データ・年表

2014年7月28日 (月)

第一次世界大戦開戦、今日が100年目

  当塾では、7月12日の「潮目の第一次大戦」から「第一次世界大戦年表①~⑥」を経て前回の「第一次大戦と中東」まで8回、ほぼ連続して掲載してきた。そのしめくくりに恰好な社説を、毎日新聞が「歴史の教訓に学びたい」という題で掲げている。以下、その前半部分をお借りする。

100年前のきょう7月28日、第一次世界大戦が始まった。当時のオーストリア・ハンガリー帝国が隣国セルビアに宣戦布告したのがこの日だ。1週間後にはオーストリア、ドイツの同盟国側と、ロシア、フランス、英国の連合国側との間で全欧州を巻き込む大戦に発展した。英国の戦史家リデル・ハートは、大著「第一次世界大戦」の冒頭で「欧州を爆発寸前の状態にもってくるのには50年を要したが、いざ爆発させるには5日で十分だった」と書いている。

 引き金は1カ月前の6月28日、セルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を射殺した「サラエボ事件」だった。それが大戦に拡大したのは、台頭するドイツと、これを警戒する英国やフランス、ロシアなどの対立が複雑に絡み合い、欧州が「爆発寸前の状態」にあったからだ。しかも各国が自国の安全保障のために結んでいた同盟関係が、逆に連鎖的な戦争拡大を招く結果になった。

 人類はこの100年に大戦の時代、冷戦時代、そして今、内戦の時代を経験している。北朝鮮の最近の弾道ミサイル発射は、韓国をにらむけん制であり、リビアでも各国大使館が退避するなど内戦再来の様相を深めている。

 大国は、武器輸出を競いあい、武器近代化などの軍拡に狂奔し、過去の経験はうとんじられている。「霊長類」が聞いてあきれる。第一次世界大戦後に巻き起こったウイルソン体制、大量殺傷根絶のため自衛戦争すら否定しようとした発想、そういった経験をどう生かしていけるかどうか。それによって、これから100年の世界の姿は随分違ってくるだろう。

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2014年7月26日 (土)

第一次大戦と中東

 今月12日の記事「潮目の第一次大戦」を皮切りに、今年開戦100年目を迎える第一次世界大戦の今日的意義をさぐるため、7回シリーズで「第一次世界大戦年表」を書いた。その後気がついたのだが、現在ますます混乱を深めている中東情勢に、第一次世界大戦の戦後処理が大きな禍根を残していることである。

 このところ、イラク、ブッシュ、小泉政権、自衛隊派遣など遠い昔の話になってしまった。激しい戦場であったシリアから、過激派が国境を越えイラク北部へ進出、一帯を占拠してシリアの一部とあわせ「イスラム国」設立を宣言した。かつてアルカイダの流れだと言われていたが、今は違うらしい。

 また、イスラエルとガザ地区の攻防がすさまじく、特にガザ地区では市民の死傷者激増が目を覆うばかりだ。この現状が第一次世界大戦に関係があることに世界はほとんど目を向けていない。アメリカの介入、西欧の思惑にもかかわらず状況は以前より悪化している。

 西欧流自由と民主主義の輸出は失敗だったということである。「イスラム国」が今後どうなるか見当がつかないが、ユダヤ教・キリスト教徒には人頭税を課すという宣言が、「信教の自由を奪う」とか「人道に反する暴挙」という非難を浴びている。

 実は、この「人頭税」、第一次世界大戦でイスラムを国境とするオスマン帝国が、英・仏・露などに敗れるまで広大な領土で実施していたものだ。そこで厳格なイスラム教義に基ずく服従を強いたのかというと、むしろ逆であった。

 帝国が大きくなり過ぎ、多民族国家になってしまった帝国は、その中でユダヤ教・キリスト教が同じ一神教の神をいただく「啓典の民」とし、税金を納めることにより優遇され、宗教による差別をまぬがれることができた。つまり優遇策だったのだ。

