとったか、に触れる予定です。

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2008年11月14日 (金)

朝鮮・韓国 8

 この回は徳川幕府とのつきあいです。以下は、田中健夫編『善隣国宝記・新訂続善隣国宝記』(集英社)所載の、徳川家康あて朝鮮国書を原文から読み下し文にしたものですが、味わいのある文なのでできるだけ原文を生かすようにしました。ただし、実際は対馬の大名・宗義智が改竄したものだといいます。宗家は両国をとりもつため、幕府の体面をたてるながら、朝鮮王朝に独自の朝貢をして対話の道を残すなど、命がけで仲介役を果たすのを常としていました。

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 朝鮮国王李 えん(日へんに八の下口)
 日本国王殿下に書を奉る
 交隣は道有り、古よりして然り、
 二百年来海波揚らざる(平和が続く)は何ぞ
天朝のたまものに非ざるはなからんや、
 しかして敝邦(我国)またいずくんぞ
 貴国にそむかんや、壬辰の変(秀吉の出兵)、
 故なくして兵を動かし、禍を構え惨を極む、
 しかも先王の丘墓に及ぶ、敝邦の君臣、痛心
 切骨す、義
 貴国と共に一天を戴かず、六、七年来馬島
 (対馬)和事を以て請をなすといえども、
 実に敝邦の恥ずる所なり、承り聞く、今は
 貴国、前代の非を改め、旧交の道を行うと、
 いやしくも斯の如くなれば、すなわちあに
 両国生霊の福にあらずや、故に使价を馳せ
 以て和好のしるしとなす。不腆の土宜は、
 つぶさに別幅(土産品目録)に載す、盛亮
 をこいねがう。
 万歴三十五年(1607)正月  日
 
 朝鮮国王李 えん(日へんに八の下口)
-----------------------------------

 書式に注意して見ましょう。「日本国王」とか「貴国」という場合は、行を変え上に持ってきて敬意を払っています。「天朝」だけがそこからひとつ飛び出していますが、まちがいではありません。明の王朝のことです。「事大主義のおかげで」といっているのです。日本に敬意は払うが、明の方が上だよ、という意思表示です。

 さらに中味を見ると、「共に天を戴かず」とか「非を改めれば」という強い言葉も残しています。しかし、家康はこれを喜んで迎え国交正常化を進めました。そして徳川時代を通じて鎖国の例外としました。

 上の文書には、外交交渉の機微が実によく出ています。「貴国、前代の非を改め」という、今で言えば村山談話を認めるような態度ですが、家康が「自虐史観だ」などという話は聞いたことがありません。

 肩肘をはって強がりをいうことがだけが愛国心ではありません。国と国民の本当の利益のため、平和を維持する外交がいかに大変かが実感できる文書です。

 投稿日 2006-07-20 「反戦老年委員会」記事を加筆再録|

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2008年10月31日 (金)

朝鮮・韓国 7

 前回は、1597/5に秀吉が呂宋(ルソン)の壺を買い占めた話をした。武力侵攻で脅迫するアジア政策から、徳川家康は善隣友好政策に一転させた。朝鮮に関しては、対馬藩・宗氏が両国の国書を改竄するなど渾身の努力もあって、1607/5に最初の朝鮮信使を迎えることができた。

 対馬の宗氏とは事情を異にするが、2国間をふたまたかけて生き残りをかけていたのが琉球王である。日本での扱いは、薩摩島津家にあずけるという形になっているが、一方で琉球王は明の冊封も受けており、この影響の方が大きかった。

 幕府は、明との勘合貿易復活を琉球王が仲介するよう要求するが、琉球王はこれに応じず、1609/2島津藩が遠征軍を派遣して琉球を制覇した。そのため明はいよいよ日本に不信感をいだき、国交回復は遠のいた。しかし、民間貿易や僧侶等による文化交流に支障はなく盛行する。

 同じ頃、家康はポルトガル(主要基地・マカオ、以下同じ)に加え、オランダ(インドネシア、台湾)、イギリス(ジャワ島)、スペイン(フィリピン・ルソン島)などにも優遇策を示して、貿易の活性化を図ろうとした。ただしキリシタン布教は別で、厳しい態度を貫いた。

 また、日本から出る交易船には免許を証する「ご朱印状」を公布し、取引の円滑を図った。行き先はマカオ、シャム(タイ)、交趾(ベトナム)その他東南アジア各地である。そこには日本人町が栄え、カンボジアのアンコールワットには、寛永9年(1632)の日本人夫婦参詣記念という落書きも残っている。

 シャム(タイ)といえば、おなじみの山田長政の話しがある。戦中の昭和17年、国民学校の教科書に採録されたり、「大政翼賛会推薦」の紙芝居ができたり、長谷川一夫主演の映画ができたりしておおはやりだった。これが、当時日本政府の南進政策にそった歴史教育の一環で、確定史料のない伝説程度のお話しだっということである。

 朝鮮から離れて余談になるが、歴史の捏造とまは言わないにしても、二宮金次郎キャンペーン同様歴史教育の国策利用の好例である。ここにその山田長政に関する教科書の前半部分を紹介しておく。

 今から三百二十年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。シャムといふのは、今のタイ国のことです。
 そのころ、日本人は、船に乗つて、さかんに南方の島々国々に往来し、たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本人町といふものができました。シャムの日本人町には、五千人ぐらゐ住んでゐたといふことです。
 二十何歳でシャムへ渡つた長政は、やがて日本人町の頭になりました。勇気にみち、しかも正直で、義気のある人でした。
 シャムの国王はソンタムといって、たいそう名君でありました。
 長政は日本人の義勇軍をつくり、その隊長になって、この国のために、たびたびてがらを立てました。
 国王は、長政を武官に命じ、のちには、最上の武官の位置に進めました。
 日本人の中で、武術にすぐれ、勇気あるもの六百人ばかりが、長政の部下としてついてゐました。長政は、これらの日本人の武士と、たくさんのシャムの軍兵をひきゐて、いつも、堂々と戦に出かけました。長政が、ひをどしのよろひを着け、りつぱな車に乗り、シャムの音楽を奏しながら、都にがいせんする時などは、見物人で、町といふ町がいつぱいだつたといふことです。

【 2006-08-22「反戦老年委員会」記事一部再録】

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2008年10月26日 (日)

朝鮮・韓国 6

 鎌倉時代に入って貿易は続くものの、朝鮮・日本の往来は古代のような緊密感がなくなり、なんとなくよそよそしく他人行儀なものになっていた。やがて南北朝時代、戦国時代など動乱の時代を迎えるが、朝鮮も李王朝に変わっても相変わらず内憂外患の種がつきず、日本からは和冦が収束したあと豊臣秀吉による2度の侵略を受ける。

 朝鮮にとっては、高麗の時代に元寇で塗炭の苦しみを味わっている。そして大陸の方からの侵入は、胡人(女真・野人)の後金国、それに続く清国などが続き国土荒廃の絶え間がなかった。これは古代以来、国境を接する国のの宿命でもあるが、秀吉の朝鮮派兵は、秀吉の誇大妄想であり、朝鮮にとっては降ってわいた災難のように見られがちである。

 しかし、これは失敗したものの、日本が犯した満州事変以前の唯一の帝国主義的侵略を実行に移したものといえよう。古代には『書記』でいう神功皇后の新羅征伐があるが、まだ国家といえる段階になく、斉明朝の白村江決戦は朝鮮3国と中国をめぐる軍事介入である。

 歴史区分では古代・中世・近世などというが西洋史用で、日本や東洋史にはそのまま適用しがたいのだが、私は日本の近世は、秀吉に始まったのではないかと思っている。秀吉は、宣教師などを通じて、西欧の帝国主義競争、植民地政策をすでに知識として持っていたはずだ。そのためにキリスト教布教が侵略の先兵になると見て、厳しい禁令や弾圧を加えることにしたのだ。秀吉は、朝鮮を先導役にして帝国である日本が明国を制圧するつもりでいた。

 続・私本善隣国宝記として前身の「反戦老年委員会」に書いたことだが、秀吉の遠征は思いつきではなく東南アジアに向けても次のような手だてをしている。冗長をさけ、時代を確かめる意味で、年表にメモを貼るような方法でここに転記する。

【1510/4 三浦(さんぽ)の乱(南朝鮮における日本人の暴動)を機に朝鮮貿易下火に】それまで、足利将軍家、朝鮮出身と自称する大内家、倭冦を制御するご家人、あるいは倭冦から転向した土豪などが権利を得て交易した。日本は戦国の世の中。輸入品として兵士が着る衣服用の木綿、戦勝祈願に寺院へ寄贈するための木版刷り仏教典などが珍重された。

【1549/7 ザビエル、日本にキリスト教を伝える】

【1582/6 本能寺の変】5年後には秀吉が九州遠征で全国制覇を完成。伴天連追放令に続き、海賊取締り令、刀狩令を発布して強い権力を手中にする。これにより長年跳梁してきた倭冦も終息する。また長崎を拠点に、生糸を買い占めるなど、貿易に強い関心を持ち始める。

【1586/4 在日イエズス会副管区長ガスパル・コエリュ一行、秀吉に謁見】秀吉、朝鮮・中国征服の構想を語り協力を求める。

【1591/7 インド副王に書簡、禁教と貿易奨励の二本立て外交を表明】その年の9月フィリピン総督に書を送り、降伏をすすめる。1592年文禄の役、1597年慶長の役の朝鮮出兵と平行してマニラ征服計画を捨てず、再三勧降交渉をする。また台湾にも入貢をうながす。明はこの動向を察知、日本に密偵を送り、福建地方の防備をかためるため澎湖島に戦艦・兵員を配備するなど南方沿岸の警戒を強化する。

【1597/5 秀吉、呂宋(ルソン)の壺を買い占める】フィリピンでは原住民が日常使う稚拙な二束三文の壺を独占的に買い占め、千利休などに茶器として値をつけさせ高価で売りさばく。縫い針で小銭をかせいだ子供の頃の商才そのもの。翌年、秀吉没す。秀吉の外交方針は、帝国主義的な恫喝による重商主義にほかならなかった。

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2008年10月20日 (月)

