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2018年3月 4日 (日)

眺望頗る佳なり

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  「田の眺望頗る佳なり」と言ったのは、戦中、東京麻布の自宅を空襲で焼け出され、市川で生涯を終えた永井荷風で、終戦の翌々年、昭和22年4月26日の日記にある。この裏手に当たる下総国分寺を散歩で訪れた際のものだ。

今は「田畴」が無く、民家の屋根と「電柱」ばかりになった。井上ひさしが「ひょっこりひょうたん島」で有名になった頃、ここから100メートルほど北の平屋建て分譲住宅に住んでおり、日頃ここから夕日をめでていた。

写真左端の2棟の超高層のあたりが市川駅である。開業したのは明治38年(1905)1月で日露戦争に勝った年だが、正岡子規は紀行文にこう書いている。(鴻の臺以外は当用漢字使用)

家次第にまばらに野開き木立ところどころに枯れたり。朝晴れの景色心地よく、鴻の臺(塾頭注・日本武尊をコウの鳥が道案内したという伝説に基づく。国府台の別表記)を左に眺めて車は転じ江戸川の鉄橋を渡りて市川に着きぬ。
  村もなし只冬木立まばらなり
  兵営や霜にあれたる国府の台
  冬枯やはるかに見ゆる真間の寺

駅前には『野菊の墓』の著者・伊藤左千夫が経営する牧場があり、若山牧水は明治44年に「下総市川にて」で
  藪雀群がるゝ田なかの停車場にけふも出て汽車を見送る
 と詠む。荷風も散策や読書の場として停車場訪問は好きだった

画面中央から右に続く小高い森は、国府台の南端である。国府が置かれたので、この地に残る伝説は語り継がれ、万葉集にも多く採録されている。中でも「真間の手児奈」が有名でいわれを伝えるものがすくなくない。その森の麓にある亀井院は、真間の井のあった場所とされる。またこの寺には北原白秋が止宿していた。

勝鹿の真間の井見れば 立ち平(なら)し 
水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
            高橋虫麻呂

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