戦中・戦後

2019年12月 9日 (月)

地久節

 今日は皇后陛下誕生日。昔は休日ではないが「地久節」といった。天皇誕生日は「天長節」。いずれも天地とともに永久に存続することを寿(ことほ)ぐ願いを込めた名称だ。

 地球温暖化や核拡散など、天地の永久が危惧される当節のことなど想像もしなかった時代だったと思う。

 記憶が定かではないが、地久節は幼稚園で菓子のお土産もらってお祝いしたような気がする。

 天皇神格視が教育上深化したのは、大戦前年の紀元2600年奉祝国民運動以降ではないか。紀元節(2月11日)、天長節(4月29)、明治節(10月3日)には登校し、校長の教育勅語朗読があって、教室では「神聖にしておかすべからず」の意味を繰り返し教わった。

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2019年11月24日 (日)

ソフトランディング

 戦中、中学生になった時の部活は、柔道班、剣道班、滑空班の3つだけだったように記憶する。もちろん、いずれかに属していなければならない。

 小生は滑空班を選んだ。プライマリーとセカンダリー(なぜか英語のまま)の2機があり、プライマリーは文部省型といった。

 最初は体力づくりの駆け足。機体での訓練は、V字型の太いゴム製の綱を16人ほどが目標方向を定め掛け声を上げながら、跳ね返されないよう全力で引っ張る。

 機上で操縦桿を握るのが1人、機を水平に保つため翼端を支える1人、もう1人は最後尾につけた短い綱を、地中に打ち込んだ棒杭に絡めて支える。

 「離せ」の教官の号令でそれを離すと飛び立つという仕掛けだ。

 最初は地上滑走。左右に傾かないよう主翼にある補助翼と尾翼を同時操作する訓練だ。

 次が5m直線滑空。高度5mを飛ぶ。このとき怖いのが空中失速である。それを防ぐため、操縦桿は教官から手を添えて教えられたとおりに握り、動かさないようにするのがコツだ。

 そこでソフトランディングのコツを覚えると、次に進む。ところがここで終戦、機体は校庭で焼却処分された。

 今日、混乱が続く香港で、区議会議員選挙の投が行われる。抗議活動を支持する民主派がどれだけ議席を伸ばすかが焦点となるが、民主派勝利でソフトランディングができれば最高。

 日韓関係もそのように行けばいいが、それは無理。それぞれ無茶苦茶に引っ張れば機体は破損、飛ぶことはおろか、ソフトランディングに程遠い。

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2019年9月27日 (金)

昭和天皇と沖縄

 1947年(昭和22)9月中旬、宮内府御用掛寺崎英成は、天皇が沖縄の長期占領を希望しているとのメッセージをGHQ側に伝達している。

 その内容は「日本国天皇は沖縄に対する米国の軍事占領が25年ないし50年あるいはそれ以上にわたって続くことを希望する。それが日本の防衛に役立ち、かつアメリカの利益になるだろう」というものである。

 これが、辺野古移転問題などについて沖縄県差別の根源にある、という俗論につながっている。

 この極秘文書は、1979年に筑波大学の進藤榮一氏が発見したのものである。ただ、メッセージの動機・天皇の真意を明らかにする材料は、寺崎の『昭和天皇独白録』に事実を間接的に伝えるほか、5年前に発表された「昭和天皇実録」を含めて出てこなかった。

 先月、初代宮内庁長官の故・田島道治氏が残した「拝謁記」をNHKが入手、発表した。そこに、何らかの手掛かりがないかと思ったが、直接的なものはない。

 ただ天皇は日頃、戦争への悔恨と対外発言に「反省」の文言を使うことに強くこだわっていた、ということが明らかになり、政権が発言の公表を認めなかったため、実現しなかったという内容が各所にある。

