歴史

2017年2月 9日 (木)

「人間天皇」否定論

 天皇退位を一代限りの特別法にしようというのが政府や保守陣営で有力になっている。その理由がどうもわからないし説明も納得できるものでない。皇室典範改正について、天皇の意思を受けてというのでは、今後天皇の政治関与に道をつける、といったことのようだ。

 

 また、退位の条件を規定し、様々な(例えば、退位後の呼称とかお住まいなど)制度の変更に時間がかかるというようなことをいう。それならば、一代限りでも同じではないか。

 

 大日本帝国憲法は明治14年にできた。「欽定憲法」といって、明治天皇の命令で起草されたことになっている(前文にあたる「上諭」に記載)。その第一章第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とある。

 

 自ら自分を「神」としてしまった。戦後まで「現人神(あらひとがみ)」という言葉が活きていた。それでも子供は、「朕がプット屁をふれば、爾ら臣民くさかろう」とはやし立てていたので「神」でないことは誰でも知っていた。これをどうしても「神」にしたかったのは、政治指導者や神社である。

 

 戦後になっても、それを捨てきれない人のために、終戦翌年の正月元旦、天皇は詔勅(今でいえば「おことば」)を発表、神ではないと自ら宣言した。

 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あまつかみ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ

 今上天皇は、この時13歳と8日である。「人間宣言」と呼ばれるこの詔勅は、皇太子である彼の将来がどうなるかがわからない中で、大きな自信と希望(生きがい)を抱いたはずだ。

 

 戦後レジームの脱却を唱える安倍首相は、これもGHQの指しがねだというだろう。誰が天皇を神にしたのか。神武以来、天皇は神に祈る立場で、自身は神ではない。最古の古典、記紀を読んでも神として描かれることはあまりなく、人間味あふれる存在の方が多い。

 

 明治憲法に触れたが、その元を作ったのは『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)を書いた北畠親房であろう。南北朝時代に天皇が2派に分裂しその一方を正当とするためいろいろな理屈をつけた。

 

 その影響が水戸学などに引き継がれ、維新を正当化するのに使われた。「国学」ともいわれるが、江戸時代幕府からも尊重された中国伝来の儒学を基礎にしている。

 

血統・徳政・忠孝を強調する「春秋」「孟子」「周易」などが土台となっており、日本古来のものとは、言い難い。天皇神格視の始まりで、皇室典範のバックボーンになっている。

 

安倍応援団による一代限りの主張は、多分ここから来ており、日本古来の伝統や歴史とは縁もゆかりもない。明治憲法の再現ねらいと言われても仕方がないだろう。

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2017年1月25日 (水)

明治と軍歌

117日付の、官営「150年祭」、同20日付の「変な歴史認識」に続く安倍内閣の底流にある明治回帰をさぐる3回目の投稿である。自民党改憲案、天皇退位問題、中韓への対立意識など日本会議の思想的背景にもつながるように思える。

 

 以下は、維新にはじまり、明治から昭和にかけて普及した軍歌2題である。兵卒が整列行進する際に斉唱し、塾頭も小学生のころ陣取り合戦などの遊びでよく歌ったものだ。だから歌詞は今でもそらんじている。

 

戦争に駆り立て鼓舞することを目的とした歌詞である。そこに共通しているのが善悪二元論、戦争の正当性(正義)、権威づけ、そして必勝を信じ込ませる楽観視である。

 

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 戊辰戦争で官軍が使った。明治天皇はまだ幼少で政治的・軍事的判断を下したわけではない。薩長土を主体とする東征が朝命であると権威づけたもの。「宮さん」は有栖川宮熾仁親王で東征大総督をいう。

 

宮さん宮さん お馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ

 

 作詞されたのは日清・日露戦争より前だが、後世、日露戦争を想起して歌われることが多かった。特に第2次大戦で、放送などで日本の不利な情勢をかくす役割が大きかったとみられる。

 