 砂漠の遊牧民でイスラム教徒の多い中東は、宗派や部族で激しく争うことはあっても、国境の概念はなかった。それが変わってしまったのがオスマン帝国の敗退である。英・仏・露は密約「サイクス・ピコ協定」を結び、勝手に国境線を引き領土を分割した。これとは別に、英国はユダヤ人やアラブ人に領土を保障するなど2枚舌、3枚舌と呼ばれるような外交で戦争を有利にしようとした。

 そこに生まれたのが、サウジなどの王国を除き、アメリカやソ連から武器を供給されたイラクやシリアなどの世俗国家である。近代的軍隊を持つ、つまり戦争のできる国になったのだ。これとは違うイスラムの原点回帰を主張するのが、エジプトなどに拠点を置くイスラム同胞団であり、その流れをくむガザのハマスである。

 「イスラム国」がこれらとどういう関係になるのか、中東も目の離せない転機にさしかかっているように見える。一方、欧米も「テロとの戦い」の発想から転換を迫られる時期が、いずれやってくる兆候かも知れない。

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2014年7月18日 (金)

第一次世界大戦年表⑥

▼前回の講和条約締結記事で、年表の記載は終わった。しかし、大戦を総括するうえで大切な、第2次世界大戦前の「戦後レジーム」について触れておく。

1922年(大正11)2/6 ワシントン会議
 日中両国が主要な海軍国の戦艦の総トン数を規制、米英日の主力艦保有率を5対5対3とする海軍軍備制限条約、中国の独立・領土保全および関税自主権拡大に関する9か国条約調印。(日中は2/4に、膠州湾租借地返還・日本軍撤退などを「山東懸案解決に関する条約」として合意、調印していた)。

1924年(大正13)7/16
 ロンドン賠償会議で、ドイツが賠償を支払い可能な額に減額するドーズ(委員長をつとめたアメリカの銀行家)案が決定・成立した。

1928年(昭和3)8/27
 パリでケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)、米英仏日など15か国が調印。のち63か国に。

【戦争放棄に関する条約】
第一条
 締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル

第二条
 締約国ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス

第三条
1 本条約ハ前文ニ掲ゲラルル締約国ニ依リ各自ノ憲法上ノ用件ニ従ヒ批准セラルベク且各国ノ批准書ガ総テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約国間ニ実施セラルベシ
2 本条約ハ前項ニ定ムル所ニ依リ実施セラルトキハ世界ノ他ノ一切ノ国ノ加入ノ為必要ナル間開キ置カルベシ一国ノ加入ヲ証スル各文書ハ「ワシントン」ニ於テ寄託セラルベク本条約ハ右寄託ノ時ヨリ直ニ該加入国ト本条約ノ他ノ当事国トノ間ニ実施セラルベシ
3 亜米利加合衆国政府ハ前文ニ掲ゲラルル各国政府及ビ爾後本条約ニ加入スル各国政府ニ対シ本条約及一切ノ批准書又ハ加入書ノ認証謄本ヲ交付スルノ義務ヲ有ス亜米利加合衆国政府ハ各批准書又ハ加入書ガ同国政府ニ寄託アリタルトキハ直ニ右諸国政府ニ電報ヲ以テ通告スルノ義務ヲ有ス

 ▼第一次世界大戦の壊滅的被害を反省し、再発をさけるための最後の手立てとして終戦後10年目に成立した。日本では、議会から第一条の「各自ノ人民ノ名ニ於テ」の文言が、日本の主権者は天皇であるという理由で、その部分を除いて批准した。

 この条約は、「19世紀の国際法によれば至高の存在者である主権国家は相互に対等であるので戦争は一種の『決闘』であり国家は戦争に訴える権利や自由を有すると考えられていたが、不戦条約はこの国際法の世界観否定(Wikipedia)」したものと考えられている。

 しかし、協議の途中、「自衛のための戦争はのぞく」とか「既存の権利(植民地を含む)は域内」「侵略戦争」の定義ができなかった(「定義がない」の安倍首相発言はこの受け売り)など、各国は自国の利益優先にこだわり、批准にあたっても、日本のように条件をつけるところがあった。