 そこで、メッセージがGHQに伝えられた年に何が起きていたか、確かめたい。敗戦後2年目で、左派勢力が躍進する年である。

1/1 吉田首相が年頭の辞で労働運動指導者を「不逞の輩」と非難(あとで撤回)。

1/31 GHQ、2・1ゼネスト中止を命令、全共闘これに従う。

5/6 天皇、マッカーサーとの会談で「日本の安全につきマッカーサーに期待」と発言。塾頭は、これが「沖縄メッセージ」の伏線と見る。

5/3 新憲法施行

6/1 吉田茂首相から、社会党・片山哲首相に交代。

7月 中国人民解放軍、反攻に転ずる。

7/20 沖縄人民党結成。

 以上などから天皇メッセージの真意は、俗説とは反対で、本土国民以上に沖縄県民の安寧に不安を持ち、その安定をマッカーサー司令部にゆだねたい、という考えがあったと想像するのが妥当であろう。

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2019年9月 7日 (土)

ご飯の炊き方

 家電の宣伝で季節に関係なく多いのが電気釜である。機能はますます高度化しているらしい。そこで恒例の昔語り。

「隣組」という戦時歌謡があった。その二番

♪とん とん とんからりと 隣組

あれこれ面倒 味噌・醤油

ご飯の炊(た)き方 垣根越し

教えられたり教えたり

 どこの家にもふちのついた鉄製のお釜があり、重たい木のふたが乗っていた。

 昭和19年には、中学の正規授業がなくなり勤労動員と体操か教練。教室は陸軍の軍用物資保管倉庫になった。戦後、持ち主がなくなった物資の中から飯盒を持ち出し先生の主導で自炊遠足。ご飯の炊き方を体験する。

 帰校すると先生が飯盒の回収を命じたが、生徒は猛烈に抗議、ついに家へのおみやげにした。先生や職員が衣料や靴などを少しづつ横領していたことを知っており、これも民主主義的行動初体験だ。以上は、余談。

最初チョロチョロ 中ぱっぱ
子供泣くとも ふた取るな

 この火加減がご飯の炊き方に必須のコツである。

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2019年8月20日 (火)

再軍備OKの時代

 初代宮内庁長官・田島道治が終戦後に昭和天皇とやり取りした記録、「拝謁記」の存在が明らかになり、その内容がつぎつぎに発表されている。

 昭和27年(1952)分に、憲法と再軍備に関して以下のような発言がある。

2月11日 「私は憲法改正二便乗して外のいろいろの事が出てくると思つて否定的二考へてたが今となつては他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいゝ様二思ふ」 

3月11日 「警察も医者も病院もない世の中が理想的だが、病気がある以上警察も必要だし、乱暴者がある以上警察も必要だ。侵略者のない世の中二なれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会二ある以上軍隊ハ不得已必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」

 以上について、「私ハどうしても反省といふ字を入れねばと思ふ」ということにこだわった昭和天皇の戦争責任感と矛盾し、意外に思う人がいるのではないか。

 これが世論を構成したとまではいかないが、ある程度常識だったのである。25年に勃発した朝鮮戦争が続く中で、9月に、サンフランシスコ講和会議が開催され、日本の占領が解かれることになった。27年の情勢を年表(『20世紀年表』・小学館、参照)から拾ってみよう。

3/6 吉田首相、参院予算委で「自衛のための戦力は合憲」と答弁、3/10野党の批判で訂正。
4/26 海上警備隊発足。
4/28 講和条約・日米安全保障条約(旧)発効。
8/4 吉田首相、保安庁幹部に軍隊再建の意思を表示。
10/15 警察予備隊は「保安隊」に。

 塾頭はこの年、所属した労働組合青年部で決議された「徴兵制復活反対」運動のため、折から兜町のストでピケを張る人ちーたちに署名を求めに行った記憶がある。なぜか「再軍備反対」でも「改憲反対」でもなかった。

 この傾向は、冷戦激化にしたがい、自然になくなったような感じがする。

 

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2019年8月 3日 (土)

昭和と平成、そして天皇制

 左翼陣営の一部から、令和改元に前後して、リベラルが天皇制批判に背を向けている、という怨嗟の声が挙がっている。本塾もそのうちに入るのだろう。

 そこで、その3代を生きてきた塾頭はこう解説する。

 まず昭和天皇。彼の戦争責任はどう見ても覆いようがない。ただ、ポツダム宣言受諾は、御前会議で彼の決断が決め手になったこと、そして自らそれを告げる玉音放送のマイクの前に立ったこと。

