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2015年7月 3日 (金)

日本のはじまりは奴国か

 これからは、邪馬台国論争より奴(な)国論争になりそうだ、と書いたのは1カ月前の「邪馬台国前史が始まる」である。卑弥呼の時代より300年以上前のものと見られる銅鏡の鋳型が発掘されたことによる。

 その場所は、福岡県春日井市にある須玖遺跡、すなわち中国(後漢)と史上初めて交渉を持ったされる倭奴国(わのなのくに)の本拠があったとされる一帯の中にある。その物的証拠が江戸時代に発見された金印である。

 ところが魏志倭人伝で、奴は2万戸からなる一地方都市とされたため、日本の国王・卑弥呼が住む7万戸の都、邪馬台国はどこかに関心が集まった。奴国王が後漢の光武帝から「漢委奴国王」と刻んだ金印を貰ったのは西暦57年である。卑弥呼が魏に遣使した238年より181年も昔だ。

 卑弥呼の方の物的証拠は、景初三年などの銘が入った記年鏡で、魏から100枚贈与された三角縁神獣鏡に含まれる。これは各地の古墳から出土するが、合計すると100枚以上になる。倣製鏡という国内産の複製があることは前から知られていたが、その技術が300年以上前から奴国にあったとすれば、卑弥呼の鏡もそれほど有難味のあるお宝ではなくなる。

 この地域で、銅剣、銅鐸、銅鉾、ガラス製勾玉などを生産していたことは以前から知られていた。鏡・剣・玉は3種の神器として代々受け継がれるが、神話の時代は天皇家に限らず権威や祭祀の象徴として各地で使われていた。

 銅鐸がはやったのは、地元九州ではなく、大量発掘の見られる山陰や淡路島など東の方だ。弥生時代を通じて奴国が祭祀用品大供給源だった可能性は高い。そうすると、邪馬台国連合以前に奴国連合があったとしてもおかしくない。

 だから、奴国への金印は、今の概念でいう県知事や市長にあてたものではなく、倭(日本)を代表する地位を認めてのものではなかろうか。中国の文献をもとに、神武東遷神話の出発点は奴国とする「奴国東遷説」があることは前から知っていた。そこで、も一度確かめてることにした。(和訳は『中国正史日本伝(2)』かっこ内は撰者)

・『旧唐書』(劉?887~946)
倭国は古の倭奴国なり。(中略)日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。

・『宋史』(脱脱1314~1355)
日本国は本(もと)の倭奴国なり。(中略)後漢より始めて朝貢し、魏・晋・宋・隋を歴、皆来貢す。唐の永徽・顕慶・長安・開元・天宝・上元・開成中、並びに使を遣わして入朝す。

・『元史』(宋濂1310~1381)日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称す。(後略)

 いずれも、冒頭の書き出しは奴国に触れている。『新唐書』は表現が『旧唐書』とほとんど同じため抜いたが、後漢書以来中世に至るまで、奴国は省けない存在となっているのだ。それに反して日本の正史・日本書紀にはなぜか出てこない。

 ただ、宣化紀や斉明紀に現・福岡港のあたりを、那津とか娜大津(なのおおつ)としており、「津」は「港」で、地名が「な」であったことが示されている。塾頭は、福岡を代表する繁華街中州もそこを流れる那珂川も奴(な)の名残を残しているのではないかと思う。

 中国の史書に連続して出てくるのは、以前の正史をそのまま引用してきたからだ、というのが通説である。だが、上記のように、それぞれで多少表現が違う。仮に通説が正しいとしても、宋史の頃には、遣隋使、遣唐使などにより人的往来も頻繁になり、日本に対する知識も相当高まっていた。阿倍仲麻呂のように唐の図書館の司書のような役人から唐政権の高官にまで出世した人物もいる。

 当時の日本の常識に反するような記述が日本伝の冒頭に出てくれば、訂正される機会がいくらでもあったはずだが、奴国の評価にそれほど抵抗がなかったということだろう。奴国東遷説は、考古学上結びつく証明がないという弱点がある。

