« 東電、吉田所長口封じ? | トップページ | 国民がだしたい問責決議案 »

2011年12月 6日 (火)

元寇と神風神話

 戦中の歴史教育は、建国神話、建武の中興と楠正成、元寇の神風に日露戦争の美談などが柱でした。小学校(国民学校)では修身や唱歌で教わります。今日は、日本開国以来の危機、元寇が「神風」で救われたというのも、どうやら神話のようだ、ということを書きます。

 結論からいうと、元寇で攻めてきたのは蒙古ですが実際は、船員などを含め高麗(朝鮮半島)や南宋(中国)から徴発された兵士が多数を占めており、船の建造や物資の調達も両国に無理やり押し付けます。日本にやってきても一糸乱れずという統制ぶりがみられず、台風というほどの風でもないのに、粗製乱造の船が簡単に沈没してしまったようです。

 つまり、国を亡ぼされたうえ、日本攻撃のための過酷な徴発を課せられ、限界まで追い詰められた人々の見えないサボタージュやレジスタンス潜行しながら進んでいた。そのせいで日本に深入りする力がなく、神風や日本人の抵抗がそれを後押ししたということでしょうか。

 元の皇帝が、神風におそれをなして3度目の攻撃をあきらめたのではありません。もともと大陸の騎馬戦術なら天下無敵であっても、船を作ったことも操ったこともないのです。生まれて初めて海に出るような大軍団を作っても統率がとれるわけがありません。戦いのしかた勝ち方も経験がなく、メリットもないことに気がついたのでしょう。だから、勧められても応じようとしませんでした。

 以下、年表プラスアルファで整理しましたが、数字その他に、いろいろな異説があることをあらかじめお断りしておきます。

1231年 蒙古高麗侵攻、高麗降伏
1232/6月 高麗王朝江華島に遁走、人民に蒙古抗戦を命ずる
1235、47、53、54年 蒙古相次いで来襲掠奪を繰り返す
1254年 高麗捕虜男女20万6800、殺戮、その数を知らず
1260年 高麗元宗蒙古に降伏、属国となる
1274/1月 蒙古、高麗に日本攻撃のため900艘の船建造を命令、資材や3万5000人の工匠・役夫等の3か月分の糧食等高麗持ち。別に15000人の兵士・水主などを徴発、高麗人民「木の葉草の根で飢えをしのぐ」状態に
1274/6/16日 金州に船団結集。造船に要した期間わずか3か月の簡易型船舶

【文永の役】
1274/10/3 合浦から出撃。(高麗駐屯蒙古軍5000、追加蒙古兵1万5000、高麗助成軍6000、高麗船員、漕ぎ手等6700)
1274/10/5 対馬制圧
1274/10/14 壱岐制圧
1274/12/20 博多湾岸上陸、夜船に引き返し暴風風に遭遇、1万3500人が溺死または戦死。残りは退却

【弘安の役】
1280/8月 高麗から東路軍4万(蒙古・高麗・南宋敗残兵混成軍)、江南から宋の降兵10万が発進、壱岐で合流の上本土上陸という東征計画をたてる。高麗には、前回と同規模の造船命令など課す。
1281/5/3 東路軍4万、900艘の船で合浦を出発。5/21 対馬。6/6 壱岐を経て志賀島。13日まで海上で小競り合い。東路軍、肥後・鷹島あたりへ

1281/6/18 江南軍10万、3500艘で寧波を出発開始
1281/2/22 世祖フビライ、諸将を集めて訓示

「日本はわが国の使者をとどめて還さない。朕が卿らに遠征を命じたのはそのためである。また、朕、漢人の言をきくに、国をとるのは人民と土地をうるためであり、もし尽く人民を殺すすならば徒に地をえても無用であると。まことに然りである。なお、つぎの一事はとくに朕の憂慮するところである。すなわち卿らが不和におちいることである。もし日本人と卿らが交渉するばあいには、つねに同心協謀して一口より出ずるがごとく答えよ」(『日本の歴史8』中公文庫)

1281/6/末 平戸、五島海域へ
1281/6/29~7/2 壱岐で激しい戦闘、後、東路軍と平戸方面で合流
1281/7/27 20日以上平戸・五島方面の海上ですごしたのち主力が鷹島へ
1281/閏7/1 暴風で元船多数沈没。高麗への生還者1万9397.江南軍3
 
 以上、煩雑な作業を終えます。推測を交えて要約すると、高麗は2回の出撃に1800艘の船をそれぞれ工期3か月で作らされたが、遠洋航海に耐えられない簡易型で粗製乱造した可能性がある。

 弘安の役では、江南軍10万の乗る船の新造記録がないが、大部分は既存の商船を徴用したものでしょう。そして南北両軍は連絡が悪く(なにしろ電信のない時代です)漸く合流できたが、なぜか長い間海上をうろうろして攻勢にでません。作戦会議がまとまらなかったか?。フビライが心配していた「不和」のせいかも知れません。

 最近鷹島近海の海中遺跡で、元船の構造部が発見されました。鷹島は長崎県内ですが、話題になった佐賀県の玄海原発のすぐ隣です。沈んだ船の多くは高麗製にちがいありません。元軍の幹部は、南軍が乗ってきた堅牢な船で、出港地に戻らず、近い高麗に逃げ帰ったのでしょう。

|

« 東電、吉田所長口封じ? | トップページ | 国民がだしたい問責決議案 »

歴史」カテゴリの記事

コメント

18年前の作品になります。伴野朗の著書「元寇」がリアリティに描いています。私も影響を受けて鷹島に行きました。魏志倭人伝も含めてワクワクしながら一帯を散策しました。

投稿: ていわ | 2011年12月 9日 (金) 22時22分

私は拙著の松浦党志佐志に関する取材で、平戸から松浦市沿岸を回りました。対岸の鷹島・福島には渡りませんでしたが、正直なところ元寇はよくわかりません。ただ、神風バージョンだけでは歴史になりませんね。

投稿: ましま | 2011年12月10日 (土) 09時05分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/468248/43275431

この記事へのトラックバック一覧です: 元寇と神風神話:

« 東電、吉田所長口封じ? | トップページ | 国民がだしたい問責決議案 »