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2012年2月13日 (月)

卑弥呼史観・付録

 前回、このシリーズの最後として、卑弥呼に対抗した狗奴国は静岡方面で、この地域には、大和朝廷の勢力範囲を示すシンボルである前方後円墳が長い間作られなかった、と書いた。壱予(一説では倭姫命)出現で戦乱はおさまったことになっているが、その後を推察させる『日本書紀』景行紀の日本武尊(やまとたけるのみこと)東征記事を掲げておく(宇治谷孟『全現代語訳』講談社学術文庫)。

 冬十月二日、日本武尊は出発された。七日、寄り道をして、伊勢神宮を拝まれた。倭媛命にお別れのことばを述べ、「いま天皇の命を承って東国に行き、もろもろの叛く者を討つことになりました。それで御挨拶に参りました」といわれた。倭媛命は草薙剣をとって、日本武尊に授けて「よく気をつけ、決して油断しないように」といわれた。

 この年、日本武尊は、初めて駿河に行かれた。そこの賊が従ったように見せ、欺いて、「この野には大鹿が多く、その吐く息は朝霧のようで、足は若木のようです。おいでになって狩りをなさいませ」といった。日本武尊はその言葉を信じて、野に入り狩りをなされた。

 賊は皇子を殺そうという気があって、その野に火を放った。皇子は欺かれたと気づき、火打石をとり出し火をつけて、迎え火をつくり逃れることができた。――一説には皇子の差しておられる天叢雲剣が、自ら抜けだして皇子の傍の草をなぎ払い、これによって難を逃れられた。それでその剣を名づけて草薙というと――。

 皇子のいわれるのに、「ほとんど欺かれるところであった」と。ことごとくその賊共を焼き滅ぼした。だからそこを名づけて焼津という。

 今ある焼津市は、静岡市の南に位置する。日本武尊東征記事は、これを皮切りに関東から碓氷峠経由で信州に抜け帰路につく物語となっている。ただし、蝦夷帰順や神がかりした動物の話はあっても、焼津以外に戦闘に類した話はない。

 この前の崇神天皇の時代には、埼玉古墳群から発見された鉄剣に8代前の先祖の名として彫り込まれていたことから、実在した可能性のある人物として注目された大彦命(大毘古命)が、息子と東西ふたてに別れて会津まで行ったことになっている(古事記)。そしてこの地には複数の前期古墳も見られる。仮にそれらが史実であるとすれば、戦後過小評価された大和政権の勢力範囲や発生時期など、大幅に見直す必要がありそうだ。

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歴史」カテゴリの記事

コメント

私の住む千葉県にも袖ヶ浦というところがあって、なんでも海が荒れて日本武尊が遭難しかけたのでタケルの妃が入水したら海が静まった。翌朝土地の漁師がこんなもん上がってましたが、と日本武尊の本陣に届けたのは妃の衣の袖だった。だから袖ヶ浦という、というくだりを読んで、この時代すでにこんなところまで大和朝廷の勢力は及んでいたのかと驚いたことがあります。
同時に地名は実に古いものだと、過去の事績を反映したものだと、感心しまして安易にナントカ中央市とか~アルプス市とかふざけた名前をつけるのはいかんなと思いました。ついでに東武鉄道が新タワーの最寄駅の業平橋を改名するのもいかんなとも。

投稿: ミスター珍 | 2012年2月19日 (日) 11時41分

ミスター珍 さま

コメントありがとうございました。日本武尊の続きをもうすこし続けようかと思ってやめた部分なので助かりました。

業平橋は先月上京した人を案内し、馬道から業平橋で向島といったコースを考えました。あの辺りは何もないがさつな下町と思われがちですが、江戸名所図絵を見ると江戸の屋根瓦を作る工業地帯で神社仏閣や小金もちも多く、町を行く人も垢抜けしていたようです。

