戦中・戦後

2009年10月10日 (土)

校正恐るべし

  「校正恐るべし」は「後世恐るべし」の格言から来ている。特に著作、出版、編集にたずさわる者にとっては金科玉条だったが、最近はどうやら死語になった感がある。ワープロ、パソコンの普及で、漢字転換などの間違いもゲーム感覚で捉えられ、大目で見られるようになったからだろうか。

 最近は、有名新聞でさえそれが目立つようになった。格言が意味するところは、麻生前総理の漢字読み違いではないが、誤記、誤植、事実誤認など、わずかなことでも「この程度のことを間違うようではほかも推して知るべし」で権威が疑われるからだ。

 ブログの記事も、一応著作物だ。私も最低3回は読み返してから投稿する。にもかかわらず、ご存知のとおり間違いだらけだ。何年も前のエントリーを見て「アレーッ」と思うことも一再ではない。出版物などで、すくなくとも3人以上の人が10回は目を通したと思われるものでも、1万件に1回は見逃すという。

 拙ブログの場合、「安倍晋三」を手が滑って「安倍晋太郎」としてしまったことがあった。最近では横浜開港150年イベントの入場者が予定の40%ではなく、4分の1つまり25%を勘違いしていたいた誤記があった。いずれも、リンクいただいている方から直接・間接的にコメントで教えていただき、丁寧に礼を言って訂正をした。もちろんそのまま見過ごされる方の数が多いと思うが、教えていただくのは有難いことだ。

 保阪正康氏という昭和史では売れっ子の作家がいる。この人の所論には日頃敬意を払っているのだが、最近、『占領下日本の教訓』(朝日新書)というのを購入した。その中にこういう記述がある。

 アメリカの教育使節団がとりまとめた報告書は、結局はGHQ将校の協力やマッカーサーのお墨付きを得て、日本の教育制度やその内容の改革にと至った。そのなかでも特徴的だったのは六・三・三制の採用であった。もともとアメリカの教育は小学校教育六年、中等教育三年、そして高等教育も三年となっている。つまりは日本もこれに準ずることになるのだが、日本は小学校教育六年(尋常科四年、高等科二年)と中学校教育が五年になっていた。

 長い引用は文意の正確を期すためである。このなかで明らかな間違いがカッコの中にある。私が入学したのは尋常高等小学校だが、尋常科6年、その先に高等科2年が併設されていた。尋常科4年は明治末までの制度で、以後は廃止されている。

 つまりカッコはなくてもいいのだが、カッコを残すなら(1941年に国民学校と改称)とすればより正確だった。この点を出版社気付で著者に私信を送り指摘したのだが、半月過ぎてもご返事がない。すくなくとも「昭和史教訓3部作」と銘打った「歴史書」である。 些細なことではあるが、「後世」に残る本である。増刷その他の機会をとらえて、しっかり訂正をお願いしたいものだ。

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2009年9月19日 (土)

記念碑の流浪

 史跡名勝天然記念物保存法ニ依ル史蹟トシテ昭和九年十一月一日文部大臣指定

2009_09190003 と鮮やかに彫ってある。正面は、「明治天皇行在所」とその地名である。行在(あんざい)所とは、旅行または視察の途中立ち寄ったとか昼食をとったという意味で、都心から遠くないここで泊まったわけではない。
 
 この碑のあるところは、博物館の建物の裏である。本来あるべき位置ではない。建立されて10年余り、戦争に負けて天皇の権威は地に落ちた。多分進駐軍の目に触れてもろくなことはない、ということで現地から解体撤去され、石材屋にしばらくの間ころがっていた。

 それを自治体が引き取り、この場に石造物の一つとして移設、展示?したという説明がある。法律がどうなっているか知らないが、現在にそんな国指定の史跡はない。とり消されたのであろうか。それともうやむやにしたままなのだろうか。碑そのものに歴史上の価値はない。しかし碑の変転・流浪は立派な歴史的記念物である。

