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2012年8月 9日 (木)

徐福伝説の真偽

 古代史のヒロイン、卑弥呼のことは何度も本塾でとりあげた。その前の日中間の接触はどうなっているか。それも卑弥呼の魏志倭人伝と同様中国文献に頼るしかない。

・239年、女王卑弥呼が魏に遣使(魏志倭人伝)。
・107年、倭国王帥升等が後漢に遣使(後漢書)。
・57年、倭奴国王が後漢に遣使(後漢書)。
・紀元前後、楽浪海中に倭人あり、分かたれて百余国となる(前漢書)。

  その前にも、倭人朝貢などが古くは周のころからあったと記す書もある。しかし日本では縄文人が幅をきかせていた前9世紀前後に、外交接触があったなど考えられるわけがない。ずっとあとの時代の人が書いたものでとりあげる価値なしだ。

 しかし最近注目されだしたのが、秦の時代に方士・徐福(前210年)が東方蓬莱の島に渡ったとされる史記の記事である。日本では、徐福上陸地とされる伝説が20か所もあるのに、文献史学者や考古学者に無視され続けてきた。

 たしかに日本では伝説以外に何もなく、中国特有のほら話的な扱いをされてきた。ところが中国では徐福を歴史上の実在人物としており、最近は徐福の出身地が江蘇省連雲港市徐福村と特定されて、精力的な研究活動も進んでいているようだ。

 徐福の話はその後の史書でも反復引用されている。その要旨は「秦の始皇帝の時代の紀元前210年、童男女3000人、五穀の種や食料、それに多くの技術者を載せた船団が、東方蓬莱の島へ向けて出港した。不老不死の霊薬を求める皇帝の意を受けた徐福が指揮をとる。しかし、彼の船団は再び戻ることなく立派な土地を得て永住し、徐福は王となった」といったものである。

 その出港が事実かどうか。航海術にくわしい茂在寅男氏は、史記の筆者・司馬遷か生まれる70年前の出来事で、伝説化するほど遠い過去ではないとし、さらに、船団の規模はわからないが当時の船による渡航は不可能ではないと考えた。さらに途中で遭難する船もあっただろうし、海流や風で到来地をまとめることはできず20か所にのぼっても不思議はないとしている。

 日本の前3世紀は、弥生中期で吉野ケ里遺跡の存在する時代である。徐福らが目にしたのは、すでに同じ中国系の渡来者が先住していたこと、戦争はあるが中国のように馬車を使って大軍団を展開させるようなものではなく、せいぜいで部落同士の小競り合い程度だということだった。

 徐福らは、渡航目的が征服者になることではなく、長く住み続けるために住民との融和を第一とした。持ってきた種子や武器などは交易の材料として提供し地元に溶け込むことを心がけた。出自を聞かれれば「天(あめ)の高天原」などとごまかしていたに違いない。

 したがって、中国の金属利用技術や織物技術などは普及したが、中国語を定着させることはなかった。秦の始皇帝は残酷な暴君として有名だ。徐福らは、巧みに始皇帝を霊薬でだまして脱出に成功した難民である。秦帝国からの侵略者ではなかったのだ。

 問題は、行き先が果たして日本だったのかどうかである。『後漢書』では、倭の条の後ろにこの記事を載せ、倭の地と同じような位置づけをしている。しかしそのほかに証拠となるものは一切ない。同時代の遺跡発掘で漢字の記載がある土器でもでれば明瞭になるが、そんな証拠を残すようなこともしなかったのだろう。

 また、時代はくだるが『隋書』で使節の報告書に「又東して秦王国に至る。其の人、華夏に同じ」とある。日本の歴史家は、周防(すおう)を秦王と聞き違えたものなどと軽視するが、同地域にある土井ケ浜で渡来系人骨発見が発見されているという考古学上の成果も考慮すると、「根拠がない」と一蹴していいものかどうか判断に苦しむ。

 以上、塾頭の創作がほとんどだが、森浩一編『倭人伝を読む』中公新書、朝日新聞社編『古代史を語る』朝日選書などを参考にさせていただいた。

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コメント

時間軸と空間が桁違い。夢とロマンがてんこ盛りの記事ですね。
秦の始皇帝の時代の紀元前3世紀の徐福ですが、江蘇省から東方の蓬莱国に向かったのですから無事何処かに辿りついたとしたら、その場所は間違いなく琉球や九州など日本列島ですよ。
当時の航海術では風と潮流を利用するもので、それなら今問題になっている尖閣諸島を最初に発見したのは徐福の船団だった可能性が高い。
それなら中国領となるが、日本で王となった徐福の子孫が高天原族となり東征して熊野から大和の飛鳥に入り大王家(天皇家)になったとしたら尖閣は紀元前の大昔から日本のものであったとも考える事が出来て愉快ですね。

投稿: 宗純 | 2012年8月13日 (月) 16時02分

コメントありがとうございました。
始皇帝は気に入らない知識人を都ばらいし北辺に追放したという別の記録もあります。

徐福を「難民」と書きましたが、もっと積極的な集団亡命だったかもしれませんね。後進国に「亡命」というのも変ですが、自発的な「植民」とでも言いますか……。とにかく始皇帝からあとを追われないようにしたにちがいありません。

投稿: ましま | 2012年8月14日 (火) 07時04分

古事記や日本書紀に出てくる初期の天皇は百歳以上の長命だったとあるが、普通に考えれば平均的な在位の期間は一世代15年から20年程度でしょう。
これで換算すると徐福が東方の蓬莱へ出帆した時期と、記紀で初代天皇の神武が即位したのが同じ時期ですね。
何故日本の歴史家が徐福伝説を取り上げないかの謎ですが、徐福伝説の話と、記紀の記述とが妙に一致するのですね。
徐福の一族と大王家(天皇家)の先祖が何らかの血縁関係があるとの話は、やはり不味かったのでしょうか。

投稿: 宗純 | 2012年8月21日 (火) 12時56分

神武即位と徐福渡来が同時期とは、新発見ですね。上陸地として佐賀県の有明海側、玄界灘に面した長崎県松浦市などがありますが、弥生人骨の発見も佐賀を含む九州北西部、周防灘近辺などに多く、DNA鑑定では朝鮮半島の北方民族より山東半島で発見されるものと類似しているようです。

帰化系の秦氏や東漢氏など、箔づけで秦や漢の漢字を使ったのでしょうか。日本語では「はだ氏」であり「あずまのあや氏」といいますが。スケートの村主(すぐり)さんは朝鮮系だと思いますが。

日本の歴史学者はあるいは戦前から気づいていたのかもしれませんが、まちがっても口にできなかったのでしょう。

投稿: ましま | 2012年8月21日 (火) 13時36分

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