戦中・戦後

2019年5月19日 (日)

世代区分で蔑視

人生再設計第一世代 「氷河期」言い換えに怒り 政治不信「上から目線」

 毎日新聞(5/19・東京)にこんなタイトルをつけた記事があった。

 その要旨は、政府の就労支援策を検討する経済財政諮問会議(議長=安倍晋三首相)で、民間議員から「就職氷河期世代」を「人生再設計第一世代」と言い換える提案がされた。これに対してツイッターなどで「ひどいネーミングだ」「ばかにしている」などと怒りの投稿が相次いでいる。

 就職氷河期世代は、バブル崩壊後の景気悪化で企業が新卒採用を絞った1993~2004年ごろに高校や大学などを卒業した世代。現在30代半ば~40代半ばで約1700万人。18年で非正規雇用者は317万人に上る。

 そういった苦難を味わった世代を、人生設計ができない世代などと責任転嫁をすれば、怒るのが当たり前だ。安倍晋三議長や担当する官僚の本音が、はしなくもこぼれ出たと見るべきだろう。

 ところで、塾頭の世代はどういうのか、「団塊の世代」などという区切られ方をされた覚えはないが、菊地昌典『歴史と想像力』筑摩書房、では、昭和一ケタ世代の体験は、刺激的ながら程度の差があり「宙づりの世代」としている。

 その中で、共通性についてこう解説する。

昭和一ケタ世代に骨の髄まで浸みこんでいるのは国家の崩壊感覚である。大日本帝国の権威、権力の脆さ、はかなさ、そして何よりも、その無責任さを否応なくこの世代は心の底に灼き付けたのであった。

その反動として、一ケタ世代のユートピア幻想はたえずふくれあがる。夢が現実によってくりかえし破壊されても、夢を負いつづけ、その夢で現実を打ち返す営為を戦後三十余年、休みなくつづけてきたのである。戦争中の精神の窒息状況に対する無限の自由への憧れ、いささかの管理をも生理的に嫌悪する体質、そして高度成長下にはぐくまれた傲慢な浪費の美的称揚にたいする絶対否定、倹約称揚の精神などは、一ケタ世代に不思議ともいえる思想の共通性を与えている。

 まあ、半分は当たっているでしょうね。

 

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2019年4月29日 (月)

令和で世界の指導者に

 今日29日は、もと昭和天皇の誕生日・昭和の日である。そして5日後には、令和初の憲法記念日がやってくる。昭和21年(1946)10月16日、戦後3回目の占領軍最高司令官・マッカーサー元帥と昭和天皇の会見が行われた。その内容はサンケイ新聞がスクープしている。(『寺崎英成御用掛日記』文芸春秋、所載)

天皇 今回憲法が成立し、民主的新日本建設の基礎が確立したことは、喜びにたえないところであります。この憲法成立にさいし貴将軍において一方ならぬご指導を与えられたことを感謝いたします。

元帥 陛下のお陰にて憲法は出来上ったのであります(微笑しながら)、陛下なくんば憲法も無かったでありましょう。

天皇 戦争放棄の大理想を掲げた新憲法に日本はどこまでも忠実でありましょう。しかし、世界の国際情勢を注視しますと、この理想よりはいまだに遠いようであります。その国際情勢の下に、戦争放棄を決意実現する日本を、危険にさらさせることのないような世界の到来を、一日も早く見られるように念願せずにおられません。

元帥 ……戦争はもはや不可能であります。戦争をなくするには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ。それを日本が実行されました。五十年後において(私は予言いたします)日本が道徳的に勇敢かつ賢明であったことが立証されましょう。百年後に、日本は世界の道徳的指導者となったことが悟られるでしょう。(以下略)

  この会見から今年で73年目。マ元帥の予言によれば、令和中にもその理想が達成される可能性もある。

 

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2019年4月24日 (水)

昭和と平成の天皇像③

 次に通された部屋は、教室に似た構造で、前後に出入り口がある。最後部中央に映写機をセット、電源を入れてテストも終わった。社長ほか、通産省の幹部などもすでに席についている。

 司会の大夫が「殿下は間もなくご到着です」という。廊下でコツコツと足音がして、後ろの入り口にお出ましになった。その先、想像もしなかったハプニングが起きた。皇太子殿下は私の前までこられ、立ち止まってお辞儀をされたのだ。あらかじめそんなことは聞かされていない。

 あわててお辞儀を返したら、背中をピッタリ壁につけていたので反動で半歩踏み出してしまった。席に進まれると大夫は進講者を一人づつ紹介する。指名されると深々とお辞儀をするが、殿下は殿下は会釈を返されるだけだった。

