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2012年2月 9日 (木)

卑弥呼史観 1

 「女ならでは世の明けぬ国」の元祖を、古事記や日本書紀にある日本神話の天照大神とし、客観性のある外国文献では、「倭の女王」卑弥呼が注目されることに異論はないだろう。古くは明治末、東大の白鳥倉吉氏が、魏志倭人伝の卑弥呼は天照大神であると主張、戦後も1968年には、数理文献学を駆使して安本美典氏が同じ結論をだしている。

 皇国史観全盛の時代には、「日本の皇室が中国の帝王に貢物をささげるわけがない。それは九州の一地方を支配する女酋にちがいない」という解釈が有力だった。天照大神(あまてらすおおみかみ)を「テンテルダイジン」などと読んだら不敬罪にもなりかねない時代である。

 塾頭も、卑弥呼=天照大神説に一時ひかれていた。また、天岩戸伝説も倭の大乱が卑弥呼の共立でおさまったことも、「和をもって貴し」が神代から受け継がれた大和魂の神髄をなすという解釈もあり、当塾向きでもあった。

 しかし、最近はこれを取り下げ、大幅修正することにした。ことわっておくが、塾頭のは「学説」でなく、半分以上は暇に任せた空想の世界のことだと理解していただきたい。その空想の変更、最大の変更理由は、考古学の進歩・新発見と、後世の女帝、神功皇后と斉明天皇が、ほかに比べてみてどうも好戦的だと言えそうだからである。

 考古学というのは、遺物の炭素や年輪による年代測定の新技術により、大和朝廷の起源すなわち前方後円墳がスタートした時期と、卑弥呼が存在した時期がほぼ重なると解釈されるようになったことである。他にもあるが、当塾のブログ内を「纏向=まきむく」で検索すると8本の記事があるので、興味ある方は是非ご覧いただきたい。

 卑弥呼に擬せられたのは、最初の大型前方後円墳・箸墓に葬られた日本書紀に記録されている「ヤマトトビモモソ姫」である。仮にそうだとすると、文献上単純な大きな疑問が残る。まず、なぜ、中国との交流という大きな事績が記録されていないかということ、天皇でないこと、天皇でないのに、なぜ前代未聞の巨大な墳墓が人民の協力でできたのか、といったことである。

 天皇ではない、という点については、神功皇后もそうである。ただし、日本書紀は他の天皇以上の条目を立てているし、他の古文献では「天皇」と明記しているものもある。そもそもこの頃は、「天皇」という最高権力者の地位につける名称がまだなかったのだから、ヤマトトビモモソ姫がその役割を果たしていれば、外国人から見て「倭国女王」に見えてもなんら不思議ではない。

 現に書紀では、畿内や九州で女性が支配していた地域をそれぞれ複数掲げている。それらが、天照大神や卑弥呼と同様巫女であった点は共通しているようだ。吉凶の占い、自然・外敵からの鎮護、予言、八百万の神への鎮魂、先祖の祭祀、とういったものがトップリーダーの資質として不可欠だったのである。

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コメント

邪馬台国は歴史ロマンとしては謎めいて面白いし、小学校で日本の歴史に興味を持たせるとっかかりになったので評価としては高いのですが、いろいろと疑問を感じている一人です。

いわゆる魏志倭人伝の示した地名の対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国までは存在は確認できますが、博多周辺のようですが場所の特定できない不弥国から先はいきなり遠方の国である投馬国、それから遥か遠くにあるのが邪馬台国という記述です。

時代は飛びますが、マルコポーロの東方見聞録は当時のダマスカスで入手できた情報だけで、彼自身は大都(北京)へ行ったわけではなかったのではないかという説もあります。

というわけで、もしかすると魏の国の商人が九州北部へやってきて倭国というか東方の人々の暮らしを記述したのではないかということです。金印が志賀島で出土しているので奴国(委国)と魏は盟友関係にあったと推測できます。というのも当時の印は密貿易を防ぐ為の目的がありました。

つまり、魏志倭人伝には邪馬台国よりも倭人の文化を記した内容が多く、簡単に言えば奴国より先は国が安定していないので貿易は容易ではないという内容とも受け取れます。

商人は政治的な関係よりも経済的なメリットを追及するものです。中国は武勇伝の書物や歴史書が幅を利かせてますが、その勇ましさは遠い昔から情報戦略の重要な役割を担っていたのだろうと思います。眠れる獅子は今も起きることのない獅子でありつづけるでしょう。

