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2009年6月24日 (水)

「謝罪」

 マイクの並んだ長テーブルを前に、起立最敬礼して「申し訳ありませんでした」という「お詫び」の会見。すっかり見飽きた。「世間をお騒がせして……」、騒いでない!。「ご心配をおかけし」、心配してない!。「ご迷惑を……」、迷惑してないってば!。

 それなのにその顔は一向にお詫びしていない。このパターン化は誰がはじめたのだろうか。最近、日本郵政の西川社長と鳩山前総務相の間に確執があって、社長をくびにしようとした大臣が逆に麻生首相から事実上くびにされた。

 非自民の皆さんは、おわびをしない西川さんが悪い、とのお見立てが多いようだが、私には鳩山さんが悪代官で、西川さんの方が黄門(ほどではないか)に見える。政治かけひきとか改革の是非は抜きにしてである。

 お詫び会見などしないで、背筋をピンと伸ばし権力やマスコミに屈しないところが西川さんはよかった。気の進まない役目(銀行出身者が銀行の強敵を作る)を、小泉元首相から三顧の礼を以て迎えられ、お国のためなら「それでは」と出陣した。劉元徳に呼び出された諸葛孔明(ほどではないか)だ。

 頼んだのなら任せなければならない。まだ国有会社だが、民間の腕を振るってくれということだ。民間なら、極端にいえばかんぽの宿を誰にいくらで売ろうと、背任でない限り社長権限だ。それが会社にとって最善ならお詫びするいわれはない。

 西川さんが立派に見えるのは、政治的野心や私腹を肥やす目的とは思えないからだ。ここにお詫びをしない美学がある。「そこはひとつ、円くおさめて」を押しつけられるのが日本のわるいところで、弱者はこれでいつも損をする。

 もうひとつのお詫びがある。先月末、藤崎一郎駐米日本大使がアメリカの「バターン死の行進」生存者に直接日本政府を代表してお詫びの意思を表明した。そのお詫びの詳細を知らないのだが、バターンやコレヒドールの戦いに関連して「多くの人々におびただしい被害と苦痛を与えたことに心からお詫びをする」という、村山談話の一部分を切り取って援用したらしい。

 全くまちがっているのが、アジアの侵略地に向けたお詫びの主語を変えて全く違うお詫びに使う無神経さだ。最初に書いたお詫びのパターン化だ。その事件の頃まだ生まれていなかった藤崎さんがなんで知らない事件のお詫びしなければならないのだ。

 お詫びが悪いと言ってはいない。どの点をどうお詫びするのか、お詫びするならそこをはっきりさせなくてはならない。それでは納得しない相手がいるかもしれない。しかしそうしない限り互いに理解しないまま終わってしまう。原爆をお詫びしない国へ行ってワンパターンのお詫びをすればいいというものではないのだ。

 従軍慰安婦問題もそうだ。歴史の検証は河野談話が精一杯で、史実に反する主張まで受け入れてお詫びまでする必要はない。もし歴史認識に違いがあれば、双方の専門家の研究にゆだねるべきだ。繰り返していうが、強要されたり、当座をしのぐ誠意のないワンパターンのお詫びは、見苦しいばかりでなく双方にとって実りのない儀式に終わるということだ。 

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