データ・年表

2019年8月22日 (木)

日韓国交回復時の韓国情勢

 日韓の軋轢に解決のめどが立たない。韓国人は一体何を考えているのだろう、という日本の雰囲気だが、徴用工問題などを清算して国交回復に至った1960年当時の韓国は、国の体をなしていないといってもいいほどの混乱状態があった。

 それ以後も韓国の政変には同じような不安定さが繰り返されるが、日韓の合意を国際法で説明しても簡単に受け入れがたい国民感情が存在するのだろう。

 下の年表は、文京洙『新・韓国現代史』を参照して作成した。日本の年号を便宜上併記している。

1910/明43 日韓併合
1919/大8  3・1独立運動:上海で大韓民国臨時政府樹立
1939/昭14 日本、国民徴用令公布施行
1943/昭18 カイロ宣言
1945/昭20 2月ヤルタ会談、8月ソ連参戦、日本敗戦、ソ連軍元山上陸、9月朝鮮人民共和国樹立宣布、米軍仁川に上陸
1947/昭22 9月米、国連に朝鮮独立問題提訴:ソ連、米ソ両軍の朝鮮からの撤退を提案、11月国連総会、南北朝鮮総選挙案可決
1948/昭23 8月大韓民国樹立宣布、韓米軍事安全暫定協定締結、9月朝鮮民主主義共和国樹立、11月済州島に戒厳令、焦土化作戦本格化
1949/昭24 中華人民共和国樹立
1950/昭25 6月朝鮮戦争勃発、9月国連軍(ソ連は安保理欠席:塾頭注)仁川に上陸、10月中国人民志願軍参戦
1953/昭28 板門店で休戦協定調印
1955/昭30 金日成「主体思想」を提起
1960/昭35 4月選挙不正糾弾など10万人群衆デモで李承晩大統領下野宣言、5月軍事クーデター
1961/昭36 韓国最高会議議長に朴正熙、11月金鍾泌(当時朴議長の黒幕的存在で情報局部長を務めていた・塾頭注)・大平メモで請求権問題合意を見た。
1962/昭37 朴正熙大統領に当選
1964/昭39 6月韓日会談反対デモ、首都圏に非常戒厳令(6.3事態)
1965/昭40 6月日韓条約調印(8月、野党がボイコットする中で国会批准:12月批准書交換、正式に国交回復)、同月武装軍人、高麗大に乱入ソウル地区に戒厳令

1979/昭54 10月国会、金泳三首相を除名、釜山・馬山で朴退陣デモ、朴大統領射殺事件、済州島を除く全国に非常戒厳令

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2019年7月26日 (金)

忘れられる軍都の歴史(市川)

 明治初年、市川北西部の江戸川に面した国府台は、一帯が総寧寺の天領で畑作を主とする寒村だった。そこに大学校をつくる計画があり、文部省が買い占めた。この計画は、交通と水利の便が悪く立ち消えとなったため、陸軍省が譲り受けた。

・1882(明治15)軍人勅諭発布

・1883(明治16)陸軍大学校開校

・1885(明治18)全国で初めてとなる下士官養成機関・教導団を国府台に設置

・1889(明治22)大日本帝国憲法発布

・1890(明治23)教育勅語発布

・1894~95および1904~05の日清、日露戦争に教導団出身者が軍の中核として活躍

・1898(明治31)教導団廃止、跡地に野砲兵第16連隊創設。その後、第15、第14連隊・が東京から移駐。同時に野砲兵第3旅団司令部設置

・1899(明治32)教導団におかれた仮病室が陸軍衛戌病院となる。

・1922(大正11)野戦重砲兵第1連隊(以下「野重1」などと略称)が機械化と同時に横須賀から国府台に移駐。同年、機械化された野重7を創設。野砲兵第1連隊、騎砲兵大隊も隷下におさめ、野重第2旅団司令部設置。以下部隊の変遷は省略するが、ノモンハン事件、第2次大戦のガダルカナル、ラバウル、沖縄などに出撃、部隊全滅を含む激戦に参加する。

・1936(昭和11)衛戌病院を陸軍病院と改称。翌37年から敗戦まで全国唯一の戦争神経症などを含む障害者収容病院となる。

・1938(昭和13)~1945(昭和20)約1万3000人の移送患者のうち、8002件の病床日誌(カルテ)が奇跡的に保存され、2006年12月、清水寛編著『日本帝国陸軍と精神障害者兵士』不二出版、として刊行された。