 日本書紀にいう黎民(おおみたから)、農民・漁民など生産者・労働者には敬意を以て接するという皇室の伝統があったのかも知れない。ご進講はつつがなく終わり、司会者からご質問があればと水を向けられた。

「ライポンFも石油洗剤ですか?」

 当時のテレビ・コマーシャルで繰り返されるライオン油脂の商品名である。予期しないご下問にびっくりした。やはり、見ておられるのだ。俗っぽいというか、今考えると、一般庶民の目線で語られることが当時から身についていたのだろう。

 ご進講が終わり後片付けをして車で退出する時、彼方に庭の清掃奉仕の団体を前に、美智子妃殿下と挨拶に立たれる両殿下のお姿が見えた。

 天皇になられてから、象徴天皇のあり方を探求されるお言葉が多い。民と共にあること、そして民のために祈ることは、古来から引き継がれた伝統の中にある。さらに表には出ないが、神と対話の中で、先を読み占うということも大切な役目だ。これは、主に女性天皇や皇后の役割として尊重された。

 卑弥呼、神功皇后、斉明天皇などの故事があるが、美智子皇后がそこまで意識されているかどうかはわからない。天皇陛下と行動を共にされるお姿にそれを感じる。

 天皇・皇后は、日本国民統合の象徴として尊崇される立場にあるが、権威がなくてはならないということはない。皇太子時代は、新聞記者などの中から「昭和天皇と違って権威がない、軽い」という批判を聞いたが、今の右翼は違った意味で神格化すべきと考えているだろう。

 両陛下は、あと一週間でご退位になる。平成はそれがよかったのだ。以後永遠にこの伝統が生かされることを希う。

 

 

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2019年4月23日 (火)

昭和と平成の天皇像②

 昭和天皇が戦後も左翼革新陣営を除き、比較的一般市民から愛されていたのは何故だろう。それは、昭和史の中で、軍部の暴走を要所要所でチェックされていたことを感じ取っていたことと、戦後、マッカーサーの信頼をかちとり、占領政策の中で大きな混乱がなく、食料確保や民主主義が定着したからではないか。

 戦前で大きな点は、二・二六事件の抑圧に自ら乗り出したこと、御前会議で終戦の最終決定をリードしたことなどがある。もちろん開戦の責任は逃れられないが、開戦前の御前会議に明治天皇の御製、

よもの海 みなはらからと 思ふ世に 

など波風の たちさわぐらむ

を引用、平和への道を追求する意図を示したことも歴史に残っている。

 皇太子・明仁親王(今上天皇)は、塾頭より1つ年下の同年配であり、当時の心境は推測可能だ。終戦時は、那須に疎開されていた11歳。米軍が鹿島灘などに上陸してきたら危険が迫る。逃げるとすればどこへなど、親元を離れて心を痛めていただろう。

 戦後も、天皇制がどうなるか、天皇が退位されたら、米よこせデモなどなどの大衆運動も発生。新憲法が定着するまでの不安は想像に余りある。

 塾頭が皇太子時代に会ったことは、2度ほどあるが、そのうち一度は東宮御所を訪れてお目にかかっているので印象が深い。勤め先の課長に呼ばれ、こう言われた。

 「社長が皇太子殿下に石油と石油化学についてご進講することになった。既存のPRフィルムを使ってご説明するのがいい、ということで映写技師と機材を準備するようにいわれた」。「16ミリ映写機や扱える人など御所で準備できるでしょう」。「あるけど手抜かりがあってはいけないということだ」。「わかりました」。「名前はもう通知してある。身元のチェックはすぐに始まるだろうから、今日から新橋あたりで飲み歩いたらいかんぞ」。

 当日、手配されたハイヤーに機材を積んで東宮御所の門をくぐった。着くと小さな応接間に通され、男性職員がお茶を運んできて、しばらくここで待つようにいわれ、すぐ下がった。

 見ると、テーブルの上に煙草盆がある。開いて1本とると、菊のご紋章入りだ。「これは課長へのお土産にしよう」とポケットに入れた。「恩賜のたばこ」といって、課長など、もと軍人にとっては特別の意味を持つ。そこで、前回予告した戦時歌謡の紹介をしておこう。

