歴史

2019年1月28日 (月)

「神の国」のウソ

昨年が明治150年に当たるということで政府主導の行事や研究が華々しく行われるのかと思っていたが結果からすると不発に終わった。明治の歴史を検証することで、安倍首相の政治目的にスポットをあてることができると踏んだのではないか。

明治一代、45年の変化ほどバリエーションに富んだ時代はない。研究すればするほど「美しい日本」の安倍首相流単純思考から遠ざかってしまうのではないか。しりすぼみに終わったのは、それに気がついたせいかもしれない。本当は研究が進むことを塾頭は期待していたのだが――。

ドラマに出てくるような人物と時代背景ならおぼろげながらわかる。ところが天皇に仕える公家出身者はあまりドラマの主人公にはならないので、明治時代にどういう役割を果たしたか知らないことが多い。塾頭もそうだ。

帝国議会前、教育勅語発布の頃までは官軍の主力をなした藩の代表と公家の代表が政治をとっていた。したがって民意を反映するより、若い天皇の権威をいかに高めるかが緊急かつ最重点の課題だった。24日の「統計の責任は天皇だった」や「幻の教育勅語」もその線で描いている。

今回は、前大納言中山忠能を取り上げてみたい。中山は明治天皇の外祖父に当たり、公家の中では長州勢に劣らぬ攘夷強硬派として幕末史に現れる。その一方、公武合体派として和宮降嫁に尽力し、命をねらわれたこともある。幕府を温存したうえ武力を充実させるという現実路線をリードしたようだ。

大政奉還が1867年(慶応310月、17日には早くも新政府の構想が示された。ここに「神祗官ヲ始、太政官夫々旧儀御再興ノ思召」とある。

神祗官は神社を統括する任務を持っていたが中世から有名無実となり、江戸時代にはその役割を吉田神道が家元として代行するなど、始祖や教義のないアミニズム(民間原始信仰)として仏教や儒教の下位に置かれていた。神祗官は満14歳の天皇が思召すことと思えない。

1869年、東京遷都が実現し官制の大改革を機に神祗官、太政官の二官を置き、神祗官を官衛の最高位とした。そのトップに就くのが、公家の中でも穏然とした力を持つ中山忠能である。ここが国家神道のスタートラインになった。

有史以来連綿として続いてきた伝統「天皇を中心とした神の国」というのはウソで、中山は幕府なきあと外圧に抵抗できる精神的求心力確立に腐心し、それをここに求めたのであろう。

明治から昭和にかけて官僚・軍部・政治家がいかにこれを悪用したかは、歴史が示すとおりである。

 

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2019年1月24日 (木)

統計の責任は天皇だった

 朝・毎・読をはじめ今日も各紙は勤労統計不正問題を社説に掲げている。安倍首相のお好きな明治のはじめ、大久保利通はどうしたか。『日本の歴史20』中央公論、から引用しておこう。

 大久保は新設の内務省の充実を急いだ・七年(1874)一月十日公布せられた職制にによれば、「内務省ㇵ国内ノ安寧、人民保障ノ事務ヲ管理スル所」とし、課を勧業寮・警保寮(以上一等寮)・戸籍寮・駅逓寮・土木寮・地理寮(以上二等寮)および測量司(八月三十日廃止)の六寮一司に分かち、内務卿は、「全国人民ノ安寧ヲ謀リ、 戸籍人口ノ調査、人民ノ産業ノ勧奨、地方ノ警備、其他土木・地理・駅逓・測量等」所管の事務について大臣の指示のもとに専決する権利をもち、「而シテ其事務調理スル二於テハ、天皇陛下二対シテ担保ノ責二任ズ」と、諸省卿よりは格段に重い天皇への直接の責任を規定し、いいかえれば諸省卿よりも一段高い権威を与えられ、「特旨解赦恩典ノコト」も内務卿が勅旨を奉じて行うこととした。(アンダーライン、塾頭)

 今は天皇の責任でなくてよかったね、安倍さん……。

 

 

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2019年1月 3日 (木)