・1945(昭和20)陸軍病院解体とともに国立病院に移管、国立国府台病院として一般患者を受け入れる総合病院となる。軍人患者は退院できぬまま長い間留め置かれ、精神医療など独自の専門性も維持されてきた。

・2015(平成27)4月から国立研究開発法人国立国際医療研究センター国府台病院となる。

(以上の多くは、パンフレット『「赤レンガをいかす会」設立シンポジウム』を参照した。同会は、教導団時代敷地に建造された赤レンガ建物が、歴史遺産建造物として文化財指定されるべきだとして市民運動をしている。また、同地周辺には、病院のほか、当時使われた幹部用料亭、飲食店、記念碑、墓標なども現存する。

 

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2019年2月 2日 (土)

改元の年に起きたこと

1月、インフルエンザが猛威をふるう。

・消費税新設、国民に重荷が。

・文部次官など政官界に収賄容疑などの起訴相次ぐ。

・4月、内閣支持率7%に急落。

・7月、参院選で与野党逆転。

・8月、連続幼女誘拐事件に端を発しホラービデオの規制が問題化。

・流行語、セクシャル・ハラスメント「セクハラ」

・11月、海上自衛隊航海日誌改ざん発覚

 これは、今年のことではありません。30年前、天皇が変わって改元のあった年のことです。この年は自民党の首相が3人も交代しました。

 世界では、天安門事件とベルリンの壁崩壊がありました。それに匹敵するような変化の年になっても不思議ないのが今年です。

 

 

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2019年1月25日 (金)

略号の氾濫

本塾のカテゴリーにINDEXがあり、その中にスター・ウォーズと題したサイトがある。そこでは、英文略号で示される50以上の言葉を簡易辞書として収録した。ところが今日の新聞で見た「FCLP」は覚えがない。「空母艦載機陸上離着陸訓練」のことで、日米共用の硫黄島基地を種子島沖合の無人島・馬毛島に移転するため、防衛省は160億円を島所有者に払うという紹介記事の中にあった。

きっそくサイトを訂正・追加しておいた。新聞記事で( )内に和訳があれば不自由はしないが、必ずそうなっているとは限らず、またあればあったで略号を覚えようとしない。本塾への検索項目で最も多いのが「EUECの違い」や「NATOとの違い」である。

今やあらゆる分野で略号の氾濫。すこしは規制してほしいものだ。慣例になってしまったが毎日新聞コラム「金言」から拾った略号。この程度知っていれば国際経済記事が読みこなせるようになるのか?。

EU・欧州連合
EPA
・経済連携協定
TPP
・環太平洋パートナーシップ
FTA
・メガ自由貿易協定
WTO
・世界貿易機関

 

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2018年2月 3日 (土)

核兵器関連年表

2018_02030001_22/8夕刊トップである。これは、冷戦解消後米大統領が取った初の変節といっていい。専門語ではNPR=核態勢見直しである。核問題は絶えず緊張にさらされながらも、年を追って抑制の方向を取ってきた。

そこで大ざっぱな年表を作ってみた。トランプが方向転換を試みようとしていることが分かる。(色字は文末に解説)

1945.7 米国がアラモゴルジで世界初の核実験
    8 広島・長崎に原爆投下
 1949.8 ソ連が最初の核実験
 1952.10 英国が最初の核実験
    11米国が最初の水爆実験

1954.3 ビキニ環礁水爆実験で第五福竜丸被爆
1960.2
 フランスが最初の核実験
1962.10
 キューバー危機
1963.8
 部分的核実験禁止条約(PTBT)採
    択

1964.10 中国が最初の核実験
1967.2
 ラテンアメリカ非核地帯条約
    (SALTⅠ)署名
1968.
7 核不拡散条約(NPT
)署名
1972.5
 米ソ、第一次戦略兵器制限条約、
    弾道ミサイル迎撃システム制限条約
    (ABM)条約署名

1974.5 インドか地下核実験
1979.6
 米ソ、SALTⅡ署名
1985.8
 南太平洋非核地帯条約署名
1987.12
 米ソ、中距離核戦力(INF)全廃
     条約署名

1992.1 朝鮮半島非核化共同宣言署名
1995.5
 NPT無期限延長決定
1985.12
 東南アジア非核地帯条約署名
1996.4
 アフリカ非核地帯条約署名

