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2018年4月 4日 (水)

侵略の歴史

前々回のシベリア出兵100年記事で、大陸侵略の始まりのような書き方をした。朝鮮人は、これが信用できないことを日本の歴史文献から知ることができる。

【古事記】(読み下し文『古事記』岩波文庫。かっこは、塾頭)

その大后息長帯日賣命(神功皇后)は、当時神を帰(よ)せたまひき。故、天皇(仲哀天皇)筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曽國を撃たむとしたまひし時、天皇御琴控かしむて、建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。

ここに大后神を帰(よ)せたまひて、言教へ覚(さと)し詔りたまひしく、「西の方に國有り。金銀を本(はじめ)として、目の炎耀(かがや)く種種の珍しき寶、多にその國にあり。吾今その國を歸せたまはむ。」とのりたまひき。

ここに天皇答へて白したまひしく、「高き地に登りて西の方を見れば、國土は見えず、ただ大海のみあり。」とのたまひて、詐(いつわり)をなす神と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまはず、黙して坐しき。

こうして神の予言に従わなかった天皇はたたりを得て頓死し、神功皇后が軍を整え神託に沿った舟で渡海に成功する。

新羅の國に押し騰りて、國半(なかば)に到りき。ここにその國王、畏惶(かしこ)み奏言しけらく「今より以後は、天皇の命の随(まま)に、御馬甘(みまかい=御料馬を飼育する庶民)として年毎に船を雙(な)」めて、船腹を乾さず棹舵乾さず、天地の共興(むた)、退(や)むこと無く仕え奉らむ」とまをしき。

そして、新羅を御馬甘、百済を屯家(みやけ=出先の役所)と定めると書いている。かなり露骨な侵略をはかり、朝貢国にしたという記録である。

さらに、中世末期には豊臣秀吉が2度にわたり半島を蹂躙した。日本における天下取りは成功したが、協力した大名に報償として与える領土に不足した。秀吉は朝鮮から中国まで版図に入れ、天皇を中国へお遷しするというとてつもない構想を立てた。

本人の死亡で沙汰やみになり、秀吉の野心ははかなく消え去ったものの、戦功の証に殺した朝鮮人の耳や鼻を切りとってこさせたというひどいことをしている。

京都には耳塚という供養施設が残っているが、これで謝罪したことにはならない。しかし、塾頭は江戸時代をはじめ、それ以外は概して友好的だったと理解している。

 

 

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