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2015年3月 5日 (木)

70年前の《今》⑥

「小倉庫次侍従日記」――昭和20年(「文芸春秋」平成19年4月号)より

二月七日(水)内大臣の計ひにて、重臣が各個に天機奉伺の機会に拝謁を御願ひすることとし、本日、平沼男[爵]、第一回ありたり。現官にある者を除き、首相を為したるものおよび牧野伸顕伯[爵]、特に今回は加はれり。

<注>二月につぎつぎに行われた重臣たちの拝謁は、天皇が強く要望し木戸内大臣が渋々賛成したものであった。侍立するのは木戸ではなく、藤田侍従長である。参内の目的は、天皇が戦局の見通しとその対策を質す、という建て前になっていたが、各重臣たちには、戦争終結をどう考えるか、終戦のよい方策ありや、それを中心に話すようあらかじめ示唆されていた。結果として、だれにも戦争終結の具体案などあるはずもなかった。たとえば平沼の場合は「さながら漢書の抗議を聞く思いであった」と藤田は回想録に記している。

二月九日(略)
二月十一日(日)紀元節。聖上、拝賀の為め御自動車にて出御ありしも、警報の為め御途中より御引返しあらされる。(以下略)
二月十四日(水)近衛文麿(一〇・二〇―一一・二〇)侍従長病中に付、木戸内大臣侍立。重臣[拝謁]のつづき也)。

<注>重臣拝謁の近衛の日である。この時近衛は「勝利の見込みのない戦争を、これ以上継続することは、全く共産主義の手に乗るものというべきでありましょう」といい、軍部のなかの”かの一味”を一掃することが緊要である、と天皇もア然となることを奏上する。そして「上奏文」を奉呈した。その中にこの戦争は一貫した陸軍の計画に基づく侵略戦争であり、日本を共産革命化する”五〇年戦争計画”によって進められている、などと驚くべきことが書かれていた。

二月十七日(土)本日午前、約五百機、関東、静岡各地に来襲。其後、機動部隊何れか退去したるらし。
二月二十日(火)B29、宮城内落下部品、天覧。
二月二十二日(木)本日、天、大いに雪降る。十九日朝来、硫黄島に敵上陸し来る。

二月二十五日(日)B29百数十機、帝都来襲。宮城内も局約半部、主馬寮厩仕合宿所等焼失す(焼夷弾に依る)。大宮御所、秩父宮御殿等に爆弾落下す。
三月二日(略)
三月六日(火)皇后宮御誕辰[誕生日]なるも、時局柄、何の御催しもあらせられず。御夕餐後、謠カルタにても遊ばさるる様申上げたるも、それさへ遊ばされざりき。

三月九日(金)[十日]〇・一五―二・四〇、B29百二十機帝都来襲、中心部爆撃す。被害甚大なり。

<注>深川・本所・向島など東京下町が夜間の低空による焼夷弾攻撃という新戦法で、一夜にして壊滅とした日である。死者八万九千。総指揮をとったルメイ少将は「日本の家屋は木と紙だ。焼夷弾で十分効果がある」と、それまでの昼間の高高度からの爆撃攻撃作戦を変更した。B29の大編隊による日本本土焼尽夜間攻撃が、この日から始まった。戦後、そのルメイに日本政府は最高の勲章を与えている。

三月十六日(略)
三月十八日(日)戦災地御巡幸(八・五五―一〇・〇七)。
今回の行幸は極秘にて、遽かに仰出されたるものなり。従つて御警護など常侍に依らざりき。

<注>藤田侍従長の『回想』にある。深川から本所へ、さらに浅草から上野へと一巡した。焼跡に立つ都民は驚きと敬虔のまざった複雑な気持ちで、金色の菊の御紋章のついたあずき色の車を迎えた。天皇はいった。
「大正十二年の関東大震災の後にも、馬で市内をまわったが、今度の方がはるかに無惨だ。(略)これで東京も焦土となったね」
 その後は一言もなく、一時間ほどの巡幸を終えた。

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