1996.9 包括的核実験禁止条約(CTBT)署
    名開始
1998.5
 インド・パキスタン続いて地下核実験
1998.6
 新アジェンダ連合(核兵器廃絶の実現
    をめざして共同行動をとっていスウェ
    ーデン、アイルランド、ブラジル、メ
    キシコ、ニュージーランド、エジプト
    南アフリカの非核保有国七カ国
)発足
1999.10
 米上院、CTBT批准拒否

2001.12 米国、ABM条約脱退通告
2002.1
 米国防省、核態勢見直し(NPR)公
    表。米大統領、北朝鮮、イラン、イラ
    クを「悪の枢軸」と批判

2002.9 日朝平城宣言
2003.1
 北朝鮮、NPT脱退宣言
2003.8
 北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議
2006.10
 北朝鮮核実験。以後2009.5、
    
2013.2、2016.12016.92017.9
    
と続く。
    国連安保理の非難決議、制裁決議等も 
    その都度内容を強化しながら繰り返さ
    れる

1993.5 北朝鮮ミサイル発射実験。
 以後
1998.8、2006.72009.4
 2012.42012.122013.5
 2016.22017.8など。国連決
 議などは上に同じ
 

2011.10 核兵器禁止条約

2015.7 イランは米英仏独中露6か国協議
P5プラス1(核保有5大国とドイツ)
との間で、核開発施設の縮小 や条件付き
軍事施設査察などの履行を含む最終合意
を締結

 【解説】

NPT

条約では、全加盟国を196711日の時点で(=196612月までに)既に核兵器を保有している国(保持を許された核兵器国)であると定められたアメリカ、ロシア、イギリス、1992年批准のフランスと中国の5か国と、それ以外の加盟国(保持しておらず、また許されない非核兵器国)とに分けられる(第9条第3項)。

旧ソビエト社会主義共和国連邦(核兵器国)の構成共和国であったベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンは核兵器をロシアに移転し、非核兵器国として加盟。核兵器国ではなかったが核兵器を保有していた南アフリカ共和国は条約加盟前に核兵器を放棄し、1991年に非核兵器国として加盟。

核兵器国については、核兵器の他国への譲渡を禁止し(第1条)、核軍縮のために「誠実に核軍縮交渉を行う義務」が規定されている(第6条)。しかしアメリカ、ソ連は核開発競争により「誠実に核軍縮交渉を行う義務」の実行どころか核兵器保有数を大幅に増加させた。

非核兵器国については、核兵器の製造、取得を禁止し(第2条)、国際原子力機関(IAEA)による保障措置を受け入れることが義務付けられ、平和のための原子力については条約締結国の権利として認めること(第4条)、などを定めている。 

また5年毎に会議を開き条約の運営状況を検討すること(第8条第3項)を定めている。

IAEA

国際原子力機関は、国際連合傘下の自治機関である。

本部はオーストリアのウィーンにある。またトロントと東京の2ヶ所に地域事所と、ニューヨークとジュネーヴに連絡室がある。

 核兵器禁止条約

20111026日〜31日、国連総会で軍縮・国際安全保障問題を扱う第一委員会が52の決議を採択した。このうちマレーシアなどが提出した核兵器禁止条約の交渉開始を求めた決議が127ヵ国(昨年より6ヵ国多い)の賛成で採択された。

20161028日(日本時間)、国連総会第一委員会(軍縮)において、多国間の核武装撤廃交渉を来年から開始する決議案が、賛成123、反対38、棄権16で可決された。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、日本は反対票を投じ、北朝鮮は賛成、中国は棄権した。

201777日に122か国・地域の賛成多数により採択されたが、全核保有国は不参加、アメリカの核の傘の下にあるカナダやドイツなどNATO加盟国や日本、オーストラリア、韓国なども不参加となった。また、当初は条約に賛成だった北朝鮮も核兵器の開発に成功後、不参加に転じた。

なお、核兵器禁止条約の国連総会への採択を含め、条約の推進には2007年に核戦争防止国際医師会議から独立して結成された核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の貢献が大きいとされ、同団体は2017106日にノーベル平和賞を受賞した。

この条約は、50ヵ国が批准して90日後に発効する。2017920日にガイアナ、タイ王国、バチカン市国の3か国が[13]2018116日にはメキシコがこの条約に批准した

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2017年5月12日 (金)

平均寿命記録

(年) (平均寿命)   (備考)

    (男) (女)

