歴史

2018年12月10日 (月)

明治の元勲

明治150年はあと残すところわずか。元勲とされる人のうち今年活躍したのはテレビドラマの「西郷どん」程度というのはちょっとさびしい。

◆京都出身[公卿]
  岩倉具視
  三条実美
  西園寺公望

◆薩摩(鹿児島)出身[武士]
西郷隆盛
大久保利通
小松清廉
松方正義
黒田清隆
大山巌
西郷従道
島津久光
島津忠義[大名]

◆長州(山口)出身[武士]
大村益次郎
木戸孝允
前原一誠
広沢真臣
井上馨
山縣有朋
伊藤博文
山田顕義
桂太郎
毛利元徳[大名]

◆土佐(高知)出身[武士]
佐々木高行
福岡孝弟
板垣退助
後藤象二郎
田中光顕

◆肥前(佐賀・長崎)出身[武士]
副島種臣
大木喬任
江藤新平
大隈重信

 ◆肥後(熊本)出身[武士]
横井小楠

◆紀州(和歌山)出身[武士]
 陸奥宗光

◆幕府出身[武士]
 勝海舟

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2018年12月 4日 (火)

沖縄人の心に土砂投入

 今朝の朝日新聞の書き出し部分

 安倍首相が繰り返し口にしてきた「沖縄の皆さんの心に寄り添う」とは、つまりはこういうことだったのか。

 沖縄県の米軍普天間飛行場の移設をめぐり、岩屋毅防衛相は名護市辺野古の沿岸部に基地を造るため、今月14日から土砂の投入を始めると述べた。

 9月の知事選で県民は「辺野古ノー」の意思をはっきり示した。にもかかわらず工事を進める政府をただすため、県が国地方係争処理委員会に審査を申し出た矢先の表明である。

 土砂は、同じ名護市内だが東シナ海側にあるセメント会社の岸壁で積み込み、島の北端を大きく回って辺野古の海に投入される。

 それが、海ではなく「うちんちゅう」の「こころ」の中に投げ込まれることになることを、政府はどれほど気づいているだろうか。

 明治150年に当たり、幕末以来取ってきた薩摩藩の行動や西郷隆盛の征韓論などをしっかり復習し、さらに先の大戦に払った犠牲にまで思いをいたせば、とてもできることではない。

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2018年11月 3日 (土)

「入管難民法」

(共同通信)

政府は2日、新たな在留資格を創設し、外国人労働者の受け入れを拡大する入管難民法などの改正案を閣議決定し、衆院に提出した。野党だけでなく与党にも異論が根強い中、焦点となっている受け入れ対象の業種や規模は、臨時国会で審議が始まるとみられる来週にも公表する予定だ。

政府は会期末までに成立させ、年内に制度の意義を盛り込んだ基本方針を閣議決定し、外国人の生活環境整備を急ぐ。制度の詳細が固まっていないなど課題は多く、施行日とする来年41日までに準備が間に合うのか未知数だ。

新設の在留資格は一定技能が必要な業務に就く特定技能1号と、熟練技能が必要な業務に就く同2号。

身の回り、散歩をしていてもはっきり外国人が多くなったなということを感じる。「在留資格」のある人か帰化人かそこまではわからない。

上の法律に、右翼っぽい人は反対のようだ。万世一系の皇統のもと、純粋な「日本人」を信じて疑わない連中である。先祖は天から下ってきたと思っている。

そんな証拠はないので、歴史や考古学を信じるしかない。大陸からいろいろな時期にいろいろな方法で人々が渡ってきた。

そして確認できる最初の文化が縄文文化だ。次の弥生文化は多分朝鮮半島経由で多数の移住者によりもたらされた。その混血が進みさらに歴史時代に入っても流入は続く。

平安時代のはじめ、弘仁年間(814年)朝廷で編纂された「新撰姓氏録」に掲載された一定の資格をもった家柄1059氏のうち大漢・三韓之族「諸蕃」に分類された渡来人系は324氏で、ほぼ30%に当たる。

