エッセイ

2018年10月11日 (木)

厄介な日本語「首長」

新聞を読んでいたら「福島県の高校生が首長」ここで行が変わった。一瞬、「町長か市長になったのか?」と思ったら、続けて、竜「フタバスズキリュウ」の化石を発見して50年……となっている。

せめて「くびながりゅう」とルビがあればまちがえない。テレビで市町村長を言うときは「首長」を「しゅちょう」とは言わず、主張や市長と聞き間違えないよう「くびちょう」と重箱読みにする。

本来、「首」は胴体と頭をつなぐ「くび」れた部分を言う言葉だ。

首相や首脳陣の「首」は胴体の上全部を頭部として言う。くびを切るという表現は頭だけでなく、そこから身体全体をなくしてしまうことを意味する。首には3種類の解釈があるのだ。

話が横道にそれたが、件の高校生は、学術上画期的な功績を世界に残したということの記事で、どこかの首長や首相では遠く及ばないということを改めて感じてしまった。

 

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2018年9月12日 (水)

イルカ・ショウを謝る卑屈

  9日に「迷惑をおかけして」という組織としての陳謝を取り上げた。最近は、不本意だが誤ってさえ置けば、という安易な謝罪がはやっている。このところ特にスポーツ関連に多く見られる。

 下記は毎日新聞(09/12、東京・朝刊)である。

国際連盟 イルカショー批判 実行委平謝り

2020年東京五輪に向けた最初のテスト大会となったセーリングのワールドカップ(W杯)江の島大会で、開会式で披露されたイルカショーを巡ってトラブルが起きた。大会実行委員会は江の島名物で歓迎の意を示したつもりだったが、国際セーリング連盟は海洋生物保護の観点から「落胆した」と批判した。実行委は平謝りで、文化や考え方が異なる海外の人々を大勢受け入れる五輪・パラリンピック運営の難しさを浮き彫りにした。

 イルカショーが披露されたのは神奈川県藤沢市の新江ノ島水族館で9日夜に開催された開会式。選手や大会関係者の前で、同水族館で人気のあるイルカのパフォーマンスがあった。これを見た12年ロンドン五輪男子470級銀メダルのルーク・ペイシェンス(英国)がツイッターで「ショックを受けた」と投稿するなど、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などで選手らから当惑の声が広がった。

 欧米ではイルカは知的で親しみのある生き物との考え方が強く、ショーを行わせることへ抵抗感がある。(以下略)

 もともと日本人は土地が狭く、古来海産物を食用に供してきた。クジラやイルカに対する欧米人のヒステリックな抗議に「謝罪」する必要はない。「謝罪」を安易に考える、これも欧米人からすると、異様な姿だ。

 このところ、魚は寿司などを通じ日本の食文化として欧米人など外国人に賞味されるようになった。

 哺乳類は別、というが、明治時代にランプ燃料の鯨油を求め太平洋のクジラを乱獲し、絶滅の危機にさらしたのは欧米人だ。イワシなどを追って湾内に入ってきたイルカを資源保護のため捕獲し、水族館に送ったことを非難する資格などない。

 来客に不愉快な思いをさせるのなら、大会のアトラクションから除外するのは結構だ。陳謝は、むしろ欧米人に誤って理解される。

 そもそもイルカ自身はショウを苦しんでいるだろうか、むしろ楽しみにしているかもしれない。やせ馬に人が乗り、鞭で乱打して走らせる競馬の本場・英国人がこれを禁止しない理由はいったい何故か。

 日本人の悪い癖は、言うべきことをきちんと言わないことだ。

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2018年9月 6日 (木)

桃と災難

台風が過ぎたと思ったら今度は北海道で地震。よくもまあ自然災害が続くものだ。これは黄泉の国にいる穢れた神々の仕業に違いない。この神を祓うには「桃の子」を投げつけるのが有効(『古事記』)。