箱根駅伝

 正月のテレビ番組でつけっぱなしになるのは箱根駅伝である。別にしがみついてみているわけではない。最近各種駅伝の種類がふえ、中継番組も多くなったが、ほかは興味がない。やはり駅伝は箱根でなければならないのだ。

♪箱根の山は、天下の嶮(けん)

 函谷關(かんこくかん)も ものならず

これは、戦中の中学唱歌にも採用されていた唱歌の歌いだしだった。函谷関は中国・戦国時代、日本神話以前の史書や、小説にもよく出る揚子江に沿った難関で、中原・漢民族を守った自然の要塞だった。

中学生で、詳しくは知らなくてもその知識は頭の片隅にあった。今の日本史の中で、箱根の関が扱われることはあるのだろうか。

塾頭は、江戸総攻撃のため駿府までやってきた西郷隆盛に対し、勝海舟が江戸を戦火から守る予備交渉の任務を負い、一触即発の危機にあふれる東海道を箱根越えで往復した山岡鉄舟の健脚を思い出す。

だから駅伝は箱根でなければならないのだ。中継には出てこないが沿道に歴史がいっぱい詰まっている。それが、箱根駅伝にこだわる理由である。

 

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2018年12月23日 (日)

幻の教育勅語

  教育ハ盛衰治乱ノ係ル所ニシテ国家百年ノ大猷(たいゆう=大きな道)ト相伴ハザル可カラズ。(中略)今ヤ列国ノ進運ハ日一日ヨリ急ニシテ東洋ノ面目ヲ一変スルノ大機ニ臨ム。而シテ条約改定ノ結果トシテ余国(外国)ノ臣民ガ来テ生ヲ朕ガ統治ノ下ニ託セントスルノ期モ亦目下ニ迫レリ。此時ニ当リ朕ガ臣民ノ与国ノ臣民ニ接スルヤ丁寧親切ニシテ、明ラカニ大国寛容ノ気象ヲ発揮セザル可カラズ。(後略)

一見して勅語とわかるが、本物ではない。明治31年、西園寺公望が短期間だが文部大臣であった期間に考えた草案ということになっている(岩井忠熊『西園寺公望』岩波新書)。なにか現在の移民問題にそのまま当てはまるような内容だ。

安倍首相周辺でもてはやされている明治時代の教育勅語は、帝国議会発足前、側近官僚の起草で明治23年に発布されたもので、それから7年余、日清戦争や日英同盟改定を経て世界に伍してゆく国にするには、これではだめだという危機感が案の下地になっている。

西園寺は天皇の最もそば近くに仕える公家であり、勤皇では人後に落ちない。しかしながら、偏狭な皇国史観や儒教の受け売りではこの先世界に通用しないということを、漢籍に精通し、フランス留学で得た近代感覚から「もう古い」と断じているのだ。

その後枢密院議長や伊藤博文の片腕として首相などの要職に就くが、公家という出自もあってか政治家として押しの強い方ではなかった。昭和になってからは元老として歴代首相の奏薦などに当たる。

そういった中でも、晩年のファシズムの台頭と新たな大陸侵略論に対する断然とした反対(上掲書)は一貫していた。

太平洋戦争勃発の半月ほど前に西園寺は91歳の生涯を閉じる。幕末・明治・戦前を歴代天皇とともに歩んできた西園寺公に歴史の光をあてることが、今ほど大事な時期はなかったのではないか。

 

 

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2018年12月10日 (月)

明治の元勲

明治150年はあと残すところわずか。元勲とされる人のうち今年活躍したのはテレビドラマの「西郷どん」程度というのはちょっとさびしい。

◆京都出身[公卿]
  岩倉具視
  三条実美
  西園寺公望

◆薩摩(鹿児島)出身[武士]
西郷隆盛
大久保利通
小松清廉
松方正義
黒田清隆
大山巌
西郷従道
島津久光
島津忠義[大名]

