日英条約が意味するところ
前回、日英条約など、イギリスとの関連が維新以後の一つの時代の区切りになっていることを示したため、その意味について詳述することにした。
条約改正は明治政府長年の宿題であった。安政条約は二つの点で日本を劣等国とするまったく不平等な条約である。
第一に自主関税、第二に居留外国人の裁判権がないことである。
この改定に明治13年(1880)井上薫外務大臣は失敗して辞任。26年(1893)に陸奥宗光がイギリスと交渉を開始した。
ロシアのシベリア鉄道が進捗している中で、極東の力関係にも大きな変化がおころうとしており、日本を積極的にだきこむほうが有利ではないかとイギリスは考えるようになったからだ。
国内では、外国人の内地雑居が自由となることなどから依然として国粋派からの反対が盛んであった。一方、イギリスは、朝鮮をめぐる日本・清国の駆け引きの中清国の実力に疑問を持ち、日清戦争直前に日英条約改正に調印する。
これをきっかけに、イギリス以外の国々との交渉も改正に成功し、日本も欧米諸国とまつたく対等な関係に立つことになったのである。
安政開国以来、日本に在住する外国人は、東京・神戸・横浜・長崎などに設けられた居留地以外で、居住することも、商売をすることも、自由に旅行することも認められていなかった。
これらは、一挙に撤廃されることになったのである。
日本の石油業界に深い関心を寄せていた大隈重信は、日本の法人格を取得した国際資本のスタンダードが、⓵大製油所をつくって、国産原油を高値で買い占める。このため小製油所は操業不能となる。②油送鉄管をいたるところに張り巡らし、運賃の競争で同業者を倒す。⓷製品の価格競争で得意先を奪う。⓸国内業者を絶体絶命の境遇にしておいて、その後削井事業に着手する。などとして、対応できる国内企業の合同を強く呼びかけた。
これに対して日本石油(ENEOSの前身)社長の内藤久寛はこうのべた。
「世人が今にも外人のために、石油業界を蹂躙せらるるが如く言いはやすはすこぶる面白し。しかし石油会社はみな一山百文のもののみとは限らず。中には永遠の計をなして堂々事に当たるの余力あるものなきにあらず。(中略)外人とて鬼神にはあらず、つまり同等の人間にしてそれほど畏怖するを要せず。(中略)今やわが日本帝国は内地雑居を許して外資輸入を望むの日なり。(後略)」
ほかには、清国人労働者が大挙流入することを恐れた神戸の沖仲仕組合の心配があったが、いずれも杞憂に終わったといっていい。
しかし、これを機に朝鮮や中国・満州に日本の資本進出を活発化し、この資本を守るという口実で軍隊を派遣したことが、後々の道を誤るきっかけとなったと言えるだろう。(参考文献、『日本の歴史』、『日本石油百年史』ほか)
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