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2012年9月 9日 (日)

越後に前期古墳

本エントリーは、発表ニュースに重大錯誤があったため、全文削除扱いにします。詳細については、以下をご参照ください。

 http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-4d66.html

 低次元の政局話に覆われてつくされているニュースの中で、塾頭が心はずますフレッシュ・ニュースが飛び込んできた。

 新潟県胎内(たいない)市にある「城(じょう)の山古墳」(4世紀前半)から、長大な舟形木棺や矢を入れる靫(ゆぎ)、刀剣、銅鏡などが未盗掘の状態で出土し同市教委が6日、発表した。北部日本海側では例のない、ヤマト政権期の畿内的要素を持っており、市教委は「初期ヤマト政権と同盟関係にあった王の墓」とみている。(産経新聞2012.9.6)

 ヤマトトトビモモソヒメ→卑弥呼?→ヤマト政権→大彦命→四道将軍→北陸・東海・会津地方に版図拡大……。これは、戦後古代史で「記紀による大和政権の勢力範囲誇大記述」というのが定説になっていた。

 前述の古墳は、そのほぼ一世紀前後あとのものとみられ、能登以北の日本海側にはなかったものだ。この時期は「なぞの4世紀」と呼ばれる。記紀では日本武尊の武勇伝などが主で、そこから神功皇后→朝鮮遠征→難波王朝という過程が説話としてえがかれ、そのまま史実とは見なされていない空白期間である。

 ヤマトトトビモモソヒメで始まった大型前方後円墳をベースに、その墳形の伝播が大和政権の勢力範囲を示す指標となっている。この墓は長径41メートルの楕円形というが、円墳でも方墳てもない、前方後円の形がくずれた形とも言えなくない。

 注目されるのは、その大きさ、形ではなく、鏡・武器などのヤマト前期古墳の副葬品等の共通性で、直接交流があったとしか考えられないことである。塾頭は、自著の取材などで同地を2度ほど訪れたことがある。

 もっとも、塾頭の関心は当時の北蒲原郡黒川村の方で、隣接する中条町にある古墳は知らなかった。現在は双方合併して胎内市になったが、市のヘソのあたりに位置するので、今後脚光をあびることは間違いなさそうだ。

 黒川村は越後山脈を源流とする胎内川の扇状地にあり、中条町はその下流に接して日本海に面する。県内でも知名度は高くないが、中世には有力な荘園として栄え、江戸時代には黒川藩、廃藩置県直後は黒川県都でもあった。明治になってからは、日本における最初の原油採掘地として英人医師シンクルトンが竪井戸を掘ったことで、その記念館もある。

 やや横道にそれたが、ヤマトトトビモモソヒメと同時代人の将軍・大彦命も長い間架空の人物とされてきた。しかし記紀とは別に、埼玉古墳群から先祖の名前として鉄剣に金象嵌で彫られた名前が発見されたので、やや、実在人物に近づいてきたのだ。

 その大彦が、北陸道から越後・弥彦山、そしておそらく阿賀野川河口からさかのぼり会津若松に至り、そこで東海経由でやってきた息子の建沼河別命と会った、それでそこを相津という、と『古事記』が伝える。この方は一足早く、会津大塚山古墳など前期大型前方後円墳などの調査で、ヤマトや北陸との接点が見つかっていた。

 塾頭が注目するのは、ヤマト盆地にひときわ秀麗な山容を示す三輪山と、越後蒲原平野を見下ろすランドマーク弥彦山の類似性である。山全体が神体で岩舟・降臨伝説もありヤマト同様、饒速日尊が関連する。

 この山麓に越後一宮の弥彦神社があるが、祭神を天香山命(あめのかぐやまのみこと)とする。『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊と、天道日女命(あめのみちひめ-)との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)としている。

 また、大彦命を祭神とする説もあるが、越後平野を「まほろば」と見る位置づけに変わりはなさそうだ。しかし3世紀、4世紀の新潟から、会津・東北南部を結ぶ物的証拠は発見されていなかった。阿賀野川の北に位置する今回の発見は、ヤマト王朝の影響力が卑弥呼以後遠くなくこのラインまで達していたことの有力な証拠になるだろう。

 ネットで地図を拡大したら、さして広くない同古墳所在地の中に、伊夜日子(いやひこ=弥彦)神社と書いた鳥居マークがあった。調べてないが、どうしてその名の神社があるのか、興味は尽きない。

【追記】

14/11/12付の新聞夕刊によると、周辺部の追加発掘で前方後円墳が確定したようです。

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歴史」カテゴリの記事

コメント

 人文パイプぶろぐ
http://jinbunpaipu.blogspot.jp/search?updated-m
というブログに3世紀前半(230-250年)のスルガの王(女王?)の墓と目される高尾山古墳(旧称辻畑古墳)が発掘され7月22日にはシンポジウムまで持たれた記事が出ていますので是非ご覧ください。
 HNのほかに本名も記したのは,塾頭が指摘されている古墳の近くにも,この古墳の近くにも稲村氏がいるからで,弥勒魁は,
「先祖が呉越同舟の越から来て,日本に稲作技術を教えたので稲村と申します(我姓稲村 是因為我的祖先 従呉越同舟的越国 教稲作技術 来日本的)」
ということを,まじめに信じているからであります。
 稲村氏は,大国主族・賀茂族・葛城族のいずれかに属していたと思うのでありますが,この点につきましても識者のご教示を請います。