 また、比較的被害の少なかった日米では、内部(国民)に力の信奉や戦争犠牲者への追悼などナショナリズムが高まる傾向もあった。そのひとつに帝国主義的植民地競争に出遅れていたという原因があるかもしれない。

 日本は調印後3年目に、「戦争」という言葉を使わない「満州事変」を起こして国際連盟を脱退。続けて「上海事変」「支那事変」を引き起こした。いずれも権益や邦人保護などが理由である。そして11年後に、第二次世界大戦が勃発した。日本は開戦の理由を「自存自衛を全うするため(開戦決定の御前会議)」とした。

  このように、戦争放棄の条約は役に立たなかったことをふまえ、アメリカは、ウイルソンの構想を生かした国際連盟に変る新しい機構の検討をはじめた。この構想は、ドイツが第2次世界大戦で無条件降伏する直前に召集されたサンフランシスコ連合国全体会議で検討され、日本敗戦後の10/24に国連憲章が発効した。

 新憲章では、「戦争」でなく「事変」ならいいなどという余地を全くなくし、「軍事行動」という言葉に統一した。また、当初の案には「自衛」という文言もなかった。ただ、常任理事国5大国に拒否権を与えたため、中南米諸国などが旧宗主国から攻撃された場合など、拒否権で自国防衛が困難な場合、集団で自衛措置がとれるようにという意見がだされた。当時成立したばかりの米州機構の盟主アメリカの賛成を得て「集団的自衛」の文言が追加され、同時に個別の自衛も条文に加わった。

 前にも書いたことがあるが、現在、集団的自衛権論議で、賛成・反対を問わずあたかもそれが権利として行使するのが当たり前、といったとらえ方がある。しかし、憲章の書き方は、行使しない方がいいが、国連の手続きが間に合わない場合などは、その権利行使を害するものではない、という表現になっている。

 また、現行憲法9条2項には、「国の交戦権はこれを認めない」という言葉があるが、これを占領軍の押しつけだとか、日本の骨抜きのためなどと自虐的に考える向きがある。すでに述べてきたように、これが第一次世界大戦後、国際連盟や不戦条約で確立した国際法の新概念である。

 たしかに、現在普通の国でないように見える。それは、アメリカなど、国連を生んできたアメリカなど、常任理事国5大国が巨大軍事国になり、国連憲章を軽視したり勝手に解釈したりして、大戦後の理想的平和至上主義をゆがめてしまうことが”普通”になったからである。

 日本国憲法は、国連憲章発効のわずか100日あまりあとにGHQ案が提示された。その平和主義・理想主義がそのまま盛られていると言っていい。今、地雷禁止など平和構築に貢献しているのは、ノルウェー・ニュージーランドなど中堅国が主である。

 日本は、唯一の原爆被爆国であり、理想的な平和憲法を守り続け70年近く戦争で一人の人命を奪っておらず、また民間の平和活動は水面下で高い評価を得ている。つまり、第一次世界大戦の反省を世界に定着させる指導的役割を担う資格が現存するのだ。

 ウクライナで旅客機が墜落し、パレスチナでイスラエルが地上戦をはじめ、イラク・シリアの火種も拡大の方向だ。アメリカも世界の警察官を買って出る環境にない。日本人が世界に雄飛する将来の夢は、解釈改憲の集団的自衛権などではないはずだ。

 戦争や平和の歴史に無頓着で、世界の中小国を歴訪さえすれば孤立から免れると信じている安倍首相の一刻も早い退陣が先決である。
 

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2014年7月17日 (木)

