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2013年1月

2013年1月31日 (木)

沖縄独立と自見発言

 まず次の記事を見ていただきたい。31日付の毎日新聞5面のベタである。朝日新聞にも同様な記事があるが、電子版では沖縄2紙を含め他には見当たらない。

 国民新党の自見庄三郎代表は30日の記者会見で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題が沖縄の分離独立運動を招き、ゲリラ闘争や爆弾テロに発展しかねにいとの認識を示した。基地負担の軽減を訴えたかったようだが、過激な発言に批判も出そうだ。

 自見氏は、政府の県内移設方針に対する強い反発に触れ「『独立国家になる』という可能性もある」と強調。同時に「国のかじ取りによっては東京でも爆弾テロが発生する」と主張した。

 当塾が「琉球独立の悪夢」と題する記事を書いたのが3年前の3月18日である。お気づきの方もあるかと思うが、それを見た本村安彦さまから、「独立」必至といわんばかりの厳しい書き込みを連続していただいた。

 鳩山首相失脚以来沖縄の心を踏みにじることしかできなかった政府与党、それに引き継がれた自民政権のより強硬な沖縄の位置づけで、全く解決の方法を見失った沖縄が、本土から見捨てられている、と感じるのはもっともなことだ。

 それを強調するための「独立」、それも理解できる。しかし、これは使い方を誤ると沖縄にとっても日本全体にとっても取り返しのつかない劇薬になることを考えておく必要がある。コメントでも書いておいたが本塾は独立志向の発想に反対である。

 2月2日には安倍首相が日帰りで沖縄を訪問する。ここで仮にテロまがいのことがおきたらどうなるだろう。ネットウヨは早速中国の工作員、反日分子の仕業などと騒ぎ立てるだろう。マスコミもテロ非難一色で、政権は労せずして沖縄基地縮小運動の分断に成功する。

 話し合いで平穏理に独立、などという独立はあり得ない。このブログでも言及してきたことだが、過去琉球の独立を否定するため薩摩藩や日本軍が動員された。現在でも独立は内乱・暴動と見なされ、自衛隊や米軍までこれに対処できる。

 つまり、できないことではなく、まだできることがあるだろうということである。日本もアメリカもまがりなりにも民主主義国家である。両国の世論喚起にどういう手があるのか、何が有効か、怒られるかもしれないが、ここまできたのだからあとひといき、粘り勝ちにしてほしい。

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2013年1月29日 (火)

反省してない原子力村

 原子力規制員会の有識者調査団が敦賀原直下に活断層がある可能性が高いという報告書原案を出した。
 本文に入る前に「有識者○○」の多い事、とても覚えきれない。本塾の関心事である「集団的自衛権」などについて、安倍首相が外交・安全保障に絡む「安倍カラー」の政策検討に向けて近く三つの有識者会議を設置する方針だ。

 検討するのは、(1)国家安全保障会議(日本版NSC)の創設(2)集団的自衛権の行使を禁じた憲法解釈の見直し(3)政府の歴史認識に関する新たな首相談話、の3課題だという。このほかにどれだけ「有識者○○」があるのか検索を試みた。

今後の治水対策のあり方に関する有識者会議
皇室典範に関する有識者会議
政府情報システム刷新有識者会議
電気料金制度・運用の見直しに係る有識者会議
経済社会構造に関する有識者会議
共済年金職域部分と退職給付に関する有識者会議
更生保護のあり方を考える有識者会議
公文書管理の在り方等に関する有識者会議
地域の元気創造有識者会議
クール・ジャパン 官民有識者会議
…………まだまだ続く
行政減量・効率化有識者会議. (※現在は活動を停止しています)

 そうでしょう。政治家には「知識」とか「常識」のない人が多分多いのだ。そういった「会議」に頼るのは、責任逃れや権威づけ、また役人依存をしないという口実にもなるのだろう。一番の効用は、我田引水の報告を引き出せることかも知れない。「行政減量・効率化有識者会議」が「現在は活動を停止しています」(HP)というのには笑ってしまう。

さて、本題は毎日新聞(1/29)の引用から。

 原子力規制委の有識者調査団が示した報告書案は、事業者側が可能性を否定できなければ「活断層」とみなす。これまで電力会社は活断層と断定できる明確な証拠がない限り、危険性は事実上ないとし、国も容認した。しかし、2年前の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故を教訓に、安全側に立った判断を行い、立証責任を事業者に求めるという方針転換を図っている。

(中略)こうした変化に、事業者は反発を強める。ある電力会社関係者は「一点のくもりもないことはあり得ない。技術を否定するもので到底受け入れがたい」と憤る。

 名前は伏せてあるが、最後の事業者発言は断じて許せない。「一点のくもり」があれば、事業を停止するか、撤収するのが良識であり国民の義務でもある。福島第一では、貞観地震による津波など「一点のくもり」を軽視したため事故を引き起こし、住民を塗炭の苦しみに落とし入れたではないか。原子力村の不感症ぶりには、あきれてものが言えない。「憤る」のはこっちの方だ。

 なお、原発の安全性について専門家にチェックを依頼するのは当然だ。上述の各省庁で検討すれば済むようなこととは性格が違う。ただし、政治家の丸投げは許されない。専門家でない政治家であっても、自衛隊の文民統制同様、最後は自ら決断を下さなければならない。

 たとえ文系の出身者であろうと、判断に必要と思えば理解できるまで意見を聞きまた勉強すべきだ。そして複数の意見のどれが正しいかを見極める。それが「政治」の基本であり、できないようなら政治家から降りてもらうしかないだろう。

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2013年1月28日 (月)

「ものの哀れ」を知る武士道

 前々回の「反戦塾乗」で、日本人の心として茶人・利休の画像に添えて「ものの哀れ」を取り上げた。「わび・さび」の精神とは、やや異質の感なきにしもあらずである。利休は茶道で師弟関係にある豊臣秀吉の「勝者として」のあくなき執念に「もののあわれ」を感じ、それを理解できない秀吉が利休に切腹を命じたものではないかとというのが、塾頭の勝手な解釈である。

