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2009年4月17日 (金)

異説・天智天皇4

 斉明天皇が即位してまず着手した事業は大土木工事と建築工事である。それらを列挙しよう。

1.飛鳥の小墾田(おはりだ)というところは推古天皇の時代、初めて中国(隋)の国使を騎兵隊の儀仗つきで晴れがましく迎え入れた由緒ある宮どころである。斉明は大規模な瓦葺き建築を目論んだが、それを支える太い木材が足りず途中で放棄した。結局即位時の板蓋宮が火事で焼け、川原宮を経て岡本に敷地を求め、数年かけてそこを根拠地にした。

2.田務嶺(飛鳥東方、現・多武峯最高点海抜603㍍)を巡るように垣をめぐらし、その上に楼観を建て両槻(ふたつき)と名付ける。次に記す運河とともに、唐の侵攻に備えた軍事施設だという説があるが、それならば、地形から見て後に天智が施工したように、生駒山系の高安あたりに防塞を築くのが自然だ。これは祭祀に用いる寺院であろう。

3.香具山の西から石上山(現在の天理市あたりをいうなら延長12㎞以上になる)まで運河を造り、舟200艘で飛鳥まで石を運ぶ。その石は「宮の東の山に石を累ねて垣とす」とある。2000年に発掘された水仕掛けの一部らしい亀形石造物が有名になったが、それを取り囲むように小型のコロシアム状の石積みがあって、それである可能性が強い。

 そのほかに吉野宮を作ったとしているが、『書記』はそれらを「時の人謗(そし)りて曰く」との表現で公然と非難している。すなわち、運河は「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」であり、掘削に3万余、石の運搬や垣の造成に7万余の労働力を無駄にし、建材の木を腐らせ、山裾は破壊されたといい、未完のまま放置されたことを暗示している。

 これらを斉明女帝の個人的な嗜好だとしてしまうのはちょっと酷な気がする。前代の孝徳も難波に豪華な宮殿を造営した。それは外国使節団に都の偉容を示すためであった。斉明はそれに劣らぬものを作りたかったのだろう。

 しかし、水運が開け交通の要衝で商業に適し、自然に人と物の集まる難波とは違う。かつて孝徳のもとに集まった開明派は、中大兄を含めその無謀さに気がついていた。また、中国はスケールがお大きく朝鮮外交とは全く次元の異なることも知っていた。

 斉明紀の中で大きなスペースが割かれるのは、阿倍比羅夫による秋田・北海道方面への3回にわたる遠征である。これも、斉明が望む労働力としての蝦夷の確保と、開明派である比羅夫が、折からの唐・高麗間の紛争に影響を持つ北方民族・粛慎(みしはせ)の北海道進出を聞き、その実態を調査をするという二面的な目的があった。

 前に中大兄は『書記』に情報量が多い、と書いたが青壮年に当たる斉明紀にはほとんど記述がない。斉明の存命中に書かれた実績は、孝徳の息子である有間皇子が謀反の嫌疑で中大兄の訊問を受けたということと、初めて漏剋(ろこく=水時計)を造り民間に時を知らせたという2件だけである。

 一見、引きこもり状態にも見えるのだが、中国伝来の科学技術・漏剋の開発という一面は、たしかに科学者・昭和天皇に受け継がれている。当時の皇位継承は、天皇の推薦、豪族の一致した支持、血脈の正しさの3つで決まり、皇太子即後継者ではなかった。

 その点、有力な有資格者ではあるが決定的なものではなく、よほど身の危険に迫られない限り出過ぎたことをしないようにしていたのかも知れない。これまでの数代はいずれも犠牲者を出している。まず、母斉明の意に添うことを第一にしていたのではなかろうか。しかし、真相は不明である。

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