ブログを始めてから明日で満5年になる。よく続いたといえば続いたものである。もっとも最初のタイトルは「反戦老年委員会」で、途中「反戦塾」と名を変え、プロバイダーもOCNからNiftyに移した。このため最初のものは、一部転載したもの以外ブログとして残っていない。
この間、約1560編のエントリーを掲げた。始めてからしばらくの間は書いたものを覚えていたが、こう多いと覚えきれない。同じ主旨のことを反復して載せることもあるだろう。普通、文章を綴る際には重複を避けるものだが、読む立場からみてその方が印象に残り、必ずしも悪いとはいいきれない。
そう割り切って、日々題材を求め、だらだらとこれからも続けていこうと思う。それがブログだといえばそれまでだが、「反戦」と名を冠したからには、目的意識がないというとうそになる。そうなると、目的を果たしたところで「終わり」にしなければならない。
上記の題名変更にはその意味合いもあった。2001年1月、アメリカはブッシュ・J大統領が発足し4月には小泉純一郎首相という組み合わせになる。そして9.11同時多発テロ、21世紀は不毛の戦争で明けた。2003年にはイラク戦争、そして自衛隊派兵が続き、首相による戦争顕彰の靖国神社参拝、アメリカ要人からの改憲圧力、そういった中で戦争不感症化が進められた。
「これは危ない」と発言の場を求めた05年4月12日、ブログ誕生の日である。小泉首相の強引な手法、選挙戦術には、ヒトラーの『我が闘争』を例にあげて攻撃し、その後を受けた改憲指向の安倍内閣の一刻も早い退陣を望む記事を書き続けた。まさに「反戦老年委員会」の気概である。なお余談ながら、ベトナム戦争当時の「反戦青年委員会」から借りてきた命名ではあるが、本人はその組織に関係したことが一度もない。
07年9月、7月の参院選で自民党は大敗し、自公は議員の過半数を維持できなくなった。閣僚などの不祥事が相次いだ安倍首相は、自信の健康維持もおぼつかなく、突如内閣を投げだした。あとを受けた福田康夫首相は、目立たないようにだが、小泉・安倍路線の修正をはかるはずだと見た。
改憲ムードの潮は明らかに遠のいた。中国・アジアとの関係改善も進むだろう。ここで「委員会」は目的を見失ったような気がしたので解散宣言をし、「塾」に衣替えをした。委員会や塾といっても自分一人である。「委員会」の臨戦態勢を解き、「塾」という日常の中で、ある時は「塾頭」あるときは手習いにはげむ「塾生」に立ち位置を変えてみた。
ただ「反戦」は、本人が満州事変、上海事件勃発の時期に生を受け、成人するまで戦争・占領下ですごした原体験を背負っている。これはすでに名字のようなものだ。さて「塾」にしてから2年半が過ぎた。その間に麻生内閣は舵取りに失敗し、惨めな崩壊を余儀なくされた。
そして民主党への「政権交替」。当ブログは、鳩山首相の「友愛」が欧州共同体の生みの親ともされるカレルギー伯の著書に基ずくことを知り、その発想を高く評価した。というのは、EUは知っていてもその動機が反戦・平和にあったことを知る人がすくなく、以前からカテゴリを設け、紹介に努めてきたからである。
ところが、直近のエントリーで見るようにその期待をどこまで引っぱられるか、はなはだ疑問が大きくなってきた。オバマへの歓迎ムードも今や昔である。こうして見ると、5年間の変転はめまぐるしく、かつ非常に大きい。この先どのような展開が見られるのか、「塾」に勉強の種はつきそうにない。
この5年間の中で1度遭遇した特異現象に「炎上」がある。それを写真データとして残しておく。これは、チベットの反乱事件に反応しなかった平和勢力ということで、2チャンネルなどがリストアップしたことによる。
同時に膨大なネットウヨによる非難中傷の書き込みがあったが、ウソを書いた1件をカットしたほかは反応せずにそのまま残しておいた。書き込みは、当ブログの過去記事を読んだことがなく、団体と勘違いしているものがほとんどで、それらの生態を知る上で大いに参考になった。それ以来、アクセス常連になった右派系の方が増えたのは確かなようである。当ブログにとって決してマイナスではない。
さて6年目、諸兄姉の変わらぬご支援におすがりし、スタートを切りたい。
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