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2010年12月16日 (木)

斉明天皇物語 4

 斉明天皇こと、たから姫の生涯最後の場面は戦争である。都を出て瀬戸内海を船でわたり、九州の太宰府より奥の朝倉の宮を本営として朝鮮出兵の指揮を執る。姫といっても68歳、老いた彼女を神功皇后以来の行動に駆り立てたのは何だったのだろうか。

 「師(いくさ)を乞ひ救を請すことを、古昔に聞けり。危を扶け絶えたるを継ぐことは、恒の典に著れたり。百済国、窮り来たりて我に帰るに、本邦の喪(ほろ)び乱れて、依るところ靡(な)く告げむところも靡といふを以てす。戈を枕にし胆を嘗む。必ず拯救(すくひ)を存(たも)てと、遠くより来たりて表啓す。志奪ひ難きこと有り。将軍に分かち命せて、百道より倶に前(すす)むべし。

 簡単にいうと、懇願されてことわるのは道義にもとる。さあ、国をあげてこれをたすけよう、という不退転の決意を示した詔勅である。孝徳・斉明の時代を通じて、実質的な施政権を握っていたのは中大兄、とする研究者の説が多いが、私は、やはりたから姫の意思からではないかと見る。

 というのは、姫は中国が嫌い、その中国と同盟し、日本の命に背くことが多い新羅も嫌い、両国から攻められて亡国の憂き目にあっている百済は、日本に来ている人質と親戚づきあいのような関係も加わって、これを救わなければ天皇の権威に傷がつく、とでも思ったのか。

 卑弥呼の昔から、日本の最高権力者が巫女の役割を果たしていたのに、唐留学経験僧などが勝手に星占いをし、天皇の職権をないがしろにする。特に孝徳の時代は、宮中の制度や習慣が大幅に中国化したなどのことである。

 斉明紀の冒頭、たから姫即位直後の記事として書紀に次のような説話が載っている。

 夏五月の庚午の朔に、空中にして竜に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城の嶺より、馳せて胆駒山に隠れぬ。午の時に及至りて、住吉の松嶺の上より、西に向ひて馳せ去ぬ。

 たから姫は、661年夏、朝鮮発進の直前に朝倉宮で病没した。この時も大笠を着た鬼が葬儀の模様を山の上からのぞいていたという記事をのせているが、中国の間諜といううがった説もある。いずれにしても、たから姫と中国に関する思わせぶりな説話である。

 たから姫の生涯はここで終わるが、次回は、「斉明天皇陵確定か」という報道に関連する内容を中心にして、このシリーズをしめくくりたい。

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コメント

外務省元分析官佐藤優によれば、鈴木宗雄逮捕で外務省内のロシアンスクールを、田中真紀子罷免でチャイナスクールを潰して、今のような対米従属派しか無いのだとの説明なのですが、
チャイナスクールの曽我本家をクーデターで、難波の宮の孝徳も中国融和路線なので潰し、
とくれば中大兄は反中国反新羅の百済派で斉明崩御でも遠征を中止しなかった。
白村江の戦いで歴史的な大敗を喫すると態度を変えたのか、あるいは変えなかったのかが不明ですね。
軍事施設は作るが何れも防衛用であり、それなら朝鮮再侵攻の意思は全く無かったと思うので、中大兄は『大きく外交方針を転換した』と思うのですが如何でしょうか。?

投稿: 宗純 | 2010年12月17日 (金) 11時25分

宗純さま
コメントありがとうございました。

『書紀』を通読すると、中大兄が自発的に行動したと思えることは、近江の宮遷都と漏刻(水時計)を作ったというぐらいでほかなにもありません。古川、有馬両王子と蘇我石川麻呂の暗殺もすべて人から言われて実行、あとで反省したりしています。

百済派というより、マザコンで母についていったというだけで、凡庸で指導力のない、ちょっと菅首相のような人だったように思います。

防衛力増強は、幸か不幸か空振りに終わったわけですが、島国に不相応な軍事力を持つと、秀吉や日露戦争後のようにロクなことが起きません。

投稿: ましま | 2010年12月17日 (金) 14時29分

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