戦中・戦後

2009年10月10日 (土)

校正恐るべし

  「校正恐るべし」は「後世恐るべし」の格言から来ている。特に著作、出版、編集にたずさわる者にとっては金科玉条だったが、最近はどうやら死語になった感がある。ワープロ、パソコンの普及で、漢字転換などの間違いもゲーム感覚で捉えられ、大目で見られるようになったからだろうか。

 最近は、有名新聞でさえそれが目立つようになった。格言が意味するところは、麻生前総理の漢字読み違いではないが、誤記、誤植、事実誤認など、わずかなことでも「この程度のことを間違うようではほかも推して知るべし」で権威が疑われるからだ。

 ブログの記事も、一応著作物だ。私も最低3回は読み返してから投稿する。にもかかわらず、ご存知のとおり間違いだらけだ。何年も前のエントリーを見て「アレーッ」と思うことも一再ではない。出版物などで、すくなくとも3人以上の人が10回は目を通したと思われるものでも、1万件に1回は見逃すという。

 拙ブログの場合、「安倍晋三」を手が滑って「安倍晋太郎」としてしまったことがあった。最近では横浜開港150年イベントの入場者が予定の40%ではなく、4分の1つまり25%を勘違いしていたいた誤記があった。いずれも、リンクいただいている方から直接・間接的にコメントで教えていただき、丁寧に礼を言って訂正をした。もちろんそのまま見過ごされる方の数が多いと思うが、教えていただくのは有難いことだ。

 保阪正康氏という昭和史では売れっ子の作家がいる。この人の所論には日頃敬意を払っているのだが、最近、『占領下日本の教訓』(朝日新書)というのを購入した。その中にこういう記述がある。

 アメリカの教育使節団がとりまとめた報告書は、結局はGHQ将校の協力やマッカーサーのお墨付きを得て、日本の教育制度やその内容の改革にと至った。そのなかでも特徴的だったのは六・三・三制の採用であった。もともとアメリカの教育は小学校教育六年、中等教育三年、そして高等教育も三年となっている。つまりは日本もこれに準ずることになるのだが、日本は小学校教育六年(尋常科四年、高等科二年)と中学校教育が五年になっていた。

 長い引用は文意の正確を期すためである。このなかで明らかな間違いがカッコの中にある。私が入学したのは尋常高等小学校だが、尋常科6年、その先に高等科2年が併設されていた。尋常科4年は明治末までの制度で、以後は廃止されている。

 つまりカッコはなくてもいいのだが、カッコを残すなら(1941年に国民学校と改称)とすればより正確だった。この点を出版社気付で著者に私信を送り指摘したのだが、半月過ぎてもご返事がない。すくなくとも「昭和史教訓3部作」と銘打った「歴史書」である。 些細なことではあるが、「後世」に残る本である。増刷その他の機会をとらえて、しっかり訂正をお願いしたいものだ。

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2009年9月19日 (土)

記念碑の流浪

 史跡名勝天然記念物保存法ニ依ル史蹟トシテ昭和九年十一月一日文部大臣指定

2009_09190003 と鮮やかに彫ってある。正面は、「明治天皇行在所」とその地名である。行在(あんざい)所とは、旅行または視察の途中立ち寄ったとか昼食をとったという意味で、都心から遠くないここで泊まったわけではない。
 
 この碑のあるところは、博物館の建物の裏である。本来あるべき位置ではない。建立されて10年余り、戦争に負けて天皇の権威は地に落ちた。多分進駐軍の目に触れてもろくなことはない、ということで現地から解体撤去され、石材屋にしばらくの間ころがっていた。

 それを自治体が引き取り、この場に石造物の一つとして移設、展示?したという説明がある。法律がどうなっているか知らないが、現在にそんな国指定の史跡はない。とり消されたのであろうか。それともうやむやにしたままなのだろうか。碑そのものに歴史上の価値はない。しかし碑の変転・流浪は立派な歴史的記念物である。

 昭和史研究の泰斗・保阪正康は、昭和8年が日本人を皇民化して戦争に駆り立てる運動の始まりだという。軍部と文部省の合作で、国定教科書は全面改定きれた。小学1年は入学するといきなり「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」で、2年生では「テンノウヘイカハ、ワガ大日本テイコクヲ オヲサメニナル、タツトイオンカタデアラセラレマス」などとなる。

 9年になると、10月1日に陸軍省は「国防の本義とその強化の提唱」いわゆる陸軍バンフレットを発行、今でいうマニフェストのようなもので国政全般に間接的な関与を試みる。また10年には議会で美濃部達吉博士の「天皇機関説」攻撃が始まり、政府は「国体明徴声明」を発表する。

 こうして、天皇は世界に君臨すべき神としてまつりあげられる。天孫光臨、万世一系の中でも軍事大国の道を開いた明治天皇は、特別に尊崇すべき天皇だった。その立ち寄り先が神聖視され、たった20数年前に亡くなった天皇なのに、史蹟にするという、狂気にも似た気の入れようだ。

 その時の文部大臣は、鳩山一郎。友愛を旗印に躍り出た鳩山由紀夫総理の祖父であったことも、反省すべき教訓として是非念頭に置いて欲しい。

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2009年9月 1日 (火)

敗戦日記

 前回のエントリーで選挙結果による政権交代のことを書いた。大げさにいえば、民意による政権転覆である。その大変化を日本の終戦になぞらえてみた。

 「庶民の暮らし、日々の営みが終戦の詔勅を境に突然変わったわけではない。アメリカ敵視や戦時体制は半月ほどくすぶり続け……」

 と書いたが、その「半月ほど」あとのできごとが、東京湾に来航していた米艦ミズリー号上で行われた1945年9月3日の降伏文書調印式である。日本側全権は重光葵外相である。当時TVなどないから、あとでニュース映画で見たのだろう。

 朝鮮独立を主張する犯人の爆弾テロで右足を切断した重光が、杖を頼りに舷側から甲板に上がる痛々しい光景が目に浮かぶ。終戦記念日には多くの記念行事があるが、この日が法的に日本が負けた日なのだ。当時の日本人にとって、8月15日とは違ったインパクトを受けた日だった。作家・高見順の日記は、これについての記述をただ1行だけしるしている。

 九月三日
 降伏調印式の写真を新聞で見る。

 ついでに、その前一日、二日に見聞した世相を引用しておこう。ただし、両日の日記にある出版社・鎌倉文庫の創立打ち合わせに関する部分は省略した。(『敗戦日記』文藝春秋新社より)

 九月一日
 在郷軍人会が解散になった。虎の威をかりて「暴力」をふるっていたあの分会……。
 しかし日本人がすっかり懦弱になった時は、今日の感想とはまた別のものが胸にくるだろう。

 九月二日
 横浜に米兵の強姦事件があったという噂。
「負けたんだ。殺されないだけましだ」
「日本兵が支那でやったことを考えれば……」
 こういう日本人の考え方は、ここに書き記しておく「価値」がある。
 

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2009年8月 7日 (金)

強い日本と「核」

 連続して3回「毎日新聞」からの引用をするのはさすがに気がひける。かつては5紙も購読したことがあるが、今は1紙だけ。「毎日」の回し者ではないが成り行き上やむを得ない仕儀と相なる。同紙を特徴づける自慢のコラムに「記者の目」がある。今日(7日)はそこに引きつけられた。30歳になる真野森作記者の目だ。

 核保有論が目指すのは、一義的には日本の3度目の被爆を避けることだろう。「核を持たないと核にやられる」という論理だ。例えば、月刊オピニオン誌「正論」(産経新聞社)8月号には「核脅威ふたたび」と題した特集が載った。西村真悟前衆院議員(改革クラブ)が「現在、我が国家には『核抑止力』が必要である」と持論を訴えている。

 こうした主張に魅了される人が一定数存在するのは現実だ。とりわけ、今30歳である私の同世代や年下の世代は、親にも戦争の記憶が乏しい。強い国家像が好まれがちなインターネットでの言論も一役買っている。

 熱を帯びた核保有論に対しては、封殺や無視をするのではなく、徹底した議論を繰り返し、核に日本がどう向き合っていくのか国民全体で考える機会とすべきだ。

 「核保有論など議論すらすべきではない」という人には暴論と映るかもしれない。だが、タブー視して議論をしないままでは、言いっ放しの雑な主張がはびこり、世論の分断がじわじわと進んでいく。

 この前段に、さして原爆に深い関心を持たなかった記者が、被爆者への取材を通じて核戦争の不毛な実像に強いインパクトを受けた経緯が記されている。被爆者ではないが、当時は中学生だった私が意を強うしたのは、「核タブー視ではない徹底的な議論を」という結論である。

 これは、このブログでもたびたび繰り返してきたことだ。また、中川昭一元外相の「核政策の議論や研究はすべきだ」とか、久間章生元防衛庁長官の「原爆しょうがない」発言に理解を示したところ、冷たい目でみられた覚えもある。

記事リンク「護憲」から「攻憲」へ:
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-c03a.html
「核軍縮を輸出せよ」:
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-de0b.html 

 私の子供よりさらに若い記者が、そういった結論に至ったことに勇気づけられたことを言いたかったわけだが、記者の指摘にある「強い国家像」に関し、若い人に往々にして誤解があるので、久間発言を切り口に付言しておきたい。