投稿: 弥勒魁(稲村隆弘) | 2012年9月12日 (水) 05時05分

コメントありがとうございました。
 早速、高尾山古墳のシンポジウム記事拝見しました。かつて埼玉古墳群見学などで親しくご指導いただいた大塚先生のお元気な姿を拝見し安心しました。記事内容ともども大きな拾い物をしたような気持ちです。

 邪馬台国や狗奴国、東海地方につてい本塾では下記の記事を書いています。あまり学術的ではありませんが……。
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9634.html
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9634.html

 新潟は中蒲原郡ですが、かつて稲村姓の知人がいました。また加茂という市もありますね。加茂出身で栢森(かやもり)という方を知っていますが、京都の賀屋氏とか朝鮮南部の伽耶韓国、秦氏などと関係があるかもしれません。雑学ですが。

 長江→呉越→米作伝来などは、
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-afed.html
で書いています。よろしければ御笑覧下さい。  塾頭

投稿: ましま | 2012年9月12日 (水) 10時34分

 ご指摘の部分,読ませて頂きました。
 弥勒魁の棲んでいる伊豆の国市大字「中」の守護神社は賀茂川神社と言います。「中」は「那珂」「那賀」などとも書かれるが全国いたるところにある地名です。辺境ではない,という意味でしょう。だから稲村氏は賀茂族に属していたと推察します。伊豆半島の南半分はかなり昔から賀茂郡ですし,賀茂川神社の分布は県西部にかなり濃いようです。
 稲村氏の分布で特徴的なことは,奄美群島の中の徳之島で,ここには伊豆にあるのと同じ天城岳(標高533m)が有って稲村氏が結構おられます。次は鹿児島県の右の半島大隅半島で,ここには伊豆の北半分の郡名であった田方(たがた)というところがあって,矢張り稲村氏が結構います。九州では,鹿児島,熊本,福岡の各県に,四国では徳島の南の阿南市に,山陰では島根・鳥取両県ともに,山陽では山口,広島,岡山県に,近畿では奈良,兵庫,大阪,京都の各府県に,中部では愛知,静岡,長野,石川,富山,新潟の各県に,関東では神奈川,東京,千葉,埼玉,群馬,栃木の各都県に,東北では福島,山形,宮城,岩手,青森の各県におられます。
 北海道にも結構おられますが,これは明らかに明治以降の移住,ということが分かっていますので除外します。稲作の遺跡が有るのに稲村氏がいないのは佐賀県だけで,これは大いなる謎です。
 賀茂族のマスコットは八咫烏という3本足の烏ですが,これは賀茂族が3本足の烏のように空を飛べた(3本目の足は方向舵の垂直尾翼)ことを意味しましょう。静岡県には三保の松原の羽衣の天女以外にも役小角(これも賀茂族)など空を飛ぶ話は多いです。駿河湾の魚のいる位置を空から海の色を見て突き止めるためであったでしょう。
 彼らのつくった国は663年の白村江の役で大打撃を蒙った倭国であった筈です。この役で水軍を率いて行って大敗した静岡市清水区の庵原氏は百済とか任那とか言われる付近にあった良質の鉄鉱石で,鉄の農具を作って全国の稲作地帯に供給する業者であったのでしょうが,その権益が唐と新羅の連合軍によって奪われようとしたため,慣れぬ水軍を率いて行って(誰も助けて呉れないので)敗けたのではないでしょうか。
 古事記にも日本書紀にも書いてない,この辺の真相を究めることが,新しい日本の創設にとってcritical issueだと思うのですが如何でしょう?

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月12日 (水) 14時32分

塾頭は、「な」とは「海」「河口」「魚」そういった海にかかわる古語だと思っていました。
古くは「奴(な)国」、そこにある港(博多港)は、娜(な)の大津、斉明天皇改め長津。茨城県には那珂湊、那珂川、中津、中川は全国的ですね。灘、浪速も「な」がつきます。
どこまで本当かわかりませんが……。

庵原氏はよく知りませんが、白村江は全国に派兵の割り当てがあったようです。鉄の獲得はわかりませんが百済の難民の中にいろいろな学者がいて、これがその後の律令完成に大いに役立ったようです。日本書紀のライターも2人ほどいるようです。

投稿: ましま | 2012年9月12日 (水) 20時54分

大彦命は第10代崇神天皇の叔父でしたよね。
長らく架空とされてきた人物が、考古学上の発見により実在が濃厚となってきたということは、神功皇后も神武天皇も実在したんではないですか?
記紀の信用性がいよいよ高くなってきたということ。いずれ欠史八代も含めて全天皇の実在が確認されるのではないですか?
不当に記紀を馬鹿にし古代の天皇を架空と決め付けてきた日本の歴史界の愚劣ぶりが明らかになってきたということです。
政治の世界でも歴史の世界でも、戦後左翼の全面的敗北が濃厚となってきました。