第一次世界大戦年表⑤

1919(大正8)年
  1/18 パリ講和会議開催(~6/18)。
  1/25 パリ講和会議、国際連盟設立を決定。
  4/30 パリ講和会議、山東省の日本権益を承認。
  5/7  パリ講和会議、赤道以北独領南洋諸島の
             日本委任統治を決定。
▼ロシア革命が起き、ウイルソンが民族自決などの講和原則をかかげたたことにより、中国・朝鮮民衆は対日国際非難への期待を高めた。
3/1、3・1運動(万歳事件)で朝鮮独立運動が全国規模に広がる。4/6、ガンディー、第一次非暴力抵抗運動開始。
4/10、上海で民族主義者・李承晩による大韓民国臨時政府樹立。5/4、北京の学生による抗議運動(5・4運動開始)。
11/16、福州で排日学生示威運動、日本商民と衝突。
 
 ウイルソンの和平構想は、国際連盟設立が決まるなど、平和構築の総論では共感を呼んだが、各論になると本国で連盟加入が議会から否決され、民族自決も北欧等に限定されるなど、後退を余儀なくされた。参照↓
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-2ac7.html 

 6/28 独と連合国、ベルサイユ講和条約調印。中国は
           山東問題を理由に不調印。
 11/7 日本、ベルサイユ講和条約批准。

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2014年7月16日 (水)

第一次世界大戦年表④

1917(大正6)年

 1/11 英、日本軍艦の地中海派遣要請、4月から連合
     国の輸送船団護衛。(6/11 駆逐艦「榊」独潜水
     艦と交戦、59人戦死)。
 2/1 独、無制限潜水艦作戦を宣言。
 2/3 米、独と国交断絶(4/6 宣戦布告)
    ▼昨年末、疲れの見えてきたドイツの講和指向
     に、「勝利なき講和」を唱えつづけたウイルソン
     大統領は、同年、共和党の超タカ派で力の信
     奉者セオドア・ローズヴェルトと大統領選で戦
     ったこともあり、年が明けてもその方針を変え
     なかった。
      しかし、その努力をさかなでするようなドイツ
     の潜水艦攻撃続行宣言や、メキシコに対米開
     戦をそそのかした秘密電報がばくろされ、平和
     主義のウイルソンを窮地に立たせた。
      結局、
米軍は大戦の最終局面の約半年間に
     実戦参加
し、勝利を確実にした。米軍の被害は
     戦病死者11万人に対しロシアが約200万仏が
     150万、英100万、それに民間人多数が加わっ
     たのは、「
国家総力戦」の様相をていしたからで
     ある。

 2/12 日本、中国に対し独、オーストリアとの国交断絶
     を勧告。(3/14 断絶。8/14 宣戦布告)。▼袁
     死後、弱体化した中国政府は日本の援助のも
     と、日本に協力する軍隊を作って共同行動にで
     る。 
 9/10 孫文、広州に軍政府樹立、南北両政府時代始
     まる。
 11/7 ペトログラードでボリシェビキが武装蜂起、ソビ
     エト政権樹立(10月革命)。 ▼以後翌年にか
     けてリトアニア等東欧で独立宣言相次ぐ

 
1918(大正7)年
 1/8 ウイルソン米大統領、14カ条平和再建構想発
    表。
    ▼講和原則14カ条
     秘密外交の排斥・海洋の自由・貿易自由化の
     促進・軍備縮小・植民地住民の利益を考慮し
     た植民地問題の解決・諸国家の独立と保全を      
     保障する国際機構の設立など。
 3/3 ブレスト=リトフスク講和条約調印。▼敗戦間近
    と思われていた独・オーストリア軍がロシア革命
    でロシア(ソ連)に勝ったことになる。この年、第
    一次世界大戦は終結に向け、混とんとした様相
    を見せる

 6/29 ソ連混乱の中、チェコスロバギア軍団が孤立、
     ウラジオストクを占拠。▼米がチェコ軍援助の
     ため、日米共同派兵を提議、日本はこれに乗
     る。しかし、米撤兵後も目的を変更し20年8月
    末まで残留し、多くの犠牲をだして引き上げ完
    全な失敗となる。(シベリア出兵
 11/9 ベルリンで労働者武装蜂起、皇帝退位し共和
     国樹立。
 11/11 独、連合国と休戦協定調印。第一次世界大
      戦終結。

