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2009年5月

2009年5月31日 (日)

北朝鮮より怖いのは

 北朝鮮に対する国連安保理の制裁決議案は2,3日以内にまとまるだろうか。さきに「北朝鮮につける薬」という記事を書いて、「北朝鮮の対応がこれまでとは違う」ということを書いた。韓国からの報道によると、米国の偵察衛星でIBCM(大陸間弾道ミサイル)が列車に積み込まれのを発見、発射の動きがあるとしている。

 もしそうなら、今度はもう「人工衛星だ」というう猿芝居は使えない。北朝鮮の外貨稼ぎが難しくなりそうなのに、再核実験に次いでまた莫大な費用をつぎ込むことになる。アメリカの譲歩・援助引き出し、イラン、シリア等への兵器輸出、韓国・日本への恫喝、考えられる対外効果のうち、その最後がから振りに終わるようなら得るものがなさそうだ。

 それどころか、中国の堪忍袋の緒がいつ切れるかも知れないという不安を抱え込むことになるだろう。中国が朝鮮半島の非核化を目標だとしているのなら、核廃絶指向のオバマ政権と話し合う余地がある。その中で「宣戦布告とみなす」などとわめき散らすのにお相手することはない。

 そういった折りも折り、自民党国防部会の防衛政策検討小委員会が、政府が今年末に予定する新「防衛計画の大綱」(2010-14年度)の閣議決定に向けた提言を基本合意した(05/26)。その内容は、北朝鮮の再核実験や長距離弾道ミサイル発射を受け、敵基地攻撃能力の保有やミサイル発射を探知する早期警戒衛星の研究・開発などだ。

 提言は、敵基地攻撃能力について「現状は米国のミサイル防衛(MD)システムと打撃力に依存しているが、米国の政策転換に柔軟対応するためにも、専守防衛の範囲で必要」と強調した。敵基地攻撃能力保有論について、小委員会では「北朝鮮の脅威レベルは上がった。最初の一撃を受けてからでは遅い」と支持する意見が相次いだようだ。

 そのほか集団的自衛権行使を禁じる憲法解釈の見直しも要求。米国を狙って発射された長距離弾道ミサイの迎撃に道を開くよう求めたほか、自衛隊の位置付けの明確化、軍事裁判所の設置などに向けた憲法改正も提唱した。

 自民党としては、まさに時宜を得た提案ということになるだろう。ところが、次の総選挙で野党が政権を取ると、この決定は新連立内閣がすることになる。ことに社民党はこれでいいのだろうか。また、民主党も一致した意見にまとめることができるのだろうか。ことに最も危険性の高いノドン対策やアメリカの先制攻撃論、MD計画への協力のあり方などへの見解が必要になってくる。

 議会でこういったことに激論が戦われたという風にも見えないし、選挙の争点やマニフェストに入れるという話も聞いたことがない。両院で核実験非難決議を全会一致で決議すればいいというものではない。議論が進まないのは、民主党内部の意見不一致に加え、護憲派議員の安全保障、防衛に対する無知、勉強不足があるようにも見受けられる。

 野党でも、いろいろな事態を想定して、できることできないことを議論し、万一の場合の机上プランを立てておくべきではないか。憲法9条を本当に守ろうという気があれば、自民党案への対案が必要になってくる。野党にそういった気運がないところに、北朝鮮の脅威以上の怖さを感じてしまう。もし、北朝鮮の一連の行動が、そういった議論を促進することになれ必ずしもマイナス面だけではないかも知れない。

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2009年5月29日 (金)

戦争をするバカしないバカ

 「入門編・戦争とは(番外)」のコメントでmoritaさまからいただいたご質問にここでお答えしたいと思います。コメント欄では長くなりすぎることと、その内容から見て本文の方がふさわしいと感じたからです。タイトルは何となく浮かんだだけで、特に意味はありません。また、質問内容はこちらで編集させていただきました。

質問① 私は日本人のほとんどが戦争を否定していると思います。その意味は戦争する事を否定するという事で、戦争が存在する現実を否定しているものではないと思います。私は「戦争をしない」という表現が好きではありません、戦争されても、しないという解釈がなりたつから、その様な無抵抗主義者に疑問を感じます。

お答え 最初は「戦争」ということばについてです。第一次大戦後に結ばれた「不戦条約」があるのに「自衛戦争は例外」としたため、すべての戦争は「自衛戦争」とか「戦争でなく事変」いう口実で始められました。その失敗にこりて国連憲章では「戦争」という概念を否定する意味から、そのことばを使わず、すべて「武力行使」という用語に変えました。

 従って、国際的には「戦争」は否定されています。アフガン戦争についてもアメリカは自衛のための緊急を要する武力行使、ということで国連憲章違反ではないという立場です。しかし、moritaさまの感覚の方が正常ですよね。ブッシュだって最初からテロを「戦争行為」だと断じて国民を鼓舞しています。また、無抵抗主義については、「非武装中立の否定」をご覧下さいmoritaさまと同じ考えです。

質問② 私は軍隊の所持を肯定します。その意味において私はいくつかの同盟関係を肯定します。その上で質問です。
・もし同盟国が戦争状態になった時 軍隊の派遣は可能ですか?
国際機関である国連がいくつかの係争に対して機能していない現実の中で外交問題や主権侵害に対する決済を誰に求めれば良いのでしょう?。

日本と北朝鮮の問題に関しての公平な第三者である実力機関はあるのでしょうか?。戦争の動機の一つに主権の侵害があります。領土の不当な占拠、国民の殺害や誘拐、禁輸品の輸出…こういったものは過去に戦争の発端になってます。なぜなら 国家の「機能や権利における範囲」を削り取る行為だからです。これらは実際に既に日本に継続的に行われていますよね?

お答え まず「同盟」と「国連」についてです。日米間にあるのは(安保)条約で、それが「同盟」という表現に変わったのはここ10年ほどだと思います。条約本文ではない「ガイドライン」とか「指針」といったものがつけ加わって当初と性格が変わったので、ひっくるめて「同盟」だ、という人もいます。

 「同盟」とは、当事者の一方が攻撃されたら他の一方も攻撃されたものとみなすというかつての「攻守同盟」をイメージしたものです。日本は第一次大戦で日英同盟を根拠にドイツに参戦しました。普通は同盟国の依頼があってから判断し、同盟を根拠に自動的に参戦するというわけではありません。

 国連憲章では、「集団的自衛権」として複数の国が共同して自衛する権利を認めています。日本では憲法上、その権利はあるが行使はできない、という政府の解釈になっています。日米安全保障条約は、相互の憲法が尊重されることを前提にしていますので、まがりなりにも専守防衛が保たれているわけです。

 後半の北朝鮮にかかわる部分ですが、北朝鮮の拉致問題などを国連機関に持ち出すことはできるでしょう。しかし、国連憲章ではまず第一に交渉をしなさい、と書いてあります。現在の段階では交渉の中断で、すぐ持ちこめるような状況になっていません。領土問題も同じです。相手国も国連加盟国です。紛争は平和的手段、つまり交渉で解決するというのが国連の基本的な建前です。

 もうひとつ頭の体操として、北朝鮮が日本をどう見ていたかも考えてみましょう。
1.大きな銅像になっている金日成将軍は、第2次大戦中から日本を敵として独立戦争を戦った。
2.北朝鮮独立後韓国に攻め入り、国連(米)軍と戦った。米軍は占領中の日本の基地から出動、日本も国連軍上陸の際の機雷除去に海上保安庁が参加した。
3.38度線で休戦協定となったが、講和条約のないまま現在に至る。したがって法的にはまだ戦争中。

 1.は国民教化用の伝説で信憑性が薄いと言われています。2.3.は事実で日本は朝鮮戦争特需で復興のきっかけをつかみました。したがって北から見ると日本はまぎれもない敵国なのです。その後も水面下で戦争が続き、北は韓国にも大勢の工作員や兵士を潜り込ませませ、拉致も繰り返しました。

 拉致、スパイ、要人暗殺、民間機爆破、麻薬密売、後方攪乱、勝つためなら何でもあり、それが戦争です。日本人にはそんな敵国意識が毛頭なかったのですが、韓国はそのまま戦場だったのです。対抗上北に対する潜入や工作もやっていました。日本のように他人事ではすまされなかったのです。

 しかし、半世紀も前のことを根に持って主権を侵害し、市民を誘拐するなどどう見ても非常識です。弁護できる根拠はありません。そこで金正日は小泉首相に対し、末端が功をあせって間違いを起こした、と詫びを入れたのです。だけどその後についてはご存じの通りです。再び意地の張り合いとなり、「人工衛星が回っている」などすぐばれるようなウソをついて、国際的に信用のない国になりました。相手のペースに巻き込まれないよう交渉するしか方法がありません。