投稿: ミスター珍 | 2012年9月12日 (水) 22時46分

 地球上の気候は,今から2.7万年前から1.1万年前までは現在より平均気温が5℃高く人間は週3日狩猟採取に従事すればたらふく食料が得られ,あとの4日は縄文の火炎土器など作って優雅に暮らしていたらしい。それが徐々に寒冷化してきて,紀元1-3世紀には現在より平均気温が5℃低い状態になったそうです。
 人間が農耕を始めたり,宗教を発明したりしたのは,この寒冷化に対処するためであったようなのです。中国の越と言う国はお釈迦様在世中に歴史にその名が登場し始めます。仏教はカースト制度を否定していますから,インドにおられるはずも無く,東部のブラマプトラ河を遡って,ミャンマーの首都ヤンゴンを流れるチンドウィン河,ラオスの首都ビエンチャン,カンボジアの首都プノンペンを流れるメコン河,重慶・武漢・南京・上海を流れる長江の上流に出て,これらの河をくだりその下流地域に紀元前6世紀にはすでに原始仏教の布教が始まっていたと思われます。
 中国人は即物的ですから,儒教や道教は受け入れても仏教は本質的には受け入れられず,ためにBC473に戦国時代の呉を滅ぼした越の仏教徒は,BC334に楚との抗争が出来したのを機に国を挙げて海上にEXODUSし,南へ行った人々がベトナム(越南)を建国し北へ向かった人々が倭国をつくったのだ,と考えられます。これらの人びとは,稲作技術だけでなく製鉄・造船・航海・交易・土木・建築・都市工学の諸技術を原始仏教と修験道とともに持ち来たったでしょう。サンスクリット語も持ってきたフシがあります(伊豆の地名はサンスクリット語で読み解ける)。
 サンスクリット語でSurupaというのは,女性に対し,貴女の容姿はたとえ様も無く美しい(容貌甚可愛)と賛嘆する褒め言葉だそうです。この女性は誰か?木花咲耶姫(富士山)でしょう?当然のことながら。
 神功皇后から武烈天皇までは駿河王朝でしょう。継体天皇からが北陸王朝で,天智・天武天皇は親新羅政権のような気がします。
 238年に魏に遣使したのは駿河の女王息長足比賣(=神功皇后)だったのではないでしょうか?高尾山古墳に眠っておられる方ですよ。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月12日 (水) 23時06分

ミスター珍さま

記紀批判の大御所は、津田左右吉で戦中の人。戦後左翼ではありません。津田史学自体は功罪半ばすると思いますが、戦後左翼の欠点はそれに盲従して批判精神を失ったことと、明治新政府の富国強兵策=帝国主義的侵略指向と短絡した解釈しかしなかった点だと思います。

歴史を見たり語ったりする時は対立する考えを慎重かつ多角的に比較検討しなければなりません。それがない見本が中国共産党外交部のスポークスマンです。

投稿: ましま | 2012年9月13日 (木) 09時35分

弥勒魁 さま

いろいろな駿河史観(?)をありがとうございました。たくさんあるので整理がつきませんが、文献史学では、その史料がいつ、だれが、何の目的で書いたかがはっきりしないと評価されません。

またそれらを突き合わせるとき、時間と空間を無視した結論を出すことにも慎重であるべきです。天智・天武天皇は親新羅というのは、親百済の間違いではないでしょうか?。

投稿: ましま | 2012年9月13日 (木) 09時55分

 古田武彦「よみがえる卑弥呼」ミネルヴァ書房2011.09.30.刊行p.277
には,
 百済と同盟して唐・新羅連合軍と決戦した「倭国」が,近畿天皇家中心の存在ではなかったことが知られよう。
という記述が有ります。
 越から来た人が日本に稲作を伝えたのではないか,という話は
池橋 宏「稲作渡来民」講談社選書メチエ2008.04.10.刊行
に,また稲作と鉄の農具の関係は,
村上恭通「倭人と鉄の考古学」青木書店1998.09.25.刊行
に良く記述されています。
 余談ですが
小前 亮「世界史をつくった最強の300人」星海社新書2011.09.21.刊行
のp.94の天武天皇欄にも,天武天皇が親新羅だったことが明言されています。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月13日 (木) 11時32分

古田武彦の説は独特で塾頭とは違います。天武が新羅との和解に動いた可能性はありますが、天智まで入れる根拠はありません。

投稿: ましま | 2012年9月13日 (木) 12時35分

 もう1冊
矢澤高太郎「天皇陵の謎」文春新書C0221 2011.10.20.刊行
は如何でしょう?
 「万世一系」は明らかなウソです。
 どこで,どのように王朝が交代したか,を明らかにしないと日本史は科学にはなりません。
 科学的でない歴史は何の参考にもなりません。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月13日 (木) 13時14分

