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2015年1月16日 (金)

巨大古墳新発見か

Dscf4416_4 久々に古代史関連の発掘ニュースが飛び込んできた。もう解明しつくされていると思われた奈良県明日香村の中心部に、一辺50m以上を石で張りつめた濠跡と見られる遺跡を発見したことだ。

 舒明天皇陵か蘇我蝦夷の墓か、という解説がついているが、拙著のひとつ『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』の主人公になっている阿倍比羅夫が活躍する前、つまり少壮期に当たるので興味津々だ。

 大唐(中国)と正式国交の糸口をつけた聖徳太子、推古帝の次の代が舒明帝だ。前代に引き続き周辺国との外交は活発で三韓(百済・高麗・新羅)、唐それに当時は独立国扱いだった掖玖(やく・屋久島)などの使節が踵を接して首都・飛鳥にやってくる。

 その次の代が、舒明の皇后であった皇極で、推古から1代置いた女帝となる。当時唯一の公式文献である『日本書紀』にヒントはないか?。今度の発見には、墳丘が見当たらないという。

 蘇我一族の権勢は、入鹿の時代になっても衰えを見せず、乙巳の変で皇子・中大兄らの逆・クーデターを受けて滅亡する皇極4年6月まで続く。その蘇我専横の象徴として、今回の発見地に近い石舞台古墳があり、観光ポイントにもなっている。

 蘇我2代目の馬子の墓に擬せられているこの墓は、墳丘が消滅し巨大な石室がむき出しになっている。墳丘が見当たらないというのは共通するが、塾頭の第一感は新発見遺跡が舒明天皇用であったと推測する。

 その根拠となる『日本書紀』の記録はこうだ。
 
 皇極元年12月22日に、滑谷岡(なめはさまのおか)に葬る、とある。ところが、同2年9月条にも、葬儀のあと押坂陵に葬る、と重複記載される。どうやら後者は舒明天皇の第一皇子など、本来なら皇位につく筈の死者も合葬したらしい。

 拙著にも書いているが、皇極天皇は、巫女の伝統を忠実に受け継いでいることが、『日本書紀』からもうかがえる。前述の記事の前後は、なにか現在と全く同じで、例年にない暖冬、猛烈な雨・霰と雷、虫の異常発生、地震の連続などに悩まされるのだ。

 それだけではない。弔問に訪れる外国使節との間で神経をすり減らす外交も、天文で占ったりする。こんな中で、祈祷を重んずる彼女は、縁起をかついで陵の方向を選び、再葬したのではないか。滑谷岡を完成前に中止し、以後、押坂を陵墓と決める。

 そのせいか『書紀』は前者はただ「葬る」と書くのに対し、後者は「陵に葬る」と明記、現在も比定された古墳が桜井市に存在する。また、蘇我蝦夷の方も、その前年末に本拠地の近く葛城に、祖廟を立てるという記事が載っている。

 いずれにしても、「倭」の姿「周辺国」の姿がだんだん定まっていく貴重な時期、揺籃期にあたるといってもいいだろう。真相は、続く考古学の発見に待つしかない。

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