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2014年9月11日 (木)

天皇実録の使い方

 昭和天皇実録が完成・公表された。「実録」という書名は、なんとなく軽い感じがするが、昔の格付けからすれば「正史(青史)」であり、中国でいえば『史記』や『唐書』、日本では『日本書紀』『日本続記』など官製の歴史書で、それ以外のものは「稗史(はいし)」ということになる。

 津田左右吉氏のせいではないが、この「正史」というのは、王朝の正当性を主張するのが目的で 、虚飾、改作、作為にみちたもの、という色眼鏡で見るのが、これまでの学者、研究者の通弊であった。

 今回の実録も、例えば靖国神社合祀について「富田メモ」について日経新聞が報じたと書いてあっても、その内容に触れていない、とか、具体性に欠け歴史検証するうえでものたりないといった批判が寄せられている。

 そして「驚くような新事実はない」と各紙で報道されていることも、前回の「隔靴掻痒」で書いた。しかし、社史・団体史などいくつかの歴史を執筆・編集した経験のある塾頭は、「だからこそ正史なのだ」、と「実録」を擁護する。

 司馬遼太郎のペンネームは、宮刑(去勢される罰)という屈辱を受けながら、公正な目で世界的な『史記』を完成させた司馬遷にあやかりたいという動機でつけたという。また、日本書紀は最近の研究で2名の中国出身者が執筆に加わっていることが分かった。

 したがって、中国の正史編纂の手法が採用されていると見るべきである。書紀を見ると分かるように、多くの史資料を参考にし、それに忠実であろうとしている筆法が目につく。執筆者には、当然権力者から様々な圧力を受けることはあるだろう。

 だからといって、中身を面白くしたりするため史資料にないこと、証拠がないことをねつ造したり、また、余計なことを付け加えたりすることを、執筆者なら決してしない。なぜならば、歴史、特に正史は執筆者の名とともに未来永劫に残る。後にそれが批判されるような記述は、「筆が走る」といって避けるようにするものだ。

 小説やノンフィクションとの違いはここにある。津田博士のいうように「官人のさかしらしさ(『粛慎考』)」から、歴史が書けとるいうのは、あり得ない虚構なのだ。したがって、正史であればこそ物足りなさもあり、中途半端なところもある。

 それを補うような形で日本書紀には「うた」が盛んに使われる。その「うた」を日本語で忠実に再現させるため、中国人執筆者は母国の音に近い漢字を用いて表現する。それにより、両名は「音博士」の称号・地位を賜っている。万葉仮名のはしりである。

 「実録」も「うた」昔の言葉でいえば御製を多用している。要は、この実録を糧にしながら学者や研究者が補強や肉付けをし、他国に容喙されないような国史、つまり「歴史認識」を確立させていくことが肝要なのではないか。

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コメント

日本書紀に対する塾頭の評価にほぼ同意します。
古代史学者は欠史八代を架空だと切り捨てますが実在したと思います。
ただ執筆時点で既に相当昔だったのと、大した事績が伝承されてなかったので名前だけにしたのでしょう。
本気で捏造する気ならあんな荒唐無稽の在位年数を書くはずはない。神武即位をBC660年にするためむりやり引き伸ばしただけ。

投稿: ミスター珍 | 2014年9月13日 (土) 22時22分

 浄土宗の暦では,今年は佛誕2557年。
 皇紀なら2674年。
 明らかに,佛誕を上回ることを意識して年代合わせをしたのではありませんか?

投稿: 弥勒魁 | 2014年9月14日 (日) 06時11分

ミスター珍 さま
欠史八代は、おそらく神武東遷(らしきものがあったと考えます)後、纏向近辺から初瀬川上流にかけて定着するため、勢力を持っていた先住豪族と妥協をはかる政略結婚に励んでいたように見えます。

弥勒魁 さま
初めて聞く説ですね。
書記には「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮」としか書いてありません。2574年前としたのは別の人です。

干支を入れたのは、「某年某月」のかわりで、中国人の知恵かも知れません。

投稿: ましま | 2014年9月14日 (日) 07時15分

 釈尊のご誕生と入滅年については諸説ありますが,最も古いのはスリランカの古伝説で,ご誕生がBC622,入滅がBC543.
 従って辛酉年でこれより古いと言えば,BC660を取るしかなくなる訳です。

投稿: 弥勒魁 | 2014年9月14日 (日) 13時31分

 昭和天皇実録だって,天皇家に都合の悪いことは書いてありません。
 まして8世紀以前に書かれた古事記・日本書紀が天皇家に都合の悪いことを書いてある筈が有りません。
 縄文から弥生に移り変わる頃(紀元前4世紀),関東平野は南半分海だったそうです。それを周辺から干拓しつつ,大規模水田稲作技術を広めていった人々が居た筈です。この事業は1600年に家康が江戸入りした時点で完成しておらず,彼の江戸入りの目的は,この事業の完成であったそうです。
 関東平野の干拓は文字通り大事業ですが,ほかの川の沿岸だって,大規模水田稲作技術を普及させるのは容易なことではなかったでしょうに,こんな話は古事記にも日本書紀にも書いてありませんね。
 もしかすると,この人々は原始仏教の信者だったかも知れないのですよ。

投稿: 弥勒魁 | 2014年9月16日 (火) 17時32分

そのせいで日本武尊ルートは相模→安房→上総→下総となりました。

投稿: ましま | 2014年9月16日 (火) 18時15分

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宮内庁は9日付で、昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。側近の日誌などをもとに天皇の動静が克明に記され、新たな資料や回顧録の存在も明らかになった。 ... [続きを読む]

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