 「ものの哀れ」の「もの」とは何か?。「もの」ほどいろいろな使われ方をする言葉はないが、塾頭は、もののふ(武士)、もののべ(物部=軍事をつかさどる部民)、ものがたり(平家物語)など、いくさ、戦いを意味する「もの」ではないかと思う。

 日露戦争の戦記で、水野広徳海軍中佐(執筆当時)が書いた『此一戦』という、旅順港封鎖や日本海海戦などをえがいた戦記がある。その批評を大町桂月は、次のように書いた。(『帝国軍人の反戦』朝日文庫)

 書を読んで先ず嬉しく思わるるは、審(つまびらか)に委(くわ)しく我軍の偉勲を記したるのみならずして大いに敵軍を審にしたるに在り、而して寄せ得べき限りの同情を寄せたるに在り、武士は物の哀れを知る、著者の態度が既に日本武士の精神を発揮せるを見る也

 広徳は、海軍兵学校を明治31年に卒業し、37年の日露戦争まで、北米などの遠洋航海でそれぞれの民情観察の機会に恵まれた。33年には中国で発生した義和団事件のため上海警護の任につき、各国の軍隊と接触・交流する機会を得た。

 こういった経験が、各国の民情・実態を客観的に観察し、戦いに勝っても負けても多くの善良な市民の命が失われていく不条理に目を向けるきっかけとなった。

 今日の勝者が明日の敗者となるのも東西を問わず戦いの常である。勝ったからと言っておごり高ぶり、敗者に思いをいたすことなくさげすむことに厳しい批判の目を向ける。「兵は凶器なり」で書き出し、「国大と雖も、戦いを好む時は必ず亡び、天下安しと雖も、戦いを忘るゝ時は必ず危し」でしめくくっている。

 しかし、広徳の警句や願いは一般国民、民衆の耳に届かなかった。下記はすくなくとも昭和10年代まで、数え歌、手まり唄として歌い継がれた俗謡である。歌詞は広徳の見識・憂慮から遠い”劣情”(↓参照)
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-e0f9.html
の勝ったものである。大正から昭和へ、そして大戦を経て国が亡びた。

 見事な復興を果たした日本、そして周辺国に、またぞろはびこる”劣情”の現状を憂えずにいられない。

♪一裂談判破裂して
 日露戦争始まった 
  さっさと逃げるはロシアの兵
  死んでも尽くすは日本の兵
  五万の兵を引き連れて 
    六人残して皆殺し
  七月八日の戦いに 
    ハルピンまでも攻め入って
  クロバトキンの首を取り 
    東郷元帥万々歳

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2013年1月26日 (土)

山口・習会談の評価

 中国を訪問していた公明党の山口那津男代表がきのう習近平総書記と会談し、今日安倍首相に結果を報告した。

 各新聞はそれぞれ社説を立てている。その評価は、
「小さな一歩にすぎないが、パイプがつながったことを歓迎する」=朝日。
「対話再開に向けた一歩だといえる」=東京。
「対立の緩和につなげたい」=毎日。

 これに対して、
「日本政府の立場を堅持することが肝要なのに、気がかりな点がある」=読売。
があり、産経は会見後の「主張」はパスしたがその前の山口氏の発言をとりあげ、1月23日付で、
「日本として今なすべきは、中国による国論分断をはね返して、結束して尖閣を守ることである」。
と、読売以上の主戦論を展開している。

 その読売も、文末で山口氏訪中前に、①「棚上げ論」に言及したこと、②双方が尖閣諸島上空の自衛隊機や軍用機の飛行を自制することなどを取り上げたことを「看過できない発言」ときめつけた。

 さらに、鳩山元首相の訪中発言や、これから予定されている村山元首相の訪中にまで類推した上、「国益を忘れた言動は百害あって一利なし」と結んでいる点、産経と共通の立場にあって全く選ぶところはない。

 塾頭は、もちろん前者の考えが日本国民多数の願いであり、米・中を含めた世界が願うところてあることを確信している。後者がどういう国際感覚や政治感覚から出てきた疑問だが、強硬一本やりで聞く耳を持たないのが国益だ、と新聞社幹部まで思い込んでいるとすれば問題だ。

 両社以外の各社も「日本に主権があることは疑いのない事実」=東京、とし、92年の中国領海法制定で「『棚上げ』了解を先に崩したのは中国の方」=毎日、と日本の主張すべき点を明確にしている。その上で双方が「さらに知恵を出し合う」=朝日・毎日、きっかけを作ったと、山口・習会談の意義を認めている。

 もちろん問題はこれからである。公明党と中国の関係は、周恩来と創価学会・池田大作(現名誉会長)の親交以来続いており、それに関する図書が中国で刊行されているほどで自・民の人脈より中味が濃い。世界平和に向けた池田氏の活動は政治家にないものだ。また同氏は、尖閣諸島問題で冷え込む日中関係改善のためハイレベルな対話の場を設定したうえで、「日中首脳会談の定期開催」の制度化を呼びかけた(聖教新聞)。

 この先、自民・維新などの9条改憲・集団的自衛権実現の動きを公明党がストップをかけてくれるような存在でいてくれるなら、次期選挙の比例区は、公明党に投票しようかな、と思ってしまう今日この頃である。

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2013年1月23日 (水)

反戦塾乗13/1/24

◎このところ、「美しい日本」に見当たらないもの。

→「わび」、「さび」、「もののあわれ」Dscf3756

◎このところ、「美しい日本」で目立つもの。

→「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」Odanobunaga1_2

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2013年1月22日 (火)

橋下独壇場をどこまで許すのか

 橋下大阪市長が私立桜宮高校の体罰事件に関連して市教育委員会に出席し、彼の一定限度の体罰容認論などから態度を急変させ、入試の中止や教員の総入れ替えなど、彼の言いだしたことを実現するよう圧力を加えました。

