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2010年2月11日 (木)

私説・紀元節

 「建国記念の日」などという国辱的な命名は、即廃止してほしい――「紀元節」の方がいい、という趣旨で書こうとしたら2年前の今日、すでに書いていた。暦のない時代、しかも「国=国家」などない時代のうそっぱちを、世界に向けて「建国記念の日」とする恥ずかしさからである。

 昔の「紀元節」の名を復活して、日本民族や大和王朝のキゲン(起源)、日本国の成立などを日本書紀など古典と、考古学の両面から考える日ならば結構である。そこで『私説・紀元節』の一席でお時間拝借といきたい。

 2世紀の後半、後漢・霊帝(168~189)の頃、それまで、朝鮮・対馬・壱岐・奴国・伊都国を経た鉄の交易などで力を蓄えていた九州北西部の諸国が、漢の弱体化や気候不順などで勢力を失い、代わって漁労や畑作の依存度の高い九州南部に新勢力が勃興した。

 この新勢力も出自は北西部で軍事にたけており、後に天孫族といわれるが、各地を移動するくせがあった。古典が言う鹿児島・宮崎あたりから、九州北部、山陽瀬戸内海沿岸などに移駐・逗留を繰り返し、最後は難波や紀伊に上陸、奈良盆地を征服しようとしたいわゆる「神武東征」は、古典がいう時期を除いて概ね史実と見ていい。

 ただし、奈良県橿原での即位儀式というのはウソである。それは後世の王権移譲の儀式を最初に行った場面を創設したかっただけで、戦勝宣言、王位簒奪式ならわかるが、初代天皇の即位ではない。神武の名は、伊波礼毘古(いわれひこ)である。大和王朝発祥の地と見られる纏向に近い磐余(いわれ=櫻井市の一部・地名)に関係があるのではないか。

 神武は、この時点でまだ完全にこの地方全体の支配権を掌握しきっていない。婚姻政策などで地元での地位を固めてきたが、東海から九州北部あたりまでの豪族盟主としての権威を確立したのは3世紀前半、卑弥呼(ヤマトトソモモソヒメ)を擁立してからである。

 卑弥呼死後、経100歩という大きな墓を造った。これが現存する日本最初の巨大前方後円墳・箸墓である。以後大和王朝の勢力範囲で東北から九州まで同じ墳形の墓が造られるようになる。大和王朝は、卑弥呼死後地位を世襲しようとしたが豪族間で支持が得られず混乱、女性の台与を立てることでようやく収まった。

 さて、前述した磐余に最も近いところに、メスリ山古墳(250m)がある。箸墓に続くように築造された帝王級の大型古墳であるが、古典では被葬者が示されていない。副葬品として鉄矛212本、銅鏃236本など大量の武器があることで有名である。これは、神武が得た戦利品、あるいは対抗勢力武装解除にともなうものであろう。

 もう一つ、被葬該当者なしでほぼ同じ時期の古墳・桜井茶臼山(200m)がある。これは昨年国内最多の13種81面の銅鏡が発見されたことでクローズアップされた。数ばかりでなく種類の多さも異例である。過去には豪華な「玉杖」がみつかっている。

 これも、卑弥呼の先祖に関係する大物の墓であろう。敢えて言えば、神武東征の前までここを支配しており最後は神武と和解した天孫族・饒速日命かも知れない。なぜ卑弥呼死後、何代も前の先祖の墓を造ったのか。卑弥呼の墓の巨大さと共に、大和王朝は代々天孫族が世襲するものであることを、豪族間に印象づける目的があったのである。

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