アメリカ石油生産トップに返り咲き
「ホルムズ海峡の機雷による封鎖」とか「わが国存亡の危機」という安倍語録は、何度も取り上げている。それには直接関連がないが、昨日、毎日新聞に「産油量、アメリカが世界一に」という記事がでた。
そこでほかの資料でも確かめようと調べたが、元となったBPの調査が1日当たり生産能力の比較で、必ずしも「実績でサウジアラビアを逆転した」とはいえるかどうか微妙ところのようだ。原油価格は低落したものの、シェールガス採掘を止められない事情があるらしい。
そうなると、逆転が既定事実になるかも知れない。石油史に携わったことのある塾頭にとって、この状況変化は印象深いものがある。わが国では、かつて新潟県、秋田県、北海道に産油地があった。その国産原油と輸入原油の比率が逆転したのは、大正12年(1923) のことである。
その輸入原油は、ほとんどがアメリカからで、太平洋戦争前の昭和14年(1939)では、81%がアメリカ産、残りは蘭領インドシナ(インドネシア)などだった。それが途絶えるのは、昭和16年8月1日のアメリカ、イギリス、オランダによる石油の全面禁輸である。
この時、陸軍が11月1日開戦を想定してまとめた「国力判断」は次のようなものであった。
輸入が途絶し貯油で一切の需要を賄うとすれば、平時下でさえ2年後の貯油量は航空揮発油約90万Kℓ、重油230万Kℓとなり、「此の量は大国と万一事を構えた場合にはわずかに1年間の作戦所要量を充たすものにすぎぬ、否、重油に至っては持久戦状態に於いては1年分だが決戦需要に対しては半年分に過ぎぬ、言い変えれば2年後には最早強国に対して我国は自己の地位を力」がない、という状態であった。(岡田菊三郎「開戦前の物的国力と対米英戦争決意」、『日本石油百年史』所載)
そこで、開戦後いち早く空てい部隊による落下傘部隊の攻撃などで、南方原油の産地帯を押さえたわけだが、開戦の翌年、アメリカは「石油タンカーを最優先攻撃目標とせよ」との命令を下した。つまり、兵站攻撃を重視したのである。
その、重要なルートになるのが、南シナ海である。日本は南沙諸島を日本領である台湾省に所属させ領土としたが、今中国が同じ様なことをしている。「古くから固有の領土」と言っている中国だが、さすが日本領だった台湾省のことは持ち出せないだろう。
当時の日本に南進論はあっても、南シナ海に基地まで作る準備や余裕はなかった。敗戦の原因は、原爆やソ連参戦ではなく、精神論だけで科学的判断が下せなかった軍部の責任である。開戦の段階で充分予測できたことなのに、見通しもなく突っ込んでしまったからだ。
そして戦後、アメリカは、昭和23年(1948)まで、世界原油生産量の59%を占めていたが、1955年には44%にまで低下し、遂に需要の10.4%は輸入に頼らなければならなくなった。日本の輸入も大幅に中東にシフトする。
このところ、アメリカの原油生産量のランキングは、サウジやロシアに追い抜かれ、3位まで低下していたのである。それが自給も可能で、輸出解禁の話もチラホラするようになつた。
集団的自衛権の滑稽なたとえ話ではなく、今ほど、政治家に大局的判断が求められる時期はない。石油からの連想ゲームで、こんな話になってしまった。
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