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2009年7月11日 (土)

張鼓峰事件

 今日7月11日は71年前(昭和13年)、張鼓峰事件の発端となった日である。日中戦争のさなかのできごとで、現在ほ、とんど認識されていないと言ってもいいだろう。しかし、その後の戦争処理や太平洋戦争勃発、敗戦に教訓が生かせなかった意味は大きい。

 張鼓峰は、中国(当時満州国)、北朝鮮(当時日本)、ロシア(当時ソ連)の沿海州が接するあたりにあり、国境が一部不明確なところがあった。そこへ約40名のソ連兵が進出し、衝突がはじまったのである。

 参謀本部は、1個師団に限りこれに一撃を加え、局地戦でソ連軍を威嚇する作戦をたてた。この方針は、宇垣外相・湯浅内大臣、そして天皇の反対でいったんは中止された。ところが朝鮮の現地師団長・尾高亀蔵中将は、対ソ一撃を望んでおり、近隣の別の場所にソ連兵が進出したという理由で31日未明、独断で攻撃を開始した。

 あきらかに命令違反である。しかし天皇は、これ以上積極攻撃をしないようにという注意にとどめ、処罰はしなかった。しかしソ連は反撃してきた。8月に入って戦車・重砲など機械化部隊に支援された2個師団を加え、日本はたちまち苦戦におちいった。

 その後の外交交渉で11日に停戦協定が成立したが、戦死526人、負傷941人、死傷率21%という損害を受けた。しかし相手側の損害も大きく、陸軍は限定戦争で効果をあげたとし、この事件の反省はなかった。

 一方、ソ連はこの事件に教訓を得てさらに軍備を増強させ、のちのノモンハン事件で関東軍を完敗させている。なお、日本軍の悲惨な結末を招いたインパール作戦で、インド奥地からの撤退作戦に従わなかった佐藤孝徳師団長は、この時の歩兵第75連隊長であった。

 この事件は、革命後初のソ連軍との大規模軍事衝突であったということ、関東軍がこの時点でも統帥者天皇の命を軽んじ、また天皇にもこれを是正する力がなかったこと、科学的判断より精神論を重視したことなど、のちの日本の運命を象徴的に示した事件であった。

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相互確証破壊(Mutual Assured Destruction,MAD)は当時アメリカの国防長官ロバート・マクナマラによって1965年に発表された核抑止理論(第三次世界大戦の抑止)で、先制奇襲による核攻撃を意図しても、生残核戦力による報復攻撃で国家存続が不可能な損害を与える事で核戦争を抑止するという。 『際限ない軍拡』 相互確証破壊論は其の後、相手方(敵)の核攻撃にも十分残るだけの数量にまで『核攻撃能力を増強する』事が核戦争の『抑止力』であるとするロジックが生まれる。 このロジックからは... [続きを読む]

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