 私がすべての人の代弁をするわけにいかないが、特別の階層の人をのぞく意識はこうでなかったかと思う。終戦の詔勅を知ったとき、残念がり、悔しがり現に泣いている人を目のあたりにした。詔勅の「しのびがたきをしのび」とははまさにそのことだある。

 2年先には志願兵になっているはずの私も、内心「これで近く死なずに済みそうだ」と思った。その先の人生など何も考えていなかったので、今の若い人のような悩みは全然ない。中には戦中との生死観の葛藤で自殺する人もいたが、死なないでいいということだけですべてバラ色にできたのだ。

 広島・長崎が強力爆弾で被災したことは、その前に知っていた。しかしその後も秋田などが空爆されて大勢の人が死んでいる。原爆と知ってその残虐ぶりを認識したのはもっと後のことだった。戦争で多くの非戦闘員が犠牲になる、そのこと自体は「しょうがない」ことだと思っていた。

 誰を恨むわけでもない、戦争とはそういうものだ。勝つためには手段を選ばない。日本の敗色が濃くなったとき、起死回生の一手が原爆の開発でそれを夢見ていた。日本がそれに成功していれば必ず使っていたはずである。

 「過ちは繰り返しません」という原爆の碑の誓いは、日本人が非戦と核兵器廃絶を目指す覚悟を言うものだと、当時も、今でもそう思っている。さて、「強い国家像」だが、敗戦、占領中などは「弱い国家像」だったのだろうか。

 1990年頃から右派論壇にそのような論調が生まれ始めた。「東京裁判史観」などという一連の歴史修正主義だ。しかしこれはためにする作文にしかすぎない。敗戦の嘆きは長く続かなかった。東条英機の自殺未遂事件の頃から、戦中に鬱積していた軍部に対する批判が一斉に噴きだした。

 「戦争に負けてよかった。勝っていたらどんなに軍部がどんなに威張り散らすかわからない」というのは、私の近辺で大人から聞いた言葉だ。そして、2.1ゼネストを計画し食料デモはするが、《アメリカから押しつけられた》憲法はいやいやながら文句もいえずに受け入れ、東京裁判のA級戦犯断罪に抗議もできなかった、日本人はそんなに卑屈で内向的だったのだろうか。

 そうでない人もいた。鳩山民主党代表たちの父親一郎は総理大臣直前に戦時中の言動によりGHQから公職追放された。公職追放は多くの民間人、学校の先生にまで及んだ。こういった人達は占領軍が憎かっただろう。しかし、鳩山さんにしろ吉田さんにしろ岸さんにしろ、敗戦という現実をふまえたうえ、世界の強豪・米ソ相手に堂々と渡り合った。

 当時、人々は「強い日本」を目指し、今以上に確固とした自説を持っていた。他国に追随し、世界に堂々とものが言える気概に欠ける「弱い日本」ぶりは、現在の方がむしろ心配になる。強硬論を唱え核武装するのが「強い国家像」なら、北朝鮮を見習えばいい。一番弱い国のすることだ。

 これからの日本を背負って立つ若人にお願いしたいことは、真野記者のように、受け売りではなく、自分で調べ自分の頭で考えるようにしていただきたいことだ。そうすれば憲法9条を改正しないでも、核兵器保有国にならなくてもより「強い日本」になれることがわかるはずである。

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2009年7月 7日 (火)

治安と経済

 戦後、想い出の一こまである。おそらく終戦の翌年、昭和21年か22年はじめの頃だろう。学校で全校生徒を講堂に集め、民主主義教育の一環として公開討論会が開かれた。議題は「治安維持と経済安定のどちらを優先するか」だったと思う。

 なぜこんなことを思い出したかというと、中国ウイグル自治区大騒乱のニュースである。その前、イランの大統領選挙をめぐる大規模デモ、さらに中米・ホンジュラス、さかのぼってタイなどさまざまな大衆行動や治安の悪化が続発しているが、起因はそれぞれ異なるものの、いずれも背景に経済格差の問題があることである。

 個別に論ずれば長くなるのでここでは省略するが、全体についてのべると、各国はそれぞれの立場から干渉したい理由があっても、基本的には自国民のことは自国民の間で解決すべきで、たとえ虐殺が起きようが、外交交渉を越える手出しは無用であり自制しなければならない。

 それは、アメリカがしばしばやってきたような、支持勢力とか国に対する武器援助についても同様である。それをしたために、アメリカがどれだけ恨みを買い信用を落とし、また自国民の命と財産を損なってきたかはかり知れないものがある。

 また中国については、嫌中陣営からチベット問題とウイグル問題を一緒にして考える傾向が出てくるだろうが、独立の要求や歴史的経緯、国際的な宗教の位置づけなどに根本的な違いがあることと、漢民族間でさえ存在する農村と都市の格差拡大など、国内問題として解決すべき複雑な問題を見逃して議論すべきではない。

 また、イランのラフサンジャニ現大統領、ホンジュラスで国外追放されたセラヤ大統領、同じく国に帰れないタイのタクシン元首相など、地方貧困層への予算ばらまきで選挙の獲得数を増やし、都市住民や中間層の反感を買ったことがデモや混乱を招いた。民主主義とはいっても、一種の衆愚政治が招いたもので、成り行きが注目される。

 さて最初の話に戻ろう。戦後の混乱期、治安は相対的に平穏な状態が保てたとはいうものの、ストの頻発やヤミ取引をめぐるトラブルなどで、一種の無政府状態のような不安があったことはまちがいない。また、先の見えないインフレ昂進は生活破綻直前にまで来ている。すなわち「泣く子も黙る」といわれる超法規的な権限を持つ「経済安定本部(安本=あんぽん)」が組織された頃である。

 そこで校内討論会となる。まずディベートで経済安定優先を受け持った生徒の発言。「それは経済が安定すれば治安もよくなる。経済優先に決まっている。その証拠に“経済安定本部”というのが組織された。安本は何のためにある!」 

 すかさずヤジあり。A「警察は何のためある!」(爆笑・拍手)。会が終わって生徒一同教室に戻る途中、狭い階段で人があふれて大混乱。もまれながら、B「警察は何のためある!」(爆笑)。AかBのいずれか私のようだ。政治を議論するのもヤジを飛ばすのも生まれてはじめての民主主義体験。何でも新鮮で楽しい時代だった。ただそれだけの話である。

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2009年6月24日 (水)

「謝罪」

 マイクの並んだ長テーブルを前に、起立最敬礼して「申し訳ありませんでした」という「お詫び」の会見。すっかり見飽きた。「世間をお騒がせして……」、騒いでない!。「ご心配をおかけし」、心配してない!。「ご迷惑を……」、迷惑してないってば!。

 それなのにその顔は一向にお詫びしていない。このパターン化は誰がはじめたのだろうか。最近、日本郵政の西川社長と鳩山前総務相の間に確執があって、社長をくびにしようとした大臣が逆に麻生首相から事実上くびにされた。

 非自民の皆さんは、おわびをしない西川さんが悪い、とのお見立てが多いようだが、私には鳩山さんが悪代官で、西川さんの方が黄門(ほどではないか)に見える。政治かけひきとか改革の是非は抜きにしてである。

 お詫び会見などしないで、背筋をピンと伸ばし権力やマスコミに屈しないところが西川さんはよかった。気の進まない役目(銀行出身者が銀行の強敵を作る)を、小泉元首相から三顧の礼を以て迎えられ、お国のためなら「それでは」と出陣した。劉元徳に呼び出された諸葛孔明(ほどではないか)だ。

 頼んだのなら任せなければならない。まだ国有会社だが、民間の腕を振るってくれということだ。民間なら、極端にいえばかんぽの宿を誰にいくらで売ろうと、背任でない限り社長権限だ。それが会社にとって最善ならお詫びするいわれはない。

 西川さんが立派に見えるのは、政治的野心や私腹を肥やす目的とは思えないからだ。ここにお詫びをしない美学がある。「そこはひとつ、円くおさめて」を押しつけられるのが日本のわるいところで、弱者はこれでいつも損をする。

 もうひとつのお詫びがある。先月末、藤崎一郎駐米日本大使がアメリカの「バターン死の行進」生存者に直接日本政府を代表してお詫びの意思を表明した。そのお詫びの詳細を知らないのだが、バターンやコレヒドールの戦いに関連して「多くの人々におびただしい被害と苦痛を与えたことに心からお詫びをする」という、村山談話の一部分を切り取って援用したらしい。

 全くまちがっているのが、アジアの侵略地に向けたお詫びの主語を変えて全く違うお詫びに使う無神経さだ。最初に書いたお詫びのパターン化だ。その事件の頃まだ生まれていなかった藤崎さんがなんで知らない事件のお詫びしなければならないのだ。

 お詫びが悪いと言ってはいない。どの点をどうお詫びするのか、お詫びするならそこをはっきりさせなくてはならない。それでは納得しない相手がいるかもしれない。しかしそうしない限り互いに理解しないまま終わってしまう。原爆をお詫びしない国へ行ってワンパターンのお詫びをすればいいというものではないのだ。

 従軍慰安婦問題もそうだ。歴史の検証は河野談話が精一杯で、史実に反する主張まで受け入れてお詫びまでする必要はない。もし歴史認識に違いがあれば、双方の専門家の研究にゆだねるべきだ。繰り返していうが、強要されたり、当座をしのぐ誠意のないワンパターンのお詫びは、見苦しいばかりでなく双方にとって実りのない儀式に終わるということだ。 