質問③ 9条を維持する事が、日本の「安全」を「保障」する為に重要だという結論でしたが、その根拠がわかりませんでした。

お答え 日本は幸いなことに島国です。9条を維持するだけでなく、「外国に行って武力行使をしない」ということを第3項として追加明記(「反戦・護憲論の行く手4」参照)した方がよりはっきりします。そうすることによって強力な自衛隊があっても周辺国は脅威を感じないでしょうし、多大な犠牲を払ってまで日本に侵攻しようとは思わないでしょう。ただ米軍基地にもその点を守ってもらう必要はあります。また、究極の安全保障は、「EUの東アジア版」だと思っています。EU成立の背景には、地域の平和を求める膨大な歴史があります。時間があれば研究してみてください。

 以上ですが、「むつかしい」とのご指摘。そうならないよう日頃心がけているつもりですが、反省することしきりです。このような質問をいただかないと気が付かないでいる点があります。また、ここでは触れませんでしたが、ミサイルによる先制攻撃や報復(発射基地への)の問題もこれから議論になるでしょう、なおも勉強続けたいと思います。ありがとうございました。

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2009年5月28日 (木)

アメリカの兵士3

 昨年の5月、米上院で帰還兵の奨学金制度を大幅に改善する民主党議員らの提出法案が審議されていた。これに対してブッシュ大統領は、拒否権も辞さない姿勢で猛反対していた。その理由は、奨学金を増額すると帰還兵の大学進学率が高まり、兵役にもどる割合が16%減少するという試算からきているという。

 対テロ戦争では、6人に1人が3回以上派遣されるなど、兵員不足が深刻化している。結局、大統領選が近づき、共和党の「愛国心」だのみの反対論は選挙に不利と見て賛成に回った。同時多発テロ以後、アメリカ人を戦争に駆り立てたのは一体何だったのだろうか。

 もちろん、ブッシュと彼をとりまくネオコンによる「真珠湾を忘れるな」式の扇動が大きかったことは言うまでもあるまい。しかし、共和党の強固な支持基盤である「在郷軍人組織」をはじめ古来アメリカに根ざしている力の信奉や「愛国心」が大きく作用したことも疑えない。

 以上述べられてきた帰還兵の実態も、アメリカ社会でどの程度の評価をうけているのか、また認識されているのか、イラク、アフガン戦争にどう結末をつけようとしているのかわからない部分が多い。オバマ大統領の出現で、ブッシュによるイラク戦争の失敗は覆い隠せなくなった。

 オバマ大統領になっても、アフガンを米兵の増派で切り抜けようとしていることは、戦争指導者に共通する心理として、軍人の払った犠牲の結果が「負け」であったとことにしたくない、つまり愛国心を傷つけないで収拾しなければならないということだろう。

 そういった中、市民団体「米国のイラク・アフガニスタン帰還兵」のリコフ事務局長の次のコメントに、アメリカやアメリカ軍が抱え込んでいる複雑な一面を現わしている。「人口に占める従軍兵の割合が低下し、メディアや国民の関心が弱まっている。帰還兵の問題は大多数の国民にとっては人ごとなのだ」。
 
 ちなみに人口に占める従軍兵の比は、第二次大戦で14%、ベトナム戦争が4%、対テロ戦闘は0.6%にすぎない。この少数の志願兵は、すべて自己責任で問題解決に当たらなくてはならないのだろうか。

(おわり)

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2009年5月27日 (水)

アメリカの兵士2

 次の数字は、毎日新聞が米国防総省の資料をもとに作成したもので、その一部を要約する。(単位:万人)

              派兵期間 従軍総数 死亡 負傷 
第二次世界大戦 1941~46   1611  40.5 67.1
ベトナム戦争    1964~73    874   5.8 15.3
アフガン・イラク戦争 2001~09/5   183     0.5  3.4 

 この数字の物語るところは、第二次大戦はあとのふたつに対して、半分近くの期間なのに1600万人もの米兵が動員され、そのうち40人に一人が戦死した。まさにいかに多く相手を殺すかが戦争を左右する鍵だったのである

 しかしベトナム戦争では参加する兵の数が半減し、また死者も大幅に減った。アフガン・イラク戦争ではその傾向が更に推し進められた。科学技術の粋を集めた空からの新兵器で攻撃するため、兵の死亡率は第二次大戦の10分の1近くになり、相手側は民間人も含め10倍以上の死者を数えるようになった。

 もう一つ、特徴的な数字がある。死に至らない負傷者の割合の増加である。第二次大戦では負傷者が死者の倍になることはなかった。それがアフガン・イランでは、負傷者が死者の7倍近くに達する。米国防総省によると、爆風を受けただけで罹患するという外傷性脳挫傷(TBI)と診断された米兵が、昨年末までに2万人余になるという。すると、負傷者3.4万人の大部分ということになってしまう。

 その一方で同省は今年3月、TBIを発症する米兵が30万人以上になると推計、多くは「戦争による疲れ」などという誤解から、放置されたままだという。それでは、希望通り学生生活を送れるようになった帰還兵の生活はどうなるのだろうか。

 毎日新聞の取材によると、帰還兵の奨学金制度では学費が全額免除され、1か月約14万円の生活費が3年間支給される。しかし体調が悪い帰還兵にとっては治療と役所への手続き、学生生活をうまくこなすのは至難の業だという。

 心的外傷後ストレス(PTSD)による頭痛、吐き気、めまいという症状もさることながら、学内における周辺の無理解、同窓との年齢や経験の差からくる孤立感、無気力、喪失感、持続力などからうつ状態になることが多いという。大学のリベラルな雰囲気はこのような帰還兵を置き去りにしてしまう。

 第二次世界大戦当時の日本の精神障害兵士については、過去ログ「帰還兵の殺人」を参考にしてください。 

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2009年5月26日 (火)

北朝鮮につける薬

 地下核実験と短距離ミサイル発射でまた騒ぎになっています。

 道路でわがままを言って泣き叫ぶ幼児。困り果てた両親はどうしますか。
1.大声で叱りつけるか人目をはばからず体罰を加える。
2.いけないことだと言葉でさとす。
3.甘言で釣る。
4.かまわずどんどん先へ行く。
 
 体験されている方はわかりますよね。

 「北朝鮮が日本に核を積んだミサイルで攻撃してきたら?」「アメリカの核の傘は?」、北朝鮮脅威論にはこう答えてきました。「金正日体制が崩壊して内乱状態になり軍の統制がとれない、金正日が精神異常をきたす、なにかの手違いで誤作動する」そのいずれかでなければあり得ないでしょうと。

 ところが、今度は以前と違う点がちょっと気になります。
1.金正日の健康悪化に合わせるようにテポドン以来矢継ぎ早で、もうあとカードがなくなりそう。
2.激ヤセで生気がない状態なのに後継者決定が遅れている。(円満にバトンタッチができない)内部事情がありそう。
3.イラン、ベネズエラ、シリア、キューバなど盟友反米国家がアメリカ・オバマ路線に期待するようになり、兵器輸出先が俄然減りそう。
4.国連安保理決議を敵にするだけでなく、北の立場を理解してくれていたはずの中国、ロシア、韓国から今度こそソッポを向かれそう。

 そんなことはわかっているのに、要は相当あせっているのかも、ということです。北になんの糸口も持たない日本にとって、一番大事なのは北の情報でしょう。これは上の4.の国にお願いしてもらうしかありません。「圧力!」だけでは情報がとれません。こんどの「わがままっ子」は、ひとすじ縄ではいかないようです。

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2009年5月25日 (月)

アメリカの兵士1

 毎日新聞に「テロとの戦いと米国・第2部疲弊する兵士」という題の連載企画が09/5/21から始まっている。そこで、記事紹介とあわせて感想(下線)をのべてみたい。

 連載は「母さん無理だよ」という大見出しで始まる。イラクから帰還し、出身地地元の州立大で障害児教育について学び始めたばかりの米陸軍兵(25歳)のもとに、翌年、再びイラクに従軍するよう米軍から手紙が届いたのである。

 彼は、母に負担をかけず、軍の奨学金で大学に進学するため陸軍に入り、韓国、イラクで兵役についた。従軍期間は、ラムズフェルド国防長官の時代に12か月から15か月に延長され、次の従軍までの休息期間を原則2年を1年前後に短縮された。

 そうしておいて除隊を希望する者には、その延期を求める制度も盛り込まれた。これは、戦争の長期化、増派にともなう決定的な兵士不足を補うためのものである。もともと除隊を予定していた彼は、落ち込んで母に電話してきた。「母さん、またイラクに戻るなんて無理だよ」。

 それに従わないと奨学金はなくなる。彼は同州の事前訓練に通い始めたが、まもなく母の元に突然の悲報が届く。彼が下宿先で首をつって死んでいるのが発見されたのだ。それ以前、地元の退役軍人病院でイラクで受けたIED(即席爆発装置)攻撃による外傷性脳挫傷(TBI)と心的外傷後ストレス(PTSD)の診断を受けていたことがわかっていた。

 このような自殺者は、過去4か月に同じ病院だけで6人にのぼるという。アメリカが徴兵制を廃止したのは1973年、ベトナム戦争が終わった年で、以後志願制となっている。しかし、数十万の国軍を維持するには、奨学金制度や住宅ローン融資への特典といったアメを用意して、貧困層から兵を求めることがすでに限界にきていることを示している。

 さらに、帰還兵の失業率が一般平均の倍以上という数字が、障害者の増加や制度上の欠陥を物語っている。オバマ大統領の出現でイラク、アフガン戦略に変化が出てきているが、ブッシュ大統領の時代、アフガンに対してこういった血を流す仕事の肩代わりをNATO構成国などに求めていたということだ。日本も決してそのらち外にいたわけではなかった。

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2009年5月23日 (土)

盧武鉉前大統領自殺?