◆長州(山口)出身[武士]
大村益次郎
木戸孝允
前原一誠
広沢真臣
井上馨
山縣有朋
伊藤博文
山田顕義
桂太郎
毛利元徳[大名]

◆土佐(高知)出身[武士]
佐々木高行
福岡孝弟
板垣退助
後藤象二郎
田中光顕

◆肥前(佐賀・長崎)出身[武士]
副島種臣
大木喬任
江藤新平
大隈重信

 ◆肥後(熊本)出身[武士]
横井小楠

◆紀州(和歌山)出身[武士]
 陸奥宗光

◆幕府出身[武士]
 勝海舟

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2018年12月 4日 (火)

沖縄人の心に土砂投入

 今朝の朝日新聞の書き出し部分

 安倍首相が繰り返し口にしてきた「沖縄の皆さんの心に寄り添う」とは、つまりはこういうことだったのか。

 沖縄県の米軍普天間飛行場の移設をめぐり、岩屋毅防衛相は名護市辺野古の沿岸部に基地を造るため、今月14日から土砂の投入を始めると述べた。

 9月の知事選で県民は「辺野古ノー」の意思をはっきり示した。にもかかわらず工事を進める政府をただすため、県が国地方係争処理委員会に審査を申し出た矢先の表明である。

 土砂は、同じ名護市内だが東シナ海側にあるセメント会社の岸壁で積み込み、島の北端を大きく回って辺野古の海に投入される。

 それが、海ではなく「うちんちゅう」の「こころ」の中に投げ込まれることになることを、政府はどれほど気づいているだろうか。

 明治150年に当たり、幕末以来取ってきた薩摩藩の行動や西郷隆盛の征韓論などをしっかり復習し、さらに先の大戦に払った犠牲にまで思いをいたせば、とてもできることではない。

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2018年11月 3日 (土)

「入管難民法」

(共同通信)

政府は2日、新たな在留資格を創設し、外国人労働者の受け入れを拡大する入管難民法などの改正案を閣議決定し、衆院に提出した。野党だけでなく与党にも異論が根強い中、焦点となっている受け入れ対象の業種や規模は、臨時国会で審議が始まるとみられる来週にも公表する予定だ。

政府は会期末までに成立させ、年内に制度の意義を盛り込んだ基本方針を閣議決定し、外国人の生活環境整備を急ぐ。制度の詳細が固まっていないなど課題は多く、施行日とする来年41日までに準備が間に合うのか未知数だ。

新設の在留資格は一定技能が必要な業務に就く特定技能1号と、熟練技能が必要な業務に就く同2号。

身の回り、散歩をしていてもはっきり外国人が多くなったなということを感じる。「在留資格」のある人か帰化人かそこまではわからない。

上の法律に、右翼っぽい人は反対のようだ。万世一系の皇統のもと、純粋な「日本人」を信じて疑わない連中である。先祖は天から下ってきたと思っている。

そんな証拠はないので、歴史や考古学を信じるしかない。大陸からいろいろな時期にいろいろな方法で人々が渡ってきた。

そして確認できる最初の文化が縄文文化だ。次の弥生文化は多分朝鮮半島経由で多数の移住者によりもたらされた。その混血が進みさらに歴史時代に入っても流入は続く。

平安時代のはじめ、弘仁年間(814年)朝廷で編纂された「新撰姓氏録」に掲載された一定の資格をもった家柄1059氏のうち大漢・三韓之族「諸蕃」に分類された渡来人系は324氏で、ほぼ30%に当たる。

その多くは、朝鮮半島に遠征したとされる神功皇后の次の代、応神・仁徳の頃にはじまる。難波の開拓に当たった土木工事の技術者・労働者のほか「今来の才伎(いまきのてひと)」と称される史(ふびと=漢字に堪能で記録をつかさどる)や、今でも姓として残る錦織・秦(織物技術)そして陶芸・工芸・芸能の専門家が多かった。

