五ヶ条のご誓文
「誓文」で本ブログを検索したら、3回でてきた。いずれも民主主義が現憲法で始まったものではなく、聖徳太子の十七条憲法同様、古来から日本にあったものだという説明に使ったものだろう。
また、明治時代はたびたびテーマにしているが、いずれも、日清・日露戦争関連の記事か、帝国憲法・教育勅語のことしか覚えがない。明治のはじめから憲法が生まれる明治20年頃までの事がすっぽり抜けている。
まず、五ヶ条のご誓文の全文を採録しておこう。
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マラサシメン事ヲ要ス
一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
わずか、これだけだが、その格調の高さは、現憲法前文に匹敵する。塾頭は、自著で「明治維新は維新というより、大衆をバックにした革命」と書いたことがあり、ご誓文も高く評価するが、これに反対するのが、左翼学者で、右翼と言われる北一輝の方が塾頭の考えに近いらしい。
「王政復古」のキャッチフレーズで徳川幕府を倒してできた政権だ。だけど国会も今のような行政組織もまだない。だから、天皇は大変だ。慶応4年(明治元)4月21日に「万機親栽の事」という御布告が出るがその中に、
「毎日辰刻(午前8時)御学問所へ 出御、万機之政務被為聞食(きこしめされ)候」
とある。この政務は昼食をはさんで午後も続く。また2日か3日に一回会議もあり、決裁するからにはその勉強も必要だ。
あるとき(明治21年11月12日)、会議の途中に侍従があわただしく入ってきて、枢密院議長の伊藤博文に耳打ちをした。伊藤は立ち上がって、天皇になにかささやいていた。天皇は「泰然自若として、御席につかれて居る」。そこで会議がつづけられた。会議が終わって天皇に入御を請い、天皇は席から立ち去った。
そのあとで、伊藤が皆にいった。――「さて、只今入御あったのは、皇太子殿下(昭宮)」が薨去遊ばされたためである」。さきほど侍従がその報告にきたので、天皇に「議事を直ちに止めて入御遊ばされますか」、と問うと、「議事をつゞけよ」とお答えがあったので、議事と討論をつづけたのである、と。(松本健一『明治天皇という人』所載)
明治天皇は、今の時代の誰も経験しないような厳しい「公」に殉ずる精神で、この時期を乗り切ったのだ。この時代を「有司専制」でくくることがあるが、明治天皇の意向は、いわゆる明治の元勲といわれる人たちに受け継がれたのではないか。 今の世にはないものだ。
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コメント
ご誓文というのは、天皇が自らに課した誓約書の形を取っているので、憲法制定前の史実上の「立憲主義」だと感じました。
投稿: ましま | 2016年4月11日 (月) 20時39分
智識ヲ世界ニ求・・・」の条文は、この時代の政府の共通した考えだったんでしょうね。
福沢諭吉の学問のすすめの序文にも、自分より優れたものを持っていれば「土人にも頭を下げ・・・」というのがありますが、新たな知識を得ようとする明治の人々の凄さを感じます
投稿: 玉井人ひろた | 2016年4月11日 (月) 20時00分