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2011年10月

2011年10月29日 (土)

秋の荒れ野

『万葉集』巻七
    草を詠める
 妹らがりわが通ひ路の細竹(しの)すすき
 我し通はばなびけ細竹原

『広辞苑』
せいたか-あわだちそう【背高泡立草】北米原産の帰化植物。荒地や植生の破壊された場所に侵入・繁殖、しばしば大群落を作る。

 Dscf3547_2 写真のような光景は、日本中至る所で見かける。毒々しいばかりの黄色い穂をつける草は、昭和40年代ころに蔓延、一時は荒地を占領しつくすほどだった。最近はやや勢いを減じたように見えるが、まだ日本古来のすすきと厳しくテリトリーを争っている。

 野田首相が鳩山元総理と会食し、鳩山が「アメリカの言いなりにならないように」とアドバイスしたというが、「あんたにだけは、言われたくなかった」と答えた――、とは報じられていない。これは外野席のヤジである。

 TPP、普天間……、まさに秋の野を思わせる光景ではないか。

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2011年10月27日 (木)

じれったいが論調に変化も

 何がじれったいといって、こんなじれったいことはない。普天間基地の辺野古移転問題だ。今日27日午前、野田佳彦首相は、就任後初めて沖縄県の仲井真弘多沖縄県知事と官邸で会談した。その席で知事は、「移設案の実現は事実上不可能だ」として県外移設を求める要請書を提出した。

 アセスメント結果をまとめる「環境影響評価書」を年内に県へ提出する準備を進めているというのが、首相の答えだが、川端達夫沖縄担当相、一川保夫防衛相、玄葉光一郎外相と沖縄詣でラッシュが続いた。誰が行っても何度会っても同じ要望同じ答えの繰り返しである。

 1年半以上前から、事態は何一つ変わっていない。アセスメント云々はアメリカ向けポーズだという説もあるが、航空会社を喜ばせるだけで国費の無駄遣い以外のなにものでもない。結果はすでに出ている。そうすることで何が日米にとってメリットになるというのだろうか。まさに政府・官僚のサボタージュである。

  こういった中、新聞論調に気付かない程度の変化も見られる。10月17日付の毎日新聞社説について「普天間移転、毎日の英断?」として新聞論調の変化の兆しがあることを書いた。前段に「実現の道が見いだせない辺野古への移設にしがみつくのは、もう限界である。野田政権は、日米合意を見直して、米国、沖縄双方が合意できる方策を検討すべきである」とあり、その結論を「野田首相は、現実を見据えて取り組んでもらいたい」で結んだ。
 
 当塾が表題に「?」をつけたのは、辺野古移転案は実現困難だとしながら、打開策を当事者間の協議に委ねるような書きぶりだったからである。ころがわずか11日あと26日付社説は、全く同様の事案を扱いながら、最後の結びを「日米両政府は、沖縄の政治情勢の現実に目をそむけず、日米合意の見直しを含めて真剣に検討すべきである」としている。

 これは、希望的観測や要望ではなく、まがうことのない社論で、一歩進んだように見える。ネットでは日頃マスコミの世論誘導を問題にするが、新聞にも、よきにつけ悪しきにつけ世論に同調しようという性癖がある。やはり沖縄県民のようにたゆまず声は上げていかなければならない。

 もうひとつ、注目すべき問題はTPPである。10月12日の毎日社説では、野田首相に対し「APECではTPP参加を明確に表明してもらいたい」と積極的な賛成意見を出した。以前にも書いたことがあるが、毎日は名物コラム「記者の目」で、社説と全く逆の意見が出ることがよくある。

 その7典型例が、今日27日付の「TPP交渉参加は本当に必要か――輸出依存もう見直す時だ」である。社説より見出しは大きく、2枚の写真入りなので、この方が影響力がありそうだ。

 本塾は、TPPについてあまり意見を出してこなかったが、アメリカが期限付きで参加をせっついていること、アメリカ以外はほとんど中小国でアメリカのペースで進められているように見えること、中身が不透明で議論のしようがないことなどから、普天間移転と同様、言いなりにされてしまうのではないかという不安は持っていた。

 同記事の中で、塾頭がひそかに持っていた不安を、《慎重派が指摘する項目の多くは、過去に米国が「年次改革要望書」などで日本に要求してきたものだから》と、ズバリ表現してくれたことである。

 前原民主党政調会長が、慎重派が、実体のない「PTT」おばけにおびえている、と言ったが、われわれはそのおばけにおびえ、言いなりになって来た歴代の政治家を知っている。前原氏には悪いけど、八っ場ダムと同じで強がりをいってるとしか聞こえない。

 350人を超える全政党を網羅した議員連盟、農協・漁協・医師会などの圧力団体の組織横断型の決起をする中で、米倉経団連会長は、露出度を高めることを避けるようになった。これから、新聞の論調はどう変わるのか変わらないのか、やはり目が離せない。
 

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2011年10月26日 (水)

憲法審査会発足と護憲

 改憲手続き上の第一歩として、改憲案の適否を審査する議会内の機関、憲法審査会が始動しはじめた。衆議院の会長には、民主党の大畠章宏氏が選ばれ、参議院は自民党の小坂憲次氏に決定した。

 憲法改正は、まず、案を議会に提出する。それが適当なものかどうかを審査会で審査する。OKとなれば、衆参各院で議員数の3分の2以上の賛成で国民投票にかけることができる。国民投票の決定は投票総数の過半数である。これをみても、議会の動向がいかに重要かがわかる。

 大畠氏は、菅首相追い出しで小鳩連携が画策された際、鳩山グループを離脱した。この前の代表選では、鹿野道彦氏を候補として推挙、決選投票では海江田氏ではなく野田候補に投票し、鹿野グループの存在感を高めた。大畠氏はその会長代行をつとめる。

 本塾は、以前「新内閣と護憲・防衛」を書き、鹿野グループが改憲派の動きを抑制するのではないかと予測した。今回、大畠氏が衆院憲法審査会の会長に就いた意味は大きい。大畠氏は、日立労組、社会党の出身で、改憲に積極的な役割を果たすはずがないからである。

 もうひとつは、社民党から1人割り振られていた審査会メンバーへの名簿提出である。新聞によると、福島瑞穂党首は記者団に対し「提出しなくても審査会が開かれる可能性があり、出席してかかわったほうがいいと判断した」と説明したとされる。

 「ほうがいい……」では駄目だ。本当に現行憲法の精神を守り抜きたいのであれば、進んでそれを補強するような改憲案を持たなければ、改憲勢力との戦いに負ける。改憲派は、「戦後一度も改正したことがない、時代にそぐわない」という論理を先行させるだろう。

