歴史

2019年10月10日 (木)

日本版ビーナス誕生

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 奈良の唐子遺跡といえば、弥生時代最大の環濠遺跡として名高い。これまでも軒先にぜんまい型の飾りをつけた高床式建物絵画の描かれた土器が発掘され、遺跡を象徴するビジュアルとされてきた。

 写真は、同遺跡から発掘された土器片に描かれた新たな人物像として、今日の毎日、朝日などに紹介されている。

 弥生中期(紀元前1世紀)頃のものとされ、胸の乳房や広げた腕の下にひれ状の飾りをつけた「鳥装」があることなどから、女性シャーマンの絵とする学者の説を加えている。

 女性シャーマンなら、文献に現れる最初が卑弥呼で、これより3世紀ほど前の絵ということななる。

 この絵が、古事記、日本書紀の神話、「あまてらす」の存在を暗示することになるかどうか。

 古代史マニュアにとっては、小泉信次郎ではないが「セクシー」な発見である。土器片にある彼女は、日本版ビーナスになりそうだ。

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2019年9月 2日 (月)

神功皇后の侵略

 ここに大后(神功皇后)神を帰(よ)せたまひて、言教へ覚し詔りたまひしく、「西の方に国有り。金銀を本として、日の炎燿く種種(くさぐさ)の珍しき宝、多(さわ)にその国にあり。吾今その国を帰せたまはむ」(『古事記』岩波文庫・準拠)

 今のうちあやまっておいた方がいい。

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2019年8月27日 (火)

「歴史」の本当とは?

 自著に『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』かあり、「飛鳥の将軍阿倍比羅夫」が主体をなしていることは、すでに書いた。

 ところが、その中で歴史としては重大な疑義を生ずる書きぶりがあることに、昨日気が付いた。

 それは、大化の改新後、蝦夷平定を目指して北陸道で海路東北・北海道に向かった阿倍比羅夫と、斉明天皇の時代、朝鮮の白村江に兵を向けた阿倍引田臣比羅夫を同一人物として扱ったことである。

 直木幸次郎『日本の歴史2』中央公論、267ページに「後将軍阿倍引田臣比羅夫は、蝦夷征伐の勇将阿倍比羅夫と同一人物である」と明記されていることもあり、疑いはなかった。

 ところが、その5年あと、1978年10月に発行された司馬遼太郎『街道をゆく・韓のくに紀行』朝日新聞社、241ページを読むとこうある。

 この当時の日本における最大の海上勢力は北九州沿岸地方に住む阿曇(安曇)氏であり、その首領は阿曇比羅夫である。

 「比羅夫」

 というのは名前ではなく、軍将という当時の普通名称であろう。この当時、北方の蝦夷征伐に出ていた陸軍の大将を阿倍比羅夫とよんでいる。

 さらに安曇氏に次ぐ海上勢力が、瀬戸内海を根拠地とする阿倍引田氏である。その首領を阿倍引田比羅夫という。この二人の海の比羅夫に第一艦隊と第二艦隊を編成させた。

 以上の通り、司馬氏は全く別人として描いている。両著とも、根拠となる出典は書いてない。故人となった両文豪にこれを確かめるすべはない。

 古代とはいえ、拙著も一応歴史を書いたつもりでいる。真相究明は困難だとしても、責任上、両説のあることだけ明らかにしておくことにした。

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2019年8月24日 (土)

フランスのアベさん

 積極的平和主義の元祖です。(中江兆民『三酔人経綸問答』岩波文庫、所載)

 洋学紳士がさらに言葉をつづけて言うには、「民主制は、戦争をやめ平和を盛んにして、地球上のすべてのすべての国を合わせて一つの家族とするための不可欠の条件です。すべての国が戦争をやめ、平和を盛んにするという説は、十八世紀に、フランス人アベ・ド・サン=ピエールがはじめて主張したが、当時この説に賛成するものものはきわめて少なく(中略)」その後ドイツ人カントもまたサン=ピエールの主張をうけつぎ、『永久平和論』と題する本をあらわして、戦争をやめ友好を盛んにすることの必要を論じました。




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2019年8月20日 (火)

再軍備OKの時代

 初代宮内庁長官・田島道治が終戦後に昭和天皇とやり取りした記録、「拝謁記」の存在が明らかになり、その内容がつぎつぎに発表されている。

 昭和27年(1952)分に、憲法と再軍備に関して以下のような発言がある。

2月11日 「私は憲法改正二便乗して外のいろいろの事が出てくると思つて否定的二考へてたが今となつては他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様二思ふ」 

3月11日 「警察も医者も病院もない世の中が理想的だが、病気がある以上警察も必要だし、乱暴者がある以上警察も必要だ。侵略者のない世の中二なれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会二ある以上軍隊ハ不得已必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」