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2014年7月15日 (火)

第一次世界大戦年表③

Plc14071422580023n1q陸上自衛隊が14日、フランス革命記念日の軍事パレードに参加し、自衛官3人が日の丸を掲げてパリ中心部のシャンゼリゼ通りを行進した。今年は第一次大戦開戦から100年に当たり、当時、参戦した国などが招待された。自衛隊が単独で外国の軍事パレードに参加するのは初めて(記事・写真=産経msnより)。

1916(大正5)年
 3月 参謀本部、粛親王の宗社党を援助し満蒙独立
          運動を画策。
 4~5月 英・仏・露、中東・トルコ分割秘密協定取り
           決め。
 5/1 ベルリンで大規模な休戦要求デモ。
 6/6 袁世凱、没。
 7/1 ソンム(フランス北部)の戦い。11/19まで続く。
         英軍始めて戦車使用。会戦による死傷者、英軍
    40万・仏軍20万・独軍45万。
 7/3 第4回日露旧約調印。▼大戦は国家の総力をあ
    げた死闘となり、経済的、政治的苦境なたったロ
    シアの援助を連合国側から求められた。これに
    応じて攻守同盟を結ぶとともに、秘密協定でこれ
    まで日本の勢力範囲を満蒙としていたのを中国
    全土とすることを認めさせた

 8/13 中国奉天省の鄭家屯で日中両軍衝突、日本
     軍戦死者11人。
 9月 露軍の攻勢独オーストリア軍に阻まれる。死傷
    者100万人を数え軍隊の士気低下。
 12/12 独、対連合国和平交渉の意思を米へ伝達。
 12/13 独の講和提議により東京株式市場大暴落。
 12/18 ウイルソン米大統領、交戦国に和平条件提示
      を要請。
     ▼ウイルソンは1915年前半に腹心をヨーロッパ
     に派遣し軍縮や公海の自由、自由貿易などの
     実現を条件として和平を斡旋したが実らなかっ
     た。新興大国扱いされるアメリカの発言力には
     限界があったのだ。
      一方、1915年6月に発足したタフト前大統領ら
     が主導して「平和強制連盟(League to Enforce
     Peace )」が大戦の講和を機に戦争を予防する
     国際機関の設立を提唱していた。ウイルソンは
     これに支持を表明した。
      これがのちの「14カ条」提案や国際連盟提案
     にむすびついていったのは明らかであった。

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第一次世界大戦年表②

1915(大正4)
1/18 中国に対華21カ条要求提出。旅順・大連の租借
     期限および満鉄経営の99年延長、山東半島の
     独権益継承などを要求。▼前段はロシアの利
     権で期限切れまであと6年残っていたものを日
     露戦争勝利で横取り。後段が第一次世界大戦
     で独を追い出した。本来は中国に返還するの
     が筋だが、なにか中国が戦争の相手だったよ
     うな仕打ちで、「侵略」丸出し。日本国内ですら
     火事場泥棒的という声あり。
      中国は、この戦争に局外中立を宣言してい
     た。しか
し、後半は一転、日本と同じ連合国側
     について参戦。
(21カ条要求内容は文末)
 2/11 東京の中国人留学生が21カ条要求反対抗議大
     会開催。
 3月  上海・漢口・広東で日貨排斥運動。
 4/22 独軍が初めて毒ガスを使用。
 5/7  独潜水艦、英客船を撃沈、米国人139人を含む
      1000余人死亡。
 5/9  中国の外交当局、日本の最後通牒に受入れ回
      答。のち、この日を国恥記念日に。
 11/3 山下汽船「靖国丸」、独軍艦により撃沈。以後2
     隻が攻撃を受け沈没。
 12/4 東京株式市場大暴騰。大戦景気始まる。

対華21カ条要求(Wikipediaによる)
第1号 山東省について ドイツが山東省に持っていた権
益を日本が継承すること
・山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこ

・芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄
道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
・山東省の主要都市を外国人の居住・貿易のために自
ら進んで開放すること