敵は幾万ありとても 
すべて烏合(うごう)の勢なるぞ 
烏合の勢にあらずとも 
味方に正しき道理あり 
邪(じゃ)はそれ正に勝ちがたく 
直(ちょく)は曲(きょく)にぞ勝栗の 
堅き心の一徹は 
石に矢の立つためしあり 
石に立つ矢のためしあり  
などて恐るる事やある 
などてたゆとう事やある
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 国会答弁のペーパに「云々」と書いてあるのを「でんでん」と読み違えてしまう首相にとって、この歌詞はちょっと難しいかもしれない。

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2017年1月20日 (金)

変な歴史認識

前回の「明治150年」批判に続く。

来年が明治元年から起算して150年になることはその通りだ。この年に改元されたというだけで明治維新のスタートではない。維新がいつ始まっていつ終わるのかの定説はないのだ。だいたい当時の文献をあたっても、維新という言葉はあまりでてこない。

 

幕府の大政奉還、江戸城あけ渡し、戊辰戦争、東京遷都、それら一連の変革を、大衆は「ご一新」といっていたようだ。それが漢籍からとった「維新」に置き換えられたものだろう。

 

「明治150年をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なこと」とする政府の施策案は、改元にことさらこだわったもので、根拠薄弱意味不明の政策だ。

「明治の精神」というのも何を指すのかわからない。明治時代の指導者は多彩にわたり、目指すところも文明開化、富国強兵、自由民権、有司専制、藩閥政治、殖産興業などと百花繚乱で活力に満ちていたことだけは想像できる。

 

それらが、時期を追って変化し続け大正・昭和につながるのだが、自民・政府が言いたいのはどうやら教育勅語の「精神」に尽きるのだろう。まさに安倍路線そのもの。衣の下が見えるような気がしてならない。

 

もう一つは、前回書いた明治維新の勤王志士をお国自慢に祭り上げることだ。吉田松陰・高杉晋作・坂本龍馬などである。かつての歴史教育は善玉、悪玉がはっきりしており、塾頭自身もそれを疑わなかった。

 

出世頭の豊臣秀吉は善玉、宮中法度を作り鎖国に閉じこもった徳川幕府は悪玉だから、尊王攘夷は正義の発露ということになる。二元論にこだわる人は、徳川傘下で開国を志向し、蘭学から科学技術の向上を急務と考える人材が残した事績が、維新後に生かされていることを知らない。

 

佐久間象山、勝海舟、緒方洪庵、榎本武揚その他、志士たちが師事し、その影響をこうむっているのだ。最後の将軍、徳川慶喜も悪者どころか維新に果たした功績は並のものではないと考える。

 

軍国主義を作り出した、教育勅語や、薩長を中心とした政治や軍部の主導が明治の精神だと思うのは、とんでもない偏った「変な歴史認識」だ。

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2017年1月17日 (火)

官営「明治150年祭」

 「明治150年」関連施策各府省庁連絡会議というのが内閣官房「明治150年」関連施策推進室にできる。

 

 平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から起算して満150年の年に当たります。
 明治150年をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。
 このため、「明治150年」に向けた関連施策を推進することとなりました。

 

 だとさ。まあ、年を区切って歴史を考え研究する、大いに結構なことだ。だけどお役所がしようとしていることは、記念事業として箱ものづくりとかイベントとかを通じた選挙活動のようなことをしようとするたくらみだろう。

 

 大いにくさしてやろうと思ったが、「明治100年」に際し、歴史学者・色川大吉が自著『明治の精神』の中で、すでに講演でのべたことを書いている。まずそれを紹介しておこう。

 

私は明治維新をまず考えます場合に、のっぺらぼうに百年が連続したという考え方、これは歴史的なものではないと思います。先ごろ佐藤首相が自分の選挙地盤である山口県に遊説にまいりましたときに、選挙民に対して、

 「自分は明治百年の記念の準備をやっている責任者である。わが山口県、長州は偉大な明治の指導者を生み出し、日本の近代史の成功のために非常な恩恵をもたらした郷土である。たとえば高杉晋作は多くの明治の指導者を鍛えたではないか。しかし昔は昔、今は今、昔晋作、今栄作()、栄作の世代が晋作の世代をたたえるときがきた。土地をあげて喜ぶべきではないか」