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1931           満州事変勃発

1935  46.9  49.6

1937           日中戦争勃発

1941           太平洋戦争勃発

1920  23.9  37.5   敗戦

1921  42.6  51.1

1951  60.8  64.9   対日講和条約

2015  80.75 86.99   一昨年

--------------------------------------

     厚生省調べ(生活白書)を抜粋

◆「人生50年」と謡ったのが織田信長。その後、戦争の時代を経て超高齢者社会に至るまでの劇的変化を見てください。塾頭

 

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2014年7月28日 (月)

第一次世界大戦開戦、今日が100年目

  当塾では、7月12日の「潮目の第一次大戦」から「第一次世界大戦年表①~⑥」を経て前回の「第一次大戦と中東」まで8回、ほぼ連続して掲載してきた。そのしめくくりに恰好な社説を、毎日新聞が「歴史の教訓に学びたい」という題で掲げている。以下、その前半部分をお借りする。

100年前のきょう7月28日、第一次世界大戦が始まった。当時のオーストリア・ハンガリー帝国が隣国セルビアに宣戦布告したのがこの日だ。1週間後にはオーストリア、ドイツの同盟国側と、ロシア、フランス、英国の連合国側との間で全欧州を巻き込む大戦に発展した。英国の戦史家リデル・ハートは、大著「第一次世界大戦」の冒頭で「欧州を爆発寸前の状態にもってくるのには50年を要したが、いざ爆発させるには5日で十分だった」と書いている。

 引き金は1カ月前の6月28日、セルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を射殺した「サラエボ事件」だった。それが大戦に拡大したのは、台頭するドイツと、これを警戒する英国やフランス、ロシアなどの対立が複雑に絡み合い、欧州が「爆発寸前の状態」にあったからだ。しかも各国が自国の安全保障のために結んでいた同盟関係が、逆に連鎖的な戦争拡大を招く結果になった。

 人類はこの100年に大戦の時代、冷戦時代、そして今、内戦の時代を経験している。北朝鮮の最近の弾道ミサイル発射は、韓国をにらむけん制であり、リビアでも各国大使館が退避するなど内戦再来の様相を深めている。

 大国は、武器輸出を競いあい、武器近代化などの軍拡に狂奔し、過去の経験はうとんじられている。「霊長類」が聞いてあきれる。第一次世界大戦後に巻き起こったウイルソン体制、大量殺傷根絶のため自衛戦争すら否定しようとした発想、そういった経験をどう生かしていけるかどうか。それによって、これから100年の世界の姿は随分違ってくるだろう。

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2014年7月26日 (土)

第一次大戦と中東

 今月12日の記事「潮目の第一次大戦」を皮切りに、今年開戦100年目を迎える第一次世界大戦の今日的意義をさぐるため、7回シリーズで「第一次世界大戦年表」を書いた。その後気がついたのだが、現在ますます混乱を深めている中東情勢に、第一次世界大戦の戦後処理が大きな禍根を残していることである。

 このところ、イラク、ブッシュ、小泉政権、自衛隊派遣など遠い昔の話になってしまった。激しい戦場であったシリアから、過激派が国境を越えイラク北部へ進出、一帯を占拠してシリアの一部とあわせ「イスラム国」設立を宣言した。かつてアルカイダの流れだと言われていたが、今は違うらしい。

 また、イスラエルとガザ地区の攻防がすさまじく、特にガザ地区では市民の死傷者激増が目を覆うばかりだ。この現状が第一次世界大戦に関係があることに世界はほとんど目を向けていない。アメリカの介入、西欧の思惑にもかかわらず状況は以前より悪化している。

 西欧流自由と民主主義の輸出は失敗だったということである。「イスラム国」が今後どうなるか見当がつかないが、ユダヤ教・キリスト教徒には人頭税を課すという宣言が、「信教の自由を奪う」とか「人道に反する暴挙」という非難を浴びている。

 実は、この「人頭税」、第一次世界大戦でイスラムを国境とするオスマン帝国が、英・仏・露などに敗れるまで広大な領土で実施していたものだ。そこで厳格なイスラム教義に基ずく服従を強いたのかというと、むしろ逆であった。

 帝国が大きくなり過ぎ、多民族国家になってしまった帝国は、その中でユダヤ教・キリスト教が同じ一神教の神をいただく「啓典の民」とし、税金を納めることにより優遇され、宗教による差別をまぬがれることができた。つまり優遇策だったのだ。