 23日午前、韓国の前大統領が金海市郊外にる自宅の裏山の崖から滑落し死亡したというニュースが飛び込んだ。自殺と見られている。奥さんを含む近親者が、後援者などから大統領在任中に多額の金品を受け取っていたということで捜査が進められていた。

 甚だショックなニュースだが、こんな例は他国にあるのだろうか。日本で宰相の自殺といえば、近衛元首相の戦犯逮捕直前の服毒自殺を思い出すが、検挙直前であったにしろ事情はまるで違う。どこまで事実か明きらかになるかわかなないが、韓国にとってイメージダウンは避けられないものとなるだろう。

 また、李明博大統領への攻撃を強めていた前大統領支持勢力にとっても打撃となるだろう。朝鮮には、現在も続いているかどうかわからないが、本貫一族の中で抜きんじた地位につく者が現れると、身内親戚をあげて、極端な場合本業を捨ててそこで寄食するようになり、当然のように分け前にあずかろうとする、ということを聞いたことがある。

 北朝鮮もそうだが、教育水準が高く近代化が進んでも、なかなか古来の因習から抜けきれないのだろうか。日本も人ごとのように言える立場ではない。激動する世界情勢の中で、もっとも近い隣国として緊密な関係でなければならない両国である。こういったことを克服していかなければならないのに、安直な排外主義で事件をあげつらうようなことだけはしないでほしい。

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2009年5月22日 (金)

アーモンド

 アーモンド。フランス語で言うと「アマンド」。へー、知らなかった。アマンドは喫茶店かお菓子屋の屋号かと思ってた。漢字で書くと「甘処」なんて……。2009_05220001

 ついでにアーモンドの日本語を調べてみた。「扁桃」またの名を「巴旦杏」だって。これは意外。

 へんとうせん(扁桃潜)チョコレートとか、はたんきょう(破綻凶)菓子では絶対に売れないだろうな。ちなみにわが古里では、ピーナツのことを「づんもぐり(地もぐり)豆」という。これも全然美味しくなさそう。

 嗜好品は、やはり外来語のカタカナに限る。またひとつかしこくなった塾頭である。

  

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2009年5月21日 (木)

検察との闘い忘れるな

 今日、新裁判員制度が施行されるのだそうだ。マスコミのどれを見ても「関心が低い」「よくわからない」「選ばれてもやりたくない」のオンパレードだ。何故そういうことが必要なのか、どうしても変えなくてはならないのか、変えるとどんな目に見えるメリットがあるのか。

 制度の中味は説明しても、以上についての「説明責任」が果たされていない。「司法制度改革」の一環で、裁判制度のほかに弁護士の増員や仕事の中味、法曹教育の改革など、一般国民から遠いところでどんどん改革が進んでいるということだろう。

 こういった改革の話が耳に入り始めたのは、橋本内閣末期、小渕内閣の頃ではなかろうか。気になるのは、日米防衛条約の指針、いわゆるガイドライン関連法が1999年が国会で成立した時期に符合し、経済政策でも新自由主義とかグローバリズムなどという言葉が幅を利かしはじめていた頃である。

 司法制度改革でもアメリカの意見を聴き、「競争原理を取り入れる」という方向を選んだようだが、それほど強い反対意見もなかったような気がする。しかし、日本の司法制度が憲法改定に匹敵するほどの変貌を遂げようとしているのに、いつのまにか既定事実のようになってしまったことに、大きな不安を感じざるを得ない。

 「説明責任」といえば、民主党では小沢代表が鳩山代表に代わり、やや政界の様相に変化が表れてきた。自民党は、これからも使い古した「説明責任」で民主党に攻撃をかけようとしているようだが、民主党も検察が小沢追い落としに寄与した点を、今度は堂々と取り上げて反論してほしい。

 当ブログは、秘書逮捕から間をおかず小沢代表辞任を主張してきたが、それは検察の戦術の手中に落ちで自民安泰という、日本の政治にとっても司法にとっても最悪の事態を避けたかったからだ。決して小沢氏が代表として不適格だという考えからではない。

 「説明責任」といっても何を説明するのだろうか。仮に献金を受けた団体が、西松建設のダミーだということを知っていたとか知らなかったとか、西松建設が工事受注を期待していることを知っていたかどうかなど、秘書の裁判に直接影響するようなことは発言できるわけがない。

 しかし、小沢代表か辞めない限り、秘書の犯罪は議員の責任ということで2の矢3の矢をつがえられ、検察攻撃はしにくかっただろう。民主党の任務はこれからだ。小沢辞任で一件落着などとのんびりした姿勢は許されない。

 前代未聞の検察政治介入を不問にしてはならないからだ。それこそ、日本の司法の根幹を守る気概で追求の手をゆるめずに攻めに回ってほしい。その最大の武器が「政権交代を果たす」事であるのはいうまでもない。小沢氏がそれを一番よく知っているはずだ。

 小沢氏を過去の人にしてはならない。小沢氏をかかえ込んだ挙党一致体制で選挙の終盤を闘ってほしい。

 

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2009年5月20日 (水)

入門編・戦争とは(番外)

 本ブログとしては初めてのことですが、投稿者moritaさまにおことわりして、いただいたコメント内容全文を掲載し、そのお答えを合わせてエントリーしたいと思います。その理由は、該当する記事が1年以上前のものであることと、moritaさまの投げかけられた疑問にお答えすることが本「塾」の本旨にかなうものと思ったからです。

 moritaさまのコメント

はじめまして、安全保障について調べていたら、ついこのページを見つけてしまいました。私はどちらかと言えば保守の人なので、
コメント書いてよいか考えましたが、
迷惑であれば削除お願いします。

まだ反戦塾の入門4までしか読んでないのですが、左派や護憲といわれる人が、安全保障について、どのようなお考えをもっているのだろう?そういう疑問にいつも突き当たるのです。

右派の論評はどちらかというとリアリズムを前提に論じています(おかしな論者も多いですけどね)。左派の論評は理想主義的価値観が強いと思うのです。

私は世界全体がそのように向かう事と、現実問題としての準備は別に考える必要があると考えます。

1についてですが、
戦争におけるメカニズムは 小説などの説はドラマ的要素が大きすぎて不適切なだと感じます。

2についてですが、
国際連合はともかく国際連盟は平和の為に作られたといえるでしょうか?

3についてですが、
歴史認識の違いは左派と右派では どうも違いすぎて、書ききれません。
ただ私が思うのは
・左派は現在を支点とし そこから過去と未来をみます。
・右派は過去を支点とし、その流れの中の現在であり未来を見ます。

4については
「希望は戦争」を私は読んでませんし、アメリカ非難は妥当だとは思いますので、特にありません。

一応、簡単ですが、感想です。

私は左派…護憲派の理想、つまり将来向かうべき指標として、それを掲げる事はすばらしいと思うのですが、現実問題部分の段階がいくつも飛び越えているように見えます。

左派の人たちが、右派の人の論理を抱合(説明)したものを構築できるのなら、私は左派になれると思うのです。

長文失礼しました。

 逐条のお答えを先にします。指摘されているエントリーを見なくてもわかるように、書き連ねることにします。まず1の「小説などの説」をとって「戦争とはこうだ」と説くのは不適切、ということです。このシリーズでは「小説」を利用した記憶が一度もありません。

 「戦争論」というジャンルの学問があり、最も古いものとして、19世紀はじめのプロシャの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツの書いたものが有名です。難解であることもさることながら、あまりにも古すぎて現在には当てはまりません。

 新しいものとしては、岩波新書の多木浩二著『戦争論』などがあります。また世界大戦の実態・実情については、各国に多くの公的レポートがあり、それで十分だと思います。そういった物から得た知識が記事のベースになっています。

