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2017年7月 9日 (日)

憲法に自衛隊を書くなら

塾頭は若い頃、単純に自衛隊は憲法違反だと思っていた。それが、安倍首相の<おかげ?>で、逆に憲法に自衛隊を入れた方がいい、と思うようになった。9条1項と2項に反しないよう自衛隊の専守防衛任務を限定し、海外での武力行使を一切禁止するためである。

そうしないと、憲法と日米安保条約の精神に反する2国間協定や、集団的自衛権関連の安保法制が、憲法をなし崩しにするという自民党の思惑にはまってしまうからである。安倍自民党のもくろみは3分の2勢力があるうちに、憲法に自衛隊の存在を明記するだけで、あたかも集団的自衛権行使などが合憲であるかのような、錯覚効果をねらっているのである。

今、これから出てくるだろう自民党案に対抗する案を検討し、国民に示すための準備をしている野党は見あたらない。それを持たずに抵抗だけすることは、共謀法案と同じ結果を招くことになる。旧来の自民改憲案をそのまま出されるより、安倍私案に沿った加憲の方が、ごまかしがあるだけに、はるかに危険である。それを自覚している議員は、どれだけいるだろうか。

塾頭が自衛隊は必要、と思うようになったのは、国連憲章の条文に「自衛」とか「集団的自衛」という言葉が入っているからではない。国連のPKOやPKFに積極参加するためでもない。

災害復旧をするだけならば、今のような装備は必要ない。現9条でうたわれているように、戦争を否定し、戦力は持たないのだから、戦争をする「軍隊」ではない。その限りにおいて、集団的自衛権を振りかざし他国の軍隊と海外で共同作戦がとれるはずがない。9条1項、2項を残すというのはそういうことなのだ。

自衛隊を憲法に書く目的は、外国からの侵略、進攻を阻止するための実力組織を持つことである。現在、海上保安庁や警察だけでは対処できない「脅威」に対処するために、最小限度備えておく装備と隊員があればいいということである。

塾頭がそういった国防の準備が必要だと痛感したのは、日清・日露戦争の前、李朝のもとにあった朝鮮の実体を知ってからである。明治維新に日本は砲艦外交で開国を迫り、「自主独立の国」という両国関係を期待していた。

国王の後見役で前国王と王妃一族が激しく争う中で、軍隊はそれぞれの私兵のような能力しかなく、農民暴動には清国に派兵を依頼した。日清戦争の結果清に頼れなくなると、南進のねらいを持つロシアの公館に逃げ込んで政務をとり、また、くみしやすしと見た欧米各国の要求に応じ利権の切り売りをするなど、日本の安全にとっても不安なことが頻発した。

国の安全を守るためのしっかりした組織がなく、いざという場合は外国に依存するとう国の存在は、周辺隣国を不安にさせる。またその備えがなければ、利権などを虎視眈々とねらう国の餌食となり、権利保護を名目に外国の軍隊が入ってくる。

その後第一次大戦を経て帝国主義全盛の時代は去ったが、国民に「国を守る国民の強い意志と備えがある」ということは、攻め込んでも得るものより失うものが多いことということを相手国に認識させる。逆にそれがないと、利権の拡張の餌食にしようという誘惑を呼び込むことにもなりかねない。

無防備、非武装中立のままでいると、何か国際紛争が起きたとき、利害関係国が危険を感じて武力介入をしてくることさえ考えておかなければならない。平和を守るためには、自らのことは自らが守る。これが鉄則で、あとは集団的安全保障(国連)の機能を高めるため努力をすることではないか。

 

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