 砂漠の遊牧民でイスラム教徒の多い中東は、宗派や部族で激しく争うことはあっても、国境の概念はなかった。それが変わってしまったのがオスマン帝国の敗退である。英・仏・露は密約「サイクス・ピコ協定」を結び、勝手に国境線を引き領土を分割した。これとは別に、英国はユダヤ人やアラブ人に領土を保障するなど2枚舌、3枚舌と呼ばれるような外交で戦争を有利にしようとした。

 そこに生まれたのが、サウジなどの王国を除き、アメリカやソ連から武器を供給されたイラクやシリアなどの世俗国家である。近代的軍隊を持つ、つまり戦争のできる国になったのだ。これとは違うイスラムの原点回帰を主張するのが、エジプトなどに拠点を置くイスラム同胞団であり、その流れをくむガザのハマスである。

 「イスラム国」がこれらとどういう関係になるのか、中東も目の離せない転機にさしかかっているように見える。一方、欧米も「テロとの戦い」の発想から転換を迫られる時期が、いずれやってくる兆候かも知れない。

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2014年7月18日 (金)

第一次世界大戦年表⑥

▼前回の講和条約締結記事で、年表の記載は終わった。しかし、大戦を総括するうえで大切な、第2次世界大戦前の「戦後レジーム」について触れておく。

1922年(大正11)2/6 ワシントン会議
 日中両国が主要な海軍国の戦艦の総トン数を規制、米英日の主力艦保有率を5対5対3とする海軍軍備制限条約、中国の独立・領土保全および関税自主権拡大に関する9か国条約調印。(日中は2/4に、膠州湾租借地返還・日本軍撤退などを「山東懸案解決に関する条約」として合意、調印していた)。

1924年(大正13)7/16
 ロンドン賠償会議で、ドイツが賠償を支払い可能な額に減額するドーズ(委員長をつとめたアメリカの銀行家)案が決定・成立した。

1928年(昭和3)8/27
 パリでケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)、米英仏日など15か国が調印。のち63か国に。

【戦争放棄に関する条約】
第一条
 締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル

第二条
 締約国ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス

第三条
1 本条約ハ前文ニ掲ゲラルル締約国ニ依リ各自ノ憲法上ノ用件ニ従ヒ批准セラルベク且各国ノ批准書ガ総テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約国間ニ実施セラルベシ
2 本条約ハ前項ニ定ムル所ニ依リ実施セラルトキハ世界ノ他ノ一切ノ国ノ加入ノ為必要ナル間開キ置カルベシ一国ノ加入ヲ証スル各文書ハ「ワシントン」ニ於テ寄託セラルベク本条約ハ右寄託ノ時ヨリ直ニ該加入国ト本条約ノ他ノ当事国トノ間ニ実施セラルベシ
3 亜米利加合衆国政府ハ前文ニ掲ゲラルル各国政府及ビ爾後本条約ニ加入スル各国政府ニ対シ本条約及一切ノ批准書又ハ加入書ノ認証謄本ヲ交付スルノ義務ヲ有ス亜米利加合衆国政府ハ各批准書又ハ加入書ガ同国政府ニ寄託アリタルトキハ直ニ右諸国政府ニ電報ヲ以テ通告スルノ義務ヲ有ス

 ▼第一次世界大戦の壊滅的被害を反省し、再発をさけるための最後の手立てとして終戦後10年目に成立した。日本では、議会から第一条の「各自ノ人民ノ名ニ於テ」の文言が、日本の主権者は天皇であるという理由で、その部分を除いて批准した。

 この条約は、「19世紀の国際法によれば至高の存在者である主権国家は相互に対等であるので戦争は一種の『決闘』であり国家は戦争に訴える権利や自由を有すると考えられていたが、不戦条約はこの国際法の世界観否定(Wikipedia)」したものと考えられている。

 しかし、協議の途中、「自衛のための戦争はのぞく」とか「既存の権利(植民地を含む)は域内」「侵略戦争」の定義ができなかった(「定義がない」の安倍首相発言はこの受け売り)など、各国は自国の利益優先にこだわり、批准にあたっても、日本のように条件をつけるところがあった。

 また、比較的被害の少なかった日米では、内部(国民)に力の信奉や戦争犠牲者への追悼などナショナリズムが高まる傾向もあった。そのひとつに帝国主義的植民地競争に出遅れていたという原因があるかもしれない。

