公園と自然
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……といっても当塾のオハコ「東アジア共同体」のことではない。(^^)
♪アジアの東 日いずるところ 聖の君の現れまして
旧明治節で歌った歌詞である。
明治節11月3日は「必ず晴れる」という伝説?があった。事実、太平洋岸は西高東低の快晴、その代わり校庭の土は冷たく(休みではない式典があった)、終わると足踏みをして体を温めたものだ。その明治節は新憲法公布を祝す「文化の日」になった。(写真クリックで富士山が!)
右翼ブログではそれを国辱的ととらえ、明治節復活を唱えて上記の歌詞を入れているものが多い。ところが、「神」とあるべきところを「紙」とした変換ミスを、そのままコピペしたのではないか、と思えるものがいくつかある。くれぐれもご注意を。
そしてさらに、今日は「望月」陰暦の十五夜の月。もちづき。そこで朝早く沈む寸前の残月を写真にとった。しかしこれは十四夜かな?。
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浅草日本堤から吉原・大門までを衣紋坂という。明治以前の大門は、真っ黒な冠木門(かぶきもん)に、鉄鋲を厳しく打った大門口があった。この門は落語「明烏」でおなじみ、江戸文化を象徴する存在のひとつである。
清元の北州に、
「新玉の霞のころも衣紋坂、えもんつくろう初買の……松の位を見返りの柳の仲の町、いつしか花もちりてつとんと……」
など蜀山人が図にのって詠みこんでいる吉原名所も、実地に行って見るよりは、いながらにして空想している方が、ひどく綺麗で風流のようだ。(中略)昔の黒い大門は、明治十四年現在の鉄門に改められ、両柱に上に橋のようなものを架して、竜宮の乙姫が玉を捧ぐる悪意匠を凝らし、その玉を電気燈にしてあるなどは、いよいよ以て助からない。(矢田挿雲『江戸から東京へ(二)』中公文庫・写真右下)
次にある写真は、明治33年12月に発行された『日本之名勝』(史伝編纂所)に掲載されている。柱上がガス燈、柱には福地桜痴による「春夢方濃 満街桜雲 秋信先通 両行燈影」の16文字が刻んであるというから、この間に改造されたのであろう。
その後、撤去されて小さな石碑ひとつになったのはいつからだろう。片側がガソリンスタンドになり、なんの変哲もない町はずれの通りになってしまった。
最近地元商店街で復活させたのだそうだが、ご覧の通り、とても往年をよみがえさせるようなものではない。(MSN産経)
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高速道建設予定地での遺跡発掘が進む。右側は、瓦・陶器などの登窯、鐘などの鋳物製造場所跡、左下は低地の川筋跡から発見された多数の文字や絵入り土器が発見された場所である。これらにより、8世紀から9世紀にかけて、文献ではほとんど確認されていない下総国府の全体像が浮かび上がってきた。
出土した墨書土器などから、国庁の位置とその向き、またそれを中心とした右京・左京の区割り、国分僧寺・尼寺の立地、遊女や博士館などの存在、郡家・曹司の想定などがわかり、平城京を模した古代地方都市の姿を彷彿とさせている。
国費を浪費してきたダムや大型道路工事が中止されると、こういった副産物をあまり期待でなくなりそうだ。また、発掘にあたる当事者は、国・地方の公務員天下り先でもある財団法人が多いだろう。「ムダの洗い直し」は大いに結構で進めて欲しいが、国、ふるさとの歴史に掘り起こしに蓋をされてしまうとなると、これもまた淋しい。
民主党の政策に逆らう気は全くないが、文化・文明はかつての王侯・貴族の無駄遣いから多く生まれている。国だからできること、またやらなければならないこと、こういった面も長い目で見ておいてほしいという気がする。
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新古今和歌集より
顕昭法師
萩が花まそでにかけて高圓の
をのへの宮に領巾ふれるやたれ
祐子内親王家紀伊
置く露もしづごころなく秋風に
みだれて咲ける眞野の萩原
人麿
秋萩の咲き散る野邊の夕露に
濡れつつきませ夜は更けぬとも
前中納言匡房
河水に鹿のしがらみかけてけり
浮きてながれぬ秋萩のはな
