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2011年9月19日 (月)

貞観の教訓

倭国は古の倭奴国なり。(中略)貞観五年、使を遣わして方物を献ず。太宗その道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。(『旧唐書倭国日本伝』岩波文庫、による)

 最初に「あれっ?」と思ったのが貞観五年である。このたびの原発事故で想定外にされ、すっかり有名になった貞観(じょうがん)大地震と同じ頃……。そんなわけがない。引用した中国正史は、聖徳太子のすぐあと、第1回遣唐使(631年)のことで、貞観地震は250年もあと、平安時代のはずだ。

 当たり前だ。日本が中国の年号をそのまま使ったことは、私的にはあっても、公式にはない。日本が、かつて使った中国年号をパクッたまでのことである。最近、ネット・右翼などが中国をパクリの名人などと言うが、すこし恥ずかしいのではないか。

 せっかくの機会なので、もうすこし古代日中外交史を眺めてみよう。まず上の『旧唐書』は、こんな調子だ。

太宗「なに?、倭国から貢物をもってきた?」「遠い海を越えてやってきたのか。愛いやつらだ。無理して毎年朝貢するに及ばん、そういってやれ。」「そうだ、高表仁あたりがいいだろう、送りがてら日本へ土産をもたせ、返礼を尽くして倭をほめてつかわせ」

 こうして、高表仁は日本にやってきて上陸地難波で盛大な歓待を受けた。それは『日本書紀』にもある。ところが「表仁、綏遠の才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」に相当する記述が日本にはない。会ったのは、田村皇子だろうか。

 表仁は「天皇に直接会って話をする。そこで土産物を披露する」などと言ったのかも知れない。皇子は「それは、日本の宮中儀礼に反する」と言って喧嘩になったのか、土産も渡さず天皇にも会わずに帰ってしまった。

 『日本書紀』では、彼を高官に送らせたとあるが、それは対馬までで「身辺警護」が目的だったのだろう。一方、『旧唐書』は、表仁に遠国との外交を成功させる才能がなかったと、日本に責任を負わせるようなことはせず、むしろ表仁の方が引責辞職しなければならないような書きぶりだ。

 相当な媚中外交だが、いうべきことはきちんと言う。今の官僚任せ外交とは違う。さて、日本の貞観時代はどうだっただろう。年表(『日本史年表』河出書房新社)にはこうある。

貞観11
▽5・22新羅の海賊船二隻が博多津に来て豊前国の年貢絹綿を掠奪する。▽26陸奥国大地震。▽7・14肥後国大風雨

 この前後の年にも火山の噴火が記録され、原発事故がないだけで今年に似ている。海外関係では、新羅の侵略に備えて九州一帯の警備を強化するなど、あまりいい話はない。

 外交を見ると、25年ほど前に遣唐使が派遣されたあと、25年ほど後に次の遣唐使派遣が計画されたが立ち消えになった。唐の衰退と、国費を使って求めなければならないようなものは既に無く、以後は民間ベースになる。

 一方、渤海国(今の北朝鮮の北方一帯)との交流は毎年盛んで、新羅や唐との抑止力ねらいだったのかも知れない。いずれにしても、災害のために外交がお留守になるようなこともなく、千年以上前の事として「検討せず」どころか、今も生き生きとして通用する話ばかりである。

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