 「今晋三」にしてもこんな程度だろう。色川は経済の発展や近代化を祝いことほぐ前に、維新は戊辰戦争をはじめ西南戦争で日本人同士が殺し殺される中で生まれ、アジアを舞台に日清・日露・第一次大戦・満州事変・支那事変・太平洋戦争と悲惨な戦争の歴史を繰り返してきた歴史がなかったような扱いにしてしまうお祭り騒ぎを嘆いているのだ。

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2016年11月22日 (火)

足るを知る

  禍莫大於不知足――「禍(わざわ)いは、足(た)るを知らざるより大なる莫(な)く」と読む。中国の古典『老子』の中の一節である。西欧では、16日の記事「かけつけ警護、やっと社説に」で、クラウゼビッツの「戦争論」がナポレオンの時代から、戦争の実態・本質をついた名著として読み継がれているということを書いた。

 ところが中国では、何と紀元前5~6世紀頃に現代でも通用する兵書を孫子が書いており、上の老子も戦国春秋時代を背景に、鋭い観察眼で戦争の実態を明らかにする戦争論というべき文章を残している。江戸時代の武士は論語など「四書五経」を教養の糧とした。

 しかし、現代では軍事をつかさどる政治家には全く通用しない。これは、日本の安倍首相や稲田朋美防衛相もさることながら、中国の習金平主席でさえ心得ているかどうかはなはだ心もとないと言わざるを得ない。老子については、4年前に本塾で「老子の訓え」を書いているので、参考までにリンクしておく。

 冒頭の文意は、既に足りているのにそれを知らず、欲張って身の丈以上のことを成し遂げようとすると必ず失敗するということである。囲碁の金言「むさぼるなかれ」と同じ意味だ。同文の前後を含め、金谷治『老子』講談社学術文庫では、こう解説する。

 世界じゅうに道理が行われて平和であるときは、早馬は追いやられて畑の耕作に使われるが、世界じゅうに道理がなくなって乱れたときには、軍馬の活動が都の近くでも起こるようになる。

 戦争のもとはといえば、それは諸侯たちの私的な欲望だ。欲望をたくましくするのが、最大の罪悪であり、満足を知らないのが最大の災禍であり、物をむさぼりつづけるのが、最もいたましい罪過(あやまち)である。だから、満足を知るというその満足こそは、永遠に変わらない誠の満足なのだ。

 日本は日清戦争に勝ち、日露戦争に勝った。両戦争とも「自衛のため」という理屈は、苦しいながらも立たないわけでもない。しかし、第一次大戦で敵ではない中国の山東半島のドイツ租借地を攻撃、青島を占領して日本の利権獲得を目指す「対華21カ条要求」を中国につきつけた。

 それでは足りず、満州で鉄道爆破という自作自演のもと満州事変を起こして傀儡政権・満州国を作り、事実上日本の版図にしてしまった。その結果が第2次大戦の敗北につながっていく。まさに「足るを知らなかった」のである。

 ソ連は、アフガニスタンで手痛い失敗をし、崩壊に導かれた。アメリカは、オバマになってそれに気が付き始めているが、トランプに変るとどうなるか。日本はとっくに「足るを知る」境地になくてはならないが、大国主義で中国と張り合って真の満足から遠ざかり、痛ましい罪過の繰り返しになるこ知らないでいる人が多すぎる。

 どうだろう。中国古典に親しみのある日中韓で、「老子研究会」でも開催したら――。
 

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2016年9月30日 (金)

司法権と<大津事件>

 福岡高裁那覇支部は、沖縄県知事が行った辺野古沖の埋め立て承認取り消しについて、それを違法とする国の主張を受け入れた。県は、判決理由が一方的に国の主張そのままをコピーしたもので、県民が何度も確認し合った民意が公益に反するというのは納得できない、と上告する。
 
 もう一つ、菅直人・元首相が、安倍首相が発信したメルマガに「やっと始まった海水注入を止めたのは、なんと菅総理その人だったのです」というニセ情報を流した件で同首相を相手に起こしていた名誉棄損訴訟である。裁判所は、その事実を認めながら訴えを退ける判決を下した。