一時、入国管理が厳しくなったのは聖徳太子が隋との国交を開いた推古朝の時代である。難民を阻止したり病気を疑って入国拒否にあう者もでた。

その後再び渡来人が増加するのは、663年天智天皇の時代である。百済救援を名目に出兵して白村江で唐・新羅軍に大敗したあと唐軍の捕虜や百済難民の殺到などがあった。

壬申の乱を経て天武時代に日本書紀の編纂が開始される。その編集スタッフに音声博士と称される専門家が複数加わるが、新たに渡来した唐人ではないかという研究もされている。

いずれにしても、こういった人々を外国人扱いしたり区別する伝統は日本になかった。

冒頭の記事を見るにつれ、「複合民族・日本」の過去をあらためて思い起こすことになるのである。

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2018年10月27日 (土)

安倍首相と国学

日本の古代史を丹念に追っている本を読んでいたら、魏志倭人伝などは、距離、方向感覚がでたらめでB級史料に過ぎず、A級史料の『日本書紀』を信用すべきだとする学者・研究者の意見を紹介していた。

そして現在の歴史教科書は、魏志倭人伝を重視しすぎており、前漢書、後漢書などに倭国の朝貢記事を書いているのに、日本書紀には相応する記録がないことから中国文献は疑わしいとか、天照大神をはじめ日本神話の記載がないのは、日本史として異様という批判に続く。

塾頭は、神話や忠君愛国物語を修身や国史の時間に習った。考古学、縄文・弥生などの知識は戦後になってからだ。占領下も概して歴史教育は冷淡に扱われたように思う。

それがかえって「自分で勉強しよう」となったのかもしれない。中でも、日本書紀は、原文、読み下し文、解説が書かれた岩波文庫・全巻を持ち、繰り返し目を通している。魏志倭人伝などに関連する九州・奈良県などには複数回足を運んだ。

歴史史料を見る時は、史料ができた時、作った目的や背景そして誰によって作業が進んだかなどに留意しなければならない。違う時代の資料を突き合わせて優劣を論ずるようでは、論考自体の権威が疑われる。卑弥呼より前には日本に文献資料などなかったのだ。

どうして、こういう発想に至ったかを考えているうちに浮かんだのが「国学」という言葉である。徳川幕府ご推奨の学問は儒教である。それに飽き足らない本居宣長らが江戸中期に国学を起こし水戸光圀の水戸学がそれを継ぐ。やや遅れて幕府の妨害にもかかわらず蘭学が隆盛期を迎えるようになる。

尊王攘夷、大政奉還は本来国学の目指すところであった。しかし、開国、文明開化は国学の精神と相容れない。それが再び顔を出すようになったのは、時期として教育勅語発布の明治23年(1890)以後であろう。

國學院ができたのは、この年である。同校には神社本庁の神職の資格が取れる神職課程がある。大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学のみで、国学には神道の宗教色を強めるねらいがある。

有力私大の慶応・早稲田・明治・法政などができたのはそれ以前で、いずれも独立自治、権利自由、文明開化などを建学の精神としている。

拓殖大学は明治33年で、日清戦争の結果日本に編入された台湾の同化、つまり植民地経営に資する目的があり、国学にもアジア進出という違った解釈が必要になった時期に符合する。

実は、この項を書こうと思った動機は、安倍首相が訪中して中国と国際関係で共同歩調をとるという変貌ぶりをどう見るかというところから出てきたもので、大学の名称は余談になってしまった。

安倍首相の思想の根底にあるのは、改憲であろうと靖国神社奉幣であろうと「国学」が基礎になっているのではないかと思っていた。それは、「脱中国」である。ところが日本書紀は漢文で書かれており、教育勅語の忠孝や徳の価値観は、朱子学の説くところと共通する。

いずれにしても、純粋な国学復活には無理があるという結論で、首相のいう「美しい日本」の中味が何であるかを確かめておく必要がある。

現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きたひとたちに対しても責任をもつ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたのかについて、プルーデントな認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神ではないか、と思っている。(安倍晋三『美しい国へ』27P)

なんだか、よくわからない。

 

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2018年10月23日 (火)

