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2015年4月30日 (木)

70年前の今⑧

 鈴木貫太郎(海軍大将)内閣が成立したのは4月7日。海軍の切り札だった戦艦大和が沈没した日でもある。5月7日にはドイツが無条件降伏し、昭和天皇が無条件降伏やむなしと考えるに至ったのは5月頃と思われる。(『昭和天皇独白録』文芸春秋、より抜粋)

首相推薦の重臣会議
 東条広田は畑を推し、平沼近衛岡田若槻は鈴木[貫太郎]を推した。阿部は朝鮮総督で東京に居なかつた。東条は鈴木が首相になると、平和になりはせぬかと懸念してゐた、木戸はこの際鈴木がよいと云ふので、鈴木に大命を降下した。

 鈴木は却々(抑々=そもそも、か:塾頭注)引受け相にないと云う事だつたが、私がすゝめたら承知した。

陸軍大臣の任命
(前略)話は溯るが、小磯内閣成立(東条内閣→小磯内閣:塾頭注)成立の時、陸相推薦の為、陸軍三長官会議を開いた。

 梅津が山下[奉文]、阿南の二人を推薦した処、東条は山下の果断が東条人事を覆すことを恐れて、之に反対し、自分が留任すると云ひ出した。

 梅津は東条の前首相の事ではあり、小磯も困るであらうと察したので、之に反対し、杉山を陸相にすることに話を附けた。

 杉山自身は大臣になり度くなかつたけれ共、東条を退ける意味で、無理に引受けたのであある。かゝる経緯も有つたのである。(中略)かゝる事情で阿南が杉山の後を受けて鈴木内閣の陸軍大臣になつた。

沖縄決戦の敗因
 之は陸海作戦の不一致にあると思ふ、沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。梅津は初め二ケ師団で充分と思つてゐたが、後で兵力不測を感じ一ケ師団を増援に送り度いと思つた時には已に輸送の方法が立たぬといふ状況であつた。

 所謂特攻作戦も行つたが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だつたのではないかと思ふ。

 特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。

 海軍は「レイテ」で艦隊の殆んど全部を失つたので、とつておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。

 陸軍が決戦を延ばしているのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であつた、(略)私は之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬと思つた。(五・六月で沖縄守備隊は全滅:塾頭注)

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