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2009年6月13日 (土)

戦後の10年

  加害者の人権ばかりを尊重し

 橋下大阪府知事がかつて人権派弁護士を攻撃した時の句ではない。活動写真弁士から戦後は名声優として鳴らした徳川夢声の60年以上も前の作である。出典は『粋人随筆』(緑地社)で、筆者はお医者さんの吉田機司さん。昭和30年に出版され、戦後10年の世相を川柳その他をまとめた類書がほかにもいくつかある。以下、*は同書の引用である。

 *敗戦後の食料不足で遅配欠配がつづき、どちらさまも青瓢箪になっていたころ、留置場の中ではのうのうと三食を食べていた。そのころの句である。

 おそらく、「人権」を盛り込んだ新憲法が国会で議論になり、「国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」という食料デモのプラカードが不敬罪にとわれた、昭和21年のことであろう。

 その「新憲法」についても3、4句紹介されているが、やはり腹の足しにはならないとか、「9条は親子で意見が食い違い」というさめた句が多い。9条は親が反対したのか子が反対したのかわからないが、両方ともあり得ただろう。憲法は川柳にはなじまない題材だったかのも知れない。

 このところの政治関係のニュースは、日本郵政の社長をクビにするといっていた総務大臣が、逆にクビになるなど内閣の失態もあって、近づく都議選や地方の選挙が急に注目されるようになった。

 *ことしは選挙の当たりどしである。選挙の傑作はなんといっても地方選挙にある。この前の地方選挙にはこんなのがあった。熊本県玉名郡玉水村の村長選挙に立候補した某候補は、開票の結果ただの一票。「はて、女房のやつ一体だれに投票したんだろうか」

 具体的な地名まであげているので、全くウソとも思えない。次の話も、その後まだまだ続編があり、肝炎入りの血液製剤などもっと大規模で国が謝罪しなければならないような事件まで起きた。医療詐欺事件なら今でも日常茶飯事だ。

 *数日前の新聞に、血液協会につとめていた廿四歳の青年が、今度は自分で無免許の開業をして、黴毒の血液検査証を偽造して会員にもたせ、その血液を売っていた記事があった。

  輸血して命拾って鼻が落ち

 黴毒は梅毒とも書く。その当時はまだ駆逐されていない性病として恐れられ、潰瘍で鼻が欠けるなどといわれた。したがって売春禁止法がなかった時代でも免許のない売春婦と交わる時には、その覚悟が必要だったのである。

 世情、現在と同じようでもあり、全く違うようでもある。さて?。

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2009年4月29日 (水)

昭和の日雑感

 みどりの日がいつの間にか「昭和の日」になった。改正した法律の趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」のだそうだ。最近でも右翼がもりあげに躍起になってるというが、チョット無理だろう。

 なぜならば、右翼のねらいとするところが、昔の明治節のように単純化した天皇礼賛の日にしようというのなら、これは失敗する。なぜならば「趣旨」には、回顧するのが昭和天皇ではなく「昭和の時代」とはっきり書いてあるからだ。

 ただ、「復興」が何からの復興か、戦争も敗戦も占領も全く書いていないので、非常に性格をあいまいにしている。そこが右翼の付け目なのかも知れない。戦争を挟んだ昭和の歴史を徹底検証し、過ちを繰り返さないよう将来への教訓にするという趣旨であれば大いに賛成する。右翼は何にスポットをあてようとしているのだろうか。

 ショウワ、ショウワ?。

♪昭和 昭和 昭和の子供よ 僕達は

 僕達が生まれるころできた歌だ。中の節は3番それぞれに違うが最後は、

♪行こうよ 行こう 足なみそろへて
  タラララ タララ タララララ

となる。まん中は、1番がキリリとした富士の山へ、2番がのぞみ大きく明るい日本晴れ、3番が鳥なら力の強い鷹へ、という久保田宵二の作詞である。満州事変直前、3番が鳩でなく鷹なのが意味深ではないか。世界恐慌のさなかで、日本晴れとはいえない時代だったはずなのだが。

 天皇の時代でよかった、という歌なら次が極めつけである。明るくないが節をつけて盛んにうたわされたものだ(小学生にはむつかしくてピンとこなかった)。

♪みたみわれ生けるしるしあり
   天地の栄ゆる時にあえらく思えば

 万葉集にある海犬養岡麿の詩だ。本ブログで連載している天智天皇の弟・天武天皇の時代である。この時代には、山部赤人など御用歌人が盛んに天皇神格視に協力した。日本の長い歴史の中で天皇賛歌がこれほど盛んになったのは、天武、昭和の2時代に尽きるだろう。

 「昭和の日」、ブログのテーマにして今日一日を有意義に過ごしたい。

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2009年4月 8日 (水)

賃金計算書

 昭和26年(1951)年の「賃金計算書」が出てきた。朝鮮戦争で釜山まで迫った北朝鮮が連合軍に押し返され、ソ連とアメリカが休戦を模索し始めた頃である。日本はまだ占領下であった。

2009_04080002_6  「給与明細書」とは書いてなく「賃金計算書」である。「給与」は会社が一方的に社員に与えるというイメージで労使対等の精神に反するという組合の主張によるものだろうか。

    左欄の<支給額>
基本給                 2700-
生計手当(扶養家族  人)               4120-
勤務地手当基本給と生計手当と合計額の15%)   1023-
早出残業手当( 29時間)        1653-

 合計で月収9496円、入社2年目で世間ではよい方だった。ちなみに、1年前の入社時は6千数百円、当時地方の代用教員の月収は3千円台だった。最下欄に「4月分精算額1522円」というのがあるが、春闘のベースアップと昇給による差額が示されている。

 生計手当は、扶養家族がいないのに基本給よりはるかに多い額になっている。これは、右欄の第一・二回仮払額とある月3回分割払いとともに、戦後うち続いたインフレに対処するための名残が残っているせいであろう。

 そのほか、「組合活動による賃金控除額」「欠勤、遅刻、早退等による控除額」などの欄があるが、一般組合員でも組合活動は委員会、大会などの出席に日割り時間割で賃金が差し引かれ、「ヤミ専従」など民間では想像の範囲を超えていた。

 勤務地手当は、東京・大阪などの15%から地方町村部の0%までの生活物価を反映する格差があった。しかし、時代を経るに従って逆の格差が生じるなど、組合内部でも意見対立が大きくなった。これも戦後買い出し経済の名残だろう。

    右欄の<控除額>
第一・二回仮払額      3200-
健康保険料            135-
厚生年金保険料        130-
勤労所得税              0-
社宅料                  12-
労働組合費            320- 
食事代                250-
互助会費                20-

 厚生年金保険料130円――、年金特別便というのが桝添大臣のほうから来るらしいので、またまだ大事にとっておかなければならない。所得税ゼロというのは年間を通じてそうだったかどうか覚えていないが、独身サラリーマンの安月給にはそんなに重税がかけられていなかったようだ。

 控除額の中で労働組合費が一番高いことが目立つ。社宅料は、木造2階建て独身寮6畳1間2人住まいの賃借料負担額。食事代は、社員食堂の日替わり定食1食10円のひと月分である。会社の厚生費補助があって質的水準が低くかったにしろ、現在より相当低レベルの負担で済んだ。

 結論として、高度成長前ではあるが当時のサラリーマンは、貧しくとも精神的に今よりずっと豊かに暮らせていたように思える。

  

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2009年3月14日 (土)

楽天論と悲観論

 三月十八日
 風邪がなおらぬ。
 毎日警報だ。今日は九州が襲われた。敵の本土上陸について、もうすぐやつてくるだろう、五月頃だろうという説と、敵は今までの例をもってしても、充分慎重に準備して確算がなければ行動を起こさないから、まだまだだ、今年の秋か、暮れだろう、そういう説と二つある。
 楽天論と、悲観論と二つある。前者は地方、後者は東京において有力である。
(高見順『敗戦日記』、昭和20年)

 64年前の今頃、東京大空襲の余燼が消えやらぬ間も各地で焦土作戦が続く。私は田舎にいたから「楽天論」だったかも知れないが、おぼろげながら「敵がここまで来れば竹槍であろうと石つぶてであろうと戦わなければならない」と考えていた。また一方、天皇がどこにいるのかわからない、軍隊は全く機能しないというもとでは、どうやって戦うのだろうとも思った。

 母たちのうわさ話は、これまでと違ってやや公然と「負ける」方に傾いていた。しかし、その前に降伏するということは思いつかなかった。軍国少年の中学生にとって、まだ「負ける」は論外だったのだ。夫を軍に採られ留守を守る伯母は、この頃絶望と復員の希望が交錯する複雑な心境にあっただろう。

 この日記の翌日からは、国民学校初等科(小学校)を除き、授業が全部停止された。晴れていれば松の根っこ掘り(乾留してバイオ燃料に)、農家の手伝い、緊急滑走路建設などの勤労奉仕、雨降りだと国語の先生による歌唱指導、体育館で鬼ごっこなどをしていた。各教室は、軍需物資の倉庫にあてられており使用不能になっていた。

 それから終戦をはさんでの激動の1年、天皇をふくめ政府も国会も、そして国民もよく国を滅亡の淵から救って頑張ったものだと思う。ことに昨今の政治や議会をみていると、その緊張のなさに隔世の感を深くする。今年の秋か暮れまでによくなるだろうか、なかなか楽天論にはなれない日々が続く。