その多くは、朝鮮半島に遠征したとされる神功皇后の次の代、応神・仁徳の頃にはじまる。難波の開拓に当たった土木工事の技術者・労働者のほか「今来の才伎(いまきのてひと)」と称される史(ふびと=漢字に堪能で記録をつかさどる)や、今でも姓として残る錦織・秦(織物技術)そして陶芸・工芸・芸能の専門家が多かった。

一時、入国管理が厳しくなったのは聖徳太子が隋との国交を開いた推古朝の時代である。難民を阻止したり病気を疑って入国拒否にあう者もでた。

その後再び渡来人が増加するのは、663年天智天皇の時代である。百済救援を名目に出兵して白村江で唐・新羅軍に大敗したあと唐軍の捕虜や百済難民の殺到などがあった。

壬申の乱を経て天武時代に日本書紀の編纂が開始される。その編集スタッフに音声博士と称される専門家が複数加わるが、新たに渡来した唐人ではないかという研究もされている。

いずれにしても、こういった人々を外国人扱いしたり区別する伝統は日本になかった。

冒頭の記事を見るにつれ、「複合民族・日本」の過去をあらためて思い起こすことになるのである。

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2018年10月27日 (土)

安倍首相と国学

日本の古代史を丹念に追っている本を読んでいたら、魏志倭人伝などは、距離、方向感覚がでたらめでB級史料に過ぎず、A級史料の『日本書紀』を信用すべきだとする学者・研究者の意見を紹介していた。

そして現在の歴史教科書は、魏志倭人伝を重視しすぎており、前漢書、後漢書などに倭国の朝貢記事を書いているのに、日本書紀には相応する記録がないことから中国文献は疑わしいとか、天照大神をはじめ日本神話の記載がないのは、日本史として異様という批判に続く。

塾頭は、神話や忠君愛国物語を修身や国史の時間に習った。考古学、縄文・弥生などの知識は戦後になってからだ。占領下も概して歴史教育は冷淡に扱われたように思う。

それがかえって「自分で勉強しよう」となったのかもしれない。中でも、日本書紀は、原文、読み下し文、解説が書かれた岩波文庫・全巻を持ち、繰り返し目を通している。魏志倭人伝などに関連する九州・奈良県などには複数回足を運んだ。

歴史史料を見る時は、史料ができた時、作った目的や背景そして誰によって作業が進んだかなどに留意しなければならない。違う時代の資料を突き合わせて優劣を論ずるようでは、論考自体の権威が疑われる。卑弥呼より前には日本に文献資料などなかったのだ。

どうして、こういう発想に至ったかを考えているうちに浮かんだのが「国学」という言葉である。徳川幕府ご推奨の学問は儒教である。それに飽き足らない本居宣長らが江戸中期に国学を起こし水戸光圀の水戸学がそれを継ぐ。やや遅れて幕府の妨害にもかかわらず蘭学が隆盛期を迎えるようになる。

尊王攘夷、大政奉還は本来国学の目指すところであった。しかし、開国、文明開化は国学の精神と相容れない。それが再び顔を出すようになったのは、時期として教育勅語発布の明治23年(1890)以後であろう。

國學院ができたのは、この年である。同校には神社本庁の神職の資格が取れる神職課程がある。大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学のみで、国学には神道の宗教色を強めるねらいがある。

有力私大の慶応・早稲田・明治・法政などができたのはそれ以前で、いずれも独立自治、権利自由、文明開化などを建学の精神としている。

拓殖大学は明治33年で、日清戦争の結果日本に編入された台湾の同化、つまり植民地経営に資する目的があり、国学にもアジア進出という違った解釈が必要になった時期に符合する。

実は、この項を書こうと思った動機は、安倍首相が訪中して中国と国際関係で共同歩調をとるという変貌ぶりをどう見るかというところから出てきたもので、大学の名称は余談になってしまった。