 小説としては、トルストイの『戦争と平和』などがありますね。たしかに小説=歴史としてしまうのは誤りです。しかし、公的な文書が唯一正しいとするのも公正を欠きます。マスコミも時としてあてになりません。何が真相に近いのかを探るとき、小説、詩、日記、ことにはやり歌、川柳などが大きな役割を果たすことがあります。

 2番目についてです。国際連盟は、ご承知のように第1次世界大戦後の平和確立を目的に設立されました。第2次世界大戦が起きてしまったので、結果としては失敗したわけです。ただ、それまでの帝国主義的植民地争奪競争が否定され、その後に成立した「不戦条約」(現行憲法9条1項と同趣旨)など、初めて戦争を不法なものとした意義は大きいと思います。失敗の理由は「自衛」の場合は例外、としたことにあります。 

 3は、歴史に対する姿勢と解釈の仕方ですね。最近もあるコメントで書いたような気がしますが、歴史を書くときは、その時代に自分がタイムスリップし、あるいはその立場にいるという気持ちにならないと書けないものです(エントリーの中でもいくつか歴史を書きました)。

 すなわち、その前の歴史の連続の結果として今がある、そしてこれからどうなるのか、という疑似体験が必要だということです。それには1時点、1項目、1史料だけではなく幅広い総合的なデータが助けになります。
 
 したがって、一部の右派論客に見られるような「こういった史料が発見された」、「どこの誰それがこう言っている」などで、1、2の史料だけで歴史がひっくり返るように言うのは、「そうですか」というだけで答えようがありません。また「過去の連続」といっても、途中の「戦後レジーム」を抹消するような説では連続になりませんしね。

 ややお説教調になって、<m(__)m>←塾頭。

 このブログは、最近保守系や右派の来訪者が多いような気がします。お前はどうだ?、と問われればどちらでもない、などと中途半端なことは言いません。左派です(^^)。しかし、記事の中には自民党の一部の人を支持したり、核兵器の研究はすべきだなどと言ったりするので、その分左派の来訪者が減っているかも知れません。

 左派が左派同志で作るサロン(同好会)では、当塾設立の趣旨に合いません。その点政治的立場は「反戦」以外全くフリーです。そういったことで、moritaさま、どうぞまたのお越しをお待ちします。

  

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2009年5月19日 (火)

公明党から民主党に?

 16日が17日にかけて実施されたマスコミの世論調査が発表された。こくところ毎週のようにそのような調査が発表されている。民主党の鳩山代表出現で、民主党が勢いをつけ、政党支持では一時優位に立ったように見えた自民党が、小沢辞任効果分だけ後退したように見える。

◎麻生・鳩山どちらが首相にふさわしいか
   (麻生)(鳩山)(差) 
読売  32   42   10
毎日  21   34   13
共同  32.0  43.6    11.6
   
政党支持率
   (自民)  (民主)  (差)
読売  28.4  30.8  2.4
毎日     23       30      7
日経    33   38   5
共同  25.2  30.0    4.8

 この結果は各社に数字の違いはあっても、傾向としては同じ方向を示しており、その範囲において信用できる。特に深い意味はなく、国民の「素朴な」感覚が反映したものだろう。新内閣発足時と同様、ご祝儀得票がはげ落ちた後は、またどういう変化が出てくるかわからない。国の将来についてしっかりとしたビジョンが示せず、もっぱら世論動向の得点稼ぎで政治が左右されるような現状には落胆する。

 しかし、時として新聞見出しに表れないびっくりするような数字にお目にかかることがある。わが塾は公明党に関する記事が比較的に多いが、世界平和が売り物の創価学会をバックとし、自民党タカ派の暴走をチェックする機能があるからで、支持政党ではないがやはり気になる存在なのだ。

 まず、毎日新聞の別面に示された下のデータを見ていただきたい。

▼どの政党を支持していますか
     かっこ内は前回
自民党         23(27)
民主党         30(24)
公明党         3(6)
共産党         3(3)
社民党         1(1)
国民新党      0(0)
改革クラブ    -(0)
新党日本      0(0)
その他の政党 2(2)
支持政党なし 37(36) 

 民主党がふえた6ポイントは、自民党が減った4ポイントと公明党が減った3ポイントにほぼ匹敵する。毎日の調査はコンマ以下を四捨五入するのでそれによる誤差は当然生ずるが、その他の政党が全く変化せず「支持政党なし」も現状維持のままである。

 そうすると、この移動は2与党から民主への乗り換えのように見える。ただ公明党の半減というのはかなり極端な数字だ。社民党支持者の2倍以上がそっくりいなくなったということは、不問にできない現象である。かりに数字の誤りでなければ、公明党もさることながら、同党の候補者がいない選挙区で支援を受ける自民党の打撃の方が大きそうだ。

 安全保障問題、外交問題および生活重視の発想は、自民党より民主党により近いと言われてきた同党である。ここへ来てイラク戦争協力や、行きすぎた新自由主義に対する反省に頬かむりし、首相のたらいまわしを繰り返す自民党と、その自民に寄り添うばかりの公明党幹部に、支持者が愛想をつかしたというのは考え過ぎだろうか。
     

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2009年5月16日 (土)

異説・天智天皇13

 このシリーズが13回も続くと思っていなかった。それでも省略してしまった事件・事績はまだ多く残っている。あえてそれに触れなかったのは、「反戦塾」という立場から「白村江事変」を中心に分析して見たかったからである。

 前回ようやく天智即位までこぎつけたのに、これをもって最終回とする。そのわけは、天智の仕事はいくつかの仕上げを残すものの即位とともに終わったと同然になるからだ。天皇在籍年数はわずか4年で、斉明死後、皇太子の身分のまま称制といわれた期間の6年より短い。

 その6年間の政権運営の心労が、決して長寿とはいえない46歳で生涯を終える原因になったのではなかろうか。彼の政策判断の師であり精神的に天智を支えたのは、蘇我入鹿暗殺の共謀者で大化改進に道筋をつけた中臣鎌足である。斉明時代には『書記』から鎌足の記述が消えているが、8年10月条に次の記述がある。

 天皇、内大臣の家に行幸し、みずから病を問いたまう。しかるに、きわめて憂うべき病状である。そこで詔があった。「天道が仁者を助けないということがあろうか、必ずよい徴候があるはずだ。なにかすべきことがあれば聞かせてほしい」。それに答えて「臣、もとより無能です。その上何を望みましょうか。ただ葬儀は質素にしてください。生きていても軍国(おおやけ)に務を果たせませんでした。死んでまでご迷惑をかけられません」。

 死の1日前、東宮大皇弟(大海人皇子)を名代に「藤原」の姓と大織冠を授け、死後再び家におもむきねんごろに弔った。まったく異例の措置だが、白村江事変と戦後の処理を、天智、大海人(後の天武天皇)と共に、「軍国の務」と言った鎌足の3人で取り仕切っていたことをうかがわせる。

 結局、天智が必死の仕事に取り組んだのは、入鹿暗殺の乙巳の変の1日と白村江のあとの6年であるといえる。しかし史家は、大化改新の政治改革に果たした役割や天智死後天武に至る壬申の乱の王権移動に目を向け、外交と戦争がテーマの白村江事変はあまり論じられない。もちろん皇国史観ではこの敗戦を大きく取りることがなかった。

 そういった中、有能ではあるが乙巳の変で入鹿を殺し、異母兄の古人皇子謀反の密告で攻め殺し、乙巳の変の功臣、蘇我石川麻呂も謀反容疑で自殺させ、孝徳の一粒種有間皇子を謀殺するなど冷酷果敢という天智像ができあがっていった。

 そして権力に固執して、長年苦楽をともにし、斉明死後は大皇弟として後継者に擬していた大海人を最後の段階で退け、わが子可愛さから大友皇子にゆだねようとして天智の死後壬申の乱が起きた、というのが通説になっている。

 つまり「権力闘争史観」である。しかし『書記』に書いてないことを深読みせず、前後の記事も含めてすなおに読むと、そのような解釈では色んな矛盾を見いだすことが多い。例えば、天智が指示して古人皇子を殺したとすると、その娘を自分の皇后にしたというのはどうも腑に落ちないなどのことである。

 そういった読み方をすると、天智は前述した「必死の仕事」をした時期以外は、日頃できるでけ目立つことはさけ、母斉明の意向に従い、鎌足の助言を受けてすごす内向的な「水仕掛けおたく」「マザコン王子」だということになってしまうのである。また、親子4人はいつも行動を共にしており、死の間際になって急に大海人と仲違いするとは考えられないのだ。