 昭和史研究の泰斗・保阪正康は、昭和8年が日本人を皇民化して戦争に駆り立てる運動の始まりだという。軍部と文部省の合作で、国定教科書は全面改定きれた。小学1年は入学するといきなり「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」で、2年生では「テンノウヘイカハ、ワガ大日本テイコクヲ オヲサメニナル、タツトイオンカタデアラセラレマス」などとなる。

 9年になると、10月1日に陸軍省は「国防の本義とその強化の提唱」いわゆる陸軍バンフレットを発行、今でいうマニフェストのようなもので国政全般に間接的な関与を試みる。また10年には議会で美濃部達吉博士の「天皇機関説」攻撃が始まり、政府は「国体明徴声明」を発表する。

 こうして、天皇は世界に君臨すべき神としてまつりあげられる。天孫光臨、万世一系の中でも軍事大国の道を開いた明治天皇は、特別に尊崇すべき天皇だった。その立ち寄り先が神聖視され、たった20数年前に亡くなった天皇なのに、史蹟にするという、狂気にも似た気の入れようだ。

 その時の文部大臣は、鳩山一郎。友愛を旗印に躍り出た鳩山由紀夫総理の祖父であったことも、反省すべき教訓として是非念頭に置いて欲しい。

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2009年9月 1日 (火)

敗戦日記

 前回のエントリーで選挙結果による政権交代のことを書いた。大げさにいえば、民意による政権転覆である。その大変化を日本の終戦になぞらえてみた。

 「庶民の暮らし、日々の営みが終戦の詔勅を境に突然変わったわけではない。アメリカ敵視や戦時体制は半月ほどくすぶり続け……」

 と書いたが、その「半月ほど」あとのできごとが、東京湾に来航していた米艦ミズリー号上で行われた1945年9月3日の降伏文書調印式である。日本側全権は重光葵外相である。当時TVなどないから、あとでニュース映画で見たのだろう。

 朝鮮独立を主張する犯人の爆弾テロで右足を切断した重光が、杖を頼りに舷側から甲板に上がる痛々しい光景が目に浮かぶ。終戦記念日には多くの記念行事があるが、この日が法的に日本が負けた日なのだ。当時の日本人にとって、8月15日とは違ったインパクトを受けた日だった。作家・高見順の日記は、これについての記述をただ1行だけしるしている。

 九月三日
 降伏調印式の写真を新聞で見る。

 ついでに、その前一日、二日に見聞した世相を引用しておこう。ただし、両日の日記にある出版社・鎌倉文庫の創立打ち合わせに関する部分は省略した。(『敗戦日記』文藝春秋新社より)

 九月一日
 在郷軍人会が解散になった。虎の威をかりて「暴力」をふるっていたあの分会……。
 しかし日本人がすっかり懦弱になった時は、今日の感想とはまた別のものが胸にくるだろう。

 九月二日
 横浜に米兵の強姦事件があったという噂。
「負けたんだ。殺されないだけましだ」
「日本兵が支那でやったことを考えれば……」
 こういう日本人の考え方は、ここに書き記しておく「価値」がある。
 

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2009年8月 7日 (金)

強い日本と「核」

 連続して3回「毎日新聞」からの引用をするのはさすがに気がひける。かつては5紙も購読したことがあるが、今は1紙だけ。「毎日」の回し者ではないが成り行き上やむを得ない仕儀と相なる。同紙を特徴づける自慢のコラムに「記者の目」がある。今日(7日)はそこに引きつけられた。30歳になる真野森作記者の目だ。

 核保有論が目指すのは、一義的には日本の3度目の被爆を避けることだろう。「核を持たないと核にやられる」という論理だ。例えば、月刊オピニオン誌「正論」(産経新聞社)8月号には「核脅威ふたたび」と題した特集が載った。西村真悟前衆院議員(改革クラブ)が「現在、我が国家には『核抑止力』が必要である」と持論を訴えている。

 こうした主張に魅了される人が一定数存在するのは現実だ。とりわけ、今30歳である私の同世代や年下の世代は、親にも戦争の記憶が乏しい。強い国家像が好まれがちなインターネットでの言論も一役買っている。