 菅元首相は、焦点をずらしたおかしな判決だとしてこれも上告して最高裁にいくことになった。塾頭は、残念ながら双方ともこういう結果を予想していた。内閣の指名で天皇が任命する最高裁長官や、その長官の指名する名簿に基づいて内閣が任命するその他の裁判官。お友達中心人事がすっかり根付いた安倍人事のもと、反抗できる役人はいなくなったようだ。

 現行憲法は《司法権の独立》を司法条項のまっさきにかかげている。しかし、政治に任免権をにぎられ、その意に添うような仕事をするようでは、絵に描いた餅にすぎなくなる。明治憲法には任命に関してこまかい規定はないが、「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニヨリ裁判所之ヲ行フ」とある。

 明治憲法でも使っているこの司法権、「天皇の名」から「独立」に変ったが、その伝統は生きているものと思っていた。その伝統というのは「大津事件」である。

 塾頭は、これを取り上げてみようと思った。しかしまてよ、大津事件はだれでも歴史の時間で習っているだろうし、テーマにはならないな、と考えた。

 ところが、戦後の日本史ブームのきっかけを作った中央公論の『日本の歴史』全26巻で、その時代を担当した有名な史家・色川大吉氏の「近代国家の出発」には載っていない。目を皿にして見たが目次にも索引にもない。

 さらに、書棚にあった高校の副読本『資料日本史』だが、これにもない。司法の独立を語る時、必ず語られる史実がなぜか全く抜け落ちているのだ。すると、本塾の教科からは落とせないな、ということになった次第。

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 大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生した。

 小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走った。明治天皇は、急遽勅使を派遣、追うように京都の病床に皇太子を見舞うため下向した。

 学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超える。

 日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し、旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を類推適用するよう働きかけた。伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張した。

 これに対し、時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発し、普通謀殺未遂を適用、無期徒刑の判決を下させた。

 日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。また、一般市民の中で死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺したものまででた。

 一方、この事件で津田を取り押さえるという功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦に招待された。この際、ニコライの要望により、正装ではなく、あえて人力車夫の服装のままで来るように要請された。

 そこでロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ1000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられた。
-----(参照・Wikipedia、『日本現代史小辞典』ほか)

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2016年9月19日 (月)

「区割り」いろいろ

 たまたま見ていた本の参考図に「旧国名地図」というのがあつた。本文はすべて読み下しても、こういった図は必要を感じないと丹念に見ない。バラッと開いたページがたまたまそれだったのでよく見ると、今まで気が付かない新事実に気が付いた(遅いか!笑)。

 まず、東北6県の旧国名は「陸奥」と「出羽」だけ。今は青森県だけが陸奥だが、陸中(岩手)、陸前(宮城)、磐城・岩代(福島)の3県も陸奥だった。そして、出羽を羽前(山形)、羽後を(秋田)と分けたのが、陸奥同様明治2年だったということ。

 東北に区割りされていないが、そのすぐ南が常陸(茨城)の国で「陸」がつく。そこで疑問。陸奥をなぜ音・訓にない「むつ」と読むのか。また常陸が「ひたち」というのもわからない。とにかく日本語はむつ・かしい(笑)。

 明治2年は版籍奉還の始まった年だが、4年に藩をそのまま県としたため、3つの府と302の県ができた。現在の区割りに落ち着いたのは、明治22年でありそんなに古い話ではない。

 ここまで、「東北」という言葉を使ったが、九州・四国・山陽・山陰・関西・中部・関東などという区分は、現代地理教育によるものだろう。日本史で最も古い区割りは「大八州」、即ち、本州・九州・四国・淡路・壱岐・対馬・隠岐・佐渡であり、北海道は入っていない。

 「道」という区分は、前述の「旧国名地図」に載っていた。言葉として今残っているのは、北海道と東海道ぐらいだが、北海道を除いて塾頭の持っていたイメージとだいぶ違う。東海道の起点は、お江戸日本橋ではないのだ。

(北海道)
北見・天塩・石狩・根室・釧路・十勝・根室
(北陸道)
越後・佐渡・越中・能登・加賀・越前・若狭
(東海道)
常陸・下総・上総・安房・武蔵・相模・甲斐・駿河・伊豆・遠江・三河・尾張・伊勢。伊賀・志摩
(東山道)
陸奥・羽前・羽後・陸中・陸前・磐城・岩代・下野・上野・信濃・飛騨・美濃・近江
(畿内)
山城・大和・河内。和泉・摂津
(山陰道)
丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐
(山陽道)
播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門
(南海道)
紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐
(西街道)
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬・琉球

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2016年8月30日 (火)

今日は空爆記念日?