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2009年3月11日 (水)

進駐軍

 昭和20年○月○日、朝礼で「今日学校に進駐軍がやってくるので、校舎から一歩も外にでてはいけない。また、彼らを刺激するような行動は厳に慎むように」という訓辞があった。この町にあった陸軍歩兵連隊と通信学校の兵舎あとに、米軍が進駐してきたのは2、3日前だ。

 この田舎の町へは、国鉄から私鉄線にはじめて小型機関車に引かせた専用列車を乗り入れ、やってきた。なにしろアメリカ人など見るが初めてだ。日本軍とどう違うか、学生たちは興味津々で授業はそっちのけだった。「来たぞー」と独りが叫んだ。

 正門に面した通りをマッチ箱に車をつけた(これがジープだったのだ)ような自動車4台ほどで、校門を通り過ぎ生け垣に沿って並んで駐車した。パラパラと降り立った彼らは、日本の軍服と違ったずいぶんラフな格好で、顔はくしゃくしゃの赤ら顔に見えた。そして玄関に近づきすぐ視界から消えた。

 しばらくして、先生から教室の隅にある木刀を集めて校庭の国旗掲揚柱の元に置いてくるよう指示された。軍事教練用の38式歩兵銃や村田銃などとともに武装解除の一環ということだろう。だけど、この木刀は親に買ってもらった私物だ。

 米兵がやってきて軍靴で踏んで折ろうとしたが、そんな簡単に折れるものではない。木とはいえ刀は日本人の魂だ。学生は、口々に校舎の窓から「バカ野郎」などとののしった。先生があわてて制止にはいった。「こういう日本語は奴ら知っている、止めんか」と必死の形相。

 その後、例の格好の米兵はごく自然に町にとけ込んだ。国鉄には米軍専用車両があったが通学の電車では一緒。急な雨にあったら相合い傘を奨めるのはこの田舎では当然の行為だ。お礼にチョコレートをさし出すがことわりきれず頂戴する。学校では英語クラブが大人気、本屋では豆英語会話集が飛ぶように売れた。

 日本人の節操のなさではない。鬼畜米英のはずが、日本軍が民間を「地方人」と呼んだような、軍・民の距離感を感じさせないアメリカ人気質が受け入れられたのだ。もちろん、そういう気持ちになれなかった人はいる。やがて公職追放対象となる校長や、既に姿を消した配属将校、精神教育を得意とした武道の先生たちだった。

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2009年2月27日 (金)

日本的民主主義

 終戦後、日本を支配した進駐軍は、日本人に対して盛んに民主主義を教え込もうとしました。その当時、「日本にだって聖徳太子の十七条の憲法というのがあるんだ。そんなのわかってらい!」という気分がありました。

 十七条の憲法は、第一条が「和をもって貴しとなし、さからうこと無きを宗となす(以下略)」、最後の十七条が「大事は独り断ずべからず。必ず衆とともに宜しく論ずべし(以下略)」です。推古12年といえば西暦604年、西欧的民主主義などまだない時代です。

 近代になっても、明治維新の際天皇が宣言した五カ条の御誓文の最初は、「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」です。そして明治初年から明治憲法ができるころまで活発な自由民権運動が日本を覆い、その憲法のもとという制約があるものの、大正デモクラシーが世を風靡したこともありました。

 ここに大学の政治学の教科書に使われた、『概説現代日本の政治』(阿部斉/新藤宗幸/川人貞史著)という本があります。その中で、民主主義の日本的特徴を次のように解説しています。

  ------------------
 民主主義という政治の原理は、もともと欧米で発展したものであり、日本の民主主義の発展は、欧米の原理を受容したことから始まった。しかし、それは日本の民主主義が欧米の民主主義と同じであることを意味しない。日本の民主主義には、欧米の民主主義にはみられない日本的特徴がある。それはいかなる特徴であろうか。

 まず第一に、欧米の民主主義は個人を単位として社会を構成する原理であるが、日本では、社会は個人が構成するものであるよりは、むしろ自然に形成されるものである。日本で集団の原型とされるのは、家族と村落であり、いずれも自然に形成された第一次集団であって、その中では人々は和気藹々(わきあいあい)となごやかに生活を送るものとされる。

 他の組織はこうした第一次集団になぞらえてとらえられるのであり、国家もその例外ではない。集団の指導者に要求されるのは、親心をもって構成員に接することであり、構成員に要求されるのは、「みんなで仲良く」集団の和を保つことである。(中略)

 第二に、欧米の民主主義はあくまでも政治の原理であり、政治が対立と紛争に決着をつける機能を持つ以上、民主主義も喧嘩に決着をつけるという働きを持たざるをえない。「民主主義は頭数を勘定する方が頭を叩き割るよりはよいという原理に立っている」(カール・ベッカー)といわれる所以である。しかし日本の場合、国家も家族の擬制において理解されてきた以上(家族国家観)、国家はそもそも対立や紛争を含まない集団とされざるをえない。対立や紛争がなければ、政治も存在の余地がなく、要するに日本の国家は非政治的国家とならざるをえない。
  ------------------

 以上、やや長い引用となりましたが「そんなことはないよ」と思われる方も多いでしょう。現に「ショウ・ザ・フラッグ」といって戦争協力を迫ったアメリカのネオコン・アーミテージ国務副長官にならったのかどうか、「郵政民営化に賛成か反対か!」と絶叫して選挙に刺客まで送り込んだ小泉元首相のやり方は、決して日本式とは言えそうにもありません。

 日本式は、島国であり農耕民族というところから来ているのでしょうか。つい最近までアメリカ一国主導のグローバリズムが世界を覆い、イスラムやアラブ諸国にアメリカ式民主主義を押し込もうとする動きがありました。しかし「神の前ではすべて平等」というイスラム式の民主主義は、他の宗教では見られないほど徹底したものです。

 かつて、森元首相が「日本は天皇中心の神の国」といって、たいへん評判を落としました。しかし、日本の民主主義は、上から与えられたものが多く、案外日本式民主主義の本質をついているのかも知れません。その弱点が戦前の天皇制ファシズムを生み、軍部独走を生んだといえましょう。

 しかし、引用文冒頭にもあるように、日本人は、先進文化を取り込むことを非常に得意とする一面があります。聖徳太子の憲法も、いち早く伝来文化の仏教や儒教に指針を求めました。戦前の教訓、戦後の文化から得たものを巧に取り入れるのが日本人です。

 ところが、戦前の超国家主義や幕末・明治にできた皇国史観に先祖帰りするのが日本人だと思っている人がいます。その人がどう考えようが、思想信条の自由は戦後獲得した立派な日本文化で、尊重されなければなりません。ただ、「日本人」の勝手解釈だけは迷惑千万だといえましょう。

 日本式民主主義と世界の民主主義の多様性をアピールし、さらに、アメリカのオバマ路線であるスマート・パワーとうまくフィットすれば、世界の平和構築に大きく寄与できる、こんな夢を持ちたいものですね。 

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2009年2月 6日 (金)

弾丸切手

 戦時中「弾丸切手」なるものがあった。それとオバマが結びつく、というのはかなりきわどい連想だが、まあ聞いていただきたい。最初は、オバマが膨大な選挙資金を大衆の零細な寄付でまかなったという報道からである。

 どういう仕掛けがあるのだろう。大きな会場にあふれんばかりの支持者が歓声をあげる。その人達が買う入場券だろうか。日本にあてはめて見た場合、どうしてそれが成功するのか想像できない。日本なら1枚2万円ほどのパーティー券を企業などに売りつけるやりかたがある。

 もともとこれはパー券といって不良学生などの資金源だった。買った企業などは、普通パーティーなどには出席しない。ほかには、ニュースでよくあばかれる抜け道だらけの政治団体あて政治献金だ。共産党は今でも『赤旗』購読料なのだろうか?。

 日本には、一般国民がおこずかい程度で政治に直接参加する機会がない。まあ○○候補者、○○議員の後援会に入るという手もあるが、将来とも支持し続けるとは限らず、固定化されるようでおっくうなものだ。

 そこで思い出したのが冒頭の「弾丸切手」。昭和17年、いよいよ戦局が転換しはじめる頃だ。額面2円、1等1000円が当たる抽選券付き。政府の宣伝は、これで敵を撃つ弾丸ができる、そしてよく当たる(抽選が)だった。

 今日からみても、ごろ合わせなどあるが宣伝効果抜群の命名だと思う。しかしその割りに戦時財政に貢献したようにも思えない。高級たばこ「光」18銭の時代の2円は切手としては高すぎる。それに5枚買って10円にして郵便貯金にしないと元金をとり戻せなかった。

 まあ、早い話国債消化策だったわけだが、ここから政治資金大衆化策のアイディアはだせないだろうか。郵便局から政治資金に使う戦後版「弾丸切手」を売り出す。額面は100円、500円、1000円など、凝ったデザインで何枚綴りのシートも作ればいい。

 それは切手として郵送代にも使えるが、政治家あてに寄付額を余分に貼って出す。政治家はそれを現金化できるというもの。金の流れ方は別途考えればいい。それをたくさんもらった候補者は「よく当たる(当選する)」よ。この記事、どこまでまじめな話かわからなくなった。happy01

追記(2/8)

 【オバマ陣営への献金方法が判明】

 ネットを通じてクレジット決済、15ドル(1500円弱)から可能。
 (毎日新聞「勝間和代のクロストーク」より)