 その結果は、委員長自身が「看板架け替え」と言ってる入試方法の変更を短時間で決め、橋下氏は「いい案をだしていただきました」とご満悦です。普通の感覚の持ち主ならとんでもない姑息な「おべんちゃら」決議ですが、それが橋下さんに投票したような人の間では通ってしまう。

 さすがに度重なる朝令暮改に「おかしいんじゃないの」という人も増えてきたようですが決定打にはなりません。日本中がこうなってしまってはたまりません。以下は、文部科学省のホームページから抜粋したものですが、国会進出したら「こんなのやめさせてしまえ」とも言いかねません。「くわばらくわばら」です。

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[教育委員会制度の意義]
   政治的中立性の確保

  ◎  個人の精神的な価値の形成を目指して行われる教育においては、その内容は、中立公正であることは極めて重要。
 このため、教育行政の執行に当たっても、個人的な価値判断や特定の党派的影響力から中立性を確保することが必要。

 継続性、安定性の確保

  ◎  教育は、子どもの健全な成長発達のため、学習期間を通じて一貫した方針の下、安定的に行われることが必要。
 また、教育は、結果が出るまで時間がかかり、その結果も把握しにくい特性から、学校運営の方針変更などの改革・改善は漸進的なものであることが必要。

 地域住民の意向の反映

  ◎  教育は、地域住民にとって身近で関心の高い行政分野であり、専門家のみが担うのではなく、広く地域住民の意向を踏まえて行われることが必要。

[教育委員会制度の特性]
   首長からの独立性

  ◎  行政委員会の一つとして、独立した機関を置き、教育行政を担当させることにより、首長への権限の集中を防止し、中立的・専門的な行政運営を担保。

 合議制

  ◎  多様な属性を持った複数の委員による合議により、様々な意見や立場を集約した中立的な意思決定を行う。

 住民による意思決定(レイマンコントロール)

  ◎  住民が専門的な行政官で構成される事務局を指揮監督する、いわゆるレイマンコントロールの仕組みにより、専門家の判断のみによらない、広く地域住民の意向を反映した教育行政を実現。
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2013年1月21日 (月)

シェール革命がやってきた

 1975年、アメリカの原油生産高は30億5500万バーレルと、サウジアラビアの26億3700万バーレルを大きく引き離す世界一の産油国でした。しかしその年、すでに約600バーレルの原油・製品を輸入しないと国内需要を満たすことができない巨大消費国となっており、現在も世界の需要量の30%前後を北米で消費しています。

 しかし、原油の生産量はサウジが世界の12%、アメリカ7%と逆転、大量の輸入に頼らなければならなくなりました。ご存知のように、アメリカの富強はメジャーズと呼ばれる世界の石油市場支配が大きな力になってきたのです。

OPEC産油国の油田国有化などにより、メジャーズの威力は減少していますが、石油流通面での隠然とした力は維持しています。かつてはガルフ・コーストといって、アメリカ南部のメキシコ湾岸からの積出し価格が世界標準と決められ、現在はニューヨーク・マーカンタイル取引所やドバイなどの商品先物取引の一定期間平均価格が基準になっています。

 そういったことから、自前の資源や独自の取引先を持たない日本の電力会社は、LNGなどを福島の原発事故以前から割高な長期契約の固定価格で輸入せざるを得ませんでした。現在も原発再開ができないなら、当然買い付け量がふえるだろうと足元を見られ、高値に張り付いたままで、電気料金値上げの口実にされています。

 そこに、世界のエネルギー事情に大きな地殻変動をもたらす明るいニュースがあります。それはアメリカで開発が進んでいる「シェール・ガス(オイル)」の存在です。どんなものかは、テレビ・新聞などたびたび解説されているので、ここでは省略します。

 シェール・ガスの開発成功で09年にアメリカが世界最大の天然ガス生産国になりました。また、シェール・オイル(原油)は17年に世界最大の産油国になる、とIEAが発表しました。現在の100ドル/bl前後に高止まりしたままの原油価格が続けば、アメリカが中東からの原油依存を脱却し、自給できる日も遠くないとされています。

 日本はアメリカのようにはいけませんが、出光興産やJX・エネオスなど石油系のガス会社は、中東産の約半額でアメリカからLNGを輸入する契約をすでに締結済みです。また、鈴木宗男氏が喧伝するように、ロシアが日本向けのガス輸出に熱心で、今後ガス輸入に関してはバーゲニング・パワーとなりそうです。

 そこで、日本は国際的にどう立ち回らなければならないでしょう。まずアメリカの変化です。エネルギーの自給自足が見通せるようになればこうなるかも知れません。

・米国の貿易赤字が急速に減少し、ドルの価値が高まる。
・メジャーズに代わってインデペンデントと称される米国各地の産油業者が活況を呈し、石油化学その他製造業の復活により景気が立ち直る。
・アメリカ国内の原発新設が再び凍結される。
・石油利権確保のための外交努力や軍事力維持に関心がなくなる。

 中国・ロシアにも膨大なシェール・ガスが埋蔵されているとされています。しかし、開発には大量の水が必要で、その上開発のためのインフラ整備がなくてはならず、過去石油開発が進んでいたアメリカとは環境が違います。新規開発には水資源や環境関係の高い技術を持つ日本などの協力が必要でしょう。

 したがって、日本同様中国はエネルギーの安定供給が欠かせません。アメリカの後退を受け、中東産油国への影響力増大、シーレーン防衛などでとって代わろうとするかもしれません。日本にとっては厄介なパートナーということになるでしょうか。

 日本がこれから期待するのは海洋エネルギーです。潮力や波力といった再生可能エネルギーへのつなぎには「メタンハイドレード」採取技術確立が急務となります。メタン(天然ガス)は既に自動車エンジンや暖房のほか発電にも使われていますが、100%石油の代わりというわけにはいきません。

 以上のような世界のエネルギー事情の中で、原発依存を捨てないということがいかに無謀で保守的な考えだということがわかるでしょう。原発ゼロをはっきり目標として掲げ、変化する世界情勢を的確に把握し、経済外交を展開することや、国をあげて新エネルギー開発を急ぐことです。