 それに対して、「平和憲法を護ります」「9条は変えさせません」では、戦争を知らない世代が圧倒的になった現在、何と弱いことか。国の安全保障、国際情勢、緊急事態への対応、軍事知識など多角的な見識を持たなければ、議論から外されるのがおちだ。

 そしてさらに、戦争に巻き込まれないためにはどうすればいいか、自衛隊の専守防衛体制をどう整えるか、対米集団的自衛権に代わるものは何か、などについて必要に応じた改憲案をぶつけ審査の対象とし国民世論に訴えるのだ。

 戦争のための改憲案を葬るため、民主党はもとより、自民、公明まで巻き込んで新・保守反動の動きを封じなくてはならない。戦後続いてきた反安保、自衛隊への疑問など教条主義的なアレルギー体質や、戦争の悲惨さを伝えるだけでは、もはや国民を納得させることができない。

 以上の骨組みは、これまでも本塾で繰り返し主張してきたことだ。審議会発足を機に更めて護憲のあり方を再検討し、またその立場に立った改憲案にヒントになりそうなことを中心に、これからも「憲法」カテゴリに集中投稿をしてみたい。

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2011年10月24日 (月)

破邪憤怒の形相

Dscf3531_2 Dscf3535   かつては思ってもみなかったが、最近は拝みたい感じ。(塾頭)

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2011年10月23日 (日)

独裁者の末路

 独裁者の定義は知らない。①権力機構の上で卓絶した存在であること、②自らを「革命」の担い手としていること、③カリスマ性があること、④手にした政権は永久に続けたいと思い、世襲iにしたがることなどであろうか。

 真っ先に浮かぶのはキューバのカストロである。不倶戴天のアメリカは別として、今のところ最も成功していると思われる独裁者ではないか。殺されたばかりのリビアのカダフィー大佐、これはどこから見ても独裁者の資質にこと欠かない。

 北朝鮮の金正日はどうか。「革命」はすべて父親ゆずり。カリスマ性が通用するのは国内だけで、国外では滑稽な存在とうつるだろう。そういうと怒られるかも知れないが、パレスチナの故アラファト議長をはじめ、リビアにしろキューバにしろ南の国の指導者にはどこか愛嬌がある。

 キューバ危機を回避したカストロ、民間機爆破テロを認めたり、核武装を放棄したカダフィーなど強硬路線の中に、柔軟さもみせる。それに引きかえ、金正日の国は核を誇示したがり、ラングーン事件や大韓航空爆破などにしらを切ったり、国境の島を砲撃する、町のつっぱり兄ちゃんそのものだ。独裁者といっても、1ランク下に位置するの小心独裁者であろうか。

 さて、カダフィーの死であるが、次のようないきさつが伝えられている。隠れ家から車列を組んで逃走中、これを察知したNATO空軍機やアメリカの無人機が空爆、車列が被害を受けてばらばらになり、カダフィーは車を離れて土管のようなところへ隠れていたのを反カダフィー側の兵士が発見、負傷しているもののトラックの荷台に引きずりあげた。「撃つな、我が息子よ」と哀願し、兵士側にも「生かしておけ」との声が聞かれる中、誰かが構わずに射殺、病院に着いた時はもう死体だったという。

 これが本当であるとすれば、国連の人権弁務官あたりが、殺害は国際法に反する疑いがあるとか国際刑事裁判所が人道に反する罪で裁く機会を失ったと苦情を言うのは当たらない。まずこれが戦争なのか内乱(内戦)なのかはっきりしない。

 攻撃機や無人機を繰り出したNATOの根拠は何か、国連安保理の市民保護決議だけである。それよると、飛行禁止区域を設けること、それに必要なあらゆる措置が認められることだけで、民家を爆撃したり車列を襲ったりすることも許されるかは疑問である。

 NATOと言ってもドイツは国連決議に棄権し、アメリカも最初は及び腰だった。つまり、国際法上は戦争とは言い難いものがある。内乱であろうが戦争であろうが、現場は戦場だった。カダフィーを生かしておくと取り返しに来た敵に殺される可能性がある。また味方と思われる中に敵が紛れ込んでいるかも知れない。

 あるいは、身内が密告され逮捕虐殺され、発作的に仇を討ったという想像もできる。それならば撃った兵士を外国人や国際機関が難詰する理由はなく、国内法で処理すべきだ。ところが憲法すらない国だから、期待可能性などといわずとも、彼の行為は昔のアメリカの私刑に相当する。

 世界には、欧米人の価値観で作り上げた国連スタンダードしかないので、これに従うしかないが、どの場合も公正さに疑問を残し、後味の悪い国際刑事裁判が回避できたのは、ビンラディンを射殺した米兵と同様、功績なのであろう。

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2011年10月20日 (木)

何もかも手遅れ

 細川元首相が野田首相「脱原発をはっきりいうように」というアドバイスをしてるようだ。政治家には、はっきりものを言っていい場合とぼやかした方がいい場合の双方があるが、大切なのははっきりものをいうタイミングだろう。

 橋下大阪府知事の「はっきり」は、ポピュリズムの「うけ」ねらいが多く困ったものだがそれにしても早すぎる。東国原前宮崎県知事や、河村たかし名古屋市長のわだちを踏まない保証はない。

 その対極にあるのが民主党幹部だ。前回、毎日新聞の社説について、「ある方向を向いているようだがどこか逃げのあるような意見だ」という記事を書いたが、全くそれと同じのが「脱原発依存」という枝野前官房長官の新造語だ。

 「脱原発」という言葉は3.11以前からある。本塾で最初に使ったのは、その1か月後4月11日である。言葉の定義については以下で記した。
lhttp://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-337f.html

Dscf3529  最初の1か月は、事故拡大を阻止するため死力を尽くさなければならない。しかし、5月に入ると雑誌エコノミストが「脱原発」特集号(24日付)を組むなど、急速に機運が高まった。ところが菅首相がそういった意向を示したのが8月に入ってからである。

 政府は、すくなくとも5月には「脱原発」を宣言し、次の事を急がなければならなかった。

1.原子力安全委員会や原子力保安院の組織改編とメンバーの刷新(とりあえず計画を出し実現するまでの経過措置を明らかにする)。
2.既存原発の運転を再開するための条件設定(ストレステスト、地元同意の条件設定など)。
3.脱原発ロードマップ作成会議の設置。
4.原発輸出は、技術協力に限り、あらゆるハード輸出の当事者からおりる意思表示をし相手国から了解を得ること。