万世一系を証明すねことは非常に困難です。まして男系でというと、ありえないでしょう。皇室典範がなく、天智天皇が作ったとされる不改の常典もはっきりしたものではありません。そんな基準で皇位継承がされたわけではなさそうです。

神皇正統記を書いた北畠親房でさえ、それを認めています。

投稿: ましま | 2012年9月13日 (木) 19時07分

 国宝指定された日本平の久能山東照宮の下の海岸に安居(あご)という地区が有り,安居神社と言う神社が有りますが,ここの祭神は武烈天皇です。武烈天皇を祀った神社は恐らく此処にしかないでしょう?この神社からは晴れていれば右に御前崎,左に伊豆半島が観え,駿河湾が自分の家の池のように観える誠に雄大な景色です。家康が此処に葬れと言った理由は分かりますがそれより千年以上も前に此処に祀られている武烈天皇と言う方は,決して日本書紀に貶められているような方ではなく,むしろ科学的精神に溢れていた方だったのではないかと思うのですが。
 なお息長足比賣を祀った神社は,田方郡函南町肥田(ひた,梵語のhitaは,人のためをはかること,利他,という意味です)の延喜式神名帳記載の肥田神社,頼朝義経の対面石で名高い駿東郡清水町八幡の八幡神社,沼津市三津(梵語のmithasは秘密の隠れ場所)の三津シーパラダイスという水族館の対面にある気多神社,息子の応神天皇と一緒に祀られている伊豆の国市寺家の守山八幡宮と結構多数あります。
 また,彼女は伊豆の国市原木の東,長崎の南,韮山多田の西に昔あって,1180年旧暦8月17日夜,源頼朝が山木判官平兼隆を討つ軍勢を通らせた牛鍬(梵語Visuddah-Caksusは「智慧の眼が最高に明浄であること」という意味)という大村の生まれのようです。
 ここを以て,弥勒魁は神功皇后から武烈天皇までは駿河王朝,と推測します。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月14日 (金) 20時36分

 万世一系がなぜいけないか,というと,極端な人種差別だからです。
 ナチスの人種差別は弾劾する癖に,万世一系には固執する,というのは全く非科学的です。
 明治維新は1890年の教育勅語で,これに固執した時点で1945年の運命は定まったというべきでしょう。
 今もってこの理屈がわからない人がウヨウヨいるようですが。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月15日 (土) 13時51分

 仏教は,釈迦尊者と言う天才によって,インド人の民族宗教であるヒンズー教から,「人間は外界を観察し,考え,意識する心を正しく用い,自己や肉親や富や権力や名声や神などの移ろいゆくものに過度に執着しなければ,全ての苦難や煩悩から解放され得る」との達観を以て,民族を超越した世界的宗教に作り変えられたものである。
 民族宗教を,民族を越えた世界的宗教に変えた,と言う点では,550年後のキリストと同じですが,そういうことをされた民族の怒りは大変なものだったと思われますが。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月20日 (木) 04時17分

はは~ん――、弥勒魁というお名前はそこからきてるのですか。仏教に関してもことのほかお詳しいですね。たしかにヒンズー教はインドと周辺部にわずかしかない。

一旦仏教を追い出したものの、今チベット仏教亡命政府を受け入れているというのも、やはり親縁性があるのかも……。

民族を超えた宗教といえば、教義からするとイスラムがトップでしょうが、派閥争いでシーア、スンニが抗争してさらなる発展・深化が阻害されているし、キリスト教もアメリカ大統領選挙の裏で穏然とした政治力を発揮している。

仏教は、本来そうしたことから距離を置く存在だと思いますが……。

投稿: ましま | 2012年9月20日 (木) 07時27分

 御明察!
 弥勒魁は1960-1993年の間,電電公社→NTTで電気通信技術の研究に従事して,「コミュニケーションとは何ぞや」の究明をライフワークと考えています。1978年頃,「血液型人間学」等の著書をつぎつぎと発表しておられた東大電気1947年卒の能見正比古氏の本を読んで,儒教はA型の宗教,仏教はB型の宗教,一神教はO型の宗教,無神論と道教はAB型の宗教,という概念に思い当り,これらを統合した新たな人類を救うものとしての「応用神学」を発案しました。
 このアイデアを,戦後日本の電気通信技術の研究開発をリードされた故喜安善市博士に
弥勒魁 Ein Vorlaeufer des Maitreyas
のペンネームで書き送ったところ,Ein Vorlaeufer des Maitreyasでは生ぬるい,
Der erste Vorlaeufer des Maitreyas
にせよ,とのお言葉を頂戴し,有難くそうさせて頂いております。この「応用神学」につきましては本名で
稲村隆弘「応用神学」文芸社(東京都新宿区1-10-1 Tel 03-5369-3060(編集), 2299(販売))から2010.02.15.に刊行しておりますので,是非ご覧いただき,御講評賜れば幸甚に存じます。
 御存知の通り,弥勒菩薩は兜率天というところで修行しておられ,釈尊入滅後56億7800万年経つと地上に来臨して衆生を救済される未来佛ですが,そんなに長い事待てないよ,どうせ弥勒菩薩が来臨されても仰ることは,いま弥勒魁が言っていることの筈である,との大それた未来予測がこのハンドルネームの趣旨です。
 布袋様(Laughing Buddha)が地上に来臨された時の弥勒菩薩のお姿なのだそうですが,最近の弥勒魁の姿は布袋腹です。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月20日 (木) 08時16分

