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2011年2月11日 (金)

西暦1900年という年

 Dscf3306 Dscf3306_2 カットの小学校唱歌集が発行されたのは、1900年、すなわち明治33年で、日清戦争の5年後、日露戦争の始まる4年前である。全17曲のうち、2、3、4番目に掲げられた歌詞を見る。

  軍歌  目賀田萬世吉作曲
       帝国読本編者作歌

我等 は 日本男児 なり 世界 で
強い は 我等 なり 幾千艘 の
軍艦 も 幾百万 の 大軍 も
少し も 畏るること は ない
我等 の 持ッてる 鉄砲 に 和魂
(やまとだましい) の 丸(たま) を 込め
一度 に ヅドン と 射ッて やろ

   おきて  入江好治郎改作

一、よく よく 守れ 学校 の おきて
  よく よく 守れ 先生 の 号令 を

二、よく よく 守れ 国 の 法度(おきて)
  よく よく 守れ 天皇(きみ) の 命令 を

   海国  山田源一郎・白井規矩郎作曲
        田中壽治作歌

一、我等 いっしよに船造り 盥の海に浮すべし
 軍艦商船うちつれて大浪蹴たてゝ進むべし
 木片(きぎれ)の船を浮かべては
 盥の水も海なれど世界の海も後にこそ
 盥のうちの水と見め。

二、国の品物積み込みて 遠き国まで送るべし
 打出す大砲音高く国の威風を示すべし
 我が日の本は海の国 四方の港は水深し
 やよや人々船浮けて富と御稜威を世に誇れ
(トントンなど擬音、エンヤラホなどのかけごえは省略した)

 この年、中国では「義和団」という、拳法を信奉する団体が「西教排斥」「扶清仇教」をモットーに大規模な暴動を起こした。ドイツの無法な膠州湾占領などが動機になっており、攻撃目標はキリスト教伝道師や西欧文明で、下層農民や労働者を吸収して勢力を増大、北京や天津の外国人を皆殺しにするという噂が立った。

 5月末ごろになると事態は一層急迫、列国は、居留民保護の名目で、停泊中の軍艦から海兵を上陸させた。しかし、義和団は、弾を受けても死なないという迷信があり強烈にこれに対抗、列強軍は前へ進めなかった。

 こういった状況の下、当初は取締りに当たっていた清政権が、突如義和団に味方し、列強に宣戦布告した。驚いたのはイギリスをはじめ西欧列強である。このままでは、公館・居留民の生命が危機にさらされる。

 列強連合軍に日本も加わっていたが、義和団のスローガンに「反日・排日」はまだない。日本も援軍を急派することには消極的で、あらぬ誤解を受けることを避ける方針だった。しかし、西欧からの援軍が着くまで多くの時間がかかる。イギリスから積極的な要請があり、各国もこれに同調したので、7月初旬、ようやく1個師団の出兵を決めた。

 こうして、日英露独など連合軍は、李王朝が逃げ出してもぬけの殻になった北京を占領し、掠奪の限りをつくした。ただ、日本軍だけが勇敢に戦い、厳しく軍規を守ったことで、国際的に高い評価を得、賞賛の的になった。

 これを北清事変というが、ロシアは満州に大軍を送って占領、得た利権をなかなか手放そうとはしなかった。清国の領土保全のため、陰に陽に清国を後押ししたのは、小村寿太郎外務大臣である。この頃の日本は、まだ、中国を蔑視したり、侵略の野望をあらわにするようなことはなかった。

 しかし、冒頭の唱歌のように、列強の一員としての実力を評価されるようになった。それからは、前向きはいいが、「それ行けどんどん」といった無謀な国威発揚が試みられ、天皇国家主義が頭をもたげる時代を迎えるのである。

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