 熱を帯びた核保有論に対しては、封殺や無視をするのではなく、徹底した議論を繰り返し、核に日本がどう向き合っていくのか国民全体で考える機会とすべきだ。

 「核保有論など議論すらすべきではない」という人には暴論と映るかもしれない。だが、タブー視して議論をしないままでは、言いっ放しの雑な主張がはびこり、世論の分断がじわじわと進んでいく。

 この前段に、さして原爆に深い関心を持たなかった記者が、被爆者への取材を通じて核戦争の不毛な実像に強いインパクトを受けた経緯が記されている。被爆者ではないが、当時は中学生だった私が意を強うしたのは、「核タブー視ではない徹底的な議論を」という結論である。

 これは、このブログでもたびたび繰り返してきたことだ。また、中川昭一元外相の「核政策の議論や研究はすべきだ」とか、久間章生元防衛庁長官の「原爆しょうがない」発言に理解を示したところ、冷たい目でみられた覚えもある。

記事リンク「護憲」から「攻憲」へ:
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-c03a.html
「核軍縮を輸出せよ」:
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-de0b.html 

 私の子供よりさらに若い記者が、そういった結論に至ったことに勇気づけられたことを言いたかったわけだが、記者の指摘にある「強い国家像」に関し、若い人に往々にして誤解があるので、久間発言を切り口に付言しておきたい。

 私がすべての人の代弁をするわけにいかないが、特別の階層の人をのぞく意識はこうでなかったかと思う。終戦の詔勅を知ったとき、残念がり、悔しがり現に泣いている人を目のあたりにした。詔勅の「しのびがたきをしのび」とははまさにそのことだある。

 2年先には志願兵になっているはずの私も、内心「これで近く死なずに済みそうだ」と思った。その先の人生など何も考えていなかったので、今の若い人のような悩みは全然ない。中には戦中との生死観の葛藤で自殺する人もいたが、死なないでいいということだけですべてバラ色にできたのだ。

 広島・長崎が強力爆弾で被災したことは、その前に知っていた。しかしその後も秋田などが空爆されて大勢の人が死んでいる。原爆と知ってその残虐ぶりを認識したのはもっと後のことだった。戦争で多くの非戦闘員が犠牲になる、そのこと自体は「しょうがない」ことだと思っていた。

 誰を恨むわけでもない、戦争とはそういうものだ。勝つためには手段を選ばない。日本の敗色が濃くなったとき、起死回生の一手が原爆の開発でそれを夢見ていた。日本がそれに成功していれば必ず使っていたはずである。

 「過ちは繰り返しません」という原爆の碑の誓いは、日本人が非戦と核兵器廃絶を目指す覚悟を言うものだと、当時も、今でもそう思っている。さて、「強い国家像」だが、敗戦、占領中などは「弱い国家像」だったのだろうか。

 1990年頃から右派論壇にそのような論調が生まれ始めた。「東京裁判史観」などという一連の歴史修正主義だ。しかしこれはためにする作文にしかすぎない。敗戦の嘆きは長く続かなかった。東条英機の自殺未遂事件の頃から、戦中に鬱積していた軍部に対する批判が一斉に噴きだした。

 「戦争に負けてよかった。勝っていたらどんなに軍部がどんなに威張り散らすかわからない」というのは、私の近辺で大人から聞いた言葉だ。そして、2.1ゼネストを計画し食料デモはするが、《アメリカから押しつけられた》憲法はいやいやながら文句もいえずに受け入れ、東京裁判のA級戦犯断罪に抗議もできなかった、日本人はそんなに卑屈で内向的だったのだろうか。

 そうでない人もいた。鳩山民主党代表たちの父親一郎は総理大臣直前に戦時中の言動によりGHQから公職追放された。公職追放は多くの民間人、学校の先生にまで及んだ。こういった人達は占領軍が憎かっただろう。しかし、鳩山さんにしろ吉田さんにしろ岸さんにしろ、敗戦という現実をふまえたうえ、世界の強豪・米ソ相手に堂々と渡り合った。