朝鮮・韓国 5

 新羅国から高麗国に変った朝鮮が、刀伊の乱の始末で日本に好意的な対応をしたことを前回は書いた。しかし、この先同国は苦難の道をたどる。まず和冦のはじまりである。歌人・能筆家で有名な藤原定家の日記、『明月記』から嘉禄2年(1226)10月17日の項を見よう。

 朝天に片雲無し。宰相吉田事の次いでに参る。(中略)。高麗と合戦一定と。鎮西の凶党等[松浦党と号す。]数十艘の兵船を構へ、彼の国の別島に行きて合戦し、民家を滅亡し資材を掠め取る。[行き向ふ所、半分ばかり殺害さる。其の残り、銀器などを盗み取り帰り来たると。朝廷のため太(はなは)だ奇怪なる事か。]

 朝廷のため、というのは、中国(宋)との交易は朝鮮を経由するケースが多く、高麗と事を起こせば朝廷で奢侈品を入手できなくなるということのようだ。現地出先の大宰府は素早く行動を起こし、2か月もたたないうちに犯人90人を捕縛、高麗の抗議使節の前で首をはねて見せた。

 抗議文はその後中央に届けられたが、わび証文はすでに大宰府の名で相手にわたっている。これは、多分大宰府の権限を高麗国に過大に印象づけようとする工作で、貿易をめぐる利権がらみだろう。斬首された悪党もあて馬に相違ない。なぜならば、あとで真犯人らしいグループが検挙された記録があるからだ。

 その頃から、和冦の規模は漸次増えはじめ、前回言ったように、最後は高麗政権を転覆させる原因のひとつにもなる。日本は南北朝時代に入っており、九州における権力構造もめまぐるしく変わり、大宰府も機能不全となる。和冦の犯人もその装備・戦術からみて、南朝の最後を支えた、いわゆる「悪党」ではないかという見方がある。

 もうひとつ、触れなくてはならないのが「元寇」である。これを朝鮮と蒙古の連合軍が二度にわたり九州に大軍を向けて侵略してきた「国難」である、との解釈が一般的で、戦中は、神国日本の「神風」が吹いてこれを追い払ったという教育がなされた。

 いろいろな要素があり、また解釈があってもいいのだが、侵攻失敗の理由としてあまり知られていないのが攻撃側の致命的な弱点である。それは、大陸を馬を駆って征服する術に長けている蒙古も、海や船には全く弱いことと、高麗や宋の人民を奴隷のように扱ったため、連合軍を組織しても意思疎通や戦意に欠けており、長期戦に不利だったことがあげられる。

 蒙古が高麗を襲ってきたのは1231年である。他のケース同様、電撃作戦でたちまち開京を落とされ王朝は降伏した。ところが王室と百僚百官は隙を見て目と鼻の先にある江華島(現在は700m近くの橋続き)に逃げ込み、そこで本土人民に徹底抗戦を指示した。  
 
 それに怒った蒙古は、断続的に朝鮮全土を荒らしまわり略奪をほしいままにした。それが30年も続くのだが、蒙古は川ほどの海に隔てられて王室を滅亡させることができなかった。しかし内紛が原因で遂に降伏する。

 この間死をまぬかれた人民20万6800は、蒙古兵の捕虜となり、次ぎに目標とした日本攻略のため兵船900隻の建造を高麗に命じた。この時に動員された兵士・水手などは1万5000人である。それも高麗人の抵抗で7、8年遅れて1274年、いわゆる文永の役となる。

 つづく2度目の弘安の役(1281)にも兵船900隻、兵士・要員など2万5000人、食料20万石の供出を強いられる。収奪は徹底し、百姓は草の実や木の葉で餓えをしのぐしかなかった。また3年前に元(蒙古)に屈した南宋の兵10万を江南軍として加えたものの、総勢14、5万という膨大な兵員は、陸戦のただ荒らせばいいという戦いと違い、船戦としての統率を欠いた。

 そして、約100年後の1388年、和冦を撃退して名声をあげた李成桂が高麗王朝を倒し、李王朝による「朝鮮」国となる。

  

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2008年10月15日 (水)

朝鮮・韓国④

 前回、菅原道真が遣唐使打ち切りを提案したことを書いた。しかしそれまですでに60年も中断しており、明らかに海外に対する関心は低下している。その頃の新羅王朝は、わが律令国家と同様、衰退期にはいって久しく、百姓は疲弊し、内乱が続き、民情はきわめて険悪になっていた。

 新羅南部の沿岸の流民あるいは海賊と思われるものが、八世紀以来、かなり頻繁に対馬さらに北九州を襲い、財物の略奪を行うという事件があった。さらに、893年5月には、新羅人の武装した小集団が肥後国飽田郡に侵入して民家に放火し、肥前国松浦の方面にむかって姿を消した。その翌年にも対馬がおそわれている。

 それに対して政府は、対馬への防人の配置・博多警固所の増員、さらに越前・能登・越中・越後の諸国で弩師(大弓に長じたもの)強化しているが、新羅と直接外交を通じて解決しようとした形跡は見られない。

 なぜこのことを取り上げるかというと、このブログで中国・朝鮮への侵略に言及すると、このあとに述べる刀伊の乱や元寇で日本も被害を受けている、あいこではないかなどという、どうやら国粋学者の受け売りらしい書き込みがあったので、ふれておくことにした。

 ただそのような主張は、13世紀から14世紀にかけてほとんど朝鮮の全地域で400件近く和冦が猛威をふるい、ついに高麗王朝崩壊の一因を作ったり、中国の広域にわたる沿岸への和冦は16世紀まで続き、明帝国がいわゆる「北虜南倭」という難局に立たされたこととは、量質ともに比較にならずヤブヘビになるのでやめた方がいい。

 以下は刀伊の乱の模様で、拙著『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』に『小右記』と『朝野群載』を参考にして書いた記事を引用する。これで見るように賊は朝鮮人ではなく、最後は高麗王朝が摘発して日本に友好的な対応をしていることがわかる。

-----以下引用
 寛仁三年(1019)四月七日、太宰府に対馬守遠晴が駆け込んできた。そして「対馬に刀伊国の者が五十艘あまりの船でやってきて殺人・放火をはじめました。彼らは隼のように迅速で数が多くとても対抗できません。壱岐では壱岐守理忠が殺害されほとんど全滅状態です。彼らは博多警固所と目と鼻のさきの能古島まできています」と報告した。京都へは、即刻緊急事態を伝える飛駅便を飛ばした。

 しかしその時すでに賊は怡土郡(福岡県西部)に上陸し、志摩、早良郡などをへて博多の方まで来襲、人や物を奪い民家を焼くなど被害が拡大していた。賊の船の全長は十二尋と八、九尋(一尋は両手をひろげた長さ)。一船の櫂は三、四十ばかり。五、六十人または二、三十人が乗る。

 彼らは白刃をかざし、次ぎに弓矢を帯びた者が続き、楯を負う者など七、八人で行動する。これらの十から二十隊が山野を制圧し、牛馬や犬を殺して食ったり、老人や子供は皆殺しにする。さらにおびえる男女は追いかけてゆき、四、五百人を捕らえて船にのせた。また、かず知れない米穀類も略奪された。不意をつかれて急遽遣わした兵士と戦闘になり、双方に負傷者を出したが、八日に賊は海へ逃れ能古島に去った。

 九日朝、賊船は官軍の本拠である警固所を焼こうとして来襲した。奮戦した結果前に進めず、生き残った者はまた能古島に帰還した。その後二日間は波風強く、攻撃できなかった。十一日酉時(午前六時)に上陸してきたので応戦、賊徒四十余人に矢があたり、生き残った者二人、一人は傷つき一人は女だった。

 十三日、賊徒は肥前国松浦郡に至り、村里に攻めてきた。ここには前肥前介・源知がいて。郡内兵士を率いて合戦、数十人に矢をあて、生存者は一人だった。賊船は進攻不能となり遂に帰った。(中略)

 刀伊は帰路朝鮮沿岸を襲ったが、警戒していた高麗(九一八年建国の統一王朝)軍に撃破され、その時救助された日本人二百七十人が九月になって送還されてきた。拉致された人数との差は、体が弱っているといった理由で海に投げ込まれた人が大多数という拉致被害者の証言を裏づけており、結局約千五百人が殺害されたことになる。

 なお、刀伊とは高麗語で蛮夷の意味で、女真すなわち、かつて粛慎、靺鞨などと呼ばれた沿海州方面のツングース系民族ではないかといわれているが、真相は不明である。

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2008年10月10日 (金)

朝鮮・韓国③

 ここで、古代についてのしめくくりをしておきたい。先住者縄文人に水耕稲作ををもたらした弥生人の先祖が中国大陸や朝鮮から海を渡って渡来した、という説にトラックバックいただいた方から異論が出た。

 たしかに、中国から遼東省や北朝鮮の寒冷地を経て水耕稲作が伝播したとは考えにくい。しかし、長江沿岸から山東省あたりまでこの方法が盛行していたことと、弥生人の形質が山東省あたりの人骨に似ているという研究結果もあるので、そこから伝播したと見るべきであろう。

 そうすると、海路では山東半島から最短距離の朝鮮中部を経て日本、または直接日本ということになる。(琉球列島経由の痕跡はない)。後者の場合ならそのまま秦始皇帝が命じた徐福コースということになり、単なる伝説とはいいきれないことになる。

 研究はこのさきまだ続きそうだが、先を急ごう。古代における朝鮮と日本の関係に大きな転機は3度ある。最初が4世紀末の倭国による朝鮮大侵攻である。日本では『日本書紀』の神功皇后による伝説的記録しかないが、中国に現存する広開土王碑や奈良の石上神宮にある七支刀で、日本が大きな権勢を確保したことは事実だろう。

 ここからいわゆる応神王朝時代で、古墳は超大型化副葬品も豪華な武具・馬具が多くなった。土木技術を駆使し、文字も使われだした。雄略天皇が中国・斉から新羅を含む南朝鮮6カ国鎮東大将軍の称号をせしめるなど、威張っていた時代である。

