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2009年4月20日 (月)

異説・天智天皇5

 斉明天皇6年夏5月、『書記』が「皇太子、初めて漏剋を造る」(前掲)と書いたことを前回紹介した。飛鳥の都に「チーン」といったか「カーン」となったかは定かでないが定刻になると鐘の音が響いた。そののどかさとは裏腹に「国こぞる百姓(おおみたから)、故なくして兵(つわもの=武器)を持ちて、道にかよう」という不穏な雰囲気を伝えている。

 これには、「長老が言った。これは百済の国が滅亡する前兆だ」という注釈をつけている。この頃すでに唐の百済侵攻は、決定していたが、実際に新羅連合軍の攻撃を受けて王室が唐に拉致されるのは2か月ほどあとだ。こういった百済滅亡の予言は、ほかの事象についても「或本に曰く」として紹介しており、天皇家以外の政権批判が多かったと見ていい。

 しかしこういった予言はどうも後付けらしい。百姓(一般庶民のことで農民とは限らない)が武器を持って往来していたというのは、事実だろう。それは、阿倍比羅夫による北伐に動員された兵士達であろう。そんなに大軍ではないが、同年まで連続3年にわたり連続派兵し、延べでは万を超えているだろう。この前後にも捕虜50名余を朝廷に献上している。

 ことにこの最後の回は、激しい戦闘もあったので、兵士には論功行賞で武器の下賜があったと見ていい。大相撲千秋楽の三役勝利者に給う、弓とか矢と同じである。だからこれは勲章であり、誇らしげに都の中を持って歩いたという社会現象なら大いにあり得る。

 さて、ここで紹介しておきたいのは、「伊吉連博徳書」という折から遣唐使に随行していた官僚の報告書紹介の記事である。これは、『書記』の中の引用文献の中で、漢文の誤りも訂正されずに原典を忠実に反映しているなどと、高い信頼性を得ている部分である。以下は、その概略である。

 ――斉明天皇の5年7月3日に遣唐使の正使・坂合部石布連と津守吉祥連が2隻の船で難波を出発した。筑紫の大津(福岡)、百済の南の島を経て大海に乗りだす。石布の船が逆風に遭い漂流して南の島に漂着、島人の船を盗み出した5人をのぞき、石布らは島人に殺されてしまう。

 吉祥連の船は、3日ほどで杭州湾南岸に着き、閏10月29日に洛陽に入った。翌30日に天子高宗と面会し議事録を残している。まず、天皇をはじめ閣僚の安否にはじまり、国内情勢の説明をする。そして同行した異様な風俗そのままの蝦夷(えみし)を紹介する。

 蝦夷の居住する地域や種類、住居の有様や食料、生活実態などを、極端に原始的であるかのように説明し高宗の関心を引いた。次ぎに冬至のセレモニーに各国の代表とともに天子と再会するが、日本の代表が一番風采が上がっていたと自賛する。蝦夷の演出で大国に見せかけたことに自信を得たのだろう。

 ところがここでハプニングが起こる。随員の中に讒言する者があって間諜と誤解された。伊吉連の弁解が通じて罪一等を減じられ、西安で幽閉される。その説明の中に「来年予定されている政治的な理由(百済出兵であろう)で帰国は許されない」とあった。

 翌年の8月、百済の平定が終わり9月12日に、帰国の許可が出て釈放される。11月1日に百済王など拉致されて京に連れてこられた50人余りも高宗から許される。他方遣唐使らは、同月19日に天子の慰労を受けて24日に洛陽を出発、帰国の途につく。――

 帰国すると、天皇は大和ではなく筑紫の朝倉の宮にいた。7年の5月23日、遣唐使らはここで復命することになる。斉明女帝死去の2か月前である。この間の朝鮮と国内情勢は次回にゆずる。

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