 当時、人々は「強い日本」を目指し、今以上に確固とした自説を持っていた。他国に追随し、世界に堂々とものが言える気概に欠ける「弱い日本」ぶりは、現在の方がむしろ心配になる。強硬論を唱え核武装するのが「強い国家像」なら、北朝鮮を見習えばいい。一番弱い国のすることだ。

 これからの日本を背負って立つ若人にお願いしたいことは、真野記者のように、受け売りではなく、自分で調べ自分の頭で考えるようにしていただきたいことだ。そうすれば憲法9条を改正しないでも、核兵器保有国にならなくてもより「強い日本」になれることがわかるはずである。

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2009年7月 7日 (火)

治安と経済

 戦後、想い出の一こまである。おそらく終戦の翌年、昭和21年か22年はじめの頃だろう。学校で全校生徒を講堂に集め、民主主義教育の一環として公開討論会が開かれた。議題は「治安維持と経済安定のどちらを優先するか」だったと思う。

 なぜこんなことを思い出したかというと、中国ウイグル自治区大騒乱のニュースである。その前、イランの大統領選挙をめぐる大規模デモ、さらに中米・ホンジュラス、さかのぼってタイなどさまざまな大衆行動や治安の悪化が続発しているが、起因はそれぞれ異なるものの、いずれも背景に経済格差の問題があることである。

 個別に論ずれば長くなるのでここでは省略するが、全体についてのべると、各国はそれぞれの立場から干渉したい理由があっても、基本的には自国民のことは自国民の間で解決すべきで、たとえ虐殺が起きようが、外交交渉を越える手出しは無用であり自制しなければならない。

 それは、アメリカがしばしばやってきたような、支持勢力とか国に対する武器援助についても同様である。それをしたために、アメリカがどれだけ恨みを買い信用を落とし、また自国民の命と財産を損なってきたかはかり知れないものがある。

 また中国については、嫌中陣営からチベット問題とウイグル問題を一緒にして考える傾向が出てくるだろうが、独立の要求や歴史的経緯、国際的な宗教の位置づけなどに根本的な違いがあることと、漢民族間でさえ存在する農村と都市の格差拡大など、国内問題として解決すべき複雑な問題を見逃して議論すべきではない。

 また、イランのラフサンジャニ現大統領、ホンジュラスで国外追放されたセラヤ大統領、同じく国に帰れないタイのタクシン元首相など、地方貧困層への予算ばらまきで選挙の獲得数を増やし、都市住民や中間層の反感を買ったことがデモや混乱を招いた。民主主義とはいっても、一種の衆愚政治が招いたもので、成り行きが注目される。

 さて最初の話に戻ろう。戦後の混乱期、治安は相対的に平穏な状態が保てたとはいうものの、ストの頻発やヤミ取引をめぐるトラブルなどで、一種の無政府状態のような不安があったことはまちがいない。また、先の見えないインフレ昂進は生活破綻直前にまで来ている。すなわち「泣く子も黙る」といわれる超法規的な権限を持つ「経済安定本部(安本=あんぽん)」が組織された頃である。

 そこで校内討論会となる。まずディベートで経済安定優先を受け持った生徒の発言。「それは経済が安定すれば治安もよくなる。経済優先に決まっている。その証拠に“経済安定本部”というのが組織された。安本は何のためにある!」 

 すかさずヤジあり。A「警察は何のためある!」(爆笑・拍手)。会が終わって生徒一同教室に戻る途中、狭い階段で人があふれて大混乱。もまれながら、B「警察は何のためある!」(爆笑)。AかBのいずれか私のようだ。政治を議論するのもヤジを飛ばすのも生まれてはじめての民主主義体験。何でも新鮮で楽しい時代だった。ただそれだけの話である。

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2009年6月24日 (水)

「謝罪」

 マイクの並んだ長テーブルを前に、起立最敬礼して「申し訳ありませんでした」という「お詫び」の会見。すっかり見飽きた。「世間をお騒がせして……」、騒いでない!。「ご心配をおかけし」、心配してない!。「ご迷惑を……」、迷惑してないってば!。

 それなのにその顔は一向にお詫びしていない。このパターン化は誰がはじめたのだろうか。最近、日本郵政の西川社長と鳩山前総務相の間に確執があって、社長をくびにしようとした大臣が逆に麻生首相から事実上くびにされた。