 これが6世紀後半にあやしくなり、倭の権益はどんどん後退する。推古女帝や聖徳太子の時代の直前、580年頃には、朝鮮海峡に国境を考えざるを得なくなった。それは記事にしたことがある。そして聖徳太子は隋を相手に「日出ずる国」の国書を作成した。

 これが2度目の転機である。スパイや伝染病患者の入国を水際でくい止めたり難民を審査したりする出入国管理は今と同じになり、この時代にナショナリズムや自立国家の意識が高まったようだ。その後も『書記』の新羅、百済、任那などの朝貢記事は続くが、朝鮮3国対立の戦略バランスを意識したためで、日本の権勢が及んだためではない。

 そして古代最後の転機が、663年にやってくる。斉明天皇と中大兄皇子が派遣した倭兵が朝鮮白村江で唐・新羅連合軍に大敗したことである。これは朝鮮にとっても統一国家を作る第一歩となったできごとで、弥生時代から続いた日本と朝鮮の関係は、668年成立の統一新羅との国交関係樹立という新しい環境に変わった。

 その後渤海国との国交も開始されるが、外交は、奈良・平安時代を通じて遣唐使による中国文化導入を中心に進め、菅原道真が遣唐使の停止を建言する894年まで続いた。その後、鎖国ではないが朝鮮との間も次第に没交渉となって中世に向かっていく。

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2008年10月 4日 (土)

朝鮮・韓国②

呼称の問題
 すでにお気づきのように、前の記事では朝鮮半島とか朝鮮南部といった使い方をしている。韓国は北朝鮮を「北韓」と言ったりしているので、韓国・朝鮮を公平に使い分けなければならないとすれば、半島の地理的概念や民族を表すのに英語のコリアとでもするしかない。

 「朝鮮」は非常に古く、神話伝説の時代から西暦紀元前にかけて使われていた言葉である。ただし中国の一部まで含めた半島北部のイメージが強く、全体の呼称として使ったのは、1392年から1987年の李王朝による595年間で、歴史上最も長く続いた。

 ちなみにその前の統一国家としての名称は、「新羅」が267年間「高麗」が457年間であり、その前がいわゆる百済、新羅、高麗の三国時代だ。これで見ると韓国というのがないようだが、日韓併合直前のわずか13年間、もはや国家の体をなさぬ状態になってから、李王朝は突如国名を大韓帝国と改め、国王は自ら光武皇帝と称した。

 それが併合前の最後の国名であったため、独立を回復したとき旧国名を継承して今の大韓民国ができたものと思う。朝鮮が北の方に由来する国名であるのに対し、韓は、『魏志』に書かれているように馬韓、辰韓、弁韓(以上を三韓という)といった南の方に根拠を持つ民族名である。

 日本の古代では、三国時代の国名を使う場合以外は「韓」を総称として使っていたらしい。読みは「から」であり、「あや」「かや」「あら」などいろいろな読み方で、南朝鮮の特定の場所を指す場合もあったようだ。

 大化の改新は、中大兄や藤原鎌足らの蘇我入鹿暗殺で幕を開けたが、『書記』では、この事件の目撃者である古人皇子が「韓人(からひと)が殺した」といい、その注釈として「韓政(からひとのまつりごと)」が原因と書いている。

 蘇我家がそもそもが渡来系の子孫ではないかといわれることがあるが、周辺の人材は渡来系氏族で固めていた。その代表として漢(あや)氏がある。字は違うが三韓の出身であろう。また中大兄の方にも蘇我の一派である石川麻呂が加担しており、新政権の組閣には渡来系の学者などを顧問に迎えている。事件が渡来人同士の権力争い、ととれないことはない。

 日本では、統一に成功した新羅・高麗のあとの呼称が、ずっと「朝鮮」である。最後に「日韓併合」とは言ったけれど、併合後の統治機関は「朝鮮総督府」であり「朝鮮銀行」も設立した。日本人にとっては韓より長くなじんできた朝鮮の方が使いやすかったのだろう。歴史的に見ても、また韓国内でも「朝鮮日報」などと使われており、全体を朝鮮で表すのに特段の不都合はない、という結論にしている。

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2008年10月 3日 (金)

朝鮮・韓国①

複合民族・日本
 隣邦、朝鮮・韓国を語るシリーズを考えてみた。前身のブログ「反戦老年委員会」で「私本・善隣国宝記」や「日韓近代史考」などと題した歴史シリーズを、あらためて物語り風にして採録しておきたいということである。それは新たなことを論ずる場合、こういった下地があってのこと、ということを知っていただければ、便利だという意味もある。前講釈はそのくらいにしておいて早速太古から……。

 日本の歴史に関心を持つ人なら、必ず日本人のルーツをさぐりたくなる。天から雲に乗って山におりてきたことを信じない人だけ、この先を読んでいただきたい。また、進化論は子供に教えるな、と言う人にも不向きである。

 結論からいうと、化石の形態やDNAの調査・研究から、ネアンデルタール人や北京原人の子孫ではなく、現在の人類の共通の祖先・アフリカ起源のホモ・サピエンスがおそらく3、4万年前頃から、北は樺太、南は島づたい、そして西は朝鮮半島を経て大陸からやってきたのである。

 いわば3種混合で、大陸から海をわたったやってきた。単一民族どころか、先祖は非常にバラエティーに富んでいる。おそらく最初は南から、すこし遅れて北から入り、1万2千年前には本州中程で合体し、縄文人・縄文文化が栄える。

 その頃、海上交通に先端技術を持っていた縄文人は、逆に朝鮮半島へ進出した。彼らは釜山あたりから洛東江ぞいに居住したものと見られる。時を同じくして大陸から南下した北方民族なども朝鮮中南部に定住をはじめた。

 この考えを明記した文献はまだ目にしたことがないが、日本神話や魏志倭人伝、朝鮮の古代史・三国史記、さらには下って日本書紀の任那関連記事、またはなにがしかの考古学的発掘物などで、いわゆる「倭人」が朝鮮南部に多く居住していた状況証拠は数多くある。

 朝鮮や中国大陸からの移住者が増えたのは、水耕栽培による稲作技術をもたらした人たちで、それが弥生時代の幕開けとなる。これが弥生文化の発祥であり、縄文人とやや骨格など形質を異にする弥生人の出現である。

 以後、書記では神功皇后時代、続く応神王朝の土木技術や文字の伝来、欽明朝前後のいわゆる「今来の才伎(いまきのてひと)」による工芸や仏教などの伝来、さらに百済滅亡による7世紀の大量難民など波状的な大量移住があった。

 平安時代初期に『新選姓氏禄』という氏姓の調査報告があり、畿内だけであるが、ハイソサイエティー1182氏姓のうち漢系163、百済系104、高麗系41、新羅系6、任那系3(Wikipedia)と、帰化人の諸蛮に分類された氏姓が4分の1を超えている。

 もちろん、この中には弥生時代の人など入っていない。平安時代初期の諸蛮を外国人などという人も現在はいない。そんなことを言うと天皇家まで外国出身者となる可能性が高いのだ。「特定アジア」などという分類がどこから来るのか、まことに不思議である。 

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2008年9月21日 (日)

世論操作

 日曜日午前のTV番組には、先週1週間のニュースを振り返り解説するという趣向が多い。当然、アメリカのリーマン・ブラザーズの破綻とか政府による資金投入などが取り上げられた。その中で、解説する専門家の多くが、やや極端に過ぎるような景気悲観論を振りまいていた。

 そういった論評をするジャーナリストを、非国民扱いにして「財界攪乱罪」で検挙するという噂が飛んだり、株式などで「売り」を得意とする仲介業者が、一斉に所轄の警察に呼び出され事情聴取されるということになったら、どうなるだろう。

 そういった事が、実は昭和4年の金解禁の際に(1929)にあったのだ。『東洋経済新報』の昭和5年1月25日号にこうある。

 聞く所に依れば、解禁実施の前日かに、売屋と目される東西の株式仲買店主は、所轄警察署長に召喚せられ、尋問を受けたといふ。これ、政府が金解禁政策を遂行せる以来、市場の崩落を伴ひ、動揺以外に大なりし為に内心不安に襲はれ、其の実施を機会に、更に動揺なきかを懸念して、売方に官権の圧迫を加えたに外ならぬ。

  また「財界攪乱罪」云々は、当時新平価解禁論で高名を馳せていた高橋亀吉が、新聞記者を通じて忠告されていたというから、その筋からの世論操作が相当露骨に行われていたということだろう。昭和3年に治安維持法を強化し、関東軍による張作霖爆殺を「満州某重大事件」などと真相を伏せて報道させた時期である。

 記事差し止め、発禁などの言論圧迫・弾圧はこの頃から目に余るようになった。そして昭和6年の満州事変の頃にはマスコミの抵抗もかげをひそめる。軍の専横まであとはまっしぐらだ。その結果の敗戦から60余年、政府の世論操作の遺伝子が息を吹き返す、なんて全く気味の悪い話ではないか。

(本稿は有沢広巳『昭和経済史・上』を参考にしました)

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2008年9月 5日 (金)

大正デモクラシー③

 前回に続き、安倍元首相と麻生総裁候補におじいさま若かりし頃(大正9年)の本を紹介します。

谷本富著『現代思潮と教育の改造』
       第一章 教育学風の変遷

前回のつづき~~~~~~~~~~~~

 かくの如くにして更に明治維新となったのであります。明治の維新になってはどうかと言いますると、これはまことに一言のもとに言うことはできがたい。というのは明治維新は本当は二つの異なった潮流からできているのであります。

 一はなるほど明治維新です。西洋風、即ち万国の新しい事をご採用あそばされるというご趣意です。その一方には王政復古で、しかも神武天皇の昔に帰ろうというような有様でありますから、維新主義と復古主義、いわば進歩主義と保守主義とが常にあい戦っておったのであります。

 それがために佐賀の乱もありました。それが為に熊本神風連の乱もありました。遂に西南戦争もありました。ひいてはイヤ国粋主義じゃの何じゃのというものが追々出てきました。

第七発展式 これは明治維新のはじめに二種の潮流があったのじゃという事を申せばわかると思いますが、明治二十二年に畏くも帝国憲法がご発布に相成り、また引き続きまして教育勅語が煥発せられましてからは、万事明らかに決まりましたので、私はこれに発展式という名をつけております。