 TPP参加が有効であるということなら、それも前向きに考えていいでしょう。日本は大変な危機に遭遇しているとともに、最高のチャンスにも直面してると言えるのではないでしょうか。

(数字等は『週刊エコノミスト』1/22、『石油便覧』日本石油、ほかを参照)

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2013年1月19日 (土)

右傾化するイスラエルと日本

 イスラエルでは22日開票予定の国会議員選挙があり、比例代表制で120議席が決まる。同国の宗教系極右政党は「ユダヤの家」だ。今のところ現有3議席を14議席前後に伸ばす勢い(「毎日」1/14)だそうだ。

 さらに、ネタニヤフ首相の率いる与党リクード党は「強い首相、強いイスラエル」をスローガンに掲げ、世俗派の極右政党「わが家イスラエル」とともに優勢で、「ユダヤの家」とも連立を組む可能性が強いとされる。

 何のことはない、国際与論に反しヨルダン川西岸への入植強行派ばかりとなり、「『和平』が争点とならない初めてのイスラエル選挙」(ゼエブ・カニン博士)と論評される始末だ。

 最近の世論調査では、自らを「右派」とする有権者が41%で、3年前の34%から急増している。若い層の欲求不満も重なり、選挙事情に反映しているようだ。この数字は日本にあてはめた場合どうなるだろう。決してひけをとらないのではないか。

 世界の耳目が、アルジェリアのイスラム過激派による人質拘束と同国のテロ集団壊滅作戦強行に向いている。国民が人質にされた欧米や日本などで、「ムスリム」「テロリスト」を単純に結び付け、その壊滅を叫ぶ右傾化がさらに進むおそれがある。

 ここがオバマ米大統領の頭の痛いところだ。米経済が急回復し、「世界の警察官」に郷愁を感じる共和党などの右派が勢いを増すかもしれない。自由と民主主義のために戦った結果、中東やアフリカでの民主主義が進展し、イスラム回帰がより顕著になった。

 さらに、パレスチナにおけるハマス、ファタハの和解、国連での国家の地位獲得など、イスラエル孤立化が鮮明になっている。こういった潮流の変化に有効な打開策を打ち出せなかったことが、同国のあせりを呼んでいることを忘れてはならない。

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2013年1月16日 (水)

アメリカ、イギリスにひじ鉄

 安倍首相は今日16日午前、東南アジア歴訪に旅立った。狙いは「価値観外交」の売り込みである。それをいけないとは言わないが、あまり中国との対立を際立たせない方がいい。民主党内閣で失った日米関係の信頼を回復をうたい、早期実現を期待した首脳会談の日程がまだ決まらないのだ。

 アメリカのオバマ大統領は、国防長官に野党・共和党のチャック・ヘーゲル元上院議員を指名した。ブッシュ前政権時代にイラク戦争を批判し、核兵器廃絶への現実的道筋を追求してきた氏の実績からも、オバマ第2期のハト派指向を鮮明にするものという印象を持ったことは、先週の「粗雑な安倍流集団的自衛権」という記事に書いた。

 また、クリントン国務長官の後任には、ジョン・フォーブズ・ケリー氏を指名した。彼はベトナム歴戦の勇士で数多くの勲章を持つが、それを返納や放棄して反戦運動の先頭に立つといった経歴を持つ。日本の自民党などでは考えられない人選だ。

 アメリカの後ろ盾さえあれば、東アジアで孤立しても強がりが言える、というのは国益と実利優先のアメリカにとって、内心迷惑なのではないか。それとやや似たことがイギリスにもあるようだ。イギリスはECに加盟しているがユーローを使わずポンドを維持している。

 そのため、債務危機を機にユーロ圏諸国が統合を深める一方、英国など非ユーロ圏諸国が置き去りにされているとの危機感がこのところ深まっている。EUに反対または「対EU関係の変更」を主張する意見は、保守層を中心に以前からあった。
 
 そういったイギリスの反EU派は、EU離脱後、米国との「特別な関係」で生き残ろうと考えているが、当の米国は冷淡だ。ゴードン米国務次官補(欧州担当)は9日、「英国がEUの内部で影響力を持つことを望む」と述べ、「EUが内向きな議論に力を入れるほど、統合が難しくなる」と異例の警告を発した。

 毎日新聞は、これを「ひじ鉄を食らわされた格好だ」と表現している。安倍首相には「ひじ鉄を食わされない」だけの賢明さがあってほしいが、前記事の結論と同じで「彼にとってはかなり無理な注文」ということになりかねない。

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2013年1月14日 (月)

雪↓・野菜↑

関東地方の雪。露地栽培の野菜はピンチに?。

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2013年1月13日 (日)

「ビンタ」を深刻に考える

 大阪市立高校2年の男子生徒が、所属するバスケットボール部顧問の男性教師から体罰を受け、その翌日に自殺した件だ。報道はにぎやかだが、橋下大阪市長をはじめ非難は、「教育上すこしならいいが限度を超えている」というものと、いじめによる自殺と同様「学校の校長や教育委員会の隠ぺい体質」などに要約される。

 読売新聞社説は、「肉体的苦痛を与える体罰は、いかなるケースでも認められない」とした。塾頭の考えは違う。肉体的苦痛ぐらいで自殺などはしない。人としての尊厳を奪われ人格を無視されて我慢のできる年代ではない。基本的人権を教師の立場にいる者から簡単に否定されたからだ。

 東京新聞の社説は、「旧日本軍をほうふつさせる」と書いているが、その12文字だけで、とりたてて掘り下げているわけではない。塾頭はもっぱらこの面から警鐘を打ち鳴らしたい。戦争も軍も遠い歴史になった現在、共感が得られなくとも知識だけは持ってほしい。

 「面目」とか「面子」という言葉があるように、顔面は人にとってもっとも大切で真っ先に守るのが本能だ。そこを無防備にさらさせておき平手で張るというのは、相手に屈辱と無力感を与えることを目的としている。帝国陸海軍仕様の軍人に洗脳するための伝統的教育法だ。