「あれ?、萩は猪じゃなかったっけ。鹿は紅葉だよ」などと、優雅には縁なき衆生。歩いて10分ほどの公園の崖に、滝のように咲き乱れる萩があったのを思い出し、行ってみたら影も形もない。いつの間にかサツキの植え込みに変わっていた。
帰りに住宅街を回ってみたが、原色の大きな花が咲く南方系外来種の草木が全盛で、萩など植えている家などない。日本人の生活から秋の七草がなくなるのは時間の問題か。せめて茅屋のか細い萩(写真)だけは守って行くことにしよう。
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市立公園の四阿(あづまや)は三代目である。同じ場所にあった初代は茅葺きで柱の土台は円い天然石だった。その柱が年を経てやや傾き、屋根もくずれかかっていたので「危険・立ち入り禁止」のロープが張られた。
市はそれを廃棄、取り壊す計画をたてた。ところが市民の反対で柱を補強し、屋根も葺き替えられた。その屋根もわらがばらけだし、再び葺き替えの時期がやってきた。
足場が組まれブルーシートの養生、取り払われてみると、三代目はなんと金ぴかの銅葺きで、柱はコンクリを張った土台に立っていた。さびを利かした庭師の仕事ではあるまい。
アカ(銅)は貴重品である。あずまやの屋根にはつりあわない。しかし茅葺きの寿命、葺き替えの人工を考えるとこの方が安いのだろう。「なさけない」とは、このことをいう。
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「真間山弘法寺」、マイナーとはいえこの地では名刹である。開基は平安時代というが、寺運が隆盛に向かったのは、鎌倉時代に日蓮宗に改宗してからであろう。
右の写真は無縁仏の山、「享保十乙巳十一月」とある。もっと古い石造物もごろごろしているのだが、半跏像が可愛いのでこれにした。アメリカの独立宣言より50年以上前のものである。
さて、次の写真は祖師堂工事、日蓮宗以外では金堂にあたる寺の中心をなすお堂の改築現場である。看板には「浄財勧募中」とあった。このお寺は、日頃文化講演会や町のイベント起こしその他の活動にも積極的である。
隣には、すでに改築が終わった鉄筋コンクリートの立派な寺務所が、辺りを払うように建っている。なまじっか国宝や重文でないので、祖師堂も鉄筋コンクリートになるのかも知れない。まあ、これも平成文化なのだから文句をいう筋合いではない。
さて、この原資はどこから生まれるのだろうか。次の組み写真が物語る積極的なスクラップ・アンド・ビルド。これこそ近代経営に欠かせないモチベーションである。しかし、それだけではスウッと頭に入ってこない。
やはり、相当高額な喜捨がなくてはならない。そこに、いきなり不逞な連想が飛び込んでしまった。統一教会系の霊感商法の手口である。先祖の供養にといって、庶民なら一生かかっても容易に作れないような貯金を女性からまきあげ、印鑑を買わせたというあの事件である。
このお寺では、定期的な宗教講話や講座なども以前から続けて、正しい信仰を身につける努力を払っている。したがってそれなりの浄財を集めることができたのだと思う。しかし、縁なき衆生。まだ不思議に思うことがある。
寺院に限らず、家の近所にあるお地蔵さんが最近どんどん新しいものに代わっていることは、以前書いた覚えがある。どうやら私より若い人の発願らしい。すこし前のことで手元にないが、心霊や死後の世界などの存在について、世代間に差があるという研究結果を新聞で見た。
私は、その中の「戦争世代」に入るのか「戦後第1世代」に入るのか知らないが、そういったことを真っ向から否定し、科学的であることに最高の価値を見いだす人種である。つまり、「鉄腕アトム」の「科学の子」だ。
これは、皇国史観、神話教育の反動かも知れない。昭和天皇と同じ「日本は科学でアメリカに負けたんだ」という発想に通ずる。ところが、世代間では、団塊の世代からあと、心霊・来世肯定派がぐんと増えて、その傾向はより若い人まで続くのだそうだ。
そういえばテレビの番組にそのようなものが増えたり、オウム真理教に高学歴、しかも理系の信者がいることを不思議に思ったりした。宗教と奇跡と心霊、はからずもそういったことに思いをいたす今日の散歩になってしまった。
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