東武鉄道には人がいないんですね。売り込み方が下手です。都心へ帰る人には、京成の押上駅をお勧めしました。

投稿: ましま | 2012年2月19日 (日) 14時28分

 呉越同舟の越はBC473(第2代孝昭天皇3年)に越王勾践の命を受けた将軍范蠡が,絶世の美女西施を使い,色仕掛けで呉王夫差の首を斬らせて呉を滅ぼしたことになっています。戦国時代の呉の都は太湖のほとりの蘇州です。范蠡は,勾践から反逆の疑いをかけられるのを見越し,西施と手に手を取り合って太湖を渡り,内陸の何処かで商人になって大成功,幸福に暮らした,ということになっているようです。
 弥勒魁は,ここで2人は逆に海を渡って伊豆へ来たのではないかと思います。そして,日本は棲むには良いところになる可能性は有するが,南半分が海だった関東平野を干拓して大規模稲作を始めないといけない,とかの情報を越に送り続けていたのではないでしょうか。そのおかげで,越は楚との抗争が持ち上がった時,安心してEXODUSができたのではないでしょうか?
 秦の始皇帝(BC246-BC210,第7代孝霊天皇45年-第8代孝元天皇5年)に命ぜられて不老長寿の薬を探しに行って帰って来なかった徐福などより前の話なのですが。
 また,もし,そうでないとすると,児島孝徳はどうして「天,勾践を空しうするなかれ,時に范蠡無きにしもあらず」なんてことが言えたのでしょうか?

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月15日 (土) 03時57分

 直前のコメントで児島高徳の名前の字を間違いました。こちらが正しい。
 彼は,第96代後醍醐天皇(在位1318-1339)の元弘2(1332)年,最末期の鎌倉幕府により隠岐の島に幽閉されようとしていた天皇を奪い返そうとして果たさず,傍らの桜の木の皮を剥いで,この名文句を書きつけたと言われている人です。
 弥勒魁の疑問は,紀元前510(4代懿徳天皇元)年から紀元前334(6代孝安天皇59)年までしか歴史に登場しない越のことを,どうして日本人が知っているのか?ということです。
 越人が移住してきたからではないのですか?

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月15日 (土) 06時16分

弥勒魁 さま
壮大なコメントありがとうございました。

おきながたらしひめの神社は関西・九州にたくさんあるようですが、武烈天皇を祭神とする神社、珍しいですね。

呉越のことは、児島孝典でも『史記』や『孫氏』が読めたらわかったのではないですか。そんな書物は平安時代までに遣唐使が持ち帰っています。

投稿: ましま | 2012年9月15日 (土) 08時39分

 澤史生(さわ・ふみお)著「鎌倉歴史散歩」創元社1978.08.01刊行
という本には,頼朝出現前の伊豆では,山の民は春から秋まで狩猟採取農耕に従事,秋から春までは製鉄に従事,海の民は春から秋までは漁業と交易に従事,秋から春までは製鉄に従事し,農林水産資源を保全しつつ良質の鉄も得ていた,との記述があります。
 村上恭通「倭人と鉄の考古学」青木書店
という本には,砂鉄を集めてタタラで製鉄するようになったのは,どこからも良質の鉄鉱石が得られなくなった平安時代以降のことで,それ以前は鉄と言えば良質の鉄鉱石を船で運んできて鍛冶屋をやって得るだけのこと(舶載鉄器)だという記述が有ります。大井川の西の金谷は極めて良質の鉄器を産する有名な製鉄所だったようですが,伊豆の国市にも金谷という大字が有り,また製鉄の神様(金山彦命・金山姫命)を祀った神社は,県内到る所にあります。
 日本を豊芦原瑞穂の国に変えようとしていた人々にとっての大事業はやはり関東平野の干拓だったのではないでしょうか?
 越後平野も生産力は大きそうですが,積雪のことを考慮すると,関東平野には及ばないのと違いましょうか?
 関東平野の干拓は,1600年に家康が江戸入りした時にはまだ完成しておらず,彼の江戸入りの目的は,これの完成だったそうですね。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月17日 (月) 02時59分