 発展家といった俗な意味での発展ではない、つまり日本の国威が発展するということの意味でであって、それは何で申すかというと明治の始めに明治の国是を定められて、開国進取を以て国是とするということを仰せられたのに基づきます。

 そのご趣意が徹底して、いつも申しまするように日清戦争、日露戦争、なお引き続いて今回の大戦というようなものに至るまで、常に国威がズンズンと発展伸長したのだから、開国進取であり大発展であり、ついに今度は世界五大国の仲間入りとまでなったのです。

 もっとも肝心の評議をするときには、日本だけのけ者にせられていたそうじゃが、とにかく日本国は発展をして今回のベルサイユの講和会議でも重きを置かれるようになったことは明瞭な事実です。

 しかし開国進取などと言うとどうも支那人の如きは、ソレ見たことか、言わないことじゃない、日本が国を奪(と)りにくるなどと言うかも知れぬ。だから私は進取ということを隠して発展主義とやったところは、さすがに用意周到なるものがありましょう。

将来の新学風如何 けれどもじゃネ、発展主義もいいが、大正の新時代にはそれではいかぬと思うのであります。いま大正になり、いま二十世紀になっては、それではいかぬと思うのであります。デ私は新たに教育風の起こるべきものとして、それを何と言うかといえば即ちデモクラシー式と言おうとするのであります。

 もっとも他の時代は神習式といい、文華式といったようにみな二字にしてあるのだから、デモクラシー主義も二字にして、何かいい訳字はないかと思うて考えても見ましたが、この訳字にはまことに困るので、民本主義などと訳をつけますけれどもそれは誤解のもとであります。

 民本主義というのはとかく官僚主義の人のいうことであって、われわれのいうデモクラシーではないようだからそれは避けます。さればといって民主主義と言えば官僚からドエラウにらまれることになる。あるいは、平民主義と言ってもいいけども、平民というのもすこしく具合が悪い。

 しばらくデモクラシー主義ということにしておきますが、それでは困るという人もあろうけれども、私はよく言うのであります。人は日常生活でも原語のままで言うておることが沢山あるのです。あるいはガスであるとか、ランプであるとかいうのも日本語ではない。

 これは西洋の言葉がそのまま日本語になったのである。昔から仏教の方で、南無阿弥陀仏というが、これは日本の言葉でもなければ支那の語でもない、実はインドの語であります。しかし日本人の十中八九までは、誰でも何か悲しい事があったり、仮に心中でもするときには南無阿弥陀仏と言うでしょう。

 お俊伝兵衛でもそうです。彼らは日蓮宗じゃというけれども、芝居では情死のときにはまさか南無妙法蓮華経とは言うまい、やはり南無阿弥陀仏と言っている。何はともあれこの南無阿弥陀仏という語は最早日本の言葉となって広く行われているというようなことで、外国語にしても日本語になっているものも沢山あるから、デモクラシーでも私はやはりそのままデモクラシー結構だと思う。