基督教はイエスという天才によって,神をエホバからLogos(理性とか論理)に置き換えることによって,ユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教から民族を超越した世界的宗教に作り変えられたものである。これはヨハネ伝福音書冒頭に明確に示されている。(稲村隆弘「応用神学」文芸社2010.02.15.刊p.30)
 科学はほとんどキリスト教国で発展してきたのは,ヨハネ伝福音書冒頭の所為ですかな?
 うちの先祖が,稲作・製鉄・造船技術を持って来たはずなのに,科学が無かったなんて口惜しくてならない。
 何処ぞにサンスクリット語で書かれた稲作・製鉄・造船の科学的な極意書でも見つからないですかね。
 サンスクリット語で書かれた般若心経は,案外,最新科学の極意書かも知れませんよ。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月22日 (土) 02時18分

「科学はほとんどキリスト教国で発展」なんですが、研究はしてませんが、狭義の科学技術ならルネッサンス、それも産業革命後と思えるのです。
神学、思想、天文、数理そういったものまで科学といえばまた別の考えも……。

投稿: ましま | 2012年9月22日 (土) 09時19分

 中村元編著「仏教語大辞典」東京書籍1981.05.20.刊行の
p.1028第4欄 那提(なだい,梵語nadi)
 川,河
p.278第4欄  空(くう)第1義梵語sunya
 膨れ上がって中が空ろなこと,インド数学ではゼロを意味する
p.279第2-3欄 空(くう)第8義梵語nabhas
 青空の空,青空の色

というような記述が有ります。
 灘というのは,単に川のことのようですね。
 難波の空は,当時(BC334)は青かったのですかねえ。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月24日 (月) 03時47分

弥勒魁 さま

 日本語は「ナ」でも「ツ」でも1音で川とか港をあらわすが、「日馬富士」、長いしこ名で可哀そうと思ってたら本名は「ダワーニャム・ビャンバドルジ」。

なぞ解き、続けて頑張ってください。

投稿: ましま | 2012年9月24日 (月) 11時20分

 源氏物語や論語と同じく,般若心経も英語で読んで弥勒魁は,その意味が分かりました(論理的に筋立てて書いてある内容が腑に落ちた,ということ)。
 具体的には,D. T. Suzuki(鈴木貞太郎大拙)" Manual of Zen Buddhism " Rider and Company 1950という本の,pp.26-30に注釈つきででているものです。ここに書いてあることを忠実に日本語に移した本は観たことがありませんので,その特色をかいつまんで説明します。
 1.般若心経のテクストには大本と小本が有る。大本は中国経由で日本へ伝わったのは小本。サンスクリット語の原本とチベット語訳には小本にない前書きと後書きがついていて,この経が語られた状況が説明されている。
 2.原本では3段階であった色と空の関係の説明が小本では2段階になっている。

 1.の状況説明ですが,これは王舎城近くの霊鷲山頂で仏教の心髄に関するシンポジウムが開催されたときに観自在菩薩によって語られた講演である訳です。司会は舎利弗が務め,釈尊は何千何万と言う聴衆に交じって瞑想にふけりながら聴いておられた訳です。講演の内容は小本に語られている通りです。講演後,聴いておられた釈尊は瞑想から覚められ,「やった!でかした!お若いの!その通りだ,その通り深遠な般若波羅密の行は実践されねばならない。君によってこのように説かれたことは衆生によって喜び実践されるであろう。」とベタ褒めされるのです。座長の舎利弗は勿論,釈尊を含む聴衆は皆実在の人物,然るに観自在菩薩のみは,架空の人物。
 さて,この仕掛けがお分かりですか?