安倍首相の思想の根底にあるのは、改憲であろうと靖国神社奉幣であろうと「国学」が基礎になっているのではないかと思っていた。それは、「脱中国」である。ところが日本書紀は漢文で書かれており、教育勅語の忠孝や徳の価値観は、朱子学の説くところと共通する。

いずれにしても、純粋な国学復活には無理があるという結論で、首相のいう「美しい日本」の中味が何であるかを確かめておく必要がある。

現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きたひとたちに対しても責任をもつ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたのかについて、プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神ではないか、と思っている。(安倍晋三『美しい国へ』27P)

なんだか、よくわからない。

 

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2018年10月23日 (火)

「浪士」石油を掘る

 塾頭には『「浪士」石油を掘る』という既著がありますが、この度新刊として再び世に問うことになりました。そこで、「新刊発行にあたって」というあとがきの中から、その要旨を拾っておくことにします。
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今日は慶応から明治に改元して150年目に当たるそうです。政府は記念式典を行うようですが大手紙で社説に取り上げたのは読売だけ。来年は平成からの改元がありすが、日本会議が期待するような盛り上がりはなさそうです。

1868年9月に改元した明治が「そのまま続けば今年が150年目」ということだけでは、歴史を検証するうえであまり意味がありません。その年に改元してなにか画期的なことが起きた、または改元したから起きたという史実がないからです。「明治」という元号も天皇がくじ引きで決めたそうです。

尊王攘夷に始まり海外に目を開こうとした維新の志士というと、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬などがあがります。ところが刑死・病死・暗殺などで命を落としたのは慶応時代で明治の元勲にはなりませんでした。西郷隆盛も西南の役で道半ばにして朝敵に名指しされ、結果を見ずして戦場で命を落とします。

明治維新はいつからいつまでか、定説はないようですが、執筆のため改元前後を中心にいろいろな文献にあたりました。

その結果、「維新」という表現はほとんどなく、一番多いのが「ご一新」次いで「世直し」、幕府サイドの文献にも「回天(天業回古)」「ご一洗」などが使われています。意外に多いのが、かくれた民衆の力を思わせる「革命」です。しかしこれは天皇の権威を高めるためか、やがて中国文献からとった「維新」にとってかわったようです。

明治の歴史書を追っていくと、「王政復古」「文明開化」「自由民権」「有司専制」「殖産興業」「富国強兵」「藩閥政治」など4文字熟語が続きます。40数年の間にそのような変化があったということで、明治時代を「教育勅語」でくくる感覚は、偏見というべきでしょう。

その中で幕府側の尊王攘夷行動過激派・石坂周造は、維新後になって文明の象徴ランプの燃料石油が外国人に支配されないようにと、国産石油の開発に乗り出しました。ところが失敗続きで莫大な借金を負うことになり破産、それを勝海舟・山岡鉄舟の後援と岩倉具視の世話で天皇からの資金融通を得て事業を続けます。

そして、遂に越後の鎌田で大油層を掘り当てました。ここで権利を地元業界に分譲、殖産興業の実をあげることに成功しました。

歴史の流れを止め、一時期を限って観察することが危険であることは常識です。石坂周造は歴史書の上でほとんど無名です。幕末から明治を生き抜いた個人の一代記をたどることで、明治に新たな見地が開かれることができればいいな、と思っています。

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2018年10月21日 (日)

日本武尊

やまとは 国のまほろば 
  たたなづく 青垣
  山ごもれる やまとし 麗し

 倭建命/日本武尊(やまとたけるのみこと)の歌として古事記に載る。低い山に囲まれた大和盆地の讃歌だ。日本書紀では似た歌を景行天皇の御製とする。

 小碓命(おうすのみこと)といわれた若い時、景行天皇から兄が大御食(おおみけ)に出てこない理由を聞かれ、「朝早く厠に入るところを待ち捕えてつかみひしぎ、手足をもぎとって、こもに包んで投げ捨てた」と、まるでサウジの皇太子の話を思わせる乱暴ぶりだ。

