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2014年9月26日 (金)

神・仏と正義を考える

 イスラム国攻撃ニュースが飛び交う中で、上のような標題が浮かんだ。そしてなんとなく次の軍歌に行き着いた。

♪敵は幾万ありとても
すべて烏合(うごう)の勢なるぞ
烏合の勢にあらずとも
味方に正しき道理あり
邪はそれ正に勝ちがたく
直は曲にぞ勝栗の
堅き心の一徹は
石に矢の立つためしあり
石に立つ矢のためしあり
などて恐るる事やある
などてたゆとう事やある

 日露戦争の頃の歌かと思っていたら、それより20年近く前の1886年・明治19年にはできていたらしい。徴兵制度ができ、藩主のために命を捨てる武士でなく、戦争をするための軍隊の揺籃期と言っていい頃だ。

 軍人勅諭も発令され、天皇に忠節であることが「正義」の中心に据えられた。ここで、イスラム国戦争に話は飛ぶ。空爆を含め、イラク国を攻撃するのはアメリカを中心とする同志国だ。そして、正義は一元的に「我にあり」とし、日本もこれに同調する。

 一方、イスラム国の正義は「神」だ。アメリカなどには「自由と民主主義」を正義とする考えがあるが、そんなのは神の声であるコーランの上位に置くことができない。ここで不思議なのは、一神教なるが故に、キリスト教もユダヤ教も、すべて同じ神を信仰していることだ。

 イスラム教には、神の声を伝える使途としてキリストより後にそれを伝道したモハメッドが最も正しいという信念がある。イスラム国攻撃には、サウジアラビアなど王や首長が権力をにぎるイスラム国家が含まれるが、イスラム原理主義は、世俗主義に傾きがちなこういった存在に否定的なので、国の存立にかかわるという危機感を持っている。

 戦争をする時、片一方にだけ正義がありもう一方にはない、といったケースはまずほとんどないだろう。また、あつたとしても正義はいくらでも後付けできる。しかし、「正義」にもっとも強く作用するのは、前掲の歌詞ではないが「神通力」なのだ。

 大東亜戦争でも、当然「正義」が強調され、それを担保する「神」を必要とした。それは、天皇にとって迷惑だったかもしれないが「現人神」とする神格化だった。その悪性遺伝子を残しているのが森元総理の「日本は天皇中心の神の国」発言であり、それを受けつぐ安倍首相である。

 日本では万物にカミが存在する多神教国である。決して正義を代表するものではなく悪神もいれば死神もいる。イスラム教ではコーランに忠実であることが、神に最も近づける道であるが、神そのものにはなれない。

 日本では、だれでも死ねば「ほとけ」になれ、死体のことを「ほとけ」といったりする。ところが、日本政府は世界で例を見ない、「神」になれる装置を発明したのだ。それが、政府指定戦死者限定の靖国神社である。

 この、伝統にはない神社を権威づけるには、天皇や総理大臣などが定期的に参拝する施設でなくてはならない。ネットウヨばりの閣僚や議員が何人参拝しても無意味なのだ。またそのことに気がついていないこともガッカリ要因だ。

 首相の靖国神社参拝問題は、習近平さんや朴槿恵さんが言うことではなく、日本人自身のことであることを、この際もう一度考えてみる必要がありそうだ。

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コメント

わが家は先祖代々「天台宗」なのでこの宗派の高祖「伝教大師」が最初にとなえはじめた「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」と言う考え方を興味をもって調べたことが有ります。

この考えは、仏教を最初に日本に持ち込んだ聖徳太子も同じような考えで「神道」と「仏教」を融合させました。

ですから、私としては日本も神は「単一」だという考えが有ります。
ただそれは独特で、もし言葉があるとすれば「日本宗教(やまとしゅうきょう)の神様」とでもいいいましょうかね。

いずれにしても、戦争では「勝てば官軍」です。勝った方が正義なんです

投稿: 玉井人ひろた | 2014年9月26日 (金) 17時44分

宗教学には全く疎いのですが、本地垂迹説、神仏習合、神仏混淆など言葉だけは知っています。

仏教伝来の頃は日本人独特の摩擦回避が働いたのでしょうかね。強引に分離を強行したのが明治政府です。

ただ、日本人のいうカミと国家神道は何か別のもののような気がします。

投稿: ましま | 2014年9月26日 (金) 18時39分

イスラム国のカリフ制ですが、昔は宗教的権威と世俗の権力者(国王)とが同一だったのが普通で、今でもイギリス国王はイギリス国教会の最高位でもある。
西欧で宗教のトップと世俗権力とが分離したのは西ローマ帝国が早々と崩壊したから、仕方なく起きた現象ですね。
対して東ローマ帝国では皇帝は宗教のトップを兼任する体制が維持された。ダライラマの支配していたチベットも同じ。
我が日本国ですが、権威と権力が一体だったのは飛鳥時代と後醍醐天皇の時ぐらいで、
後は西欧と同じで長く世俗権力と宗教的権威は分離したまま。
これを一致させようとしたのが長州の明治政府なのですが、現人神は無理がありすぎた。
天皇は神では無く、ローマ法王を同じで聖職者の最高位であると解釈するほうが正しい。
靖国神社の不思議ですが、最高権威である天皇が拝むから値打ちがあるのです。
ところが、お馬鹿な右翼宮司のA級戦犯合祀で天皇参拝が出来なくなる。
首相では幾ら公式参拝でも少しも値打ちが無い。
天皇が参拝出来ない靖国神社とは、中国製のグッチのバックと同じで、本物では無くてニセモノですね。

投稿: 宗純 | 2014年9月27日 (土) 15時03分

宗純 さま
コメントありがとうございました。

昭和天皇はそこらを一段と深く考えていた人かもしれません。

かげでは、天皇機関説を機関車に例えるあほう政治家より深く理解していた。戦後の身のこなしようも、結果としてただ見事というほかありません。

大変革の中、明治・大正という祖父と父を見てきた。同じ世襲でも政治家の世襲とはけた違いの重荷を背負わされている。

天皇を礼賛するのでなく、今の政治家しは雲泥の差があると言いたかったわけです。

投稿: ましま | 2014年9月27日 (土) 20時23分

 宗教と言うものは,最初は,この世の矛盾を解決し,貧者に希望と光を与えるために出現するものですが,権力と結びついて,上記目的が達せられなくなってきたのは事実です。
 でも,宗教とは,そもそもは,そういうものだ,ということを認識し直す必要はあるのではありませんか?

投稿: 弥勒魁 | 2014年9月30日 (火) 07時44分

国が官幣大社とか中社とか神社の格付けをし、一村一社を強制するなどの「強制された」国家神道を含め、あらゆる宗教から一切のタブーをはずして研究を進めれば戦争はなくなると思うんですが。

投稿: ましま | 2014年9月30日 (火) 11時30分

 英国国教会は,ヘンリー八世がローマ・カトリック教会が禁ずる離婚を合法的に行うために作った教会ですから権力そのもの。貧者の一灯とはほど遠い存在ですね。
 我が祖が大規模稲作技術普及開発の推進力として持ち込んだと私は思う原始仏教は,稲作技術の改良普及開拓が,即身成仏の道,という究めて素朴なものだったのではないでしょうか?

投稿: 弥勒魁 | 2014年9月30日 (火) 15時16分

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