 つまり私は今後新時代の教育主義は皆デモクラシーになるということのお話をしたのであります。

(以下参考図書等の研究資料の紹介等を省略、第一章完結)

~~~~文献紹介者・塾頭のコメント

 大正デモクラシーは、富国強兵から軍国日本の間のつかの間に咲いたあだ花のようなものです。この時代の理論的指導者として、「民本主義」を唱えた吉野作造が有名です。「民主主義」というと、天皇が「主」であると規定した明治憲法と対立するので使えなかったのでしょう。

 当時これだけの近代的感覚が受け容れられながら、デモクラシーを根付かせる事ができなかったのは何故でしょう。この文章を見ても明治時代の「発展式」の批判が無く、一歩腰が引けた感じがなきにしもあらずですが、これらを論じた本格的な議論はあまり見かけません。

 「一歩腰が引けた」というのは、自由闊達な発言の中で、皮肉めいた表現がところどころに出てくることに注意してください。それが、デモクラシーと相容れない旧憲法の天皇制であり、隠然とした権力を民衆にふるう官憲の存在であり、潜在する中国侵略志向の動きなどです。

 また、論旨に関係のないやや冗長な部分が多く、一部省略してしまった所もあります。しかしそういった語り口が、かえって明治から昭和の間の転換期を生きた人の息吹をじかに感じさせる、貴重な資料となっています。

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2008年9月 4日 (木)

大正デモクラシー②

 前回に続き、安倍元首相と麻生総裁候補におじいさま若かりし頃(大正9年)の本を紹介します。

『現代思潮と教育の改造』
       第一章 教育学風の変遷

前回のつづき~~~~~~~~~~~~

菊花御紋章の事 もっともそれは忠孝ばかりではありませぬ。諸君が皆もって非常に立派な花とし、また殊に貴い花だと敬われるのは菊の花でしょう。しかしこのキクという言葉は日本の言葉でありませぬ。

 日本の語では「オキナグサ」(翁草)とか、「モモヨグサ」(百夜草)とか「チヨミグサ」(千代見草)と言うのじゃそうですけれども、さればとて誰も畏くもわが皇室のご紋章は、翁草であるとかあるいは十六弁の百夜草であるとか言う者は無かろうと思う、やはりキクというのが普通一般であります。

 これなども訳のわからぬ人たちは、神代のはじまりから菊は皇室のご紋章であったかのように思うているでしょうけれども、そもそも菊が皇室のご紋章になったのは比較的新しいことであって、従来国学者連中の調査したところによれば、後鳥羽天皇の前後を出ないのであるということであります。

 こういう事を考えてみると、日本人は何でも今現にある事は昔から変わらなくあった事のように思うているが、それは大間違いであって、教育の風なども昔から非常に変わってきている。即ち今日わが国固有の古風の教育、即ち私の言う古めかしい教育は、全く徳川氏三百年の教育の風であるのだと言う事を、最初に掲げておきまする。

学風七変論の発表 そのことにつきましては、ちょうど明治三十年頃と思います。私はオーストリアのオット・ウイルマンという人の教授論に述べられていることを参考に、教育学風変遷論を立てたことがあります。

 すなわちオット・ウイルマン氏がヨーロッパの教育はギリシャ、ローマの昔から今までに七たび変わっていると言われておりますので、それを非常におもしろく思い、それと同じ事を日本で見たらどうなるかと思い調べて見たところが、やはり日本のも七たび変わっていると言うことがわかったのであります。(発表の経緯などの記述を省略)

第一神習式 わが国において開闢より大化の頃まで……つまり聖徳太子ご出世の前後までの教育主義は神習式というものである。それは今の言葉に直すと伝統主義であります。くわしく申しますると、つまり昔からあるしきたりをただそのまま随神(かんながら)に習えといったのである。

 別にむつかしいことはない、ごく質素で、文字も何も無くして、ただ随神に習ったのが神習式であったのである。そういったところがおいおいと朝鮮、支那というような順序で、大陸の文明が輸入してきましてからは、万事非常に立派になり、遂にかの絢爛たる奈良の文明を作り上げたのであります。

第二文華式 それは、ただいまでもあるいは春日神社あるいは大仏といって、国宝に指定していますが、これを名付けて文華絢爛でありますから文華式ということにする。そのうち日本の経済事情が変わり、国情が変わって、遂に外国との往来が途絶えたのであります。

 菅原道真公は教育史の上においても非常に立派で、重要な地位を占めたお方ではありまするけれども、実は日本と海外の交通を杜絶したことについては、この菅原道真公の建白が非常に力があったので、遣唐使は止めになったのであります。これはわれわれの今なお非常に遺憾に思うことであります。

第三情操式 右のようにして外国文明の輸入が杜絶してしまうとなると、今まで追々発達してきておった文華的文明はたちまち爛熟して、自ら大変に感情に走りまするようで、平安朝末期の文明、即ち最も感情に走った情操式の文明ができたのでござりまする。その一例は『平家物語』によく表現されています。

 ところがそれでは余り女々しい、すこぶる婦人的である、すこぶる女性的であるということで、鎌倉幕府が興ってからは昔のように京都や奈良を中心とはせず、もっとも依然京都に都は置かれましたが、幕府は置かれなかった。

第四質実式 即ち幕府は遠く辺鄙な鎌倉の方に持っていって、そこに勢いよく興ったのがいわゆる武士道の教育であります。私は妙な字ですけどこれを質実式の教育と申します。つまり奢侈を嫌い、倹約を奨め、無礼尾籠の振る舞いを禁じて、なるべく実意あるようにという質実式の教育が行われました。

 それはまことに結構であります。したがって引き続いて南北朝の時には楠公父子のような大忠臣をだすようになったのじゃが、その流れのあとが戦国時代であります。

第五意気式 戦国時代というてもまた非常に面白いことがあって、およそ人が意気を貴ぶというような日本男子の特色は、実は戦国時代にことに培養され、ことに発揮されたものであると思います。意気という意味は非常に説明しにくく、ドイツ語にしても英語にしてもフランス語にしても適当な訳ができない。

 それぐらい意気というようなことは日本人固有のものでありますが、それは実は戦国時代に培養されたものでありまして、いわゆる男伊達、侠気であります。日本人にはこの侠気が非常に強い。それは戦国時代の結果だと思う。

 しかし意気とか侠気とかいうことは非常に結構なことではあるけれど、まかり間違えれば花火線香のように怒ってすぐけんかをする。まことに剣呑でありまするから、一旦天下を取った人はなるだけこれをなだめようとするのが当然でしょう。

 即ちまず最初に豊臣秀吉公が彼の桃山文明を以て、あるいは茶の湯の会とか連歌とかいうようなものを盛んに挙行されたが、不幸にして浪花の春は長う続かなんだのであります。

第六道徳式 代わって徳川家康公はごく隠忍で、しかも深く考えられて、馬上で取った天下を文を以て治め、徳を以て治めるということからして、遂に徳川氏三百年間は道徳式の教育となったのであります。即ち最初に藤原惶窩先生、引き続いて林家の人たちをはじめとして種々学者を優遇せられ、主として孔孟の教え、それも朱氏派の孔孟の教えを以て、道徳によって五倫五常で以て治めようとしたのが、江戸幕府の教育主義であります。

 そのことは何によってわかるかというと、江戸幕府時代にはしばしば法度というものがでております。武家や士人に対するいろいろの掟書です、心得です。その武家の法度というものを読んでみると、年月を経るごとにだんだん道徳主義を鼓吹することが盛んになっています。

 ことに忠孝ということを劈頭第一に掲げることも、その回を重ねる毎に盛んになったようなのです。例えば慶長の時に出ました法度と元禄の時に出ました法度とをくらべてみますと、元禄の時の法度には一層盛んに忠孝と言うことが述べられてあります。

 その反応として赤穂四十七士の浪人なども出ているのであります。これは実は全くその時の時代思潮に投じたものであります。ただそれは役所から定めたもの、お上から決めたものであるということと、今日の現代思潮の世界の大勢だというちがいはありますけれども、道徳主義、忠孝主義ということが慶長の頃より発達して元禄の頃は非常に盛んになった思潮であったのだということは、諸君に申して差しつかえござりますまい。

(蜀山人の話略、以下次回へ続く)

 
 

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2008年9月 3日 (水)

大正デモクラシー①

 この前のお腹をこわして退陣した総理大臣も、次の総理・総裁の最有力候補とされる人も、おじいさまが歴史上名高い総理大臣です。前の方は「美しい日本」とかおっしゃって、戦前型の道徳教育を取り入れることに熱心でした。

 次の方も、女性天皇はわが国の伝統からしてまかりならぬ、などと小泉首相でさえお持ちにならない神がかりセンスの持ち主です。今回は、大正9年「大正デモクラシー」のさなかに発行された本をご紹介します。というのは、前の方のおじいさまが大卒、社会人1年生、あとの方のおじいさまは、あぶらがのった働き盛りの頃の本で、そういったことはご存じだったはずです。

 お二人とも、お墓のおじいさまを苦笑いさせないよう、気をつけてください。そして日本にもいろんな歴史や文化があることを是非知ってください。本は谷本富著『現代思潮と教育の改造』です。以下はその第1章で、漢字・かなづかいや表現を一部かえていますが、原文の雰囲気はできるだけ残すようにしました。

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『現代思潮と教育の改造』
       第一章 教育学風の変遷

現代思潮とは何ぞ さてこれから本論に入りまするが、本日はかねて広告文に書いてありました通り、デモクラシーということについて十分にお話をしてみようと思います。それは取りも直さずこの表題にでている現代思潮は、これからはデモクラシーであるということの意味で申すのでございます。

 只今福士君のご挨拶を拝聴して、私はまことに嬉しゅう思うたのであります。即ち教育者諸君の着眼点はごく広く、またごく新しく、ごく自由であることを望まれると言われたのでありますが、いかにもその通りです。

 誰も現代思潮ということの上に立たなかったらば、到底十分教育はやって行けますまい、しからば現代思潮とは何であるかといえば、それはデモクラシーであると、こうお答えをしたいのが私の真意であります。

 しかしその前に一つお話をしますることは、すべて教育の風(ふう)というものが、今も昔も常に同じものであると考えるのは大間違いであるということであります。われわれ同胞日本人が今多く考えているようなこと、即ち国家につけ、あるいは民族について考えていることは神武開闢、いな神代の太古からも同じようであったように言う人がありますけれども、それは、実は間違いであります。

 私の見るところをもってしますれば、いま日本人固有の特別の考えだなどと偉そうに言っているところの思想の大部分は、徳川氏になってから、即ち江戸幕府時代の三百年間にだんだん築きあげてきたことが多いようであります。

 ごく露骨に事を申しますと、「忠孝」というようなことをド偉うやかましく言うのでさえも、それは実は徳川氏三百年間において今のようなかたちに造り上げられられたようであります。無論勅語にもお示しになってありまするように、わが国民民族は開闢建国以来「よく忠によく孝」であったのではござりましょう。

 それはいかにもそうでありましたろう。そうでありましたろうけれども、今日現在多数の人々が口やかましく言うように教育の主眼は「忠孝だ、忠孝だ」と言うのは、実は徳川氏時代の徳育奨励の結果であるということを、私は十数年來やかましく申しているのであります。

 そのために時としては随分地方で議論の起こったこともあります。けれどいくら議論が起こってもそうに違いないのだからやはりそう申します。

聖徳太子の憲法と忠孝 その証拠には、古来日本人の道徳の思想をとりまとめて書かれたもののまず最初のものといえば、ちょうどこの大阪にご縁故の深い天王寺を建てられた、その聖徳太子のご制定あそばされたる憲法十七か条というものの上にでるもののないことは、諸君もご承知でしょう。