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月26日 (水) 14時12分

日本人の読むお経は漢文です。したがって「空」も「色」も漢字からくみ取ろうとしている。さらに、いろいろ脚色があって鎌倉仏教になった。

現在の信心はほとんどこれで、原始仏教は聞かされても有り難くないでしょう。ただ、ダライ・ダマの説教の邦訳を見て、日本の大乗仏教と同じだな、と感じました。

投稿: ましま | 2012年9月26日 (水) 19時27分

 般若心経は,紀元150-250年頃,南インドのバラモンのカーストに生まれたNagarjuna(竜樹)という方の作のようです。ですから彼は釈尊より700年若い訳です。彼はあらゆる事物が空であり固定的な実体を有しない,という空観を,哲学的・理論的に基礎づけ,大乗仏教の思想を確固たるものにした第2仏陀と称される存在です。彼の代表的著作は「中論」と「般若経」ですが,いずれも長大なもので,手っ取り早くエッセンスを述べるために発案されたのが「般若心経」だと思われる訳です。彼も,現在,弥勒魁が感じているような高揚感を持ったに違いないのですが,矢張り箔付けのため,700年前の釈尊と舎利弗を必要とし,自分を本名で登場させるわけにも行かなかったので自分の考えを代弁する観自在菩薩を創り出した訳です。しかし,こういう形式をとったために,観自在菩薩は竜樹だけでなく,その後に現れて,その時代にふさわしい仏教の考え方を発案して説く全ての人間に観自在菩薩に成り得る余地を与えた,ということになった訳です。
 ですから弥勒魁は現代の観自在菩薩,と言ってもよろしいのですが,敢えて弥勒魁と言い「応用神学」と言っている訳です。
 弥勒魁の考えでは「般若心経」の眼目は「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」のところにあり,この部分は,観測器官は観測される対象と無関係ではない,波動を観測しようと思うから波動が観測でき,粒子を観測しようと思うから粒子が観測できる,という量子力学の観測問題のことを言っているのだ,と思います。つまり我々の宇宙空間内にあるものは全て,絶対的に存在するものではなく,互いにある関係を持って,相対的に存在したり生滅したりするしかないものなのだ,ということです。
 人間は頭の中にモデルが無いと宇宙空間内の事物が認識できない,ということも言っているのです。
 この考え方の上に立って,もう1度,万物や森羅万象を見直して御覧なさい。発見さるべきもの,発明さるべきものは,山ほどあることに気付かれる筈です。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月26日 (水) 20時20分

>互いにある関係を持って,相対的に存在したり……

ヘーゲルでしたっけ、仏教の相対性理論にヒントを求めたのは。それが更に唯物論に影響したとか。うろ覚えですが。

投稿: ましま | 2012年9月27日 (木) 11時16分

1932(124代昭和天皇の昭和7)年度ノーベル物理学賞を受賞したウェルナー・ハイゼンベルクの「不確定性原理(関係)」が有名ですが,これを1700年先んじて指摘している竜樹という方も驚くべき方ではあります。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月27日 (木) 14時51分

 「般若心経」の大本と小本ですが,サンスクリット語の原本(作者の竜樹はバラモンですから)とチベット語訳が前書きも後書きも付いている大本,中国経由で日本へ来たのが,両方とも省略した小本です。
 観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
は,座長の舎利子が,講演者の観自在菩薩を紹介する言葉,続く 舎利子 は,Thank you, Mr. Chairman Sariputra, Ladies and Gentlemen!という,紹介してくれた座長舎利子へのお礼と,聴衆に対する呼びかけの挨拶でしょう。
 続いて,本文の
 色不異空 空不異色 色則是空 空即是色 受想行識 亦復如是
が始まる訳ですが,サンスクリット語の原本には,強いて漢字で書けば,色性空 空性色 とでも書くしかないことが一番初めに書かれています。この3段階は全部違った格で書いてあるのですが,中国語には格変化がありませんので玄奘三蔵法師は,初段を省略されたらしいのです。それがそのまま日本へ来た。
 格変化も,単数複数も,男女中性も無く,母音の数も子音の数も少ない日本語では,科学は出来ない,と知るべきだと思います。
 かと言って,英語なんか嫌だ,と仰る方はサンスクリット語を始めませんか?

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月28日 (金) 06時09分

 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
の最後の意(梵語namas)と法(梵語dharma)は,それぞれ心の状態の測定器官と測定対象である訳で,コミュニケーションの基礎でもあれば,科学の始まりでもある訳です。
 マーク・ブキャナン「人は原子,世界は物理法則で動く」白揚社2009.06.20.刊行には,人間は自分で合理的に考えて判断するより,自分の周りの人間がどう考えて行動しているかの方を重んじる,という記述があります。科学的と思われるキリスト教世界の人間にして,こうなのです。山本七平の言う90日の民で,2300年の余,キャンペーン型農業に慣らされてきた日本人においておや。
 でも,矢張り,此処らで,こうなっているんだ,ということを認識しないといけないのではないか,と思うのですがね。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月28日 (金) 19時17分

 釈迦族が稲作民族であったことは,釈尊の御父上の浄飯(梵語Suddhodana)王というお名前から知れるのではないでしょうか。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 1日 (月) 08時11分

 伊豆の西海岸の地名を北から南へたどると面白いことがわかります。

  地名  対応梵語 その意味

志下(しげ)shugsgyur 執着
獅子浜(ししはま)sisira 清涼,涼しいこと,冷たいこと
口野(くちの)kutirthya 悪見,悪い考え
三津(みと)mithas 秘密の隠れ場所
長浜(ながはま)naga-bhavana 竜宮
木負(きしょう)ksetra 佛国土
久連(くずら)kudrusti 悪見,悪い考え
立保(たちぼ)tattva 真実,真理
足保(あしぼ)asippatravana 剣葉林(地獄の一種)
久料(くりょう)kriya 業(ごう),人間の活動
井田(いだ) idha この世,此岸
戸田(へた) hetha 悩み,悩ますこと