 日本ではどうだろう。公職選挙法、クレジットカードより現金、ネット利用者のかたより、新手のふりこめ詐欺……。やはり「弾丸切手」の方が情が伝わる点で上。

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2009年1月 7日 (水)

愛国百人一首

 なつかしいものに出くわした。「愛国百人一首」。昭和18年に日本文学報国会が選定したものである。

  正月のカルタ遊びもこれならばよろしい、というお墨付きがあったのだろうか。ところどころ覚えている。

  結局、使えたのは昭和19、20年の正月2回だけしかない。教科書にのっているそんな歌は、20年の秋先生の指導で各自が黒塗りした。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~

おほきみはかみにしませばあまぐもの
     いかづちのうえにいおりせるかも
              柿本人麻呂

みたみわれいけるしるしありあめつちの
      さかゆるときにあへらくおもへば
             海犬養岡麻呂

あをによしならのみやこはさくはなの
       にほふがごとくいまさかりなり
                小野 老

大君のみことかしこみ磯にふり
       海原わたる父母をおきて
               丈部人麻呂

今日よりはかへりみなくて大君の
        しこのみたてと出たつ吾は
               今奉部與曽布

山はさけうみはあせなむ世なりとも
        にふた心わがあらめやも
               源 実朝

かへらじとかねておもへばあづさゆみ
        なきかずにいるなをぞとどむる
               楠木正行

敷島のやまと心を人とはば
        朝日ににほふ山桜ばな
               本居宣長

身はたとひむさしののべにくちぬとも
        とどめおかまし大和だましひ
               吉田松陰

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2008年7月23日 (水)

ひねくれ者

 NHKTV番組、鶴瓶の「家族に乾杯」で、福井県永平寺中学が登場した。写っていたのをチラと見た程度だが、下校時に校門で校舎のの方に向かって一礼して帰るとか、終業時に1分間瞑想するとか、一斉に廊下のぞうきんがけをするという話である。

 これに感動した主婦(67)の方が、「感謝や恩に報いるという考えが足りなくなっている」という世相を嘆いて「生徒たちの姿がまぶしく見えた」と毎日新聞に投書した。また同じ新聞の経済面「経済観測」というコラム欄の常連が、全く同趣旨の話をテーマに取り上げた。

 この方は「いまどきこんな中学があったこと自体、日本も捨てたものではない」とか、「生きていくことの基本を身につけさせる教育の原点は、こんなところにあるのかも知れない」という入れ込みようである。

 ここで、ひねくれ者は考える。「これはどっかで見たぞ」「俺らもやったじゃないか」ということになる。上記の主婦もコラムニストもそんな体験はないだろう。敗戦→占領で廃れてしまったからだ。校門を入ると、左右いずれかに奉安殿(鉄筋コンクリート製で天皇の写真や勅語などをしまっておく)があり、登校時、退校時には必ず最敬礼した。

 田舎の奉安殿がない小さな学校は、門を入って校舎の正面入り口の右か左が校長室とか奉安室だからそれに向けて最敬礼をした。朝礼など全校集会はすべて上級生の号令である。「黙想!」というのがあった。これが上記の瞑想に当たる。ぞうきんがけ、さぼると厳罰があり、四つんばいで拭くのはけっこう辛かった。

 新制中学発足当時からその風習があったというから、戦時中の慣習を時の有力者が復活させたものに違いない。奉安殿はともかく、それらに教育効果がないとはいえない。また、これを滅私奉公・戦争遂行教育だなどと、ひねくれたこともいいたくない。できれば投書主婦やコメンテーターのようにすなおに感激したいのだ。

 しかし「だが待てよ」がある。その行動が強制されたものがどうか、生徒の自発性や総意がどの程度汲み入れられているか、教育成果を何で計ろうとしているのか、それらがわからないと、ひねくれ者には一抹の不安が残るのである。

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2008年7月21日 (月)

夏の色

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【高見順『敗戦日記』文芸春秋新社】
(昭和二十年)

七月二十一日

煙草に野蕗の葉をまぜて飲む。配給がすくないのでそうして飲みのばそうというのだ。
かぼちゃの葉を食う。初めての試食だが、まずくはない。
平野潤少尉来る。徹君の弟。名古屋では月に五日分の米しか配給がないという。あとは代用食。

【佐々木信綱校訂『新訂新古今和歌集』岩波文庫】

          慈覚大師
大方に過ぐる月日をながめしは
わが身に年の積るなりけり

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2008年7月12日 (土)

監視社会

 今朝あるテレビを見ていたら、若いお母さんが乳児を連れて電車に乗っても席をゆずる人がいないことから、電車内でマナーに反する行為をする人に注意を促すボランティア活動に参加する話を放映していた。

緑色の揃いのうわっぱりで、トラブル回避のためか警官のような服装の人も車内の隅に配置していた。取材の立場も、スタジオのコメンテーターも「物言えば唇寒し」の風潮と若い人の不作法を非難し、ボランティアを美化する内容になっている。

 その限りにおいては「そうだ、そうだ」という気持ちで見ていたが、ふと、戦時中の戯れ歌を思い出した。

 ♪パーバ(当時の子供は鼻水をつまらせている子が多く「マ」が「バ」に聞こえる)ネントに火がついて、見る見るうちにハゲ頭、ハゲた頭に毛が3本、ああはずかしやはずかしや、パーバネントはやめましょう。

 政府の「贅沢は敵だ」キャンペーンで、町を歩くウエーブをかけた婦人を見ると子供たちがはやし立て石を投げたりした。中には天然ウエーブの子供までその被害にあった。もうひとつ歌から。

 ♪トントントンカラリと隣組、格子をあければ顔なじみ……

 この方は国民歌謡で、毎日のようにラジオの電波に乗った。隣組は官製の住民末端組織である。物資配給の責任を負ったり防空班を編成、訓練に当たった。当然防犯にも意を用い、小学生も夕飯をすますと拍子木を持って「火の用心」と言いながら灯火管制で暗い町を回った。

 出征兵士歓送行事、留守家族援助もある。前の記事「世論指導」であげたように、当然戦争遂行、戦意昂揚に責任もある。「格子をあけ」て各家庭の状況把握も必要だ。かりそめにも町内から「思想犯」など出してはならない。

 ここまで思いが至ると、「チョット待てよ」という気がしてきた。「隣は何をする人ぞ」は戦後獲得した貴重な権利の一つではないか。憲法で保障された個人の行動や通信の秘密や個人の尊厳も守らなければならない。わが町の周辺でも、揃いの帽子を被った犯罪監視人や防犯カメラ設置が増えてきた。

 それで犯罪が統計的に減っているというから、効果はあるのだろう。アメリカではその筋による盗聴が合法化された。日本の社会は絶対そうなってはならない。住民の自発的活動は制限されるべきではないが、官憲や議員主導の旧・隣組的組織化には(たとえ左翼政党であろうとも)厳重な警戒が必要である。

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2008年7月11日 (金)

世論指導

 以下は、音読または味読してみてください。戦争末期に入り政府世論工作が初期と違ってきたこと、要綱作成者は、各界の「指導層」と同様すでに敗戦を意識しており、相当苦しい選択を強いられていること、たとえば偽であっても情報公開が必要などなこと、などが行間からうかがわれます。

 また、宗教の利用や、国体(天皇絶対主義)を「信仰」と言ってる点、その他現在の政府世論操作などとの比較も見逃せない点です。(出典:『資料日本現代史13』大月書店) 

―――――――――――――――――
決戦輿論指導方策要綱(昭和19・10・6)
極秘
一、方 針
    輿論指導ハ国体護持ノ精神ヲ徹底セシメ敵愾心ヲ激成シ以テ闘魂ヲ振起スルコトヲ目的トシ国民ヲシテ知ラシムベシ倚ラシムベシノ方針ニ則リ特ニ輿論生起ノ根源ヲ衝キテ之ガ適正ヲ期ス