 日本は調印後3年目に、「戦争」という言葉を使わない「満州事変」を起こして国際連盟を脱退。続けて「上海事変」「支那事変」を引き起こした。いずれも権益や邦人保護などが理由である。そして11年後に、第二次世界大戦が勃発した。日本は開戦の理由を「自存自衛を全うするため(開戦決定の御前会議)」とした。

  このように、戦争放棄の条約は役に立たなかったことをふまえ、アメリカは、ウイルソンの構想を生かした国際連盟に変る新しい機構の検討をはじめた。この構想は、ドイツが第2次世界大戦で無条件降伏する直前に召集されたサンフランシスコ連合国全体会議で検討され、日本敗戦後の10/24に国連憲章が発効した。

 新憲章では、「戦争」でなく「事変」ならいいなどという余地を全くなくし、「軍事行動」という言葉に統一した。また、当初の案には「自衛」という文言もなかった。ただ、常任理事国5大国に拒否権を与えたため、中南米諸国などが旧宗主国から攻撃された場合など、拒否権で自国防衛が困難な場合、集団で自衛措置がとれるようにという意見がだされた。当時成立したばかりの米州機構の盟主アメリカの賛成を得て「集団的自衛」の文言が追加され、同時に個別の自衛も条文に加わった。

 前にも書いたことがあるが、現在、集団的自衛権論議で、賛成・反対を問わずあたかもそれが権利として行使するのが当たり前、といったとらえ方がある。しかし、憲章の書き方は、行使しない方がいいが、国連の手続きが間に合わない場合などは、その権利行使を害するものではない、という表現になっている。

 また、現行憲法9条2項には、「国の交戦権はこれを認めない」という言葉があるが、これを占領軍の押しつけだとか、日本の骨抜きのためなどと自虐的に考える向きがある。すでに述べてきたように、これが第一次世界大戦後、国際連盟や不戦条約で確立した国際法の新概念である。

 たしかに、現在普通の国でないように見える。それは、アメリカなど、国連を生んできたアメリカなど、常任理事国5大国が巨大軍事国になり、国連憲章を軽視したり勝手に解釈したりして、大戦後の理想的平和至上主義をゆがめてしまうことが”普通”になったからである。

 日本国憲法は、国連憲章発効のわずか100日あまりあとにGHQ案が提示された。その平和主義・理想主義がそのまま盛られていると言っていい。今、地雷禁止など平和構築に貢献しているのは、ノルウェー・ニュージーランドなど中堅国が主である。

 日本は、唯一の原爆被爆国であり、理想的な平和憲法を守り続け70年近く戦争で一人の人命を奪っておらず、また民間の平和活動は水面下で高い評価を得ている。つまり、第一次世界大戦の反省を世界に定着させる指導的役割を担う資格が現存するのだ。

 ウクライナで旅客機が墜落し、パレスチナでイスラエルが地上戦をはじめ、イラク・シリアの火種も拡大の方向だ。アメリカも世界の警察官を買って出る環境にない。日本人が世界に雄飛する将来の夢は、解釈改憲の集団的自衛権などではないはずだ。

 戦争や平和の歴史に無頓着で、世界の中小国を歴訪さえすれば孤立から免れると信じている安倍首相の一刻も早い退陣が先決である。
 

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2014年7月17日 (木)

第一次世界大戦年表⑤

1919(大正8)年
  1/18 パリ講和会議開催(~6/18)。
  1/25 パリ講和会議、国際連盟設立を決定。
  4/30 パリ講和会議、山東省の日本権益を承認。
  5/7  パリ講和会議、赤道以北独領南洋諸島の
             日本委任統治を決定。
▼ロシア革命が起き、ウイルソンが民族自決などの講和原則をかかげたたことにより、中国・朝鮮民衆は対日国際非難への期待を高めた。
3/1、3・1運動(万歳事件)で朝鮮独立運動が全国規模に広がる。4/6、ガンディー、第一次非暴力抵抗運動開始。
4/10、上海で民族主義者・李承晩による大韓民国臨時政府樹立。5/4、北京の学生による抗議運動(5・4運動開始)。
11/16、福州で排日学生示威運動、日本商民と衝突。
 
 ウイルソンの和平構想は、国際連盟設立が決まるなど、平和構築の総論では共感を呼んだが、各論になると本国で連盟加入が議会から否決され、民族自決も北欧等に限定されるなど、後退を余儀なくされた。参照↓
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-2ac7.html 

 6/28 独と連合国、ベルサイユ講和条約調印。中国は
           山東問題を理由に不調印。
 11/7 日本、ベルサイユ講和条約批准。

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