 そのほかに、放射能問題、補償対策、震災復興など急を要する背策は山積するが、脱原発を決意すればすぐにでも手をつけなくてはならない課題だった。そうすることにより、原子力行政に信頼を取り戻し、安全措置を講じた原発の再稼働がスムーズに進み、代替発電源への投資や開発をより活発化させることになっただろう。

 原発輸出を進めていた国へは、震災の深刻な影響をこうむった国の決断として理解が得られただろう。日本が脱原発を進めるということは、世界打も脱原発を進めるということである。世界戦略として二律背反は決して許されない。今の野田政権のままでは、その不道徳に踏み込んでしまうおそれが非常に高い。

 こうしてあらゆることがなし崩しとなり、国益が損なわれ政治改革が何一つ進まない。同じことは沖縄基地と安保体制についてもいえる。政権交代と同時に辺野古移転は民意で決めるということをで官僚を動かし、同時に米側への工作をスタートさせるべきだった。

 米側の抵抗があっても政権交代という事情が斟酌され、その後の疑心暗鬼や時間稼ぎという苛立ちを持たれないで済んだかも知れない。官僚を使いこなせず、党内はもとより閣内でさえ意見がばらばらなのは民主党の宿痾といえる。このもやもや状態はいつまで続くのだろう。

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2011年10月19日 (水)

無題

◆笠女郎(かさのおとめ)、大伴宿禰家持に贈れる歌

 陸奥(みちのく)の眞野の草原(かやはら)遠けども
 面影ににして見ゆとふものを
       
                        萬葉集396

◆前大僧正慈圓、書にては思ふ程の事も申し盡しがたきよし申し遣はして侍りけるかへりごとに     前右大将頼朝

 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ
 かき盡してよつぼの石ぶみ

                   新古今和歌集1785

◆座右之銘
人の短をいふ事なかれ
己が長をとくことなかれ

 物いへば 唇寒し 秋の風   
                    芭蕉庵小文庫935

上は、いずれも岩波文庫より
                 

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2011年10月18日 (火)

普天間移転、毎日の英断?

 「県外移設」を求める沖縄が政府に歩み寄る展望はない。実現の道が見いだせない辺野古への移設にしがみつくのは、もう限界である。野田政権は、日米合意を見直して、米国、沖縄双方が合意できる方策を検討すべきである。(10/17「毎日社説」)

 ここだけ読めば、誰だって毎日新聞は、県外移設を県外移設を米国に働きかけるよう政府に促しているように読めるだろう。そうであれば、中国新聞や沖縄県紙などをのぞく中央紙が打ち出した初めての英断になるところだ。

 ところが、標題は「普天間移設 辺野古案は実現困難だ」であり、文末は、

普天間移設の原点は周辺住民の危険性除去である。辺野古への移設か普天間の継続使用(固定化)か、と二者択一を沖縄に迫り、辺野古移設に同意を求める手法では展望は開けない。野田首相は、現実を見据えて取り組んでもらいたい。

となっている。またその全段に、

沖縄に米軍基地が集中する現状が本土による「差別」ととらえられ、強い不満と不信が渦巻いている現状では、新たに県内に基地を建設するのは容易でない。

とあり、県民の要望を「原点」と「差別」に使い分け、読後感は、結局何を言わんとしているのかわからなくなる。

 毎日の場合、社説執筆を担当する何人かの会議があり、何をどう書くか喧々諤々の議論をしたうえで、執筆者一人を決め紙面に反映するのだそうである。だから、主張として人を動かす力もなく、肺腑を突くような名文も誕生しない。

 一見、民主的でよさそうだが、これでは新聞が電波媒体やネットにその座を奪われるのも当然であろう。愛読紙「毎日」のために提言する。同紙の「記者の目」が好評を得ているのは、たとえそれが社論と違っても、現場の生き生きとしたレポートが読者を引きつけるのである。

 社説も、イニシャルでいいから記名とし、「会議ではこういう意見も多かったが、私はこう考える」 という形にし、かつての「信濃毎日」桐生悠々主筆のような、歴史に残る社説を書いてもらいたい。もし、もし塾頭が担当するなら、「高まる日本の反米感情を恐れる」とするだろう。

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2011年10月16日 (日)

続・GHQが洗脳はウソ

 前回、江藤淳が『閉された言語空間』で書いている「アメリカがウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムを立て、それをもとにGHQが占領下の日本人を洗脳した」、という要旨をウソだと書いた。

 ギルト(guilt)という英語は「罪悪感」ととらえるのが適切だと思うが、こうして「反戦塾」を何年も書き続けている徒輩は、まさに彼が言う「洗脳」された人間に当たるのだろう。その当時、中・高校生だった塾頭が、体験上それを否定するのは、大げさに言えば、日本史に対する国民の義務だからと言っていいほどだ。

 前にも書いたが、板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」といい、吉野作造の民本主義・大正デモクラシーを謳歌し、百姓一揆や労働運動そして文化・文藝運動の長い経験のある日本人が、わずか2、3か月の占領者のキャンペーンで洗脳されたりマインドコントロールで支配されることなどあり得るだろうか。

 そんな自明なことを否定する議論が受け入れられるはずがなく、本来は無視してもいいはずだ。お里の知れている桜井よし子などは別として、既述のベストセラーズ作家藤原正彦、そして、30万部を売りつくしたという半藤一利の『昭和史』などの影響力は無視できない。半藤は江藤ほどの露骨さはないが、その「戦後編」で《アメリカさまさまの「思想改造」》という項をたて、文庫本で8ページにのぼる記述をしている。

 半藤は、『閉された言語空間』の出版元の『文藝春秋』や『週刊文春』の編集長などを長年つとめていた人だ。したがってその著作に影響を受けていたとしても不思議ではない。政治の面でいうと、安倍晋三の推挙で自民党の参院議員になった義家弘介が、国会で菅首相に対し同じ立場に立った質問で問い詰め、野田首相もかつて「A級戦犯は戦争犯罪人ではない」といった主張を国会で展開していた。

 これらをすべて、江藤の影響だとはいわないが「そのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生まれの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである」という彼の言葉は、まさにそのままお返ししなければならない世情が存在する。

 さて、前回文末に「同じ年代で同様の社会的経験をしながらどうしてこんなに考えが違ってしまうのだろうか。 その辺を次回に回したい」、と言ってしまった。しかし、これがなかなか難しい。同書中にこんな一文がある。