 この際、岡山生まれの伝説、桃太郎が出てきて災害の神(鬼)も退治してほしいものだ。桃太郎は「気は優しくて力持ち」である。

 暑気払いには、桃やビワの実がからだを冷やすので有効とされる。桃はこのように日本人の災難と切っても切れない縁がある。

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2018年8月21日 (火)

「天運循環」

「月日は百代の過客にして、行き交ふ年も又旅人なり」は芭蕉の『奥の細道』の書き出し。「天運循環。無往不復。宋徳隆盛。治教休明。」は朱子の『大学』の序にある。

いずれも長い歴史のなかで疑うことのない真理として扱われてきた。

それが世界的異常気象、地球温暖化やトランプ・安倍政権の奇妙な長続きで、つい疑わしい気分になってしまう。

「そうではない」ことを証明する賢人の出現が待ち遠しい昨今である。

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2018年8月13日 (月)

森友と人情裁判

 司法試験を目ざすある若者が、映画「男はつらいよ」の1場面にある主演の寅さんの台詞遠山の金さんについて、「遠山さんといいますとどこの?」と質問された。雑誌『世界』に載っていた原田國男慶応大教授の話である。

 教授は「裁判官の一番欠けたところは、世情と人情に疎いことだろう。しかし、これが一番大事なことかもしれない」と書きだす。そして、遠山の金さんを知らない裁判官がいるとは思わないが……そもそも寅さんに関心をもたない裁判官も多いであろうと続ける。

 森友学園問題で財務省幹部が公文書改ざんを指揮したことがはっきりしている。地検はこれを不起訴にしたが、検察審査会でひっくり返し送検しても無罪判決をする可能性が高いという。

 裁判が後送りされればされるほど、新聞はおろかテレビドラマすら見ない若者がふえ、寅さんも遠山の金さんも大岡越前も知らない裁判官の判断で裁かれるようになる――老爺心でなければいいが、歴史も人情も世論も無視し放題そんな将来をおそれている。

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2018年8月 9日 (木)

泥田の霜柱

今日の東京の表通りは勿論上野の広小路浅草の駒形通りを始めとして到処西洋まがいの建築物とペンキ塗りの看板痩せ衰えた並樹さては処嫌わず無遠慮に突立っている電信柱とまた目まぐるしい電線の編目のために、いうまでもなく静寂の美を保っていた江戸市街の整頓を失い、しかもなおいまだ音律的なる活動の美を有する西洋市街の列に加わる事も出来ない。(『荷風随筆集(上)』岩波文庫、日和下駄より)

 小池都政で、日本橋の上にかかった首都高を付け替えたり、電線の地中化を進める計画だという。それより、都心全体が無秩序な高層化で、泥田の霜柱のようになってしまったことが問題だ。

こんな景観にどんな予算をつぎ込んでも元へ戻すことは不可能である。もはや「廃都」にするしかない。

 都心には、8階建てという高度制限があった。浅草の十二階が、関東大震災で八階以上が崩れたとか、皇居を見下ろすような高さはだめ、というのは俗説かも知れない。しかし、最低限の景観はこれで保たれた。

 この制限をはずしたのは、経済活性化という政治的理由からである。そして、東京一極集中と地価の高騰という副産物も生んでいる。

 『日和下駄』は大正三年(1914)から約1年あまりの間に書かれた。

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2018年8月 4日 (土)

ハグ流行

今朝、TVの連ドラを見ていたら集団でハグする場面が出てきた。今なら高校野球で優勝決定を喜ぶチームメートの姿だ。

しかし、昭和初期の結婚式披露宴の席でというのは、当時の風習から見てどうかな……、という気がした。

冷戦の頃、共産圏の首脳同士が「同志」と呼び合い、ハグする場面が映像でよく流された。それ以外の国の国際交流は握手が主流であった。今はトランプ・金正恩間でも交わされる。

