歴史

2020年4月 2日 (木)

四角と丸の文化

 ある本を読んでいたら、日本の縄文文化と弥生文化の差を住居構造から考察した研究を目にした。基本的な構造は、方形の掘立空間の中央に設けられた円形の炉型など、何万年にもわたって続いてきた日本人の生活文化の探求を試みたものである。

 方形と丸、囲炉裏や火鉢、切り餅に重ね餅、いろんな形で最近まで生き続けている。観客のいない大相撲の国技館中継、土俵の丸と四角、マス席とがら空きの会場、すべて丸と四角の組み合わせだ。

 もっとも単純かつ美しく表現したのが、日の丸ではないか。生活の場と宇宙を一体化した感性からきているのかも知れない。そういえば土俵入りにも、大地を踏み固めるることや日の出を思わせる所作が多い。

 軍艦旗を毛嫌いする隣人もあるが、四角と丸を組み合わせた文化は、この先も大事にしていきたいものだ。

| | コメント (2)

2020年3月31日 (火)

明治維新と植民地化決議

 「尊王攘夷イコール明治維新」という狭い視野しか持たない風潮がはびこる中で、勝海舟の語りを『新訂・海舟座談』から取り出して批判を試みたのが、前回の記事である。その引用文に続く1か所をつけたしておく。ペルー来航から話は始まる。

 初めて軍官が来たのを見にいったよ。十八[三十一歳?]の時でネ。今の壮士サ。六,七人連れていったよ。その時は、大変な騒ぎサ。ポータハン、ミスシッピーの二艦と、そのほかは帆前船サ。あれは、米国へ行った時によく調べたが、第一世ナポレオンがヘレナ嶋に流されてから一七年目に、欧米各国の公使が寄って、相談をしたのサ。段々食えなくなるので、東洋の方に貿易を開こうということに決議になって、英仏が先ずやって来た。この頃は、シナ、インドが目あてサ。すると林則徐という攘夷家がおって、亜片の騒ぎから戦争が起って、かれこれしているうちに、アメリカは、後尾であったが、あちらからずッと日本へ来たので、先が後になり、後尾が先になったのサ。

 欧米による東洋侵略決議という話は、初めて知った。第一次大戦をチャンス到来と見て、その一回り遅れで実行に移したのが日本である。

| | コメント (0)

2020年3月30日 (月)

理想と政治のはざま

 『巌本善治編、勝部真長校注、新訂・海舟座談』という本が岩波書店から出ている。これは歴史書ではなく、勝海舟の発言を直接・間接に聞き及んだとされることを、彼のべらんめえ調江戸弁を交えて後世に残しておきたいという意図からまとめられたものである。

 歴史学の史料として重視はされないが、塾頭は明治時代あるいは明治維新に見られる「ある断層」を埋める文献として重視している。

 その断層とは、明治維新が革命であることに違いはないが、日本人の生活、倫理、芸術、宗教その他、基本的な価値観に、大きな変化がなかったこと、言い換えれば、封建制から議会制国家への「政体」の変化と文明開化が斬新的に進んだことぐらいで、現在右派陣営が明治時代を国粋的観点から「国体」を定着させた輝かしい時代、つまり教育勅語・軍人勅諭一色に染め上げた時代ではなく、後の軍国日本とは違う、世界の中での日本という、より客観的な考え方があったことを証明する材料と考えるからである。

 海舟は、討幕軍を率いた西郷隆盛と江戸開城で戦闘回避を交渉したことで知られているが、軍艦・咸臨丸を率いて渡米、開国への道筋をつけるなど、新政府でも海軍卿の要職につき、晩年は最後の将軍徳川慶喜と皇室の和解を実現させるなど、維新にしこりを残さないようにした、影の功績がある。

 前置きが長くなったが、明治時代を見る目に断層があることを示したく、かつて本塾で引用したことがあるという記憶からブログ内の検索を掛けたら、2006101日の「日韓近代史考」を最初に6件も出てきた。重複するものもあるが、文末にそのウエブを載せておいた。

 今回の引用は次のとおりである。

(明治31年6月30日)