 聖徳太子の憲法はまことに結構なものであるには相違ござりませぬけれどあの中をどうご覧になっても、忠孝という熟語は失敬ながらまだかつて見あたらないのでござります。忠孝ということをもって教えのもとにするというように断言する熟語の使用はないようであります。

 なるほど「忠」という文字はあります。けれどもそれは職務に忠実にいそしむということでありまして、忠孝という文字は憲法十七か条の中には無いのでござります。なお、私をして一層進んで言わしめられますと忠という字には日本語の訓がなくて、「チュウ」と呼んでいる。

 孝という字も日本の読み方をせず「コウ」と言うておる。もっとも名前では忠はタダといい、孝はタカというようだから、小学校はもとよりすべての教育は、タダタカが日本の教育の基だと言えばよさそうに考えるが、しかしそんなことを言う人はあるまいと思う。

(つづく)

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2008年6月13日 (金)

古墳

 「後期」「終末期」、こういった言葉を使った厚生労働省の役人は、もしかして考古学フアンかも知れない。ことに古墳についてはおなじみの表現だ。その一番最初の方を「出現期」とか「早期」などという。「出現期高齢者」といえば、何歳ぐらいになるのだろう。

 出現期古墳の雄はなんといっても「箸墓古墳」である。全長280m、鍵穴形をした小山のような巨大墳墓が、3世紀後半に忽然と大和平野の東南に現れた。卑弥呼が死んでしばらくたってからである。おおかたの歴史家はこれをもって弥生時代が終わり古墳時代に入ったとする。

 古墳の雄、と言ったが実は被葬者は女性である。その名を「ヤマトトビモモソ姫のみこと」といい、第7代孝霊天皇の二女とされている。巫女で予言はよく当たったようだ。大物主神の妻になったが、夫の本体である小蛇の姿を見てしまった。大物主神は怒り恥じて山に戻った。 

 姫はそれを悔いて尻餅をつき、下にあった箸が陰部に突き刺さって死んだ。それで墓を作るわけだが、『日本書紀』に墓の作り方が書いてある。書記には各天皇の陵墓の所在地は書いてあるが、これまでにない巨大さがある、しかも天皇以外の墓を特記したのはなぜだろうか。

 この墓は日中は人が作り、夜は神が作る。それには大坂山(二上山の北側の山)の石を運んで作る。山から墓に至るまで人民が連なって手渡しで運ぶ。
大坂に 継ぎ登れる 石群を
手逓伝(たごし)に越さば 越しかてむかも

 もう一つ女性の墓を書いている同時代資料がある。ご存知『魏志倭人伝』である。247年かそのあと、「卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう=丘陵)を作る。径は百余歩」とある。百余歩を換算すると、箸墓後円部の直径に相当する。ヤマトトビモモソ姫は卑弥呼か!?。だがその証明は何もない。

 ちなみに、姫の死は崇神天皇紀にあり、同天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」つまり初代という称号を持つ。陵墓とされる行灯山古墳が箸墓の近くにあるが、箸墓よりやや小さい全長242mである。姫は同天皇の大伯母にあたるが、古墳の規模から見て実質天皇だったに違いない。

 神話の国生み夫婦神、イザナギ、イザナミは妻イザナミが先に死に、イザナギが黄泉(よみ)の国に会いに行く話がある。暗いトンネルのようなところの奥に棺が置かれ、イザナギは腐乱した妻の死体を見ることになる。ここでも女性と墓の話が出てくるが、これは中期古墳以後の横穴式石室のイメージである。

 皇嗣は、男系、男子にこだわる右派の先生方が多いが、日本の伝統は、原始太陽の天照大神でなくても女性がなくては始まらないことだけはたしかのようだ。

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2008年5月 9日 (金)

なぜ日本は戦争に突入したか②

 以下のテキストは、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・化学部報告の冒頭にあるもので、『日本における戦争と石油』奥田英雄・橋本啓子訳編(c)石油文化社、による。(前回の続き)

 1941年(昭和16年)中頃には事態は絶望的となった。アメリカの輸出制限措置が効果をあげるにともない、同国からの石油輸入は急速に低下しはじめた。その間にも、日本の陸、海、空軍は増強され、1935年(昭和10年)から数年間にわたって慎重に積み増しされてきた石油備蓄を食い潰しつつあった。

 日本の内閣はこうした情勢を深刻に受けとめた。この重大な時期に、どのような討議が内閣で行なわれたかについて、日本の最後の戦争内閣の陸軍省次官であった若松(只一)中将は石油・化学部調査団の質問に対し、次のように答えた。

 “1941年(昭和16年)の夏には、日本の政府にとって、急速に減少しつつあるアメリカからの石油輸入の復活はとうてい期待できないことが明らかとなった。唯一の代替策は石油の新規供給源を獲得することであった。この面では、あらゆる指標からみて、オランダ領東インド(現・インドネシア)が入手可能な唯一の実質的な石油供給源であった。

 しかし主としてアメリカからの、次いでイギリスからの外交上ならびに商業上の圧力のために、東インドの供給源を交渉による妥当な条件で手に入れることは全く不可能と考えられた。事実、オランダ政府との交渉は1941年(昭和16年)6月に完全に決裂した。

 日本が採りうる最後の手段は、武力をもってこれらの諸島を奪取することであった。しかしこうした行動を採れば、3大強国、すなわちアメリカ、イギリスおよびソビエト連邦のうちの1国、またはそれ以上の諸国と交戦状態に陥ることは、日本の内閣にとって明白であった”。

 若松中将がさらに述べたところでは、ソビエトを攻撃することについても検討されたという。政府指導者のうちの幾人かは、“極東地方でソビエトを攻撃すれば、アメリカとイギリスは双方とも一致してこれを支持するであろう。そしてこの2大強国は、日本がソビエトをあいてとする大作戦に必要な燃料を得るために南方の石油資源を占領する副次的作戦を理解かつ是認するであろう”と確信していた。

 アメリカがすでにさまざまな島々を占領していること、イギリスも他国の属領に軍隊を派遣していること、そしてこれらの行動が(世界で)大目に見られていることなどが論議された。

 これに対し他の政府指導者は、“そうした推論は誤りである。アメリカとイギリスは南方油田の占領を侵略行為そのものとみなし、日本の大規模戦争計画、すなわち、対ソ戦争との関連を考慮することなく、個別のものとして対応するであろう”と主張した。

 最終的に、この後者のグループの意見が通った。すなわち、ソビエトに対する攻撃は南方油田占領の口実にはならないと判断された。採るべく途はアメリカとイギリスを攻撃することであった。若松中将によれば、これが真珠湾攻撃を決定するに至った政府内討議の経過であった。

 実際に行なわれた真珠湾攻撃は、シンガポール、グアム、ミッドウェーその他の米英基地――そこからアメリカとイギリスの艦隊は、日本が本土と南方との間に確保しなければならない輸送船護衛ルートに対して作戦を展開できる――を叩き潰すためのものであり、占領を目的としたものではなかった、と若松中将は強調した。

 1941年(昭和16年)12月にアメリカとイギリスを攻撃したとき、日本は、本土の石油備蓄がなくなる前に南方の石油供給源を占領して採取し、そして生産された石油を日本に運ぶための海上ルートを確保する能力がある、と過信した。その後の3年間にわたる事態の推移は、それがいかに誤算であったかを暴露した。

(本項の引用終わり)

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2008年5月 8日 (木)

なぜ日本は戦争に突入したか①

 原油の先物価格が、食料品などをまきこんで果てしない暴騰を続けている。もはや世界の経済秩序を破綻させる寸前まで来ていると言えば過言になるだろうか。これを機会に、「アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・科学部報告」の冒頭にある「なぜ日本は戦争に突入したか」の部分を読み返してみたい。

 以下のテキストは、『日本における戦争と石油』奥田英雄・橋本啓子訳編(c)石油文化社、による。

 “何が日米間の戦争の最後の引き金となったのか?”という質問に対して、海軍軍務局長保科(善四郎)中将は1945年(昭和20年)にこう答えた。“石油の輸入停止である。石油なくして日本は生きることができない。石油なくしては、中国との戦争を成功裡に終結させることもできず、国として生き残ることもできない。ゴムやボーキサイトの供給も絶たれたが、いずれもなくてはならなぬ物資であった。1941年(昭和16年)11月26日にアメリカから最後通牒を受け取ったとき、われわれはもはや一国家として存続することができないと決断した。そこでわれわれは戦ったのだ”

 ほとんど石油のない日本は、すでに1939年(昭和14年)に外交的には解決できない石油ジレンマに直面した。なんなく征服できると予想したいわゆる“支那事変”は、勝負のつかない消耗戦という膠着状態に陥っていた。この年(39年)日本の内閣は、中国における作戦が日本の総生産の40%を消耗し、高価な原材料(とくに石油)の在庫を危険なまでに食い潰しはじめていることを知らされた。

 一方、ヨーロッパでも戦争の危機が迫っていた。そしてアメリカでは、石油を日本に無制限に販売することに反対する世論が高まりつつあった。こうしたアメリカの犠牲の上に成り立っていた日本の近代の戦争体制は、アメリカからの石油供給が切断されると、もはや身動きができなくなり、何もできなくなるにちがいなかった。

 日本の1937~38年(昭和12~13年)間を特徴付ける矢継ぎ早の緊急対策や立法措置は、送ればせながら日本がこの窮地(石油ジレンマ)に気付いたこと、そしてその解決のために、いささか狂気じみた対策を採りはじめたことを物語るものであった。

 まず最初に支那事変の解決が試みられたが、中国は日本軍の同国からの撤退なくしては、平和条件に応じるはずがなかった。一方、日本は面目を失うことなく、中国から軍隊を引き揚げる術がなかった。そこで日本は中国へこれ以上侵略することを辞めて、すでに占領している地域の安定を強化することを決定した。

 しかしこの作戦は、現実には石油消費を増大させる結果となった。かくて日本は総合的な生産力増強を目的として、5カ年計画、兵器増産のための6カ年計画、人造石油生産設備増強のための7カ年計画など、一連の政策を設定し、1938年(昭和13年)には日本を完全な戦時体制下におくための国家総動員法を制定した。

 とはいえこれらの政策は、いずれも日本の石油ジレンマを解決するものではなく、石油備蓄は1938年(昭和13年)以降目立って減少した。オランダ政府との間にオランダ領東インド(現インドネシア)からの割当量増加を要請する交渉が行われたが、成功の見込みはほとんどなかった。(以下次回に続く)

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2008年5月 2日 (金)

狂乱物価

 この言葉は、1973年に起きた第4次中東戦争でアラブ産油国が石油を武器にという発想で、石油輸出を大幅削減するということから起きた国内の物価高騰をいう。しかしこの時期、景気のピークに来ており、中東戦争の直前の9月の物価水準が、前年同月比で卸売物価18.7%、消費者物価で4.6%という、朝鮮動乱以降最高水準の高騰ぶりをしめしていた。

 そこへ原油が4倍に値上がりするということで、なぜかトイレットペーパーなどの買い占め客がスーパーなどに殺到、品切れになるなどの騒ぎになった。石油の安定供給を口実に、通産省は輸入統計、生産調整、卸売価格など石油業界に対する様々な行政指導を行った。『石油インフレ』(朝日新聞社)はこう証言する。

“危機”の虚像をつくりあげた犯人の追及が始まった。石油業界が、独占禁止法違反のヤミカルテルを結んで石油不足を演出し、不当な値上げをはかったというカドで公正取引委員会に告発され、東京高検から起訴された。これはカルテルを「悪」と感じない日本の経済界への「一罰百戒」の色彩が強いが、反面、さながら中世の魔女狩りを思わせる。天災や疫病に魔女の犠牲が求められたように、“危機”に対応できなかった政府が、石油業界だけを魔女として引き立てることによって“犯人捜し”に幕をひこうとしているかに見える。