 以上について、「私ハどうしても反省といふ字を入れねばと思ふ」ということにこだわった昭和天皇の戦争責任感と矛盾し、意外に思う人がいるのではないか。

 これが世論を構成したとまではいかないが、ある程度常識だったのである。25年に勃発した朝鮮戦争が続く中で、9月に、サンフランシスコ講和会議が開催され、日本の占領が解かれることになった。27年の情勢を年表(『20世紀年表』・小学館、参照)から拾ってみよう。

3/6 吉田首相、参院予算委で「自衛のための戦力は合憲」と答弁、3/10野党の批判で訂正。
4/26 海上警備隊発足。
4/28 講和条約・日米安全保障条約(旧)発効。
8/4 吉田首相、保安庁幹部に軍隊再建の意思を表示。
10/15 警察予備隊は「保安隊」に。

 塾頭はこの年、所属した労働組合青年部で決議された「徴兵制復活反対」運動のため、折から兜町のストでピケを張る人ちーたちに署名を求めに行った記憶がある。なぜか「再軍備反対」でも「改憲反対」でもなかった。

 この傾向は、冷戦激化にしたがい、自然になくなったような感じがする。

 

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2019年8月18日 (日)

芸能界ストに戦車

 「東宝争議」といっても、どれだけ通用するやら?。

 71年前の明日、といえば「歴史」に入る時期になったが、世田谷区砧の周辺には、警官2000人、米軍戦車7台、飛行機3機、騎兵1中隊が結集、来ないのは軍艦だけといわれる騒ぎが起きた。

 GHQの占領が始まって3年目、強い指導のもと反封建と自由化が急速に進み、労働組合の結成と強力化が、為政者ににとって手に余るようになってきて、前年の2・1ゼネストにはGHQから中止命令が出た。

 東宝争議は、映画演劇労働組合によるもので、有名芸術家グループも属していた。度重なる実力行使に手を焼いた会社側は撮影所閉鎖などで対抗したが、組合側は「撮影所籠城スト」で対抗した。

 上の騒ぎは、裁判所の撮影所明け渡し仮処分を実現させようとして、起こされたものである。はるか昔、明治時代の「芸者スト」も思い出した。今の芸能界では想像もつかないできごとである。

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2019年8月17日 (土)

21か条対華要求

 韓国は、日本が日韓併合に関して「帝国主義的侵略を行った」と主張する。当時、国内にそういった野望を持つ人がいなかったとは言わないが、日本は、むしろロシアやイギリスなどが朝鮮半島を帝国主義的侵略で支配することが、日本の安全を脅かすという立場を通してきた。

 これが日韓併合の遠因である。これまでも、カテゴリ「東アジア共同体」で書いてきたことなので詳述しないが、日本の「帝国主義的侵略」の意図が表面化し、世界から批判的に見られるようになったのは第一次大戦に日本が参加し、山東半島のドイツ権益を攻撃・駆逐したあと中国政府に突きつけた「21か条対華要求」に始まるといっていい。

 それは、大正4年(1915)1月18日、日置益公使が、袁世凱大統領に5号21か条より成る要求を直接手渡したものである。以下はその内容。

第一号 山東省のドイツ国権益の処分について日本がドイツと協定する一切の事項を中国は承認する。日本に芝栗(チーフ)または竜口と膠済鉄道とを連絡する鉄道の敷設権を認める。

第二号 旅順・大連租借期限と満鉄安奉線の期限をいずれも99か年ずつ延長する。吉長鉄道の管理経営を99か年日本に委任する。日本人に南満州および東部内蒙古における土地の賃借権または所有権・取得権・自由往来権・業務従事権・鉱山採掘権を認める。同地方で政治・経済・軍事の顧問および教官を要するときはまず日本に協議する。

第三号 漢冶萍煤鉄公司を日中両国の合弁とする。

第四号 中国沿岸の港湾と島とを他国に譲与または貸与しない。

第五号 中央政府の政治・財政・軍事の顧問として有力日本人をまねく。必要な地方の警察を日中合同とするか、または警察官庁に日本人をやとい入れる。日本から兵器の供給を受けるか、日中合弁の兵器廠を設立する。日本人に布教権を認める。南昌を中心に鉄道敷設権を認める。福建省の鉄道・鉱山・港湾にかんする外資導入には日本に先議する。

 まあ、ひどいものである。日本の敗戦でもこんな要求はなかった。第一次大戦で中国は中立を宣言していたのである。あまりひどすぎるので、第五号は欧米など対外的に隠されていた。

 中国としても受け入れられない内容だが、公使は最後通牒を突きつけ5月9日に受諾させた。学生などの抗議活動や日貨排斥運動が活発化したのは当然で、中国ではこの日を「国恥記念日」としており、日本が第2次大戦へ突き進んで、敗戦の愚をおかしてしまった「国恥記念日」でもある。

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2019年8月16日 (金)