 源頼朝が富士川の合戦で平家を破り,何処かへ幕府を構えさせねばならなくなったとき,伊東・三浦・千葉などの豪族たちは寸土も頼朝のために領地を割譲しようとはせず,寒漁村であって,「此処なら頼朝に呉れてやっても誰からも文句が出ないわ」とされた鎌倉に,新都を築いたのは,伊豆の海山の民であったそうです。
 うちの先祖はヒョットしてその取り纏めをし,ゼネコン稲村組が築いた新都防護壁だから「稲村ヶ崎」というのかな?
 この防護壁を新田義貞が剣を投じて潮をひかせることにより迂回して鎌倉に侵入して鎌倉幕府を終わらせ,足利尊氏が室町幕府を樹立するキッカケをつくりましたが,足利尊氏は栃木県足利市の出身なのに,京都室町に幕府を構えたのですから,その間を毎日のように莫大な物資を輸送していたと想像できます。ルートは渡良瀬川から利根川・古利根川・江戸川と通って江戸湾へ出て,太平洋岸を淀川に至り,淀川・堀川を遡って室町に至るコースと想定され,沿岸各市町村に稲村氏がいます。
 現在は,このルートを東武・京阪・阪急などの電鉄が通っていますね。
 この時代の稲村氏は,「ゼネコン稲村組」というより「稲村通運」と言った方が良いようなものですかね。
 関東平野の干拓はまだまだ真っ最中でしたから,両方を,釈迦力でやっていたのでしょうね。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月17日 (月) 07時03分

ルーツ探しがもととはいえ、たくさんの初耳情報ありがとうございました。

私は社史(明治)⇒幕末⇒古代⇒太古⇒中世⇒現代という遍歴を経ています。一つのことに関心を持つと連鎖的にその前後左右のことに関心が向き、欧米・イスラムなどもなまかじりしています。

学者はそうはいきません、最近は特に専門分野が細分化し、自分の領域以外のことは無関心で口出しすることも控えています。

そこが素人の強みですね。特に中国・韓国・日本にはまっとうな素人近・現第代史家が増えてほしいものです。

投稿: ましま | 2012年9月17日 (月) 10時08分

 科学的な中国史と言ったら,
宮崎市定「中国史」岩波全書上1977.06.24.刊行,下1978.06.27.刊行ではないでしょうか。
 同氏には,論語の解釈もユニークで極めて合理的なものが有り,また宋時代から毛沢東に至る中国人政治家の論考を評論した著作もありますが,1990年の年賀状で,竹村健一氏のTV番組にご出演になったら?とファンレターを出したところ,「折角ですがマスコミ出場は願下げに致し度」と返信を頂き,恐縮しました。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月17日 (月) 11時22分

 内田樹「日本辺境論」新潮新書336 2009.11.20.発行pp.92-100「とことん辺境で行こう」
には,日本はもともと,キリスト教や中華思想のような世界標準を定められない辺境なんだから,それに徹して生きようという呼びかけがなされています。要するにニッチ(隙間)産業で生きよう,ということです。
 しかし,現今の情勢は,これすら怪しくなっていませんか?
 弥勒魁が提示した,カースト制を否定したがゆえにインドにいられなかった仏教徒が,中国にも安住の地を見いだせず,無益の殺生を避けるため敢えて海上に活路を見出し日本とベトナムに大規模稲作技術を伝えることに即身成仏の道を見出した,というのは,現今の世界情勢に誠に適した建国神話だと思うのですが如何でしょうか?