 シリアでは、毎日のように誰がどこを空爆したなどということが記事になる。

 その空爆が世界で最初に行われたのが、102年前の今日である。ドイツはフランスに8月2日宣戦布告、第一次世界大戦が始まった。そして30日、ドイツ機がパリを空襲、爆弾を投下した。

 東京大空襲も広島・長崎の原爆も、すべてこの日に端を発しているのである。これまでに空爆で一般市民が何人死んだのか。その統計を塾頭は知らない。

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2016年8月16日 (火)

象徴天皇④

享年
  神武天皇 137  考昭天皇 93
  考安天皇 123  崇神天皇 168
  垂仁天皇 153  景行天皇 95
  応神天皇 130  雄略天皇 124

出典:『古事記』

 平成天皇はまだ若い。頑張れ!

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2016年5月 1日 (日)

前方後円墳のなぞ(その3)

 当塾に、「前方後円墳の向き」という検索が頻繁に来訪する。古墳の形状や埋葬方法、副葬品など、共通点を探る研究は多い。また、拝所があり、鳥居が向いている”方”を”前”となし、円墳の”後”あたるという説が有力である。

 しかし、それがどっちを向いているかについては、360度好き勝手で、同じ場所にあってもばらばらなのである。古墳マニアの塾頭も以前から不思議に思っていたことだが、これに納得のいく”説明をした研究はなぜか目にしたことがない。2011年に「前方後円墳のなぞ」と題した記事を書いたが、去年にもその続編を書いた。
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-999a.html
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-2219.html

 塾頭の想像は、墳丘に必要な土盛りをするため周辺の土を掘る。その後は環濠のようになるが、墳丘の傾斜部分が雨で流されるのを防ぐため大量の石を張る。日本書紀には、それを大勢の人を動員してリレー式に運んだということも書いてある。

 すると、環濠の1か所はつないでおかなければならい。また祭祀や礼拝などに行くためにもつながっていた方が便利だ。だから、一番墳丘に近い通りやすい位置に向けて前方部が残ったのではないかと考えた。

 今でもこの考えは変わらないが、最近、被葬者の生誕日時に合わせて、今の「九星気学」的発想で向きを決めた、というのを見た。しかし、これは否定できる。なぜならば、弥生時代に続く前期古墳時代は、そもそもそういった暦などなかったからだ。

 その頃の古墳が集中する、奈良県大大和、柳本、纏向地区の古墳も向きはばらばらだ。その図をみているうちに、改めて別の事に気が付いた。

 最古の巨大古墳・箸墓は隣に大きな池はあるが環濠はない。また、全くない古墳もある。渋谷向山古墳は、自然の岡を円墳として利用しており、ことさら環濠を掘って土を積む必要がない。しかし現状では水面の高さを区切った形の濠が存在する。事実、後の灌漑用水利や調整池の役割を持たせるために改修したという記録もある。

 どうやら、今見る形は、造成当時と同じ景観とはいいきれないようだ。今はなくても創建当初はあったという古墳もあるだろう。そして、後方部は、円墳と同じ高さとし、縁者を葬ったり副葬品を埋葬するなど通路とは違う役割を持たせているところもある。

 それから、3重の濠をめぐらした大山古墳(現仁徳陵)のような最大規模の古墳は、応神朝の頃朝鮮から多くの土木技術者が渡来して築造を可能にした、などの説がある。しかし日本の弥生時代、すでに吉野ケ里や唐古遺跡のような集落全体を囲む巨大な防護用環濠を作る技術を持っていたのだ。

 その際の外部とのつながりや方向をどうやって決めたのか、作った人に聞いてみないと分からない。

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