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2009年4月10日 (金)

異説・天智天皇1

 「畏くも今上天皇陛下におかせられましては、天智天皇をことのほか崇敬あそばされる御おもむきと、もれうけたまわります。こん日の時勢に鑑み、国民として恐懼感激を新たにするものであります」。終戦前ならこんな言い回しをしなければならなかった。

 どうして7世紀の天智天皇がお好きなのか、成婚50周年とやらで皇室報道に精出す週刊誌に聞いて欲しかった。また、上記のような天皇を絶対視・神格視する言い回しがいつから始まったのかわからないが、すくなくとも7世紀当時は「天皇=てんのう」とは言わず「大王=おおきみ」であった。

 大王を神がかりにしたのは天智の弟・天武天皇のあたりからで、御用歌人、柿本人麻呂などの広報活動が利いている。「天智」というのは、後世に作られた漢風諡号(かんぷうしごう=中国式おくり名)、本名・開別(ひらかすわけ)、幼名通称・葛城皇子、即位前通称・中大兄である。大化改新といえば中大兄で、日本史の暗記項目だからこれが一番ポピュラーだ。しかし、本稿では天智(てんぢ)で代表させることにした。

 この天皇を取り上げようとするのは、白村江の合戦で日本開闢以来はじめて手痛い敗戦を喫し、中国(唐)、朝鮮(新羅)の追撃を恐れて本土決戦に備え、戦後処理に心を砕いた天皇だからである。いわば、昭和天皇と立場が似ている。

 題を「異説」としたのは、定説にはない憶測を入れた物語、いわば小説だからである。しかし、それはあくまでも『日本書紀』と、同書が明らかにしている参考文書だけを読んで組み立てたもので、津田史観やその亜流の学説のように「書いてあるからウソ、書いてないことが真実」という、およそ科学的ではない憶測には組みしない。その理由は「日・中協業」「日・中協業2」ですでに書いた。

 最初の回は、このブログ歴史シリーズの前例にならって白村江戦前後の簡単な年表を示すことから始める。( )は天智の推定満年齢。

・645年6月 母・皇極天皇の面前で蘇我入鹿を殺す。叔父・孝徳天皇即位、皇太子となる(19)。
・655年1月 孝徳天皇病没、母・斉明天皇重祚。(29)
・660年秋  新羅・唐が連合して百済侵攻、天皇は百済救援軍派遣を決め準備に入る。(34)
・661年1月 天皇、皇太子ら征西軍を指揮して、愛媛・道後温泉、博多港経由で朝倉宮に親征。
・661年7月 斉明天皇67歳で病没。征西軍は渡海。
・661年10月 服喪のため皇太子帰京。
・663年3月 27000人を新羅に向け増派。
・663年8月 白村江で唐軍と衝突。大敗して敗走・撤兵。(37)
・667年3月 近江・大津に遷都。即位する。(41)
・671年12月 大海人(弟・後の天武天皇)に譲位を申し出るが断られ、病没。(45)

 天智は、『日本書紀』の中では非常に情報量の多い人物である。記述は、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、天武の6代の天皇紀にわたっている。一般的には開明派であるとともに、積極果敢、武断派であるように見られているようだが、開明派はともかく、何度も即位の機会を見過ごし、40を過ぎて漸く天皇の地位につくなど、性格は優柔不断、どちらかというとオタクっぽい印象がするのである。

 そのあたりを、時代背景とともに朝鮮出兵と敗戦処理をめぐる天智の業績を次回以降に見ていきたい。
 

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