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月18日 (火) 06時24分

辺境論、読んでいませんが、ノルウェーはノーベル賞という世界標準を持っています。覇権国家にならないことが「辺境」ということでもないと思います。

弥生時代は道教はともかく、釈迦修行時代の原始仏教が各地に伝播したというのは、どうでしょう?。徐福の時代ならたしかに始皇帝の政治的弾圧というのがありました。しかし仏教と関連付けられるものはありません。

チベットにしろスリランカにしろ部派仏教が伝播したのはもっと後だと思いますが。

投稿: ましま | 2012年9月18日 (火) 09時29分

 930(60代醍醐天皇の延長8)年から1262(90代亀山天皇の弘長2)年まで保っていた独立を,ノールウェーの侵攻により奪われ,次いで1380(98代長慶天皇の天授6)年から1918(123代大正天皇の大正7)年までデンマークの支配に服したアイスランドは,1941(124代昭和天皇の昭和16)年にデンマークがナチスドイツの侵攻を受けた際,連合軍の支配下にはいり,その後冷戦のはざまで,2006(125代今上天皇の平成18)年9月までKeflavik米軍基地の存在下で,常備軍なしに,漁業・観光・再生可能エネルギー・金融で生きて来たようですが,日本の参考になる点が多々あるようです。
 リーマン・ショックによる銀行破綻を,どう切り抜けたか,をよく調べる必要があるようです。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月24日 (月) 23時53分

 直前のコメントは,The World Almanac 2012というアメリカの年鑑のpp.784-785のアイスランドの地誌を和訳したものですが,
人口311,058,国土面積103,000平方km,人口密度3.1人/平方kmと言う点は,日本にはまねができない。
民族的群:NorseとKelt末裔の均質な混血94%,外国起源の人口6%。主要言語:アイスランド語,英語,ノルウェー語,ドイツ語。主要宗教:アイスランドのルーテラン教会(公式)81%,ローマカトリック3%,レイキャヴィク自由教会2%,ハフナルフィヨルル自由教会2%。
政治形態:立憲共和国。国防予算(2009):3200万ドル。現役軍隊:国防軍無し,予算は主に沿岸警備隊用。
耕地:0.1%。GDP:118億ドル。1人当たりGDP:38,300ドル。
と,なっています。言語が皆屈折語系であること(同じ語系に属する言語は,方言のようなもの),宗教が基本的には一神教であること,が特徴です。
 ちなみに,同じ項目が日本ではどう書かれているかと言いますと,
人口127,469,543,国土面積377,915平方km,人口密度349.7人/平方km,民族群:日本人98.5%,朝鮮人0.5%,主要言語:日本語,主要宗教:神道84%,仏教71%(両方を信仰),基督教2%。
政体:民主制議会をもつ立憲君主国,国防予算528億ドル,現役軍隊:247,746人。
 耕地:11.8%,GDP:4.3兆ドル,1人当たりGDP:34,000ドル。
 1人当たりGDBを除けば,両者に共通点はほとんどない。軍隊だって,アメリカ人の眼から見れば持っていることに成っている。
 言語・宗教ともに,アイスランドは世界標準,日本は辺境。
 待つ(松)の緑か,桜と散るか,此処が思案のしどころじゃあ。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月25日 (火) 07時05分

欧州史は、いやになるほど戦争が出てきます。大きいのから小さいものまで、短いものから100年も続く長いものまで。

それだけに欧州人の、戦争回避に対する要望は並々ならぬものがあります。

その表れがEUでありNATOであり、また個別にはスイスやノルウェーやまたアイスランドのような知恵もあるでしょう。現在のアジアにはその経験と伝統を活かす術がありません。

ただ欧州も一神教同士の争いとなると弱いですね。ユダヤもイスラムもキリストももとは同じ神なのに根強い敵視観から逃れられない。

投稿: ましま | 2012年9月25日 (火) 10時19分

一神教の国の人びとの血液型分布は以下のようになっています。


        A  B  O  AB
イスラエル   4.1 1.7 3.6 0.6
カトリック   4.5  1  4 0.5
オーソドックス 3.5  2  3.5  1
イスラム    2.5 3.5  3  1
プロテスタント 4   1  4.5 0.5

