警防団と敗戦
昭和13年(1938)、近衛文麿政権は「爾後国民政府を相手とせず」として中国支配への国内体制固めを急いだ。「国家総動員法」の議会審議で、官僚の国会答弁禁止どころか陸軍省の説明員・佐藤賢了は、議員に「黙れ!」と一喝、さすがにこれは政治問題化した。
翌14年、平沼騏一郎内閣となり、消防、警防を一体化した警防団設置を法令化した。そして中央の「国民精神総動員委員会」指導のもと、地方自治体、在郷軍人会、産業報国会、隣組などとの連携を強め、準公務員として戦争遂行の挙国一致体制を固めた。
戦争末期になると、啓蒙、精神的な役割から、防空、空襲被害処理、強制疎開、やみ屋、配給物資横流しの監視なども加わり、昭和20年には、授業がほとんどなくなった中学の生徒など少年補助隊員が協力・在籍していたことが、下記の「警防団長の日誌」からうかがえる。
今回、その中から終戦放送の翌日の記録を抜粋する。
この団長は、人望が厚く日頃粉骨砕身、誠実に任務に当たっていたことがそれまでの日誌でわかる。ところが、終戦、その翌日、耐えていたものが一挙に噴き出すように権力批判をしている。これは驚きであると同時に、末端の偽らざる心情を吐露したものといえよう。まだ、特高や軍などが解体されたわけではない。言論の自由が謳歌できるようになったのは、もうすこし先だった。
---------------------------
八月十六日 午前六時本部ニ出勤書類其ノ他ノ整理ヲ整フ、B29数機来タリ、
警戒警報ノ伝達アリ不可解ナルモヤムヲ得ズ、サイレンヲ鳴ラシタリ、敵ハ我軍ノ戦闘行為ノ有無偵察ニ来タルモノヽ如シ、
防空壕内ノ整理ヲ行フ、尚自家壕ヲ調ベタルニ放任シタル故、布団其ノ他メチヤメチヤトナレリ、
午后九時帰宅休養ニ入ル、
国破レテ山河アリ、今敗戦ノ苦境ニ立テル国民悲痛ナル思ヒ更ニ日本ノ前途ヲ憂イテ静カニ空想ニフケル、眠ラレズ吾等如何ニ敗レタルカ、
一、満州事変ヲ□□□トシテ軍備ノ拡張強化ト相挨ツテ軍人独善独裁的ト政府ハ雖モ追随ノ已ムナクニ至レルコト、
二、近代化学戦ニ対処スル軍ニ其ノ用意ナカリシコト、
三、化学者ヲ重要視セザリシコト、
四、各種兵器敵国ニ比シテ二十年モ遅テ居タコト、
五、日本国民性ニ適合セザル統制経済組織ヲ敢テ行ヒタルコト、
六、無策無定見ナル動員計画ノ実行、
七、軍人及官僚ノ横暴、
八、食料増産ノ方法ヲ知ラズ机上計画ノミニ終リタルコト、
九、工場労働者ノ適正配置ヲ欠キタルコト、
十、法律ノ乱発ト取締ノ過酷ニヨル官民ノ離反、
十一、怠民ヲ養生、精励者ノ減退ニ陥リタルコト、
十二、真ニ国民ノ有スル生産増産ノ意図ヲ生カシテ働カシメズ、表面ノミヲ視テ号令スルノミニ終リタルコト、
十三、大学出ノ若僧官吏ノ立案計画ハ根本的ニ実際ト合致セザルコト多ク反ツテ支障ヲ来タシタルコト、
十四、消防々火ニ対シテ誤レル指導ト軍ニ消防認識ナカリシコト、
十五、火災ヨリ受ケタル物的精神的損失ニヨル国民戦時生活ノ破壊、
以上通リ近代総力戦ニ対スル準備ト戦争遂行方策ニ欠クル所ナカリシカヲ再検討セバ、今度ノ戦争ニ対シテ及バザリシ数々アリタル事ガ想起スルヲ得ルモノニテ吾等ハ其失敗ヲ再ビ繰返スコトナキヨウ心スベキデアロウ、
十六、昨夜ハ斯カル空想ニフケリ眠ルコトモ出来ズウトウト明方迄セリ、午前五時起床、直ニ警防本部ニ出勤ス、消防係ノ少年達未ダ寝ニツキヲリ、
-----------------------------
(福地家文書『市川市史第七巻』史料より)
| 固定リンク
「戦中・戦後」カテゴリの記事
- 殉職(2012.03.10)
- 日本敗戦20日前(2012.01.20)
- 続・新円切替の時代(2012.01.07)
- 消費税と「蛮勇」政策(2012.01.04)
- 新円切替の時代(2012.01.05)


コメント