二、要 領
(一)輿論指導ノ内容ニ付テハ左ノ各項ヲ重視スルモ其ノ対象ニ応ジ適宜取捨按配スルモノトス
  (1)国体ニ対スル信仰ノ喚起昂揚
   (イ)先祖ヨリ継受セル国体ヘノ信仰ヲ喚起昂揚シ君民一体ノ精華ヲ発揚ス
   (ロ)皇土防衛ノ国体護持上絶対緊切ナル所以ヲ強調ス
  (2)宣戦ノ大詔ノ御趣旨ノ徹底
     戦争目的ヲ宣揚シ戦争完遂ガ皇国ノ自衛ノ為絶対ニ必要ナルコトヲ徹底ス
  (3)決戦的戦局認識ノ徹底
     戦局危急皇国ノ興廃ヲ岐ツベキ一大決戦ニ直面セルコトヲ一層強ク知ラシメ之ニ対処シテ国民総戦闘ノ決意ヲ固メシメ活發ニ実践セシム
  (4)究極ニ於ケル必勝確信ノ具体的基礎ノ明示
   (イ)必勝ノ確信並ニ之ガ方途ニ関シ具体的事実ヲ教フ
   (ロ)最後迄国民各自職分ヲ忠実ニ奉行(ママ)シ粘リ強ク戦ヒ続ケタル国ガ紙一重ノ差ニテ勝ツ所以ヲ解明ス
   (ハ)我ニ天佑神助アリ我ニ備ト地ノ利アルヲ以テ総テノ人的物的国力ヲ戦力化シテ一億協力大和魂ヲ以テ戦フ時ハ必ズ敵ヲ破リ得ル所以ヲ解明ス
   (ニ)外寇ニ対シ挙国総蹶起シテ戦ヘル結果ハ仮令一時危局ニ直面スルモ必ズ之ヲ突破セル歴史的事実を示シ国民的確信を強化ス
  (5)敵ニ対スル敵愾心ノ激成
     米英指導者ノ野望ガ今時戦争ヲ誘発シタル事実を解明シ且米英人ノ残忍性ヲ実例ヲ挙ゲテ示シ殊ニ今時戦争ニ於ケル彼等ノ暴虐ナル行為ヲ暴露ス
  (6)敵国内情ノ苦境ヲ暴露
     敵国ノ政治情勢及思想ノ変化、国民生活ノ低下、経済ノ逼迫、道義ノ退廃等ヲ暴露報道ス
  (7)決戦的戦時生活下ニ於ケル気分ノ明朗化
     国民生活ノ低下ニ伴ヒ之ニ堪フルノ心構ヲ強カラシムルト共ニ之ノ間ニ処シ猶明朗ナル気分ヲ保持セシムル如ク国民相互ニ信頼ト友愛トヲ以テ協力シ道義昂揚ノ雰囲気ヲ醸成ス
 (二)輿論指導ノ方法ニ付テハ対象ヲ適確ニ把握シ特ニ指導者層ニ重点ヲ指向シ徹底ヲ期スルモノトシ左ノ諸項ニ留意ス
  (1)報道宣伝ハ国民ノ忠誠心ヲ信頼シ事実ヲ率直ニ知ラシム殊ニ戦況(空襲ヲ含ム)ノ発表ハ率直且迅速ニ之ヲ為ス
  (2)報道宣伝行事等ニ付テハ機宜ヲ捉フルコト及国民ノ感情ニ即セシムルコトニ特段ノ工夫ヲ凝ラス
  (3)民間ヨリ自発的ニ起ル戦争完遂上有益ト認メラルル国民運動的行事ハ之ヲ活発ニ行ハシム
  (4)大政翼賛会其ノ他ノ外郭団体ノ相互調整及活用ヲ図ルト共ニ宗教家宗教団体ヲ一層活用ス
  (5)必要ニ応ジ政府ノ発言者モ国民ニ呼掛ク
  (6)国民ノ声ヲ活発ニ上通セシムル為メ措置ヲ講ズ
 (三)輿論指導ヲ活発ナラシムル為防諜及言論集会ノ取締方針等ニ付必要ナル再検討ヲ加へ之ヲ刷新ス
 (四)輿論指導ヲ効果アラシム為特ニ左ノ諸点ニ留意ス
  (1)誤レル平等観ヲ国民ニ植付クルコトニ因リ共産主義思想ノ温床ヲ作ルガ如クスルコトナカラシムルト共ニ特定ノ職域ニ従事スルモノノ歓心ヲ買フガ如キコトハ之ヲ避ク
  (2)国民生活ヲ不必要ニ圧迫セザル如クシ指導ヲ要セザルモノハ之ヲ其ノ発意ニ任ズ
  (3)社会各界ノ指導者層ハ自ラ深ク反省シ大衆ヲシテ必勝ノ信念ニ疑惑ヲ生ゼシムルガ如キコトハ日常ノ言動ニ於テモ深ク戒心スルト共ニ軍官民一致団結ヲ阻害スルガ如キ諸事象ハ急速ニ之ヲ排除ス

備考
 戦争遂行上抑制スベキ言論特ニ国体ニ対スル信仰ヲ動揺セシメ、軍事外交上ノ機密保持ニ支障ヲ生ジ、若ハ国内分裂ヲ招来スルガ如キモノ又ハ厭戦和平的ナルモノ等ニ対シテハ厳重ナル取締ヲ為スモノトス

 

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2008年7月 4日 (金)

インパール作戦

 さきの大戦で、フィリピン戦線などと共に最も悲惨な結末を生んだのが、最後の援将ルート(連合軍による中国蒋介石政権救援ルート)阻止のためのインパール作戦である。敗戦の理由を日米の物量の差や科学応用力の差で片づけるケースが多いが、この場合は、大風呂敷を広げすぎた作戦の無謀さと指揮系統の乱れによるものだった。

 54年前の今日、7月4日は大本営が同作戦の中止を決意、命令した日である。2週間後の18日、東条独裁体制の批判が高まり、重臣・皇族らの工作が成功して東条内閣は総辞職する。以下の引用は「たむ。たむ(多夢・太夢)ページ」によるが、同作戦での体験記は、インパールで検索できるので閲覧願いたい。
 

  第2次世界大戦中インパール(インド東北の辺境、マニプール土侯{どこう}国の首都)作戦ほど悲惨な戦闘はなかった。作戦開始以来第15師団および第31師団には1発の弾丸も、1粒の米も補給されなかった。無謀極まりない東条の作戦開始であったが、その撤退の決断も遅すぎた。

  大本営が第15師団に退却命令を出した1944(昭和19)年7月15日は、時すでに雨期に入っていた。日本軍の、ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた。ジャングル内の道は、軍服を着たまま白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。生き残った兵士はわずか12,000人にすぎなかった-『決定版昭和史第11巻138頁』)、兵士達はこの道を「靖国街道」・「白骨街道」と呼んだ(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻333頁)。

  食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた時、第31師団長佐藤幸徳は、独断でコヒマへの撤退を命じ、5月には第15軍司令官牟田口廉也(むだぐちれんや)のコヒマ死守の命令を無視、コヒマを放棄して補給可能地まで退却した。この判断は全く正しく退却した部隊は助かったが、佐藤は直ちに罷免され、敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが、「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻499頁)。

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2008年7月 2日 (水)

隠れ家

☆昭和1×年県立某中学
 ・教員室入り口で。
  「第1学年丙組何の某、○△……」
  「なにい~、聞こえんぞ」
  一段と大きな声で、「もとへ。第1学年丙組何の某、○△先生に用があって参りましたッ」
  「よし、入れ」

 ・この頃、すでに入試から筆記試験は廃止され、内申書と口頭試問だけとなった。
  「自転車の前にある歯車の歯の数が×つ、後ろの歯の数が○つ、前が1回転すると後ろは何回転するか」
  間をおいて小声で「△回転であります」と答えた受験生は、不合格。
  元気よく「わかりません!」と大声で答えた方が合格。これは全国的にそうだったようだ。

 ・軍事教練の時間、校庭で。
  級長「きおつけーッ、かしらー中、なおれ。第1学年丙組総員○○名事故○名事故は欠席某、見学某、番号!」。級員「1、2、3、……」。
  配属将校の代役として、退役准尉・軍曹クラスが指導を担当した。
  整列する生徒をずーっと目で追って、「おい、お前はなんで脚絆をしとらん?」
  「ボクは……」
  「ボクは~?、はいッ、自分は、といえ」

 ・授業中、尿意ならぬ屁意を催したときの自己申告。
  「屁にはブー、ピー、スーの三種有り。ブーは音高けれど臭い低し」。
  「ブーッ」

☆個性的なのは駄目、意見を持つのは駄目、自己主張、とんでもない。「本官の命は天皇の命と心得よ」で上意下達の精神をたたきこまれる。個人が逃げ込む隠れ家は許されない。「引きこもり」や「おたく」になる自由はない。鉄拳制裁の対象には、そういった性格の人がねらわれた。

☆家に帰っても、よほどのお坊ちゃまでなければ、勉強部屋などない。まして個室など逃げ込む隠れ家はどこにもない。こうして兵隊予備人員を養成・確保したのだ。現在は、自衛隊入隊希望者が激減し、母親や幼児までを対象にしたプラモデル・見学作戦に大わらわだという。
 

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2008年4月15日 (火)

食糧難

 「深刻化する世界的食料不足」という新聞見出しがあった。われわれの脳裏にあるイントネーションからすれば。「食料難」である。イギリスのブラウン首相は、食料問題を洞爺湖サミットの主要議題にすべきだ、と提案している。終戦、そしてその後1、2年の飢えの体験は、福田首相にどれほどあるのかないのかは知らない。

 しかし、世界には低開発国を中心にそういった状況がすでに始まっており、自給率が40%を切った日本も、決して他人事ですませないはずである。輸入毒ぎょうざ問題で騒いでいるが、「事態はそれどころではない」という気がしないでもない。はたして自分自身のこととして考えている日本人が、どれほどいるだろうか。

     昏暮黒菅原氏弓削より帰る。汽車中乗客の
        談話より推察するに恐るべき食糧難刻々切迫
        しつつありと言えり。予の如き老衰者果たして
       無事東帰することを得るや否や、憂悶眠る能わ
       ず。(永井荷風「断腸亭日乗」)

 上野駅の地下道では餓死する人が出、闇米を買わずに我慢した裁判官も命を絶った。わが家は穀倉地帯の中にあったが、農家から米を分けてもらうため母の訪問着、父愛蔵の碁盤、自転車そういったものが消えていったような記憶がある。

 学校では体力がないのか消耗したくないのか、すきっ腹で休み時間になっても机にうつぶせになっていたような光景をいまでも思い出す。ニュースでは、今年の米の作柄が気になり、アメリカ向けクリスマス用豆ランプの輸出が好調と聞けば「ああ、これで小麦が買える」などと喜んだものだ。