 最後に、大宰府のその後に触れて、このシリーズを終わりにしたい。大宰帥をつとめた阿倍比羅夫の官位は大錦上で主要大臣クラスである。以後もこの伝統は維持された。天智死亡の翌年(672)、天武が吉野から蜂起すると、天智の遺子大友を立てる蘇我赤兄らは大宰府に急使をたて、天皇の命令だとして派兵を要請した。この時の大宰帥は皇室の栗隈王である。その答えはこうであった。

 筑紫の国は外国から国を守ることにある。城を高く溝を深くし、海に向かって備えをするためで、内賊のためではない。今、勅命があるからといって軍を発すれば国が空になる。もし急なことが起き国を傾けるようなことが起きれば、私を百回殺しても役には立たないだろう。簡単に兵を動かすことはできない。

 遠いみかど、つまり朝廷の代理として国防に絶対の権限を持つという自負心と責任感があったのだ。これが、時代を経て唐、新羅との緊張が解けると、それに比例して大宰府は中央の官僚にとって赴任を敬遠するわずらわしい存在になってしまう。ついには、遣唐使の国家的な使命は終わったとして中止を決めた菅原道真が、皮肉なことに懲罰的な意味をこめて流されるという存在になってしまうのである。

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2009年5月15日 (金)

餞別

世の人のことになつますへつらはす
            おもふ誠を唯いひにいへ

今の世のほまれを得んとさかしらに
           きたなき名をは後にのこしそ

 これは、日本石油(現・新日本石油)の初代社長・内藤久寛が明治27年3月の総選挙で初当選し、上京する際に故郷新潟県政財界の先輩・山口権三郎から送られた歌である。

 選挙や政界の腐敗・混乱はこのころから日常的になっていた。歌は中学生に対する訓戒のようで素朴といえば素朴だが、反面、明治維新を生き抜いてきた指導者の気骨も感じられる。また、それだけの重みもあったのだろう。

2009_05150033  内藤はやはり政界の水が合わなかったのか、3年半でまたもとの実業にもどった。政党、議会が私利・私欲中心の政略に走り、軍部が独走を始めたのは、政治の世界で維新の元勲の影響がうすれた大正、昭和の初め頃からである。(明治35年5月、工場見学をする大正天皇<東宮時代>。右・有栖川宮威仁親王、左・内藤久寛;北澤楽天画『日本石油史』より)

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2009年5月14日 (木)

異説・天智天皇12

 白村江の敗北で、唐から日本侵攻の危機におびえ、極度の緊張状態にあったのは、前回述べた天智紀2年から3年(633~634)にかけてである。唐が派遣した使節を瀬戸際外交で追い返し、その間、筑紫大宰府の防塞化や大和王朝の統治基盤を回復できたことで、天智もやや自信を取り戻した。

 しかし、朝廷周辺にはかつてない難問が山積している。まず妹で孝徳帝の皇后だった間人皇太后の死である。彼女は天皇空位の中、欠かすことのできない宮中祭祀を、母斉明に代わって担ってきた。前に述べたことがあるが、孝徳のもとから母・妹と一緒に集団家出をした異状とも言える家族愛で結ばれた間柄である。おそらく近侍した人々であろう、330人を出家させて供養に当たらせた。

 喪中にもかかわらず、各地の城塞新築工事や百済難民救済対策も進めなくてはならない。2度目の唐使節がやってきたのはそのような中である。対馬に現れたのが4年7月20日であった。だが、前回とは違って、劉徳高という唐軍の局次官クラスが国を代表し、また前回の郭務そうがアシスタントのような形で同行していたため、対話には継続性があった。

 何よりも、日本側は前回のような極端な緊張が姿を消し、交渉を可能とする余裕が持てたことが大きい。早速、完成したばかりの大宰府に迎え馬をもって使節を招きいれただろう。入り口の門は、高さ13メートル、延長1.2キロにわたる土塀の両端にある。塀に沿って2重の堀があり、前の堀は幅60メートル、深さが4メートルもあった。

 その豪華な門を潜って大宰府迎賓館にたどり着くには、さらに左右の山の間を20分ほど歩かなければならない。朝廷の出先として、史上最も権威を持った施設は、外交官にそれなりの心象を与えただろう。ここで外交文書を受け取り、あとは『書記』に記すように淡々と事が進む。

 冬十月十一日、大いに宇治に閲(けみ)す。つまり難波から淀川をさかのぼり、わざわざ遠回りして宇治で大規模な閲兵行事をする。十一月十三日、劉徳高らに饗(あえ)賜う。十二月の十四日に、物を劉徳高らに賜う。この月に劉徳高らまかり帰りぬ。

 この後、使節を送るという名目で人を派遣したりまた送り返されたりで、日本は朝鮮に介入しないし唐は日本に侵攻しないという和平協定がなり立ったと見てていい。しかし、天智政権はその後も城郭の建設を続けたり、騎馬軍団を創設するなど防衛力整備に力を注いだ。

 前にも述べたが、天智はそういった新規事業に百済難民の中からそれぞれが持つ能力を生かして高度に利用した。また400人余りを近江で開拓時業にあたらせ、2000余人を東国に移住させた。あとのケースでは3年間の食料援助までつけている。

 このような福祉事業や城塞建設のほか、大水による租税の免除も重なり、財政逼迫は極限に達したものと思われる。斉明天皇と間人大后の陵墓は6年2月にようやく完成、合葬した。ただし労力を要する石室の造営は廃止され、古墳時代末期の天皇陵薄葬にはずみをつけた。

 それが終わると、都を近江に移す。財政難の折り、民衆の反対が強かったとされている。首都防衛のためという説があるが、敦賀方面から上陸された場合を考えると、どうして近江が防衛上有利なのか説明がつかない。また、唐の圧力は一時より大幅に緩和しており、この説は採らない。

 近江では百済人による開拓が進み新規の産業も興りつつある。さらに、朝鮮出兵前に実現した越から北海道方面まで伸びた版図、そして東海、関東の生産力の高まりに配慮し、これまでの九州・瀬戸内海を中心とした大和王朝体制から比重を東に移して、その交通の拠点である近江に注目したとするのは、あまりにも現代的な考えに過ぎるだろうか。

 そして7年正月、ようやく天智は即位する。父、舒明天皇の死からかぞえると、30年のあとに実現したことになる。

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2009年5月13日 (水)

ただのこわし屋?

 小沢一郎について回った伝統的なあだ名は「こわし屋」だった。民主党代表になってからは「ボクは変わる宣言」で卒業したのかと思ったら、12日の民主党両院議員総会で16日に現議員だけの投票で後継代表を選ぶという破天荒な日程を決めた。これは、民主党をこわすことにならないか。

 民主主義を守るため、と口癖のようにいっていた小沢氏(後継決定までは代表である)が、まさに民主主義にやいばを向けた構図である。立候補したい人が20人の推薦人を集める余裕もないし、総理になる前提の候補の政策をまとめたり討論したり、またそれを国民が知ることもできない。

 執行部として責任を共にするといっていた鳩山幹事長が、一転立候補の意向を示すなど、どう見ても密室決定のにおいがする。政治に密室協議があるのは当然で、それがいけないのではない。定められたとおりの手続きで、国民がよく見える方法で代表を選ぶべきだし当然そうするのだと思っていた。

 代表の辞任が早ければ、それだけ余裕をもって後継選びができたはずだが、まだ解散したわけではなく、これからでも時間は充分にある。自民党でさえ国会選挙の洗礼は受けていないものの、公開された形で国民の前で総裁公選をするようになった。

 任期途中の緊急事態だから略式でやるというのは理由にならない。党則にある議員総会での選任というのは、本人死亡などの場合に適用すべきで、総理大臣になる可能性をもつ人を選ぶのに、今度の日曜日に地方へ行って国民の声を聞きたいという一部議員の要望さえ押さえ込んだようだ。

 こんな民主党に支持が集まるだろうか。「支持が集まらなくてもいい、ギリギリでどっちが勝っても負けてもいい、そして自・民両党の中に分裂の気運が生まれ、その中で政界再編か大連立を画策し、キングメーカーの醍醐味を味わえれば本望」、まさかそんなことを小沢氏が考えているとは思わないが、それならばこわし屋復活どころか、これはもう国賊である。

 リベラルな人材に囲まれてた菅直人氏や、安全保障問題で小沢氏と協定を結んでいる横路氏の周辺から声が聞こえてこないのも不審である。「小沢氏を中心に一致団結」するための自重はもういらないのではないか。音無の構えでは国民の支持は集められない。

 もし、鳩山対抗候補が岡田氏だけなら、改憲に熱心な鳩山氏より自民党のこわがる岡田氏の方を次善の策として応援したい。

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2009年5月11日 (月)

遂に小沢辞任

 小沢民主党代表は遂に辞任した。事件発生以来、当ブログは再三この事を予見して発言し続けてきた。それはまさに「民主党による政権交代を実現させるため」につきる。しかし、当ブログの期待した最も遅い時期になってしまった。