 この「プログラム」が、以後正確に戦犯容疑者の逮捕や、戦犯裁判の節目々々に時期を合わせて展開されて行ったという事実は、軽々に看過することができない。つまりそれは日本の敗北を、「一時的かつ一過性のものとししか受け取っていない」大方の国民感情に対する、執拗な挑戦であった。

 つまり、敗戦は仮の姿で、また旧に復して軍事大国にしようというというのが「大方の国民感情」だという。およそ世間からかけ離れた、南米の勝ち組在留邦人のような妄想を臆面もなくかかげている。講和後戦前回帰を拒み、懸命に経済復興に励んだのはのは「大方の国民」に入らないとでも言いたげだ。

 ここが、塾頭とは180度の違いだ。強いて想像すれば、東京裁判で東条被告が「戦争は正しかった」と真正面から告発側に立ち向かったことを「他の被告とは違うな。かなかやるじゃないか」という国民の評判があったことだろうか。

 しかし、前稿で書いた東条の自殺未遂に象徴されるような軍部不信を覆すようなものではなく、個人の評判をやや回復した程度の事だろう。大方の国民が考えていることは「二度と旧軍閥復活をゆるしてはならない」ということだ。

 それにしても、同じ世代で同じ体験をしていながらどうしてここまで違うのだろう。塾頭は人を生まれや育ちで品定めすることはできるだけ避けるようにしている。しかし、ようやく子供を脱したばかりの頃のことだ。それまで彼はどこでどうしていたのか気にかかる。

 彼は神奈川の湘南中学に入学していた。1級下には石原慎太郎がおり、交友関係がある。同校は高級軍人への登竜門として有名で、海兵(海軍兵学校)の予備校とまで言われた。その後彼は日比谷中に移るが、草深き田舎の学校にいたぼんくらの塾頭とは、まずこの点で違う。

 国益のため沖縄が米軍基地の犠牲になってもやむを得ない、福島の過疎地で原発が事故を起こしても国家として原発を推進する必要があるという立場に立たない。ぼんくらであっても、「人間」であることと「結果」を最優先するからだ。

 大方の国民は、国を愛するが故におろかな失敗を2度と繰り返さない、と考えているはずだ。それは、現在でも変わらない。江藤シンドロームを断ち切るために、各方面でもっと声をあげてほしい。

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2011年10月14日 (金)

GHQが洗脳はウソ

 井上ひさし、美輪明宏、石原慎太郎、本田勝一、江藤淳、開高健、こういった人たちは、塾頭と年齢にして2、3歳と違わない。戦中戦後を小学生、中学、高校で過ごした年代である。ことに終戦から戦後にかけては、最も感受性が高く、好奇心も反抗心も強い時代であった。

 本題は、「A級戦犯はGHQが日本人を洗脳して決めた不当なもの」という、言説が流布していることに対し、当時を体験している者として、誤った解釈を放置できないという危機感からまとめたものである。

 この問題については、9月4日の「無意味な東京裁判批判」を皮切りに、30日の「占領軍と言論の自由」、そして今月に入って「戦後再考録」1~3を連続して掲載し、さらに前回の「品のない国家」に続けた。本稿はそのしめくくりとして、前後2回に分け総括に位置付けたい。

 前述の「言説」に興味をもったのは、たまたま本塾に寄せられたコメントがきっかけであるが、その後ベストセラーズとなった『国家の品格』の著者・藤原正彦が、同様の知識を江藤淳の『閉された言語空間』から、彼の言葉を借りると「余すところなく」得ていることを告白(「文芸春秋」10/7)していることがわかった。

 その著作から、正確を期すためやや長い引用をして結論部分を紹介する。(段落の頭にある色番号は塾頭による)

(前略)『太平洋戦争史』と題されたGI&E製作の宣伝文書は、日本の学校教育の現場深くにまで浸透させられることになったのである。

 それは、とりもなおさず、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の浸透であった。『太平洋戦争史』は、まさにその「プログラム」の嚆矢として作成された文書にほかならないからである。歴史記述をよそおってはいるが、これが宣伝文書以外のなにものでもないことは、前掲の前書を一読しただけでも明らかだといわなければならない。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。

(中略)前掲のGI&E文書が自認するとおり、占領初期の昭和二十年から昭和二十三年にいたる段階では、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、かならずしもCI&Eの期待通りの成果を上げるにはいたっいなかった。しかし、その効果は、占領が終了して一世代以上を経過した近年になってから次第に顕著なものになりつつあるように思われる。

 なぜなら、教科書論争も、昭和五十七年(一九八二)夏の中・韓両国に対する鈴木内閣の屈辱的な土下座外交も、『おしん』も、本田勝一記者の゛南京虐殺゛に対する異常な熱中ぶりもそのすべてが、昭和二十年(一九四五)12月八日を期して各紙に連載を命じられた『太平洋戦争史』と題するCIE&E製の宣伝文書に端を発するから騒ぎだと、いわざるを得ないからである。そして、騒ぎが大きい割には、そのいずれもが不思議に空虚な響きを発するのは、おそらく淵源となっている文書そのものが、一片の宣伝文書に過ぎないためにちがいない。

 占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうむ返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というほかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを依然として墨守しつづけているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生まれの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。
 
 つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。

 
 以上のからまでが同書の結論部分といえる。このあと、NHKが放送した「真相はこうだ」にも同じ役割があったとしており、藤原その他の言説に符合する。江藤が渡米し、詳細に関係資料に当たって拾い出した労作であることには違いなく、そこに示されたこと自体は史実である。

 それを、冒頭に書いた塾頭同年輩の名士は、それぞれみんな体験しているわけだが、さすがに江藤は、日本人すべてが洗脳されたとかマインドコントロールを受けたとは書いてない。むしろでは、米国資料がその逆であって、失敗だつたという評価を正直に述べている。

 それが、一世代あとになってゾンビのように生き返って「不思議に空虚な響きを発するのは、おそらく淵源となっている文書そのものが、一片の宣伝文書に過ぎないためにちがいない」、と軽視しておきながら、一方で、いまだに生き続けるのは「天下の奇観というほかない」と、直接つながってこないことを検証でないために、文学的表現で嘆いて見せているのである。

 それが、まさにこの本の題名『閉された言語空間』になったのであろう。つまり、当時「一片の宣伝文書に過ぎない」ものに日本人がだまされたというのは、虚構だったということを認めているようなものだ。

 彼の誤算は、自虐史観の蔓延を占領軍の占領政策の意図的政策によるものと主張したかったことを、史実として証明できなかったことによる。その点を、塾頭の体験として終戦からの3、4か月をこれまでのエントリーで書いたが、その後を追加してみよう。