 今の食糧不足の原因は何なんだろう。中国、インドなど国民所得の増大による消費量の増大、米国を中心とする石油代替のバイオマス生産のためのトウモロコシへの生産転換、商品市場の先物価格の高騰、一部地域の旱魃や砂漠化による農地の減少、石油など生産コスト増大による値上がり、生産者・生産国の売り惜しみなど、羅列されるとどれもウソっぽく聞こえる。

 究極の問題は生産より、消費にあるのではなかろうか。人口爆発でもない限り、秩序ある消費に生産が追いつかないはずはない。また、消費をあおる販売競争の激化、生産者価格の低落、資源の乱獲や自然破壊、そういったことに国がかかわっていないはずがない。もはや、なすがままに放置しておいてもいいという段階にないのではないか。

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2008年4月 2日 (水)

『靖国』上映中止

 日中合作のドキュメンタリー映画「靖国YASUKUNI」を、五つの映画館が公開中止した。これについて2日付新聞各紙がそろって社説を掲げている。このようなことは珍しいが、まず私が見た5紙について概観してみよう。

【朝日】――表現の自由が危ない。
【毎日】断じて看過してはならない。
【読売】「表現の自由」を守らねば。

 以上3紙、問題点として言論・表現の自由をとりあげている点では同じである。その対策として街宣などのいやがらせに警察の対応が不十分ではないのか、とし、また毎日・朝日は、上映に向けての国会議員の働きかけがあってしかるべきだといっている。しかし、上記のタイトルの部分を見てもわかるように表現に差があり、毎日が強打から振り、朝日は犠打ねらい、読売はすべて見送りという構えのように見えた。

【産経】議論あるからこそ見たい。
 各紙の中で上映中止を表現の自由と結び付けなかったのは産経だけである。むしろ労働組合などの抗議声明に「憲法の理念をあえて持ち出すほどの問題だろうか」と疑問をなげかけ、映画館側には「抗議電話ぐらいで上映を中止するというのは、あまりにも情けないではないか」としている。すべて個人レベルの感情論で、社説(主張)に取り上げる意味がどこにあるのか。
 
【東京】自主規制の過ぎる怖さ
 「大事なことを無難で済ます、時代の空気を見過ごしては危うい」。これが一番私を釘付けにした論調だ。同紙の取材で「上映を妨害するような被害が起きない限り、警察が動いてくれないだろうと考え、中止を決めた」という映画館のコメントも紹介している。

 また書いてはないが、何かの事故が起きれば膨大な損害賠償訴訟を起こされかねない、と考えたかも知れない。結論にこう書いている。「権力だけが言論を封じるのではない。国民の自覚が足りないと、戦前のセピア色が急に、生々しい原色を帯びはじめる」。

 そのセピア色の時代を知っている者として、「国民の自覚」という点をこれからもっと掘り下げてほしいと思う。よく、一般国民の戦争責任ということを発言する学者や評論家がいるが、いつも「わかっていないなあ」という気がするのだ。

 当時の新聞、出版物その他ほとんどの歴史史料は、わずかな例外をのぞいて戦争に協力した国民の姿をえがいている。しかし現実は違う。建前と本音を使いわけて自主規制していたのである。では本音をいうとどうなるかはこれをご覧いただきたい

 私の家は、父がノンキャリアの会社員だった。したがってつつましやかながら、中産階級のインテリ家庭ということになる。父は過労のため若死にしたが、母が父の遺言は、私を大学に進学させろということだったという。それはその頃まだ大学生には徴兵猶予の特典があったからだ。

 なにもわが家だけではない。戦時教育にあたる教員の家庭でも、職業軍人の家でも徴兵逃れや、死の前線への配属を逃れるため、建前とは別になし得ることはなんでもやった。仮病を使う、コネを使って手をまわす、司令部つきの軍属になるという先手をうつことなどなど。

 私の知る限り、建前と本音が一致している家などどこにもなかった。中曽根康弘元総理の海軍主計中尉などという地位は、軍役をこなししかも安全という点で理想的であった。だれしも、こんないまいましい戦争は早く終わって欲しい、戦争にはならないでほしいと思っていたはずだ。

 それなのに、どうして本音が言えなくまた伝えられなくなったのか。できたとすれば明治の終わりか大正デモクラシーの時代が最後のチャンスだっただろう。それから今の憲法と違い、選挙権は限られた納税者だけで女性はのぞかれ、しかも国会が最高の統治機関でなく、投票イコール民意というシステムが機能しないことにも注意が必要だ。

 気がついたら自己規制があたりまえになっていたというまで、すくなくとも30年近くかかった。今が明治末期のようだとすると今声をあげるしかない。スピード時代だから憂き目をみるのはもっと早いかもしれない。一部の新聞のように他人事、ひやかし半分ですませるとはとても思えない。

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2007年12月13日 (木)

「偽」

 東京は新宿・中村屋……といえば創業100年以上の伝統を誇るパン屋でありレストランである。

   ☆戦時の中村屋レストラン献立
   (『昭和経済史上』日経新書より)

 配給品=サメおよび名称なき魚のごときもの
     貝類、代用肉
 カレー=貝柱、配給魚、代用肉などを用い、カレ
             ー粉のみ本物
 代用コーヒー=芋の皮小麦粉等をこがせし品
 主食=米(玄米の場合もあり)、短麺、きし麺、
           豆類を混合す。
 *売り切れと同時に閉店

 これでもほかの店に比べて高級な献立である。肉や魚はその日の配給などで入手できたもの。肉は、馬であるか犬であるか蛙であるか正体はわからない。しかし、産地や中身をウソの表示でごまかしたりはしていない。「ごときもの」とか「代用品」とちゃんとことわってある。
 賞味期限も延長などない。開店前から並んでいる人200人ほどで売り切れるのだから、材料を翌日に回すようなことはあり得ない。

 「偽」。昨日のニュースは、本年を表現する漢字「偽」を清水寺の管長が揮毫する写真でにぎわった。現在おこなわれている国会でも、防衛省の「偽」の追求に急である。しかしこの中村屋のメニューは、「偽」であることを最初から「偽(いつわり)」なく堂々と公表したものである。

 今年の「偽」は、云われなかったら気がつかなかったという点で、やはり幸せな時代に生きていているのだな……、というのが実感である。フリーター評論家・赤木智弘先生は、違う!「希望は戦争」といいたいかも知れないが。

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2007年11月30日 (金)

追憶

 前回のエントリー「千里山で昆虫採集」に対し三介さん、仲@ukiukiさんからご丁寧なコメントをいただきました。これについてあれこれ考えていると、やはり本文でご返事するのが妥当なような気がしたので続けることにしました。

 <もしかしたら、その頃の光景が浮かばれて、つらい気持ちをぶり返されたかもって心配もしてます。……と、両兄から気を使っていただきました。相当つらいこと、悲しいことでも、後になると「甘い想い出」に昇華してしまうのが人のつねです。

 ところが、思い出しても自分がズタズタになるようなことだけは、遠ざけるのが自己保存本能だと思います。はやりの言葉でいえばトラウマ(心的外傷)とでもいいますか。戦争では今米軍帰還兵が多くこの疾患(PTSD)で社会復帰できないといいます。

 私は幸い戦地に行かなかったので、そういう思いはありません。しかし、三介さんが言われるように「戦争知らない世代は、景気の好い戦争話にコロッと行かれやすい」ということも、東国原知事の徴兵制度発言などを聞くにつれ深く感じるようになりました。そこで三介さんのコメントにひかれてもうすこし続けます。

     青森へ旅立つ時の名残惜しさとか、これっ
     て今もある寝台特急「日本海」でしょうか
     ?。あれ「北斗七星」だったかな?
     フィリピン戦へ行かれたおじさんは、遺骨
     とかは帰られたのでしょうか?

 父が死んでから母は泣きとおしでした。武庫川駅や梅田駅にはおおぜいの方が見送りに来ました。中学に入学したばかりの私は、戦闘帽に半ズボンといういでたちでした。
 「ぼんぼんはえらい。ちっとも泣きよらせん。長男やさかいしっかりしてや。お母はんを支えんなあかんで。病気させんようにな」
 秋田出身の人は秋田弁で、新潟出身の人は新潟弁でいうことは同じでした。

 青森行きは、現在の特急とほとんど同じコースです。しかし特急というのは東海道線が主で、愛称のない単なる「急行」だったと思います。途中米原あたりまでは起きています。そのさき目が覚めるのは車輪の音がとぎれて長い時間停車しているときです。

 糸魚川か直江津か柏崎、車外で駅員がわびしそうな肉声で連呼した駅名は、そのどこかでした。これ以上の静寂さはないという感じです。「ああ、新潟県まできたんだなあ」と思いながら、電灯のまわりを飛び交う蛾を見ていると、「ボワーッ」というD51特有の汽笛。さすがに「シュン」でした。

 叔母の家に着いてからしばらくして、叔父が入営先から1夜の外泊許可を得て帰ってきました。いよいよ海外の戦地に向かうためです。叔父は変電所の技師で3人の子がいるという、徴兵から一番遠くにいた人です。叔母も母も口にはださないが今生の別れになる覚悟もあったと思います。