 会見で強調したことは、政権交代を実現させることと党内一致団結体制である。当ブログの最近の関連記事は前々回の「風船の哲学」だった。会見では後継指名を否定したが、一党員として党内結束に尽力するような発言もしており、これまで小沢体制を支えてきた鳩山幹事長、菅野代表代行が小沢で整えた結束を維持させようとすれば、当然その3者で統一候補を推す動きも出てくるだろう。

 そこでいい意味での「風船の哲学」が作用し、小沢辞任が最善の効果を生むかも知れないしそれを期待したい。ここは是非本来の小沢流を発揮し、巷間噂されているような若手の二番煎じではなくハプニングの人選をしてほしい。今度こそ民主党員は全力で選挙に立ち向かい国民の期待にこたえなければならない。

 検察対小沢――第一ラウンド……小沢の勝ち!!。

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異説・天智天皇11

 天智称制3年(664)7月27日、白村江で唐軍に大敗を喫してからあと1月で1年になる。唐の追撃にそなえて計画された水城を前衛とする新大宰府など、各地の要塞化はまだ完成していない。斉明死後、即位を果たしていない天智の政治基盤も盤石なものになっていない。そんな時、唐の大船が対馬沖に現れたのだ。

 まず、大山中の位を持つ出先の官吏に用件をたださせた。その結果、百済占領軍の鎮将・劉仁願の牒書と献物を持参しているという。代表は朝散大夫・郭務そう(りっしんべんに宗)、兵隊の位で言えば大佐か少将といったところか。

 そこで別館(対馬か筑紫かは不明)に郭を迎え入れ、僧・智弁が牒書だけを受け取って持ち帰った。その内容は一切公開されていない。大宰府の帥・阿倍比羅夫はそれをチェックする役割がある。自らの判断・意見と共に京へ超特急の早馬を走らせた。

 そのためか、郭らに対する返答は9月になった。今度は智弁のほかに津守吉祥と伊吉博徳が立合っている。あとの2人は斉明の死直前に帰国復命した遣唐使で、唐の天子・高宗と面識があることをすでに述べた。筑紫でそのまま、比羅夫の外交をサポートをしていたのかも知れない。

 回答の要旨は次のようなものである。「今客らがきたのを見るとどうも天子の使ではない。百済の鎮将の私的な使である。また書簡も執事の私信である。これをもって使人は国に入ることができない。書も朝廷に上げない。ただ概略だけは口頭で奏上しておこう。筑紫太宰はそう仰せられている」

 郭は納得しなかった。劉仁願将軍にうっかりそんな報告をしたらばっさり斬って捨てられる、そんなこわい気性の人だ。なおも別館でねばり続けた。『書記』では、彼らが来たという事実関係しか書いていない。このくだりは、主に室町時代後期に編集された『善隣国宝記』によるものである。

 さらに、『書記』を追うとこうなる。「冬十月一日、郭らを出発させる詔勅が宣告される。この日に中臣内臣(鎌足)名義で物賜う。四日、郭らを饗宴する。十二月十二日に、郭らまかり帰りぬ」。しかし、郭が帰国のきっかけを作ったのは、同月博徳らから公式の文書回答を受け取ったからだ。

 『善隣国宝記』によると、内容は九月の回答と変わらないが表函(ふみひつ)の表書きには「日本鎮西筑紫大将軍之牒」としてあった。日本にこんな役職・官名はない。これは劉大将軍に見合いの役どころというか、それを上回る威厳を示したつもりなのだろう。

 天智政権のこの時の対応は、想像であるが、唐の書簡の内容は朝鮮の処理方針についての説明であり、日本を攻撃する内容を含んでいないということと、防衛体制構築に時間がほしかったため、手続き上の理由で回答を保留し、時間稼ぎをすることだっただろう。

 唐の真意はまだはかりかねる。しかし、大宰府要塞化の目途も見えてきたので、まずは一刻も早くお引き取り願い、天智体制の確立を優先させたいという気持ちが、硬軟とり混ぜた処置として表れたのだろう。とにかく日本の外交としてまずはは立派なものだ。

 次の使節がやってきたのは、それから1年も経ていない翌4年9月だった。  

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2009年5月 9日 (土)

風船の哲学

 熱気球に乗ってはしゃいでいる朝青龍の映像がテレビに出ていた。と、思ったら今度はモンゴル勢力士が揃ってゴルフに行ったというのでスポーツ紙などが騒ぎにしている。親方を通じて厳重注意だそうだが、本場所前とはいえ、彼らはそんなに悪いことをしたのだろうか。

 かと思うと、桝添厚生労働大臣の、帰国高校生らが新型インフル感染したことを発表する発表するあの引きつった顔と早口。水際作戦にこだわり過ぎてはいないだろうか。日本人には、どうもことごとに緊張をあおるくせがあるようだ。天孫民族ならぬテンション民族とはよく言ったものだ。

 もうすこし、青空にゆっくり舞い上がる風船のように、おおらかにいかないものだろうか。ただしこのエントリーの題「風船の哲学」は、そんな話ではない。前回に続いて小沢民主党代表の辞任がテーマで、毎日新聞に載っていた岩見隆夫の「近聞遠見」という政治コラムで見た全く違う話である。

 そもそも言葉の起源はこうだ。34年余前の74年暮れ、自民党は田中角栄首相が金脈批判で退陣したあとの後継問題は、椎名悦三郎副総裁に選定を一任される。「三角大福中」といわれた実力者の中から角を継ぐべき人は誰かを選ばなければならない。椎名は悩む。

 当時の記者の分析によると「あらゆる可能性をもたせ、風船を大きくふくらませておいて、いざ、という時に一気に口をあける」のが政局の緊張を解くこつで、最も意外性のある少数派閥の三木武夫を指名し、異論噴出と思いきや、あっという間に政争は終息させた。まさに風船の効用だという。

 次ぎの風船は、94年夏にふくらむ。細川連立政権が短命で倒れ、あとの羽田政権も崩壊寸前の時だ。非自民で連立に加わった最大勢力の社会党が、小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長の一・一コンビによる強引な政権支配でそでにされ、反旗をひるがえした。

 一方、万年与党に慣れていた自民党は野党暮らしに耐え切れず、我慢が限度に近づいていた。そこで村山(富市・社会党委員長)を担いで政権を奪回するという奇策が生まれる。風船をを操っていた人について岩見は語っていない。

 村山か、自民党河野総裁か、野中か、さきがけの竹村か、とにかくこれも「風船哲学」が効を奏し、自社双方の内部の反対を封じてしまった。岩見は、小沢代表が風船を限度いっぱいふくらませ、解散と同時に後継者を指名して代表辞任をするという手があることをサジェスチョンする。

 しかし、三木、村山内閣の時とは時代が違う。個人芸で国の代表者を決める時代は過去のものであろう。ここ3代続いて国会選挙の洗礼を受けず自民党首相が続いた。しかし森首相が密室協議のもとで決まったという批判から、党代表者はまがりなりにも開かれた選挙で選ぶという習慣が付いている。

 小沢氏が後継指名をするにしても、党内公選は避けられない手続きだろう。それがないとすれば、小沢氏の政治手法とあわせて、自民党ですらなくなった過去の政治体質をひきずった党として国民から見放されてもやむを得ないということになる。

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2009年5月 8日 (金)

民主敗北も視野に

 本ブログは、小沢民主党代表の秘書逮捕を受けて3月4日付けで「小沢辞任しかない」の記事を掲げた。それは、時をおかず辞任することが、小沢氏独特のカリスマ性と政治生命を生かし、民主圧勝をギャランティする道だと思ったからだ。

 次ぎに4月1日付けで「小沢辞任は今月中」をエントリーした。本当は、検察の選挙干渉が取りざたされ、国民の関心がさめやらぬ事件発生直後がよかった。それでも、起訴の内容や自民党関係者への捜索を見極め、後継代表候補のめどをつけ拙速をさけるという理由なら我慢もできた。

 しかし、それもぎりぎり連休前までで、国会が始まる頃には完全に麻生ペースになり民主が解散総選挙の主導権をにぎるのが困難になる。そこで、エープリルフールデーに今月中という予測を立てた。しかし小沢氏は言を左右にするのをやめて最近は開き直り発言も聞かれるようだ。

 過去小沢氏の影武者のように行動を共にし、時にはマスコミ批判の矢面に立って支えてきた恩人の藤井裕久氏や、ニセメール事件など党の危機に際して絶妙な手腕を見せた渡部恒三氏など最高顧問の忠告に対し、「マスコミに向けた老人の繰り言だ」というニューアンスの批判をしたという。