第2号 南満州及び東部内蒙古について 旅順・大連(関
東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年
に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉
鉄道は2004年まで)
・日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に
必要な土地の貸借・所有権を与えること
・日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往
来したり、各種商工業などの業務に従事することを許す
こと
・日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
・他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために
他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として
借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
・政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合
は日本政府に協議すること
・吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること

第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大
の製鉄会社)について 漢冶萍公司を日中合弁化するこ
と。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権
利・財産などを処分しないようにすること
・漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同
公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。ま
た同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのあ
る措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること

第4号 中国の領土保全について 沿岸の港湾・島嶼を
外国に譲与貸与しないこと

第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、
その他 中国政府に政治経済軍事顧問として有力な
日本人を雇用すること
・中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その
土地所有権を認めること
・これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、
不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要
性のある地方の警察を日中合同とするか、またはそ
の地方の中国警察に多数の日本人を雇用することと
し、中国警察機関の刷新確立を図ること
・一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の
供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁
の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰
ぐこと
・武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、
南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
・福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を
含む)に関して、外国資本を必要とする場合はまず
日本に協議すること
・中国において日本人の布教権を認めること

 (第5号は最後通牒よりのぞく)  

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2014年7月13日 (日)

第一次世界大戦年表①

、補足または塾頭注)
1914(大正3)
 1/23 シーメンス事件。(独シーメンス社員の密告
     をきっかけに日本海軍における複数の収賄
     が発覚)
 2/10 日比谷公園で内閣弾劾国民大会開催。
     群衆が国会を包囲、軍隊出動。
 6/28 オーストリア皇太子夫妻、セルビア・サラエ
    ボで暗殺される。
 7/28 オーストリア、セルビアに宣戦布告(第一次
    世界大戦開始)。▼露帝国直ちに介入決定、
    英に中立要請、英拒否。独、露の動員令撤回
    要求、応じぬまま独宣戦布告。仏には中立要
    求、仏拒否。以後8月にかけて独、ルクセン
    ブルク、ベルギーに侵入、仏に宣戦布告。英、
    独に撤退を求めて宣戦布告。こうして
     オーストリア、独×帝政ロシア、セルビア
     独、オーストリア×英、仏
    の全面戦争に拡大。後にイタリア、トルコも
    英・仏連合軍に加わる。

 8/23 日本、独に宣戦布告。▼8/7、英から商船保護
    の要請を受け、日英同盟の存在を根拠に対独参
    戦。元老の井上馨は、「今回の欧州の大禍乱は、
    日本国運の発展に対する大正時代の天佑」と述
         べ
た。しかし、英は、日本の大陸侵攻の意図を
    知り、参戦依頼を取り消してきたが後の祭りであ
    った。

 8/30 独飛行機、パリに爆弾投下。世界初の空襲。
 9/2  日本軍、山東半島上陸、11/7 青島占領。
10/14  日本海軍、赤道以北の独領南洋群島占領。

この年、日本はさしたる抵抗もなく、するするッと大戦
にひきこまれていった。井上馨が「大正の天佑」と言った
のは、日本の各界を覆う閉そく感が、これで解決すると
期待したからであろう。

 政治は、相次ぐ政争で大正改元以来3年の間に総理
が3回も変った。海軍はひっ迫する財政で予算が取れ
ず、それにシーメンス事件が追い打ちをかけ窮地に陥
った。
 陸軍も、前年おきた中国の孫文革命を清王朝のお墨
付を得て横取りした袁世凱が暴政をほしいままにし、中
支派遣軍などへの暴行事件が繰り返されたため、政府
に対処を求めていた。

 政府は、西欧列強と歩調を合わせ袁政権を援助して
いたため、辛亥革命を支持していた右翼からの突き上
げもこれに加わった。

 日露戦争終結からすでに10年がたった。国民はかつ
てない激戦で、多くの肉親を大陸の戦線で失った。勝
利は得たものの、ロシアから得たものは南樺太と満州
に持っていた鉄道利権などで、賠償金はなかった。

