「脱原発」タブー化を正せ
長崎の原爆記念日の平和宣言に「脱原発」という言葉を使うことを避け、別の言い回し方をするという。前例として、菅首相の記者会見を「脱原発」ではなく、周辺が「脱原発依存」だなどといいつくろったことがある。その後「卒原発」だとか「減原発」など、ノンセンス造語の濫発だ。
この奇態な現象は何に起因するのか、なかなか理解ができなかった。それが、新聞記者や解説者の語り口を聞いているうちに、脱原発→反原子力→反核運動→左翼という連想が働いているのではないか、ということに気がついた。
そこで、はたと思い出したのが、当時官房長官だった仙石さんが国会答弁で使った「暴力装置」という言葉である。マックスウェバーが国家論の中で使った「ゲバルト」というドイツ語を「暴力」と直訳した学術用語で、塾頭もいつの頃からかごく自然に使っていた。
それを「自衛隊に失礼だ」とか「左翼が使う言葉だ」とか喧々諤々の非難を浴び、あっさり陳謝し、辞任にまで持って行かれた。これがいけない、なぜ堂々と反論し、説明をつくして相手の不勉強をなじらなかったのか。
こうして、間違った解釈が正しくなり、正しい表現が誤用になってしまった。これと全く同じ現象がいま起きつつある。この言葉は、福島事故が起きるはるか前から、むしろ原発容認派といっていいような学者の間でも使われていた言葉である。
塾頭も、その解釈で「脱原発の定義が必要」の記事など、繰り返し「脱原発」の意義を強調してきた。しかし、その言葉は「反原発」「反核」の意味に置き換えられ、それが正しいような風潮になりつつある。かつて「ことば」がこんないい加減な扱いをされた時代があっただろうか。
その「ことば」について、吉岡斉九州大副学長の著書『原発と日本の未来』(11/2/8、岩波書店)からやや長い引用をしておく。菅首相や政府の目指していることは、全く「脱原発」に他ならない。日本国のために、日本語のために堂々と「脱原発」を使ってほしい。
一九八〇年代まで、原子力発電に反対する人びとは「反原発」論者と呼ばれてきた。しかし八〇年代末から「脱原発」という新語が普及し始めた。それは八六年のチェルノブイリ3号機事故以来、ドイツで広く使われるようになったアウスシュティークAusstieg(バスや電車から降りる意)という言葉を日本語に置き換えたものである(高木仁三郎『市民科学者として生きる』、岩波新書、二〇〇〇年、一九七ページ)。脱原発という言葉゜には、すでに原子力発電が社会の中で一定の役割を果たしている事実を認識した上で、原発からの脱却を図るという意味が込められている。
脱原発という発想に立てば原子力発電の即時全面廃止という主張はしにくくなる。まだ十分に使える原発を廃止させるためには電力会社への損失補てんが必要となるし、代用として原発以外の発電設備を数多く建設しなければならず、そのためには一定の時間的猶予が必要となるからである。したがって脱原発の立場からは、安全上の問題があったり、自然災害の被災の可能性が高い場所にある原発を例外として、既存の原発が老朽化するまでの運転継続を認める一方で、原発の新増設は禁止とし、十数年またはそれ以上の時間をかけて原発の全面廃止という終点へと段階的すすんでいくという柔軟な判断に傾きやすい。それが反原発の発想との違いである。
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