 朝鮮を独立させると言って、天子から立派なお言葉が出たじゃないか、それで、今じゃァ、どうしたんだェ。

慶喜公が、「お前は何年でやるかェ」と言われたから、『さようです。先ず、あれのした事は道理があると言われるのは、十五年、もっともだと言われるのは二十五年、四十年立なければなりませぬ』と言ったら、「途方もないことを言う」と言ったよ。四十年立って御覧ナ。息子の代になれば、何でどうしたのか、忘れてしまって、その綱(すじ)ばかり残るよ。

維新の大業だって、まず五十年サ。どうしても、そう早く出来るものか。憲法などというのは、上の奴の圧政を抑える下から言い出したものサ。それを役人らが自分の都合に真似をしただけの事サ。

 ちなみに、海舟は日韓併合を見ず物故している。

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_9a31.html

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/11-f28f.html

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-aa58.html

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-33270e.html

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-0afb.html

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-aa3c.html

 

| | コメント (2)

2020年3月25日 (水)

イエスキリスト自戒のすすめ

 「あなたがたが知っている通り、諸国民の支配者と見なされている人々は、諸国民の上に権力を握っている。あなたがたの場合は、そうであってはならない。大いなる者になろうと思う者は仕える者となり、第一人者になろうと思う者は万人の奴隷となりなさい」(マルコ1042-44,マタイ2025-27)。

――荒井献『イエスとその時代』岩波新書、6 国家権力、より

| | コメント (2)

2020年3月20日 (金)

権力を目指す人は

 戦国大名の嚆矢とされ、自国領拡大に余念がなかった北条早雲が、座右の銘としていたとされる『早雲寺殿廿一箇条』からひく。

一、歌道なき人は、無手に賤き事なり。学ぶべし。常の出言に慎み有べし。一言にて人の胸中しらるゝ者也。

| | コメント (0)

2020年3月11日 (水)

中国の奥深さ

 コロナ禍に悩む中国に、日本からマスクなどに添えて送った漢詩や漢字の激励メッセージが中国人の感動を呼び、両国間の友好や感謝の念が、これまでになく多く寄せられているという。

 日本が中国と韓国に向けたコロナウイルスの水際対策も、韓国が猛反発しているのに対し、中国は共感の意を示している。

 中国から見た日本は、韓国が示すように、あらゆるできごとの前に「反日」を持ってくるのとは違う。

 中国の文献で最初に現れるのは、後漢書で西暦57年に相当する年、委奴国(福岡市近辺?)国王の使節が朝貢して「漢委奴国王」の5文字を刻んだ金印を賜った、とする記事である。

 この金印と見られるものが、発掘で志賀島から発見され、国宝になっている。それに次ぐのが、有名な「魏志倭人伝」となる。

 5世紀には、遣隋使・遣唐使などを含め、公私にわたる交流が盛んになるにつけ、民族としての垣根が取り払われてきたと思う。

 その後、歴代の正史に「日本伝」の掲載があるが、中国人の「日本感」にことさらの変化はない。

 長い歴史の中で、戦争とか侵略などの軋轢は存在するものの、大国としての優越感に自信があり、奥深さも感じられる。

 日韓の差が、漢字を捨てた国と、かたくなに守り続けて文化に取り入れた国の違いとして現れたのだろうか。

 代表的な中国正史として「旧唐書倭国日本伝」から採録しておこう(『新訂・旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』岩波文庫)

日本国は、倭国の別種である。その国は日の出るところに近いので、故に日本をもって名としている。あるいはいう。倭国がみずからその名の雅(みやび)やかでないのをにくみ、改めて日本としたのである、と。あるいはいう。日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。

その国の入朝する者は、多くみずから矜大(ほこる)で、実をもって対(こた)えない。故に、中国はこれを疑っている。またいうには「その国の界は、東西南北、おのおの数千里あり、西界・南界はみな大海に至り、東界・北界は大山があって限りをなし、山外はすなわち毛人(蝦夷・アイヌ)の国である」と。(以下略)

 

| | コメント (4)

2020年3月 2日 (月)

亡国の危機

 要は、日本が有史以来、未曾有の難局にぶつかっていたにもかかわらず、がっちりと日本を握って、進退いずれとも、これを率いていくだけの大器大材が、当時の指導層にかけていた、というほかはないのである。