 そのため、戦費負担は、ひきつづき国民の生活を強
く圧迫し、米騒動が起きたのもこの時期である。戦死者
を多く出した心の傷跡も残っていたが、ヨーロッパの戦
争のおつきあい、日清、日露と違って最初から勝ちが
見える戦争。日露では得られなかった利益を、今度は
勝ち取ろう、という意識もあったのだろう。

 当時アメリカにあった「戦争を無くするための戦争」と
した発想はなかったかも知れないが、ヨーロッパの生
産低迷で輸出ブームが起き、後に好況にわいたのは、
後に参戦したアメリカと日本だけだった。

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2014年7月12日 (土)

潮目の第一次大戦

 歴史の流れが変わる、世の中ががらっと変る、それを革命というか維新というか、言いかたはどうあろうと、明治維新、戦争そして敗戦、これが日本の近現代史において大きな画期であることを疑う者はいない。

 今年は第一次世界大戦勃発から100年目にあたる。ヨーロッパではこれを大きな節目として扱っているようだが、日本やアメリカではこれにスポットを当てているような動きはあまりない。ことに日本が参戦国であるにもかかわらず、日清・日露戦争以上に扱われることはまずない。今放映中の朝ドラ「花子とアン」でも触れずじまいのようだ。

 中国や韓国がいう「歴史認識」の歴史はいつからのことを指すのであろうか。中国は東シナ海や南シナ海に清や明といった国民国家成立以前の話を持ち出して自国だけに通用するルールを押し付けようとしている。

 国際関係をそれで律しようというのは、どこの国から相手にされない空論だと思われても仕方がないだろう。これがイスラエルやパレスチナの話になれば、全く解決のつけようのないものになってしまい世界は大混乱におちいる。力だけがそれを解決する手立てだと考えるのは、残念ながら為政者だけでなく、それぞれの国民もそれを支える力になっている。

 中国のことだけではない。安倍首相のいう抑止力も、中国の圧力も本質は同じで、超大国をはじめテロリストにまである。そこで、どこかで折り合いをつけなければならなくなり、それが歴史認識の共有という作業につながる。

 前置きが長くなったが、歴史認識は国際紛争の原因となった直近のことを当事国双方で深化させなくてはならないということで、遠い昔にまでさかのぼってあら探しをすることではない。そして、A国がB国に対してということでもない。

 自国だけを「美しい国」とするナショナリズムも、戦後レジュームの脱却などという逃げもそういった作業の邪魔をし、人類の永遠の平和に水を差すものでしかない。もちろん、戦争責任を雲散霧消させようなどという、歴史修正主義があってはならない。

 塾頭は、この歴史認識について、第一次世界大戦後を対象にすべきだと思っている。これは、当塾で下記に示すようにたびたび触れてきたが断片的でまとまりを欠き、またそういった論文をものする能力もないので、第一次世界大戦年表を計画してみた。

 その前に、このような区切りをつけることの、理由とその意義を述べておきたい。それは、世界的には帝国主義的植民地主義が抑制される方向がはっきりしてきたのに、第一次世界大戦以降、出遅れた日本がその逆の方向をたどったことである。

 日本は、大日本帝国憲法が発布された時、またそれをさかのぼる征韓論や、砲艦外交で韓国の開国を迫った日韓修好条規をもって、帝国主義的植民地拡大時代に入ったとするのがこれまでの定説で、塾頭もかつてはそう思っていたし、本塾への懇切なご指摘もいただいた。

 しかし、いくつかの日韓関係史や個人の伝記、日記、外交史などを断片的にあたると、日本は幕末、アヘン戦争の結末に驚き、欧米列強やロシアからの攻撃や侵略をいかにかわすかに腐心していたことが想像される。

 そのための最大課題が「富国強兵」であり、「文明開化」、「自由民権」の確立、「国際法」遵守を国策とし、植民地化は防がなければならないもの、東亜をそこから守る必要があると感じても、列強の尻馬に乗るということは考えていなかったと思う。