二二・六、あわや陸海軍戦闘へ

2019年8月16日 6時13分

戦前、陸軍の青年将校らがクーデターを企てた「二・二六事件」について、事件の推移を分単位で記録した海軍の極秘文書が見つかりました。断固鎮圧を貫いたとされている昭和天皇が、海軍まで企てに同調することはないか、事件の拡大を懸念する発言をしていたことが記録されていて、専門家は当時の天皇と軍の関係を知るうえで極めて貴重だと指摘しています。

 上はNHKニュースが特ダネとして扱ったものだ。ただ、海軍が陸軍のクーデター計画に、実力をもって阻止する覚悟でいたことは、事件後当時海軍将校であった高松宮の『高松宮日記・第二巻』中央公論社(初版・1995/6/25)などで、早くから知られている。以下はその抜粋。

  昭和十一年二月二十七日

 (前略)甲府、高崎、佐倉の兵がき、第一師団と共に戒厳配備についてゐる。陸軍では反軍を占拠部隊と称して依然戒厳部隊の中に加へて給与もしてゐる。ラチあかず。海軍ではすでに反軍と称して、聯合艦隊を第二艦隊は大阪に、第一艦隊は東京湾に集合を命じて、昨日来横須賀より陸戦隊を四ヶ大隊をもってきて芝浦や海軍省に配して待機警備して、陸軍やらずば海軍の手にてもやると云ふ意気であつた。(以下略)

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2019年8月10日 (土)

戦前の右翼メディア

 昨日のNHKニュースが伝えたことだが、大正末に発行され、戦前、最大の右派メディアとも呼ばれた日刊紙、「日本新聞」の紙面、およそ10年間分が元総理大臣、平沼騏一郎が設立した団体の、資料の収蔵庫に保管されていたことがわかった。

 この新聞はおよそ1万6000部発行され、決して多くはないが初期の数年分については発見できなかったものである。

 大正デモクラシーのあと、第1次大戦、朝鮮の3・1独立運動、中国の排日抗議運動、関東大震災などが続き、1924年(大正13)には、中国から孫文が来日、神戸で大アジア主義演説を行い、西洋に対するアジアの連帯を呼び掛けた。

 それが昭和初期になって、ロンドン海軍軍縮条約を問題視した右翼団体の統帥権干犯運動から、相次ぐ要人に向けたテロ事件、満州事変、連盟脱退など急速に軍国化への道をたどるのだ。

 同志の名簿には、後に総理大臣となる近衛文麿、右翼の源流と言われる頭山満などの実力者が名を連ねているが、頭山は、のちに清国を排し中華民国の基を作った孫文と親交があり、孫文亡命中の住居は総理となった犬養毅が提供していた。

 近衛は、日中事変が始まると「今後蒋介石を相手にせず」として戦線を拡大したり、太平洋戦争末期には、東条首相抹殺に動いたり、戦後、戦犯指名が明らかになると服毒自殺するなど、思想の遍歴が不明な点がすくなくない。

 名前のあがった戦前右翼は、現在のネットウヨ言論のようなワンパターン、単細胞的発想では成り立たない。力をつけてきた共産主義思想とどう立ち向かうか。それに必要な知見と教養が必要だ。

 そのあたり、発見された新聞が歴史資料としてどう役立つのか、今後の分析結果とその発表が待たれるところである。

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2019年8月 9日 (金)

飛鳥の将軍

 毎日新聞1面に、

 国内初の本格庭園と位置づけられる奈良県明日香村の飛鳥京跡苑池(7世紀)の発掘調査で、水が湧き出る場所(湧水点)を中心に石組みで人為的に水を流した施設の遺構が見つかったと県立橿原考古学研究所が8日、発表した。天皇のみそぎなど祭祀に深く関係したものとみられる。南北二つの池で構成される苑池は従来、主に鑑賞用と考えられてきたが、役割の再考につながる発見で、専門家も注目している。(以下略)

という記事が載った。

 飛鳥時代というと、奈良盆地の南端にあり、低い山に囲まれた平和な都てあったという印象がある。仏教文化の伝来、聖徳太子と17条憲法、各国使節来訪、そして遺跡として発掘される石像文化などで、甘樫丘から飛鳥を俯瞰するとまさにそんな気がする。

 ところがそれは逆。天皇謀議殺があると思うと専横を極めた蘇我氏を中大兄皇子が殺し、大化改新につなぐ。女帝・斉明天皇は蝦夷征伐を命じたり、百済救援のためと称して自ら九州までいって指揮をとり、最後は壬申の乱で皇位を巡る戦争で終わる。

 塾頭に『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』という既著があるが、それは「飛鳥の将軍阿倍比羅夫」という一文が、第1回古代ロマン文学大賞研究部門優秀賞を受賞したため、それを組み込んで出版したものである。

 比羅夫は、飛鳥時代の豪族で、同時代、特に大化の改新以降の軍事活動を担ってきた。それが、周辺国と密接な関連を持つことを、手前みそながら指摘したのが、同書の内容である。     

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