 横隊に並ばせ、「○○一歩前へ」、「足を開け」、「顔を前に」、「歯を食いしばれ」と号令し、横っ面を張る。右手と左手交互に両面を張るのを往復ビンタという。原因は何でもいい。軍隊では衣服、軍装など決まった数の支給品があり、それを員数という。

 それを上官がこっそり隠しておき、員数点検をさせて足りないなどの言がかりをつけるとか、単に大学出で気に入らないというだけでもいじめの口実になる。「畏れ多くも天皇陛下からおさげわたしの品物を紛失するとは……」でビンタ。

 一兵卒も天皇の赤子(せきし)だからビンタを張るのは畏れ多い事だが「上官の命令は陛下の命令と心得よ」ということで、ビンタのあとには「有難うございました」と張られた方が礼を言う仕来たりだ。上官にとってはリクリエーションで快感があるのかも知れないが、これが許されるのは、人格を奪い去ることを目的としているからだ。

 人殺しが商売の兵隊に、人格とか意見とか同情心などがそれぞれにあってはならない。絶対服従の特異な世界だ。日本軍はこの特異な世界にいない世間一般を「地方人」といった。つまり、軍人になったら地方人としての人格、しきたり、常識は一切捨て去ることから始めなければならないのだ。

 「地方人」と言ったのは、天皇に召されてきた軍人こそ「本流・中央」であるという意識からきているのであろう。大阪の事件について他校の監督は、「王国のようなものをきずいていたのではないか」と言っている(「毎日」1/13」)。父兄などの部外者は、監督から見ると地方人扱いなのだろう。

 地方人とは言葉からして異なった。沢山あるが塾頭が経験したひとつの例をあげておこう。塾頭は中学生の時都会から地方の学校へ転校した。間もなく、地元の聯隊からの監察があり高級将校がやってきた。全校生を整列させ、その間を豹のような目で生徒の一人一人を見て回った。

 顔色や服装などで転校生だとすぐわかる塾頭の前でやはり足が止まった。なにか忘れたが質問を受けた。「はい、僕は……」に、「ナニィーッ?」「ボクゥ~……だと」「自分と言え、自分と」。ビンタは食らわなかったが、これが軍隊用語だ。

 余談ながら「自分」とは、もともと教育県で高級軍人を多く輩出した長野県のローカル用語だということを聞いた。いまでも体育会系では男女ともに「自分」が多用されているようだ。軍人でないから「本官」ではなく、「拙者」では女性に向かない。

 他の先進国では「ビンタ」などの風習があるのだろうか。あまり聞いたことがない。韓国では軍隊で横行しており、これか原因の自殺者も少なくないと聞く。これが日本からの輸出であれば自慢できたことでない。そして、戦後10年はこんな体罰は封印されていたように思うが、いつ頃から復活したのか。教育に熱心なはずの市長をいただく大阪市が、なぜなぜこのような舞台になったのか。

 塾頭が気になっていたのは、最近のNHK朝ドラをはじめ、女性にビンタを張るようなシーンがふえてきたことだ。見るに堪えないが、ジェンダーフリーのおばさんたちはどこへ行っちゃったんだろう。平等だから結構、なのだろうか。ビンタに対する不感症を促進することにもなりかねない。

 ビンタ容認を続ける国は決して「美しい国」ではない。海外からは戦中の奇習を温存す特異な国にうつるだろう。犠牲者の冥福とともに、一刻も早い「脱ビンタ」「ビンタ・ゼロ」の社会になるよう祈って、この稿をおしまいにする。

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2013年1月11日 (金)

中国の新聞スト

 広東省の地元紙、「南方週末」の言論弾圧事件がいろいろ報道されている。憲法に規定された人身の自由など人権問題を掲げた論説で、タイトルは「中国の夢、憲政の夢」という、穏健だがやや皮肉を込めた意図が広東省共産党宣伝部長の逆鱗に触れたのだろう。

 記事は強引に差し替えさせられた。これを暴挙と見なした記者たちは、ストで答えた。北京の「炎黄春秋」という雑誌でも、同様な言論干渉が問題になった。党は、事件の拡大を抑えるため地元の党委員会書記(地元・トップ)などが宣伝部長更迭を含む大幅な妥協案を示し、沈静化に成功したようだ。

 この件は、日本の各紙に経過が報じられているが、上述の党幹部の実名や政治的内情など、中国報道にしては克明な描き方になっている。毎日新聞の10日付コラム「木語」(金子秀敏専門編集委員)では、次のように踏み込んだ。 

香港メディアは、言論弾圧の黒幕は党中央にいると書いている。政治局常務委員の一人で、党中央書記局を握る劉雲山(りゅううんざん)・常務書記(副総書記に相当)のことだろう。前は中央宣伝部長だった。党宣伝部は言論や思想の統制が仕事だ。

 情報の隠匿や操作に限界が生じつつある中国の実態がうかがえるが、金子編集委員は党内権力闘争の一環ととらえている。さて、日本ではどうか。大手中央紙のなかに、自己規制、内部検閲が働いていないと言い切れるかどうか。「中国より閉鎖的」とならないよう願いたいものだ。

 次の年表(『20世紀年表』小学館より)は、新聞記者の戦後の意気込みを示すもので、この傾向はほぼ1年近く続いた。「反GHQ」ではないことをお断りしておく。参考までに。

・1945年9月10日 GHQ、「言論及び新聞の自由に関する覚書」公布、占領軍などに関し報道制限。
・10月9日 GHQ、東京の5大新聞の事前検閲開始。
・10月23日 読売新聞社従業員大会、社内の戦争責任者の退陣と社内民主化を決議して争議(第一次読売争議。生産管理戦術採用)。

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2013年1月 9日 (水)

錯覚

クレーンの先端から人がのぞいている?!。

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アップしてみると??。

Dscf3747

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2013年1月 8日 (火)