 これまでどうにか保ってきた小沢氏のカリスマ性は、完全になまった。われわれ市民は政治家に直接接触するわけではない。多くのこまぎれ情報から判断するしかない。昨日から始まった国会の論争でも民主党に政局を動かすほどの迫力が一向に感じられなかった。

 小沢辞任もこれからでは遅い。民主党はこのままじり貧状態を続けていくのか。私はぎりぎり比較第一党とか、野党連立でかろうじて過半数などではなく、圧勝しなければ民主党勝利とはいえないと思っている。それは、いずれ政界再編の波からのがれられず、日本の政治が望まざる方向に流されることを心配するからである。

 この責任はひとり小沢代表だけでなく、小沢氏に変わる民主党の顔を擁立できない、あるいは自ら進んで候補を買って出る気概のない党員にもある。双方共に民主党の魅力をそいでいるとしかいえない。これで選挙に敗北するようでは、自民・公明をふくめたガラガラポンを本当に模索しなければならないような場面がくるかも知れない。

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2009年5月 7日 (木)

異説・天智天皇10

 天智称制2年、秋の風が身にしみるころ長津(博多港)は、身ひとつ逃れてきた敗残兵や手に持てるだけの荷物を持った百済の難民でごったがえした。兵達は出発の時と違って統率する指揮者がいないことも多い。出身も九州や畿内はもとより、日本海岸越ををのぞく関東・東北地方までほぼ全国にわたっていた。

 その数、控えめに見てもざっと数万人、船はのべ千艘を越えただろう。疲労と不安と焦燥にかられる群衆ををどう混乱なく受け入れるか。その至難の業を、手際よく仮の落ち着き先や食料の配給、傷病者の手当などをとり捌く初老の将軍がいた。前回名をあげた後将軍・阿倍引田臣比邏夫である。

 朝鮮派兵が始まる前まで、秋田、北海道方面に3年連続で船師を率い、蝦夷・粛慎平定に経験を積んだ。息子の宿奈麻呂も比羅夫の手足となって奔走していた。実はそんなことは『書記』になにも書いてない。手がかりは『日本続紀』に息子の死亡記事があり、その親として「後ノ岡本朝筑紫大宰ノ帥大錦上比羅夫」とあるからである。

 ここですこし解説を加えると、「後岡本朝」というのは、斉明天皇の時代をいう。しかし天皇死後天智は6年も即位していないし、首都も飛鳥・岡本宮から移していないのて斉明の延長という見方になっている。さらに「大錦上」という冠位は、天智称制3年2月に制定したもので、比羅夫が派兵開始以来ずっと筑紫で大和朝廷の出先として活躍していた可能性が高いのである。

 さて、肝心の天智は都で即位もせずにその頃なにをしていたか。前述のように冠位改定を含む大行政改革を行った。これは大化改新以来の刷新で、戦後の政権強化と疲弊した財政の建て直しが目的であろう。これには弟の大海人皇子も参画している。

 さらに、国防の充実強化が最優先課題である。対馬、壱岐、筑紫、長門などの防塞を新築または強化し、のろし場を整備した。また大宰府を大規模な堀と堤防(水城)でガードし左右の山には大野城、椽城を築いた。これは4年後の高安城(生駒山塊)、屋島城(讃岐)、金田城(対馬)につながる。もちろん、唐、新羅の攻撃にそなえるものである。

 このような中、3年7月27日に唐の使節団総勢254人が対馬沖に姿を現した。戦後初めて唐との接触になる。日本列島に極度の緊張が走った。

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2009年5月 6日 (水)

回り始めた核廃絶の歯車

 来年に迫った核不拡散条約(NPT)再検討会議の第3回準備委員会が4日から国連本部で始まった。何の前進も見ず決裂した前回05年の会議とは違い、抑止力重視から核廃絶へ大きく舵を切った最大の核保有国のアメリカ・オバマ大統領のもとでの会議だ。

 日本は柴山外務政務官のほか広島、長崎両市長も現地入りして演説している。また、川口順子元外相がエバンス豪元外相と共同議長を務める国際的な賢人会議「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」も活動状況について各国代表らに説明する。

 日本政府の主張は、必ずしも後ろ向きとはいえないが、北朝鮮のミサイル恫喝に対する過剰反応や、中国を意識した核の傘確保を強調するなど、同じアメリカと同盟関係にある他の国とは違った抑止力への期待をにじませるなど、腰のひけた印象を持たれてもやむを得ないものがあるようだ。

 これにひき換え、オーストラリアのラッド首相が提唱し、08年7月の福田康夫前首相との日豪首脳会談で設置が合意された「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」は、次のようなタイムスケジュールを掲げている。また、川口議長は先制不使用について、日本政府が「検証困難で安全保障を弱体化させる」と反対の立場を示していることに対し、「(米国が先制不使用を宣言しても)同盟国への安全保障はきちんとやってもらう。日本政府より半歩前を行くことが重要」(05/06毎日新聞)と言明している。

 短期目標(09~12年)はオバマ米大統領の任期1期目を想定。米大統領が、他の核保有国が核兵器を使わない限り、米国は核を使わず、核の役割を米国と同盟国への抑止に限定するとの声明を出す。さらに、米国以外の核保有国と共に、各国が先制使用しないことを検討すると宣言する。核実験全面禁止条約(CTBT)批准促進と兵器用核分裂物質生産禁止条約の交渉を開始し、イランの核兵器開発阻止と北朝鮮の非核化を早期に達成する。

 中期目標(25年まで)=必要最低限までの核軍縮を完了。配備中の核兵器の臨戦態勢を解除。

 長期目標(25年以降)=非核化の国際検証体制構築、核兵器開発を防ぐ核技術管理などの条件を満たして核廃絶を達成。

 この国際委員会は米国のペリー元国防長官やロシア、中国、英国、インドなどの元閣僚・元首クラス計15人で構成されている。米国の同盟国である日豪が核軍縮の現実的な工程を示すことで、米国の核軍縮を後押しする狙いがある。この目標が多くの国の注目を浴びることになれば、確実に核廃絶の歯車は回り出す。

 過大な期待は禁物だが、この問題で麻生自民党政権が世界で主導的役割を果たすのはやはり無理だ。ここは被爆経験のある日本人を代表して、英語が堪能で外交実績もある川口議長に、核軍縮の歯車に油を差す役を果たしてもらいたいものだ。

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2009年5月 4日 (月)

「護憲」から「攻憲」へ

 「改憲」か「護憲」かの時代は終わった。今、世界の安全保障問題はかつてない蠢動をはじめている。それとは関係なしに自民党の改憲派が動き始めた。安倍元首相とかつての取りまきによる冷戦時代から一歩もでない低レベルのものと、オバマ新体制下の対応をさぐる防衛族の新しい動きだ。

 そのふたつは、ちょうど新型インフルエンザウイルスと似ている。発生の動機や視点・観点もそれぞれ異なるが、中国・北朝鮮脅威論などで一体化し、突然変異して猛毒をふるう可能性がある。その感染を防ぐため護憲派は何をなすべきか。それには菌を利用して予防ワクチンを完備しておくことしかない。

 「決して許せません」党や「断固反対」党だけでは、マスクほどの役にも立たない。やはり、厳重な管理の元でウイルスの科学的分析から始めなくてはならない。抽象論だけではわからないので、例えば、の話をしてみよう。まず、毎日新聞で今日から始まった特集「アメリカよ新ニッポン論・第3部 平和の未来」の中からの抜粋である。

 今年2月末、防衛省・自衛隊の化学防護・情報部門や防衛産業の専門家OBらで作るNPO(非営利組織)「NBCR対策推進機構」(東京、会長・片山虎之助元総務相)は、核問題に関する報告書を参院外交防衛委員会事務局に提出した。

 「保有直前の段階まで核開発を進めておく『寸止め』開発が日本に望ましい」として、核兵器の開発準備から量産化までの手順を具体的に説明した内容も含まれている。

 「核恫喝を受けそうになった場合、1週間程度で核兵器を完成させることができ、同時にそれまで核は保有しない。この状態が国際情勢、国内情勢から現状ではもっとも望ましい」との理由だ。

 同機構の井上忠雄理事長は、元陸上自衛隊化学学校長で核技術の専門家。「日本の核武装は非現実的だが、米国の核の傘に不安を持つ人も多い。核防護検討会のような核兵器に関する米国との対話組織が必要」と言う。

 核軍縮が始まれば、米核戦略が変わり、核の傘も変質する。核軍縮を支持しつつ、核の傘を維持するには、日本も米戦略にもっと参画すべきだ。数少ない核の専門家たちが、そう考え始めている。

 実は、この『寸止め』論に近いことを私は06年10月、すでにブログに書いている(ログに残っていないので文末に再録)。その主張が、核廃絶宣言を公約としたオバマ大統領の出現で、現実味を帯びてきたことをあげておこう。