♪恩賜のたばこをいただいて

明日は死ぬぞと決めた夜は

荒野の風も生臭く

ぐっとにらんだ敵空に

星が瞬く二つ三つ

ついでに、天皇が組み込まれた別の歌謡を2

♪思えば今日の 戦いに

(あけ)に染まって にっこりと

笑って死んだ 戦友が

天皇陛下 万歳と

残した声が 忘らりょか

♪海ゆかば 水漬くかばね

山行かば 草むすかばね

大君の 辺にこそ死なめ

かえりみはせじ

 最後の歌曲には子供のこんな戯れ歌が

♪海ゆ馬鹿 水漬く馬鹿ね

山ゆ馬鹿 草むす馬鹿ね

    ――以下は同じ。

 

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2019年4月22日 (月)

昭和と平成の天皇像①

 塾頭が目にしたのは、お二方とも昭和の時代である。昭和天皇は、終戦の翌年から地方巡行をはじめられた。従って、中学の先生に引率され、お召列車が通過する信越線・新津駅手前で、窓から手を振る天皇に旗を振った記憶があるだけである。

 戦時中の各・小中学校には奉安殿があり、御真影と教育勅語が安置されている。登下校時にはその前で最敬礼する義務があった。軍事教練が始まった中学では、停止敬礼、団体の時は「歩調撮れ」「頭右」がこれに変わる。双方とも皇室から、直接下賜されるものが収められている。火災でこれを失った校長は、自殺してお詫びしたという話もある。

 奉安殿から持ち出されるのは、四大節(四方拝1/1・紀元節2/11・天長節4/29・明治節・10/3)だけで、ご真影は式が行われる校庭前面のテントへ、勅語は校長が捧げ持って校長室に移される。

 式が始まって、校長が勅語を読み上げるとテントの幕が上がるが、同時に「最敬礼」の号令がかけられるので、ご真影がどんなお姿なのか全く覚えがない。一般に公開されている写真は大元帥の礼装とか、白馬の乗馬姿が多く、生のお声を聞くのは、終戦の詔勅放送を聞くのが初めてだった。

 その翌年の1月1日、新日本建設二関スル詔勅「人間宣言」が発布されるが、それまてでも「天皇が神だ」などと思っていた人など一人もいなかったことを断言する。「朕がプッと屁をふればなんじら臣民くさかろう」という小学生の悪ふざけは、前にも書いたことがある。

 身近ではないが、次回取り上げる軍事歌謡で歌詞に組み込まれるなど、その存在感は平成と比較にならない大きな存在であった。そして、戦後は大衆の中に入って行かれるわけだが、発せられる声を、「あッ、そう」「あッ、そう」と聞かれるだけで特別のご発言としいうものは少なかった。それは一時流行語になったが「もしかして、普通の日本語はご存知ないのでは」という声もあった。

 天皇を「テン・チャン」、皇太子を「セミ(半分の・なかばの)テン」という言葉もこの頃はやったが、天皇紳格視はやはり仮の姿だったということになる。

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2019年3月13日 (水)

自足自給

 今朝起きて1番の仕事は、昨夕、風呂にある給湯器のリモコンが点灯しなくなったため、室外機を点検することだった。平成になってからの購入は確かだが、なにしろ古く、今問題になっているIoTで、ネットで操作が可能というようなしろものではない。

 室外配管の保温被覆がボロボロになっているのを知っていたので、直感的に単なる電源配線の断線でないかを疑った。

 半信半疑ではあったが、「当たり」だった。コンセントをはずし、小さな箱に入っていた接続部を見る。すると、ビス止めになっているチップの根元が切れてブラブラに……。

 道具は、剃刀とはさみとドライバーだけ。電線の被覆をはがしてビスに巻きドライバーで締めてそれで終わり。見事に復旧した。

昔、薪・炭不足で、軍需がなくなり余った電気をこたつや炊事に盛んに使った電気コンロの修理と同じで、お手の物だ。

メーカーのコールセンターを呼ばずに済んだ。今日一日はこれで愉快に過ごせる。

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2019年3月12日 (火)

スキーのジャンプは刑罰

 ウインタースポーツのTV映像もスキーのジャンプががぜん多くなった。今日は、毎日新聞のコラム「余禄」からお借りする。

▲その昔のノルウェーでは罪人はスキーで丘の上から滑らされた。途中の雪のこぶで空中高く飛ばされる刑である。だがある罪人はこの刑を予想して日ごろから練習を積み、罰を受けるや鮮やかにジャンプ、かなたへと滑り去ったとか▲これで人々のジャンプ熱が高まったというオチで、まあ眉(まゆ)につばをつけて聞いた方がよかろう