 これがなければ、国民は日本が滅亡するまで戦った可能性を否定できない。さらに、天皇の退位など我が身を捨てる覚悟もあった。しかしGHQは、日本軍がものの見事に銃を捨て、無傷で占領に成功した功績を高く買い、占領政策を成功させる上での利用価値を認めた。

 新憲法かを旧憲法の改定という形で起草され、象徴天皇という位置づけが決まったのである。あとは、その地位をどう根付かせるかに腐心していたと見られる。

 崩御のあとを嗣いだ現上皇は、塾頭とほぼ同年代である。終戦時はいずれも疎開先にあって10代前半の年頃である。機銃掃射や爆撃を直接受けなくてもΒ29の姿は、目にしていてもおかしくない。

 米軍の上陸点は九十九里になるのか鹿島灘になるのかなど噂されていた頃だ。ここまで攻めてきたら戦って死ぬのか、皇太子は別の疎開先に移るのか、皇嗣維持のために、親との再会断念を迫られていたはずだ。

 しかし昭和天皇は、象徴天皇制の元で日本の伝統の優れた点を維持発展させる任務を負ったのだ。その意を受け、どうそれにどう専念するかが現上皇の人生となった。

 天皇制廃止もいいが、それに代わるべきアイデンティティーをどこに求めるか。万世一系や神国日本などの妄想を捨て、キリスト教でもイスラムでもない姿を象徴に求めていくしかないのではないか。

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2019年7月18日 (木)

肉体労働とブルドーザー

 今朝、テレビ画面にウルトラ重機と称する最新の土木機械がいろいろ紹介された。この分野では、アメリカと日本が世界のトップレベルにあるらしい。これらが、発展途上国の鉄道建設やトンネル堀で活躍するのだろう。

 マスコミは、依然として徴用工をめぐる日韓政府の対立を追うことに熱心だが、これでまた、戦時中の「勤労動員」を思い出した。中学2年になる前後から終戦までほとんど正規の授業はなく、3年生以上は県外の軍需工場へも行っていたらしい。

 学校単位の徴用工ということになるが、1,2年生は平常通り通学、そこから動員現場に向かった。農家支援の田植え、暗渠排水工事、防空壕用トンネル堀り、山林開墾とゴマ畑作りなどがあるが、教育の一環だったのか農家で白米のご飯をごちそうになった以外、報酬をもらった記憶はない。

 練兵場に軍用滑走路を建設する作業と、現場に残る松の根を代用ガソリンとする掘り起しもあった。ここで初めて目にしたのがブルドーザーである。

 前面に可動式のブレード(排土板)を装着しただけの簡単なものだが、マレー半島で接収した戦利品だという。松の木は一瞬で押し倒し、我々が与えられた道具、スコップ(軍隊用語で、えんぴ=円匙と言った)とトロッコで何週間もかかった地ならし作業をあっという間に仕上げた。

「これでは、戦争に勝てないな」と秘かに思ったものである。 

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2019年7月13日 (土)

「海の日」連想

 連休の最後の日は「海の日」である。この冷温多雨の日が続くようでは、海水浴場の海の家も開けず、単なる3連休でおわりということになるだろう。この名で公休というのは日本だけらしい。

 そこで、昭和前半の連想をもろもろ。

 終戦前まで「海軍記念日」というのがあった。ただし5月である。戦中のあざやかな印象は、何といっても軍艦行進曲である。

 ♪守るも攻めるもくろがねの……。マーチとしては世界的名曲である。それが開戦の日の大本営発表を告げる前に放送され、以後、戦果(フェイクも含め)発表のたびに繰り返された。

 耳にタコができるほど聞かされれば、替え歌もできる。前奏にも歌詞をつけ、

 ♪ジャンジャンじゃがいもさつまいも 頭のでかいショ(衆)はマンマ(飯)いっばい食う……。

 すでに、食糧不足が見こされていて、代用食、イモが喧伝されていた。今考えると、「頭のでかいショ」は、特権階級でマンマは、不当利得のように思える。治安維持法適用には無理がある。学校の先生も子供の合唱に”困ったチャン”の顔。