 弥勒魁が一番驚いているのは,「木負」が佛国土という意味であったことです。ここは伊豆半島が一番くびれた三津(秘密の隠れ場所)の一寸西で,駿河湾のかなたに富士山を見はるかし,後ろに陸地を背負っているので嵐の時にも強風からは護られているところで,船でやってきた人々にとっては「佛国土」というにふさわしいところです。
 しかるに平安時代,此処にあった郷(ごう)の名前は,棄妾郷(きしょうごう)。
 江戸時代の駿府(駿河の府中)が明治政府によって賤ヶ丘(卑賤の民が住む丘)と命名されたに等しい屈辱的な命名ですね。
 駿河王朝を打ち破った者どもは,その文化水準の高さが憎くてたまらなかったのですね。アテネを破ったスパルタの如くに。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 1日 (月) 14時53分

日本書紀に地名説話がたくさん出てきますが、それよりはもっともらしいですね。失礼……(*^-^)。

投稿: ましま | 2012年10月 1日 (月) 19時50分

 伊豆以外にもサンスクリット語由来と思われる地名は散見されます。

    地名  対応梵語  その意味

鎌倉(かまくら)kamaguna 妙欲(五官の欲望)
浅草(あさくさ)asaiksa 無学(有学の対,もはや学ぶべきものを残さぬ境地),聖者,佛

 お近くで,これは日本語離れしていると思われる地名が御座いましたら,お知らせくだされば調べてみます。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 2日 (火) 00時42分

越後の前期古墳のある「胎内」やうちの近所の「真間」はアイヌ語とされているが、どうかな?。

投稿: ましま | 2012年10月 2日 (火) 14時54分

 中村元編著「仏教語大辞典」東京書籍1981.05.20刊行によれば,
          見出し語         意味
mama
159頁4欄 我所(がしょ,我之所有の略) わがもの。わがもの,という観念。
891頁2欄 属(ぞく)          依属する(わがものである)。

tayin
385頁3欄 護世(ごせ)         救い主,救済者,仏のこと。
920頁2欄 大聖(だいしょう)      偉大な聖者,仏のこと,菩薩を指す場合もある。
1190頁1欄 佛(ぶつ)
1219頁1欄 保護(ほご)        救護してくれる人,如来の同義語。

だそうです。 

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 2日 (火) 17時27分

ありがとうございました。「まま」はアイヌ語の「崖」の意だとこのあたりでは広く信じられています。

投稿: ましま | 2012年10月 2日 (火) 19時42分

 新潟県にも静岡県にもある蒲原ですが,サンスクリット語のkammaraというのは,鍛冶工,金属工のことだそうです。件の仏教語大辞典のp.258-4からp.259-1にかけて,p.941-4,p.996-4などに出ています。
 鉄の農具を釈迦力で作る人々が大勢いたのでしょうね。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 2日 (火) 23時56分

 中村元編著「仏教語大辞典」東京書籍1981.05.20.刊行は,見出し語に漢字・漢語を用い,サンスクリット語・パーリ語をアルファベット表記しているという特色を持っています。これにより弥勒魁は今まで述べてきたような知識を得ることができたのです。
 塾頭の仰るように,我々の仏教に関する知識は漢字・漢語で獲得されたものである以上,見出し語に漢字・漢語を使うことは必須,しかし,これは梵語で言い表された意味を忠実に伝えているとは言えないので,梵語・パーリ語も必要なのだが,それぞれを固有の文字で書かれたのでは発音すらおぼつかない。発音には目下のところ不十分ながらアルファベットを使うしかない,というので,こういう編集・表記方針を取られたのだと思われますが,これが大成功だった訳ですね。
 表意文字としての漢字は,かなり優れているのですが,字体の統一,というのが大問題でして,秦の始皇帝の偉業にも関わらず,現在,簡体字・繁体字問題が持ち上がっています。日本で使っている字体は,このどちらでもないものがあり,世界的な標準化は絶対に必要なのですが,日本人が,これに乗り出してあげよう,という発想は,何処からも出てくる気配がありませんね。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 3日 (水) 05時43分

 連投失礼ながら,アイデアが次々と湧いて来て止まらない。よほど反戦塾の環境が良いようです。
 アテネが大国主族・賀茂族・葛城族なら,スパルタは天孫族でしょう。駿河王朝(倭国,倭の五王と言われている時代)は大国主族・賀茂族・葛城族の打ち立てた王朝だと思われます。
 講座日本の考古学8 古墳時代(下)青木書店2012.05.31.刊行という本をみたら,この時代王権は世襲ではなかったことを思わせる記述がありました。
 何処からが万世一系の天孫族になったのかは定かではないが,源氏も平家もそのことを知っていたのではないか?と思われるフシが有ります。
 だからこそ平清盛は,池の禅尼の命乞いがあったとは言え,後白河法皇との対抗上,源頼朝を殺さず伊豆に流したのではないでしょうか?
 駿河王朝の栄華を徹底的に破壊し尽くしたのが,1590(107代後陽成天皇の天正18)年の秀吉の小田原・韮山城攻めです。
 彼はそのわずか2年後に,朝鮮半島経由で明に攻め込もうと企てた訳です。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 3日 (水) 18時47分

