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2015年6月24日 (水)

日韓、仲良くなれるか②

 前回、豊臣秀吉の朝鮮出兵から、和解に至った背景を書いたが、もちろんすんなりと進んだわけではない。中を取り持って両国政権の意地が立つように工作したのが対馬藩主・宗義智である。

 家康の強い要請を受け、折衝に当たったが、先方の俘虜送還や、先王の陵墓破壊犯人の要求と和平要請の国書を求めてきた。義智は偽物の俘虜や犯人を仕立てて送り返した。このウソは朝鮮側に見破られてしまう。
 
 しかし、義智は朝鮮側の使者を連れて伏見にいて家康に引き合わせ、家康は3000人の俘虜送還を決めたことで、交渉は進展する。朝鮮の要求する国書は日本最大の難関となるが、義智は国書の偽物を作ってこれを突破する。

 ただし、この返書が来たら幕府にばれてしまうので、またニセ返書を作ってこれを乗り切る。こういった対馬藩の努力を両政権とも見て見ぬふりをしていたということだ。朝鮮では、進駐してきてそのまま居続け、横暴の限りをつくす明軍を退去させたいところだった。そのため、一刻も早く国交回復を実現したかったという事情があった。

 以後、朝鮮通信使、あるいは招聘使と称される友好使が、将軍代替わりなどの慶事を機会に来日するようななる。これは、日朝共通の大イベントで、経費節減で縮小されることはあっても、内政・外交の急迫を受けて取りやめとなる1811年まで約200年続いた。

 通例では、正使以下一行5~600人で、第一の止宿先壱岐にはじまり海路次々に寄港各藩の接遇を受け、最後は淀川をにぎにぎしく旗印や音楽を奏でてのぼる。淀から京都に泊り陸路をたどり江戸へ向かう。

 各藩の儒者などは、一行に含まれる学者から最新の朱子学についての知識を得たく接触に精魂をつくした。また朝鮮の方でも同国にない工業技術などに目を見張って、その導入を試みるなど、日本では「朝貢」と解釈、朝鮮では「招聘」と見るようなナショナリズムや国粋主義をのりこえて、メリットを得ようとする民間の力が存在した。

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