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2009年5月 2日 (土)

異説・天智天皇9

 百済攻撃の指揮を執ったのは、新・旧『唐書』の列伝に残る名将、蘇定方とその配下で歴戦の猛将、劉仁軌・劉仁願であるが、日本側は次の通りである。

第1次
前将軍 大花下安曇比邏夫連・小花下川辺百枝臣ら
後将軍 阿倍引田臣比邏夫・大山上・大山上物部連熊・大山上守君大石

第2次
前将軍 上毛君稚子・間人連大蓋
中将軍 三輪君根麻呂
後将軍 阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄

 これで見ると、前線を受け持ったのがいずれも地方に根拠を持つ大豪族で、筑紫を中心に海に強い安曇連と、関東内陸に地盤がある上毛(かみつけ)君である。それ以外は大和で朝廷に直属する官僚が主になっている。名門大豪族の阿倍臣だけが第1次、2次と両方に後将軍として顔を出す。これは、直前まで蝦夷平定の海軍を指揮していたこともあり、筑紫に本拠を置いて兵站輸送に専念していたものであろう。

 唐と違って途中で指揮者が交替しているのがなんとも解せない。蘇定方に相当する戦略担当者がいないのだ。日本の朝廷は前線から一歩退いて百済王と前将軍に指揮をまかせ、軍略の神といわれた百済復興の功臣・福信を殺してしまい、日本宮廷の居候生活しか体験のない国王を責任者とするのでは勝てるわけがない。

 結局、斉明の国際感覚欠如と戦争に対する甘さが大規模派兵につながり、天智に撤退を決断する勇気と能力がなかったため白村江の敗戦を招いた。それが、この戦争の全容である。
 

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