 釈尊が属していたのは刹帝利(せっていり,梵語ksatriya)というインドにおけるバラモンに次ぐ第2の階級です。王族・武人の階級,すなわち世俗における支配階級であるそうです。
 これに対し700年後の竜樹が属していたのは紛うかたなきバラモン。若いころは,その特権を利用してとんでもなく悪いこともしたらしい。
 弥勒魁の先祖は維摩居士だと思っています。居士(梵語grha-pati)は家に居する士の意だそうです。インドでは商工業に従事していた富豪をいうそうです。バラモン教の四姓制度に当てはめると第3の階級としてのヴァイシャ(梵語vaisya)に相当するが,仏教が盛んであった時代の諸都市においては,むしろ資産者(居士)である者が1つの有力な階級と考えられていた,そうです。
 我が祖が中国の越にいた時代は竜樹より前ですから,大乗仏教なんか知るわけがない。稲作・製鉄・造船・航海・交易技術を未開の地に普及させることが即身成仏の道と信じる人々だったのでしょう。
 倭の5王(応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略)時代の王権が世襲でなかったらしいと聴かされても別に何の違和感も感じませんね。
 血筋なぞに関わらず,優れた能力を持つものが上に立たなければ良い国が出来るはずもありませんからね。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 8日 (月) 07時07分

 井上章一「日本に古代はあったのか」角川選書426 2008.07.10.刊行
の著者は宮崎市定の崇拝者ですが,宮崎の提唱したユーラシア大陸の東西での歴史区分を統一しようと言う見解に賛意を表し,倭の五王の時代は中世と呼ぶべきとしています。
 弥勒魁も歴史は地球気候の寒暖の産物,という観点からこれを支持します。世界史は,この観点から見直すことが,人類のこの地球上での生き残り策の立案のために是非必要ではないでしょうか?

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月15日 (月) 06時05分

 直前のコメントに関連して,鎌倉幕府は近世にいれるべき,だそうです。世界史的にはモンゴル勢力が拡大して,東は中国,西はポーランド・ハンガリーまで版図にいれた時代ですね。
 この時代,英国ではジョン王に対し議会がマグナカルタへの署名を強要した(1215年,王権を議会が制限した)ことが有名ですが,本邦では承久の変(1212年)における尼将軍北条政子の下知(地頭・御家人らにお前たち頼朝さまのご恩を忘れたか,と言って,天皇・上皇らを討たせた)がこれに相当するでしょう。
 つまり,洋の東西を問わず,王権が制限される時代となった,ということです。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月15日 (月) 10時04分

 地震の揺れは如何でしたか。被害軽微を祈っています。
 その余波でNHK教育TV12月8日00:00-01:20の「Eテレアーカイブズ イギリス・素晴らしき村」(2003年放送の再放送)を視た感想を1つ。小麦の生産とヒツジの牧畜で生きている農村の風景も生活も,ロンドンその他の都会から移り住んで来た人たちを含めて,11世紀から16世紀のままに保存し,活用して行こうという話で,15-19世紀に世界中の富を思う様かき集めたイギリスだからできること,と感嘆して視ていました。
 小麦の生産とヒツジの牧畜の生産性は,TPPに耐えるほど高くはない筈です。日本の水田稲作と裏作の麦の生産の生産性の方が,これを上回る筈です。
 我々の先祖が,関東平野や越後平野を干拓しつつ大規模水田稲作を広めていった時代の風景と生活(紀元前4世紀~16世紀)を保存することは,日本の気候風土では無理?でしょうか。イングランドの田園に勝るとも劣らないものができると思われますが。
 それを成し遂げるためには,iPS細胞クラスの発明を続々と体系的に行って,世界から富をかき集めないと駄目?ですか。
 ヒントを2つ。
1.通研後輩竹内郁雄氏の名言「編集無き情報は単なるゴミの山」で,情報の編集は人間にしかできない。
2.昭和天皇の名言「科学の不足で戦争に敗けた」にもかかわらず,日本人が科学を身に着けている度合いは欧米人やユダヤ人に及んでいない。科学はキリスト教と密接に関係する。仏教も見方によっては科学的だが,儒教や道教の現体制は科学とはなじまない。
 弥勒魁が発案した稲村隆弘「応用神学」文芸社2010.02.15.刊を勉強してみてくださいな。

投稿: 弥勒魁 | 2012年12月 8日 (土) 09時16分

地震は3.11ほどではないが、立ち上がって柱につかまるほどでした。

日本の牧歌的風景は、少なくても1940年代、昭和25年ころまでありましたよ。その原点にもどって貿易ではなく「食糧安保」のあり方を考え、議論すべきだと思います。

投稿: ましま | 2012年12月 8日 (土) 09時47分

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