アメリカなどでは、初対面の民間同士でも使われるようになり、日本もそれにならっている。たしかに、「抱き合って喜ぶ」という言葉は昔からある。しかし、旧知の間柄同志が共感する喜びを最大限に示す場合に使われた。

高温多湿の日本では、握手という風習もなかった。共産圏の人たちのハグは、寒冷地だからかな、と思ったりした。

接吻やハグは、中国伝来の「礼」を基本とする挨拶から見ると、たしかに異質である。この先どこまではやるのだろうか。

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2018年7月30日 (月)

「不快指数」

前回、最近あまり聞かなくなった言葉として「公僕」をあげた。今日は「不快指数」だ。異常気象続きで、広い範囲で通用しなくなったためかも知れない。一応、気象協会では一定の計算式に基づき数値を公表しているが、最近の気象は「不快」では間に合わなくなった。

ちなみに現在の当地、湿度94%、気温28℃、ほぼ無風、曇り。机のマウスは滑るが腕の方は滑らない。

政治の「不快指数」?――それは言わない。

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2018年7月29日 (日)

「公僕」

このところの官僚による不祥事は際限がない。そこで「公僕」という言葉を思い出したのだが、あまり使われていないようだ。試みに検索をしてみたら「差別語だ」という書き込みがあった。

これは驚いた。昭和3、40年頃までは他の権力に対する公務員の自尊の精神として公務員自身が盛んに使っていたはずだ。それが卑屈に聞こえるとすれば、言葉も世につれ人につれ変化していくものだと感じた。

僕、君の一人称・二人称は差別語だ、などといわれるようになるのだろうか。だからIとYouにしろ、なんていう時代はまっぴらだ。

「忖度」も本来の使われ方とは全く逆の意味づけがされてしまった。共通して言えることはぎすぎすした感じになったことだ。

ことばの美しさをたしなむ時代は、遠くへ行ってしまった。美しい日本語を守る最低限の基本は「ウソ」をつかないことにつきる。

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2018年7月23日 (月)

国旗の由来

暑い暑いの毎日だ。予報では最高気温35度なっているが、ネットで調べると現在当地は34度、体感温度39度、風速4m、湿度35%となっている。大雨被害地をはじめ、もっと過酷な気象条件の所があるので愚痴はいえない。

サウジ滞在の長い友人に聞くと、砂漠に住む遊牧民族は、焼け付くような暑さで時には人を死に至らしむ太陽を憎み、月と星を愛する。さらに、オアシスの水と緑、石油は神からの贈り物と信じているという。

イスラム圏では、国際赤十字はキリスト教のシンボル十字架のようでそのまま使えない。そこで愛する三日月をシンボルとした「新月社」として活動しているのかと思った。国旗も三日月と星を配したデザインが圧倒している。

ところがやや違うようだ。イスラム教では伝統的に独特の太陰暦を使う。新月を観測し、次の新月が観測されるまでが1ヶ月となる。したがってラダマーン(断食月)もその基準で決められる。新月は「聖なるシンボル」なのだ。

とはいっても「偶像崇拝」は禁じられている。国旗が日本の日の丸崇拝のような極端な国家主義にはならない。ISのように、アラブ語で書かれたコーランの部分を黒字で書いて旗印にするしかないのかも知れない。

ついでにいうと、国旗はヨーロッパに多い十字架由来の旗、フランスのような、国是を色で表現した3色旗、民族や州など多様性をまとめるような星条旗的パターンの旗でほとんどが占められる。

その中で特異なのがIS旗と韓国の太極旗であろう。太極旗中央の丸は陰陽を示す道教由来の記号になっている。4隅にある棒のような符号は、「当たるも八卦当たらぬも八卦」の易教で使われた。どっちにしても中国太古の思想に準拠しており、現在の中国では通用しない。

日韓併合前の李氏朝鮮時代に使われたもので、韓国民もできれば変えたいと思っているのではないか。

 

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