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2018年4月 2日 (月)

シベリア出兵100年

明治150年もいいが、今年はあまり知られていない「シベリア出兵100年」にあたる。1918年(大正6年)4月5日、日英の陸戦隊は、日本人殺傷事件を好機ととらえ、ウラジオストックに上陸を開始した。これは、ヨーロッパの戦乱の余波を受け、この年の1月1日に英・日・米・仏などがウラジオストックへの共同出兵を協議したことに始まる。

前年にロシア革命が起き、共産軍が武装蜂起でソビエト政権を樹立していた。1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」というのがシベリア出兵の名目である。

ロシア革命に対する干渉戦争であるが、社会主義を封じるという目的より、帝国主義的な野心と経済的利害が優先し、混乱に乗じて軍事行動を起こすという時代になったのだ。日露戦争に勝った日本は、ロシア帝国から得た利権などを反故にしたくなかった。

こういった、外国の混乱に乗じた干渉出兵や、軍事援助などは、現在も中東やアフリカ各地などで続いている現象だ。この事件の研究を進める中で、多くの教訓を得ることができるはずだ。

日本は8月になってアメリカとの共同出兵宣言にこぎつけ、兵力を1万2000人として他国を上回る規模にして指揮権も握った。しかし独断で増兵をすすめ、ついには7万2000人を越えるまでエスカレートさせた。

連合諸国は20年1月に撤兵を声明、日本は継続する口実を失ったが駐兵を続けた。このため、地元や革命組織の激しい抵抗を受けて、1920年2月、いわゆる尼港事件を招き、民間人を含めて730人の死者をだして惨めな撤兵・撤退に追い込まれた。

日清・日露戦争が日本防衛のため、という口実が成り立ったとしても、シベリア出兵は満州事変に先行する侵略行為そのものである。しかも失敗例であった。

 

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