粗雑な安倍流集団的自衛権

■相変わらずの「戦う政治家」
 安倍首相は、集団的自衛権の行使を禁じた憲法解釈の見直しへ遂に動き出した。有識者懇談会を復活させ(前回の座長は柳井俊二元駐米大使)を設け諮問するという形をとるが、事実上は官邸が主導する”はくづけ”が目的だろう。

 憲法改正は、長期目標として参院選まで音なしの構えで攻勢を避ける。ただし集団的自衛権の方は改選されて衆院議員の78%が法解釈変更を是としている。安倍はこれを先行させ、いずれ憲法改正は避けられないという空気を作り上げるか、改正をしなくても事実上支障をきたさない、という状況に持っていく危険性がある。この方がはるかに戦争を近づけることになりかねない。

 これまでの安倍首相の発言を聞いていると、過去の発言とさして変わっていないので、もう一度6年前に買った本『美しい国へ』を引っ張りだしてみた。この時、すでに第一次の首相に就任していたので、一介の政治家の無責任発言とはいえない。

 そこで改めて彼の軽薄さと危険性を再認識することになってしまった。この6年間で、アメリカを中国を含め世界は大きくかわっている。しかし彼の信念・主張はなんら変化・成長を遂げていないようだ。

 同書冒頭に、”わたしは、つねに「闘う政治家」でありたい”といつている。「闘う」の意味は初心を忘れず前向きに、といった意味かと思ったが、ちょっと違う。その動機を次のように書いている。

 一九三九年、ヒトラーとの宥和を進めるチェンバレン首相に対し、野党を代表して質問に立ったアーサー・グリンウッド議員は、首相の答弁にたじろぐことがあった。このとき、与党の保守党席から「アーサー、スピーク・フォー・イングランド(英国のために語れ)」と声が飛んだ。グリンウッドはその声に勇気づけられて、対独開戦を政府に迫る歴史的な名演説を行ったという。

 彼はこれに感銘をうけたわけだが、「フォー・イングランド」を「国民の声」に置き換えている。そうではなく日本の戦中の「お国のために」と同義で、イコール民意ととるのは彼特有の単純さだろう。「闘う」は「戦う」の間違いではないかとさえ思えるのだ。

 本文では、いわゆる「リベラル」を攻撃し「ネオコン」を礼賛する記述がいたるところに出てきて、右翼政治家であることを自ら宣告しているが、同時に「価値観を共にする」というアメリカ中心の発想の持ち主であることも鮮明にしている。中国やイスラム教国家は価値観が違うといっているのだ。

■アメリカ戦闘機が飛ぶ理由
 冒頭に書いた「集団的自衛権」にかかわる項目をを見てみよう。

 (前略)しかしわが国の自衛隊は、専守防衛を基本にしている。したがって、たとえば他国から日本に対してミサイルが一発打ち込まれたとき、二発目の飛来を避ける、あるいは阻止するためには、日本でなく、米国の戦闘機がそのミサイル基地を攻撃することになる。いいかえればそれは、米国の若者が、日本を守るために命をかけるということになのである。

 ずいぶん短絡した書き方だ。他国はなんの警告もなく外交手段も講じず突然ミサイルを撃ち込んでくるわけがない。もしあったとすれば間違いによる暴発である。それを確かめずにアメリカの戦闘機が命がけで「ミサイル基地を攻撃することになる」だろうか。

 それに、本気で戦争を仕掛けるなら、一発目、二発目などと悠長な攻撃はしてこない。ミサイル防衛システムを無効化するため、広範囲の多数のミサイル発射基地から同時に、あるいは時間差をもって発射してくる。いかに米軍が援護するといっても防ぎきれないのが真相だろう。

 上述の戦闘機は、一体どこから飛び立つのだろうか。沖縄の米軍基地か洋上の航空母艦からか。それも、日本から依頼されてやるのか、米軍が勝手にやるのか。さらに一発目が在日米軍基地を狙ったものか、それ以外の都市部を対象にしているのかでも違ってくる。

 日本の要請により安保条約に基づいて飛び立つのであれば、基地提供が憲法違反になる可能性もあり、当然事前協議の対象になる。また、その基地は敵の攻撃目標となり、周辺部の住民はは戦火に巻き込まれる。アメリカは在日米軍および在日米国人を守るために基地を置いており、日本人を助けるためではないという建前だ。

 飛び立つ戦闘機が、在日米軍基地と関係のない航空母艦からならば、アメリカは勝手な行動ができる。しかし、そのような回りくどいことをするはずがない。第一、撃墜される恐れのある戦闘機に人をのせて攻撃するはずがない。ミサイルかか無人機などを使って人命を損ねないようにするのが昨今の常識で、アメリカの売り物だった海兵隊でさえ今や縮小の対象になっている。以下そのことにふれている。

 だが、条約にそう規定されているからといって、わたしたちは、自動的に、そうするものだ、そうなるのだ、と構えてはならない。なぜなら命をかける兵士、兵士の家族、兵士を送り出すアメリカ国民が、なによりそのことに納得していなければならないからだ。そのためには、両国間に信頼関係が構築されていなければならない。

■血で求める「盟友」
 ここでいう「信頼関係」とは何をさすのだろう。個人的信頼関係、たとえ夫婦間であってもちょっとした利害や誤解で破たんすることは珍しくない。まして国家間であれば時代や人その他の環境により、絶え間なく変化するのが当たり前だ。

 さらに彼は、日米関係の「双務性」をあげるのだが、前述の戦闘機発進と同様あり得ないような事例を掲げて「集団的自衛権」を人道問題にすり替え、自説の正当性を高めようとする。しかし、これが仮定に仮定を重ねた、ためにする詭弁であることに大抵の人は気がつくはずだ。以下がそれである。

 たとえば、日本の周辺国有事のさいに出動した米軍の兵士が、公海上で遭難し、自衛隊がかれらの救助にあたっていとき、敵から攻撃を受けたら、自衛隊はその場から立ち去らなければならないのである。たとえその米兵が邦人救助の救助の任務にあたっていたとしても、である。