 もちろんこれに反した国粋主義は、すでに吉田松陰の頃からあり、明治期にも福沢諭吉の脱亜論など、「東亜の盟主たらん」とする言論の存在は否定できない。しかし他国と戦って勝つ自信はまだなく、冒険主義への加担はすくなかった。

 もうひとつの理由は既に述べたとおり、いたずらに歴史を過去にさかのぼらせ、最近見られるように元寇や倭寇の頃まで議論しだすことなど、自由研究ならともかく、不毛の民族対抗意識を増幅させるだけで何の益もない愚行と言わざるを得ない。

 以後、次回の「第一次大戦年表」に移行する。

【関連する過去記事】
2014年1月 2日 (木)
「戦争責任」はいつから①
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-c3d2.html
2014年1月 5日 (日)
「戦争責任」はいつから②
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-551a.html
2013年12月30日 (月)
日清戦争と日韓併合
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-2bec.html
2013年10月29日 (火)
「日本外交は野暮で間抜け?」
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-2ac7.html
2014年2月 3日 (月)
明治から大正へ
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-ff3f.html

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2010年8月25日 (水)

9月にあと1週間

[偽作]

お遍路を 途中でやめて くせがつき
                           菅直人
とりまきと 新聞さわいで 僕さびし
                         小沢一郎
菅さんに 居座りのコツ 教えます 
                           福島みずほ
優勝旗 かわりに普天間 県外へ
                           仲井間沖縄県知事

 これだけではもったいない。そこで、「本はともだち:戦争や平和考えるきっかけに 親子で読みたい絵本」という8/25付毎日新聞の記事をそっくりお借りする。当塾にとってはルール違反だが、こども/小学生/戦争」というキーワードで最も多くの検索が集まる。毎日のHPから消えることも予想し残しておきたいと考えた。同時に、同文を「こども/小学生/戦争」にも転載しておく。

 日本の戦争は65年前に終わったが、世界ではいまも戦闘が続き、傷ついている子どもたちがいる。戦争や平和を考えるきっかけとなる絵本を紹介する。ぜひ親子で読んでみたい。【木村葉子】

 ◇「キンコンカンせんそう」(ジャンニ・ロダーリ作、ペフ絵、アーサー・ビナード訳、講談社)
 イタリアを代表する児童文学作家ロダーリ(80年没)の反戦絵本。長い戦争が続き、ついに大砲を作る金属がなくなる。大将は学校や教会など国じゅうの時計台から鐘を集め、巨大な大砲を作った。

 ◇「やめて!」(デイビッド・マクフェイル作・絵、柳田邦男訳、徳間書店)
 男の子は一通の手紙を書き終え、ポストに出しに行く。上空には戦闘機が飛び、街には戦車が走って爆発が起きる。恐ろしい兵士も見るが、男の子は黙々と歩き続ける。ポストの前で、いきなり少年に胸ぐらをつかまれた男の子は、大きな声で叫ぶ。ほとんど文字のない場面が続く絵本。

 ◇「約束 『無言館』への坂をのぼって」(窪島誠一郎作、アリス館)
 戦争で亡くなった画学生の遺作を集め、長野県上田市に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開館した館主が、自身の半生と美術館設立までの道程を振り返った。

 ◇「海をわたった折り鶴」(石倉欣二作、小峰書店)
 広島で2歳のときに被爆した佐々木禎子さんは12歳で白血病を発症。回復を信じ、病床で薬の包み紙などで鶴を折り続けたが、8カ月後に亡くなった。この折り鶴の一つが、ニューヨークにある米同時多発テロの資料館に飾られている。

 ◇「ばぁちゃんのしべとろ」(みふねしよこぶん、はやしまきこえ、瑞雲舎)
 択捉(えとろふ)島・蘂取(しべとろ)で生まれ小3まで暮らした作者が、漁業で栄える町や、川や海、山で遊んだ幼い日々をたどる。懐かしい故郷へ自由に行けない思いとともに、北方領土問題を問いかける。

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