 同書によると、『太平洋戦史』は、CI&Eが準備し、昭和20年12月8日から新聞連載が始まったという。全体で1万5000語だから大した量でない。翌年3月には連載が終わっており、単行本が発行され、学校に教材として購入するよう通達もだされた。

 「真相はこうだ」は、1日遅れて9日から始まり翌年2月10日まで週1回の放送があった。塾頭は、『太平洋戦史』について全く記憶にない。ただ、「真相はこうだ」については、オープニングの効果音、ベートーベンの第5交響曲の最初の部分とともに聞いた鮮明な覚えはある。

 たとえば、バターン死の行進など初めて聞く内容があったかも知れない。しかし、戦争なのだからそれくらいのことはあっただろうし、アメリカ側から言うのだから割り引いて聞くのが当然だという考えでいた。

 なお、『太平洋戦史』の教材のことだが、それを使って教えられたことなど一切ない。当時の先生は、皇軍を推戴信奉した1年前の先生と同じである。同じ口で軍を誹謗しても何の教育にもならない。つまり、洗脳はなかった、ということである。このことはアメリカの資料で憶測するのでなく、国内資料を精査すれば証明できることである。

 上記の中に、CI&Eというアメリカの機関がたびたび出てくる。たしかシビラル・インフォーメーション・アンド・エデュケーションのことだと思うが、県庁所在地にCIA図書館というのがあり、塾頭も訪れたことがある。

 目的は、16mm映画の映写技術講習をしてくれるというので参加したように覚えている。学校はもとより、地域社会、就職してからも大変役に立った。ところが、CIEから「洗脳」用フィルムを借りた覚えは全くない。借りたとすればターザンの短編か文化映画だったかも知れない。それすらもよく覚えていない。

 さて、冒頭に書いたように、同じ年代で同様の社会的経験をしながらどうしてこんなに考えが違ってしまうのだろうか。 その辺を次回に回したい。

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2011年10月12日 (水)

品のない国家

♪私は真赤(まっか)な りんごです
  お国は寒い 北の国 ……

 なんでこんな古い童謡の歌詞を持ちだすかというと、「北の国」は、ロシアではないよ、と言いたいからです。「そんなこと当たり前だろ」と言われそうですが、故郷(くに)と、国家(くに)をごっちゃにしている人が案外多いのです。ひとりあげておくと『国家の品格』を書いた藤原正彦さんなどです。

 若い頃には、「お国はどちらですか」と聞かれ「信州です」などと答えたものです。「日本です」と答える人はまさかいない。もうひとつ古い手まり歌を。

♪あんたがた どこさ 肥後さ 肥後どこさ 
  熊本さ 熊本どこさ ……

 肥(火)の国も因幡の国も神代からの「くに」で、近代的な国家ではありません。人類は生きて行くために集団を作ります。その最小の単位が家族です。水田を作ったり、狩や魚を能率的にするためにはもっと大勢の人が協力し合わなければなりません。

 それが、部落となり故郷(くに)となっていくのです。その「くに」が隣の「くに」といさかいになることは当然あります。しかし、それはお互いに傷つくだけなので、そういった争いをさけるためにも仲間の範囲を広げ、今ある国にらしいものができてきます。塾頭はそれを推古天皇の頃だと見ています。

 もともとは、人が生きて行くために必要な小さなくにから始まっているので、世界では、正式国名が連邦とか合衆国だとか共和国という名をつける場合が多いのですが、ここに困ったことが起きました。国家になると、軍隊を持たなければならないということが常識になってしまったのです。

 警察や消防なら、故郷単位に設け、せいぜい横の連絡を密にしておけばいいのですが、国家となると外国からの攻撃に備えたり、場合によれば相手国を占領するため近代的軍隊が必要という考えに至ったのです。
 
 逆に言うと、国家がなければ近代戦も起きないということです。小さなくにでは、核兵器はもとより、大型ミサイル、潜水艦、ステルス戦闘機など作ることができません。人力の及ぶ範囲をこえて広がることはありません。

 日本も明治維新以降「富国強兵」政策をとりました。これはある意味で日露戦争までは正解だったと思います。そのために、日本自身はもとより、アジアからロシア、イギリスなど西欧列強の侵略を後退させたといえましょう。

問題はその後です。第一次大戦でヨーロッパのほとんどは悲惨な戦場になってしまいました。日本も参戦し、ドイツが権益を持つ中国の山東省などを攻撃(中国は当初中立宣言)、楽々と戦勝国になりました。

 戦後、欧米は戦勝国を含め大戦のあまりにも大きな被害に愕然としました。そして、国際連盟設立、不戦条約、軍縮交渉など戦争の反省にたって、帝国主義より平和模索へと大きく舵を切りました。悲惨さを知らない日本は、それをしり目に中国大陸でそれゆけどんどんを続けてしまったのです。そして第2次大戦です。

 藤原さんは、「そんな論理より日本人は情緒だ」とし、欧米流の自由、平等、民主主義を重視するのは、第二次大戦後のGHQの洗脳の結果で、大東亜戦争を始めたのは正しかったのだ、などととんでもないことを言いだします。

 明治維新が自由民権運動に始まり、大正デモクラシーのもと「自由学園」が創設されたのも生粋の日本人の考えです。日本人は、以前から自由を尊重し愛する気風があったのです。すると、「国民は永遠に成熟しない。放っておくと、民主主義すなわち主権在民が戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう」(前掲書)などと、めちゃめちゃを言います。

 先ほど来言っているように、本来人が生きるために必要な最小限度の共同生活の場では、愚かな戦争など起きるはずがありません。その危険があればお互いの知恵がそれを解決します。しかし、一旦国家ができ、近代的な軍隊を持つと「抑止力」などといって際限なく軍備が自己増殖していきます。

 そうして、政治にまで影響をもたらし、また政治家はそれを利用しようとします。国民は高い税金を軍備にとられ、その上戦争になって国土や命まで危険にさらすようなことを望むはずがありません。戦争を煽る言動があったのは、国家を仕切っているヒトラーからブッシュまでいくらでも例があり、国民が主犯ではありません。

 しかし2回の大戦、その後の2大強国による冷戦を経て、さすがに近代兵器を総動員した戦争はなくなってきました。核もミサイルも巨砲巨艦も、アメリカの海兵隊でさえ宝の持ち腐れになって来ました。今あるのは、地域紛争などに対する介入かテロとの戦いだけで、活躍するのはせいぜい小型無人機程度です。