中国は常に世界経済の中核でありたいのです。いま何が地球規模で起きているのか、堰を切って流動する中国商人を見れば一目瞭然でしょう。

投稿: ていわ | 2012年2月27日 (月) 22時19分

ていわ さま
 私が注目しているのは、伊都国に置いた一大率です。後の7世紀にも大宰府を置き、外交連を一部付与していますが、それよりはるかに大きな権力を持っている。

そのほか、諸国を検察し諸国はこれに畏怖していると書いてます。

邪馬台国が九州であるとすると、鹿児島・宮崎・熊本そんな遠くではなさそうなので、わざわざ2重構造にしなくてもいいのでは、と思います。

大和まで行った人がいたとしても、その報告文書は欠落してますね。言っていることは伝聞に過ぎないでしょう。

大筋で貴説に賛成します。ただ魏は邪馬台国遣使当時中華思想=中原の覇者の一歩手前で、早く覇権を確保したいという、焦っていた時代ですね。

投稿: ましま | 2012年2月28日 (火) 11時07分

時代は8世紀になりますが、高松塚古墳の壁画は高句麗古墳群の壁画とかなり近い関係のように見受けられます。そこで宮内庁が管理している古墳を発掘してみれば、大和政権というか継体大王の誕生も含めて天皇の流れが見えてくるのではないでしょうか。

天照大神と卑弥呼を結びつける云々は、宮内庁管理の古墳を発掘してからの方がリアリティだと思います。そうなれば日本の古代史は多少は明確になり大和政権のルーツも明らかになるでしょう。いわゆる記紀に書かれた藤原氏にとって都合のよい物語が塗替えられるのは間違いないでしょう。現段階で魏志倭人伝と記紀をストレートに結びつけるのは無理があるということです。

朝鮮三国史から見ると日本列島はエスケープするための地域であって、鎌倉時代東国の足利尊氏が西国で復活したように、遠方からの亡命者や敗者を受入れていた文化を持つ地域であったように考えます。今でいう排外主義とは真逆で、孫文やアンドレボニファシオを受入れた明治の文化に共通するものです。

歴史的には天照大神も卑弥呼も存在したのだろうと思います。天孫降臨はメソポタミア文明の神殿と同じような地表よりも高い場所となっていますし、天岩戸はゾロアスター教や一神教の天地創造に近いものでしょう。イザナギ・イザナミはアダムとイブから拝借して。ただ大きな違いは女神だったということです。女神となるとギリシャ文明でしょうか。

高松塚古墳にあるように芸術的なリアリズム文化は、1世紀前に渡来した仏教芸術に抵抗を持つどころか共通の価値観から違和感もなく受入れられた証ではないでしょうか。物部氏と蘇我氏の勝者云々で仏教が伝来したわけではないと思います。何しろ蘇我氏は藤原氏にとって不倶戴天の敵ですから。もし蘇我氏が仏教伝来の本家であれば奈良の興福寺は存在しないでしょう。

私の考えは、記紀が編纂された時代は国際化の影響を強く受けいていたということです。聖徳太子がキリストと同じ馬小屋で誕生したということなど、飛鳥時代には胡国(ペルシャ)人が渡来していることなどを考えると、3世紀も空白と言われる4世紀も大陸の影響を積極的に受入れていたのだろうと思います。

例えば、北九州は新羅と出雲は沿海州と北陸は高句麗と畿内は百済という感じです。その前の土着民といえば蝦夷であり球磨(熊)襲ということになりますが、大和政権が単独で征圧したというのは無理があり、土着民は大陸文化に飲み込まれたというのが自然だと考えています。

となると大和政権のルーツは?土着民でないのは人類学的に明確なので、月光仮面の主題歌「どーこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている」ということになりますね。

投稿: ていわ | 2012年2月28日 (火) 23時42分

ていわ さま

踏み込んだご高見、見ごたえがありました。一、二私見ともつかないものを。

日本書紀完成当時、藤原不比等が絶大の権力を握っていて中身を改ざんしたという、津田左右吉以来の有力な学説に私は反対意見を持っています。

皇極朝頃からの記述の多くが「籐氏家伝」によっており、ほとんど同文であったことはその通りでしょう。最近、森博達氏の分析で、執筆者に2人の中国人が含まれており、多くの史料に忠実であろうとする執筆態度が見られるという指摘があります。