 非自民の皆さんは、おわびをしない西川さんが悪い、とのお見立てが多いようだが、私には鳩山さんが悪代官で、西川さんの方が黄門(ほどではないか)に見える。政治かけひきとか改革の是非は抜きにしてである。

 お詫び会見などしないで、背筋をピンと伸ばし権力やマスコミに屈しないところが西川さんはよかった。気の進まない役目(銀行出身者が銀行の強敵を作る)を、小泉元首相から三顧の礼を以て迎えられ、お国のためなら「それでは」と出陣した。劉元徳に呼び出された諸葛孔明(ほどではないか)だ。

 頼んだのなら任せなければならない。まだ国有会社だが、民間の腕を振るってくれということだ。民間なら、極端にいえばかんぽの宿を誰にいくらで売ろうと、背任でない限り社長権限だ。それが会社にとって最善ならお詫びするいわれはない。

 西川さんが立派に見えるのは、政治的野心や私腹を肥やす目的とは思えないからだ。ここにお詫びをしない美学がある。「そこはひとつ、円くおさめて」を押しつけられるのが日本のわるいところで、弱者はこれでいつも損をする。

 もうひとつのお詫びがある。先月末、藤崎一郎駐米日本大使がアメリカの「バターン死の行進」生存者に直接日本政府を代表してお詫びの意思を表明した。そのお詫びの詳細を知らないのだが、バターンやコレヒドールの戦いに関連して「多くの人々におびただしい被害と苦痛を与えたことに心からお詫びをする」という、村山談話の一部分を切り取って援用したらしい。

 全くまちがっているのが、アジアの侵略地に向けたお詫びの主語を変えて全く違うお詫びに使う無神経さだ。最初に書いたお詫びのパターン化だ。その事件の頃まだ生まれていなかった藤崎さんがなんで知らない事件のお詫びしなければならないのだ。

 お詫びが悪いと言ってはいない。どの点をどうお詫びするのか、お詫びするならそこをはっきりさせなくてはならない。それでは納得しない相手がいるかもしれない。しかしそうしない限り互いに理解しないまま終わってしまう。原爆をお詫びしない国へ行ってワンパターンのお詫びをすればいいというものではないのだ。

 従軍慰安婦問題もそうだ。歴史の検証は河野談話が精一杯で、史実に反する主張まで受け入れてお詫びまでする必要はない。もし歴史認識に違いがあれば、双方の専門家の研究にゆだねるべきだ。繰り返していうが、強要されたり、当座をしのぐ誠意のないワンパターンのお詫びは、見苦しいばかりでなく双方にとって実りのない儀式に終わるということだ。 

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2009年6月13日 (土)

戦後の10年

  加害者の人権ばかりを尊重し

 橋下大阪府知事がかつて人権派弁護士を攻撃した時の句ではない。活動写真弁士から戦後は名声優として鳴らした徳川夢声の60年以上も前の作である。出典は『粋人随筆』(緑地社)で、筆者はお医者さんの吉田機司さん。昭和30年に出版され、戦後10年の世相を川柳その他をまとめた類書がほかにもいくつかある。以下、*は同書の引用である。

 *敗戦後の食料不足で遅配欠配がつづき、どちらさまも青瓢箪になっていたころ、留置場の中ではのうのうと三食を食べていた。そのころの句である。

 おそらく、「人権」を盛り込んだ新憲法が国会で議論になり、「国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」という食料デモのプラカードが不敬罪にとわれた、昭和21年のことであろう。

 その「新憲法」についても3、4句紹介されているが、やはり腹の足しにはならないとか、「9条は親子で意見が食い違い」というさめた句が多い。9条は親が反対したのか子が反対したのかわからないが、両方ともあり得ただろう。憲法は川柳にはなじまない題材だったかのも知れない。

 このところの政治関係のニュースは、日本郵政の社長をクビにするといっていた総務大臣が、逆にクビになるなど内閣の失態もあって、近づく都議選や地方の選挙が急に注目されるようになった。