 九州に遠征したときは、女装して熊襲建をだまし討ちにし、以来日本建(たける)を名乗る。その帰路でも出雲を平らげた。

 天皇はそばに置くのを危険と見たか、こんどは東方12道の征定を命じた。関東から甲斐、信濃を経て尾張まで危難を潜り抜けてきたものの、大和帰還を前に命を失い、白鳥となって天にのぼる。

 前掲の歌は、大和の景観を懐かしんで歌ったものいうが、若き日の傍若無人ぶりとはどうしても結びつかず、体験した広い日本との対比にしては狭すぎる。

 この話は、すべてが英雄伝説で実在の人物ではないとされる。その、史実でない人をいわれとする小詞が当地にも存在する。

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2018年10月12日 (金)

昭和の人

(『新訂・海舟座談』岩波文庫)抜粋

ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし十年にして人心が一変するよ。水野から阿部、それから井伊ネ、その跡を推して見せると直にわかるテ。しかし、水野、阿部と人をさして言うから、間違うのだ。勢いの移り変わりだから。水野の時は、外国のために準備すると言って、八釜しいことであった。阿部の時には、水戸が勤王攘夷とか言うて、騒々しかった。西郷らが王政復古をしたそのつど、あとから見ると、先の事が馬鹿らしく見える程に、勢いが変わってしまう。

来年は平成最後の年になる。それでは昭和最後の年、平成最初の年には何が起こったか。

国民に初めて消費税が課せられ、ベルリンの壁が崩壊して冷戦が遠のく。さらに昭和天皇と同じ年に亡くなられた方をあげてみよう。10人以上業績や顔浮かべばあなたは昭和の人だ。

1/7昭和天皇(87)、2/9手塚治虫(60
3/20五島昇(72)、 4/10色川武大(60
4/11島岡吉郎(77)、4/14西堀栄三郎(86
4/27松下幸之助(94)、5/2春日一幸(79
6/24美空ひばり(52 6/25尾上松緑(76
7/29辰巳柳太郎(84)、8/18古関裕而(80
9/27
谷川徹三(94)、12/9開高健(58
12/12田河水泡(90

20世紀年表』小学館、より

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2018年10月 5日 (金)

教育勅語の幼稚園児並解釈

今日は、朝日・毎日の2紙が教育勅語を題材にしている。

森友学園の幼稚園で、教育勅語を園児に唱和させているのを聞いて感動した首相夫人が、首相の意をたいするような形で学園の名誉職についたことから同勅語の知名度は上がった。

そこへ教育勅語には、「現代風にアレンジすれば道徳の授業などに使える分野が十分にある。普遍性をもつ部分が見て取れる――」などと柴山昌彦・新文部科学相が就任会見で所論をのべたため、安倍新内閣の体質に危惧感を抱いたのが両紙社説の趣旨である。

これまでも、下村博文元文部大臣・稲田朋美元防衛相が持論としており、首相側近であった柴山氏なら言いそうなことだ。そこに日本会議が「明治の精神」の中核に据えようとしている謀略が見て取れる。

「教育勅語」のフレーズ検索で当塾へのアクセスも増えている。そこで勅語の文体そのものと読み方を掲載しているので参考にしていただきたい。

いつも私ごとで気が引けるが、8年間教育勅語づめの学習経験があり、その後は「戦後レジーム」をそのまま体験している世代だ。安倍首相などとは年季が違う。新聞などの指摘、教育勅語の「一旦緩急あれは義勇公に奉し」の部分だけでなく全体に目を向けてほしい。

教育勅語復活派は、出だしが「朕思うに」ではじまるので明治天皇直接のお言葉のように扱いたいのだろうが、内実は大分違う。明治時代は、中世の南北朝いずれが正しい皇統かが議論となり、天皇の意見を聞いたところ、明治天皇の先祖ではない南朝という答えがあったとされる。

