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2015年5月 2日 (土)

浄土は太平洋に

 先月の25日から4回連続で「大平洋のない日本史」を書いたが、日本史ではペルー来航以前、太平洋が意識の外に置かれているような書き方をした。歴史ではないが、その時、和歌山県・熊野にある補陀落(ほだらく)寺の仏僧渡海伝説が頭の隅をよぎっていた。

 井上靖は、同寺住職・金光坊が、寺伝に従って極楽浄土を求めて太平洋へ乗り出す死出の旅の前後を、小説に書いている。時代は、室町時代半ば、文禄8年(1565)のこととしている。この年、スペイン人がフィリピンを占領しているが、日本人の頭に太平洋の極楽浄土はあっても、フィリピンは念頭になかっただろう。

 補陀落寺は、往古から観音浄土である南方の無垢世界補陀落山上に相対するといわれ、そのために補陀落山に生身の観音菩薩を拝し、その浄土に往生せんと願うものが、この熊野の南端の海岸を選んで生きながら舟に乗って海に出るようになっのである。(出所:井上靖『日本の文学』中央公論社、以下同様)

 そういった慣習が始まったのは貞観11年とされ、大津波で東日本大震災と比較される貞観地震の起きた年であった。以来、補陀落渡海の行われる年は、なぜか自然災害が多い年と重なっているという。

 別に、それが行われる時期や人に決まりがあったわけでなく、金光坊の前の住職が3代続いて61歳で渡海したことがあって、何となく補陀落寺の住職はその年の11月に渡海するものだといった見方が世間において行われるようになっていた。

 金光坊自身は、先輩の渡海を幾人か見送っており、その高潔な人柄や信仰心の厚さ、渡海へのるぎない信念にあこがれを持ち、自分もいずれそういった境地に立てるという事を誇りにさえ思っていた。

 そして、やがてその日その時が近づいてきた。金光坊は、はっきり言って、依然として補陀落渡海する心用意が何もできていない自分を感じていた。しかし、街の衆や各地方の信者の敬慕・信仰は一気に高まり、賽銭を投げる人、戒名を書いて渡す人などで街を歩くことすらできない有様であった。

 当日がやってきた。慣例通り小さな舟に乗せられ、頭から木箱をかぶされて船底に釘打ちされる。いやでも応でも観念せざるを得ない。外海まで舟をこいできた船頭も去った。その夜、嵐がやってきて舟は翻弄され、金光坊は箱をけ破り海に投げ出された。

 夜の明けた頃、金光坊は板子一枚に掴って、綱切島に漂着した。夕刻、送ってきた僧侶たちにが再び舟を用意してきた。若い僧が師の唇から経文ではない何か他の言葉が漏れているらしいのを見てとり、自分の耳を師の口元に近づけた。

 しかし、聞きだすことができず、矢立の筆と紙を差し出した。震える手で綴った文字もやっと判読できるようなものだった。最後の悟りであり、救命の心情を吐露したものである。

 蓬莱身裡十二棲、唯心浄土已心弥陀
 求観音者 不心補陀 求補陀者 不心海

 僧侶たちは長い相談をしていたが、再び急ごしらえの箱が金光坊の上にかぶせられ、舟は潮の中に押し出された。金光坊が多くの信者を裏切る姿は、見せられなかったのである。その後、生身の渡海例はなくなった。

 たったひとつの例外がある。それは、金光坊の最後の心境を聞き取ろうとした若い僧、清源上人の13年後の姿であった。

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