 この田舎の駅から叔父が離れていく様子は、ご想像にまかせます。その年の大晦日は積雪が屋根に達するほど積もりました。私は、叔母と二人で地元の八幡様に武運長久を祈りに行きました。なにしろ、関西を出るとき言われた責任が2所帯6人になったので、「男の子」にかかるプレッシャー過多はいうまでもありません。

 終戦の日の茫然自失、無限の開放感はものの本に書かれたとおりです。海外からの復員が始まった秋口から叔母は毎日夫の帰りを待ちました。全く連絡なしにひょっこり門口に……なんていう話が実際にあったのですから。あきらめかきれずにいたある日、戦死の公報が入りました。もちろん遺骨も遺品もなく、フィリピンのどこで死んだのかもわかりません。

 叔母がただ一度だけ靖国に連れて行ってくれ、といったことがあります。その頃は墓もなく仏壇もなく、祀るものもなく、夫に会えるのはどこだろう、と思ったようです。私の反戦原点はそこにあります。戦争体験としては最も軽い方だと思うんですが。

 「戦中も戦争直後も防衛利権というか軍人の闇の特権のようなものがあった」という仲@ukiukiさんのコメントに関連して付け加えさせてください。昭和18年3月に「戦時行政特例法」というのができて、造船業は海軍大臣の所管、自動車製造業は陸軍大臣所管というように、陸海軍の予算の取り合いから、直接重要産業そのものの分捕り合戦のようになりました。

 もう、「闇の特権」どころか国家秩序のあくなき破壊がはじまったのです。父の勤めていた工場のトップの経営権もこうして軍に移ったかのようです。このエントリーの前に「戦争とは」というテーマをあげました。戦争とは、破壊にはじまって、心の「すさみ」と「浅ましさ」だけを残すだけの不毛の愚行である、これはイラクなどでも十分に証明されているのではないでしょうか。

 これからも特別措置法だとか、特例法、臨時○○法などというのは、“特に”要注意の法だと心得ておきましょう。

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2007年11月29日 (木)

千里山で昆虫採集

 “多文化・多民族・多国籍社会で「人として」”ブログのコメント欄に、表題のような体験を書きました。京都には、幼少の頃からなんとなくあこがれのようなものがあり、「京都議定書」ではないが世界に向けた日本文化発信の地であり続けてほしいと思っています。

 ところが、なぜか民主党が右傾色鮮明な市長候補を擁立しそうだとのこと、やはり気になります。まあ、そんなことは抜きにして、気楽にその頃の話を聞きたいという、三介さん・うきさんのリクエストがありました。それをいいことに、今回は昔語りでお茶をにごさせてください。

 先々週の土曜は、孫娘の七五三のお祝です。妻が和たんすから晴れ着を出し、聞いていた寸法に合わせています。御所車や菊の花模様はにぎやかですが地がグレー基調、ちょっと子供が着るには地味ではないかな、と思いました。

 電車とバスを乗り継いで2時間、孫の家で妻と嫁とで着付けてみると、なんとキリリッと引き締まってえも言われぬ上品さです。赤の多い貸衣装などとは違うのです。実は亡くなった私の妹のために、父母が京都の呉服屋に注文した60何年も前のものだったのです。おさがりの5段かざりのひな人形も京都製です。緋もうせんは人絹ですが、ひなの顔立ちもさすがです。

 千里山に昆虫採集に行ったのは、小学校5年か6年、6年なら昭和18年です。住んでいたのは、阪神電車武庫川駅近くで、父は海辺にある軍需工場で石炭から石油を作る担当をしていました。隣には火力発電所があり数本の煙突から日夜を問わず真っ黒な煙を吐き出していました。当時はそれが大阪工場地帯繁栄の象徴だったのです。

 千里山には1人で行きました。父は過労もあってか肺病にかかり枕があがらない状態でした。大阪の天六に良い薬を売る店があると聞き、ここへも1人で買いに行きました。千里山はその何年か前、一家で紅葉狩りに行き「あそこなら珍しい昆虫がいるだろう、夏休みの宿題はこれにしよう」というわけです。地元にはシオカラ、とかギンヤンマしか(それでもいたんだ!)見られず、オハグロとかイトトンボなどをとってきた覚えがあります。 

 家の隣にはベソリックというドイツ人が住んでいました。工場で石炭液化の技術指導に来た人です。ただほとんど家族同士のつきあいはありませんでした。そういう人と話をしているだけで、スパイとまちがわれたくない、ということかも知れません。

 工場の方も、要員をだいぶんインドネシア・パレンバン製油所などに取られ人手不足になっていました。また専属の高級軍人がやって来て物資の配給などの支配権をにぎり、工場長などあってなきが等しい状態だったようです。

 その年の暮れようやく最初の石油が採取でき、同僚の方がサンプル瓶に入れて病床へ見舞いにこられました。父は感慨深そうにそのにおいを嗅ぎ、それからまもなく息を引き取りました。コメントにも書きましたが、今度は父の部下の人と京都、大谷霊廟へお骨をおさめに行きました。

 翌年4月、母と妹と私の3人は、夫を戦地へ送り出した叔母と同居するため、梅田駅から青森行きの夜行列車に乗り関西をあとにしました。退職金、餞別その他5万円は、その後のインフレで2年と持ちませんでした。また、終戦までに父のいた工場は空襲で全滅し、叔父はフィリピン戦線で妻子4人を残して戦死しました。

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2007年10月26日 (金)

消灯ラッパ

 朝、覚めきらぬ頭の中で何かのメロディーを繰り返す。覚めるに従って、「エッこれは何の歌だっけ」と考えるがしばらくは思い出せない。そのうちに「あっそーか」となる。

♪鉄砲かついだ兵隊さん 足並み揃えて歩いてる 
とっとことっとこ歩いてる 兵隊さんは きれいだな
兵隊さんは 大好きだ

ついでに

♪肩をならべて兄さんと 今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです お国のために
お国のために戦った 兵隊さんのおかげです

 そして「勝ち抜く僕ら小国民」など、子供の頃から音感教育で戦争を刷り込まれる仕掛けがあった。文部省唱歌だからなんらかの記録には残るだろう。ただ、憲法を改正して復活させるなんてことのないようにしてほしいものだ。

 次は軍隊に入ると日常行動がすべてラッパで律せられることになる。戦争末期には小中学校にまでそれが及んだ。村や部落にラッパ手あがりの退役兵などがそれを吹いたものだ。その節回しを替え歌風にうたったもの。

起床ラッパ
♪起きろよ 起きろよ 皆起きろ
起きないと 隊長さんに 叱られる

進軍ラッパ
♪トッテチンボの毛 ワッシャ 凸凹連隊長
お馬が3匹で おけつを並べて プックプクプー

突撃ラッパ
♪でてくる敵は皆々殺せ でてくる敵は皆々殺せ

消灯ラッパ
♪新兵さんはかわいそうだね 
また寝てなくのかね

 学童疎開で母親から遠く離れた子供が、お寺の冷たい布団で哀愁たっぷりの消灯ラッパの音色を聞くと、最初はどこかでシクシクと押し殺した泣き声、それがだんだんひろがって、みんながワーンワン。「子供っていつでも同じだねえ」。

 ちがうよ。父は戦地で母は都会の工場の空襲で、もう二度と会えないかも知れないんだぞ!。

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2007年10月 5日 (金)

美しい日本?

○やれ打つな 蠅が手を擦る 足を擦る
○やせ蛙 そこのけそこのけ お馬が通る

●南京大虐殺 従軍性的奴隷 民間人自爆軍令

 ○●どっちが本当の日本人だろうか。
 ●は、本当にあったのだろうか。
 
 子供ながら当時の空気を吸っていた者として、南京と性的奴隷=現場ではあり得たが、軍中枢の考えではなかった。民間人自爆軍令=当然あり得た。と考える。

 どうして、そう考えるのか、軍部は占領地の住民宣撫工作に相当力を入れていたので、虐殺など認めるわけにいかない。また、国の方針として朝鮮人には相当気を使い、学校でも差別やいじめなどをする子は非国民とされていた。

 どうして○が●になったのか。戦争は相手を殺さないと自分が殺される。疲れとストレスの中で集団ヒステリー状態となる。中央の方針より「命をかけて戦っている兵士に感謝」の方が優先されて中央のコントロールが利かない。つまり「戦争絶対悪説」?、その通り。イラクやベトナムを見ればわかる。

 沖縄で軍が民間人に自殺を強いたこと。現場は知らないが、東条英機の作った「戦陣訓」は、軍人が捕虜になることを禁じている。また、国民に対しては、「銃後の婦人も子供も、兵隊さんと一緒に鬼畜米英と戦いましょう」と、一体感を持たせることに腐心していた。

 だから、ある軍人が「おれはそんなこと命令してない」などといっても沖縄の人は承知できるわけがない。ある程度は、自発的にそうさせられたといってもいい。つまり「しょうがない」と?。久間発言が問題になったのでいいにくいが、その通り。

 原爆被害も「こんな戦争を起こしたのだから、負けたのだから」、「しょうがない」という気持ちが怒りと共にあった。日本が先に原爆を作っていたら風船爆弾でそれを使うことを考えたに違いないし、また国民もそう願っていた。

 ただ、「しょうがない」というのは、当時の国民のあきらめの心境である。ここにきて、再び同じことが起きないよう、また、小泉・安倍路線が復活しないよう、こうして「反戦老年委員会」ブログを作り「反戦塾」につないでいるのだ。 

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