 価格決定の会議に通産省の役人も出席していた、つまり今で言う「官製談合」のようなものがあったらしいが、不問に終わった。今のところ、福田総理はひたすら「混乱の責任」をお詫びしているが、これから相次ぐ諸物価の値上げが、いつ狂乱物価を生むかもしれない。

 それに犯人捜しがつきまとうことも避けられないだろう。その際、どこに「魔女」を求めるのか、今からひそかに筋書きが練られているとするとそら恐ろしい。

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2008年4月28日 (月)

周防国

 山口2区の衆院補選は、民主党の平岡秀夫氏が当選した。熱心に応援された「とくらBlog」さんともどもお喜びを申し上げたい。安倍晋三元総理の選挙区は、同じ山口県でも隣の長門国になる。長門と言えば、尊王攘夷から薩長とか長州閥などという言葉に結びつき、何か閉鎖的、権力主義的な印象がつきまとう。

 周防国のイメージを私的に言うと(実は先祖は違うがブログ主の出生地である)国際色豊かな明るい雰囲気がある。瀬戸内海特有の風光をそなえる一方、先日来話題となった岩国の米軍基地があり、戦前はこの地域に海軍工廠を設け、鉄鋼、造機、石油精製などの工場も立地して、海外と行き交う船が多かった。

 古代のことになるが、608年、隋の皇帝は聖徳太子が遣使朝貢した返礼として裴世清を日本に派遣した。その紀行文として『隋書・倭人伝』に次のようにある。
 「対馬国を経て大海を渡り壱岐国に至る。また東に筑紫国(九州)に至り、また東に秦王国に至る。その人華夏(中華)と同じで夷洲とはここか。疑わしいが不明である。又10余国を経て海岸に達した。筑紫より東は皆倭に附庸している」

 この、秦王国の真相はいまだに分からない。筑紫の次に出てきてそのさきの各国もすべて倭である、といった書きぶりから、どうも周防あたりのような気がしてならない。また、中世にこのあたりを制覇していた大大名の大内氏は、『大内義隆記』で560年頃にやってきた海外出身者であることを公言していた。

 「誠ニ由来ヲ申セバ、百済国ノ王子琳聖太子ト申セシガ、日本国周防国多々良ノ浜ヘ定居二年に来迎シ大内ニ住居シ玉ヒ、……」といい、これも真偽不明だが対朝鮮・明国貿易に優位を占めるためこの説を大いに利用していたようだ。これが京都に負けない文化と繁栄を山口にもたらす一因にもなった。

 以上は選挙区における平岡代議士の誕生に何の関連もないが、懐古改憲派の元総理安倍晋三が支援する候補を、9条改定を阻止してくれそうな平岡氏がうち破ったことを内心密かに喜んでいる。

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2008年4月14日 (月)

黒船来航

ナゴラン(沖縄県名護市原生)2008_04110003

吾妻路に 花開かせむ 名護のラン

 服部之総(1901-1956)という史学者がいた。歴史家なのか経済学者なのか科学者なのか文筆家なのか私にはよくわからないが、寺門の出ながらマルクス主義者で、とにかく多才な人という感じを持っている。昭和28年(1953)、雑誌『新しい世界』3月号に「黒船来航」という一文を寄せていおり、始まったばかりの日米安保体制をこのように見立てている。

     日本開国の先べんをつけたアメリカが、
    その直後に起こった南北戦争に手をしば
    られている間に日本貿易の果実はイギリ
    スの手に帰した。(中略)だがアメリカは
    日本を水先案内人とするアジア進出の野
    望をとげようとして乗り出してきた。その
    最初の現れはグラント将軍の琉球問題
    あっせんで、台湾征伐以来反目してい
    る日本と中国の間に仲裁者として登場
    した。

     ついで朝鮮にたいしては、日本を水先
    案内人としてイギリスに対抗した。この
    英・米の対立競争を巧みに利用したと
    ころに陸奥宗光外交が不平等条約の改
    正に成功した秘密がある。

     ポーツマスでアメリカが日露戦争の仲
    裁役を買って出たのも、ペリー来航以来
    一貫してもっていた「日本を足がかりにし
    たアジア進出」という年来の野望をとげ
    ようとするこんたんであったといえる。

 さらに項を変え「第二の開国」と題して続ける。

     百年来のこんたんを百年目にちょうど
    実現したものといえようか。それがサン
    フランシスコ条約であり、日米安全保障
    条約であり、行政協定であり、また批准
    されようとしている日米通商航海条約だ
    ということができよう。百年まえ黒船が
    きたときに、われわれの祖先は直感的
    に祖国の独立がおびやかされることを
    感じとった。尊王と結びついたために
    ゆがめられた形で表現されていたが、
    それは半植民地化の危機にたいする
    愛国の本能である。(後略)

 さて、それから半世紀、現状はどうなったか。「行政協定」は国会承認の手続きなしに米軍に基地を提供する内容を含むものであったが、今は「地位協定」と呼び変えられ、駐留軍に日本の法律が及ばない、外交官なみの特権が与えられているなどの治外法権がそのまま承継されている。

 その評価については、基地問題をかかえる地域住民などをのぞき、保守政治家を中心に既成事実としてアンタッチャブルになものとして考えられてはいないか。それに、生まれたときすでに日本がこの状態にあった若年層が、維新の志士のような発想・着想を持たないことも気がかりである。

 なにも、そのまま服部のように考える必要はない。しかし、すくなくとも今後の50年を展望し、百年のスパンで日本の将来を考える「真の愛国者」がいないものか。そういった政治家の出現に日本の将来をかけるしかない。これが私の悲願である。

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2008年4月 8日 (火)

亡国の山河

  中野正剛・船旅日記『亡国の山河』(「日本及日本人」より)

 上海、香港、新嘉坡(シンガポール)、マラッカ、彼南(ペナン)よりコロンボに到るの間、吾人は何を目撃せしか。嘗て孔子を出せし国の末路や如何、嘗て安けらく緑陰に眠りし馬来(マレー)人の現状や如何、嘗て釈迦を出せし民族の後裔や如何。途中に車輪の轣轆たる(れきろく=車輪のきしる音)あり、車上に揚々たるは皆白膚碧眼の人なり、車前に鞭を執り輪下に塵に塗るゝは、皆吾人と眉目相似たる有色の民なり。(1915年)

 帰国後ジャーナリストを経て衆議院議員となる。アジア主義を唱え後にファシズムに共鳴する。東方会を組織するが一匹狼的な右翼政治家として活動。

  戦中も大政翼賛会の推薦を受けずに当選して、「天下一人を持って興る」と題した講演などで東条首相の官僚統制失敗を追求、1943年10月には倒閣工作をしたという理由で検挙された。

  議員としての不逮捕特権があったものの、釈放された日の深夜に割腹自殺。東条側近の憲兵隊長に殺されたという噂もある。

 中野が生きていたら、今の中国・インドの興隆をなんと見るやら。また日本の現状をどう解釈するだろう。おそらく今の靖国神社賛美派右翼にはない、将来を見据えた斬新な視点を示すような気がする。

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2008年3月29日 (土)

刀伊の乱

 チベット動乱の報からほぼ2週間、当塾にとっては「天文学的数」のアクセスがあったが、予想通り急減してほぼもとどうりに近くなった。コメントも膨大だったがすべてを拝見した。そもそも「反戦塾」という名がいけなかったようで、検索かなにかでひっかかったのがもとでリストにあげられたらしく、平和団体と勘違いしたもの、記事に関係ないもの、意味不明のもの、事実に反するもの、マナーに反するもの、なにしろ数が多すぎるのでいちいちリスポンスはしないことにしていた。

 最後(このエントリーでは最後にしてほしい)に来たのが「通りすがり」さんで、再び通りすがることはないかも知れないが、「刀伊の乱」「元寇」「朝鮮戦争における海上保安庁職員の戦死」「竹島」「対馬」などを無視して9条をいうのはおかしい、というような趣旨である。

 これも、何がいいたいのか最初はわからなかったが、「塾」と名をつけるなら歴史について公正に記事を取り上げるべきだ、というご忠告かも知れないと見た。実は、上にあげた各事項はすべてこれまで当ブログで取り上げたことがある。ただ最初の部分がプロバイダー変更のためすでに消えてしまった。よく読んでからコメントしてほしい、といいたいところだがネット上は不可能になったので、ひとつだけ再録しておこう。

刀伊の乱の詳細はこちら
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2006-07-15
和冦 1
私本・善隣国宝記

 鎮西の凶党等数十艘の兵船を構へ、彼の国の別島に行きて合戦し、民家を滅亡し資材を掠め取る。行き向ふ所、半分ばかり殺害さる。其の残り、銀器などを盗み取り帰り来たると。朝廷のため太(はなは)だ奇怪なる事か。

 以上は、歌人・能筆家として有名な藤原定家の嘉禄2年(1226)10月17日の日記(『明月記』の一節である)。いわゆる「和冦」のはしりであり、これに対する高麗の抗議文も、翌年5月14日付の『吾妻鏡』にのっている。そしてこのあと、朝鮮や中国の国運を左右するほどの影響を与えるようになる。
 
 「和冦」とはいわないが、朝鮮古代の史書『三国史記』には、紀元前50年から6世紀までの間に、倭人の侵犯事件が30数回記録されている。中には「掠海辺民戸」とか「掠取生口而去」という説明も散見され、伝承で不正確なものとはいえ、倭人による沿岸の海賊行為の根は深い、といわざるを得ない。

 もちろん、日本沿岸が襲われた事件もある。しかし、北九州一帯を襲った1019年の「刀伊の乱」(死者462人、拉致被害1289人)以外は、小規模なものが数えるほどしかない。戦前から、和冦の原因を元寇の報復だとか、敵情視察だったという説を立てる人がいた。元寇以前から存在し、日本の当局も困惑していることなので、身びいきの過ぎた見苦しい言い訳けだ、というほかない。(後略)
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2008年3月26日 (水)

弁髪

留頭不留髪 リウトウプーリウファ
留髪不留頭 リウファプーリウトウ

 日本ではいろいろな読み下し方があるようですが、「髪を剃っている人は体に頭をとどめるが、髪をとどめたままの人は頭を切り落とす」といった意味です。17世紀中頃、満州から侵入した清王朝が、中国人(漢民族)に弁髪、つまり後頭部だけを残して髪を剃り、その髪を長く編み上げて後ろに垂らす髪型を強制した時のことばです。

    清朝は揚子江流域を平定すると中国人に髪
    を剃って、満州族の弁髪に改める命令を発
    布した。人種の差異はあまり気にしなかった
    中国人も、頭髪を結い上げ、冠をかぶるこ
    と、つまり衣冠の風俗は絶対に護持せねば
    ならぬ中華文化の伝統と考えていた。この
    命令が下ると、中国人ははげしいショックを
    うけ、各地に猛烈な反満の反乱がおこった。
    (貝塚茂樹著『中国の歴史、下』より)

 ここに至るまで、他の侵略・征服の例にもれず、大略奪・大虐殺があり軍民80万人がいけにえになりましたが、このいまいましい記憶が『揚州十日記』などの書物でひそかに受け継がれ、250年後の中国近代革命を導く原動力になったといいます。

 今、チベットの人が同じ思いをしていないでしょうか。そうでなければいいのですが、力づくの政策は結局何百年たっても後世に禍根を残します。どうか、よく言われる「歴史に学ぶ」の精神で中国の政策を進めていただきたいものだと念願しています。

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2008年3月25日 (火)

古代史教育