 *ことしは選挙の当たりどしである。選挙の傑作はなんといっても地方選挙にある。この前の地方選挙にはこんなのがあった。熊本県玉名郡玉水村の村長選挙に立候補した某候補は、開票の結果ただの一票。「はて、女房のやつ一体だれに投票したんだろうか」

 具体的な地名まであげているので、全くウソとも思えない。次の話も、その後まだまだ続編があり、肝炎入りの血液製剤などもっと大規模で国が謝罪しなければならないような事件まで起きた。医療詐欺事件なら今でも日常茶飯事だ。

 *数日前の新聞に、血液協会につとめていた廿四歳の青年が、今度は自分で無免許の開業をして、黴毒の血液検査証を偽造して会員にもたせ、その血液を売っていた記事があった。

  輸血して命拾って鼻が落ち

 黴毒は梅毒とも書く。その当時はまだ駆逐されていない性病として恐れられ、潰瘍で鼻が欠けるなどといわれた。したがって売春禁止法がなかった時代でも免許のない売春婦と交わる時には、その覚悟が必要だったのである。

 世情、現在と同じようでもあり、全く違うようでもある。さて?。

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2009年4月29日 (水)

昭和の日雑感

 みどりの日がいつの間にか「昭和の日」になった。改正した法律の趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」のだそうだ。最近でも右翼がもりあげに躍起になってるというが、チョット無理だろう。

 なぜならば、右翼のねらいとするところが、昔の明治節のように単純化した天皇礼賛の日にしようというのなら、これは失敗する。なぜならば「趣旨」には、回顧するのが昭和天皇ではなく「昭和の時代」とはっきり書いてあるからだ。

 ただ、「復興」が何からの復興か、戦争も敗戦も占領も全く書いていないので、非常に性格をあいまいにしている。そこが右翼の付け目なのかも知れない。戦争を挟んだ昭和の歴史を徹底検証し、過ちを繰り返さないよう将来への教訓にするという趣旨であれば大いに賛成する。右翼は何にスポットをあてようとしているのだろうか。

 ショウワ、ショウワ?。

♪昭和 昭和 昭和の子供よ 僕達は

 僕達が生まれるころできた歌だ。中の節は3番それぞれに違うが最後は、

♪行こうよ 行こう 足なみそろへて
  タラララ タララ タララララ

となる。まん中は、1番がキリリとした富士の山へ、2番がのぞみ大きく明るい日本晴れ、3番が鳥なら力の強い鷹へ、という久保田宵二の作詞である。満州事変直前、3番が鳩でなく鷹なのが意味深ではないか。世界恐慌のさなかで、日本晴れとはいえない時代だったはずなのだが。

 天皇の時代でよかった、という歌なら次が極めつけである。明るくないが節をつけて盛んにうたわされたものだ(小学生にはむつかしくてピンとこなかった)。

♪みたみわれ生けるしるしあり
   天地の栄ゆる時にあえらく思えば

 万葉集にある海犬養岡麿の詩だ。本ブログで連載している天智天皇の弟・天武天皇の時代である。この時代には、山部赤人など御用歌人が盛んに天皇神格視に協力した。日本の長い歴史の中で天皇賛歌がこれほど盛んになったのは、天武、昭和の2時代に尽きるだろう。

 「昭和の日」、ブログのテーマにして今日一日を有意義に過ごしたい。

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2009年4月 8日 (水)

賃金計算書

 昭和26年(1951)年の「賃金計算書」が出てきた。朝鮮戦争で釜山まで迫った北朝鮮が連合軍に押し返され、ソ連とアメリカが休戦を模索し始めた頃である。日本はまだ占領下であった。

2009_04080002_6  「給与明細書」とは書いてなく「賃金計算書」である。「給与」は会社が一方的に社員に与えるというイメージで労使対等の精神に反するという組合の主張によるものだろうか。

    左欄の<支給額>
基本給                 2700-
生計手当(扶養家族  人)               4120-
勤務地手当基本給と生計手当と合計額の15%)   1023-
早出残業手当( 29時間)        1653-

