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2015年6月15日 (月)

続・前方後円墳のなぞ

 「前方後円墳のなぞ」を書いたのは4年前になる。検索でおいでになるお客様の多いページのひとつになっている。「なぜ四角と丸の組合せになったのか」、「四角を前とするのはなぜか」「向きがばらばらなのは何故か」などを考えてみたのがその内容である。

 2003年発行の古い新書(変な言い回し?)『日本考古学の通説を疑う』をめくっていたらこんなことが書いてあった。

 大山古墳(だいせん=仁徳陵)や誉田山古墳(こんだやま=応神陵)などの圧倒的なボリュウムを眼前にしたとき、名もなきおびただしい数の民衆の奴隷的労働を自在に酷使した専制君主の姿を背後に思い浮かべてもなんら不思議ではないし、そうした迫力をも感じさせてくれる。

 <階級闘争史観>が広く歴史学を覆っていた1967年、甘粕健氏は、先進的な技術を先取することによって、王権の経済的基盤を確立した大王が」、古墳の造営を「専制君主の権威誇示の大土木工事へと転化」させ、「応神陵・仁徳陵の陪塚」の「中小の古墳を従えることによって、大首長の墳墓は一段と荘厳化され、専制君主としての絶大な権威を誇示する機能が強化された」と述べ、大方の支持を得ていた。

 著者の広瀬和雄氏は必ずしもこの説を支持しているわけではないが、それに対抗する新設を展開しているわけでもない。前回の本塾の記事は「どうしてこんな巨大な……」という点には触れていないので、今回はそれを考えたい。

 塾頭も前述の説に特段の異論を持つものではないが、同説には文献とか証拠があるわけではない。むしろ唯一の文献では逆である。『日本書紀』崇神紀には、最初の巨大前方後円墳・箸墓を「昼は人が造り夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで人民が連なって手渡しにして運んだ」とある。

 また、仁徳天皇が、高台(たかどの)に登って、見下ろしたところ煙が見えない。それは百姓(おおみたから)が貧しくて炊事もできないのだろう、と仰せられ、3年間課役をやめ、宮殿の補修もしないため雨漏りするにまかせた、という記事がある。

 戦中の小学生は、神武天皇、仁徳天皇、明治天皇の3柱の名だけは、しっかりと叩き込まれた。『書紀』が史実を反映していないにしても、そこから何も得られないとは考えられない。塾頭は、同書を何度か読み返したが、階級闘争史観より牧歌的な史観の方にひかれている。

 前回の記事で、こういった古墳は、海や川、または平地や街道を見渡らせる、または見上げる位置にあると書いた。安土城にはじまり、江戸時代の巨城はすべてそうである。内外に対するデモンストレーション効果を狙っていることは疑う余地がない。

 巨大であればあるほど外敵侵入への「抑止力効果」になるだろう。しかし、人民が平和を招来した指導者の記念物を協同して作ったと考えれば、平和のシンボルだ。また、「夜は神が造った」というのは、日頃見かけない、遠くから来た人々を指すのだろう。

 古墳づくりには、遠くからも器材や意匠、テクニックがもたらされている。それは、発掘遺物などでも証明される。これは徴発ではなく手土産持参の協力かも知れない。労働力提供が課役であったにしても、官費によるイベント参加や旅行という楽しみもあったのできないか。

 前回答えを出せなかった、前方後円の向きがばらばら、というのも、人里や街道から古墳に達するのに最もいい位置に、環濠の渡り路または礼拝所を作ったから、という単純な解釈はどうだろう。古典はそのまま読めばいいので、難しく解釈するのが正しいとは思わない。

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コメント

全国では全くの無名ですが、我が村の大山(おおやま)地区にも「二子塚古墳(ふたごづかこふん)」というのが有ります。

投稿: 玉井人ひろた | 2015年6月16日 (火) 22時22分

大山といい二子塚といい、立派な前方後円墳ですね。

福島県は奈良・九州北部とともに前期古墳が多いので関心があります。

投稿: ましま | 2015年6月17日 (水) 05時53分

「古典はそのまま読めばいいので、難しく解釈するのが正しいとは思わない」とは私も思います。今、八幡和郎という人の「日本古代史最終解答」という本を読んでいるのですが、記紀を神話部分を排除し素直に読めば、中国の文献や考古学とも符合すると言っています。
神武東征は真実か?→日向から少人数で出発した流浪の旅だった。
日本書紀は信頼できるか?→大和朝廷の統一過程と系図はすべて真実。
任那日本府は実在したか?→新羅と任那は中国も承認した日本の勢力圏。
ほかにも古代中国人の常識では日本は「呉の太伯」の子孫だとか、卑弥呼は反天皇制のシンボルだとか、オモシロイ。
ほかの本で、新羅の草創期から倭人が国の実権を握り、新羅四代目に至ると、国王も宰相格も倭人と知って驚いたことがあります。

投稿: ミスター珍 | 2015年6月17日 (水) 22時10分

ミスター珍 さま
『日本書紀』の執筆者に中国人が2人いるらしい。うち1人は白村江の戦いで捕虜になった従軍記者(歴史家)のようです。

中国の史家は司馬遷の伝統を守り史料に忠実で、戦記も後に帝王に提出して、軍人の論功行賞の証拠にしなければならないので、今のマスコミ記者よりまともだったというのが塾頭流解釈です。

朝鮮南部には、原産地九州の縄文土器が出土していますが、居住を含め倭人の往来は史実として扱えると思えるのに、右も左もあまり触れたがらないようです。

投稿: ましま | 2015年6月18日 (木) 06時33分

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