 これができたからといってアメリカ人が信頼をよせ、納得するはずがない。双務性は平等に、ということである。9.11でアメリカが攻撃を受けた。だから、タリバンやアルカイダと戦いイラクにも自衛隊を出しなさい。そして、米兵の犠牲をすこしでも肩代わりし、思いやり予算しいう形で米軍事費用分担に協力しなさい、という要求に応じることが「双務性」であるはずだ。これは法解釈を変えるための、明らかにごまかしのテクニックである。

■国連憲章のいいとこどり 
 安倍は国連憲章51条に、個別的自衛権にならび集団的自衛権が記載されていることを取り上げ、この双方とも「自然権」であるとの自説を展開する。しかし、日米安保条約のような2国間条約に「集団的自衛権」があり、しかも個別の自衛権と合せて「自然権」であるなどとはどこにも書いてない。

 「世界でそのように理解されている」というのは確かで、アメリカのベトナム戦争やソ連のアフガン侵攻がそのような理解のもとで強行されてからだ。つまりその発想は、米ソの冷戦時代の落とし子と言っていい。当塾では「集団的自衛権は過去のもの」で一度これをとりあげた。
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-bf14.html

 道で突然暴徒から殴りかかられたら、腕をあげてこれを防ぐのは誰もが持つ自然の権利だ。さらに逆をとって抑え込み、警察に引き渡すのも正当防衛の範囲で暴行ではない。国にもそれをなぞらえて自衛権という不文律ができた。

 そこへ被害者の仲間がやってきて加害者を殴りつけようなやりかたは、果たして自然権と言えるだろうか。自衛権は、当然存在する権利として憲章の原案にはなかったものだ。それへアメリカが当時結成したばかりの「米州機構」が小国の権利を拒否権で奪われることのないよう、追加させたのが「集団的自衛権」だ。

 この点に限り安倍は国連憲章の条文を高く買っているが、国連憲章ができて間もなくその意を受けついでできた日本国憲法については、次のようにくさしている。この屈折した心理は、他の右翼にも共通するものだといえよう。

 前文にちりばめられた「崇高な理想」や「恒久の平和」という言葉には、アメリカがもつ自らの理想主義を日本で実現してみせようとする強い意志がかいま見える。この憲法草案は、ニューディーラーと呼ばれた進歩的な若手のGHQ(連合軍総司令部)スタッフによって、十日間そこそこという短期間で書き上げられたものだった。

 アメリカのオバマ大統領は、退任するパネッタ国防長官の後任に野党・共和党のチャック・ヘーゲル元上院議員を指名した。ヘーゲルは、ブッシュ前政権時代には民主党議員と共にイラク戦争を批判したことで知られる。核兵器廃絶への現実的道筋を追求する民間活動団体(NGO)「グローバル・ゼロ」でも活動してきた。

 こういったアメリカの変化にどう対応するのか、またついていけるのか。日本の首相を信じたいが「日米同盟の深化」と「価値観外交」から新基軸を生み出すことは、彼にとって「かなり無理な注文」というのが塾頭の実感である。

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2013年1月 6日 (日)

原発事故避難者を震災被災者でくくるな

 どーもおかしいな、と思うことは放っておけないから書いておく。この前の選挙でどの候補者も政党も異口同音に公約に入れたのが、「東日本大震災の復興」であり「被災者の救援促進」である。

 救援とか助成、あるいは「絆」などの言葉は、民間のボランティアやNGOがいうのはいいが、福島原発事故で居住地に戻れない人11万人をどうして「大震災の被災者」にしてしまうのだろう。この人たちは地震や津波の自然災害で家に帰れないのではない。

 家や田畑はそのままであっても原発事故による放射能汚染のため避難させられたのだ。この人たちが置かれている状況は、日本国憲法が保障する国民の権利を不法行為により何重にも侵されている。

 国や自治体から助けてもらういわれは全くない。一方、加害者である国・与党による謝罪も聞いたことがない。これだけ法律違反があれば、当然の権利として補償金・罰金・慰謝料の請求ができる。ふたたびいうが「東日本大震災の被災者」とは全く別で、助成を受けて感謝するのではなく、権利として加害者たる政府・原子力村構成者を相手取って訴訟を起こしてもいい案件のはずだ。

 裁判では時間がかかるから、より迅速な措置を取ることが必要だが、福島原発事故を東日本大震災でくくって、自然災害のような言い方をするのは即刻止めにしてほしい。

【憲法の条文】
第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 ② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。

第29条 財産権は、これを侵してはならない。

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2013年1月 4日 (金)

日・中・韓の劣情

■「歴史問題」は虚構 
 正月三が日にたまたま見ていたTV番組で、外交問題をテーマにした座談会をしていた。メンバーは、日頃あまり目にしたことのない新鋭の学者や中国進出のスーパーを展開する会社の社長などで、昨年起きた中・韓との間の深い溝が将来どうなるか、などを話していた。

 一人だけ見たことのある顔が小泉総理時代に外交顧問をしていた岡本行夫である。前半を聞いていないが、結論は経済重視の「戦略的互恵関係」という紋切り型の官僚発想を繰り返すだけで陳腐なものだった。

 それ以外は、中国など近隣各国への観察は上っ面だけでなく、踏み込んだ研究も積んでいるように見えた。そして「昨年起きた摩擦は決して各国民の一般的感情ではなく、草の根外交推進で問題解決ができる」という結論が多かった。

 塾頭はそれに反対するものではないが、すこし甘いのではないかという気がした。お屠蘇気分が抜けきらないので、やや極論におよぶかもかもしれないがそこはお許し願いたい。まず最初に直言したいのは、中・韓それに日本国内でもいわれる「歴史問題(歴史認識)」、これは既に存在しない虚構であるということである。

 政治や感情を抜きにした「科学としての歴史」には、学者・研究者の間にそう大きな差はない。情報が氾濫する時代を迎えて、異論・異説を発信する空間も多くなった。もちろん政治などによる誘導・歪曲は今後も続くだろうが以前のような猛威は振るえなくなっている。