 そして例により塾頭の体験談。疎開で都会から草深い田舎の中学に転校してきた塾頭は、早速教練の時間に使うスキー道具一式を買わさせられた。地元連隊払い下げのスキーが学校の備品としてあったが、靴など身にあったものがなくてはならない。

長靴にビンディングというひもの締め具でよかった。しかし、ジャンプや回転など高度な技術には専用のスキー靴とカンダハーという金属製でガチャっと止めることのできる、体と一体になるようなものが必要になるが、そこまでは手が出ない

教練の時間に決まって出てくる訓示は、陸軍の冬季訓練で大量の遭難があった八甲田山事件である。そこで必須科目となるのがスキー・ツアーである。スキーを八の字形にして登ったり横にして階段状で上下する。あとは平らなところをスケートのように走ったりストックをうまく使ったりする。斜滑降、ボーゲン(大回転)というテクニックもあるがそれほどむつかしくはく、体力造りが主だろう。

問題はジャンプである。助走の目もくらむような坂の上で、教官がひとりづつ「次」とか、「出発」あるいは笛による号令で発進する。事前の注意は「踏切では体を前に投げ出すような倒すだけで、飛び上がってはいけない」という程度であった。

地元のごく限られた生徒以外は、着地できずにまりのように坂をころがり落ちる。けがはほとんどなかったものの、この訓練は、体当たり特攻機のための訓練だったに違いない。

 

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2019年2月21日 (木)

渋谷区広尾

大東建託が首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)の一都三県1224駅周辺で、「住みここちアンケート」を実施したところ、1位が東京の広尾になったと発表した。

これには驚いた。塾頭が田舎から出てきて最初に下宿した街だからだ。地下鉄日比谷線広尾駅ということだが、当時日比谷線が開通しておらず、最寄りの駅は地下鉄が銀座線青山一丁目、JRは恵比寿だった。都電が通っており「天現寺橋」といった方が通りがよかった。

渋谷区内といっても、テレビによく出るスクランブル交差点や若者の街ではなく、都心により近い古びた閑静な街並みで、渋谷駅周辺は郊外への出口という位置づけだった。下宿先はそば屋の2階で、湿気には悩んだ。

毎食そばにするわけにもゆかず、思い出したのは、戦中の名残の飯米通帳、これは身分証明書にもなる。そして外食券食堂、交差点で交通整理をするMP(ミリタリーポリス)などである。

街をわがもの顔で走っていたのは小型国産車ではなく、フォード、シボレー、ポンティアックなど米軍所有車だった。

広尾の最近の姿は知らない。昭和は遠くなりにけり。

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2018年11月28日 (水)

天気予報

塾頭小学生の頃、大切な生活情報は天気予報だった。公共放送のラジオだけが頼り。発信元は東京ならJOAK、大阪局はJOBKで民放はなかった。予報が「大雨」ならカッパを着け「晴れのち曇り、所によりにわか雨」なら傘を持って学校へ行った。

中学生の時は太平洋戦争。軍事情報ということで天気予報は生活から一切取り上げられた。戦後、「本日の天気予報」がスピーカーから流れた時どんなにうれしい気がしたか、今の人には想像がつかないだろう。

現在は、ネットやテレビのデータ放送でピンポイント予報が市町村単位でみられる。テレビの天気予報は専門知識まで加えて微細な解説をするが、予報は全国を12とか16の行政区域に分け傘のマーク、太陽のマーク、雲や星のマークで一覧表にする。

詳しい説明のわりにはこれがあてにならない。「所によりにわか雨」の方が人にやさしく信用したくなる。だから疑わしい予報の場合は、短時間の外出など、ネットのレーダー映像を見てから自分で判断する。それでも失敗することがある。

 地球温暖化のせいだ

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2018年9月 8日 (土)

押すと餡出る

「俺、英語しゃべれるよ」

「じゃあ言ってみな」

「オスト アン デル クット マイン」

  なんやらドイツ語っぽいが、戦中、小学生の間ではやった。

語源は「押すと餡出る、食うと旨い」と早口で言う。

小学生にとって外国語といえば英語。ただし周辺に英米人の姿がなくなり、塾頭の隣の家にはベソリックさんというドイツ人夫妻が住んでいた。

日本語化した英語は多い。ランドセルを背嚢と言い、パンツを猿股とは言わなかった。ズック、ケーキ、クリーム、ポンプ、カンニングなど、敵性語排除といっても軍隊で使うような変な「代用品」(これも戦中の流行語)が徹底するはずはない。

やはり、「戦時」というのは異様なのだ。

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