したがって「皇祖皇宗国を肇ること宏遠に徳を樹つること深厚なり」という万世一系論を天皇が信じていたはずがない。「徳」は、後で出てくる「忠・孝」同様、中国・儒教ことに徳川幕府が教養の中心に置いた朱子学のものである。日本古来のものとする証拠が全くない。

当時自由民権思潮が盛んになり、福沢諭吉のような穏便な言論にさえ危機感を抱いた有司は、上からの国論操作を定着させる切り札がほしかった。

そこで当時「勅語メーカー」とか「影の総舵手」いわれた、井上毅らの手により、急ごしらえの案文を練り上げたものである。発布は、第1回帝国議会開会の一か月前、明治23年10月30日であった。

 

 

 

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2018年9月22日 (土)

身についた歴史を

テリトリーに「歴史」などの項目を立て「なにか偉そうな」持論を書いている。それでいいのか、最近の時代の激変にやや自信喪失気味になりかけている。IT技術の方はとっくにバンザイしてしまった。

若かりし頃は、唯物史観、発展段階史観、労働価値学説などの全盛時代であった。その物差しを今でも使ってしないかということが心配になってくる。使っても別に悪くはないが、「帝国主義」「植民地支配」「金融資本主義」などという用語で物を考えがちであることは否めない。

民主主義も、日本の政党のほとんどが「民主」を党名に入れており、かつてのようにキラキラ名ではなくなった。

それならばどの角度から歴史を見るか。近現代の「史観」が現れる前から、日本では、中国古典にはじまり、『日本書紀』『万葉集』『平家物語』その他多くの文献・史料に接することができたしこれからも続く。

その流れの中で史観にとらわれず近世を考えていくのが正道で、祖父母の代、父母の代そして自身の体験や見聞は、そのままが歴史であり、後付けの「史観」で潤色すべきではなかろう。それにも文献・史料が大きな役割を果たす。

公文書の改ざん、秘匿、廃棄が歴史に対する大きな犯罪であることを知らなければならない。それができないようでは、世界に貢献したり国益を守ったりすることが不可能である。

史観は、ひとりひとりの中にあるということを痛感するのである。

 

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2018年8月27日 (月)

明治150年の意義

 拙著に『浪士石油を掘る』と題した幕末・明治を自由奔放に駆け抜けた無名浪士の伝記がある。主人公は、幕府が組織する浪士組の一員だが稀代の暴れ者で、入出獄を繰り返した。

 明治になってから勝海舟や山岡鉄舟の後援で天皇資金を得、越後で石油の掘削に成功する。国産資源開発勃興に寄与したわけだが、薩長土肥(現、鹿児島・山口・高知・佐賀)など「維新」の志士と違ってほとんど知られていない。

執筆のため、当時の文献資料をいくつか調べたのだが、気が付いたのは「維新」という言葉に接することがほとんどないことだ。

一番多いのが「ご一新」「世直し」で、「回天」は幕府側でも使っていた。意外に多いのが「革命」である。「明治維新」がいつごろから定着したのか調べていないが、「維新」という中国古典からの引用に落ち着いたのは、相当後になってからだろう。

昭和になって5・15とか2・26など右翼と青年将校などが組んで起こしたクーデター計画があり、彼らは「昭和維新」を名乗ろうとした。したがって「維新」という言葉は好きでない。

大阪を中心に「維新」をつけた政党・政派が多いのは反中央を意識してのことだろうか。そのせいかローカル政党のようでさっぱり伸びない。

維新150年をクローズアップする企画が政府にあるが、歴史研究に陽をてること自体はいいことだ。しかし「維新」はその本質を誤らせるおそれがあるので取った方がいい。

「紀元二千六百年、祭りは終わった。さあ戦おう!」で、太平洋戦争直前のようにならないよう留意が必要だ。

 

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