 ただし私の主張は、自民党の発想と違う。これまでの歴史を振り返って、自衛の備えや準備のない状況は犯罪的ですらあると思う。残念ながら、抑止力を持たない自衛が成り立たないという考えもわかる。ただし、それはアメリカの核の傘を借りることでも、ブッシュが推進した世界戦略に協力することでもない。日本独自の安全保障政策を持つということである。

 話を『寸止め』論に戻すが、わが国はすでに核開発はもとより輸送手段やコントロール技術は、すでに北朝鮮などよりはるか先をいっている。実際にはなくても『寸止め』計画があるというだけで抑止力は充分である。

 しかしこれでは、中国・朝鮮にいたずらな警戒心を持たせることになるだろう。そこで憲法9条に第3項を加えて領域外への武器持ち込み及び使用を禁止し、解釈改憲の余地をなくして、他国での武力行使は一切しないという誓いをあらためて強調しておくことが必要になる。

 自民の悪性改憲ウイルスに対抗するためには、核開発議論やMD計画議論を避けるようでは予防できない。あえてその議論に乗り、アメリカとの思惑の食い違いや自民党内の自己矛盾をつく必要がある。さらに改憲論議があれば9条補強案や日米同盟改定案まで提示する。

 こうして、憲法を「護る」という消極性だけではなく、「攻める」積極性があってこそ、国民多数の支持を得られる強力なワクチンを備えたことになるはずだ。

 2006-10-19[反戦老年委員会]
核アレルギー
 わが委員会は、核兵器やミサイル技術について、研究・検討すべき事柄である、ということを10日の「極論でしょうか」の中で提唱した。これは中川政調会長、麻生外相発言より前のことである。両氏の発言について、野党はもとより与党の中からも批判があがっているという。両氏は非核三原則を否定しているわけでなく、議論すること自体問題はない、としている。

 わが委員会の提唱に表立った批判は寄せられていないが、コメントから「賛成しかねる」といった空気も感じられる。日頃タカ派発言の多い両氏の政治姿勢とは、対極に位置するわが委員会がどうして同じ結論に至ったのか、その説明をしておく必要がある。

 毎年の広島、長崎の原爆記念日には市長の宣言が読み上げられる。その一言一句をかみしめ、誓いを新たにする気持ちになる。今年も小泉首相が参列していたが、果たしてどこまで核兵器廃絶に力を注ごうとしているのか疑問を感じる。

 非人道的大量殺戮兵器、核。核といえば、原発であろうが何であろうが目にするのも耳にするのもけがらわしい。触れてはならない魔の存在である。――そんな感情がなかったわけではない。いわゆる「核アレルギー」である。

 しかし流れは変わった。「北朝鮮がミサイルと核爆発の実験をした。ミサイルが東京の中心に到達し核爆弾を破裂させると何十万人の犠牲者がでる。そうさせないためには、アメリカの核の傘で守ってもらうしかない。そのアメリカとの同盟関係を強固にするには、集団的自衛権行使のじゃまになる憲法9条を改正しなければならない」。この俗論をどう止めるか。

 北が日本に向けてミサイルを発射することはあるのか、その配置状況は、核弾頭を積むことは可能か、そして爆発の規模は、誘導システムと確度は、迎撃体制・報復体制はなどなど、核戦略、核兵器使用戦術および兵器自体の知識があって、はじめて前述の主張に反論することができる。

 核アレルギーの反戦論はもはや捨て去るべきである。日本は時代遅れの「核の傘論」から脱却(アメリカには政治的効果がある)し、核軍縮・核廃絶を真剣にアメリカに進言しなければならない立場にある。核に対する研究も議論も知識もなくて、どうしてそれができようか。

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2009年5月 3日 (日)

おしつけ憲法論

 改憲派の中でも下火になったが、いまだに現憲法は押っつけられたものという主張をしている人がすくなくない。この論理は全く成り立たないことに気づいていない。まず言っておこう。そう、間違いなくGHQ案を押しつたものである。それは、帝国憲法の骨子を残しておきたい幣原保守内閣に対してである。

 国民もみんなそれは知っていた。しかし民主化運動は盛んに起きたが新憲法に対する抵抗運動など起きなかった。なぜならば、国民は一部戦争指導層を除いて「戦争に負けてよかった。もし勝っていたら軍部がどんなに威張り散らすかわからない」と思っていたからだ。

 GHQが言論弾圧をした?。事実、個人の信書までチェックした。これは航空便の縁に似たようなテープを貼り開封したことがわかるよにうしてあった。もちろん新聞など刊行物の検閲もある。しかし、巷の人の口までおさえられないし、言論の自由を奨励しているのに公然と取り締まることなどあり得ない。戦時中の憲兵のようにMP(ミリタリーポリス)から逮捕されたなど聞いたことがなかった。

 戦後生まれの学者の中には、政府側史料や公式記録、刊行物などだけで「おしつけ憲法論」を展開するものが多い。そして、国民も、国会議員も歯をくいしばり、声もたてず涙ながらにこの案を飲んだのだものと考える。さらに、天皇も国民も宮城前広場で挙行された新憲法発布の喜びの表明は、演出だと思っている。

 日本人はそんなに卑屈で我慢強い人種ではない。当時の国民の気分は、占領下であっても戦中よりずっと自由にものが言え、民主的に議論もでき、基本的人権も尊重されるようになった。それに、再び横暴な軍部が復活することなく、徴兵されることもなくなったのだ。これを喜ばない方が不思議だ。

 それでも、日本人の手で作り直すべきだと思えば、講和条約後独立国としていつでも改定できたはずだ。それをいままでしなかったのは、国民がそれを変える必要がない、と思っていたからではないか。それより、旧安保(吉田安保)は、占領軍撤退の空白を埋めるためと称し、講和条約締結と同日付けで発効(占領下で起案)したもので、その時に押しつけられた地位協定がいまだに生きている。

 おしつけ憲法論者は、どうしてより簡単にできるその方に手をつけないのだろうか。石原都知事ではないが東京都上空の航空管制権や沖縄海兵隊移転費用の負担、普天間基地の問題、思いやり予算等々おしつけは山ほどある。

 おしつけ改憲論者の真意はやはり別の所にあるのだ。それは、自民党改憲案そのもので、軍の復活と、大日本帝国へのノスタルジアを感じてのことだろう。これは戦中・戦後を知らない層と知っていても戦争責任を認めたくない層からなる。

 当塾は改憲反対ではない。ただし改定するなら、解釈改憲の余地をなくするよう9条補強を第一とする。また、専守防衛の自衛隊なら世界の軍縮が進むまで縮小の必要なし、と考えており、一番確実な安全保障は9条の存在だと確信している。それらの各論は本ブログのテーマであるので他稿にゆずることにする。

 憲法記念日だということで、このテーマにしたが、購読紙の毎日新聞は予想以上に憲法にスペースを割いていた。他紙はまだ確認していない。ちなみに、最終頁のラテ欄で見ると、憲法特番がNHKで3本合計4時間15分、民放はゼロだった。

 

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2009年5月 2日 (土)

異説・天智天皇9

 百済攻撃の指揮を執ったのは、新・旧『唐書』の列伝に残る名将、蘇定方とその配下で歴戦の猛将、劉仁軌・劉仁願であるが、日本側は次の通りである。

第1次
前将軍 大花下安曇比邏夫連・小花下川辺百枝臣ら
後将軍 阿倍引田臣比邏夫・大山上・大山上物部連熊・大山上守君大石

第2次
前将軍 上毛君稚子・間人連大蓋
中将軍 三輪君根麻呂
後将軍 阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄

 これで見ると、前線を受け持ったのがいずれも地方に根拠を持つ大豪族で、筑紫を中心に海に強い安曇連と、関東内陸に地盤がある上毛(かみつけ)君である。それ以外は大和で朝廷に直属する官僚が主になっている。名門大豪族の阿倍臣だけが第1次、2次と両方に後将軍として顔を出す。これは、直前まで蝦夷平定の海軍を指揮していたこともあり、筑紫に本拠を置いて兵站輸送に専念していたものであろう。

 唐と違って途中で指揮者が交替しているのがなんとも解せない。蘇定方に相当する戦略担当者がいないのだ。日本の朝廷は前線から一歩退いて百済王と前将軍に指揮をまかせ、軍略の神といわれた百済復興の功臣・福信を殺してしまい、日本宮廷の居候生活しか体験のない国王を責任者とするのでは勝てるわけがない。

 結局、斉明の国際感覚欠如と戦争に対する甘さが大規模派兵につながり、天智に撤退を決断する勇気と能力がなかったため白村江の敗戦を招いた。それが、この戦争の全容である。
 

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