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2017年7月 6日 (木)

都だった福岡県朝倉市

朝倉が日本中の耳目を集めたのは有史以来2度目である。今回ここに集まったのは想像を絶する雨雲であるが、女帝・斉明天皇は、全国から百済遠征の兵士を集めるため、ここに臨時の都を置いた。

『日本書紀』の斉明天皇7年(661)条を、宇治谷孟の現代語訳(講談社学術文庫)で見ておこう(一部省略)。

七年春一月六日、天皇の船は西に向かって、航路についた。八日、船は大伯(おおく)の海(岡山県邑伯の海)についたとき、大田姫皇女が女子を生んだ。そこでこの子を大伯の皇女と名づけた。十四日、船は伊予の熟田津(愛媛県松山市付近)の石湯行宮(道後温泉)に泊った。

三月二十五日、船は本来の航路に戻った。娜大津(博多港)についた。磐瀬行宮(福岡市三宅か)におはいりになった。天皇は名を改めてここを長津(那河津)とされた。

夏四月、百済の福信が使いを遣わして表をたてまつり、百済の王子糺解(くげ)をお迎えしたいと乞うた。(略)またある本に、四月、天皇は朝倉宮に移り住まわれたとある。

五月九日、天皇は朝倉橘広庭宮にお移りになった。この時朝倉社の木を切り払って、この宮を作られたので、雷神が怒って御殿をこわした。また宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病んで死ぬものが多かった。

(略)

秋七月二十四日、天皇は朝倉宮に崩御された。

八月一日、皇太子(中大兄)は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮につかれた。この朝倉山に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。

斉明天皇は、神功皇后の例にのっとり、朝鮮親征を企てたとするが、2万7千人に上る日本派遣軍は、百済・白村江(はくすきのえ)で、唐・新羅連合軍に敗れて逃げ帰った。(戦前教育では日本は有史以来一度も負けたことがないことになっていたが)

書記では朝倉の宮が災難続きだったように書かれている。最後の大笠を着た怪物は斉明即位の年にも現れており、ここには「貌似唐人」とはっきり書いてある。唐から派遣された諜報活動(拙著)なのかも知れない。

現在、朝倉に当時をうかがわせるものについて聞いたことがないが、太宰府とか水城・大野城が防衛線であった可能性はある。

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