 オーソドックスというのはギリシャ,ロシア,東欧諸国の正教のことです。こことイスラムのB型の多さ,逆に言うならばカトリックとプロテスタントのBとABの少なさが特徴的です。
 ちなみに日本,ハンガリー,フィンランドが
        4   2   3   1
 華北と朝鮮半島のいわゆる儒教文化圏は
        3   3   3   1
 ヒンズー教圏 2   4   3   1
と,O型の少なさが特徴的です。
 これから考えると,血液型によって,ものの考え方・信じ方は変わる,と考える方が自然ではないかと思うのですが。
 マーク・ブキャナンのいう,周りにいる人間がどう考え行動するかを規範としている人は,まるでボーズ粒子のように周囲の位相に自分の位相を合せている訳で,A型に多いのではないでしょうか。
 周囲の位相は十分に観察するが,独自性を保つために敢えて異位相を取るのがB型(フェルミ粒子型)人間。
 O型は,AとBの否定の論理和
 AB型は,A,B,Oの否定の論理積とすれば,その行動は全く良く説明できると思うのですが。

投稿: 弥勒魁 | 2012年9月30日 (日) 05時45分

 社団法人科学技術と経済の会の機関誌「技術と経済」1980年2月号pp.4-22の森政弘東京工業大学教授(当時)の書かれた「「心」の状態としての宗教心」という記事の中に,「仏の3身」の解説が有りますので引用します。
法身(梵語Dharmakaya)すべての物質を存在させ,離合集散させ,動かしている大本。宇宙のあらゆる存在の根源。これを真如(梵語sunya)という。また,空(梵語sunya)とか実相とかはこれを意味する。キリスト教の神と同じと考えられる。
報身(梵語sambhogakaya)科学法則の究極とか法身とかという深遠な存在は科学のなかった大昔の人々には理解することが無理であった。法身の佛(空)は現象として現れ(色)る時,どのような形でもとることができるので,人々に理解し易い理想的な絶対的な人間ならぬ人間に人格化して表現した佛を報身という。真如から来られたという意味で,これを如来(梵語tathagata)という。如来は長い長い修行の結果,その「報い」として,完全な智慧と慈悲の持ち主である永遠の存在になられたという意味で報身という。
応身(梵語nirmana-kaya)人間としてこの世に出て来られ,我々を教え導き賜う佛。必要に応じて出現される仏という意味。お釈迦様は応身。

 これを読んで,以下の表を得ました。

仏教   法身   報身   応身
基督教  父    聖霊   子
儒教   天    堯舜   孔子
道教   混沌   老子   荘子
対象信者 O型   A型   B型

 どの宗教も,あらゆる血液型の信者を獲得せねばなりませんので,信じやすい対象を創り出したわけなのですね。AB型の人は少数派ではあるし,そもそも宗教にも疑問を感じている人が多かったのではないでしょうか。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 1日 (月) 01時56分

 アイスランドのリーマンショック後の救済策ですが,IMFとEU政府からの100億ドル以上のローンが財政の安定性を再興した,と書いてあります。国民が32万人しかいないのですから,1人当たり,3万ドル。
 このスケールだから助けられた,とも言えますね。ギリシャなんかはギリギリの線でしょう。

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月 2日 (火) 07時24分

 血液型分布がA:B:O:AB=4:2:3:1で日本と同じハンガリーですが,首都ブダペストのルーテラン・ギムナジウムという学校(日本の中高一貫校みたいなもの)の卒業生には,ノーバート・ウィーナー,フォン・ノイマン,ユージン・P・ウィーグナー(1963年度ノーベル物理学賞受賞者),George de Hevesy(1943年度ノーベル化学賞受賞者),アルバート・セントジョルジ(1937年度ノーベル医学生理学賞受賞者)などがいます。
 この人たちは,どういうわけかほとんどアメリカへ行って大をなしていて,ハンガリーの学術には貢献していないようなのは,日本と同じ?
 つまり,自国人の業績評価の基準が他国にあるようなのは,A型が最大多数であるせいではないですか?

投稿: 弥勒魁 | 2012年10月13日 (土) 03時22分

記事に関係のない書き込みの継続はご遠慮願います。本記事への書き込みは今後停止します。

投稿: ましま | 2012年10月13日 (土) 07時22分

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