 10日ほど前だったように思うが、小学校の教科書では古代史の始まりを弥生時代からとし、縄文時代をカットしていたいることについて考古学会が文部省に働きかけ、これを復活させるような報道があった。当然なことで、今までなかった理由がよくわからない。

 子供が、宇宙に関心を持つのは、その先はその先はと想像を馳せ、知識を深めていくからだ。生物の先祖として恐竜も人気の的である。そこまで行かなくても、日本史を語るためには、縄文時代は欠かせない。1万年ほど続いたこの時代の遺跡は、ほとんど日本全国どの地域にもある。
 
 私たちはどうだったか。歴史として系統的なことは習わなかった気がするが、国語、修身などを含めて神話で教育が始まった。イザナギ、イザナミの国生み、アマテラスの天の岩戸かくれ、神武東征と即位など。大人になってから『日本書紀』『古事記』を読み返してみたが、至る所に人間的な寓話があって実におもしろい。

 皇国史観洗脳のためのサマリーでなく、エッチな話も含め、神話として小学生に教えたいような気もしないでもない。いずれにしても、その先その先への興味を封じ、また近代の正しい歴史をはしょる歴史教育が、歴史に関する興味・関心を奪い、バランス感覚のない教養欠陥人間をつくってしまう。

 いささか前置きが長くなったが、23日は久しぶりに「日本海沿岸の古墳出現前夜」というシンポジウムを聞く機会があった。縄文時代に直接関係はないが、いわゆる弥生中期から、卑弥呼出現の頃にかけての文化の伝播、それが拙著『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』に関係あることと、最近提唱されている弥生時代の新しい年代観(炭素半減期測定などから、弥生時代はこれまでの説より数世紀さかのぼれるとする)に言及があるかどうかに関心があった。

 結局、年代観の話は出なかったが、依然として謎の多い弥生時代の実態について、住居址や墳墓と埋葬物の精密な追求を通じた5人の研究者のレポートは、それなりに刺激的で、今後の進展・解明の手がかりを多く提供するものがある、と感じた。

 まず、朝鮮半島南部の墓制や副葬品と九州北部の関係、それから山陰、丹波、北陸、越後などにおけるそのような遺跡・遺構の変遷である。それぞれに一貫した連続性は見られないし、人の集団移住を示すような同一性を証明できるようなものでもないようだ。

 しかし、全く同一なものもあり、副葬品の傾向も影響を受けたとしか考えられないことを証明できるものがあるという。はっきり言えることは、交易かその他の方法による人の交流があったことにつきる。弥生中期の高地性住居址についても議論があった。

 水耕稲作の普及により、耕地や水源の争いなどで戦争続発、魏志倭人伝のいわゆる「倭国大乱」の時代で平地から移住したような解説がこれまで多かった。しかし、高地住居が増える時期に低地住居も増えていたり、スライド写真や図面を通して見た、環壕の付け方や面積・位置などから「そうかなあ?」と思えるものが多かった。

 といったわけで、明快に「それはこうです」と断言できるような結論は聞けなかった。しかし学問であろうが、政治であろうが、国際問題であろうが、高らかにうたいあげる声明・宣言のうさんくささより、中途半端なところよりひとつひとつ積み上げていく方向性に信頼と期待を寄せたい。

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2008年3月13日 (木)

不穏言動調査

内務省警保局不穏言動調査(『近代庶民生活誌』④三一書房より一部抜粋)

★昭和18年9月より19年3月に至る間

○戦争は陛下が勝手にやつてゐるのである。やるなら市民大会でもやつてから始める可きである。勝手にやつたのだから債権を購入する事は出来ぬ(検挙)  (職工 栃木)

○近頃は酒どころじゃない、米もろくに食えぬ様になつたし鍋釜まで売つて戦争をせにやならん様じや日本も負けじや、大体政府のやり方が悪い、無能ばかりじや、天皇陛下は道を歩くにも一人歩きはせず、雨が降つても人に傘をさして貰ふ、こんなものこそ飯を食はんでも良い(検挙)  (労働者 大分)

○こんなに骨を折つて子供を育てゝも大きくなると天皇陛下の子だと言つて持つていかれて仕舞ふものだもの嫌になつて仕舞ふ、子供を育てゝも別に天皇陛下から金を貰ふ訳でないのに大きく育てゝから持つて行くなんてことをするのだもの天皇陛下にだつて罰が当たるよ(検挙)  (無職女 栃木)

○長男を昭和十二年十二月西安にて。次男を昭和十七年五月ソロモン方面にて失ひたる母親、次男戦死の公報に接するや「二児を失ひたるは天皇陛下の為なり」とて畏くも陛下の御肖像及び掛軸を取外し、之を足蹴にす、(検挙)  (戦死者母 秋田)

○詔勅の中に「万邦をして各々其の所を得しめ兆民をして其の堵に安ぜしむ」と天皇陛下は仰せられてゐるに拘らす、支那や米英と戦争する事は無意味であつて巧言麗色となりはせぬか、詔勅には美辞麗句を連ねてあるが世界は相手にしないではないか(検挙)  (会社々長 兵庫)

○道路上に於て新聞紙に謹写掲載しある天皇陛下の御写真を二つ折りとし、之を首に吊し遺骨帰還を模倣する悪戯を為す(検挙)  (国民学校児童 島根)

○名古屋市元新聞記者戦死の公報を受くるや親戚知己、戦死者の友人に宛
    拝啓御無沙汰致し候予て出征中の愚息小尾正事十二月十一日南支広東省沙頭方面に於て所謂名誉の戦死否犬死を致し申候ああ二十四歳の若桜人生の春にも逢す無理に散らされ申候、家庭共は経をあぐる代りに写真を前にして泣いてばかり居り候 今更戦争の大罪悪なることを心より痛感致し候あゝ

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2008年3月11日 (火)

謀略と独断専行

 今年は、張作霖爆殺事件からちょうど80年目に当たる。時の総理は田中義一。昭和天皇誕生の直後から2年2カ月余り、張作霖事件処理の甘さから天皇の不興を買い辞職するという、珍しいケースを残した宰相だ。今や、911をはじめとする謀略論議かブログ上を行き交っているが、田中内閣当時はまさに謀略全盛時代といってよく、その後の暗い世相と戦争への道を予告するかのようである。

 張作霖や日本の関東軍(日露戦争以後、中国がロシアに与えていた租借地や鉄道利権を奪い、その防護を目的に派遣されていた)について語ると膨大なものになるので、陰謀の内容と関東軍の思惑のサワリだけ紹介しておくことにしたい。

 なお、文末に当ブロ区前身の「反戦老年委員会」で記事にした<「田中上奏文」の怪>を、謀略多発の例として再録する。また、その中で「張作霖謀殺はソ連諜報機関のしわざ、と主張する人」と書いた部分があるが、それは櫻井よしこ氏のことで、こういった主張は、秦郁彦氏などの反証のせいか最近ほとんど聞かなくなった。

 当時の中国は、国とは名ばかりでちょうどアフガニスタンが地域ごとに軍閥が実権支配しているのをもっとひどくしたような状態で、それぞれの実権者を日、米、英、仏、ソなどがひそかに支援したり買収したりしていた。そのため交戦や権力の移動が絶えず、裏切りも日常茶飯事のことだった。

 満州に地盤を持つ張作霖には日本のてこ入れがあり、一時は北京を支配する勢いを持っていた。しかし、国民東軍の北征の勢いに抗しきれず満州への撤退を覚悟する。その途次、列車爆破事件が起きたのだ。関東軍も張を支持するように見せかけておき、実は当時の市民の反日意識に配慮しはじめていた張を消して、満州を全くの傀儡政権か関東軍の直接支配に移そうとした。

 謀略はこのように進んだ。モルヒネ患者のならずもの2名と王某の3名を100~150円を与え、散髪と入浴をさせてサッパリした服に着替えさせた。移動の途中で王某は逃走した。残る2名に「爆弾を投げる役だ」と告げ、国民政府要人に対する密書を持たせた。現場に着くと両名は日本軍兵士に斬り殺され、かねて用意の爆弾を遺体とともに橋梁下にセットされた。爆薬は某大尉のスイッチで爆発し、張の乗る車両を粉砕した。

 関東軍はシラを切って遭難事実だけを発表したが、あまりにもあまりにも多くの物証を残している。また爆薬も人が投げるにしては大量すぎる。逃亡した王某の証言や実行前に寄った風呂屋の証言もある。そこらは、日頃傍若無人になれている軍人の浅知恵計画だったかも知れない。新聞は、軍に遠慮して「満州某重大事件」と報道したが、関東軍の謀略であることには気づいていた。

 田中首相が天皇に責任者の厳罰を約束していたのにもかかわらず、関東軍の反発をさけ、首謀者の関東軍高級参謀河本大作大佐を退役処分にしただけのあいまいな処分しかできなかった。潔癖な天皇に、「やめたらどうだ」といわれた所以である。そういった軍部の独走はその後も続くが、どこから始まるのだろう。島田俊彦『関東軍』(講談社学術文庫)から引用する。

      元来陸軍には、明治三十三年(一九〇〇
    年)の義和団事件鎮圧を目的とする中国
    出兵のときから、国外出兵の場合は閣議
    での経費支出の承認と、奉勅命令の伝宣
    を必要とするという慣例があった。だが一
    方『陣中要務令』では、日本陸軍は上、軍
    司令官より、下、一兵にいたるまで、独断
    専行、機宜に応ずるための修養訓練が極
    度に要求され、いたずらに命令がくだるの
    を待って機を失するようなものは天皇の統
    率する軍隊の列に加えることができない、
    と教えている。

再録】 
「田中上奏文」の怪

 昭和のはじめ、中国は幾多の軍閥、政治勢力が覇を競い合い、恒常的な内戦状態にあったといっていい。曰く蒋介石、汪兆銘、張作霖、毛沢東、張学良などなど、そしてそれぞれの勢力は時には手を結びあるいは反発しあい、諸外国に援助を求めたりまたは特権の放棄を要求するなど、文字通り「麻のように乱れていた」といえる状態だった。

 その中で、日本は遼東半島と満鉄などを足ががりに「満蒙は日本の生命線」と称してじわじわと勢力範囲を拡張し、居留民保護などの名目で山東省への出兵を3回も繰り返した。当然、中国人民の激しい抵抗や反発を受け、衝突による死傷者の増大は避けることができなかった。

 鉄道爆破による張作霖爆殺事件が起きたのはこういった時期のことである(1928年・昭和3)。また、これが関東軍の謀略であるということも時を経ずしてわかった。時の田中義一首相といえば、この事件の責任追及を完遂できなかったため天皇の不興を買い、内閣総辞職するはめになったことで有名である。

 今回のテーマ「田中上奏文」はこれと関係ない。最近1史料をもとに、張作霖謀殺はソ連諜報機関のしわざ、と主張する人がでてきた。あとで1史料が出てきたからといって、歴史が書き換えられるわけではない。史料の普遍性や幾多の傍証に支えられるものでなければ、創作か怪文書扱いである。

 怪文書とは、ある目的をもって偽造、捏造された文書のことを言う。最近は文書に限らず映像までこれに加わった。怪文書はあくまでも怪文書であり、「歴史」とは無関係である。9.11の爆破自作自演説なるものもあるらしいが、通常ならこれは歴史になり得ない。しかし、世界各国の多くの人がこれを真実と信じるようであれば、その現象の背景にあるものを探索する意味はある。

 「田中上奏文」も、これと似た位置に置かれている。日本では戦前すでにこれが偽作であるということで決着しており、東京裁判でも「にせもの」という判断が下されている。歴史書でも全然触れないか触れてもわずかでしかない。そこでまずその概略を説明しておこう。

 昭和2年4月田中内閣が成立し、6月に外務・陸海軍当局者で構成する東方会議を開催して、対中国強硬策を決めた。その内容を天皇に上奏するためと称する厖大な文書がそれある。これには宮内大臣宛の代奏要請書簡がついているが、元来その任務は内大臣の担当であり、これが偽書説の有力な理由となっている。

 文書の内容は、満蒙政策を中心に21項目2万6千字にわたるもので、もし本物なら異例のボリュームと内容になる。そして問題になったのは、「支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲すれば、必ず先ず支那を征服せざるべからず」という文言があり、その後の日本の行動がほぼその線に沿って進んだことである。

 このような露骨な征服野心丸出しの方針が、天皇を含めて昭和のはじめからあったとすれば、「追い込まれたためやむをえず戦争にまきこまれた」などという口実などスッ飛んでしまう。そして間もなく中国語、英語、ロシア語に訳されたものが出回りはじめ、各国の新聞