張鼓峰事件
今日7月11日は71年前(昭和13年)、張鼓峰事件の発端となった日である。日中戦争のさなかのできごとで、現在ほ、とんど認識されていないと言ってもいいだろう。しかし、その後の戦争処理や太平洋戦争勃発、敗戦に教訓が生かせなかった意味は大きい。
張鼓峰は、中国(当時満州国)、北朝鮮(当時日本)、ロシア(当時ソ連)の沿海州が接するあたりにあり、国境が一部不明確なところがあった。そこへ約40名のソ連兵が進出し、衝突がはじまったのである。
参謀本部は、1個師団に限りこれに一撃を加え、局地戦でソ連軍を威嚇する作戦をたてた。この方針は、宇垣外相・湯浅内大臣、そして天皇の反対でいったんは中止された。ところが朝鮮の現地師団長・尾高亀蔵中将は、対ソ一撃を望んでおり、近隣の別の場所にソ連兵が進出したという理由で31日未明、独断で攻撃を開始した。
あきらかに命令違反である。しかし天皇は、これ以上積極攻撃をしないようにという注意にとどめ、処罰はしなかった。しかしソ連は反撃してきた。8月に入って戦車・重砲など機械化部隊に支援された2個師団を加え、日本はたちまち苦戦におちいった。
その後の外交交渉で11日に停戦協定が成立したが、戦死526人、負傷941人、死傷率21%という損害を受けた。しかし相手側の損害も大きく、陸軍は限定戦争で効果をあげたとし、この事件の反省はなかった。
一方、ソ連はこの事件に教訓を得てさらに軍備を増強させ、のちのノモンハン事件で関東軍を完敗させている。なお、日本軍の悲惨な結末を招いたインパール作戦で、インド奥地からの撤退作戦に従わなかった佐藤孝徳師団長は、この時の歩兵第75連隊長であった。
この事件は、革命後初のソ連軍との大規模軍事衝突であったということ、関東軍がこの時点でも統帥者天皇の命を軽んじ、また天皇にもこれを是正する力がなかったこと、科学的判断より精神論を重視したことなど、のちの日本の運命を象徴的に示した事件であった。
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