 地域紛争のほとんどにアメリカが関与し、「世界の警察官」などと呼ばれてきましたが、知恵ある国民がNOを言い始めたこともあり、その地位は大幅に後退せざるを得なくなっています。極端に言うと、世界の趨勢は「戦争は避けられる」という方向に向かってきたのではないでしょうか。

 戦争放棄の日本国憲法の出番がようやくやってきます。反面、「そうではないんだ」と叫び続ける人たちが依然としていますが、当塾はそういう人たちを新・保守反動と言っています。こういった、品のない国家主義者は、早くなくしたいものです。

 ただひとつお断りしておきますが、まだ、「先軍主義」などといって、怪しい国があることは事実です。そういう国のために、専守防衛の能力向上が必要ならば、その努力を惜しまないことです。その上で日本は非武装中立ではない、世界的な任務を国連を通じて果たすべきだと思います。

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2011年10月10日 (月)

反戦塾乗11/10/11

産経、大誤報のおわび

【おわび】
「江沢民前中国国家主席死去」の報道について
2011.10.9 15:04
 7月7日の速報および号外(電子版)で、日中関係筋の情報として「江沢民前国家主席死去」の見出しとともに、「中国の江沢民前国家主席が6日夕、北京で死去したことが7日分かった」と報じました。しかし、江氏は10月9日、北京で開かれた辛亥革命100周年記念大会に出席したことが判明しました。見出しおよび記事の内容を取り消し、関係者と読者のみなさまにおわびします。(msn.産経ニュース)

 Dscf34621_2 新聞の誤報をあげつらう意図はないのだが、本塾では、報道されたその当日、「産経の早とちり?」、と9月15日の「号外あれこれ」の2回を記事にした。当塾の性格上、中国報道は格別の意味があるで、その後の同紙の扱い方が気になっていたのだ。

 当塾は、最初の報道の当日から、?マークをつけて紹介したが、3か月余りたったこのほど、ようやく訂正記事を出した。上記の「おわび」は、社会面の事件報道などの訂正記事によく見られるパターンで、ちょっと拍子抜けした。

 長屋の八っつあんが「隣の爺さん死んだよ」と世間に言いふらしておいて、あとで「まちがいでしたごめんなさい」ではすまされない。最低でも、頭をまるめ、銘酒1樽に尾頭付きを添えて詫びに行くだろう。

 江沢民が記念大会に出席、死亡否定を報ずる同紙の記事は、他紙と同じ表現で「一部マスメディアでは……」と、誤報をまるで他人ごとのように扱っている。これで頬かむりしてしまうようでは、ふだん歯切れのいい同紙らしくない。それに、記事の信用が地に落ちるること必定だ。一方の旗頭として、誤報の原因を究明・検証し、善処を期待したいところだ。

 今年の流行語

 予選突破は、文句なく
・除染
・シーベルト
・ベクレル
・脱原発

・想定外
は、あまり腹立たしいので選考からはずす

・○○菅
・ドジョウ
など早々と予選落ち

・絆
は「今年の漢字」向き

・暴力団
・政策捜査
・ペテン師
・やらせ
使い古して新味なし

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2011年10月 8日 (土)

放射能とタバコ

 (以下『薬用食品事典』三省堂、より抜粋)

がん原物質の問題
  主な発がん物質

●タバコ
 煙の中に含まれる放射性粒子が肺がんばかりではなく、からだのあらゆる部位で悪性腫瘍を引き起こす原因となる場合があります。
 タバコは一本につき、〇・五ピコキュリーの放射能をもっています。毎日三〇本程度ずつ吸い続けると、一年間では三〇〇回のX線を受けたのと同じ線量のα線を浴びることになり、放射性粒子は肺を通じて全身に回ります。(その他の物質は省略)

がん原物質への考え方

 タバコにしても、一生吸い続けていても肺がんにならずに天寿を全うする人もいれば、タバコを吸わないのに肺がんで死ぬ人もいます。
 これらのことから、発がんの危険があると発表された物質でも、それは、多くの人の例を分析したり、動物による実験結果からの因果関係を推測したものにすぎないのであって、必ず発がんすると断定できるものではない、ということがわかります。
 わらびもふきのとうも、毎日どんぶりに山盛りにして食べ続けていれば、がんになるかもしれません。しかし、適量をたまに食べる程度で、がんになると考えることはばかばかしい、といえるでしょう。

 
 「へぇ~、そうなんだ」うかつながら塾頭、タバコは、ニコチンかタールがいけないのだと固く信じていた。周りの人に聞いても同じ反応。まさか、東電や原子力安全委員会が放射能被害のこわさを隠ぺいしていたとは言わないが……。

 タバコを吸う人、「だからこれからも吸い続けよう」ではなく、「おれ(わたし)は、福島原発と同じに放射能を吐き散らして線量をふやしている」と考えるべきだ。

 小宮山厚生労働大臣さま!、「放射能排出源から高い税金や賠償金をとるのは当然――」、そう言ってみたら。ちなみに、この事典が発行されたのは1983年、28年も前。「がん原物質」に福島第一原発製放射能は入ってなかった。

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2011年10月 7日 (金)

小沢の中央突破法廷戦術

 いやー驚きました。以下が小沢自身が法廷で読み上げた陳述の結論部分です。(毎日新聞の全文内容記事による)

戦前、軍人と官僚や検察・警察官僚らが結託し、マスコミを巻き込んで国家権力を乱用し、政党政治を破壊しました。その結果は無謀な戦争への突入と敗戦という悲劇でありました。昭和史の教訓を忘れ、権力の乱用を許すなら、日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません。

 東日本大震災からの復興はいまだ本格化せず、福島第1原子力発電所の事故は収束のめどすらつかず、加えて欧米の金融財政危機による世界恐慌の恐れが目前に迫ってます。政治の混迷が深まると、国民の不安が遠からず爆発して偏狭なナショナリズムやテロリズムが台頭し、日本の将来は暗たんたるものになります。悲劇を回避するには、国家権力の乱用をやめ、政党政治への信頼を取り戻し、真の議会制民主主義を確立するしかありません。まだ、間に合うと私は思います。裁判官の皆様の見識あるご判断をお願い申し上げ、私の陳述を終わります。ありがとうございました。

 当塾は、ちょうど1年前の今日、「小沢氏には戦ってほしい」という記事を掲げました。小沢氏の意見陳述は、無罪言明を除くとその趣旨をより過激化し、さきの戦争に関する歴史観まで闡明にしたものです。