書記編纂の最終責任者は、舎人親王で、不比等がかかわったという物証は出てきません。書記全体は史書というにはあまりにも不完全ですが、現在、この時期より古い文献(ほぼ同時期の古事記をのぞけば)ありません。証明する考古学上の発見もあり、何%かの史実が含まれているものと見ています。

もう一つ、飛鳥時代と胡人ですが、「胡」にはアーリア人、ペルシャの狭い意味と、ツングース・ゾグド人などを含む、中国西部・北部にいる異邦人という広い意味の「胡」があるようです。

唐の時代の都で接客する「胡姫」を碧眼紅毛などという場合、狭い意味ですね。「胡」のつく言葉は、食糧で胡瓜、胡麻、胡椒、胡桃。楽器は胡弓、胡笛。その他、胡蝶、胡座、胡服、胡舞まだまだありそうだが、制裁決議に拒否権を使った胡錦濤は、もしかしてイラン人??(笑)。

投稿: ましま | 2012年2月29日 (水) 11時18分

最近知ったのですが、天照大神を男性に描いた画像もけっこうあるそうですね。イエスと弟子たちの「最後の晩餐」がテーブル式ではなく、ローマ時代らしく寝台に寝そべっての宴会だった、みたいに日本の古代もまた別の「真実の姿」が浮かび上がってくるのかもしれません。
さて、お説のヤマトトビモモソ姫は北九州に宮殿を構えて外交や貿易を行っていたということでしょうか。幕末期に琉球王国がペリー提督を「首里城」の一部屋(重要な設備ではない)に案内して満足させた話を思い出してしまいました。
朝貢は必要である、しかし皇室の威厳は損ねたくないので出先機関を「邪馬台国」の「倭王」とし、その上に「皇室」を置くようにした、との解釈でよろしいのでしょうか。
だとしたら「ヤマト…ナントカ」と読める名前、で記録に載りそうなものです。「ひみこ」は彼女の幼名か何かでしょうか。派遣されてきた魏の役人は王の忌み名を聞き出す義務があったのでしょうか。(言いがかりみたいですみません。でもなんかますます琉球国の二重外交みたいな気がしてきた)
こんな強大な国家を脅かす「句奴国」とはひょっとすると「日本人」じゃないような気がします。

投稿: りくにす | 2012年2月29日 (水) 23時52分

ヤマトトビモモソ姫が北九州という線は、文献・発掘物いずれからも出てきません。大宮殿か祭祀場かわかりませんが、去年奈良県纏向駅近辺で発掘され、祭祀に使った桃(種)が大量に発見されたことで話題になりました。九州では、吉野ケ里遺跡がありますが、時代と規模の点でやや合わないようです。

大和国と伊都国二重外交というのは考えられますね。いろいろな仮説、想像もいいが断片的な資料、情報にとらわれるのではなく、自説に対する補強材料のひとつに位置付けたいと思います。

投稿: ましま | 2012年3月 1日 (木) 09時20分

ましま様返答ありがとうございます。ちょっと誤解しておりました。ヤマトトビモモソ姫は北九州には来ていないのですね。
(魏の役人が大和にある彼女の祭祀場を訪問しながら皇居に行かなかったのはなぜなのだろう。たとえば天皇が幼少だったからとか…)
大和朝廷と邪馬台国が並立していて邪馬台国が貿易・外交を独占している状態をちょっと考えてみたのですが、この場合「句奴国」が大和朝廷(またはその命を受けた豪族)ということになるのかなあ、と思いました。

投稿: りくにす | 2012年3月 2日 (金) 20時26分

想像が複雑になってきましたね。
ご疑問の点、魏志倭人伝に書いてあります。女王、年すでに長大、すなわち相当年配。弟以外は男性を宮殿に入れなかったようです。

中国から見ると女王というのは不思議な存在だったのでしょう。邪馬台国としてはあまり強調してほしくなかった。ただ、倭国大乱が彼女を立てることで平和になったということで、彼女の死後、男王にしたけど失敗しています。

ずっとあとの推古女帝の時代、唐の使節は聖徳太子に会って彼が天皇だと思っていた可能性もあります。律令以前は「おおきみ」とか「みこと」という尊称をつけ、とても偉い人ということで、天皇とか皇太子とかという「位」の区分はなかったのではないかと思います。

投稿: ましま | 2012年3月 2日 (金) 21時36分

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