 倭と奴の関係、そして大和朝廷との結びつき、つまり弥生時代から古墳時代を結ぶ空白を考古学で埋められるかどうかに、今後の大きな期待がかかってくる。

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コメント

 このたび,大阪の高槻市に見つかった弥生時代を500年遡らせる大規模水田稲作遺構をどう評価されますか?
 日本書記なら長臑(すね)彦の功績ということになりますが,私はこれは呉王夫差の首を取って春秋時代の呉を滅ぼした(BC476)越の将軍范蠡と西施が亡命してきてやったことではないかと思うのですが。
 こんなことは,日中どちらの歴史家も書けないことですから,私は,これが真相だ,と思うのですが。

投稿: 弥勒魁 | 2015年7月 5日 (日) 07時47分

弥勒魁 さま
コメントありがとうございました。

歴史とするには、文献(金石文でもいい)とそれを結びつける物的証拠が必要ですが、徐福のように文献があっても物的証拠までは難しいでしょうね。

文献だけだと「伝説」に格下げになります。本文に書いた神獣鏡や呉服関係は呉からのものが多いようですが、そんなものでも出ればいいのですが。

投稿: ましま | 2015年7月 5日 (日) 09時07分

 日本の弥生時代を形成した大規模水田稲作技術は6,800年前の河姆渡遺跡のある浙江省(昔の越)から来たことは,考古学者・歴史学者・農学者がほぼ認めていることではないですか?
 私は,越が滅んだBC334に伊豆の国市田京に来た,と思っていました。
 しかし,これがBC4-500年のこととなると,范蠡と西施が来た,とでも思わないと時代が合いません。彼らが春秋時代の呉を滅ぼしたのはBC473でした。
 徐福の話はBC219ですから,もっと後の話です。
 中国史上BC510-BC334にしか存在しなかった越の人物を日本人が知っている,ということがそもそも我々の先祖が越から来ている証拠ではないのですか?

投稿: 弥勒魁 | 2015年7月 6日 (月) 10時27分

日本の米作が、その品質や栽培法などで揚子江流域で発生し、海岸沿いに北上して倭に渡来したことは間違いないと思います。

これは考古学や生物学の成果として認められます。しかし中国春秋時代の文献上の人物に結び付く証拠物件は一切ありません。

歴史学も仮説を立てることは必要ですが、その証拠、せめて複数の状況証拠でもなければ学問にはならず、単なる憶測となります。

日本人の中国に関する知識は、早くても文字を知った4世紀以降のものではないでしょうか。

投稿: ましま | 2015年7月 6日 (月) 11時28分

有名なマルコ・ポーロの日本に対する記述ですが、大嘘とまで言わないが、誇張が酷すぎる。
その東方見聞録よりも900年も古い魏志倭人伝の日本(倭国)の記述の正しさですが、これは当然誇張が含まれる。(事実とは大きく違っている)と考えて当然でしょう。
有名な卑弥呼ですが確実な物証が何もないのです。
文献ではもっと古い秦の始皇帝の時代に徐福が東方にある国(倭国?)で王になった伝説は有名だし、日本各地にも徐福が来たとの伝承の類は有るが、実際の物証が何もない。
卑弥呼ですが何故か日本では重視しているが、2000年以上前の徐福伝説と、その信憑性では五十歩百歩の代物です。
問題の魏志倭人伝では倭の奴国は記述が具体的であり、しかも動かぬ物証まで有る。
ところが、卑弥呼のくだりは、途端に記述がマルコポーロの様な伝聞情報になっている。
しかも伝承の類も一切ない。
江上波夫氏によつて提唱された騎馬民族征服王朝説と同じで、壮大な仮設程度であり、
今後動かぬ物証が出ない限り、卑弥呼の実在は疑わしいでしょう。
奴国こそ、倭国の始まりだとの今回の仮設ですが、科学的に考察すれば他の色々の学説よりも、一番筋が通っています。

投稿: 宗純 | 2015年7月 6日 (月) 16時47分

宗純 さま
コメントありがとうございました。

倭人伝の卑弥呼記述であり得るなと思うのは、女性が族長と巫女を兼ねているという点と墳丘墓に埋葬されたということぐらいでしょう。

これまで、魏王から与えられた100枚の鏡を中心に学者の追跡調査が盛んでしたが、今後は三角縁神獣鏡、ことに記年鏡の証拠価値が怪しくなってきたのことから、方向転換をせざるを得ないと思います。

代わりに奴国製銅器の分布や分類が盛んになると思います。

投稿: ましま | 2015年7月 6日 (月) 17時19分

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