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2012年2月10日 (金)

卑弥呼史観 2

 ヤマトトビモモソ姫の重要な役目は、大和王朝の始祖・天照大神を祀ることである。この王朝は神武東征伝説により、九州から山陽・紀伊経由で大和に入り、地元勢力と戦って征服したことになっている。この際も、太陽神であるアマテラスの神威によるところが大きかった。

 この一族は、天神を祖とし高天原から九州・日向の高千穂の峰に日向に天下った天孫族であるとする。他の各地の神々は地祇と称し、ローカルの守り神に位置付けた。それはともかく、一族(神武)の東征は実際にあったことだと想像している。

 それは、九州に根拠があったため、倭国統一が対外交易にとって最重要課題であることとを知っていたからだ。銅・鉄・高級織物そういった先進文物・資源を得るためには、大陸との接触が必要で、接点となった九州北西部のバックに、大きな「倭国」という存在が必要だったのだ。

 日本(倭国)が中国の文献に現れ始めたのは前漢書・後漢書で、卑弥呼の時代より200年ほど前の57年には、「倭奴国王」に金印が授けられている。この金印は、福岡・志賀島で現物が発見されており、倭を代表するのが奴国・九州内部であったことは確実視される。

 その後の魏の時代は中国も安定を欠いており、「倭」を大きく見せることで魏の関心を引くことができた。魏志倭人伝が伝える卑弥呼の共立により、倭の大乱がおさまり、卑弥呼の遣使で大量の銅鏡などを獲得することが可能になった。

 さて、問題は邪馬台国が大和か九州かということになる。詳しくは専門書によってほしいが、①箸墓をはじめ、纏向近辺の出現期前方後円墳には、3世紀前半から中葉にかけてけ建造されたものがある、②卑弥呼遣使の頃の239年、240年に相当する魏の年号が入ったものを含む三角縁神獣鏡が、大和を中心に大量に発見される、③銅鏡の文化は、この頃すでに九州から大和に移転していた、④纏向の住居址などに、九州を含む山陽・山陰・北陸・東海など各地の土器などが発見され、都の存在を思わせる。など、最近は、考古学者は「邪馬台国大和説で決まり」とさえ言われるようになった。

 一方の卑弥呼=ヤマトトビモモソ姫説には、確証がひとつもない。魏志倭人伝のいう「径百歩余」の塚に葬ったというのは、箸墓の後円部に近い寸法だが実際はもっと大きい。その当時、径百歩もある墳丘はほかに発見できていない。

 ヤマトトビモモソ姫の墓をそのように大きく作る意味は、天孫族が倭を統一するシンボルとしてふさわしいという、国内向け国際向けのデモンストレーションだったのではなかろうか。もしそうだとすると、卑弥呼=ヤマトトビモモソ姫の信ぴょう性は高まってくる。

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