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2013年8月30日 (金)

戦後体験”明るい国へ”

 Th2        

       香川京子

----正午にラジオで天皇の”玉音放送”があって、戦争がようやく終わったらしいということが、私にもわかりました。

 「ああ、これで空襲の心配がなくなった。助かってよかった」

 負けてくやしいというよりは、子供心にも”日本はこれでよかったのだ”という安心感というか、解放感のほうが強かったように思います。それほど戦争中の私たちの生活は、空襲の恐ろしさや食糧難ばかりではなく、すべての面で行き詰まっていたということではないでしょうか。なによりもあの日を境に、死ぬことを考えないで毎日を過ごせるようになったということは、大多数の日本人にとって大きな救いでした。

 戦争がもたらした惨害は、私が垣間見たものを何百倍も何千倍も超えていたにちがいありませんが、やがて、日本人が、何もかも失った焼け跡から立ち上がって平和な時代を生きるためにふたたび歩き始めたとき、それまでになかった希望のようなものがよみがえりつつあったのではないか、といまにして私は思い起こします。

 それは、私がまだ十代半ばの若い心で見ていたからでしょうか。いえ、それだけではありません。自分を含めた周囲の人たち、学校や町で見かける普通の日本人の顔に少しずつ明るさが戻り、それぞれ新しい目標を持って前へ進み始めたのです。壊れた家や町や産業の再建のために、なによりも平和な国をつくるために――。

 その後の五十年間を振り返ってみると、戦後のあのころのほうが、政治や経済の中心にいる人たちが、近頃よりは清潔そうで、謙虚で、私欲より国民全体のことを考えて働いていたような気がします。身なりは貧しかったけれど、生き生きとしていました。(以上『戦後を語る』岩波新書、より)
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 女優・香川京子は、塾頭と生まれたのがひと月余りしか違わない。いずれも疎開で都会から田舎の中学(彼女は高等女学校:当時は男女別)に転校し、2年生で終戦を迎えた。

 その年には授業がほとんどなくなり、校庭の裏山で軍用の燃料「松根油」をとるという理由で松の根を掘り起こす作業ばかりやっていた、ことなども、塾頭の体験と重なる。

 このところの、戦後レジームを消してしまいたい政治家に対しては、人生・人格を否定されてしまうような激しい怒りを感ずる。

 松根油については、
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post-5e1a.html

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戦中・戦後」カテゴリの記事

コメント

戦争が終わって安心した、開放感があった、とはよく聞く感想ですが、私にはどうも後付けの回想にしか思えないのですよ。
共産党の不破議長は田原総一郎のインタビューに、(日本が)負けるわけがないと思っていた、と答えていました。
田原総一郎もまた、負けるわけがないと思っていたと述懐しています。
一部の先を読めた人を除けば庶民はみなこう思っていたのです。
だから玉音放送に茫然自失したのです。

投稿: ミスター珍 | 2013年9月 1日 (日) 22時12分


開戦後1,2年は相次ぐ勝利で「負けるとは思えない」と思った人が多いでしょう。しかし東条首相退陣のころから、空襲が激化し、以後大本営発表にもかかわらず、「松根油」や「風船爆弾」に頼るようでは、この先???。

終戦前年頃から、「どうやら負けになる」という噂が街でささやかれ(私も母から聞いた)、「本土決戦」を戦争指導層が言うようになりました。

 そうすると私たちは竹やりをもって米兵と戦うことになります。女性は山に洞穴でも掘って(事実、掘る作業もした)逃げ込むしかありません。

 沖縄と同じです。「生き延びられる」とほっとしない人は、自分たちは奥地か満州へでも逃げおおせると思ったのでしょうか。茫然自失の中味は人それぞれです。ほっとした人も当然その中に入ります。

 それらの経緯は、代表的な昭和史を精読すれば出てくるはずです。

投稿: ましま | 2013年9月 2日 (月) 07時25分

私の母は、既に15歳になっていましたが、あの玉音の夜に家々に明るく電気が付けられた綺麗な光景を今でも忘れられないと言います。

夜に電気が付けられたことで、戦争が終わったことを実感したそうです

投稿: 玉井人ひろた | 2013年9月 7日 (土) 19時59分

玉井人ひろた さま
灯火管制は法律で決められ罰則もありました。これが正式に解除されたのは5日後の8月20日です。
お母様が家じゅうきれいに見えたという気持ちがわかります。

どの家もカーテンや雨戸を閉めるのですが、欄間や隙間から光が漏れるおそれがあります(それを摘発し、非国民扱いをする防空班長などといういやな奴がいた)。

したがって、つりさげた電燈を傘から黒い幕で囲い、その下で頭を突き合わせるようにして食事をとったりしたものです。

8月15日は、午前2時ころまで空襲(秋田)があり、2,3日は半信半疑でした。そのあたり、よければこちらで。
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/1-29ec.html

投稿: ましま | 2013年9月 8日 (日) 07時09分

>灯火管制が正式に解除されたのは5日後の8月20日

母にも確認しましたが、母の実家にはすでにラジオが有り、まだ私にとっての曽祖父が生きていて、ラジオからの玉音「終戦(敗戦)」という内容を説明したそうです。

そのことは、役場も近いことから直ぐに広まり、それが流れた15日の夜には皆自主的に灯火管制を解除したそうで、隣近所から漏れる灯りで明るい夜が綺麗だったそうです。

投稿: 玉井人ひろた | 2013年9月 8日 (日) 09時08分

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