 「海上自衛隊の日がないのは気の毒」、などと言い出さないよう、一応くぎを刺しておこう。

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2019年7月 1日 (月)

「戦後」三題

■もはや戦後ではない

 1956年(昭和31年)経済企画庁『経済白書』の中のことば。「他の国々にくらべれば消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈は明らかに減少した。もはや『戦後』ではない」としている。これより前、最初にこのことばを使ったのは、同年の『文芸春秋』2月号に載った評論家・中野好夫のエッセイが最初であった。

■戦後政治の総決算

 元首相・中曽根康弘は1985年(昭和60年)の第102回国会における施政方針演説で。

「私は、内閣総理大臣の重責を担って以来、戦後政治の総決算を標榜し、対外的には世界の平和と繁栄に積極的に貢献する国際国家日本の実現を、また、国内的には二十一世紀に向けた「たくましい文化と福祉の国」づくりを目指して、全力を傾けてまいりました。

■戦後レジームの脱却

 2006年、安倍晋三『美しい国へ』より。

与党の自由党のなかには「独立国として、占領軍から押しつけられたものではない、自前の憲法をつくるべきである」、また、「国力に応じた最小限度の軍隊をもつのは当然で、自衛隊を軍隊として位置づけるべきだ」と主張する人たちがいた。その思いは、もうひとつの保守政党、民主党も同じだった。ともに戦後体制からの脱却を目指していたのである。

▲以上三つの「戦後」。とらえどころが全く違う。前の二つは戦前も戦中も戦後も知り尽くしている人のことば。最後は、「戦後生まれ初の首相、誕生」(前掲書のおび)。

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2019年5月19日 (日)

世代区分で蔑視

人生再設計第一世代 「氷河期」言い換えに怒り 政治不信「上から目線」

 毎日新聞(5/19・東京)にこんなタイトルをつけた記事があった。

 その要旨は、政府の就労支援策を検討する経済財政諮問会議(議長=安倍晋三首相)で、民間議員から「就職氷河期世代」を「人生再設計第一世代」と言い換える提案がされた。これに対してツイッターなどで「ひどいネーミングだ」「ばかにしている」などと怒りの投稿が相次いでいる。

 就職氷河期世代は、バブル崩壊後の景気悪化で企業が新卒採用を絞った1993~2004年ごろに高校や大学などを卒業した世代。現在30代半ば~40代半ばで約1700万人。18年で非正規雇用者は317万人に上る。

 そういった苦難を味わった世代を、人生設計ができない世代などと責任転嫁をすれば、怒るのが当たり前だ。安倍晋三議長や担当する官僚の本音が、はしなくもこぼれ出たと見るべきだろう。

 ところで、塾頭の世代はどういうのか、「団塊の世代」などという区切られ方をされた覚えはないが、菊地昌典『歴史と想像力』筑摩書房、では、昭和一ケタ世代の体験は、刺激的ながら程度の差があり「宙づりの世代」としている。

 その中で、共通性についてこう解説する。

昭和一ケタ世代に骨の髄まで浸みこんでいるのは国家の崩壊感覚である。大日本帝国の権威、権力の脆さ、はかなさ、そして何よりも、その無責任さを否応なくこの世代は心の底に灼き付けたのであった。

その反動として、一ケタ世代のユートピア幻想はたえずふくれあがる。夢が現実によってくりかえし破壊されても、夢を負いつづけ、その夢で現実を打ち返す営為を戦後三十余年、休みなくつづけてきたのである。戦争中の精神の窒息状況に対する無限の自由への憧れ、いささかの管理をも生理的に嫌悪する体質、そして高度成長下にはぐくまれた傲慢な浪費の美的称揚にたいする絶対否定、倹約称揚の精神などは、一ケタ世代に不思議ともいえる思想の共通性を与えている。

 まあ、半分は当たっているでしょうね。

 

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