 当塾もかねがねこれに近い主張をしていますが、これでは、まるでアジ演説のようですね。「そこまで言っていいんかい」という感じもします。最近マスメディアの間でひそかに「小沢バッシング」から「小沢パスイング」が進められようとしています。つまり、公判が始まり、これまで通り大きな記事を続けることは、小沢の政治力を過大に見せることになるので控えめにし、議員の小沢離れを促す方が万事好都合だということでしょう。

 小沢さんの緊急入院までそうだ、とは言いませんが、記者会見における記者への挑戦的発言を見ても、明らかに計算された正面突破作戦にでた、と見ています。小沢さんにとって大変危険な発言だが、司法、検察側にとっても同様なことが言えます。マスコミの小沢隠しは成功しないでしょう。

 塾頭は、小沢信者ではありませんが、小沢信者は2とおりあると思います。ひとつは、小沢チルドレンといわれる議員や安保・外交上左派的な発言に共感するネット上の支持者で、もう一つは、小沢さんに「天の声」などという魔力があり、献金しておかないと仕事がこなくなる、という小沢信者です。

 さすがに後者の信者はなくなったでしょうが、問題となった2つの建設会社の頃はその魔力を発揮していたという信者は、いまだ前者の信者以上に健在です。小沢さんの悪いところは、そういった信者を巧みにあやつり、それが「政治」だと思っているところです。

  ただ、彼が「法に触れるようなことはやっていない」というのは、塾頭の心証からすると事実だと思います(そのかわり法に触れないことならやっていたということにもなりますが……)。政界に入る前、自ら司法試験に挑戦し、親分の田中角栄裁判では欠かさず傍聴した、というほどですから、簡単に足がつくようなことは、していないはずだと思います。

 それ以上にいま一番大切なことは、冒頭に掲げた陳述の中味です。体をいたわりながら、最後まで初志を貫徹してください。その限りにおいて塾頭は限定つきながら小沢信者となります。

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2011年10月 6日 (木)

戦後再考録 3

(承前)

昭和20年9月11日
 GHQが東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕を発表。この日、米兵を外に待たせておいたまま、東条が自殺未遂を演じた。これと前後して幾多の高級軍人や外交官などが自殺している。中には日露戦争当時の乃木大将にならってか、夫人まで道連れにした人もある。

 拙宅に何冊かの「昭和史」があるが、このことを書いている本はごくすくない。しかし当時はたちまち新聞が売り切れるほどの大ニュースだったのだ。胸部か腹部かを拳銃で撃ったが直ちに入院、生命に異常はないという。

 当然学校でも大きな話題になった。「拳銃自殺なら、銃口をこめかみにあてて引き金を引くよなあ」、「いや、敵に捕まりそうになったら口に銃身を入れて撃つのが一番確実だと聞いたよ」「ピストルで死なない方法は、腹の皮をつまんでそこを撃つのが一番だ(笑声)」。

 塾頭に言わせれば、この日をもって旧軍部や戦争指導層に対する信頼が国民の間から一挙に消え去った。その一方、国民の何%かは、そういった人たちやその縁者なので、声をひそめてしまったということだ。

 戦中、初年兵に向けた上官の集団暴行や軍を笠に着た横暴に悩まさた経験者は多い。(下のリンク記事参照)。だけど、東条は特別だった。「生きて虜囚の辱を受けず」などと「戦陣訓」なる日本人の心得を説き、大勢の民間人や軍人を死地に追いやったが、当初は演説といい馬にまたがった軍服姿といい、とにかくかっこよかった。

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-469c.html
戯れ歌

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-7da2.html
戦時不穏歌謡

http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_abba.html
ゴーストップ事件

 その、軍国少年の理想像が自ら戦陣訓を裏切る醜態をさらしたのだ。学校でも軍隊をまねた集団いじめが横行し、戦後も「予科練くずれ」などという上級生がいて続いていたが、この日の頃からいつしか消滅した。また、巷間でも「日本が負けてよかった。もし勝っていたら軍人がどんなに威張り散らすかわかったものじゃない」という人々の声も聞くようになった。

 10月23日
  読売新聞社従業員大会、社内の戦争責任者の退陣と社内民主化を決議して争議開始。これを「第1次読売争議」といい、朝日、毎日にも同じ動きはあったものの、生産管理戦術(組合だけで発行を続ける)という過激な方法は突出していた。

 晴れた秋のある日(塾頭の追憶なので日付は不明)、年頭あたりから教室の天井に届くほど積み上げられた軍需物資の中から、新品の飯盒が生徒に配られ、近郊に飯盒炊飯のピクニックをすることになった。

 よく炊く米があったものだと思うが、戦時の行軍から平時のピクニックに変わった味わいはなんとも言えず、十分楽しめた。ところが、帰校すると飯盒を回収するという。今なら当然のことだが、生徒は、飯盒を投げあげたりガチャガチャぶつけあって不当をならした。

 そういった、旧軍の物資の中から豚皮で作った軍靴や毛布・衣類など、先生方がこっそり持ち帰っていることを生徒が知っていたからだ。ひどいのは、生徒が畑で作ったサツマイモを夜陰にまぎれ収穫した先生の名も噂にあがった。

 結局、一度使ったものを返すことはない、という要求に学校側は屈した。いい気なものだが「民主主義はいいなあ」と思った瞬間だ。町には日本軍に代わって米軍兵士があふれていたが、将校クラス(どれが将校かわからない)に対し停止敬礼をする必要もなく、英単片手に談笑できるまでになった。

 以上は、文春・新潮文化人のいう「太平洋戦争史」やラジオ「真相はかうだ」による「洗脳」が始められる前である。言論が弾圧されたというが、NHKの一般人が政治的意見を言う「街頭録音」が始まったのはいつ頃だっただろうか。

 「洗脳」論者は、「あとで編集して都合のいい部分だけを放送」と言いそうだが、復員してきた叔父が「しゃべってきたよ」と興奮気味に語ったのを覚えている。とにかく、言論については、弾圧より戦中にない自由を獲得したんだ、という感覚の方が庶民にははるかに強かった。

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2011年10月 5日 (水)

戦後再考録 2

(承前)

昭和20年8月23日
 帝国陸海軍の復員が開始されるとともに、政府は「進駐軍を迎える国民の心得」という論告を発表。「女子は日本婦人としての自覚を持って外国軍に隙をみせてはならぬ」等を指示した。マッカーサーが厚木飛行場に到着したのが28日、総司令部は横浜で、9月8日に東京に進駐を開始し、皇居前の日比谷に司令部を移したのが16日だった。

