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2010年11月 9日 (火)

琉球処分 2

 前回 1 は明治政府が、琉球の「日中両属」を断ち切るための、井上馨建議を取り上げた。それまでの琉球の状態はどうだったのだろう。慶長の薩摩藩派兵以降、現在の行政区画、鹿児島県の範囲が薩摩藩の直轄地、沖縄本島以南、現在の沖縄県の範囲が、薩摩藩の附庸=従属国として存在した。

 日本国内でも、両属の事実はよく知られており、1782年(天明2)に九州を旅した町医者・橘南渓は、見聞録を次のように残している。

 琉球は、唐と日本に両属したる国なれば、両方商ひをして、金銀の自由よく、大いなる利徳(ママ)を得て大富国也

 両属、つまり双方から受ける冊封とはどういう関係をいうか、定義はないが、AからBに「王」とか「将軍」などの称号を与える。BはAの慶事などの機会に使節を派遣して朝貢する。AはBの外交や内政の自主性を尊重し介入しない。「信」と「礼」を基本とする間柄であり、細部を条約化したり規定するということはない。ということで、近代化前の日中の認識は共通していたようだ。

 こういったことから、弘化元年(1844)のフランス船による琉球の開国通商要求に続き、イギリス船も来航、嘉永6年4月にはアメリカがこれに続いた。アメリカは日本開国への足掛かりとするためで、琉球の軍事占領まで視野に置いていた。

 このペリー艦隊が6月、浦賀に現れて幕府を震撼させる。そして翌54年3月、日米和親条約が結ばれ、開国への第一歩となる。ペルーは帰りも琉球に寄り、独立国として「琉米修好条約」を締結した。同様の条約は、フランスとも結ぶことになる。現在と同じではないが、対中国貿易をにらんだ重要な拠点という意識がアメリカにあったのであろう。

 ところが、明治維新が実現したあと、前回も触れたように琉球漁民54人が台湾の原住民に殺されるという事件が起きた。日本が日清両属の「曖昧なる陋轍」を打開させようとしている時である。琉球住民を邦人保護の対象にするためには、まず、日本国民であることをはっきりさせなくてはならない。

 琉球と台湾、いずれも清国の出方にかかってくる。そこで国際的支持を取り付けるため、アメリカ、イギリスに働きかけたが、いずれも異議の申し出はなく、アメリカは台湾出兵を了解する姿勢すら見せた。

 その上で、柳原前光公使が「日本の琉球藩民」が殺されたことについて、清国の見解をただしたところ、清国側から「台湾全島は清国領であるが、ただ蛮族は化外の民で清国の政教のおよばないところである」という発言を引き出した。

  それを「化外孤立の蕃夷であれば、日本の考えで処置していいんですね」という結論に持ち込んだ。しかし、日本のより大きな収穫は、琉球が日本に専属する領域であることを国際的に認知させることができたということだろう。

 ただ、琉球王朝としては、これまで一国家として貿易や外交の権限行使ができたのに、日本の藩や県といった地方組織に閉じ込められることは、プライドを損じるだけでなく、経済や産業などに何のメリットももたらさない滅亡への道と映ったであろう。

 そこで、日本側のいかなる説得にも応じす断固反対を貫くことになる。

(参考文献:『日本の歴史20』中公文庫4、『国境を越える歴史認識』東京大学出版会ほか)

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