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2009年4月14日 (火)

異説・天智天皇3

 斉明天皇が飛鳥で即位すると、『書記』には早速次の記事が表れる。

 夏五月の庚午の朔に、空中にして竜に乗れる者有り。貌(かお)、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて胆駒山に隠れぬ。午の時に及至りて、住吉の松嶺の上より、西に向かいて馳せ去ぬ。

 つまり、飛鳥に近く外国からの移住者が多い葛城あたりから、空飛ぶ怪人が奈良・大阪の県境の山を北上し、難波港の方に向かった、といううわさ話だ。ここで気をつけていただきたいのは、「笠を着た」怪人である。もう一つ、斉明が遠征先の福岡県東南部の朝倉宮で病死した時の話を紹介しよう。ここでも「笠を着た」怪人が現れるのだ。

 是の夕に朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み見る。衆皆嗟怪ぶ。

 見過ごされがちだが、皇極紀や斉明紀にはこういった奇談や童謡(わざうた)などを載せるケースが多い。自然現象や社会現象から先を占うという女帝の時代で、国記にもそれが反映したものという解釈もできる。だが決して無駄につけ加えられたものではなく、そこに何らかの意味を持たせようとしたものに違いない。

 この笠を着た人は、中国のスパイだ、という説がある。あり得ない話ではない。『書記』には、日本からひそかに派遣した役人が百済高官の自宅に潜入する話しがあり、既に駅馬(はいま=早馬)といった高速通信網も整備されていた。それなりの国際情報組織のようなものがあっても不思議ではない。

 こういったことから、斉明女帝の出現と死去はやはり中国との関係を抜きにして考えられない。前回、斉明を「中国嫌い」と評したが、孝徳ら革新派が「媚中派」というわけではなく学問僧などを通じた「知中派」と言った方が正しい。

 中国と朝鮮の間に微妙なバランスの変化を日本が感じ取ったのは、孝徳崩御の3年程前である。新羅の朝貢使が民族衣装の朝鮮服にかえて中国服を着て表れたのだ。これでは中国の出先のようで、日本として直ちに受け入れがたい。筑紫から追い返してしまった。

 この時、左大臣巨勢徳陀古臣が天皇に奏上している。「今、新羅を討っておかないとあとで後悔することになります。まず、難波から筑紫にかけて軍船を連ね相手を脅迫することです」といった。巨勢臣は、例の改新のクーデターの時、蘇我の精鋭親衛隊に乗り込み説得して逃亡させた軍人出身者で、保守派の巨頭になっていた。

 新羅が中国との連携を計ったのはさらに3年はどさかのぼる。しかし巨勢の案は姑息の手段として採用されず、種子島や東北などの領域拡大や内政の安定・充実など国力増進を最優先課題としていた。つまり、中国との差をよく認識しておりより優位に立ちたいということだったのだ。

 斉明天皇の2年、これまでの慣例に従って新羅に遣唐使の先導役を依頼したところ、体よく断られた。新羅が中国に接近したのは、隋の頃から国境を接し互いに攻防を繰り返し手を焼いていた高麗を遠交近攻で挟み撃ちにしようという魂胆があるからである。ここでまた斉明の心は傷ついた。

 百済と日本ははっきりいってじゃまされたくないけむたい存在になる。日中の緊密化は嬉しくないわけだ。斉明の嫌中はともかく、応神朝以来日本に根付いた産業、技術、仏教、文化は移住者に支えられており朝鮮三国のバランスの上で成り立っていることを無視できない。ことに、百済の質として滞在する王子たちは、宮中の一員のように扱われていた。

 また、それは日本の権力の根源をなしており支配層共通の認識であったと考えてもいい。これまで触れてこなかったが、中大兄は、中臣鎌足などとともに南渕請安の講義を受け、孝徳と大化改新を推し進めるなど改革派であるが、朝鮮の安定に関して母と対立するようなことはなかった。

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