 以上、今のことではない。開戦当時、海軍軍務局課長として事に当たっていた石川信吾大佐の回顧録・『真珠湾までの経緯』中公文庫、から引いた。

 このところのひどさは、それを上回っていると言っても過言なさそうだ。

| | コメント (2)

2020年2月28日 (金)

文字のはじまり

 「公文書がなく口頭で決裁」など、そらおそろしい話がまかり通っている。平安時代初め頃の記録『古語拾遺』に、こんなことが書いてある。(『日本語の歴史』岩波文庫)

蓋聞、上古之世未有文字、貴賤老少
口口相伝、前言往行、存而不忘

~~~~~~~~~~~~~~~

 まさに、上古の世で、まだ文字がない時、
 貴い人も賤しい人も年寄りも若者も、
 みな口で語って代々受け伝え
 古人の行いを記憶していたと聞いています。

 上古がいつ頃を指して言っているのかわからないが、最近の発掘調査によると、弥生時代のものとされる硯らしい石の破片に、文字らしい痕跡があると発表されている。

 日本の歴史では「天孫降臨」の神話が書かれている時代だ。『日本書紀』も『古事記』も、「一に曰く」とか「一書」による異伝に触れている記述が多い。

 これは、中国の古典でも見られない史伝としての公正さを主張する書き方で、高い評価がされている。

 それらが、口伝をそのまま採用したのではなく、口伝を記録した「一書」から引用したものであろう。

 そういった「一書」が記紀編纂当時、多数存在していたという想像はできる。したがって、日本では文字が紀元前から使われていたと考えてもいい。

 それは、古代文字などではなく渡来人がもたらした漢字であり、古代権力者が年貢を記録保存する目的で採用したのだろう。

 前年の実績がわからなければ、次を賦課するのにも困る。

 日本には「桜を見る会」などの招待者名簿を、即刻破棄するような習慣は、古代から存在しなかったのだ。

| | コメント (2)

2020年2月26日 (水)

続・天皇の「なさりよう」

『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文芸春秋、より

私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考えを実行させた。

 昭和天皇が「この時」といったのは、84年前の今日、昭和11年に起きた2.26事件である。皇道派青年将校らが昭和維新を唱えて陸軍を動員、内相・蔵相らを殺害して官邸を占拠しようとしたクーデター事件である。

 天皇はこれを知って激怒、朕が近衛兵を率いてでもこれを鎮圧するという意向まで示した。

 昭和天皇の戦争責任を問う声は今なお衰えていないが、2回の決断は歴代天皇の中でも際立って大きい。それを継いだ上皇の平和志向も大いに買うが、あえてこのような体制に反した決断は他に例を見ない。

 惜しむらくは、開戦時にこれを阻止できなかったことだが、当時の文部官僚や信頼する閣僚経験者などに陸軍をけん制する力がなく、むしろ後押しする機運さえあったということだろう。

 新憲法下では、天皇が政治に関与できる範囲が極めて狭い。昭和・平成・令和の3代を生きる塾頭は、23日に書いた、「天皇のなさりよう」と合わせ、深く考えるところである。

| | コメント (0)

2020年2月23日 (日)

天皇の「なさりよう」

 天皇陛下60歳の誕生日会見全文が今日付けの新聞に載っている。その中で塾頭が注目したのは「歴代の天皇のなさりようを心にとめ」という天皇の発言内容である。

 「なさりよう」という表現は、憲法に規定する国事行為ではなく、私的行事の被災地訪問や相撲見物を言うのでもなさそうだ。

 「なさりよう」は、記紀をはじめ、万葉集やその他の御製などに見る天皇の心情や、行動をさすものではないか。

 もちろん教訓になること、ならないことさまざまであろう。

 明治天皇でいえば明治31(1898)32日に幕府最後の将軍、徳川慶喜を初めて皇居に招き、皇后も含めて3人だけで食事を共にし、皇后が酌をして維新以来の国賊扱いを詫び、爵位を与えるようにした、などということである。

 こんなことは、皇国史観の中からは出てこない。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