 合計で月収9496円、入社2年目で世間ではよい方だった。ちなみに、1年前の入社時は6千数百円、当時地方の代用教員の月収は3千円台だった。最下欄に「4月分精算額1522円」というのがあるが、春闘のベースアップと昇給による差額が示されている。

 生計手当は、扶養家族がいないのに基本給よりはるかに多い額になっている。これは、右欄の第一・二回仮払額とある月3回分割払いとともに、戦後うち続いたインフレに対処するための名残が残っているせいであろう。

 そのほか、「組合活動による賃金控除額」「欠勤、遅刻、早退等による控除額」などの欄があるが、一般組合員でも組合活動は委員会、大会などの出席に日割り時間割で賃金が差し引かれ、「ヤミ専従」など民間では想像の範囲を超えていた。

 勤務地手当は、東京・大阪などの15%から地方町村部の0%までの生活物価を反映する格差があった。しかし、時代を経るに従って逆の格差が生じるなど、組合内部でも意見対立が大きくなった。これも戦後買い出し経済の名残だろう。

    右欄の<控除額>
第一・二回仮払額      3200-
健康保険料            135-
厚生年金保険料        130-
勤労所得税              0-
社宅料                  12-
労働組合費            320- 
食事代                250-
互助会費                20-

 厚生年金保険料130円――、年金特別便というのが桝添大臣のほうから来るらしいので、またまだ大事にとっておかなければならない。所得税ゼロというのは年間を通じてそうだったかどうか覚えていないが、独身サラリーマンの安月給にはそんなに重税がかけられていなかったようだ。

 控除額の中で労働組合費が一番高いことが目立つ。社宅料は、木造2階建て独身寮6畳1間2人住まいの賃借料負担額。食事代は、社員食堂の日替わり定食1食10円のひと月分である。会社の厚生費補助があって質的水準が低くかったにしろ、現在より相当低レベルの負担で済んだ。

 結論として、高度成長前ではあるが当時のサラリーマンは、貧しくとも精神的に今よりずっと豊かに暮らせていたように思える。

  

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2009年3月14日 (土)

楽天論と悲観論

 三月十八日
 風邪がなおらぬ。
 毎日警報だ。今日は九州が襲われた。敵の本土上陸について、もうすぐやつてくるだろう、五月頃だろうという説と、敵は今までの例をもってしても、充分慎重に準備して確算がなければ行動を起こさないから、まだまだだ、今年の秋か、暮れだろう、そういう説と二つある。
 楽天論と、悲観論と二つある。前者は地方、後者は東京において有力である。
(高見順『敗戦日記』、昭和20年)

 64年前の今頃、東京大空襲の余燼が消えやらぬ間も各地で焦土作戦が続く。私は田舎にいたから「楽天論」だったかも知れないが、おぼろげながら「敵がここまで来れば竹槍であろうと石つぶてであろうと戦わなければならない」と考えていた。また一方、天皇がどこにいるのかわからない、軍隊は全く機能しないというもとでは、どうやって戦うのだろうとも思った。

 母たちのうわさ話は、これまでと違ってやや公然と「負ける」方に傾いていた。しかし、その前に降伏するということは思いつかなかった。軍国少年の中学生にとって、まだ「負ける」は論外だったのだ。夫を軍に採られ留守を守る伯母は、この頃絶望と復員の希望が交錯する複雑な心境にあっただろう。

 この日記の翌日からは、国民学校初等科(小学校)を除き、授業が全部停止された。晴れていれば松の根っこ掘り(乾留してバイオ燃料に)、農家の手伝い、緊急滑走路建設などの勤労奉仕、雨降りだと国語の先生による歌唱指導、体育館で鬼ごっこなどをしていた。各教室は、軍需物資の倉庫にあてられており使用不能になっていた。

 それから終戦をはさんでの激動の1年、天皇をふくめ政府も国会も、そして国民もよく国を滅亡の淵から救って頑張ったものだと思う。ことに昨今の政治や議会をみていると、その緊張のなさに隔世の感を深くする。今年の秋か暮れまでによくなるだろうか、なかなか楽天論にはなれない日々が続く。

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