「浪士」石油を掘る

 塾頭には『「浪士」石油を掘る』という既著がありますが、この度新刊として再び世に問うことになりました。そこで、「新刊発行にあたって」というあとがきの中から、その要旨を拾っておくことにします。
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今日は慶応から明治に改元して150年目に当たるそうです。政府は記念式典を行うようですが大手紙で社説に取り上げたのは読売だけ。来年は平成からの改元がありすが、日本会議が期待するような盛り上がりはなさそうです。

1868年9月に改元した明治が「そのまま続けば今年が150年目」ということだけでは、歴史を検証するうえであまり意味がありません。その年に改元してなにか画期的なことが起きた、または改元したから起きたという史実がないからです。「明治」という元号も天皇がくじ引きで決めたそうです。

尊王攘夷に始まり海外に目を開こうとした維新の志士というと、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬などがあがります。ところが刑死・病死・暗殺などで命を落としたのは慶応時代で明治の元勲にはなりませんでした。西郷隆盛も西南の役で道半ばにして朝敵に名指しされ、結果を見ずして戦場で命を落とします。

明治維新はいつからいつまでか、定説はないようですが、執筆のため改元前後を中心にいろいろな文献にあたりました。

その結果、「維新」という表現はほとんどなく、一番多いのが「ご一新」次いで「世直し」、幕府サイドの文献にも「回天(天業回古)」「ご一洗」などが使われています。意外に多いのが、かくれた民衆の力を思わせる「革命」です。しかしこれは天皇の権威を高めるためか、やがて中国文献からとった「維新」にとってかわったようです。

明治の歴史書を追っていくと、「王政復古」「文明開化」「自由民権」「有司専制」「殖産興業」「富国強兵」「藩閥政治」など4文字熟語が続きます。40数年の間にそのような変化があったということで、明治時代を「教育勅語」でくくる感覚は、偏見というべきでしょう。

その中で幕府側の尊王攘夷行動過激派・石坂周造は、維新後になって文明の象徴ランプの燃料石油が外国人に支配されないようにと、国産石油の開発に乗り出しました。ところが失敗続きで莫大な借金を負うことになり破産、それを勝海舟・山岡鉄舟の後援と岩倉具視の世話で天皇からの資金融通を得て事業を続けます。

そして、遂に越後の鎌田で大油層を掘り当てました。ここで権利を地元業界に分譲、殖産興業の実をあげることに成功しました。

歴史の流れを止め、一時期を限って観察することが危険であることは常識です。石坂周造は歴史書の上でほとんど無名です。幕末から明治を生き抜いた個人の一代記をたどることで、明治に新たな見地が開かれることができればいいな、と思っています。

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2018年10月21日 (日)

日本武尊

やまとは 国のまほろば 
  たたなづく 青垣
  山ごもれる やまとし 麗し

 倭建命/日本武尊(やまとたけるのみこと)の歌として古事記に載る。低い山に囲まれた大和盆地の讃歌だ。日本書紀では似た歌を景行天皇の御製とする。

 小碓命(おうすのみこと)といわれた若い時、景行天皇から兄が大御食(おおみけ)に出てこない理由を聞かれ、「朝早く厠に入るところを待ち捕えてつかみひしぎ、手足をもぎとって、こもに包んで投げ捨てた」と、まるでサウジの皇太子の話を思わせる乱暴ぶりだ。

 九州に遠征したときは、女装して熊襲建をだまし討ちにし、以来日本建(たける)を名乗る。その帰路でも出雲を平らげた。

 天皇はそばに置くのを危険と見たか、こんどは東方12道の征定を命じた。関東から甲斐、信濃を経て尾張まで危難を潜り抜けてきたものの、大和帰還を前に命を失い、白鳥となって天にのぼる。

 前掲の歌は、大和の景観を懐かしんで歌ったものいうが、若き日の傍若無人ぶりとはどうしても結びつかず、体験した広い日本との対比にしては狭すぎる。

 この話は、すべてが英雄伝説で実在の人物ではないとされる。その、史実でない人をいわれとする小詞が当地にも存在する。

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