 塾頭の住む田舎の町には、歩兵連隊とか陸軍通信学校というのがあり、その兵舎が利用できるためか米軍が大勢進駐してきた。驚いたのは、国鉄(JR)から分岐する私鉄電車線(線路のカーブのRや荷重設計が軽便電車なみ)のところへ、国鉄の機関車(C11→新橋駅にあるのと同じ型)に長さが20mある客車を何両かつなぎ、そのまま乗り入れてきたことである。よくジコらなかったものだ。

 その彼らが学校にやってきたのは、多分10月になってからであろう。あらかじめ予告されていたせいか、生徒は教室から出てはならぬと指示されていた。初めて見る米兵だ、好奇心のかたまりのような時代である。今やおそしと教室や廊下の窓から、その姿を追った。

 ジープに乗ってやってきたのは丸腰のGIルックである。赤ら顔でいやにケツのでかい奴らだな、と思った。そのうち各教室にあった剣道用の木刀(柔・剣道は正課で木刀は私物)を校庭に持ち出し積み上げた。へし折ったか持ち帰ってか、そこまでは見ていない。

 生徒が「畜生、とか馬鹿野郎」と言った事に、先生は「奴らはそういう言葉を知っている」と制止したことを覚えている。以下に引用するが、藤原正彦の前述書のハーグ条約違反どころか財産略奪である。鉄道乗り込みにしても無茶な国内法違反であった。

 下手にエリートをつくると、底力のあるこの民族は再び強力な国家を作ってしまう。そこで、まずエリートをつぶさねばというわけで、真っ先に旧制中学、旧制高校を潰してしまった。

 もちろんこの措置は、1907年に結ばれたハーグ条約にある「占領者は現地の制度や法律を変えてはならない」という趣旨の第四十三条にあからさまに違反するものです。大がかりな検閲によって言論の自由さえ封殺するという、洗脳のための蛮行を密かに実施していたアメリカにとって、これくらいは朝飯前だったのです。

 その後段に「ハーグ条約におけめ宣戦布告条項は、単に開戦儀礼に関する取り決めであり、誰も重要なものとは思っていなかったのです」と真珠湾攻撃を合法化する文章になっている。

 ルーズベルトが激怒したのは開戦したかったための扇動だった、という憶測を含め、論理の矛盾にはついていくことができない。反米思潮を増幅するためでなければ、当時の現場と現実を無視した空論に何の意味があるのだろうか。

 ちなみに、上記引用の冒頭にある奇妙な「エリート論」だが、塾頭は旧制中学に入学し、自動的に新制高校を卒業した。入学試験を受けずに高校生になれたわけで、喜びこそすれ反対の理由はなかった。また、中学の義務教育化で国民すべてが無償で中等教育まで受けられるようになったことに、反対したり怒ったりした日本人は寡聞にして聞いたことがない。

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2011年10月 3日 (月)

戦後再考録 1

 前回、高見順の『敗戦日記』を取り上げ、終戦後数か月を言論の自由という視点で取り上げた。それは、最近、戦後占領軍の過酷な言論弾圧があり、かつ徹底した宣伝活動で洗脳されたというような、歴史ねつ造の言説ががまかり通っているの知ったからだ。

 それは、さきの戦争が侵略戦争でなかったという虚妄と東京裁判不法論、それに最近起きつつある反米思想がセットになっている。それは過去のから現在に至る時代の流れを無視し、自説に都合のいい断片的な所論を、時間と空間を無視してつなぎ合わせた、まともな評論に値しないような中身だ。

  その、旗振り役の一人が『国家の品格』を書いた藤原正彦お茶の水女子大名誉教授であることもわかった。彼は1943年生まれで、終戦時まだ2歳に達していないから当然戦中戦後は知らないはずだ。

 また、数学が専門で歴史に精通した専門家でもないので、お話として聞き流してもいいのだが、日中の関係で盧溝橋事件の1説だけを取り上げ、柳条湖事件や上海事件の自作自演謀略などは頬被りしたまま。これではアジアに平和が訪れるわけがない。

 それが史実だと思い込む、それこそ彼の言う「エリート」ならぬ若者が゛洗脳゛されるようだと困るので、当塾過去記事との重複を厭わず、カテゴリ「戦中・戦後」編に精出してみたい。

・昭和20年8月15日
 中学2年生、空腹緩和のため数日まえから2、30キロ離れた純農村地帯にある祖父母の家に自転車で行っていた。重大放送は小学校長だった祖父と一緒に聞いた。天皇の声は「耐えがたきを耐え」というような部分的にしかわからなかったが、続くアナウンサーの解説に「休戦」というような発言があり、「ああ、終わったんだな」という感じはした。

 来年か再来年あたりは、ぼんやりと海軍の予科練でも志願するのかなあなどと考えていたがそれより前に本土決戦となればそんなことは吹っ飛ぶかも知れないから、考えても仕方ないという気もしていた。

 祖父は何もしゃべらなかったがよく表現される「茫然自失」だたかどうかはわからない。その孫の方は人一倍好奇心の強い少年で、世間の様子を見ておきたかった。そこで自転車に乗り、役場やまわりに2、3軒の商店と小さな駅があるあたりへ行って見た。

 覚えているのは、米屋の作業場で2、3人の人の中で1人の若い女性が泣いていたことだけである。4年前の開戦もラジオで知って、父に「勝てるの?」と聞いて「う~ん」とうなっただけのような返事だったように思える。この時も町に出て見たが、早朝にもかかわらず奇妙に静まり返って人影さえなかった。

・8月20日
 この日は、夏休み前から決まっていた登校日である。ただし集合場所は、磐越西線沿線にある山中の某小駅前である。2日がかりで灌木が生えている小山を、そば畑に変える作業をするためである。

 炎天下のつらい作業だったが、急に日光を浴びたせいか卵の中からトカゲの赤ちゃんがでてきたのが印象的だった。夕飯は大きなドラム間のような鍋で作ったライスカレー。肉が入っていた記憶はないが、皮をつけたままで二つ切りにしたジャガイモがいやにうまかった。

 炊事も食事も分教場の校庭のような所である。食後は生まれて初めてのキャンプファイヤー。意気の上がったガキ大将は、「俺たちは戦争に負けてないぞ!、米軍がきたら戦うんだ」と叫んだがなんとなく後が続かない。

 別の少年、「おい、大丈夫か。こんなに火をたいて」。灯火管制に慣れた生活にはたしかに異様に感じた。先生も、「法的には戦争がまだ続いているから、米軍機が見つけて機銃掃射してもいいということになる」などという。先生は多くを語ろうとせず、疲れているので早々と切り上げたが、まあ、楽しい思い出にはなった。

 実は、この日をもって3年8か月ぶりに灯火管制が解除になっていたのである。

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