 日本側で問題視されるのは、靖国史観、皇国史観などによる歴史修正主義的傾向である。つまりかつて「新しい教科書をつくる会」が起こそうとした戦前回帰路線は、安倍総理の「美しい国」路線にそのDNAを残すものの、海外からも「右傾化」と警戒されるようになっており、主流から外れたと見ていい。

 中・韓と日本を比べた場合、学校教育を別として、近現代史にの研究は学問の自由が進んでいる日本が最も活発で、中国では共産党結党以前、韓国では李朝末期から朝鮮戦争に至るまでの研究が遅れているのではないかと想像する。これは、日本の「自虐史観」批判同様、自国の恥部にふれたがらないナショナリズムの所産だろう。

■成熟していない「国民国家」
 「国民国家」という西洋史流の概念が正しいかどうかは別として、中・韓ともにそれが実現したのはつい最近のことと言っていい。中には共産党一党支配の中国は「国民国家」ではないとする人もいるが、資格制度があるわけでなし、そこまでいう必要はない。

 両国とも、明治時代すでに条約を交わしているので「国民国家並み」に両国と対応していたと考えてもいいはずだ。しかし王朝が支配し宮廷が政治を行っていたので、「国家」としての権限、例えば国民の保護、経済権益、外交や国際法への理解などが欠如していたのはやむを得ない。

 それが、釣魚島は明の時代に発見・命名したもので、列強が作った「先占の公理」などは認めない、という尖閣への中国の主張や、従軍慰安婦問題を個別の問題ではなく国家として謝罪しろ、などという、ちょっと筋の合わない、すなわち同じ土俵に上がれないようなことで問題になっているのだ。

 これは、善隣関係を望むものとしてまことに不幸なことである。その最初の過ちは福沢諭吉が創刊した「時事新報」の1933年の社説が侵している。社説の要旨は、日本は西欧文明を受け入れ、そこに発展の糸口を開いた。しかるに清国・朝鮮はこれを排し異端視する近隣の悪友である。日本は悪友とつきあう必要はない、といういわゆる「脱亜論」を説き、両国を遂に悪友にしてしまったのである。

■不幸な「劣情」支配
 「脱亜論」は同時に両国民に対する「蔑視」と差別の始まりでもあろう。塾頭は「歴史問題」などという、なにか学際的な美辞麗句ではなく、根源は「蔑視」」「ねたみ」「おごり」と言った感情、いわば「劣情」に源を発すると見る。

 蔑視は、石原慎太郎の「支那」発言にまで連綿と受け継がれる。塾頭も石原と同年代なので「支那」という言葉に郷愁を感じる。屋台の支那そば、紙のようにうすく切ったナルト、シナチク、立ち上がる湯気とかおりは「支那そば」のそれであって、「中華そば」でも「ラーメン」でもない。

 李香蘭の歌う名曲「支那の夜」は一世を風靡した。♪支那の夜シ~ナの夜よ~、を「中国」におきかえたらまるで様にならない。しかし、石原のように他人が嫌がることをわざわざ言い放つのは、「お前のかあさん、出べそ」という幼児性まるだしだ。「倭」は嫌だから「日本」と言ってくれ、という頼みに快く応じた唐の皇帝とは比べられない。

 「ねたみ」は、古代中国・朝鮮からあらゆる文化、文字、文化、技術、仏教などをを受け入れ、2000年近くにわたりその下流に位置した日本が、近代になって突如先進国の仲間入りを果し、そこから逆輸入せざるを得なくなったことへの「ねたみ」である。

 この心の傷は、想像以上のものがあったに違いない。最後の「おごり」は、日本で脱亜論以降、日露戦争勝利につながり、八紘一宇の皇国史観につながり、世界第2の経済大国につながる。また、中国・韓国の目覚ましい急成長・国力伸長にもその兆しなしとはいえないようだ。その裏返しとしていちいち例はあげないが双方に存在する「卑屈」もあげておこう。

■「反日」という道具
 もうひとつ付け加えておきたい。それは、中国と北朝鮮にとって「反日」が建国のルーツになっていることである。北朝鮮は、建国の父・金日成が抗日パルチザン出身という「建国神話」になっていること、中国は毛沢東が蒋介石との内戦で不利になった際、「反日」が巧妙に利用されたといううことである。

 毛沢東の戦術は、農民に土地を与え、さらにそれを増やすため地主階級からの収用を目的に農民を組織し都会を包囲することであった。そして当面の敵は蒋介石率いる政府軍である。一時は追い詰められて苦境に立った。農民兵だけでは戦力としての限界があり、若いエリートの集団を味方として集めなければならない。そこで発案されたのが「反日」スローガンの利用であった。

 その伝統が、目的が異なっていても現在の党運営に生かされていないとは言い切れないのである。したがってこのような道具は、党大改革が進むか党独裁が崩壊するまで繰り返し使われる可能性がある。現在の党組織の存在を中国民衆が望むかそうでないか今後のカギとなるだろう。

 それまで「劣情」に含めると、EU各国のトップは、そういった「劣情」が存在することは承知していても、それを克服しようという半世紀以上にわたる努力を重ねてきた点に大きな違いがある。昨年のノーベル平和賞受賞はこれを評価したものだが、東アジア各国における認知度は極めて低い。

 日・中・韓がきしみ続けているのはこれらの「劣情」を放置するばかりか、各国政治家の中には増長に手を貸して者さえいる有様だ。実はこの点が東アジア和平の最大の障壁になってであると言えるのではないか。

付記

 当塾では前身に当たる「反戦老年委員会」を復刻、掲載していますが、2006年5月に同じような視点で「蔑視の危険性」を書いています。7年以上前から1歩も前進もしていないどころか、最近は国政の頂点に立つ政治家までそういった風潮に染まっているようで「慨嘆」の極みです。

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/index.html

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2013年1月 1日 (火)

反戦塾乗・2013/1/1

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日頃アクセスを賜る諸兄姉に新年のご挨拶を申し上げます。

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